Author(s)
真栄平, 房昭
Citation
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(40): 15-28
Issue Date
2017-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/22069
戦時下の首里と中城御殿
―国土が戦場になったとき―
真栄平房昭 はじめに 1947(昭和 22)年2月、首里の「中城御殿」の焼跡 から一個の大印が発見された。戦災を辛くも免れた数少 ない文化財であるこの石印は、一部欠損しているが、「海 表恭藩」の四字と判読された。この字句は、1800 年に 尚温王の冊封正使・趙文楷と、同副使・李鼎元がもって きた清の嘉慶帝の直筆(御書扁額)で、石材に篆書で彫 られている(図1)。 東恩納寛惇によれば、「海表恭藩の四字は、海邦養秀 の名句と共に郷学の指標であった」。この石印はおそら く国学建設後、進貢使に託して中国に注文したもので、尚温自らの好みによって製作を命 じたが、生前の間にあわず国学に秘蔵され、「廃藩の際、養秀額と共に、尚家にうつされ たもの」と推測される(1)。 本稿では 1879 年の廃藩置県以降、1945 年の沖縄戦を中心とする時期にスポットをあて、 戦時下の首里の状況を中心として述べていく。史料として日米の戦闘記録を参照したが、 それにとどまらず、「住民」側の視点を交えつつ沖縄戦の実態を具体的に描くことを念頭 においた。そこで、オーラル・ヒストリーとして住民の戦時体験記録や「日記」もできる だけ活用することにつとめた。これらの記録を通して、太平洋戦争という時代の大きなう ねりが「津波」のように沖縄にも押し寄せ、多くの住民を巻き込んだ「鉄の暴風」が吹き 荒れたことが、若い世代の読者にも了解されるであろう。その中で、琉球文化財の運命と 戦争、戦後史についての「オーラル・ヒストリー」を理解する一助ともなれば幸いである。MAEHIRA Fusaaki: Wartime Shuri and the Nakagusuku-Udun: when Okinawa was turned to a battleground (1) 東恩納寛惇『琉球の歴史』至文堂、1957 年、120 ~ 121 頁
図1 海表恭藩の印(沖縄県立博物館・美術 館所蔵)
1.首里城の荒廃 1879(明治 12)年4月の廃藩置県後、それまで真和志間切古波蔵村に駐屯していた日本 軍の熊本鎮台分遣隊が首里城に移駐し、日清戦争終結後の 1896(明治 29)年まで城を占 拠していた。この分遣隊駐留時に兵舎・医務室等に改造されたため城内はかなり荒れ果て、 その様子が 1882(明治 15)年に首里城を訪問したイギリス人ギルマード博士の手記に記 されている。 「われわれは部屋から部屋へとさまよった。回廊や接見の間や婦人部屋や召使の室や、 まったく迷子になりそうな建物などをぐるぐる歩いたが、いずれも言語に絶する荒廃の状 態にあった。永い間、誰も住んでいなかったにちがいない。あらゆる装飾品は取除かれて あった。小壁に掲げられた絵―日本人や琉球人が好んでする装飾―は引きはがされ、ほこ りと星霜とで見分けがつかない」状態であった (2) 。 さらに時は過ぎ、1921(大正 10)年1月、沖縄を訪れた柳田国男は『海南小記』の中で 首里の印象を、こう記している。「首里は清水の永久に美しい町である。しかも聞得大君 は辞し、王は去って、百浦添(首里城正殿)の南の芝生には、盛んに大葉酢カタバミ漿の花のみが 咲いて居る」と。この短い筆致が伝えるのは、時の流れの中で変わらざる自然(水や花) の美のみならず、王国の「栄枯盛衰」の虚しさであろう。柳田の眼前にある首里城とは、 もはや崩壊する寸前の状況であった。それから三年後、首里城跡を歩いた若き歴史学徒の 秋山謙藏(旧制七高生)も「廃墟」に心動かされ、のちに自著『東亜交渉史論』序でつぎ のように回想している。 大正十三(一九二四)年の春、……ただ「南の島」といふ名に憧れて、琉球の旅をつ づけた。……初めて見る「南の島」で、我々の眼に映ったのは、美しく澄み切った南 の空に較べて、余りにも荒廃してゐる廃墟―首里城であった。その城址を歩きながら、 私は、この廃墟が、廃墟にならない前のこと、また廃墟になった事情について考へて 見たいと、独りきめてしまったのである。父の意志に従って、日本の歴史を研究する ために大学(東京帝国大学文学部・国史学科)に進んだ私は、先づ、この首里の城址 に考へたことを検討し始めた。(下略) また、歌人の山城正忠の作品にも、荒廃した首里城の痛々しい姿がうかがえる。 百浦添 荒れしいらかをおとづれて いたはるごとく 静かなる雨 (『紙銭を焼く』昭和 13 年) (2) 須藤利一『異国船来琉記』法政大学出版局、1974 年、217 頁
