序論
本稿の目的は総裁政府期に五百人会の植民地部会(commission des colonies)の代表とな って活躍した、ジョゼフ・エシャセリオ(Joseph ESCHASSERIAUX)の植民地論の検討で ある。『フランス議員事典』によれば1 、エシャセリオは 1753 年 7 月 29 日にシャラント= アンフェリウール県のコルム=ロイヤル(Corme-Royal)で生まれた。1775 年にボルドー高 等法院付きの弁護士となった。1790 年から県行政に参加し、1791 年には立法議会に選出 され、その後、国民公会議員となった。山岳派に属し、国王の処刑に賛成した。テルミド ール 9 日(1794 年 7 月 27 日)にはロベスピエールに反対した。1794 年 7 月 31 日から 11 月 4 日まで公安委員会に属した。総裁政府期には五百人会議員となった。ネオ=ジャコ バンに近かったが2 、どちらかと言えば「穏健な」民主共和派であった3 。統領政府期には 護民院議員となった。1803 年、レジョン・ドヌール勲章を受けた。1806 年から 1809 年 までイタリアの駐ルッカ・ピオンビーノ公国(Principauté de Lucques et de Piombino)全 権大使となった。百日天下時には帝国諸憲法付加法に署名した。1816 年から 1819 年まで ベルギーで亡命生活を送った後、帰国して 1823 年 2 月 24 日にテナク(Thénac)で死んだ。 ベリサはヨーロッパの国際秩序に関する研究の中で、エシャセリオが民族自立と自由貿 易の原理に基づく、フランスを中心としたヨーロッパ諸国家間の連帯の必要を訴えたこと を明らかにした。ただベリサは植民地争奪戦争の問題に言及してはいるものの4 、主な関心 はヨーロッパの国際政治であって植民地問題ではない。 一方、総裁政府期の植民地問題に関してはゲノの研究が大事である5 。彼の研究成果で特
1 Adolphe ROBER T, Edgar BOURLOTON et Gaston COUGNY, Dictionnaire des
parlementaires français comprenant tous les membres des assemblées françaises et tous les ministres français, Paris, 1891, p.561
2 Marc BELISSA, Repenser l’ordre européen (1795-1802), De la société des rois aux droits des
nations, Paris, 2006, p.151.
3 Ibid., p.174. 4 Ibid., p.216, p.388.
5 Bernard GAINOT, « Bottu, “Le Républicain des Colonies” (1797) », Annales Historiques de
la Révolution française, Nos. 293-294, 1993 ; Idem, « La naissance des départements
d’Outre-Mer. La loi du 1er janvier 1798 », Revue des Mascareignes, N° 1, 1999 ; Idem, « Un projet avorté
d’intégration républicaine. L’institution nationale des colonies (1797-1802) », Dix-huitième
siècle, N°32, 2000 ; Idem, « La Décade et la “colonisation nouvelle” », Annales Historiques de la Révolution française, N° 339, 2005 ; Idem, L’Empire colonial français de Richelieu à Napoléon, Paris, 2015 ; Idem, La Révolution des esclaves. Haïti, 1763-1803, Paris, 2017.
フランス革命期におけるエシャセリオの植民地論
―民族自立・自由貿易・持続的平和―
に重要なのは、総裁政府期の共和派が 1794 年 2 月の奴隷解放宣言6の精神を確実に継承し、 既存の植民地と本国の間に法的平等(isonomie)を設けつつ7 、搾取と暴力に基づかない新し い植民地の建設を構想していた事実を指摘した点である。かくしてゲノは、共和派にとっ て 1794 年 2 月の奴隷解放宣言は決して軍事的危機を克服するためだけの、その場しのぎ の政策ではなかったと主張した8 。このようなゲノの研究に導かれ、総裁政府期の植民地論 に関する分析が盛んになった9 。しかしながら未だエシャセリオだけに焦点をあてた研究は ない。それゆえ本稿ではエシャセリオのヨーロッパ外交論に関しては部分的に言及するに とどめ、主にエシャセリオの植民地論をゲノの研究成果を尊重しつつ検討する。 ところで日本の先行研究に関して言えば、浜忠雄氏のハイチ革命研究が有名だが、総裁 政府期については詳しくない10 。本稿はこの研究史の欠落を部分的に埋めるだろう。 さて本稿で特にエシャセリオに焦点を合わせるのは、次の 3 つの問題を熟考できると思 うからである。第 1 に人権、民族自立、奴隷制廃止といった、共和政的倫理の位置づけと いう問題がある。それはフランスの経済的繁栄とイギリスに対する軍事的勝利という革命 期の他の政治目標といかなる関係にあったのだろうか。これを考えるとき、示唆に富むの がウダン=バスティドとステネルの研究である。彼らによれば、18 世紀から 19 世紀のフ ランス人の思考様式の特徴は、倫理と経済を不可分で連動するものとして認識していた点 にある。例えば奴隷制廃止論者は、奴隷よりも自由な労働者の方が生産性が高いと思って いたので、倫理的にふるまって奴隷制を廃止すれば経済的利益がもたらされ、経済的利益 を追求すれば倫理的にふるまい奴隷制を廃止することになると考えた11 。さて国際関係に 関して言えば、倫理と経済そして安全保障の 3 要素が不可分で相互補完的なシステムを作 ると同時代人は認識していたと思われる。実際、革命前の植民地体制は、奴隷制を認める 倫理観・保護貿易・海軍の好戦主義から成るシステムであった。カトリック教会が容認し た奴隷制12 が植民地産業を支え、その収益を独占した本国が植民地争奪戦争を続けた。こ
6 1794 年 2 月の奴隷解放宣言に関しては、次の論文を参照。Pierre SERNA, « Que s’est-il dit à la Convention les 15, 16 et 17 pluviôse an II ? Ou lorsque la naissance de la citoyenneté universelle provoque l’invention du “crime de lèse-humanité” », La Révolution française. Cahiers de l’Institut
d’histoire de la Révolution française, 2014. (http ://journals.openedition.org/lrf :1208)
7 「植民地」という言葉を廃止しようという議論まであったという。GAINOT, « Métropole/ Colonies. Projets constitutionnels et rapports de forces. 1798-1802 » dans Yves BENOT et Marcel DORIGNY (dir.), Rétablissement de l’esclavage dans les colonies françaises. Aux origines
de Haïti, Paris, 2003, p.19.
