Title
ルソーにおける社会と自然 : 『社会契約論』についての
一考察
Author(s)
下村, 英視
Citation
宮崎産業経営大学法学論集 = Miyazaki Sangyo-Keiei
University law review, 8(1-2): 159-187
Issue Date
1996-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10104
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丘三第一篇第一章は、恐らくは、 ル ソ l の名を知っている人であれば、例外なく記憶にある有名な言葉で始まっている。﹁人聞は自由なものとして生 まれた。それなのに、至る所で鉄鎖につながれている。自らを他人の主人だと信じている者も、彼ら以上に奴隷であ らずにはいられないのだ。この変化がいかにして起ったのか。私は知らない。この変化を正当なものにしているのは 何 か 。 こ の 間 い に 答 え る こ と は で き る と 思 ・ 少 。 ﹂ -159-近代市民社会の形成期にあって、ルソ l は、本来自由であるべき人聞が、その本来の姿を失っている様を、明確に 意識している。しかし、人類の社会形成は、歴史の歩みと相侠って、良き方向に発展しているはずではなかったのか。 現実にそうではなかったとしても、そうあるべきではないのか。そうであるべきならば、歴史の進歩はまた、人間の ル ソ ! に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 自由を拡大し充実させるものでなくてはならないはずである。それにもかかわらず、現実の社会では、人々は﹁至る 所で鉄鎖につながれている﹂ように見える。 ﹃社会契約論﹄について考察する私たちは、人間の疎外状態に気づいたルソ 1 が、人間の本来の姿、人間の自然を 取り戻すための努力を、この著作において払っていることを、以下において論述してみたいと思っている。そこで、 本稿は次のように構成される。 一、自然の概念 ﹃社会契約論﹄で用いられている﹁自然﹂という概念に焦点をあてる。他の著作との対比に基づ いて、自然の概念に見いだされる問題点を指摘する。 二、社会形成 ﹃社会契約論﹄に従って、ルソ!の構想した国家の在り方を検討する。社会編成あるいは国家形成 三、主権の意味 社会形成において人々が主権に参加することができるようになるメカニズムを、国家、主権者 の原理としてルソ l が求めたものを探求する。 等の概念を整理しつつ、明かにしてゆく。 四、人間の自由 国家の成立と相侠つ仕方で実現されるべき人間の自由は、自然の善性に支えられた自由である ﹂ と を 、 結 論 と し た い 。自然の概念
ル ソ l が、自然の概念を端的に言いあらわしているのは、﹃社会契約論﹄に遅れること一か月して刊行された﹃エ 、 l ル ﹄P
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であろう。この著作において、ルソ l は、自然の善性を美しく感動的な表現を用 い て 、 至 る 所 で 記 し て い る 。 ﹁自然の秩序においては、人聞はすべて平等であり、その共通の天職は人間であることである。﹂ ﹁自然を観察せよ、そして、自然があなたに描いてくれる道に従え 。 ﹂ ﹁ 人間の知恵あるいは真の幸福への道は何に成り立っているのか 。 ( 中略)それは、能力に対する欲の過剰をおさえ ることにある。そして、力と意志を完壁に等しいものにすることにある 。 このような場合にだけ、すべての力は十 全 的な働きの内にあり、魂は平穏をたもち、人聞は自分がしっかりと秩序づけられていることを見いだすであろう 。 すべてのものを最も善いものとしてつくる自然は、人聞を最初このように置いた 。 ﹂ -161 -このように自然の善性が一貫して主張される一方で、社会について否定的な考え方が示される 。 ﹁社会は人聞をより弱いものにした 。 社会は、人間が自分本来の力に対して持っている権利を奪うだけでなく、な おもそれらの力を不十分なものにするからである。﹂ ﹁私は若者に、人聞は生まれつき善良であることを、知ってもらいたいと思う 。 (中略)反対に、どのように社会が 人聞を堕落させ、ゆがめるか見てもらいたいと思う 。 ﹂ ﹁ 人 聞 は 、 集 ま れ ば 集 ま る ほ ど 、 自 ら を 損 な う 。 ﹂ ル ソ ! に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 ﹁ 都 会 は 人 類 の 死 の 淵 で あ る 。 ﹂ ここに示されたわずかばかりの例は、すべて﹃エミ l ル﹄第一篇冒頭の次の言葉にまとめられるであろう。﹁事物 の作者の手をはなれるとき、すべては善いのに、人間の手にかかると、すべて悪くなる 。 ﹂ ここには、自然状態を善と置き、それに対して、人間の手になる社会状態を悪とする基本的な考え方がある 。 自 然 は善なのに、人為は悪をもたらす。それならば、人聞が作る社会も、良いものとして形成されようがないではないか。 すると、ルソ i は、﹃社会契約論﹄を何のために書くのか。結論が最初から絶望的なものと決まっているのであれば、 絶望すべき運命の下にあるという宿命論を説こうとするのか 。 この間いに答える前に、私たちはもう一度ルソ l の基本的立場を確認しておきたい。なるほど、﹁自然の善性﹂を するものである 。 主張するのはルソ!のゆるがない態度である。それは、ルソ l 自身の言葉にもはっきり表れていて、彼の著作を一貫 玄 巳ZZ52
へ宛てられた書簡は、人聞は本来的に善であ 一七六二年一月十二日付のマルゼルブ ること、社会制度が人聞を悪練にしてしまうことをはっきりと述べ、これに続けて次のように言っている。﹁あの木 の下で十五分ばかりの聞に私に霊感を与えてくれた一群の偉大な真理のなかで、私がつなぎとめることのできたもの 一切は、私の三つの主要著書のなかに少しではありますが、散らばっています 。 その著作とは、あの第一論文、不平 等についての論文、そして教育論ですが、これらの三つの著作は、切り離されず、いっしょになって閉じ一つの全体 を形づくっています。﹂第一論文とは﹃学問芸術論﹄巴印g
