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国語科メディア・リテラシー教育論再考 SNS 時代のメディア表象と向き合うために

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Academic year: 2021

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国語科メディア・リテラシー教育論再考

SNS 時代のメディア表象と向き合うために キィワード:カルチュラル・スタディーズ、文化的アイデンティティ 愛知教育大学 砂川誠司 1 はじめに 国語科におけるメディア・リテラシー教育は、社 会文化的なものとしてのメディアを国語科の教材と して、あるいは国語科の学習のありかたを変革する ものとして、どのように扱うことができるかという 問題に関わり合ってきた。その関わり合いの方向性 として、松山雅子(2013)は、David Buckingham の 言を用いて、「メディアというのものが、「家族、 教会、学校がかつて担っていた役割を引き受け、現 代社会における社会化のための主要な影響源となっ ている」質と量について、国語科教育にかかわる者 がどれほど認知し、本格的に真向かうか、真向かえ る か が 問 わ れ て い る 」 と 述 べ た ( 括 弧 内 は Buckingham(2003)からの引用)。ここでいう「社会化」 とは、主体が社会文化的な価値や規範を内面化する ことであり、メディアによるその様相に国語科教育 は真向かわなければならないと提言されたのであ る。SNS による人々の分断や連帯などの現状からみ れば、混沌としたメディア環境のなかでの子どもた ちの生々しい社会化のありように、国語科としてど うアプローチできるかが問われたといえる。 国語科のメディア・リテラシー教育はこれまで、 そうしたことに真向かってきたのだろうか。本課題 研究では、メディア・リテラシーを含めたいくつも のリテラシーが「何モノなのか」と問われている。 極めてパターナリスティックな問いにも思えるが、 こうした問いが発せられることは、これまでのメデ ィア・リテラシー教育がその独自性を十分に示しき れなかったことを意味するように思われてならな い。自戒を込めて言うが、国語科のメディア・リテ ラシー教育は、いまのところほとんど真向えていな いのではないか。社会文化的なメディアに、国語科 のメディア・リテラシー教育はどうアプローチする のか、より明確に示していかなければならないと考 える。 そのために、何をするべきか。本発表では、国語 科のメディア教育に強い影響をもたらしてきたイギ リスの議論をいまいちど参照したい。具体的には、 イギリスのメディア教育論の背景にあるカルチュラ ル・スタディーズの視点である。もちろん、イギリ スに固有の文脈を指摘することが重要ではない。現 代のメディア状況、とりわけSNS を中心としたイン ターネットによる人々の分断や連帯について、ある いはそのなかでの「現代社会における社会化」を考 えるためには、イギリスのメディア教育論から学ぶ ことはいまだ重要性があると考えるからである。 本発表においては、まず、この課題研究のタイト ルにも現れている複数のリテラシー(メディア・リ テラシー、情報リテラシー、マルチモーダル・リテ ラシー等)の位置づけを、イギリスのメディア教育 の議論を参照しつつ捉える。そこから、社会文化的 なメディアをめぐる教育の問題点を改めて確認す る。そのうえで、現代のメディア環境において、カ ルチュラル・スタディーズの視点を補って考える必 要のある部分を理論化し、どうそれを実践化してい くことができるかを考える。このようにして、社会 文化的なメディアに対する国語科のメディア・リテ ラシー教育のアプローチを今まで以上に明確化する ことが本発表の目的である。 2 リテラシーの動的性質 2-1 リテラシーのイデオロギー性 教育という場面で、学習者とその社会文化との関 わりを扱うとはどういうことなのか。羽田潤(2020) によれば、メディアを教材としてみる場合、それは 「①教科書では切り取ることが難しい「日常」や「社 会」の「今」を扱うこと、②言語と言語外メディア で構成されることで紡ぎ出される意味について考え ることに価値がある」とされる。これは、意味生産 に関わるもの全てが国語科の教材であるべきとい う、ある種の認識論的な挑戦の表現でもある。こう した認識が必要であることは、グローバリズムの後 押しもあり、ある程度コンセンサスを得てきたのか もしれない。実際、教科書教材としても、映像的な