8 GAINOT, L’Empire colonial français de Richelieu à Napoléon, p.144.
9 Baptiste BIANCARDINI, « L’opinion coloniale et la question de la relance de Saint-Domingue 1795-1802 », Annales Historiques de la Révolution française, N° 382, 2015. 西願広望「フランス革命
期の植民地主義者―事例研究マルエとバルベ=マルボワ」『日仏歴史学会会報』33 号(2018 年)。
10 浜忠雄『ハイチ革命とフランス革命』(北海道大学図書刊行会、1998 年)。同『カリブ 海からの問い―ハイチ革命と近代世界』(岩波書店、2003 年)。
11 Caroline OUDIN-BASTIDE et Philippe STEINER, Calcul et Morale, Coûts de l’esclavage et
valeur de l’émancipation (XVIIIe-XIXe siècle), Paris, 2015.
12 Jean EHRARD, Lumières et Esclavage, L’Esclavage colonial et l’opinion publique en France
の古いシステムを、後に詳述するように、エシャセリオは民族自立・自由貿易・持続的平 和(paix durable) 13から成る新しいシステムに変えようとした。とりわけ 1794 年以降、ヨ ーロッパ戦線でのフランス軍の勝利が新しい国際体制の構築を可能にしたとき、エシャセ リオは、互いの内政を尊重する諸国家が、自由貿易によって繁栄して、安全保障同盟を結 んで持続的平和を可能にするシステムを望んで、植民地もその新しい国際体制の枠組みの 中で捉えようとした。結果から見れば、彼が望んだ新しい国際関係システムは実現されな かったが、それでも同時代人が倫理と経済と安全保障を、矛盾するものとしてではなく、 どれも大事で分離できない相互補完的なものとして捉えていたことに注目して当時の言説 を検討することで、今日の歴史家は 21 世紀の国際問題(例えば人権政策で同意できない 国と通商関係または軍事同盟を結ぶことの是非)を考えるさいのヒントを学べよう。 第 2 に奴隷への眼差しが問題となる。エシャセリオを含む 7 人のメンバーから構成され、 マレクが代表となった部会が 1797 年春に出したサン=ドマング島の状況報告には、一部 の元奴隷が白人を絶滅すること(exterminer)を望んでいるという記述がある14 。一方、同 じ年、エシャセリオは島に本国と同一の憲法をしくための法整備をすすめる部会の代表を 務めた。彼がどのようにサン=ドマング島という「アンシャン・レジームの負の遺産」に 対峙したのかを分析しながら、彼の黒人に対する見解を考察したい。 第 3 に新しい植民地が問題となる。近年、新しい植民地計画の研究が進んでいるが15 、 エシャセリオもエジプトに新しい植民地を作ることを望んだ。それはフランスの領域支配 の拡大や搾取を目的としたものではなく、諸文化・諸民族の交流を目的としたものであっ た。彼の計画を分析し、今後の植民地史研究の発展の一助としたい。 本稿の段取りだが、第 1 章では、1794 年秋から 1797 年初めまで、つまりエシャセリオ が植民地問題に政策責任者として本格的に関与する以前、言わば彼が自らの植民地論を形 成する揺籃期を扱う。民族自立と自由貿易と持続的平和を連関させる、彼の思想が提示さ れる。第 2 章では、1797 年の彼のサン=ドマング島政策を検討する。このとき彼は自ら の思想を具体的事案に即して実現させることを迫られた。その様子に注目しつつ、彼が黒 人の市民権を支持したさいの論理を分析する。第 3 章では、1798 年の彼の新しい植民地 建設案を検討し、彼の植民地論が円熟していく様子を扱う。 13 「持続的平和」に関して言えば、1790 年 5 月、侵略戦争放棄の宣言に至る議論の中でペ チヨンが既に主張していた。議論の発端は北米太平洋岸ヌートカ・サウンドの領有をめぐ るイギリスとスペインの紛争にフランスが巻き込まれる懸念が生じたことにある。このと きペチヨンは革命前の時代を諸国王の野心によって戦争が繰り返された「永久戦争 (guerre éternelle)」の時代であったとみなし、今後は宣戦布告・講和の大権を国民のものとするこ とで「持続的平和」を構築すべきだと唱えた。それゆえ持続的平和の希求は革命当初から存 在した思潮であった。Archives parlementaires, T. 15, pp.536-544.
14 MAREC, Rapport fait au nom de la Commission des Colonies Occidentales, sur la situation
de l’isle Saint-Domingue, Séance du 11 Ventôse an 5, s.l., 1797, p.56 et p.96. 黒人の暴力の意味 に関しては次を参照。GAINOT, L’Empire colonial français, p.123.
15 Marcel DORIGNY et Bernard GAINOT (dir.), La colonisation nouvelle (Fin XVIIIe – début
第 1 章 新しい外交をめざして 1794 年秋(共和暦 3 年ヴァンデミエール)、エシャセリオは『外交論』と題する小冊子 を発表し、新しい外交の原理を説いた16 。それは 1794 年 11 月 9 日、官報『モニトゥール』 にも掲載された。既に『モニトゥール』は、1794 年 10 月 24 日、ヨーロッパの安定のた めには、自然国境原理による国境線の再設定、海洋の自由、民族自立が必要だとするデュ シェ(DUCHER)の「生まれ変わる外交」と題する記事を掲載していた。それゆえエシャセ リオの『外交論』の背景に、当時の国際関係の原理をめぐる議論を見ることができる17 。 さてエシャセリオ自身は小冊子冒頭で次のように執筆の動機を説明する。フランス軍が 周辺諸国に進出し、フランスが「世界の自由」を確立しようとしているこのとき、従来の 専制君主の外交をはっきりと否定し、新しい外交の原理を明確にする必要が感じられた。 従ってこの小冊子の前半部分は、「ヨーロッパを苦しめ混乱させ、この広大な地域の諸民 族の血と自由を暴政に売りとばし、更には世界の殆どあらゆる他の地域に隷属と犯罪をもた らし」18 、絶えず戦争を続けてきた、専制君主の旧来の外交への批判にあてられている。そし て小冊子の後半部分で、安定的な平和を構築するためには新しい外交が必要であるとされ、 その外交とは自由を求める諸人民の同盟であるとされ、そしてそのための基盤として民族自 立の原理が大事になると説かれる。エシャセリオは民族自立を次のように説明している。こ の箇所はベリサも既に引用しているが19 、極めて重要だと思うのであらためて引用しよう。「被 征服諸民族を文明化したい、もっと恵まれた政府を作りたい、または彼らに与えたいという 気持ちは、外国の領土への侵略を正当化しない。自衛以外の征服は如何なる法律も許さない 簒奪である。(中略)諸国民の良心はそして後世の人々は、偶像崇拝を打倒して法律と宗教 を与えるという口実で新世界を侵略し破壊した最大級のならず者の犯罪、そして良い秩序の 名のもとにフランスに専制政治を設けるために同盟を結んだならず者の犯罪、そしてポーラ ンドに平和を与えるためにその領土を荒らした卑怯な強奪者を、平等に裁くだろう」20 。注目 すべきは、エシャセリオが、ヨーロッパ人による「新世界」即ち非ヨーロッパ世界を文明化 するための戦争を、対仏大同盟による革命干渉戦争、そしてポーランド分割と並置して同一 視し、否定した点である。民族自立は非ヨーロッパ世界にも適用すべき普遍的原理であった。 そしてこのように主張したすぐ後、まさに同じ頁で、エシャセリオは諸民族の共生の必 要を説いた。「諸国民は人間と同じで、相互の必要によって地理的位置が必然的に生み出す コミュニケーションによって、共生を求められる。野蛮な状態(état barbare)にある民族で 16 ESCHASSERIAUX, De la diplomatie. Des droits des peuples ; des principes qui doivent
diriger un peuple républicain dans ses relations étrangères, s.l., 1794.