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巳玉、教育論とは ﹃ エ ミ l ル ﹄のことである。これらの著作に一貫しているのは、人為による人間の堕落を指摘すると同時に、自然の善性を称讃す る こ と で あ る 。 ﹃ 社 会 契 約 論 ﹄ 緒 言 が 言 う よ う に 、 ﹃ 社 会 契 約 論 ﹄ の 構 想 は 、 ていた。とりわけ﹃社会契約論﹄ジュネーブ草稿は、﹃不平等起源論﹄(一七五五年)を執筆し終えた後、ジュネーブ に滞在していた折に書き始められていた。また、﹃社会契約論﹄の刊行は、﹃エミ l ル﹄の出版に先立つこと一か月で ある。したがって、﹃社会契約論﹄を執筆していたルソ l の基本的な考え方が、﹃不平等起源論﹄や﹃エミ 1 ル﹄のそ 一七六二年に著作が公にされるずっと以前から持たれ れと大きく異なっていることはないはずである。ところが、﹃社会契約論﹄に実際に記されている﹁自然﹂という言 葉には、無条件に喜ぶことができるような﹁善性﹂が託されているわけではない。﹃社会契約論﹄第一篇第六章及び 第八章では、﹁自然﹂の概念は、明らかに消極的なものとして用いられている。 ﹁自然状態の中で自分を保持するために各々の個人が用いることのできる力よりも、自然状態の中で自分を維持す ることを妨げる障害の方が優勢となる点にまで人聞が到達したとしよう。このとき、その原始状態はもはや存続しえ ない。そして、人類は、生き方を変えなければ、滅びるだろう。﹂﹁自然状態から社会状態への推移は、人間の内に 著しい変化をもたらす。本能のかわりに正義を置き、これまで欠けていた道徳性を人聞の行為に与える。そのときは じめて、義務の声が肉体の衝動にとって代わり、権利が欲望にとって代わる。(中略)この状態において、人聞は、 自然から得ていた多くの利益を失うが、そのかわりに大きな利益を手に入れる。能力は訓練されて発達し、理想は広 がり、感情は高貴になり、魂はそっくり高められる。﹂ ここでのルソ!の叙述に従えば、社会状態に至つてはじめて人聞は道徳性を獲得するわけだし、自然本性的な欲望 ル ソ l に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村
-163-宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 に従属することから解放されて、理性的判断を行うことができるようになる。本能に支配されている自然状態に対し て、社会状態における人聞は、動物たちと異なった理性的な生を営むことができるというわけだ 。 この点において、 ル ソ l は確かに社会状態にひとつの利点を見ているはずである 。 さらに、その社会状態を営む際の象徴となる人間の 行為である社会契約について、ルソ I は次のように述べている 。 ﹁社会契約によって人聞が失うもの、それは自然状 態の自由と、心をひかれたものであって手に入れることができるもの一切に対する無際限の権利とである。これに対 して、入聞が得るもの、それは市民としての自由と持っているものすべてについての所有権とである。﹂ ル ソ l は、自然状態での自由や権利について、個人の力によってしか確保されない自由、あるいは暴力の行使でし かない所有、せいぜい最初に取ったという権利による所有と述べ、社会状態において持たれる自由や権利に対して消 極的なものとみなしている 。 自然状態では、自分の肉体や精神の力の範囲で確保することしかできなかったものが、 したがって、力のある時には確保することができたかもしれないが、肉体や精神の衰えによって失われることになる ものが、社会状態においては、社会の公正さによって保障されるのである。社会状態においては、人聞は自らの腕力 によって自分や家族を守る必要などない。社会が所有や生存を保障してくれるのである 。 さらに、ルソーによれば、 欲望にかりたてられることは隷属状態であり、欲望にかられて何をやってもよいという自由は、自由に価しない。自 らに課した法に従うことが自由なのである。そういう自己立法できる人聞に、責任や義務を担える主体、道徳的主体 が見いだされるわけである 。 そして、このような主体は、社会状態においてしか獲得されないのである 。 見られたように、ここには人間の社会状態での生を積極的に肯定しようとする態度がある 。 そうすると、本章の最 初 の 問 い 、 ﹃ 社会契約論﹄において、ルソ!は、絶望的な社会の在り様を描こうとするのかという問いに対しては、決してそうではないという答えが予測されはしないだろうか。そうすると、﹃学問芸術論﹄、﹃不平等起源論﹄、﹃エミ l 一貫して自然の善性を説き、人為的社会を糾弾しているルソ!の態度は、この﹃社会契約論﹄におい ル ﹄ に お い て 、 ては、貫かれていないのだろうか。 確かに叙述の上では、そのように思われる。しかし、このことについては、私たちは、ここでも結論を下さないよ うにしたい。それは、叙述にあらわされたものが、どういう思索の深部に支えられているのかを、しっかりと見なけ ればならないからである。表現された文章には、確かに一貫したものがないように見えるものの、それらがどのよう な意図をもって書かれたのか、何をめざし、どのような信念に支えらて表現されたものであるのかを見ることこそが、 重要なのであって、このような態度なくして、思想や人聞の理解はありえない。﹃社会契約論﹄の本質を理解すべく、 165-私たちは、社会形成の論理について、﹃社会契約論﹄が語るところを、次章において見てゆきたい。
社会形成
﹃ 社会契約論﹄は、最も素朴な社会の在り方として、家族を考えている。子供は独りで生きてゆくことができな い聞は、親に結びつけられている。生きてゆくための結びつきが家族を形成している。ルソーはこれを、自然な社会Z
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と 呼 ぶ 。 このとき、﹁自然な﹂という言葉は、生きるためにはどうしても必要なということを 表し、生命を守る生物的な本能に結びついた必然性を意味する。したがって、ここには人間の自由な意志が働く余地 はない。生きるためには、家族という在り方を必然的に受け入れねばならないのである。 ルソ l に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 ところが、子供が成長し、親の許を離れ、ひとりで生きてゆくことができる時がやって来る 。 生物としては独立し てやって行くことができる段階が生じる。このとき、子供が親から独立することは自由である。しかしまた、より有 か、判断を下すのである。 利に生きてゆくために、親の許に留まることもできるだろう。人聞は、自分が家族とともに生きることにするかどう 一緒にくらすという判断の結果、維持されている家族は、自然にロ白Z
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丹成り立っている。意志という人為的な働きによる社会の誕生で あ る 。 それゆえ、ルソーによって、﹁家族は政治社会の最初の雛型﹂と言われるが、その場合の家族とは、各人の意志に よって結びついた家族と理解されるべきである 。 ここでは、自然という言葉が本能と結びついた必然性を意味する概 念であるのに対し、意志は、生きるということに結びついた必然性を理解したうえで、自分の生をどのように導くべ きであるのかを判断する自由を意味する概念である 。 自然が必然であるのに対し、人為によって形づくられる社会は、 意志あるいは自由をその本質としなくてはならない。 ル ソ l において、社会形成の基盤として、人間の自由がとらえられていることは、記憶に留めておかなければなら ない。ところが、ある人々は、これを認めない。ある者は隷属するために、ある者は支配するために生まれたと、彼 刷 らは言う 。 