課題研究発表

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ものが配置されたり、デジタルな活用法が考えられ たりもしている。ある意味で、国語科教育に対する 認識論的な争いはほとんど終わりを迎えているとい えるのかもしれない。 しかし、問題は、羽田も述べているように「「日 常」や「社会」の「今」を扱う」点にある。日常性 や社会性を扱うということは、学習者個々の生活に 根ざした経験そのものを扱うということであるが、 アニメや広告などのメディアを扱えばそれが達成さ れるというわけでもない。そのようなメディアであ っても、学習者の生活経験にどれほど関与している かということは、外部の人間からは想像的にしか捉 えられないものである。つまり、個々の学習者にと ってのリアルな生活課題は、根本的には把握が不可 能なのである(学習者をサバルタンのように捉える ことには慎重になる必要があるが)。問題は、「教 科書では切り取ることが難しい」ということ以上に、 教育的事象として学習者の「経験」を扱うというこ との問題である。メディア・リテラシー教育が当事 性を問題にしてきた(例えば小川明子(2009)など)の には、そうした背景もあるだろう。 さらに問題なのは、メディア・リテラシーやマル チモーダル・リテラシーのような日常性を強調する リテラシーの育成が学習の必然として教師によって 設定される場合、その学習成果は公的な承認が得ら れるようなものにはならず、日常で関りあう他者、 場合によっては目の前の教師からの承認を得るため のものになるという点である。もちろん公的な承認 が得られればよいというわけではないが、教師が学 習者にとっての学習の必要を勝手に判断して教材を 用意することは権威主義的な教育を強化することに つながる危険もある。詳しくは当日の発表に回した いが、子どもたちの日常に関わるうえで重要なのは、 教師が身につけさせたいと考えるリテラシーはイデ オロギー的なもの(Street, 2003)だということをい かに把握するかということであると考える。たとえ マルチモーダルなテクストが選ばれたとしても、国 語科という公教育のイデオロギーが強く生成される 場にそれを持ち込むことが、どのような影響を子ど もたちに与えることであるかということは、常に問 われなければならない。本学会の 2018 年のシンポ ジウムでのAndrew Lambirth による報告は「ある談 話とかかわりをもつことが、いかに社会的に容認さ れた支配的イデオロギーに反映し、それ以外の考え 方の従属化を導くのか。そうしたことに意識的でな ければならない」という前提から調査されたもので あった。調査は「書くこと」についてであったが、 子どもたちが日常的に関わり合うメディアの場合に は、より意識的になる必要があると考えられる。 2-2 日常における意味の交渉をリテラシーとし て捉える リテラシーのイデオロギー性を踏まえると、学習 者にとって必要なリテラシーを、ある時代、ある時 点での社会的文脈における高度なリテラシー実践か ら抽象される静的な能力群として捉え、教えること には限界があると考えられる。リテラシーがイデオ ロギー性をもつのであれば、それは常に生成、変化 するものだからである。 Potter& McDougall (2017)は、これまでのリテラシ ーの議論(デジタル・リテラシー、メディア・リテ ラシー、マルチモーダル・リテラシー)を、意味の 生成方法の変化を説明しようとする試みとして、ま た、リテラシーを固定的なものとして扱うことに抵 抗するものとして捉え、動的(Dynamic)なリテラシ ーとして包括して考えることが有効だという。以下 の図はそのモデルである。 図 1 Potter& McDougall (2017)より砂川試訳 この図は、「社会文化的なリテラシーと記号論的 なリテラシーを同じフレームにまとめた」と説明さ れるものである。その理由は、「社会文化に重点を 置いたリテラシーの概念は、テクストとデザインの 重要な側面、意味が共有され、読まれる方法に焦点 を当てることができない可能性がある」、「テクス トとデザインだけに焦点を当てたリテラシーは、生 きた経験、美的経験、具現化された経験の重要な側 面に注意を払うことができない危険性がある」と説 明される。右側の「リテラシー」とあるのは現実に ― 96 ―