17 自然国境原理に関しては、バレール (BARERE) が 1794 年 8 月 10 日に国民公会で唱え たが、これについてはベリサの研究を参照。Marc BELISSA, Fraternité universelle et intérêt
national (1713-1795). Les cosmopolitiques du droit des gens, Paris, 1998, pp.409-413. またバレ ールに関しては次の論文も参照。西願広望「功利主義の戦争文化とバレールの革命戦争論- 世界史再考のために」『日仏歴史学会会報』31 号(2016 年)。
18 ESCHASSERIAUX, De la diplomatie, pp.1-2. 19 BELISSA, Repenser l’ordre européen, p.192. 20 ESCHASSERIAUX, De la diplomatie, p.15.
さえ、隣人と共に行動するのが得策である。(中略)諸国民は互いに孤立し得ない。ある国 民の孤立は他のすべての国民に不幸をもたらす」 21 。かくして彼は自立を肯定したが孤立 を否定し、自由な諸国民の共生を唱え、相互防衛・諸人民の友情・商業的利益のための同 盟の締結の重要性を説いた22 。平和と民族自立と商業のテーマの連関が確認できる。 ただこの『外交論』はあくまでも原理を論じる著作なので、当然のことながらその主張 は抽象的である。既存の植民地に関する具体的な政策も述べていないし、ヨーロッパでフ ランスが同盟を結ぶべき国の具体的な名前もあげていない。そのことは 1794 年末、彼が 自由貿易の原理を説いた商業論においても同様である23 。具体的な政策案は皆無ではない ものの、主に展開されるのは抽象的議論である。彼は、商業は贅沢という悪徳の原因にな ると説く禁欲主義に反対しつつ、商業の重要性を次のように主張した。「商業はあらゆる地 方の産物と富を万人の共有とすることで、怠惰な生活には労働を、野蛮な状態には文明を、 乾いた地には栽培を、ある風土には別の風土をもたらす」24 。つまり商業こそが諸国民の 孤立を防いで共生を促し、平和的に文明化を実現するというのである。そして彼は 1793 年の航海条例の修正を求め、ある程度の競争原理の導入を求めた25 。 さて 1795 年夏、国民公会では新憲法制定作業が本格化した。エシャセリオは 7 月 17 日に二院制について、7 月 24 日に総裁の任命方式について発言した26 。ところで新憲法 制定作業当初から植民地の重要性は指摘されていた。6 月 23 日、ボワシ=ダングラス (BOISSY-D’ANGLAS)は植民地については特別な報告をすると予告し、6 月 30 日、デュフ ェ(DUFAY)は憲法作成の参考にとサン=ドマング島の状況を説明した27 。8 月 4 日、ボ ワシ=ダングラスは植民地に関する憲法条項案を報告した。そして 1795 年憲法第 6 条は 「フランスの植民地は、共和国と一体をなす部分であり、同一の憲法に従う」と定める28 。 8 月 4 日のボワシ=ダングラスの演説に関してはゲノの詳細な分析があるので29 、本稿 ではエシャセリオの植民地論との比較のために必要な点だけを指摘しておこう。ボワシ= ダングラスは、植民地の放棄はフランスの海軍と産業の崩壊をもたらすと唱え、軍事力に よって支えられる排他的貿易体制の下での、植民地と本国の結合を支持した30 。彼は自由 貿易にも持続的平和にも言及していない。次いで彼は風土決定論の立場から黒人の性格を 21 Ibid., p.15. 22 Ibid., p.17.
23 ESCHASSERIAUX, Opinion sur les causes de l’état présent du commerce et de l’industrie, et
les moyens de les rétablir sur les véritables bases de l’économie politique, s.l., 1794.
24 Ibid., p.11. 25 Ibid., p.16.
26 Moniteur, les 22 et 30 juillet 1795. 27 Idem, les 2, 3 et 4 juillet 1795.
28 1791 年憲法第 8 条が「アジア、アフリカおよびアメリカにおけるフランスの植民地と領土 は、フランス王国を構成しているとはいえ、この憲法には含まれない」と定めたのに比べて大 きな違いである。中村義孝編訳『フランス憲法史集成』(法律文化社、2003 年)、39 頁、59 頁。 29 GAINOT, « La naissance des départements d’Outre-Mer », pp.71-73.
「穏やかでおとなしく、ものぐさで脆弱」と形容した。他方、奴隷制廃止を再認した31 。 さて 1796 年になると、エシャセリオは再び外交論を、理念としては 1794 年と同じく民 族自立・自由貿易・持続的平和に基づきながらも、1794 年に比べてはるかに具体的に、展 開し始めた。『モニトゥール』に、1796 年 2 月 7 日から 9 日にかけて「フランス共和国と ヨーロッパの全列強の諸利害について」という記事を連載し、ベルギー併合を支持し、ス ペイン・プロイセンとの条約(おそらくバーゼン講和条約を指す)をフランスの平和主義 の証明だと述べた32 。また 4 月 20 日の同紙にも外交論を載せ、イギリスの排他的貿易が植 民地争奪戦争の原因になっていると唱え、13 世紀のハンザ同盟のような海洋軍事同盟をヨ ーロッパ大陸諸国で作ってイギリス政府に対抗すべきだと述べた。また翌年 1 月 21 日と 22 日の同紙には「イギリスによって提案された講和の諸条件についての考察」という記事 を寄せた。ただこれらの記事の主題はいずれも植民地問題ではなく、ヨーロッパの外交で あり、ベリサも既に分析しているので33 、本稿では詳述しない。 ところで共和政的倫理を大事にするエシャセリオは、奴隷制に反対であった。当時の彼 の黒人奴隷観がよく分かるのが、1796 年 6 月 6 日の五百人会での商工業の再興に関する 報告である。彼は報告の冒頭で革命前夜の貿易収支を分析し、フランスが他国よりも優れ ているのは植民地物産の貿易だけだと指摘し、そこから話をカリブ海の植民地の復興に移 した。「熱い空の下、嵐のように自由を受け取った文明人と半ば野生の人の激高した情念に 突然ゆだねられたこれらの地域に、静穏を再びもたらすべき時です。所有権の尊重、法律 の遵守が二つの世界で同じように尊重されるべき時です。植民者は放棄された農場に戻っ て、自由になった奴隷は自分自身の利得心(sentiment de son propre intérêt)によって自
分の作業場へ、労働へ、戻らなければいけません」34 。黒人が損得勘定で動くこと、つまり 自分自身の利益のためには労働に復帰することが得であるという計算を自分でおこなって、 自発的に作業場に戻ることが期待されたのである。ところでウダン=バスティドとステネ ルによれば、18 世紀の奴隷制廃止論者は、倫理的に正しい人間とは自分の利益を合理的な 計算によって追求できる人間だと考えていた35 。それゆえエシャセリオは黒人に、他人に 強制されて行動する人ではなく、自分で己の利益を合理的に計算する能力がある人、即ち 倫理的に正しい人として行動することを求めたのである。「半ば野生の人」という表現から エシャセリオを人種差別主義者だとみなすのは短絡的である。寧ろ彼はボワシ=ダングラ スの風土決定論からは程遠く、黒人を自分と同様の合理的な人間だとみなした。 第 2 章 フリュクチドールのクーデタの前と後 1796 年末から五百人会では、特に王党派がサン=ドマング島の平定を強く求めた。1797 年 1 31 Idem, le 10 août.
