吉岡斉の科学批判
―― 著作物からみたその特徴と脱原発運動における位置づけ ――
*
綾 部 広 則
**
<吉岡斉追悼シンポジウム特集> 年報 科学・技術・社会 第28巻(2019)、71-81 頁 Japanese Journal for Science, Technology & Society VOL. 28 (2019), pp. 71-811 は じ め に
吉岡斉氏(以下、敬称略)は脱原発をけん引した人物としてつとに有名である(1)。確かに 東日本大震災・福島第一原発事故後における活躍をみれば、そうした人物像になるのも頷け る。しかしその一方で、市民運動との間には温度差もみられた。たとえば、菅波は、2014 年の原子力市民委員会で「吉岡さんが座長になったら、まずいんじゃないか」という意見が あったと述懐している(綾部・菅波・柿原 2018)。ともに原発に対する批判的問題意識を共 有しながらも、こうした温度差が生まれたのはなぜか。 本稿の目的は、吉岡が生前に遺した著作物を垣間見ることでその理由を探ることにある。 具体的には、吉岡の一連の図書をひもときながら、吉岡のこれまでの活動をふりかえるとと もに、そこにみられる吉岡の科学批判の特徴を探り出すことで、吉岡と脱原発の市民運動の 違いを明らかにする。とりわけ脱原発に関する市民運動で名高い高木仁三郎の活躍を吉岡が どうみていたかについて明らかにすることで、両者の間に温度差が生まれた理由の一端を明 らかにする。その上で、脱原発運動における吉岡の位置づけに関する試論を述べてみたい。*
キーワード:吉岡斉、脱原発、科学批判、廣重徹、高木仁三郎**
早稲田大学 [email protected] 1 はじめに 2 吉岡の時代区分 2.1 時評的活動の時代 2.2 理論志向の時代 2.3 原子力への実践的コミットメントの時代 3 吉岡の科学批判の特徴 3.1 吉岡の科学批判の特徴 3.2 吉岡はなぜ政策志向になったのか 4 おわりに ― 脱原発運動において吉岡は どう位置づけられるか2.吉岡の時代区分
前述のように吉岡は脱原発をけん引した人物として知られているが、原発以外の活動につ いては馴染みのない方も多いと思われる。そこでまずはこれまでの吉岡の活動について振り 返ることから始めたい。 1953 年に生まれた吉岡は、学部では物理学を学んだ。しかしながら、大学院に進む際、 物理学から科学社会学・科学技術史へと転じた。その理由はふたつあった。一つは、吉岡が 科学技術にまつわる社会問題の要因を構造的に把握するために科学技術史のアプローチが有 用だという考えに共鳴したためであった。周知のように、1970 年代は、「科学技術の発展に ともなう負の側面にスポットライトが当てられた時代」(吉岡 2011b:395)であり、「現代科 学技術にかかわる社会的諸問題の構造的要因を解明するためには、科学技術史的アプロー チが有用だという考え方が、少なからぬ若者たちの心に浸透」(吉岡 2011b:395)していた。 吉岡は、「そうした考え方に共鳴し、科学技術批判の立場から現代科学技術史に取り組もう と決意した」(吉岡 2011b:395)のであった(2)。 もう一つの理由は、廣重徹の影響である。「理論物理学の道に進もうと考えていた」(吉岡 1985:299)吉岡は、「広重氏の数々の著作・論文に接することを通して、科学技術と社会の 問題に本格的に取組むことの意義を次第に痛感」(吉岡 1985:299)するようになったのである。 2.1 時評的活動の時代 こうして科学技術批判の立場から現代科学技術史に取り組み始めた吉岡が、まず批判の対 象として俎上にあげたのは、テクノトピア論であった。 テクノトピア論とは、「科学技術の進歩が素晴らしいユートピアを人類にもたらすだろう、 と唱える議論」(吉岡 1985:7)である。吉岡によれば、こうしたテクノトピア論は、「信用詐欺」 (吉岡 1985:8)的な性格をもつという。なぜなら、実現可能性が乏しいにも関わらず、それ を進めればあたかもバラ色の未来が切り開かれるといったように、当該事業のメリットが誇 大妄想的に語られるからである。その背景には、当該分野の事業を進めるにあたって必要な 社会的・金銭的支持を獲得するというねらいがある。つまり科学は「非合理なまでの前進衝 動にもとづいて、合理的知識をひたすら量産していく、きわめて拡張主義的な営み」(吉岡 1985:303)なのである。近年、いわゆる「ハイプ」をめぐってさまざまな議論が行われてい るが、まさにテクノトピア論は、そうしたハイプの議論を先取りするものといえる。 もちろん、バラ色の未来像を説いたとしても、ハイプとなる可能性がある。