かつて存在した国家に奴隷制度を有していたものもあったし、はっきりとした制度はなくても、奴隷のよ うな状態に人々を置いている国家もあるはずである 。 国家とは力を持つ者が、人民を支配して成り立っているのでは ないか。ある者は、自ら判断の主体となることを放棄し、支配されることで身の安全、生活の保障を得ており、力の ある者に従属することによって安住の地を見いだしているということもありはしないか 。 人々がそのようなことに満足することで、安定した国家が成り立っているのではないのか。 このような考え方に対して、ルソ!は、それを否定すべく積極的に答えようとする。それが、﹃社会契約論﹄第一 篇第三章と第四章である。第三章﹁最強者の権利について﹂、第四章﹁奴隷状態について﹂において、ルソ l は、最 も強い人聞が国家を支配する権利を持ち、人々が自由をその人聞に譲り渡して奴隷になることによって国家が成立す るという考え方を斥けるための議論を、展開する。まず、最も強い者の権利について考える。この場合、権利をつく るものは力である。人々は、力に屈して服従を余儀なくされる。そして、力がなくなり、服従を強制されることがな くなれば、自分から進んで服従しようとはしない。ここには、服従の﹁義務﹂はないのだ。この点は重要であって、 権利を力から得ているとした場合、人々が自らに服従を課す義務の概念はなくなる。したがって、﹁権利という言葉 聞 は、力に何もつけ加えていない。この言葉は、ここでは何も意味していない。﹂ルソ l が語る強盗の例は、このこと をよく理解させてくれる。﹁森の片隅で強盗に襲われたとしよう。その時、私は力に屈して財布を与えなければなら ないということだけでなく、財布を与えなくてもいいかもしれない場合にも、良心的に財布を与えなければならない 閣 のか。というのも、結局、強盗が持っているピストルも一つの権力なのだから。﹂強盗に襲われて財布を与える場合、 私は義務としてそのようにすることはない。力に屈して、しかたなくそのようにするのである。力は強制をもたらす が義務をもたらすことはない。力を権利としたところで、そのような権利は人々に強制をなすことはあっても、人々 の心の内に義務を呼び起すものではない。ところが、義務と対応することのないような権利は、およそ権利とは認め られない。ルソ!の言うように、力を根拠に持つような権利という言葉は、無意味なのである。 ル ソ l に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村 -167
宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 今、ルソ l は、義務を正当に要求する権利とは何か、そのような権利の根拠を求める考察を、展開している。そこ で、力はいかなる権利ももたらさないことが理解されたから、権利をもたらすものは、人々の聞の﹁約束﹂だという ことになる。では、その約束とはいかなる約束か。ルソ l は、約束に基づいた奴隷権ということについて考える。奴 隷権というものが、主人と奴隷の聞の支配と従属の関係を正しく根拠守つけるとするならば、その権利は正当なもの││ 従う者の義務を正当に要求するものーーとして機能するはずである。それならば、個人が約束のもとにひとりの主 人の奴隷となることができるように、人々は全体としてひとりの国王に服従するという約束を交わせないはずはない。 自分の自由を譲り渡す白-広口市﹁ことによって、国王の臣民団王えになることはできるはずである。 このような考え方を、ルソ 1 は斥ける。ルソ!の反論の最も主要な点は、﹁一方には絶対的な権威を、他方には際 制 限のない服従を取り決めることは、空虚な矛盾した約束﹂に他ならない、ということである。一方の人にすべてを要 求する権利を認め、他方は服従するということしか認められないという取り決めなど、無効である。そこには、﹁引 聞 き換えるものも交換もないE
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h ふ J ョ レ e J ' ' L 対 これに加えて、ルソ l は、自らを奴隷として譲り渡すことは、人間性を放棄することに等しいとして、主人に対し て奴隷としての約束を交わすことを非難する。﹁自由を放棄すること、それは、人間の資格、人間の権利、人聞の義務さえも放棄することである 。 (中略)このような放棄は、人間の自然本性
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ヨヨ巾と両立しない 。 四 また、意志から一切の自由を取り去るのは、行為からあらゆる道徳性を取り去ることである 。 ﹂ルソ l にとって、奴 隷となる約束を交わすことは、正当な権利の根拠とはならないのである 。 さらにルソ l は、人を奴隷にする権利ということについても考え、これを斥けようとする。戦争が起った場合、戦 争における勝者は敗者を殺す権利を持つ、そこで、敗者は、自分の自由と引き換えに命を買い戻そうとする 。 こ の 時 、 勝者は敗者の自由を得、敗者は自分の生命を得ることができる 。 自由と命を引き換えるという約束は、両者にと っ て 側 利益となるから、正当だというわけだ。 これに対して、ルソ l は、敗者を殺す権利など決して戦争から出てくるものではないことを、論証しようとする 。 戦争とは、人間と人間の関係ではなく、国家と国家の関係である 。 そこで各人は、﹁兵士﹂という資格においてのみ 敵対しあう。それぞれの国家の防衛者として武器を取る限りにおいて、互いを殺すということが認められる。したがっ て、武器を捨てて降伏する場合、各人は戦闘員であることをやめ、単なる人間に戻るわけであるから、彼らの生命に ついてはいかなる権利も持たれない 。 相手を殺す権利など、どこにもないのである 。 紛争解決の手段として戦争状態 が生じるにしても、戦闘は非戦闘員を巻き込んではならず、戦闘員として戦おうとする者同士の間で戦闘が認められ るにすぎない。敵が降服しない場合に限って、戦闘を続け、敵を殺すということが、権利として認められる。そこで は、戦争終結という明確な目的に従つてのみ、権利が行使されるのである 。 したがって、戦争における勝者が敗者を 殺す権利などは、どこにも認められない 。 それゆえ、敵を奴隷にする権利などというものも、敗者を殺す権利などな い以上、何の根拠もなくなる 。 ﹁敵の生命に対して何の権利も持っていないのに、命を助けてやるからその代価とし ル ソ ! に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村-169-て の 自 t:b 手当F t口 " " を 崎 渡 産 せ 業
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このようにして、自ら自由を譲り渡して奴隷となることも、力によって人を奴隷にすることも、ともに正当な権利 の基礎としての約束にはなり得ないことが論証された 。 それでは、正 当 な権利の基礎としての約束とはどのようなも のなのか 。 ルソ!の積極的な考えを私たちは聞きたいと思う。そこで、﹁最初の約束につねにさかのぼらなければな 叫 らない ﹂ と言われるのである。最初の約束について、ルソ!は次のように説明する 。 たとえ人々が国王を選び、自分 を国王に与えるとしても、この ﹁ 選び、与える﹂という行為そのものが市民としての行為5