32 小冊子としても発表された。ESCHASSERIAUX, Des intérêts de la République française et
de toutes les puissances de l’Europe, Paris, 1796.
33 BELISSA, Repenser l’ordre européen, p.75, p.216 et p.255.
34 ESCHASSERIAUX, Opinion sur les moyens de relever le commerce et les arts, Séance du 18
prairial an IV, s.l., 1796, p.10.
月、五百人会はまずは島の現状について情報を収集・整理すべきだと結論し、マレクを代表とす る部会がそれを担当した。2 月 24 日、マレクは、報告書は適切だと判断されれば出版すると述べ、 とりあえず非公開の委員会での報告を求めた。そして 3 月 4 日、報告書の出版が決められた36 。 マレクは、サン=ドマング島で憲法を実施するための最大の障害は行政区分の未確定にあると考 えた37 。この問題を引き継いだのが、マレクの部会の一員だったエシャセリオである。3 月 19 日、 エシャセリオは植民地部会代表として「両インドにおけるフランス領土の合憲的境界区分について」 という題で報告をした。そして行政区分に関して、スペイン人区域とフランス人区域を一つに結合 して、二つの文化を一つに融合しようと唱える一方で、裁判所を設置して治安が回復すれば、島 から避難した植民者も島へ戻って、黒人と共に復興作業に従事するだろうと述べた38 。 しかし 1797 年 3 月・4 月の選挙で躍進した王党派は、サン=ドマング島政策に関して、 島の荒廃の責任者の訴追が優先課題だと主張し、5 月 22 日、新たな植民地部会を立ち上げ た。ヴィエノ=ヴォブランがその一員となった。5 月 29 日、五百人会はヴィエノ=ヴォブ ランの人種差別的な発言に騒然となった。彼によれば、「本当のフランス人」とは白人であ る、黒人に法律を理解できるはずがない、黒人と白人は違う人間だ39 。5 月 31 日、海軍将 官ヴィラレ=ジョワイユーズはヴィエノ=ヴォブランを支持し、サン=ドマング島はヴァ ンデのように軍隊によって再征服されて戒厳令下に置かれるべきだ、黒人の暴力に対して 白人を保護しなければならない、と唱えた40 。 6 月 4 日、エシャセリオは五百人会の演壇に立ち、サン=ドマング島の治安回復のため に軍隊を用いることに反対した。彼によれば、重要なのは憲法を実施することである。そ うすれば黒人は信頼と希望の感情を抱いて自ずと仕事に戻るはずである。白人植民者を保 護するのも憲法であって軍隊ではない41 。しかしこれに対し、憲法制定に携わったボワシ
36 Moniteur, le 15 décembre 1796, le 6 janvier, le 26 février, le 8 mars 1797. MAREC,
op.cit. マレクは複数の情報源に基づき様々な人物の言動を中立性に配慮して逐一、戦況 から黒人児童の初等教育まで、詳細に報告した。ただ報告書はまとまりに欠け、明解に要 約するのが難しいものとなった。本稿では紙数の都合もあるので、その内容には触れない。 5 月下旬以降、王党派がこの報告書を誹謗中傷したことだけ注記しておく。
37 Moniteur, le 12 mars.
38 ESCHASSERIAUX, Rapport fait par Eshcassériaux aîné, au nom de la commission
des colonies, sur la division constitutionnelle du territoire français dans les deux Indes, Séance du 29 ventôse an V, s.l., 1797, p.6. 『モニトゥール』はこれを載せていない。 39 VIENOT-VAUBLANC, Discours sur l’état de Saint-Domingue et sur la conduite des agents
du Directoire, Séance du 10 prairial an V, s.l., 1797. この発言に五百人会が騒然となったこ と自体、五百人会の健全さを表しているとも言えよう。一方ヴィエノ=ヴォブランの発言 に対し、ラヴォは、「本当のフランス人」は共和派であると反論し、トゥサン=ルヴェルチ ュールは、確かに黒人には教育がないが、それは教育を受ける権利を享受できなかったか らだと反論した。LAVEAUX, Réponse d’Etienne Laveaux, général de Division, ex-gouverneur
de St-Domingue, s.l., 1797 ; Toussaint-LOUVERTURE, Réfutation de quelques Assertions d’un Discours prononcé au Corps législatif, le 10 prairial an cinq, par Viénot Vaublanc, s.l., 1797.
40 VILLARET-JOYEUSE, Discours de Villaret-Joyeuse sur l’importance des Colonies et les
moyens de les pacifier, Séance du 12 Prairial an V, s.l., 1797.