なお、首里城明け渡しの際、王城に収められていた多くの宝物や清朝皇帝から琉球国王 に下賜された御書扁額、その他の文物は、中城御殿に持ち込まれたが、王府中枢の評定所 文書などは政府に没収された。その後、尚家では祭祀道具以外の不要品は、数回にわたり 売り立て会を開き処分されたともいう (3) 。 2.大正期の首里―尚順の美術コレクションー 先述の秋山謙藏と同じ 1924(大正 13)年、沖縄を訪れた建築家伊東忠太は、琉球の建 造物に心を奪われた。それと同時に首里城が荒れ果て貴重な建造物も野ざらしになってい ることに心を痛めた。王城のシンボルである正殿も取り壊し寸前であった。その頃、琉球 美術工芸の研究を進めていた鎌倉芳太郎の助言を受け、伊東忠太はさっそく内務省と連絡 をとり、「取り壊し中止」の電報が発せられる。関係者の尽力で首里城正殿は国宝に指定 されたのである。 ちょうど同じ頃、首里の尚順邸を訪れたドイツ人遺伝学者リヒャルト・ゴールドシュミッ ト博士は、興味深い記録(4)を残している。松山王子・尚順(男爵)に招待され、とってお きの美術工芸品のコレクションを見せてもらったのである。 その邸宅へは美しい門を通っていたるが、その門の背後では老使用人たちが遠慮がち に、物珍しそうに様子をうかがっていた。邸宅はその大きさと材木の豪華さで他の琉 球の家屋と異なっていた。古い石燈籠のある美しい小さな庭をもつ第一の内庭には接 待館があり、その建物は和風と中国式の折衷で、裏庭にある住宅や管理事務所とは完 全に分離されている。中央の間は畳が敷かれた大きな和風の部屋であるが、壁は非常 に高く、美しい木の化粧張りがほどこされ、とてつもなく大きな床の間で飾られてい る。(中略)小さな隣室には昔の琉球芸術の大きくはないが美しい収集品が陳列され ていた。その側には、日本のばあいでは重要な位置を占めているはずの武器類がまっ たくないのが特に目をひいた。実際に島の人びとは何百年来、武器を手にすることが なかったのである。まさに、彼らは東洋で最も平和的な民族だった。(中略)丘の斜 面をおおっている美しい大きな庭は、石垣、急斜面、あるいは茂みによって各々分け られ、これら個々の庭は小さな池やヤシ群、巨樹、古い石燈籠などによってその個性 的な趣をかもし出している。また、数個所に洗練された和風の小さな家があり、それ らは古い芸術品で満たされている。 (3) 鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店、1982 年 (4) R・ゴールドシュミット/平良研一、中村哲勝訳『大正時代の沖縄』琉球新報社、1981 年、96 ~ 99 頁
尚家邸の客間の和室に「大きな床の間」がある。その隣室や和風建築の数寄屋らしき建 物に「古い美術品」が陳列されていたことがわかる。中庭の「古い石燈籠」といえば、鎌 倉芳太郎の撮影した「中城御殿」の庭園の写真にも見える(『沖縄文化の遺宝』)。 ここで注目すべきは、次のくだりである。「琉球式の本館は、枝ぶりのよい老樹の間の 最も高い所にあり、部屋は数多くの琉球・中国産の美術品を蔵している。なかでも素晴ら しい明時代の絵が、どこか物悲し気に欧風の籐椅子を見下ろしている風情が印象深い」。 ドイツ人が鑑賞した「明時代の絵」には、いったい何が描かれていたのだろうか。残念 ながら戦禍で失われた今では知る由もない。 ちなみに 1940(昭和 15)年、大阪の高島屋で「尚順男爵家 御所蔵品展観」が開催された。 高島屋の挨拶文によると、「尚順男爵家においては戦時下の沖縄県下産業開発の資に充て る目的を以て、永年の秘蔵品を展観即売する運びに至った」と述べる。注目すべきは、「三百 年来中国、朝鮮、安南等より使臣派遣による伝来品、徳川将軍家との親交、贈物による茶 器、彫硯をはじめ、琉球芸術の粋、紅型に至るまでそれぞれを一堂に」展示したと記して いる。例のドイツ人が見た「明時代の絵」は出展されたのかどうか、高島屋の展観目録で は定かでないが、アジア諸国との交流にまつわる尚家の「伝来品」を含め、尚順コレクショ ンの大半もまた戦火で失われたのは誠に残念である。 3.戦時下の首里の状況について 1931 年の満州事変、37 年の日中戦争開始をへて、太平洋戦争から「沖縄戦」へと突入 していく。1941(昭和 16)年 12 月8日、米英との開戦を告げる昭和天皇の詔勅がラジオ で放送された。