したがって、 当該分野の事業を進めるにあたって必要な社会的・金銭的支持を調達するためには、バラ色 の未来像のような将来へのポジティブな期待とは別の語り口が必要となる。そこで持ち出さ れるテクノトピア論のもう一つの要諦が、科学技術立国論である。科学技術立国論は、天然資源に乏しい日本が世界と伍して戦うためは、科学技術に頼らねばならないという、江戸時 代末期以来の日本の国是ともなっている考え方であるが、吉岡によればその背後には、科学 技術をこれまで以上に振興せねば、暗い未来になるぞという脅しが潜んでいるという(吉岡 1985:303)。つまり、脅威を源泉として科学技術の振興を図ろうとするのが、科学技術立国 論である。 このように将来へのポジティブな期待とネガティブな脅威がセットになっているのがテク ノトピア論であり、科学技術がさまざまな社会問題を生みだしているにも関わらず、依然と して科学技術が推進されるのは、こうしたテクノピア論が人々の中に深く浸透しているから である。 もちろん、テクノトピア論は、巨大で先端的な分野だけでなく、あらゆる分野でみられ る。したがって、「先端非先端を問わず、また巨大・零細を問わず、あらゆる科学技術から テクノトピア論の仮面を剥ぎ取ること」(吉岡 1985:12)がまずは必要であり、それなくし ては、「科学技術と社会をめぐる問題について、適切な意思決定を下すことはできない」(吉 岡 1985:13)と吉岡はいう。 こうしたテクノトピア論批判のために吉岡がとったのが廣重徹の姿勢 ― すなわち、「科学 を純然たる客体として、第三者的立場から容赦なく解剖し、そこから一切の神話を剥ぎ取っ ていこうとする姿勢、より簡潔に言いかえれば、科学的方法にもとづいて科学を解剖しよう とする姿勢」(吉岡 1985:299)であった(3)。 なぜそうした姿勢をとったのか。それは「科学的方法によって現実の科学技術を解剖す るアプローチを徹底してつきつめることが、現存する科学技術へのもっとも厳しい批判につ ながるのではないか」(吉岡 1985:300)と考えたからであった。科学的方法が「社会システ ムによって都合のよいように管理する手段として、反人間的な希望を果たしてきた」(吉岡 1985:300)のであれば、同じ科学的方法を科学それ自体に適用すれば、「科学の側からみて 不遜きわまりない、反科学的なもの(換言すれば、現存する科学にとって変革を強いるもの)」 (吉岡 1985:301)となるのではないか。こうした理由から吉岡は、科学的方法にもとづいて 科学を解剖しようとしたのであった。 2.2 理論志向の時代 このように 80 年代半ばまでの吉岡は、テクノトピア論批判を基軸とした時評的論評活 動を行っていたが、「日々の事件を追うことに終始するつもりはな」(吉岡 1985:299)かっ たという。むしろ「科学技術と社会をめぐる基本問題についての思索を深め、いずれ近い 将来にも、きちんとした科学社会学の理論枠組みを作ってみたい」と考えていた(吉岡 1985:299)。こうして吉岡は、80 年代半ば以降になると理論志向を強めていくことになる。 そうした吉岡の理論志向を表す最初の書物が『科学社会学の構想』(吉岡 1986)である。
それは科学社会学に求められる基本的な態度とその意義について語ったいわばマニフェスト であり、吉岡の基本的な態度――つまり、科学を「他のあらゆる現世的な人間活動と同じ平 面上」(吉岡 1986:131)においた上で、社会科学的な方法を用いて科学技術が推進される仕 組みを分析する姿勢――が現れている。 そのために吉岡が考案したのが開放系モデルであった。これは専門分野の知識生産システ ムを情報と諸資源の 2 つの流れで捉えようとするものである。前者の情報は、半クローズド な回路であり、専門分野の知識生産システムのなかで生産された情報は絶えず知識生産シス テムのなかに再投入される。このように絶えず知識生産が行われるのは、オリジナルな知識 の生産を不断に追い求めようとする科学者集団の特性による。だが、そのためにはヒト、モ ノ、カネといった諸資源の投入が必要である。これらの諸資源は、情報のように半クローズ ドな回路ではなく、使用されれば専門分野の知識生産機構から廃棄されるため、常に新しい 資源を投入しなくてはならない。(詳しくは、吉岡 1987)。 このように開放系として知識生産システムを捉えれば、科学研究においてシステムの生存 と生長が自己目的化することや、科学者たちが刹那主義的な認識関心しかもたなくなるのは、 こうしたシステム的・構造的特徴に起因するものだということがわかる。したがって、開放 系モデルの観点からみれば、現代科学がさまざまな諸問題を生み出している原因も、専門分 野の知識生産システムに求められることになる。