41 ESCHASSERIAUX, Opinion d’Eschassériaux, Sur les moyens de rétablir les Colonies, Séance
=ダングラス自身が、憲法の適用はサン=ドマング島では平和が来るまで延期すべきだと 述べ、またパストレ(PASTORET)は黒人の知性は 6 世紀のレベルにあるから憲法の適用 なんて無理だ、最も優先すべきは植民者の利益の保護だと述べた42 。そして 7 月 29 日、ヴ ィエノ=ヴォブランが王党派から成る植民地部会の報告書を読み上げた。エシャセリオは 名指しで非難された。ヴィエノ=ヴォブランによれば、憲法をすべて細部まで今すぐに適 用する必要はない、黒人奴隷の解放は時期尚早である、寧ろ軍隊を用いて即刻秩序を回復 すべきである。まずは黒人を作業場に戻し、次いで植民者を帰還させ、黒人のための賃金 を定めるべきである。ただその実施は自治権を与えられた植民地当局に任せれば良い43 。 これに共和派は賛同せず、共和派と王党派の対立は膠着状態となった。それを打開したのがフ リュクチドール 18 日(1797 年 9 月 4 日)のクーデタであった。クーデタでヴィエノ=ヴォブラン、ヴ ィラレ=ジョワイユーズ、ボワシ=ダングラス、パストレなどの王党派が追放された結果、エシャセリ オは、1794 年の奴隷解放宣言のさいに演説をしたデュフェによって助けられつつ、植民地政策の イニシアティブをとることができるようになった。そして 1797 年 10 月 22 日、エシャセリオは植民地 の再組織化を目的とした包括的な(派遣委員の権限、行政当局の組織化、市民権、司法制度、 税制度、教育制度などに関する)法案を提出した44 。これが翌年 1 月 1 日に法律となる。ゲノに よれば、この法律で黒人の市民権、さらには植民地と本国の法的平等が確認された45 。本稿で はエシャセリオの法案提出時の演説を、黒人の市民権の問題に限って詳細に分析しよう。 まずエシャセリオは黒人奴隷への市民権の付与を、奴隷交易の犠牲者への賠償として正 当化した。「哲学はこの交易上の犯罪をあらゆる国民に告発しました。彼らの聖なる声は最 高の立法者たちに聞かれ、彼らにこの野蛮な支配の廃止を思いつかせました。しかしすべ てがなされたわけではありません。聖なる声はこの議会でもあなた方に、犠牲者である不 幸な人々に対してこの政治的犯罪を同じ正義の感情で償うようにと叫んでいます」46 。 次にエシャセリオは、黒人奴隷はフランスの領土で生活しているのだから、フランスの 市民権を享受できるべきだと述べた。「『憲法は政治的権利の享受から外国人を排除してい る』。だからあなた方はアフリカ人を外国人とみなすのですか。貪欲さによって家族、祖国 から引き離され、奴隷身分に追いやってシシュポスの強制労働刑を課すために鎖をつけら れ、海を渡る牢獄へと引き立てられた、この不幸な人々を外国人とみなすのですか。否、 42 Moniteur, le 10 juin 1797.
43 VIENOT-VAUBLANC, Rapport fait au nom de la commission des colonies, composée
des représentants Tarbé, Helot, Villaret-Joyeuse, Bourdon (de l’Oise), et Viénot-Vaublanc, Sur l’organisation intérieure de la colonie de Saint-Domingue, Séance du 11 Thermidor an V, s.l., 1797.
44 ESCHASSERIAUX, Rapport fait par Eschassériaux aîné, Au nom de la commission chargée
de présenter les lois organiques de la constitution dans les colonies, et les mesures de législation et de politique pour opérer leur rétablissement, Séance du premier brumaire an VI, s.l., 1797.
45 ゲノは、総裁政府期の植民地政策を 1795 年 8 月 4 日のボワシ=ダングラスの演説だけ ではなく、1798 年 1 月 1 日の法律をめぐる様々な議論をも考慮に入れて分析し、総裁政府期 の植民地政策で重要だったのは「同化主義」ではなく、本国と植民地の平等であると結論した。 GAINOT, « La naissance des départements d’Outre-Mer », p.73.
46 ESCHASSERIAUX, Au nom de la commission chargée de présenter les lois organiques de la
あなた方は彼らを外国人だとみなすことはできません。(中略)政治的な法律は、彼らが、 自ら耕し、自らの汗で豊かにし、自らの子供のゆりかご、そして自らの人種の墓場となった、 この地の住民であると、捉えています。この地を彼らの出身地、彼らの祖国とみなすべき です。彼らは他のフランス市民の諸権利を享受すべきです」47 。 ところで議場にはそしてフランス国内にも、黒人への市民権の付与に不安を感じる人々 がまだいた。おそらくその不安解消のため、エシャセリオは次のように唱えた。「法律は、 彼ら(黒人)を受け入れた祖国に有益な条件を、彼らに対し要求する権利があります。彼 らが農業を繁栄させ、軍隊で戦い、工芸を実践するなら、まさにその資格でもって祖国は 彼らを共和国の他の市民のうちに受け入れます。しかし彼らが彼らの怠惰で祖国の負担と なり、祖国の名誉を汚し、山賊行為で祖国を混乱に陥れるなら、そのとき寛大であった祖 国は厳格になり、改悛が、義務に立ち戻った彼らを労働と日常の職業に連れ帰るまで、市 民権を彼らから取り上げる権利があります」48 。こうしてエシャセリオは勤労の義務と市 民の権利をセットで捉える価値観に基づき、黒人の労働力の有益性を聴衆に想起させなが ら、なおかつ黒人が怠惰であった場合に取るべき措置に言及することで、できるだけ多く の人々を安心させ、説得しようとしたのである。政治家エシャセリオにとって重要だった のは黒人の市民権を承認させることであった。それは決して簡単ではなく、実際、法案提 出後の議論では黒人の市民権に慎重な見解が出ることだろう49 。 またエシャセリオは「戦争市民権(citoyenneté de guerre)」50 、即ち 1795 年憲法第 9 条 に明記された51 、戦った人間に付与される市民権の論理から、黒人の市民権を正当化した。 「あなた方は植民地の防衛のために 5 年前から戦ってきた有色の人々から政治的権利を奪 えるというのですか」。「彼らは(ヨーロッパ)大陸の軍隊で戦った勇敢な他の兵士たちと 同じ犠牲を払わなかったのですか。法律は兵士が市民権を享受するのが当然だとしていま す。この享受から、エミグレ、スペイン人、イギリス人の手からこの地を救ったサン=ド マングの住民を除外できるのですか。(中略)それゆえ部会は、一度または数度従軍した植 民地の住民に、憲法の条項を適用するよう、あなた方に求めます」52 。 おそらくエシャセリオは 1794 年の奴隷解放宣言を確実に実現したかった。だから解放 宣言から 3 年以上の歳月が流れたにもかかわらず、「すべてがなされたわけではありませ ん」と述べ、黒人の市民権の実現のために様々な論理とレトリックを駆使したのである。 さらにエシャセリオは公教育のテーマに言及した。毎年、青年の祭日に、「肌の色の区別 47 Ibid., pp.9-10. 48 Ibid., p.10. もちろん当時は本国の白人も、浮浪者や山賊は取り締まりの対象だった。 共和国は黒人にだけでなく白人にもまた勤労を求めていた。