「天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、あきらかに 忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕ここに米国及び英国に対して戦いを宣す。朕が陸海将兵は 全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々その本 分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからんこと を期せよ」と(原文の片カナはひらがなに、漢字の一部はかな書きに改めた)。 この詔勅は、毎年 12 月8日の「大詔奉戴日」と各月8日に役所や学校で読み上げられ、 戦意を鼓舞した。だが、1942(昭和 17)年6月ミッドウェー海戦の大敗後、戦局はしだい に悪化し、翌年夏から沖縄島・伊江島・南大東島・宮古島・石垣島など十数カ所で軍用飛 行場の建設がはじまった。居住区や耕作地を問わず強制的に収用され、女学生たちも飛行 場建設や壕掘りに動員された。1944 年3月、第三十二軍(沖縄守備軍)が編成されると、 中国大陸や日本本土から続々と部隊が移駐してきた。兵舎として学校や公民館などの公共 施設が提供されただけでなく、民間の生活資材・食料・家畜も軍需物資として徴発された。
同年 10 月 10 日、米軍機の大規模な空爆(十・十空襲)によって那覇の街は灰燼に帰し た。県庁も焼け、泉守紀知事は慌てて普天間宮の洞窟に避難した。被害状況の視察どころか、 惨憺たる市民の生活さえ知ろうとせず、防空壕に籠ったままだったという。 一方、首里の街にあふれる軍人の動静について、市民たちの生々しい証言が残されてい る(5)。戦時下の首里の状況を物語る市民たちの重要な証言に、しばらく耳を傾けてみよう。 (下線および〔 〕は筆者) 司会 大詔奉戴日は何かありましたか。 宇良〔首里市役所職員〕 毎月八日の大詔奉戴日には、朝早く市長はじめ全職員は、〔首 里城内の〕沖縄神社に参拝し、戦勝祈願をしました。そして役所に全員行き、整列して市 長が読む詔書を聞いてから解散して家に帰りました。(中略) 司会 軍隊が、公共建物、つまり学校、それから民家に入っていたもようですが。 与儀〔当蔵町の開業医〕 そうです。学校は全部軍隊が入っていました。また民家の大 きい住宅はほとんど将校宿舎などにとられていましたね。 宇良 軍司令部は師範学校に入り、県立首里高女には砲兵旅団司令部になっていました。 野崎〔昭和高女講師)〕 与儀先生のいわれたように、民家の大きい家は将校宿舎か宴会 場、あるいは将校俱楽部として軍隊にとられました。私の家も大きかったので宴会場にな りましたし、高原医院の場合は、内部を全部改造し、小さな部屋をたくさん作って慰安所 にしていました。(中略)私の場合は、自分の家の片隅に住むどころか、軍が使うから出 て行けと一方的ですよ。仕方がなかったので、城内食堂(首里城)に荷物を運び、そこに 住んでいたのです。とにかく軍の横暴は、それはひどいものでした。(中略) 司会 慰安婦のことですが、その人たちは、慰安所にいたのですか。それとも何処か一 カ所に集められていて、そこに通っていたのですか。 野崎 辻の女もいたし、朝鮮の女もいましたね。その女たちは慰安所にいたようでした。 宇良 将校倶楽部とは名目で、裏ではそのようなことをやっていましたね。宴会場では 将校らが酒をのんで夜中の二時三時まで、どんちゃん騒ぎをやって、それが毎夜の如く全 く傍若無人の振る舞いでしたなあ。(中略) 佐久本〔酒造家〕 崎山の「御嶽」に軍用犬をたくさんつないでいましたね。それから 崎山のクラブにも、どこの隊だかは分らなかったが大勢いました。(中略) 司会 〔米軍機の来襲で〕住民が銃弾などでやられた方もいたと思いますが宇良さんど (5) 座談会「軍人であふれた城下町」(『那覇市史 資料篇第3巻7 市民の戦時・戦後体験記1(戦時篇)』 那覇市、1981 年、549 ~ 558 頁)