このように吉岡は、「内部の腐敗や成果の 悪用・乱用によってではなく、そのシステム的・構造的な基本性質ゆえに、[科学は]現代 社会のなかで癌細胞のような役割を果し、数々の社会問題を生み出す源泉となっている」と 考えていたのであった([ ]は筆者による補足)(吉岡 1987:246)。 そしてこうしたシステム的・構造的視点を科学のみならず、研究開発活動を推進する広範 な制度的構造にまで拡大した吉岡の理論志向の頂点をなす作品が、『科学文明の暴走過程』(吉 岡 1991)である。吉岡によれば、それは「現代科学技術の構造とダイナミックスについて の一般理論の構築をめざした」(吉岡 1987:215)、「通常の科学技術社会学の守備範囲を大き く踏み越え」(吉岡 1991:216)た作品であった。 もっとも、科学を他の人間活動と同一の平面上においた上で、社会科学的な方法を用いて 科学技術が推進される仕組みを分析するのであれば、欧米の科学社会学の枠組みを援用でき るのではないかと思う読者もおられるかもしれない。ところが、吉岡はそうした方向には向 かわなかった。欧米の科学社会学の枠組みに満足しなかったからである。吉岡はいう。 「さて、『ドクサ』論文発表後もひきつづき、科学社会学関係の重要な著作や雑誌論 文には、なるべく目を通すよう努めてきたが、『ドクサ』論文で詳しく扱ったマートニ アンならびにクーニアンの潮流に属する仕事には、次第に関心が薄れていった。マート ニアンはそもそも開放系としての科学を分析対象とせず、クーニアンもまた、もっぱら
知識論の次元で、社会から科学への影響を考察しているにとどまり、現代科学の社会的 問題を究明する手がかりを、あまり与えてくれなかったためである。それゆえ私は、科 学社会学の私なりの手作りの思考枠組みをつくる可能性を、追求せざるを得なかった。」 (吉岡 1986:242) 吉岡は、従来の科学社会学の主たる問題関心は、科学理論にあるとみていた。科学者の 社会的活動にも眼は向けられてきたものの、あくまでも「付随的・補足的な作業」(吉岡 1987:115)とみなされてきた。そうなるのは、「科学をハイカルチュアの一部門と見なし」(吉 岡 1987:115)ていたからではないかという。もちろん、「科学活動の最終生産物たる科学理 論(科学情報)の性質や発展への十分な理解がなければ、科学活動に関する認識は多かれ少 なかれ豊さが損なわれることは否めない」(吉岡 1987:115)が、しかし「科学情報はあくま でも最終生産物にすぎない」(吉岡 1987:115)わけであるから、「活動の最終生産物…の性 質や推移をあれこれ詮索することよりも、政治過程や経済過程そのものの特徴を解明する」 (吉岡 1987:115)ことの方が重要なのではないか。こう考えて、吉岡は独自に開放系モデル を提唱したのであった。 2.3 原子力への実践的コミットメントの時代 ところが 90 年代半ば以降になると、吉岡の理論志向は急速に失われていく。『科学文明の 暴走過程』(吉岡 1991)の冒頭で語っていた「現代科学技術批判のための体系的枠組みを構 築すること」(1991:1)や「科学技術社会学(social studies of science and technology)のスケー ルの大きな理論枠組み(パラダイム)を樹立できるのではないか」(1991:1)、あるいは「や がて書かれるであろう『資本論』の基本的筋書き」(1991:1)といった強い理論志向を帯び た言葉は消えうせ、原子力に関する実践的批判活動に傾注していくことになる。 その契機となったのは、1986 年に始まった戦後科学技術の社会史に関する総合的研究へ の参加である。吉岡の師匠にあたる科学史家の中山茂が代表を務めるこのプロジェクトにコ アメンバーとして参加したことで、吉岡は「日本現代史においてビッグサイエンスよりも原 子力のほうがはるかに重要であることを痛感し、これを究めずして現代日本科学技術史の全 体像を描くことはできないと考えるにいたった」という(吉岡 2011b:396)。 このように理論志向の時代から吉岡は、原子力への関心を寄せていたが、97 年に原子力 委員会高速増殖炉懇談会(97 年 2 月)に参加するようになると、原子力への実践的批判活 動に傾注していく。とりわけ、2000 年に高木仁三郎が亡くなってからは、その傾向はさら に高まる。そして 2011 年に東日本大震災・福島第一原発事故以降の活躍により、脱原発を けん引した人物という吉岡像が定着していく。
3 吉岡の科学批判の特徴