49 GAINOT, « La naissance des départements d’Outre-Mer », pp.60-64.
50 SERNA, op.cit., p.9. 既に 1794 年の奴隷解放宣言のさい、デュフェはまた戦争市民 権の論理を用いて黒人の市民権を正当化している。
51 「共和国の建設のために一度または数度従軍したフランス人男性は、税金のいかなる条 件もなしに、市民である」。中村義孝編訳『フランス憲法史集成』59 頁。
52 ESCHASSERIAUX, Au nom de la commission chargée de présenter les lois organiques de la
なく(sans distinction de couleur)」、サン=ドマングの各県から 6 人の児童が選ばれる。 彼らは国費でパリの特別学校に留学し53 、数年後、授業で習った知識を故郷に持ち帰る。 こうしてヨーロッパの学芸が接ぎ木されたサン=ドマング島は、僅かな年月で文明化され よう。そして最後にエシャセリオは黒人奴隷の解放を人類の自由の世界史、即ち古代ロー マの奴隷反乱、中世のジャックリーの反乱、そして近くはアイルランドの反乱という自由 を希求する世界史の流れの上に据えて、演説を終えた54 。 エシャセリオは、本稿序論で指摘したように、一部の元奴隷が白人に強い憎悪を抱いて いることを知っていたが、この演説ではそれに言及していない。憲法の実施と教育によっ て本国と植民地の交流が進めば、黒人の憎悪も静まると思っていたのだろう。いずれにせ よかつて『外交論』で諸民族の平和的な共生と交流を抽象的に論じたエシャセリオは、サ ン=ドマング島政策という具体的事案に関与して、自らの思想を発展的に表明する機会を 得た。そのとき彼がまた大事にしたのは、自分とは意見が違う、黒人の市民権に消極的な 人々の不安への配慮、そして情理を尽くして自らの政策を説明することであった。 第 3 章 搾取のない、新しい植民地 1798 年のエシャセリオによる新しい植民地計画の背景を知るためには、議会内の議論よりも、議 会外の公論に耳を傾ける必要がある。実を言えば、革命当初から新しい植民地計画は唱えられて いた55 。例えば既に 1790 年、ラントナは、イギリス人博愛主義者が奴隷ではない自由な黒人と植 民地物産の栽培をするため、西アフリカのシエラレオネに「博愛的植民地」を作った事例をモデル として、新しい植民地を作ることを提案していた56 。さて新しい植民地を求める声は総裁政府期に も引き続き聞かれた。例えばかつて憲法制定議会で救貧委員会に属していた57モンリノは、共和暦 53 この特別学校とは、グレゴワールと関係のあったコワズノン (COISNON) によって、 西インド諸島の植民地の黒人と混血の指導者層の子弟に教育を授けるために創設された、 パリの国立植民地研究所 (Institution nationale des Colonies) を指すと思われる(GAINOT, « Un projet avorté d’intégration républicaine »)。
共和派の逐次刊行物『哲学的文学的政治的デカド』からは、1798 年そして 1799 年、こ の教育機関が順調に機能していたことが分かる。同じ教室で異なる肌の色の子供たちは地 球レベルでの交流の重要性を学んだ。例えばある若い歴史の教師は子供たちの前で、「ガリ ア人の末裔が祖国から 2 千里以上離れたところまで行って奴隷を解放するなんて、いった い誰が想像したでしょう。熱帯地方出身の若い生徒たちがセーヌ川の縁でアテネ、スパルタ、 ローマについて話してキケロに感服する一方で、彼ら自身の存在によって古代の地理学者 や哲学者の過ちを証明しにやってくるなんて、誰がこれまで想像したでしょう」と述べた (La Décade philosophique, littéraire et politique, Paris, le 20 ventôse an VII)。
54 ESCHASSERIAUX, Au nom de la commission chargée de présenter les lois organiques de la
constitution dans les colonies, pp.21-24.
55 Marcel DORIGNY, « La Société des Amis des Noirs et les projets de colonisation en Afrique », Annales Historiques de la Révolution française, Nos. 293-294, 1993.
56 LANTHENAS, M. Lamiral, réfuté par lui-même ou réponse aux opinions de cet auteur,
sur l’abolition de la Traite des Noirs, suivie de quelques idées sur les établissements libres que la France ne doit point différer de faire au Sénégal, par un ami des Blancs et des Noirs, Paris, 1790.
57 Procès-verbaux et rapports du comité de mendicité de la Constituante, 1790-1791, Paris, 1911.
5 年、貧困者問題の解決のために新しい植民地の建設を提案した58 。このモンリノ案を参照しつつ、 タレイランは 1797 年 7 月 3 日の国立学士院における講演で、政治的不満分子のために新しい植 民地を西アフリカに作ることを提案した59 。そしてこのタレイランの講演への称賛で始まるのが、スウ ェーデン人ワドストロムの『シエラレオネとブラマの植民地施設についての概要』であった。その中 でワドストロムは、奴隷交易の廃止、アフリカの文明化、そして「投機ではなく、有益な物品の交換」 のためのアフリカとヨーロッパの貿易を目的としたイギリス人博愛主義者の「博愛的植民地」を紹介 した60 。1798 年 2 月 16 日、ワドストロムは五百人会に出席し、自著を献上した。おそらく彼は「博 愛的植民地」がフランスの新しい植民地政策の模範となることを望んでいた。翌日、『モニトゥール』 は同書の紹介文を載せた。3 月 20 日、共和派の逐次刊行物『哲学的文学的政治的デカド』がル・ ブルトン(LE BRETON)による同書の書評を載せた61 。ル・ブルトンは「博愛的植民地」を絶賛し、 そこに奴隷交易という「人類の負債」「ヨーロッパの犯罪」への「償い」を見て、この試みを諸政 府が援助すべきだと唱えた。また彼は、重要なのは軍事的征服ではなく学芸の帝国をひろげること だが、その理想を邪魔するのがイギリス政府であるとも述べ、イギリス人博愛主義者には賛成するも、 軍事力で植民地をひろげて他民族を虐げるイギリス政府には反対した。 一方、五百人会ではワドストロムの献本を受けて、フランスによるシエラレオネとブラ マの植民地化の可能性を検討するための部会が作られた。エシャセリオがその代表となっ た。4 月 12 日、彼は部会での検討結果を五百人会で報告した62 。彼はイギリス人博愛主義 者の「博愛的植民地」の精神に賛意と敬意を表しながらも、フランスの新しい植民地の建 設予定地として西アフリカが適切か否かを「商業的そして政治的」観点から検討する必要 を説いた。「この観点から次のように言わなければなりません。あらゆる戦闘行為に晒され るこの植民地の(地理的)位置は、その所有者にとってその所有権を非常に不安定なもの にしかしません。(中略)この植民地の防御がその利得と長所を上回ることでしょう」63 。 かくして彼は防衛が難しいという安全保障上の理由で西アフリカ植民地化案に反対した。 しかしここでエシャセリオは演説を終えなかった。彼は言う。西アフリカが無理でもまだ新しい植 民地の候補地はある。それがエジプトである64 。エジプトは「東洋の商業と西洋の商業を結びつ
58 Charles MONLINOT, Essai sur la transportation comme récompense, et la déportation
comme peine, Paris, an 5.