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を前提としていなければならない 。 そして、公的な議決を行う その結果が全員一致でない場合、少数者も多数者に従わなければならないとすれば、多数決のル l ルがまた投票に先 立って取り決められていなければならない 。 多数決のル I ルに従うという全員一致の約束が投票による議決を行うと という市民としての行為が成り立っためには、それに先立つ約束がなければならない 。 投票による議決を行うとして、 いう市民としての行為を支えているのである。このような全員一致の約束、ルソ 1 は、これを﹁最初の約束﹂と呼び、 人々が社会を形成する一員となる行為、﹁人民が人民となる行為で白立市百円}
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この最初の約束こそが﹁社会の真の基礎﹂であり、﹁社会契約﹂なのである 。 きわめて有名なルソ i 自身の言葉に よってその内容を表現すれば、次のようになる。﹁私たちの各々は、人格と全能力を共同のものとして一般意志の最 閣 高の指揮のもとに置く 。 そして、各々の構成員を全体の不可分の部分として、集団の中に受け入れる 。 ﹂ この約束によって、各々の個人はすべての他者に結びつき、公的な人格を形成する。そして、これが、国家なのである。各々の 人は、それぞれ自分を共同体全体に完全に譲り渡すのだから、誰にとっても同じ条件の国家が成立する。﹁各々の人 岨 は、すべての人に自分を与えることによって、誰にも自分を与えない。﹂誰もが、共に共同体を営もうとするすべて の人に自分を譲り渡すのであって、特定の誰かにそうするのではない。公的人格としての国家、共同体に対して'自己 を譲り渡すのであって、このことは、共同体に参加する人たちにとって、例外は認められない。だから、構成員とな る人は、自分の権利を他人に譲り渡すように見えるとしても、同じ権利を他者とともに形づくる国家から必ず受け取 る。﹁人は、失ったのと同じだけのものを手に入れることができるし、持っているものを保持するためのより多くの 叫 力 を 手 に 入 れ る の で あ る 。 ﹂ 国家形成以前、自分が持っているものを・自分の力で守らなければならないときと異なって、社会契約を結んだ人々 には、持っているものを持ち続けることが、公的人格である国家の力によって保障される。国家を構成する人々の国 家共同体への自己の譲渡が完全でありさえすれば、わたしたちは同じ条件において等しく恩恵を受けることができる。 特定の誰かが不利益を蒙ることのない公平無私な社会の誕生である。
主権の意味
最初の約束である社会契約によって国家が形成される。したがって、国家の主体は契約を結ぶ人々であり、その人々 が主権者だということになる。この時、ルソ!の用語法において注意すべきは、主権者とは各々の個人がすべての他 ル ソ l に お け る 社 会 と 自 然 下 村宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 者と結びつくことによって形成される公的人格を意味しており、必ず集合体としてr
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と表記され ることである。ひとりひとりの人を と表現することはない。そのような主権者が、まとまりを もっ状態として存在しているものととらえられたとき、}
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に参加するものとしては、市民 叫 -巾聞の一件。ヨロ∞と呼ばれている。したがって、社会契約を精ひ国家形成に参加する人たちをひとりひとり見たときに、 彼らは市民と呼ばれ、彼らを国家というまとまりで見たときに、主権者と呼ばれる。国家という公的人格に参与して いる限りにおいて、主権者と呼ばれるに相応しい。したがって、各人は、自分が主権者であることを主張する際、国 家の成員としてある状態においてのみこれを主張できるのである。社会契約に言うところの、﹁人格と全能力を共同 巾 凹 印 。 己 ︿ 巾 ﹃ 曲 目 ロ 印 のものとして一般意志の最高の指揮のもとに置く﹂限りにおいて、私たちは、また、主権者であり得るのである。 その一方で、各個人は、本来独立した存在である。そこで、公共の要件について考え違いをしてしまうことがある。 本当は自分の利益にもなるはずである公共の要件について、その要件に関わることで自分には果たすべき義務がある にもかかわらず、その義務の遂行を無償の寄与だと勝手にみなしてしまうことがある。自分が払う犠牲にくらべれば、 義務を怠っても他人にはさほど害がないと考えるかもしれない。その場合、個人は義務を果さず、自分の権利のみを 主張することだってあるはずだ。こうなると、国家は衰亡を余儀なくされる。そこでは、社会の形成を約束した社会 契約は反故同然になる。したがって、このようにならないために、私たちは一般意志に服従することが必要となる。 社会契約を結ぶ主体であるという限りにおいて主権者となる私たちは、自らの立場を守るために、 ることが必要なのである。 一般意志へ服従すさらに各個人は、自分の財産を国家に与えなければならない。国家は、その構成員に対して、国家におけるすべて の権利の基礎となっている社会契約によって、構成員の全財産を支配できるのである。しかしながら、国家という主 権者の支配下に置かれているからといって、個人は財産の所有を奪われるわけではない。労働と耕作によって占有し てきた土地であって、暮らしてゆくのに必要だと認められる土地であるならば、その土地を個人が占有することは認 められる。人が生きる基盤となっているものを持ち続けることは認められねばならない。むしろ、国家形成以前にお いては、自分の力で守るしかなかった占有は、社会契約が結ぼれて以後は、権利として確立されることになる。つま り、国家の保障を得ることができるわけだ。なるほど各個人は、それまで自分の生活の糧を得てきた財産を、社会契 約のもとに国家共同体に譲り渡す。しかし、国家としては、これによって、個人に土地財産の合法的な所有を認める。 国家に参与する個々人が、国家をなす者全員の財産の一部の所有を認められ、そこで・自分の生活の糧を得てゆくと同 時に、国家共同体全体を支えてゆくための糧も作り出すことになる。国家によって個人に与えられた所有の権利はま た、国家存続のための個人の努力を義務として含むものでもあるのだ。 こうして、各個人は社会契約のもと一般意志に服従し、その財産といえども国家の支配下に置かれることになるが、 国家と個人とは対立し合うものでもなければ、支配と従属の関係において成り立つものでもない。そこにあるのは、個 人の利益は国家の利益につながり、国家の利益が個人を豊かにするような関係である。なるほど、ルソーによって次 のように言われることがある。﹁各個人が自分の地所について持つ権利は、共同体がすべての地所について持つ権利 に従属する。そうでなければ、社会のきずなに堅固さがなくなるだろうし、主権の行使においても実質的な力がなく 叫 なるであろう。﹂しかしながら、個人の権利に国家の権利が優先するとしても、それは、国家の成員であるすべての ル ソ i に お け る 社 会 と 自 然 下 村
宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 個人を尊重するためである 。 社会契約が結ぼれる以前、人々は、自分の力で自分の権利を主張し守らなければならなかった 。 場 合 に よ っ て は 、 腕力を用い、校知をめぐらすことによって、自分の生活を守らねばならないということもあったかもしれない 。 そ の とき、力のある者、いろいろな意味で知恵のある者が利益を得たであろう。しかし、このことは正しいとはき守えない はずである 。 強い者、勝利を得たものが常に正しいとは限らない 。 逆に、そういう能力のある者に対して、自らを奴 隷のようなものとして自由を売り渡して庇護を求めざるを得ない弱者もいたかも知れない。そして、このようなこと こそ、ルソ l にとっては改められねばならないことであった。自然状態での個人の能力差が生む不八全半、不平等、こ れを正し、すべての人々が平等に生きてゆける世界をつくるのが、社会契約の役割だったわけである 。 国家に与する ことによって、特定の誰かにたよらなくても生きてゆくことができる。社会に守られているということによって、力 の弱い者、ハンディを負った者も、力に屈する事なく生きることが可能になる。このことによって、人間らしい生、 道徳的な生、理性に導かれた生が実現されるものと、ルソ!は考えるのである 。 ﹃社会契約論﹄第一篇の末尾で、次 のように言う所以である。﹁基本的な社会契約は、自然な平等を破填するどころか、反対に、自然が人間の聞に置い たかもしれない肉体的な不平等に、道徳的で合法的な平等を置き換えている。また、体力や才能において人々は不平 等であるかもしれないが、約束によってまた権利によってすべて平等になるのであるよ 社会契約によって形成される国家が、人々に自由と平等を保障すると言われた。私たちは、この点を厳密にしてみ たい。社会契約によって、人々は自分の能力、財産一切を一般意志の支配の下に置いた 。 し た が っ て 、 一般意志のみ闘 が唯一の最高の意志、決断する力となる。それゆえ、主権とは一般意志の行使に外ならず、これによって国家が導か れることになる。そして、ここから、﹁主権は譲り渡すことができない﹂、﹁主権は分割できない﹂という有名な命題 が で て く る 。 譲り渡せないのは、主権者とは集合的存在
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ミ以外の何者でもないのだから、この集合的存在そ のものによってしか表明されえないからだ、とルソ l は言が。意志はその時その時において当人の意志でなければな らない。希に、当人の意志と合致した意志を代理の者が持つことがあるとしても、それは認められない 。 意志は、常 に当人の利益を守らねばならない。それは、人の存在をどこまでも肯定するかけがえのない働きなのである。したがっ て、他の誰かに意志を譲り渡すということは、自分の存在あるいは自由を譲り渡すに等しい。ルソーが次のように言 う所以である。﹁人民がただ服従すると約束しただけで、この行為によってみずから解体してしまい、人民の資格を 副 失ってしまう。支配者が存在するや否や、もはや主権者は存在しない。そのときから政治体は破壊される。﹂人々が 国 自分の意志を他の誰かに譲り渡すことは、社会契約を無効にすることでもあるわけだ。 175-る か ら で あ る 。 酬 れる意志は一般意志とはなりえず、 入らない人々の集まりは主権からもれ落ちてしまう。これは国家の崩壊を意味する。したがって、一般意志を守るた めに、主権は決して分割されてはならないのである。ルソーによれば、立法権、行政権、司法権等の権利は、並列に 主権が分割され得ないのは、分割されると主権をなす一般意志までが分割され、これによって一般意志が破壊され 一般意志は、社会契約に参加する人々全員の意志でなければならない。一部の人々の意志から形成さ 一部から成る意志が国家の主権を代表するとみなせば、それによってその一部に 並べられるべきものではない。例えば、宣戦を布告する行為や講和を締結する行為は、﹁法の一適用、すなわち法を ル ソ l に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
・
2 号 明 いかに適用するかを決定する特殊な行為﹂にすぎない。主権の一部だと取り違えられている諸権利は、すべて主権に 従 属 し て い る 。 一般意志という国家の意志の存在を前提にしており、この意志を具体的に執行してゆく権利にすぎな ぃ。そういう具体的な事柄に関わるのは、すべて特殊な行為なのである。 そうすると、改めて問われるべきは、ルソーにとって一般意志の行使である主権とは何かということであるが、そ 倒 れが法をつくるということなのである。法とは、﹁全人民ZEr
官名r
が全人民に対して裁定を下すm
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巾 円 ﹂ 行為のことである。ここでは、全体のいかなる分割もなく、裁定を下される対象すなわち全人民に関わる事柄は、裁 定を下す意志と同じく何らの分割も起っていない。つまり、ルソ l の用語で一吉うところの、﹁一般的﹂なのである。 例えば、なるほど法は特権を制定し、市民の階級をつくることができるが、特定の人を定めて特権を与えるとか、誰 がどの階級に入るのか定めことはない。﹁法は王政と世襲制を確立することができるが、王を選んだり、王家を名ざ 倒 すことはできない。﹂特殊な事柄に関わる一切の機能は立法権には属さないのである。 法は対象の普遍性と意志の普遍性を備えていなければならないことが、明らかになった。たまたま権力を得たひと りの人聞が独断で下したものは法ではないし、主権者でさえ特殊な対象について命令したことは法ではない。後者は、 主権の行為ではなく、行政の行為だということになる。したがって、法とは、主権者に参与するすべての人々の意志 (一般意志)が、自分自身を対象にして国家の在り方について裁定を下すことなのである。この裁定に基づいて、様々 な行政機関あるいは司法機関が、個別の問題に対処してゆく。一般意志の行使でありまた立法行為である主権は決し て分割されることはないし、主権が主権であるためには分割されてはならないのである。 このようにして、私たちは再び、社会契約の最も基本的な立場を確認することになる。法を体系的に整備してゆくことは、すべての人々の最大の善