3.1 吉岡の科学批判の特徴 以上のことから、吉岡の科学批判の特徴はおおむねつかめたのではないかと思う。あらた めてその特徴をまとめれば以下の 4 点になる。 第一の特徴は、あらゆる科学技術に対する批判的ないしは非共感的な姿勢である。前述の 「先端非先端を問わず、また巨大・零細を問わず、あらゆる科学技術からテクノトピア論の 仮面を剥ぎ取ること」(吉岡 1985:12)という言葉からも明らかなように、その矛先はビッ グサイエンスとは正反対のオルタナティブ・テクノロジー等にも向けられていた。 第二の特徴は、科学的方法にもとづいて科学を解剖しようとする姿勢である。このことは、 前述の「科学を純然たる客体として、第三者的立場から容赦なく解剖し、そこから一切の神 話を剥ぎ取っていこうとする姿勢、より簡潔に言いかえれば、科学的方法にもとづいて科学 を解剖しようとする姿勢」(吉岡 1985:299)から窺い知ることができる。 第三の特徴は、システム的・構造的思考である。開放系モデルをみれば明らかなように、 吉岡は、「内部の腐敗や成果の悪用・乱用によってではなく、そのシステム的・構造的な基 本性質ゆえに、現代社会のなかで癌細胞のような役割を果し、数々の社会問題を生み出す源 泉となっている」(吉岡 1987:246)と考えていた。いいかえれば、吉岡はいわゆる倫理や道 徳の問題として科学技術がもたらす社会問題の原因を捉えるのではなく、構造的・システム 的な問題として捉えていたのである。 以上の 3 点は、吉岡が比較的若い頃から終始一貫して保持した姿勢であったが、90 年代 半ば以降、原子力への実践的コミットメントを深めるにつれて、第四の特徴である政策志向 が加わっていった。この点については項をあらためて論じることにしたい。 3.2 吉岡はなぜ政策志向になったのか それまで、理論的・傍観者的志向が強かった吉岡が 90 年代半ば以降、政策志向に向かっ た理由は、前述のように、97 年 2 月から原子力委員会高速増殖炉懇談会に参加するようになっ たことや、2000 年に高木仁三郎が逝去したことであった。 しかし思想的にみれば、もう一つの理由として、自らが私淑していた廣重徹のアプローチ に対して限界を感じていたことを指摘できる。たとえば、『科学者は変わるか』(吉岡 1984) ではすでに下記のように廣重と自らのアプローチの違いを吐露している。 本書を執筆する際、最初にモデルとして念頭においたのは、廣重徹の『戦後日本の科 学運動』である。しかし、廣重を乗り越えようとか、その続編を書こうとかいう意気込 みは、時が経つにつれて弱まっていった。そもそも廣重と私とでは、科学と社会の問題へのアプローチの仕方が、かなり異なっているから、共通の土俵で張り合うことは不可 能なのだ、ということに気づいたのである。やや図式的に整理すれば、廣重のアプロー チは、現代日本の社会体制のなかでの科学者運動のダイナミックスを捉え、そのあるべ き姿を探求する手がかりにするというものである。いっぽう私のアプローチは、科学社 会学の立場から、科学と社会についての思想の論理構造と、そこのはらまれる問題点を 明らかにしようとするものである。歴史的よりも理論的、実践者よりも傍観者、という 傾向が強く出ていることは否定できない(吉岡 1984:285)。 この時点における吉岡の廣重に対する評価は、まだ廣重と自らのアプローチの違いを述べ るにとどまっていた。ところが、それから約 20 年後の 2003 年に廣重の『科学の社会史』が 再刊された際に書かれた「解説」では、以下のように、廣重は反面教師として位置づけられ ている。 「『原子力の社会史』で筆者は、精度の高い体制構造論を展開し、またそれと密接に 関連するものとして改革構想も提唱している。体制構造論と改革構想を明確なかたちで 打ち出さなければ、科学技術批判の志向をもつ社会史研究として未熟であり、その体制 構造論と改革構想は「政策論争サークル」のなかでも通用するものでなければならない という筆者の考え方は、紛れもなく廣重から学んだものであると思っている。」 (吉岡 2003:294) つまり、吉岡が政策志向に向かった直接の契機は、自身が原子力の政策論争サークルに コミットするようになったことや高木が志なかばにして亡くなったことであるが、背景には、 自らが私淑していた廣重のアプローチに限界を感じていたためであった。その意味で、吉岡 は廣重を批判的に継承したのであった。
4 おわりに―― 脱原発運動において吉岡はどう位置づけられるか