うでしたか。 宇良 大勢いました。はじめのうちは軍から下士官が役所にきて、部隊の壕近くに非戦 闘員(一般住民)が倒れているから役所で引き取ってもらいたい、といってきました。市 長は警防団にその〔遺体〕引き取りを依頼したところ、それを引き取る理由はない、と断 わられ、市長〔仲吉良光〕はかんかんに怒っていました。仕方がないので、夜になってから、 小使をつれて、われわれが行って処理したものでした。それからはもう〔危険で〕行きま せんでしたが……とにかく毎日のように銃弾で死ぬ人がいました。 そんなこともありましたが、警防団員はよく働いていましたね。学校の教員をしていた 平敷善徳氏などは警防団の幹部になって、中城御殿の屋根に登って対空監視をしていまし た。爆弾にやられた電柱や電線が道路上に散乱し、輸送の車が通れないということで、そ れを片づけたり、爆撃で穴のあいた道路を埋めるなどの作業は警防団がやっていましたね。 もちろん軍の命令でしたが、そのようにして懸命に軍に協力し、警防団の分団長、副団長 が四、五名も死にましたですね。(中略) 野崎 壕といえば、虎頭山には大きな壕があってそこには首里の石垣ばかりを片っぱし から崩す部隊がいましたね。私の実家の門の石垣は、一つの大きな石でしたが崩し屋の防 衛隊員らがその石を割ろうとしていたのを見て、こんな立派な石はそのまま残してくれと 頼み、何とか割らずに済んだこともありました。 宇良 その石はですね。昭和十九年末ごろから今の石嶺の盲学校の下からずっと厚生園 に向けて飛行場を作るということで、その基礎作りに使われていました。四十歳台の山原 (北部)出身がほとんどで、慣れない皮靴を履いてびっこを引いて崩した石を運んでいた のが印象にあります。 与儀 御殿、殿内の立派な石垣もあのときに崩されましたね。(中略) これらの証言から「従軍慰安婦」と日本軍との密接なかかわりは明らかである。また、 軍用飛行場建設のため、首里の民家の「石垣」を片っ端から崩す専門部隊がいたことも貴 重な証言である。三司官蔡温ゆかりの屋敷(赤平町)などの石垣も、その時に崩された。 〇中城御殿、爆撃される 米軍機による中城御殿の空爆は、米軍上陸前の 3 月下旬であった。『沖縄戦と戦後体験記』 (私家版、2014 年)の中で真栄平房敬は当時の見聞体験について、次のように回想している。 昭和 20 年3月 27 日、空襲警報はまだ解除されていなかったが、敵機も飛び去り、やや 静かになったので防空壕を出て、わが家の縁側で休んでいると、「キヨ姉」が西方を見て、
「あれあれ」と叫んだ。見ると中城御殿の上空に反物が高く、ゆらゆらと舞い上がっていた。 敵機が飛び去るのも見えた。「あぁ、中城御殿だ」と叫んだ。御内原の織女たちがいつも織っ ている布だと直感した。 急いで中城御殿へ行くと、薄暗い中に御内原の北(にし)之御殿には今帰仁延子様(尚 典侯長女)と令息の朝秀さんがいた。履物をぬいで上がろうとすると、「危ないですよ、 ガラスが……」と朝秀さんが言われた。爆撃でガラス障子が壊されているせいだと思い、 恐る恐る履物のまま上がった。(中略)延子様が「ウナ-カイヨ-、イチャサヌ」と言われ、 爆風で障子などが粉々に破壊されている様子を見た。僕(真栄平)もそれを見て爆風の凄 さがわかった。 やがて尚家職員の仲田朝潔さんが参上し、「御殿(ウドゥヌン)カイン、ウティト-イ ビ-サヤ-」(御殿にも爆弾が落ちていますね)と嘆いておられた。奥へ進むと「司雲上 按司の居間」近くに爆弾が落ち、御内原で織っていた布が飛ばされていることもわかった。 司雲上按司大里のアット-メーは幸い去る2月下旬、神職の知念呉勢老女に付き添われて 山原の羽地へ疎開された後であったので、危く難を免れたという。 〇中城御殿の防空壕 その翌日、佐久真正文家扶(のちに摩文仁で戦死)はじめ、花城清安(戦死)、美里安 資(戦死)、仲真朝信夫妻(戦死)と共に中城御殿の防空壕に避難した。その壕の奥には「御 寝廟殿の御位牌の御札」が筒に移されて安置され、御内原の御玄関勤めの翁長のアヤ-と、 「童お仕え」の多嘉良清子がお守りしていた。艦砲射撃が日増しに烈しくなり始めると、「聞 得大君御殿の御神像(軸物)」もこの壕の奥へ移された。この防空壕は、「上之御殿」(ウィー ヌウドゥン)と呼ばれる独立した建物の地下の分厚い岩盤の下にあった。幅3尺位、天井 の高さは大人がかがんで通れる位、両側は石積みされ、底も石敷きされていた。 4.首里をめぐる攻防戦 次に、首里攻防戦について日米の戦記類をもとに略述する。最初の死闘が繰り広げられ たのは、嘉数から西原にかけての丘陵地帯である。首里の前衛にあたる嘉数陣地が陥落す れば、首里城地下の日本軍司令部方面への進路が開ける。4月 20 日、米国第二十四軍団ホッ ジ少将は、いかなる手段を講じ、いかなる犠牲を払っても嘉数高地を占領するよう厳命し た。しかし、日本軍の反撃も凄まじく、米軍精鋭部隊も一日に 4、50 メートル前進するの が精一杯だった。結局、米軍が嘉数高地の完全制圧に成功したのは一カ月後である。 一方、首里陣地の正面を攻撃したのは第九十六師団だが、堅固なトーチカに拠る日本軍