59 Charles-Maurice de TALLEYRAND-PERIGORD, Essai sur les avantages à retirer de
colonies nouvelles dans les circonstances présentes. Lu à la séance publique de l’Institut national le 15 messidor an 5, s.l., 1797.
60 Carl Bernard WADSTROM, Précis sur l’établissement des colonies de Sierra Léona et de
Boulama à la côte occidentale d’Afrique, Paris, an VI.
61 La Décade philosophique, littéraire et politique, Paris, le 30 ventôse an VI.
62 ESCHASSERIAUX, Rapport au nom de la Commission Chargée d’examiner l’ouvrage
présenté au Conseil par le citoyen WASTROM (sic.), relatif à l’établissement de Sierra Léona, Boulama, et à la colonisation en général, et de quelle utilité peut être cet établissement pour le commerce français, s.l., 1798.
63 Ibid., p.15.
64 エジプトへの言及は当時ボナパルトがエジプト遠征を準備していたことを想起すれば 唐突ではない。ただエシャセリオのこのときの演説にボナパルトへの言及はない。
ける」から「世界の商業の中心(centre du commerce de l’univers)」、別言すれば「世界交流 センター」となりうる。そこで古代人が夢見た、スエズ地峡で地中海と紅海をつなぐ工事を実現し よう。そこにインドから商品が流れ込むだろう。またエジプトはアドリア海のフランス領の島々によっ て防衛されうるので軍事的に安全である。イギリスがエジプトの支配を望んでいるが、自由のため に戦うフランスが世界の文明の起源であるエジプトに科学・工業・学芸をもたらし、「再生」すべ きである。エジプトに「奴隷制や専制の原理に基づくのではない、自由と人間性に基づく、真の 社会的な紐帯に基づく、相互の必要と便宜に基づく植民地」を築こう65 。一方、エシャセリオは エジプトの占領政策や領域支配について何も語っていない。内政不干渉を尊重した彼は、武力 でエジプト人に法律や政治体制の変更を強制する意図はなかったのだろう。重要なのは東洋と西 洋の交叉点に商業=交流(commerce)のための拠点を作ることで、世界が文明化されることで あった。彼にとってエジプトは周縁ではなく、世界の商業の中心になるべき地であった66 。 それからエシャセリオは演説の方向をやや変えた。彼は革命を憎む共和国内の不満分子のた めに新しい植民地を用意しようという案67 を紹介し、批判した。「植民地の繁栄に必要なのは秩 序・経済・労働・道徳性・思慮分別の視点です。それらは怨恨の精神のうちには(中略)認め られません。フランス革命そして共和国を常に憎む人々だけから構成される植民地から、あな た方はどのような祖国愛を、どのような親密な関係を、どのような内的秩序を、どのような進 歩を期待できるのですか。政治上の諸法律の類似が彼らとあなた方を結びつけるでしょうか。 しかしそのような関係は存在しえません。相反する感情が彼らの内部からあなた方を追い払う でしょう。利害関係でしょうか。しかしそれは彼らと他のあらゆる民族とを同じように結びつ けることでしょう。あなた方は信頼感にも相互性にも頼れないでしょう」68 。エシャセリオにと って、植民者は誰でもよいのではなかった。彼は本国と植民地の間には、利害関係だけでなく、 革命への賛同が必要だと考えた。経済と共和政的価値のどちらも両方大事であった。 そして演説の最後を、エシャセリオは国家の論理で締めくくった。「近代的植民地は多く の人々、資本、工業的手段でもってでしか作られませんし、成功もしません、そしてまさ に本国こそがあらゆる出費をするのです。(中略)自らの力(人口・資本・技術)をあまり にも分散させる国家はついにはそれをどこにも持たなくなって容易に打ち負かされること でしょう。(中略)国家は人体と同じで尋常でない努力によってあるいは政治的不注意の一 撃によって死ぬことだってあるのです」69 。だから博愛精神は大切だが、博愛精神の信念 だけで植民地政策を進めてはいけない、幅広い視野が大事だと言いたいのである。 かくしてエシャセリオの植民地論は、一方では現実的であることを大事にしながら、他 65 ESCHASSERIAUX, Rapport au nom de la Commission Chargée d’examiner l’ouvrage
présenté au Conseil par le citoyen WASTROM, pp.18-19.
66 1802 年、エシャセリオはエジプト植民地案が実現しなかったことを悔やんでいる。 ESCHASSERIAUX, Tableau politique de l’Europe au commencement du XIXe siècle, et Moyens
d’assurer la durée de la paix générale, Paris, 1802.
67 エシャセリオは名指ししてはいないが、前述のタレイランの案ではないかと推測できる。 68 ESCHASSERIAUX, Rapport au nom de la Commission Chargée d’examiner l’ouvrage
présenté au Conseil par le citoyen WASTROM, p.23.
方では世界商業センターを作るという目標を持つことで、新展開を遂げて成熟していった。 彼にとって新しい植民地の目的は自由な商業であった。別言すれば自由な交流であった。 実際、本稿第 2 章で見たように、彼は将来的にはサン=ドマング島で黒人と白人が共に学 び働くことを望んだ。重要なのは、世界に支配のピラミッドを築くことではなく、諸文化・ 諸民族の交流のネットをひろげることであった。新しい植民地はそのネットの拡大に資す るもので、それこそが世界の文明化を促進し、さらには世界の持続的平和を生み出すはず であった。つまりフランス人だけが世界を排他的かつ一元的に支配し管理することが重要 なのではなかった。交流への信頼という観点から、総裁政府期の共和派の政策を考察する ことも、今後の研究課題として大事であろう70 。 結論 本稿は日本のフランス革命史研究の深化に部分的に貢献するだろう。エシャセリオは新 たな国際関係の構築を望んだ71 。新しい体制は民族自立と自由貿易と持続的平和に基づき、 非ヨーロッパ世界をも含む全世界に普及されるべきであった。このようなエシャセリオの 思想と、同じ時期のアルヌやセーの自由主義経済思想72 、およびカントの普遍的平和思想73 70 例えば 1798 年 4 月の『哲学的文学的政治的デカド』で、共和派のル・ブルトンは、フ ランスがエジプト・シリアに植民地を作り、ヨーロッパのユダヤ人をヨーロッパ文明の伝 道者としてそこに招こうと唱えた。注目すべきはユダヤ人とエジプト人・シリア人との 交流が期待された点である。Frédéric REGENT, « L’Egypte des Idéologues : le regard de la
Décade philosophique sur l’expédition de Bonaparte », L’expédition d’Egypte, une entreprise des Lumières 1798-1801, Cachan, 1999.