さて、以上に述べた吉岡のこれまでの歩みと彼の科学批判の特徴を踏まえれば、市民運動 との温度差がなぜ生じたかという冒頭の問いに対する答えはおおよそつかめるのではないか と思われる。脱原発に関する実践的活動においても、吉岡は、科学的方法にもとづいて科 学を冷徹に解剖する姿勢を取り続けた。したがって、原子力への対抗措置として、たとえば 再生可能エネルギーを称揚するといったスタンスもとらない。市民運動も一枚岩ではないが、 こうしたあらゆるアプローチから、一定の距離感を保って接する吉岡の基本的なスタンスが、 吉岡と市民運動の間に温度差を生んだ原因ではないかと考えられる。とはいえ、こうした温度差があったからといって、吉岡のアプローチが市民運動とはまっ たくかけ離れた異質のものであったとはいえない。 まず、考えねばならないのは、高木仁三郎が活躍した時代の原子力をとりまく状況と吉岡 が活動した時代との違いである。高木の時代は、人々に原子力がいかに問題点を多く含む ものであるかを理解してもらう、いわば啓発の時代であった。ところが、吉岡が本格的に活 躍する 2000 年代以降になると、原子力が多くの問題を抱えていることはもはや常識であり、 むしろ具体的な改革構想を考えねばならない時代となっていた。したがって、市民運動自体 も、それまでの批判的問題意識は継承しつつも、新しいやり方を開拓する必要があった。こ うした変化を吉岡は感じ始めていたのではないか。高木の追悼記事で、吉岡は次のようにいう。 「今年[2000 年]5 月 27 日、原子力資料情報室の年次総会 … の席上、あいさつに立っ た高木氏は後輩たちへのメッセージとして、「私のまねをしたのでは、私を乗り越える ことは難しいだろが、違うやり方をすれば、簡単に乗り越えられる」という趣旨の発言 をした。そこには二つの意味が込められていたと筆者は思う。…第二は、「高木流」生 き方にとらわれず、後輩たちがそれぞれの「未踏の道」を切り開くことにより、自分を 乗り越えていってほしいという希望である。…1980 年代以降世界的に、原子力開発は 深刻な停滞状態に陥っており、回復の兆しはほとんど見られない。日本でも…もはや不 動の国策としての地位を剥奪され、社会的・技術的な状況変化に即して柔軟に是非の判 断を下すべき選択肢のひとつへと格下げされた。遠からず「中長期的な秩序ある撤退」 へ向けての真摯な原子力政策論議が、本格的に展開されることになろう。そこでは権力 と民衆との間の闘争という古典的な対立図式は、必ずしも適切なものではなくなる。… そうした新しい時代の政策論争を担う人々は、必ずしも「高木流」の悲壮な決意にもと づく過酷な生き方を選ばずともよい。民間非営利法人が発展し、そこを職業的基盤とす る科学者が増加すれば、大きな生活上のリスクを冒さずとも、多くの者が政策改革に貢 献できる道が開かれる。また組織への忠誠を公共利益への忠誠の上位に置くような、日 本では今なお有力な組織文化の風化が着実に進めば、所属組織の如何によらず誰もが気 軽に政策改革に参加するようになるだろう。そうした社会の実現へ向けて尽力したい。」 ([ ]は筆者による補足)(吉岡 2000) この 2000 年の時点では、高木流の過酷な生き方とは違う生き方の可能性を示すにとどま るものであった。しかし 2011 年に雑誌『現代思想』に寄せた「脱原発とは何だろうか」と いう文章においては、脱原発運動における新しい主体として「エコノミー派」なるものの登 場を指摘する。 エコノミー派とは、吉岡によれば、「市場原理を重視する人々のことであり、いわゆる新
自由主義者たちも含まれる」(吉岡 2011a:48)という。そして「そうしたエコノミー派の観 点からは、原子力発電を推進することは非常にリスキーである」(吉岡 2011a:48)という。 その上で、吉岡は続ける。 「このように原子力発電は、資本主義市場経済に対する適合性が低いという重大な 問題を抱えている。エコノミー派は決して原子力発電の味方ではないことが明らかに なったことが、一九九〇年代以降の世界的な電力自由化の進展によって見えてきた。そ うした流れの中で、中山茂のいうエネルギー派なるものが、必ずしも体制側の多数派で はなく、原子力開発利用に関連する利権を得ている少数派に過ぎないかも知れないこと が、浮き彫りにされてきた。この事実の含意は極めて重要である。エコノミー派は政治 的な左翼ではなく、政治的な左翼であるかそれとも右翼であるかということは、原子力 発電への賛否と直接の関係がないということが、改めて立証されたのである。」(吉岡 2011a:49-50) 高木が活躍した時代は、中山のいう「エネルギー派」(中山 1981)、すなわち「現在の経 済成長を維持するためにはエネルギーは絶対に確保する必要があるという前提から出発して、 石油などの化石エネルギーは枯渇するから、それに代わるものとして原発をどんどん建設し ていかねばならず、その障害は取り除かねばならない、とする立場の人々」(吉岡 2011a:47-48)の考え方が支配的であった。