を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の兵士 を外に駆り出すには土を深く掘り起こすような容赦のない砲爆撃を加えるしかないと考え た。そこで、米軍は通常の砲爆弾のほか、新兵器のナパーム弾やロケット砲などを日本軍 陣地に容赦なく浴びせた。この猛爆により与那原から首里にかけて一面焼け野原となった。 4月 24 日、軍司令官牛島中将は、首里の住民に対し南部島尻への総撤退を命じた。当 時の首里市長仲吉良光は、戦火の中で連絡に奔走する人びとの様子を、こう記している。 「今夜中に出発せよとの強行命令通知書を携えた役所員、翼賛青年会員数十名は艦砲落 下、爆弾爆発して天地鳴動、岩石飛び、樹木や砂塵舞上り、諸所の火災で真赤に爛ただれた市 中を、石ころ火の粉を浴びつつ、全市民が潜伏せる各所の壕の一つ一つに大声で命令を伝 えて廻った。この四、五日戦争は高潮に達し、首里に流れる艦砲も度数を増す(中略)平 良坂を降りて儀保大通りには、後送される負傷兵の数も日増しにふえていった。血だらけ になって帰って来る兵士、両足ともなくなって、担架にかつがれて行く者、白衣を真赤に 染めて、負傷兵を背負わんばかりにいたわって行く女学生看護婦の幾群かが、惨めな姿で 後退する風景」である。 その数日前、首里桃原町に布陣せる石部隊の「参謀長」は、「誓って首里には侵入させ ない」と、強気の手紙を仲吉市長に送っていた。だが、実際は軍上層部の過信とはうらは らに、米軍上陸前の3月下旬には中城御殿も砲撃を浴びていた。「石垣と台所に飛弾を受 けて滅茶苦茶になった尚侯爵邸」に、仲吉市長が助役らを連れて見舞いに訪れ、米軍が北 谷海岸に上陸した4月1日の夕刻から、中城・浦添・西原の避難民が、なだれを打って首 里に雲集した。鍋や釜を下げ、乳飲み子を背負った女たち、食料袋を担いで老父母をいた わりつつ、避難民の群が儀保大通りを小走りに急ぐ(6)。 こうした状況下で5月1日夕方、砲撃の炸裂音が絶え間なく響くなか、わずかの食料と 非常袋を肩にかけ、真栄平房敬は次兄(のちに戦死)とともに防空壕を出て島尻東風平へ と避難していった。「一寸先のわが命も知らない地獄の道を歩んでいるような心境であっ た」と述懐している(『沖縄戦と戦後体験記』)。 以上にみた光景は、悲惨な地上戦の「前史」にすぎない。5月4日の午前5時前、米軍 第二十四陸軍砲兵隊員は、首里防衛戦線上に位置する二つの集落付近から火の玉が高々と 打ち上げられるのを目撃した。それを合図に守備軍は米軍陣地に向け砲撃を開始した。そ の砲撃の凄まじさは、米兵がそれまでに体験したことのないほどのものだった。しかし、 (6) 仲吉良光「艦砲下の首里落ち」(『おきなわ』第 1 巻第 4 号、昭和 25 年 7 月発行)
米軍も即座に反撃に転じ、午前8時頃までには日本軍の攻撃をほぼ鎮圧した。翌5日、牛 島満中将は首里城地下壕内で、八原博通高級参謀に攻撃中止を命じた。総攻撃の失敗を認 め、さらなる自陣の損害を食い止めるための決断だった。 米軍が「シュガー・ローフ」と呼んだ小さな丘(現:おもろまち駅周辺)をめぐる攻防 戦の激しさは戦史に特筆される。この丘が日米どちらにとっても戦略拠点になっていたた め、米第六海兵師団は一挙にその地を占拠しようと、多数の戦車で攻め立てた。しかし、 首里の西方に位置するこの丘陵地を失えば、司令部陣地がたちまち危機に瀕するので、日 本軍も第六十二師団と独立混成第四十四旅団の一部を配置し、同地を死守する構えにでた。 兵士たちは爆雷を抱えて洞穴陣地から飛び出し、攻め寄せる米軍戦車や砲兵隊に向かって 突入、体当たり攻撃した。死闘の末、5月 18 日にその丘は米軍に制圧された。 第六海兵師団主力部隊は、さらに首里北側の沢岻および大名方面へ進撃した。爆雷や火 焔放射器からロケット砲、ナパーム弾などあらゆる火器が動員され、守備軍陣地は陥落し た。石嶺高地の攻略では米軍も多く死傷し、129 人のある部隊は生存者が 30 人、交替要員 として派遣された 58 人の小隊などは、わずかに3人が生還しただけだったという。それ でも首里の守備軍司令部に迫ってきた米軍は石嶺高地を占拠し、いよいよ司令部に直撃弾 を浴びせはじめた。首里の陥落はもはや時間の問題となった。 5月 21 日、肉迫する米軍を前にしてもはや万策尽きた守備軍首脳部は、首里で玉砕す る覚悟を固めつつあった。ところが、八原高級参謀は、首里を脱出して南部の喜屋武岬方 面への撤退を画策していた(7)。