71 日本でのフランス革命研究は主に一国革命の枠組みでなされている。しかしフランスで は革命を国際関係のそして世界革命の枠組みで捉えることの重要性が指摘されている。 Serge BIANCHI, Des révoltes aux révolutions. Europe, Russie, Amérique (1770-1802), Rennes, 2004 ; Pierre SERNA (dir.), Républiques sœurs, Le Directoire et la Révolution atlantique, Rennes, 2009 ; Annie JOURDAN, Nouvelle histoire de la Révolution, Paris, 2018 ; Patrick BOUCHERON (dir.), Histoire mondiale de la France, Paris, 2018.
72 アルヌは 1797 年、13 世紀のハンザ同盟のような海洋同盟を作って自由貿易を支える 平和体制を構築しようと提案した (Ambroise-Marie ARNOULD, Système maritime et politique
des Européens pendant le dix-huitième siècle, Paris, 1797)。ちなみにハンザ同盟への言及はエシ ャセリオが 1796 年 4 月にしていた(Moniteur, le 20 avril 1796)。またセーは 1798 年、イギ リス海軍の打倒、イギリスに支配されたインド人の解放、世界中の奴隷制の廃絶、そしてヨ ーロッパ諸国民が「より頻繁で緊密な海洋交易によって結び付けられる」自由貿易体制の確 立を主張した (La Décade philosophique, littéraire et politique, le 20 ventôse an VI)。ただ約 30 年後、セーはイギリスの植民地政策を支持するようになる (Jean-Baptiste SAY, Cours complet
d’économie politique pratique, Paris, 1828-1833)。
73 ロスルドによれば、サン=ピエールの永久平和論がヨーロッパ世界=キリスト教世界 だけを対象にしたのと違って、フランス革命のライシテの影響を受けたカントの永久平 和論は民族自立原理のもと、ヨーロッパ諸国による非ヨーロッパ世界の侵略を批判した (Domenico LOSURDO, « Revolution, nation and peace », ESTUDOS AVANÇADOS 22 (62),
2008)。ちなみにカントの『永遠平和のために』が出版されたのは 1795 年で、エシャセリ オの『外交論』の 1 年後である。確かにカントはエシャセリオに比べれば自由貿易を強調 していないが、それでも「商業精神」が永久平和に寄与することを認めている。カント『永 遠平和のために』(岩波書店、1985 年)、71 頁。
との相似性への注目は、総裁政府期のフランスの対外政策を征服主義に単純化して捉えて はいけないのではないかと、革命理解の深化のために新たな論点を提供する。エシャセリ オの理想は実現しなかったが、挫折した潜在的可能性を考慮に入れることは、歴史を全体 的に把握するために重要である。 もちろん従来通り、植民地主義の過去を道徳的に非難弾劾することは可能である。とい うのもエシャセリオは、たとえ世界貿易の中心としてとはいえ、エジプトでの植民地建設 を望んだわけで、植民地主義を全否定したのではなく、寧ろその変奏にとどまっている、 それゆえ今日から見れば、彼の思想は「広義の植民地主義」に分類できると唱えることは また可能だからである。 しかし本稿は何よりも、18 世紀末と現代(20 世紀末から現在まで)の価値観を比較し て、現代社会を相対化することに貢献するだろう。エシャセリオは今日、注目されるよう な「弱者」をさほど考慮には入れなかった。彼は自由な交流が摩擦を生むこと、そしてそ の摩擦に耐えられない傷つきやすい弱者が存在することを想定しなかった。また彼は黒人 奴隷を奴隷制の犠牲者・被害者とはみなしたが、無力な弱者とはみなさなかった。彼は黒 人を、市民としての権利と義務を遂行する力を有する、感情に流されることなく合理的に 物事を判断する力を有する人間としてみなした。大事なのは共和政的価値を守るために他 の市民と力を合わせて戦う強さであった74 。このようなエシャセリオの価値観と現代人の 価値観とのずれ、その意味の考察は現代社会批判のための歴史学につながるだろう。 [付記]本稿は科学研究費補助金基盤研究 B「戦争の『歴史化』を考える―『戦争の消費』 と戦争認識の変化」の成果の一部である。 74 誤解なきよう付言すれば、戦争市民権は勝った人ではなく、戦った人のものであった。
Bernard GAINOT qui est spécialiste de l’histoire du premier empire colonial français, restitue la multiplicité des points de vue des acteurs de l’entreprise coloniale. Il insiste aussi sur le rôle des philosophes et des économistes libéraux pour les tentatives de la colonisation nouvelle de la fin du XVIIIe siècle au début du XIXe siècle. En respectant ses recherches, nous étudions la politique coloniale de Joseph Eschassériaux qui est député républicain à la Convention et au Conseil des Cinq-Cents. En 1794, il soutient la paix durable, pour laquelle il faut l’indépendance des nations dans les Ancien et Nouveau Mondes. Il écrit, « le désir de civiliser des peuples conquis, de rétablir ou de leur donner un gouvernement plus heureux, ne peut jamais justifier les invasions d’un territoire étranger ». Mais il nie l’isolement des nations. D’après lui, il faut donc le commerce, plus particulièrement la liberté du commerce, pour lier des nations devant vivre ensemble. Or, le gouvernement anglais déclare la « guerre éternelle » à toutes les puissances maritimes avec ses lois exclusives ; face à l’Angleterre, il serait nécessaire de former une confédération des pays européens en suivant l’exemple de la ligue hanséatique du XIIIe siècle.
D’ailleurs, en 1797, Eschassériaux propose la loi organique de la constitution dans les colonies qui établit l’isonomie entre la métropole et les colonies, et la citoyenneté pour les Noirs. Toutefois, Eschassériaux n’oublie pas de signaler les devoirs des Africains affranchis ainsi que leurs droits. Il souhaite que les Noirs s’engagent à la nouvelle République en travaillant avec les Blancs.
En outre, il propose de coloniser l’Égypte en 1798. D’après lui, la nouvelle colonie devrait être utile pour l’humanité et le commerce ; elle serait un centre de la communication ; différents peuples vivraient ensemble dans cette colonie ; les informations et les marchandises y circuleraient beaucoup. Or, Eschassériaux ne mentionne rien sur l’occupation militaire. Sans doute, il n’a aucune intention de s’immiscer dans le gouvernement égyptien. Par ailleurs, Eschassériaux ne veut pas amener des contre-révolutionnaires en outre-mer. Pour lui, la morale républicaine est aussi importante que la prospérité économique. Eschassériaux croit que la morale républicaine, l’intérêt économique et la sécurité nationale constituent un système en se liant ensemble.
La politique coloniale d’Eschassériaux (1794-1798)
— L’indépendance des nations, la liberté du commerce et la paix
durable—
Kôbô SEIGAN Résumé