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を追求することであり、これが﹁自由﹂と﹁平等﹂とき守つ二 つの目的を実現することにほかならないということである。個人の自由と平等を守ることは、その個人が特定の誰か あるいは何かに従属して生きることからの解放であり、そのことはまた直ちに国家の維持に積極的な力となる。なぜ なら、個人が特殊なものへ依存するということは、国家の内部に部分的な力が作られることを意味し、これによって それだけ国家から力が奪われるからである。人聞が集まって生活を始めた時、個々の人間の自由と平等を守るために は、社会契約に基礎をもつまとまりのある国家の形成が不可欠だったわけである。四
人間の自由
177 -﹃ 学 問 芸 術 論 ﹄ 、 ﹃ 不 平 等 起 源 論 ﹄ 、 ﹃ エ ミ l ル﹄において、自然の善性を説き、人為的社会の悪を糾弾しているルソー は、﹃社会契約論﹄では、ひとりひとりの人間の自由と平等を守るためには、社会形成が必要であると考えている。 一貫性はないのだろうか。私たちは、そのようには考えない。なるほど﹃社会契約論﹄で表記された﹁自然﹂ や は り 、 には、野蛮な自然の意味があった。人間自身が欲望に支配されて醜悪な振舞をすることもあれば、いかなる者も自然 の脅威を免れることは不可能である。時として苛酷な姿をもって私たちの前に立ちふさがる自然の中で、生命を守る ためには、当然何がしかの工夫をしてゆかねばならなかった。この工夫の積み重ねが人聞の文化であったわけだし、 社会の形成もそのひとつである。遺伝情報によってプログラムされた通りの生活形態を守ってゆく動物たちと異なっ て、その枠を逸脱した人聞は、自らの創意工夫のもとに生きてゆかねばならなかった。自然と対概念をなす人為は、 ル ソ ! に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 人聞にとって避けることのできなかったことなのである。それならば、この人為もまた人聞にとっては、自然だと言 うことができはしないだろうか。すると社会形成も、人間の自然な行為としてとらえられるから、﹃社会契約論﹄も 新たに解釈された自然を称えた書物として、他の著作と一貫性を持たせることができると考えられはしないか。 私たちは、直ちにこのような結論を下すことを避けよう。自然はどこまでも自然であり、人為は人が工夫をし自然 に働きかけて何かを作るからこそ、人為なのだから。それにもかかわらず、社会形成という人為もまた人間の自然と して理解すべきであるとすれば、それはいかなる意味においてそうであるのかを明らかにしなくてはならない。そこ で、本稿第二章、第三章で見られたように、社会形成が人間の何を守るためになされていったのか、考えてみなくて はならない。それは、人間の自由であった。本能の枠を越え出て生きてゆかねばならなくなった人聞について、その 生き様の中で人間らしさを形づくっているもの、その意味での人間の自然が、自由だと考えられていたはずである。 私たちは、この点を明確にしておかなければならない。 ﹃ エ ミ l ル﹄第四篇のサヴォワ助任司祭の信仰告白の中に、三つの教義あるいは信仰箇条が語られている。 第一の信仰箇条。﹁他の運動によって生み出されたのではない運動一切は、自発的、意志的行為によってのみ生 じ得る。生命を持たない物体は運動を通してのみ活動する。意志がなければ真実なる活動はない。これが私の第一の 原理である。したがって、官、ひとつの意志が{蓄を動かし、自然に生命を与えていることを信ずヤ﹂ 第二の信仰箇条。﹁もし動かされる物質がひとつの意志を私に示すとすれば、ある法則に従って動かされる物質 はひとつの知性を私に示す。活動すること、比較すること、選ぶこと、これらは能動的で思考する存在者のはたらきである。したがって、このような存在者が存在する。どこに存在するのが見えるのかと、君はきくのか。回転する天 空の中、私たちを照らす太陽の中、私自身の中のみならずに、草をはむ羊の中、空を飛ぶ小鳥の中、落下する石の中、 風が運ぶ木の葉の中にさえそうなのだ。﹂ 第三の信仰箇条。﹁あらゆる活動の原理は自由な存在の意志の中にあり、人はこれを越えてさかのぼることはで きない。(中略)自由なくして真実なる意志はない。したがって、人聞は、その行為において自由なのであり、非物 制 質的な実体によって自由なものとして生命を与えられている。﹂ 恐らくは、汎神論者と断定されてもよいこのような主張において、問題にすべきは、ルソ l の宗教観ではなく、人 聞についての譲る余地のないルソ l の理解である。ここには、与えられて在る存在者である私たちに対するあまりに 素直な驚きがある。存在に驚嘆するルソ!の姿がある。この世界が在るというだけでも驚嘆すべきであるのに、さら に私たちはそれを知っている。世界の存在を知りつつ生きている私たち自身もまた、驚嘆すべき対象なのである。 意志と知性を備えた存在者として生きている人聞は、自由なものとして存在している。自由なものとは、与えられ た存在のもとに、自分の在り方、生き方を自分で決めてゆくことができるものであると同時に、自分で決めなければ ならないものでもある。そういう判断の主体でもある。したがって、判断を下すことに付随する責任を免れることは できない。自由であるということ、すなわち自分で考えた理由によって生き方を決める存在者は、同時に責任の主体 でもあるわけだ。それゆえ、本能の枠を出て自分の生き方を考え、決めてゆく人聞は、自分の生命を守るため、ある いはひとりで生きてゆくことよりも有利に生きることができるようにしようとして、誰もが共通の利益に与ることが ル ソ i に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村
-179-宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 できる社会共同体の形成を考えた。そのように考えたからには、そのような社会の実現に向かって努力する責任があ るわけだ。理想の社会を実現するための工夫と努力とは、まさしく人間の自由から出てくることなのである。 国家に最良の形式-白E
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﹃ 巾 向 。 門 岡 田 市 を 与 え る た め に 、 法 が 一 般 意 志 の は た ら き の も と に つ く ら れ る こ と も 、 このような人閣の自由に基礎づけられている。したがって、ルソ 1 が﹃社会契約論﹄第二篇十二章で法の分類を行 ぃ、政治法- 2
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己凹の三つをあげた後に、四番 目の法として道徳}258E﹃凹を置くのも、社会形成が人間の自由を根拠としていることから理解されねばならな ぃ。道徳という法は、文章として記されることはないが、﹁国家を真に構成するものF