したがって、脱原発を主張する人々は、原子力がいかに多 くの問題点をはらんだものであるかを、エネルギー派を含む多くの人々に理解してもらう必 要があった。 ところが、吉岡の時代になると、原子力に数々の問題点があることはもはや自明の事柄で あり、したがってそうした点について人々を啓発するよりかは、むしろ脱原発に向けた具体 的な道筋を提示することが求められるようになっていた。そのために吉岡が着目したのが、 エコノミーという観点だった。 このように吉岡がエコノミー派に期待を寄せたのは、吉岡がリスク論争に限界を感じてい たことも考えられる。リスク論争、とりわけ原子力発電の安全性をめぐる論争は、神学論争 に陥りがちである。これに対して、コストをめぐる論争は、そうしたリスク論争に比べれば、 そうした泥沼に入りこむ余地が少ない。したがって、原発が経済的メリットを有しないこと を示すことで、リスクに訴えかけるやり方だけでは、脱原発に賛同しない人々を取り込もう と考えたのではないか。いいかえれば、吉岡は、リスク―ベネフィット論ではなく、コスト ―ベネフィット論に持ち込むことで、脱原発運動に破壊力をもたせようとしたのではないか(4)。 このようにみれば、高木がフェーズ 1 の実践者であったとするならば、吉岡はフェーズ 2 のそれであったと解釈することができる。そしておそらくこれが市民運動との間で温度差が
生まれたもう一つの原因ではないかと思われる。 付記 本稿は、科学社会学会 2018 年度年次研究大会(東京電機大学(東京千住キャンパス)、2018 年 7 月 7 日)、日本科学史学会第 65 回年会(東京理科大学葛飾キャンパス、2018 年 5 月 27 日)、科学技 術社会論学会第 16 回年次研究大会(成城大学、2018 年 12 月 9 日)、吉岡斉の仕事を考えるシンポ ジウム(九州大学、2019 年 1 月 20 日)において発表した内容に加筆修正したものである。 註 (1)「吉岡斉さん死去 脱原発に力強い意志」 (毎日新聞、2018 年 1 月 14 日) https://mainichi.jp/articles/20180115/k00/00m/040/124000c(2019 年 3 月 11 日 閲 覧 )「 吉 岡 斉 九 大教授が死去 脱原発けん引事故調委員」(西日本新聞、2018 年 01 月 15 日)https://www. nishinippon.co.jp/nnp/national/article/386508/(2019 年 3 月 11 日閲覧) (2)現代科学技術史と述べているが、1985 年の段階までは自らを「科学史・科学社会学の研究者」 であると自認していた(吉岡 1985:299)。2011 年の時点でなぜ科学社会学が除かれているか については、筆者は、かつて本人より「先祖返りした」という言葉を聞いたのみで、それ以 上の理由は不明である。 (3)ただし「これはあくまでも、私なりの誇張された広重氏のイメージであって、じっさいの広 重氏は、科学に対してこれほど割り切った態度で、第三者としてふるまおうとしたわけでは なかった」(吉岡 1985:299)という。 (4)リスク論争にコミットしてこなかった点については、次の記述からも窺える。「ただし原子力 発電の安全性について筆者は、この福島事故が起こるまで、やや軽視してきた。」(吉岡 2012: 215-216) 参考文献 綾部広則・菅波完・柿原泰、2018、 「吉岡斉追悼―原発ゼロ社会を創造する―「万人を不幸にする原発」 に抗して」2018 年 2 月 23 日、http://dokushojin.com/article.html?i=2927(2019 年 3 月 11 日閲覧) 中山茂、1981、『科学と社会の現代史』岩波書店。 吉岡斉、1984、『科学者は変わるか―科学と社会の思想史』社会評論社。 ―――、1985、『テクノトピアをこえて(改訂版)』社会評論社(初版は 1982 年)。 ―――、1986、『科学社会学の構想―ハイサイエンス批判』リブロポート。 ―――、1987、『科学革命の政治学』中央公論社。 ―――、1991、『科学文明の暴走過程』海鳴社。 ―――、2000、「脱原発運動 高木仁三郎の死 貫いた「民衆的科学者」『朝日新聞』(夕刊)、2000 年 10 月 31 日。 ―――、2003、「解説」廣重徹『科学の社会史(下)』岩波書店、253-294 頁。 ―――、2011a、「脱原発とは何だろうか」『現代思想』第 39 巻第 14 号、 2011 年 10 月号、46-51 頁。 ―――、2011b、『新版 原子力の社会史―その日本的展開』朝日新聞出版(初版は 1999 年)。 ―――、2012、『脱原子力国家への道』岩波書店。