司令官牛島は、「残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、 最後の一人まで、そして沖縄の島の涯、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である。 今後は一切を貴官に委せる」と、八原に告げたという。結局、日本軍は多くの一般住民を 巻き込んだまま南部に撤退し、消耗持久戦を続けた。その結果、十万人を超える民間人犠 牲者を出すことになった軍首脳の責任はきわめて重大である。 5月 22 日夜の軍団長会議で、第六十二師団の上野参謀長は配下の将兵の大部分が首里 戦線で戦死したうえ、首里洞窟陣内には後送困難な何千人もの重傷者がいるので、最後ま で首里で戦うべきだと、長勇参謀総長寄りの意見を述べた。この会議に同席していた島田 叡知事は、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せずに摩文仁に撤退し、住民を 道連れにするのは愚策である」と異論を唱えた。しかし牛島司令官は、「第三十二軍の使 命は本土作戦を一日たりとも有利に導くことだ」と説いて会議を締めくくったという。 当時、那覇署長だった具志堅宗精は、次のような証言を残している。「島田知事のお伴 をして首里城下の軍司令部壕に二、三回弾丸雨下の中をくぐって軍司令官を訪問したこと (7) 八原博通『沖縄決戦―高級参謀の手記』中公文庫、2015 年
があるが、そのとき幹部候補生出身の坂本副官(大尉)が、私〔具志堅〕を沖縄人と知っ てか知らないでか、私に『沖縄人は全部スパイだ。この戦争に勝ったら、沖縄人全部を打 ち首にしてやる』といったことがある」(8)。 5.廃墟となった首里 首里城とその一帯は日本軍司令部の地下壕 があり、米軍の猛爆撃をうけた。「鉄の暴風」 は、戦前の緑濃い城下町を「死の荒野」に変 えた。首里攻防戦に従軍した米海兵隊員の回 想録がある。海兵隊員のユージン・スレッジ は、まさに「廃墟」と化した古都・首里の様 子を目の当たりにした。 首里城一帯は戦争ですっかり廃墟と化していたとはいえ、もしあの間断なき砲撃でや られていなければさぞかし美しいところだったろうと思われた。城それ自体はさんざ んに破壊されて、前の姿を語るすべもないが、周囲に堀りをめぐらした、テラスや庭 付きの古い石造建造物ではなかったかと思われた。瓦れきの中を歩を運びながら、わ たしは石の階段や切り裂かれ真っ黒に焦げた木の株を見た。(中略)この丘は約百ヤ ードほどの高さで、かなり険しく、わたしたちがいるところもあまり幅のない、いた だきになっていた。周辺には砲弾に吹っ飛ばされ、バラバラになった日本軍の雑のう とか鉄かぶと、その他の装備品が散乱している。付近のようすからいっても、長い間 米軍の砲撃にさらされていたであろうことは容易に推察がいった。 丘の上は臭気でいっぱいだった。日本軍がここで米軍の砲兵隊に殺されたにちがいな かった。というのは空気が腐乱死体のにおいで汚濁されていたからである (9) 。 米軍人の眼から凄惨でリアルな戦場跡の様子を伝えている。だが、そこには住民の姿は どこにも見えない。住民による「戦時体験」座談会に話を戻そう (10) 。 司会 〔首里市職員〕宇良さん、艦砲が首里に打ちこまれたときのお話を願います。 宇良 首里市の壕が西森〔現:儀保町〕の方にもあったのですが、そこから那覇港外を (8) 具志堅宗精『なにくそやるぞ―具志堅宗精自伝』琉鵬会、1965 年、92 頁 (9) E.B.スレッジ/外間正四郎訳『泥と炎の沖縄戦』琉球新報社、1991 年、232 ~ 233 頁 (10) 注5同書 549 ~ 558 頁 図2 焼け落ちた首里の街(沖縄県公文書館所蔵)
見たら、米軍艦が一杯いましたね。午後五時を過ぎると全部水平線の彼方に引き揚げ、翌 朝また那覇港外にくるといった調子でした。私は望遠鏡で那覇港外にいた米艦を見ていた んですが、三月下旬というのに上半身裸になった兵隊らが甲板上を往ったり来たりしてい ました。戦争をしている最中、しかも未だ寒いのに、とびっくりしたのを覚えています。 たしか首里がやられるちょっと前だったと思います。 首里の当蔵が艦砲にやられたとき、那覇市役所の島袋収入役が西森の壕に避難してきて、 市民に配給するマッチとローソクを泊のハーリーヤー(ハーリー船を保管していた高橋町 ―新屋敷)に置いてあるから、と仲吉市長に話していました。そこで、私たち四、五名の 職員は、その品物を取りにそこに行くことになり、途中、桃原にあった県立首里高女付近 にきたとき、艦砲がきたのです。わたしたちは四散し近くの壕の中に隠れたことがありま した。