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こなのであり、﹁一切の法が成功するかどうかは、この部分に依存している﹂のであか o 道徳を諸々の法の上に置くのは、それが、法をつくるという人間の行為、すなわち人為を越えているからである。 それと同じ意味において、人間の自由はやはり人為を越えていると言うことができる。そういう人為を越えたものに 支えられて、立法という人為も成り立つ。ここに、新たにとらえなおされた人間の自然がある。人間とは、人々の善 の実現に向けて思索し努力することを本質とする自由な道徳的主体であるということ。そういうものとして存在を与 えられているということ。これが、人間の自然なのだということである。こういう自然を基盤として、人間の社会形 成ということも成り立つ。社会形成という人為は、直ちに自然そのものとみなされることはできない。しかし、そう いう人間の自然が、善の実現に向かっての努力を展開しようとするとき、なす工夫のひとつに社会契約ということが あ る わ け だ 。社会契約によって得られる一般意志は、人々の共通の利益に向かっているのだから、決して誤ることがないはずで 制 ある。もし誤りがあるとすれば、それは一般意志においてではなく、特殊な意志の適用においてである 。 または、国 家の中に部分的な集団ができ、その部分的集団の意志(特殊意志)が一般意志に取って代わっていることにおいてで ある。後者の場合、すでに見たように、主権者の内部に部分ができ、これによって主権は分割され一般意志は破壊さ れるから、国家は衰亡を余儀なくされる。前者の場吾、誤りは、立法行為のもとに行政としての機関を設けた際、 その機関の具体的なはたらきの中にあることになる。そういう場合、主権者は機関の変更を求めることができる 。 主 権者が一般意志を行使して、行政府の長を選。ひ、その者に権限を与えているのであって、その長は﹁主権者のたんな 刷 る役人として、主権者によって与えられた権力を、主権者の名において行使している﹂にすぎない。したがって、 刷 ﹁主権者は、この権力を思いのままに制限し、変更し、取り戻すことができみ﹂のである。 このようにして、行政権の行使という法に従属する人為行為については、いつでもそれをやり直すことができる。 -181-ひとつに、私たちは、そういう人為において誤りを犯し得るからである 。 もうひとつに、そのことを自らの責任のも とに行わなければならない義務があり、そういう義務を担うからこそ道徳的な主体としての自由を持つからである。 そういう自由が人間の自然だったからである。それ故また、立法においても、それをやり直すことができることにな る。社会契約を基礎として、いかなる法のもとに生きてゆこうかという判断は、主権者によってなされるものだから である。もし、法が人を差別するようなものとして機能するようなことがあるとすれば、いつでもそのような法を破 棄し、最初の約束である社会契約に立ち戻って考え、生きることが認められねばならない 。 このような社会契約を結 ぶことこそが、人間の自由を守るものである。与えられた自由という自然を守る最初の工夫が、社会契約を結ぶこと、 ルソ l に お け る 社 会 と 自 然 ( 下 村
宮崎産業経営大学法学論集第 8 巻 第 1
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2 号 社会を形成するという人為だったわけである。そして、この契約によって、人聞は与えられた存在において自由であ るということに、立ち戻ることができるのである。 人々は、社会契約に参加して国家形成をなす場合にも、決して国家に服従するものでないことは、以上から明らか 酬 である。人々は、約束をするが、その約束に従う限り、﹁誰にも服従せず、自分自身の意志にのみ服従する﹂にすぎ ない。人々が﹁どこまで自分自身と約束することができるか、各人が全員に対し、全員が各人に対して、どの点まで 約束することができるか﹂が問題なのである。 人々は、与えられた存在において自由なのである。その自由を自分の生の中でいかにして実現してゆくのかという 課題を目の前にしたとき、人々は創意と工夫を続けてゆかねばならなかった。そういう存在者としての人間の身分に ついての自覚は、人々の自由な創造と工夫を励ますが、このときの自由は自律を意味するものであった。自らが判断 の主体となるように、そして責任を担える道徳主体でありますように、といったそういう生の実現をいかにして現実 の社会の中でなしてゆくのか、それが﹃社会契約論﹄の筆者の根本的なテ l マなのである。そこでは、自然の善任は、 いささかもゆるぐことのない信念として、ルソ l の中にある。サヴォワの助任司祭の言葉は印象的である。﹁神は私 叫 に、善を愛するために良心を、善を知るために理性を、善を選ぶために自由を与えたのではなかったか。﹂ 思えば、﹃社会契約論﹄第一篇の冒頭において、ルソ l は次のように言っていることに注意すべきであることが、 記憶に留められねばならないであろう。﹁私は、人聞を在りのままの姿-g
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でとらえた場 r A 口、社会秩序の中に、正当で確実な統治上 で と ら え 、の規則が在り得るのかどうかを探求したいと思う。﹂人聞を在るがままの姿でとらえること、すなわち自然状態にお いて存在することを肯定したうえで、法という人為的なものの在り得る姿を考える。人間の自然な状態、すなわち与 えられた存在において自由だということが損なわれないような仕方で、確実かっ正当な法制度が在り得るのかどうか が問われるのである。﹃社会契約論﹄では、そのような意味での社会編成の原理をなすものの在り様が問われてきた の で あ る 。 註 川 W O z g 己 2282 丘 一 。 F 司 コ ロ 門 戸 司 2 含 ι E X 唱 。
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2 号 同叶。ョ。巳司・2
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・ 同﹁社会状態において獲得されるものに、道徳的自由をつけ加えることができるだろう。道徳的自由だけが、人聞を真に人間の 主人とするものである J J﹁ 。 自 命 日 ・ 官 -U 酌 印 ・ 川 、 吋 。 ョ 。 巳 司 ω 印 N ・ 同生命を守ること、ルソ!の言葉では自己保存E
買 8 2 2 ロ 2 2 三 E ロこそは、生物が等しく持つ本能である。叶。自め戸 司 ・ ω 印 N 同叶。冒伶戸司・ ω 印 N -側 ル ソ l は、グロチウスの 2 2 5 、ホップス出。 r Z ω について、彼らがすべての人々の自由平等を主張していないと考えてい る。また、アリストテレスどミ 8 立L g
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第一篇第二章二一五二 a で、明確な言葉で、﹁ある者は隷属するために生まれ、また、ある者は支配するために生まれた。﹂と諮っているとしている。 叶 。 目 。 回 e 司 -M 印 ω 制﹁カに屈することは、必要にせまられた行為であって、意志による行為ではない。(中略)それは、一体どんな意味で義務とな りうるのだろうか。﹂叶。自。戸司 ω 印 品 目 同叶。ョ。戸司ω E