Hitoshi Yoshioka
― A Retrospective Review of His Works and Criticisms of Science
in the Nuclear Power Phase-out Movements ―
by
Hironori Ayabe
Waseda University
Keywords: Hitoshi Yoshioka, the nuclear power phase-out, criticism of science, Tetsu Hiroshige,
Jinzaburo Takagi
Hitoshi Yoshioka (1953-2018), a Japanese historian and sociologist of science and technology was well known in Japan for playing a role of the engine of the nuclear power phase-out movements: the discontinuation of usage of nuclear power for energy production. However, some people criticized his approach toward the nuclear power phase-out. While both sides shared the same stance toward nuclear power phase-out, why were gaps occurred? A reason seems to be originated from his characteristics of criticism of science and technology (hereafter, in short “science”). Though his works were seems to be divided into three categories: social assessment of science (until mid-80s), theory-oriented research (from mid-80s through mid-90s), and practical commitment to nuclear power phase-out movements (since mid-90s), he has consistently adopted attitudes of: taking critical analysis of any scientific activities, examining science by using scientific methods, and extracting social and structural factors of scientific activities. Such characteristics presumably became important factor in arising gaps between them.
Nonetheless, he was not deemed to be a fringe of the nuclear power phase-out movement. Because circumstances surrounding the movement have gradually changed, contrary to the situation during the age of Jinzaburo Takagi, a famous Japanese anti-nuclear scientist and activist. For that reason, Yoshioka had to be obliged to take an alternative approach and he especially considered "economic aspects" more important than the way the former activists adopted.
In that sense, we can describe him as "a second phase reformer" in the Japanese nuclear power phase-out movements.