そしてしばらくして南部〔島尻〕の方に退っていきました。 司会 首里城などが焼けたのは何月ごろですか。 浜比嘉〔国民学校教頭〕 尚家、円覚寺、そして首里城が焼けたのは五月下旬だったと 思います。 宇良 首里城が燃えていたときに、役所は未だ首里から退いていなかったのですが、〔仲 吉〕市長はなんとか消されんものかといっていたのを覚えています。 日本軍司令部は首里城の地下にあったため米軍の攻撃目標となり、城は激しい砲爆撃を 浴び炎上した。当時、首里高等女学校生徒の看護隊宮城正子は「首里城が三日三晩、紅蓮 の炎で空を真つ赤にこがして燃え続けているのを見た時、自分達の前途を暗示しているよ うで、涙が出て来てどうしようもなかった」と回想している。同じく野戦病院に動員され た生徒の比嘉スエ子は、迫撃砲弾の破片で大腿部貫通の重傷で伏せている間に血が逆流し て頭の方に流れ、「三つ編みを絞っても絞っても血が垂れ落ちた」という(11)。 「中城御殿」の状況は、先の座談会で語っているように、米軍上陸前は首里市の警防団 が屋根に登って「対空監視」をした。これは他の記録にはない貴重な証言といえよう。また、 近くの防空壕で避難生活を送った伊地朝義(元教員・首里市図書館長)が壕内で書きしる した「日記(12)」の一部を、つぎに抄出する。 〇四月二十五日 艦砲頭上ニ破レツス、夜悪寒アリ気管支カタル 〇五月一日 バクゲキ本日モ甚シク、大中町ノ家屋殆ンド倒クワイス、午後七時、新田 (11)『首里高女の乙女たち』瑞泉同窓会、1991 年 (12)「戦時資料・沖縄戦 非戦闘員の首里壕内日記」(『那覇市史 資料篇 第2巻中の6』那覇市役所、 1974 年、447 ~ 449 頁)
保正、新垣ノ屋敷内ニテ仮埋葬ス(後略) 〇五月十日 昼夜バクゲキハゲシ、基(息子)ハ間断ナクセキス、壕生活服ヤクモ出来 ズ。起居モ不自由不潔ナル空気ノ中ニアリテ、洵まことニ気ノ毒ナリ声モカレテ出ズ、之モ 戦争ノ犠牲カ、(後略) 〇五月二十日 未明ヨリ砲声殷々ト耳朶ヲ打ツ、音ノ大小高低サク烈ノ強弱今ハ之モ平 気トナリ、バク風颯トカスメ去ルモ気ニナラズ、只夜間暗中仰臥シテ夢ヲ結バントス ルトキ、壕壁ニ砲弾コツント強ク当リ、地響バク風ト共ニ天井ヨリ石粉落チテ、顔面 ニ当ルノニハ不愉快ダ。大キナ奴ガ落チタラ、南無阿弥陀仏ダ。 この日記から中城御殿の所在地「大中町」の家々は、少なくとも5月初めには壊滅状態 に近いことが推測できる。戦時中、「尚家の建物の一部が日本軍の作戦参謀長野英夫少佐 の宿舎」になっていた。「御殿が全焼した翌日(日付不明)、日本軍からお屋敷を機関銃陣 地にするから防空壕も明け渡して立ち退くよう命令された」と、真栄平房敬は証言している。 米軍が首里を占領したのは、5月下旬。この時点で、日本軍は戦力の8割を喪失していた。 伊地朝義は5月 30 日の日記に「宅の近ペン惨害甚シ、兵ノ死体今日モ摩文仁君ノ門ニアリ」、 翌6月1日に防空壕に「米兵五人」が来て捕虜となったと記される。 6月以降、南部戦線での戦闘に巻き込まれた沖縄住民の被害は甚大であった。住民は日 本軍と米軍との板挟みにあって敵前に放置されたり、また戦闘の支障になるとの理由で日 本軍に「自決」を強要されたり、さらには殺害されたりした。戦後、こうした住民の悲劇 が明らかになるにつれ、沖縄戦における日本軍の実態と、日本の軍隊がけっして自国民を 守ることを目的としたものでないという軍自体の本質が暴露された(13)。 尚家の家政をとりしきる家扶の佐久真正文や職員たちも大半が戦死した。真栄平房敬も 弾雨のなかで負傷して島尻の戦場を転々とさまよい、6 月 23 日に摩文仁の海岸で捕虜とな る。 知念半島の民間人収容所から 10 月 30 日に解放された後、真栄平は家族の安否を訪ね歩 いたが、まったく消息不明であった。のちに肉親6名の戦死を知る。翌年3月3日の日誌に、 「われは筆舌につくしがたき烈しき戦の最中、生き地獄の中にありて一旦死を決せし者な れど、不可思議なる神の御手によりて救い出された」と、九死に一生を得た戦争体験を記す。 翌年、首里のふるさとに帰ってみると、一面真っ白な瓦礫と化した首里城の廃墟には「星 条旗」が風に翻っていた。その光景を見た時、ありし日の首里城の姿を思い、戦さ世のは (13) 詳しくは『沖縄県史 第9巻 各論編8 沖縄戦記録1』(琉球政府、1971 年)、『沖縄県史 第 10 巻 各論編9 沖縄戦記録2』(沖縄県教育委員会 1974 年)、各自治体史の戦争記録のほか以下の文献 を参照。藤原彰編『沖縄戦―国土が戦場になったとき』青木書店、1987 年、石原昌家『証言沖縄戦― 戦場の光景』青木書店、1984 年、林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001 年