-閥 、 門 。 自 巾 戸 司 ・ ω 印 印 ・ 倒 、 H , 。 自 。 戸 司 ・ ω 印 印 ・ 同 ル ソ l は、これをグロチウスの論として述べている。﹁グロチウスは言う。もしひとりの人が、自由を譲り渡し、ある主人の 奴隷となることができるならば、どうして全人民が自由を譲り渡して、王の臣民になることができないはずがあろうか、と。﹂ 叶 。 ョ 。 戸 司 ・ ω 印印なお、ドゥラテ問。宮ユU
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三宮の註によれば、グロチウスのこの言葉は、﹃戦争と平和の法﹄第一篇第三 章八節に見られるものである。 附叶。目。戸唱・ ω 印 晶 ・叶 。 ヨ 命 国 ・ 司 ・ ω 印 酌 ・ ↓ 。 ヨ 命 日 ・ 司 ・ ω 印 岱 ・ ↓ 。 E 伶 田 ・ 司 ・ ω 印 酌 ・ ルソ l は、グロチウスの名前をあげて、その意見( ﹃ 戦争と平和の法 ﹄ 第三篇第七章五節)として紹介している。 唱 ω 印 酌 ・ 刷 叶 。 目 。 国 ・ 司 ・ ω 印 吋 ・ 帥 ↓ 。 ョ 。 回 ・ 司 ・ ω 印 ∞ ・ 同﹃社会契約論﹄第一篇第五章の見出し
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目 。 戸 司 ・ ω 印 由 ・ 例目自。巳司・ ω 印 由 ・ 同﹃社会契約論﹄第一篇第六章では、﹁社会契約﹂の表記に宮 n g という語が用いられているが、 円 。 三 22 と 同 義 で あ る 。 斗 。 ョ 。 国 ・ 司 ・ ω 酌 C ・ 倒 4 。 ョ 。 巳 司 ・ ω 2 ・ 例﹁この連合行為は、道徳的で集合的なひとつのまとまりを産み出す 。 これは、投票権を持つメ ン バ ーから構成され、この同じ 行為によって、統一、共同の自我、生命、意志を受け取る 。 ﹂ 吋 。 ョ。戸司 ・ω E
-同叶。ョ。戸司・ ω 2 ・ 同↓。自命戸司・ ω 2 ・ 附 同 , 。 自 。 戸 司 ・ω
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を果たそうとせずに、市民の権利 一2
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を享受するかもしれない。﹂叶。ョ。 目・唱 - ω m ω ・ 附﹁社会契約が空虚な公式とならないために、一般意志への服従を拒む者は誰も、国家全体によって一般意志への服従を強制さ れるという約束を、社会契約は暗黙のうちに含んでいるのである 。 ﹂ 叶 。 ョ 。 巳 唱 ・ ω 宏 -同↓。s o
国 ・ 司 ・ω 由 印 ・ sl!(2!f (2時帥 ↓ 。 ヨ 他 国 -185 -ル ソ I における社会と自然 ( 下 村宮 崎 産 業 経 営 大 学 法 学 論 集 第 8 巻 第 1 ・ 2 号 同 ル ソ l は、これを先占権
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同と呼ぶ 。 ↓ 。 E O 巳唱 ・ω
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同﹁この譲渡に見られる特異な点は、個人の財産を受け入れつつ、共同体は個人から財産を取りあげるのではなく、個人に土地 の合法的な所有を保障し、纂奪を真実なる権利に変え、享受を所有権に変えるにどまる、ということである 。 ﹂ ↓ 。 ョ 。 戸 唱 ω ∞ 吋 ・ 同 ﹃ 社会契約論﹄第二篇第四章で、ル ソ l は次のように述べている 。 ﹁社会契約は、市民は閉じ条件の下に身を置き、同じ権利を 享受すべきだという平等をうちたてる。したがって社会契約の本性からして、主権の一切の行為、言い換えれば一般意志の一切 の真正の行為は、すべての市民に等しい義務を課し、恩恵を与える 。 ﹂ ♂ ョ 。 戸 司 ・ω =
・ 帥国家が領土を重要視する理由もここにある。人が育つこと、人の生きる糧がそこに育まれるということが、国家の繁栄を意味 す る か ら で あ る 。 同 吋 4 0 5 。 戸 司 ・ω
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・ M 問 、 ﹁ 。 ョ 。 国 ・ 司 ω 白 吋 ・ 同ご般意志のみが、国家設立の目的に従って、国家のカを導くことができる。そして、その目的こそが共通の善なのだ 。 ﹂ ↓ 。 冨 命 国 ・ 司 ・ ω ∞ ∞ ・ 同 斗 O 目 。 国 ・ 司 ・ω ∞ ∞ 一 -同 ↓ 。 自 。 戸 司 ・ω 2
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同 ル ソ l は、意志を代理する者の存在を認めない。したがって、代議員による政治も認められない 。 ﹁人民が自ら承認したも のでない法律は、すべて無に等しい。それは法律ではない。イギリス人民は、自由だと患っているが、それは大変な間違いだ 。 彼らは、議員の選挙の間だけ自由なのであって、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何者でもなくなる J U E 。 戸 唱 ・ 色 0 ・﹁人民が代表者をもつや否や、もはや自由ではなくなる 。 人民はもはや存在しない 。 ﹂U
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ルソーが ﹃ 社 会契約論 ﹄ 第一篇冒頭で述べる﹁自らを他人の主人だと信じている者も、彼ら以上に奴隷であらずにはおかない。 ﹂ という表現 は、ルソ l の時代においてよく統治されているように見える社会においても、人々の本来的な自由が守られているわけではない ことを、示唆しでいる 。 同 ル ソ l は 、 こ れ を 、 ﹁ 一 般 意 志 ﹂z
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国 ・ 司 ・ ω 吋 0 ・同吋。ョ。巳司・ ω 叶 由 ・ 例﹁私が法の対象は常に一般的だと言う場合、次のように理解している。法は臣民を全体として考えており、諸行為を抽象的な ものとして考えている 。 人聞を個人として、行為を特殊なものとして考えているのでは決してないよ吋。ョゅ戸司・ ω 吋 由 ・ 側ルソ!の考え方に従えば、法によって統治される国家は、例外なく共和国ということになる 。 立憲君主国家といえとも共和国 なのである 。 なぜなら、君主も国家の一員である以上、当然法に従わねばならず、立法行為の基盤をなす社会契約に他のすべて の人々と同様に多加しているからである。↓。ョ。巳司・ ω 吋 由 、 f ω ∞ D -刷出ヨゆ国・司・ ω 戸 附 叶 。 ョ 。 戸 司 ・ 印 吋 晶 ・ 刷 叶 。 ョ 。 -ア 唱 ・ 印 吋 ∞ -同↓。ョ 。 ﹃ ア 唱 - m ∞ 晶 、 l m ∞ 寸 ・ 附叶。ョ。国 ・ 司 ・ω 宏 ・ 同