かなさを痛切に感じたという。 6.戦後史の視点から 1949 年 11 月、米民政府が編纂した「琉球列島の占領に関する報告書」に、戦争と文化 財破壊について述べた部分がある。以下に抄録したい。 「文化財については戦争の被害が全域にまたがり、なかでも文化財が集中的にある首 里、那覇の両市が徹底的に破壊されたため、美術品や文化財はほとんど消滅してしまっ た。沖縄本島ではわずかに2つの大きな神社が残ったが、それもひどい損壊をこうむっ た。収集家として名高い尚順男爵のコレクションも含めて」ほとんどすべて失われた (14) 。 沖縄戦で「中城御殿」は壊滅した。終戦直後は多くの一時引揚者らが焼け跡にバラック を建て滞在する。その後も首里市役所や首里バス会社のほか、琉球政府立博物館などが建 設された。県立博物館の移転後、2008 年度から本格的な発掘調査が始まった。その調査報 告書から、遺構の状況を大づかみに見てみよう (15) 。 敷地のほぼ中央を南北に縦断して設けたロングトレンチでは、一部で側溝や基壇と思わ れる遺構が断片的に検出されたものの、「多くは沖縄戦により被弾したと思われる痕跡」 が確認された。遺物の量は収納コンテナで総計 91 箱、約2万点に及ぶ遺物が出土している。 その内容は多岐にわたる。中城御殿が 1870 年に建てられたこともあり、近世以降の遺物 が大半を占めるが、中には「15 世紀前後の輸入陶磁器」も含まれる。御殿造営時の盛り土 に混入したものか、あるいは王家古来の伝世品という可能性が考えられる。また、王府の 祭祀道具とみられる「青銅製の耳杯」や膨大な量の「ガラス玉」等も出土した。 明・清代の中国産陶磁器をはじめ、タイ・ミャンマー産のほか、ヨーロッパ産陶器(器 種は皿、鉢、瓶など)の破片も総計 640 点出土している。日本産では肥前・瀬戸・美濃、 砥部産など、産地・年代ともに幅広い遺物が検出された。これらの一部は二次的に被熱を 受けている上に、細かく破砕した状態で出土していることから、「戦災の激しい被害」を 受けたとみられる。
(14)Political,Social and Economic Report of The Ryukyus Islands for The Secretary of War;「琉球列島の政治・社 会・経済に関する陸軍長官への報告書」(『沖縄県史 研究叢書 16 琉球列島の占領に関する報告書(原 文・和訳)』沖縄県教育委員会、2006 年、51 頁)
(15) 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第 58 集『中城御殿跡―県営首里城公園 中城御殿跡発掘 調査報告書(2)』沖縄県立埋蔵文化財センター、2011 年、277 ~ 278 頁
結びにかえて-出土した王家の位牌― 中城御殿跡から金属製の缶に収められた状態で、木製朱塗りの大きな「位牌」(図3) が出土している。この位牌の存在は、廃藩置県以降に首里城やその他の御殿から中城御殿 に多量の宝物類や祭壇などを持ち込んだことに関連するとみられる(16)。 調査報告書によれば、戦時中の緊急措置として屋敷の「暗渠内」に避難させた文物の 一部と推測されるこの位牌は、緻密な彫刻がされた上に「銅箔・金箔」が施される(図 4)。左右の枠の意匠は「鳳凰と瑞雲」、枠上部には「日輪・瑞雲」や雨・蓮弁が彫刻される。 王家の石碑に特有の日輪、鳳凰文様との類似から、王家の位牌とみてよいだろう。科学分 析の結果、木胎部はヒノキ科を用い、漆は「水銀朱で中国産」を使用していることが判明 した。当初は厨子のような箱に収められていたものと想定されている。 小論の冒頭に紹介した「海表恭藩」の石印と同じく部分的に破損しているものの、戦災 を辛うじて生き延び、今日にその姿を現した数少ない王家ゆかりの遺品といえよう。 (16) 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第 63 集『中城御殿跡―県営首里城公園 中城御殿跡発掘 調査報告書(3)―』(沖縄県立埋蔵文化財センター、2012 年)、山本正昭「近代の中城御殿について ―これまでの発掘調査成果からの考察―」(『琉大史学』第 18 号、2016 年 10 月)参照。 図3 缶に入った状態で発見さ れた『位牌』(沖縄県立埋蔵 文化財センター蔵) 図4 『位牌』(沖縄県立埋蔵文化財センター蔵)