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生成変化するリテラシーの様相であり、左側の「教 育法(Pedagogy)」は、授業における子どもたちの 実際の反応や行動を含む。二つのあいだで、異なる リテラシーが設定されつつ、授業実践が行われる。 このモデルは、実際に行われている授業実践がど のような位置にあるかということを把握するための モデルとしても有用だが、右上に「第三の空間(third space)」と示されている点が Potter らの議論の強調 点である。この用語は、ポストコロニアル理論の代 表的な書き手として知られる Homi K Bhabha(1994) の概念を、Potter らがインターネット等のデジタル 空間に適用、発展させたものである。それは日常の 空間(第一の空間)と学校などの制度的な空間(第 二の空間)のあいだにあり、複雑な文化的パフォー マンスの生成する場所である。部活動や図書館での 活動などを想起しやすいが、この空間という用語は あくまで比喩であり、物理空間を指すだけではない。 Potter らは、デジタルな文化経験が主に学校の外で 得られている現状において、そのような経験が物質 的にも記号的にも動的に変化し続けているという様 相から、リテラシーを示そうとしたのである。第三 の空間においては、その動的な性質が文化的な意味 生産を支える。Potter らが示すリテラシーには、学校 で学ばれ生産される意味と、学校の外で学ばれ生産 される意味は、個人や集団のなかで、常に交渉の過 程のただなかにあるということが含意されている。 教育という場面で、学習者と社会・文化との関わり 合いを扱うことは、そのような意味交渉のありよう を扱うということである。 3 メディア表象へのアプローチ 3-1 意味の交渉=政治的なかけひき? Potter らのモデルはデジタルな文化に目を向けて いるため、昨今の社会状況に合わせた新たなリテラ シーを提示しているようにみえるかもしれないが、 すでに示したように、それはメディアを扱ったこれ までのリテラシー教育に関わる議論を包括的に扱お うとしたものである。つまり、メディア教育におい て意味の交渉過程をいかに扱うかという問題は、こ れまでのメディア教育の歴史の延長線上にある。そ こで、以下にその歴史から、意味の交渉としてのメ ディア・リテラシー教育の問題を素描しつつ、現代 のメディア状況に接続させたい。 最初に挙げるべきは、Judith Williamson(1981/2) の議論である。彼女の議論は、メディア分析を通じ てフェミニズムの価値観や分析方法を教えるもので ある。彼女は、メディアを教えるなかで、学習者自 身のアイデンティティと直結する表象が教室で取り 上げられ、分析の対象とされるとき、その学習者を 学習者として十分には位置づけられなかった。具体 的には少女漫画における金髪ヒロインの女性表象が 取り上げられたが、ほぼ同様の格好をしていた女子 学生のAstrid は授業中、何も発言せず、沈黙しかし なかった。後に、Sue Turnbull(1998)によって、発言 しないことが何より自らのアイデンティティを保守 しようとするある種の政治的な行為であったと解釈 されることとなるが、メディア・テクストを教室に 持ち込むことは、そのような政治的なかけ引きの場 を誘発しやすいと考えられる。Turnbull は自らが関 わった学習者とAstrid を重ね合わせつつ、「エンパ ワーメントとは、人の家族や価値観を排除すること なのか?」と問題を提起する。要するに彼女は、教 育という場面におけるリベラルの暴力性に疑問を投 げかけたのであった。この問題は、時代が経てなお、 メ デ ィ ア 教 育 の 問 題 と し て 逡 巡 し 続 け て い る 。 Marnina Gonick(2007)は、集団的な物語創作における 想像的なアイデンティティ構築のありように問題の 打破を試みた。制作的課題により、学習者に沈黙を 強いられることはなくなり、リアルな当事者の声が 話し合いでは聞かれるようになった。が、結果的に 創作物はある種のパロディで構成されたというこ と、そのような距離を置いて物語を眺めるよう学習 者が方向づけられたという問題点が残った。そのよ うにしか支配的な物語への抵抗が表現できないので あれば、結果的にそれは周縁化された生活経験をメ タ的に捉えたりするような機会を奪いかねない。 当日の発表ではもう少し詳しく説明したいが、こ れらの議論が問題として描き出しているもののひと つは、自己が関り合う表象への同一化と差異化の問 題であると考える。この点は、現代のメディア状況 において、より重要性を増していると思われる。 3-2 表象への同一化の問題として 現代のメディア状況における問題のひとつとし て、炎上という現象を取り上げる。大谷卓史(2016) によれば、炎上現象における書き込みは「道徳感情 や正義感であるものの、ルサンチマンを根底にする」 としつつ、「実際のところ、炎上現象における怒り や正義感は,復讐感情や嫉妬が(当人にもわからな ― 97 ―

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い形で)偽装されたルサンチマンか、それとも問題 解決へと結び付くポジティブな怒りや道徳感情であ るか、即座には判断しがたい」点が課題であるとい う。また、ネットメディアの言説と新聞等のマスメ ディアの言説の絡み合いが、ルサンチマンを増幅さ せ、「当事者をひどく苦しめる結果に陥ることにな る」とも指摘している。 こうした炎上現象が、SNS を中心とした表象への 同一化や差異化を原理として生み出されていること は想像に難くない。特に、映像表象については、そ のリアリティが「映像化された諸々の対象の同一性 や出来事の分節化された意味を映像とは別の次元で 社会的に保証する何らかの象徴を、再現された映像 の中にわれわれが認めたことによって成立する性質 のもの」(佐々木和彦, 1998)と言われるように、物 質的なものと記号的なものへの複雑な同一化、差異 化言説の生産過程において現れる。 こうした状況を、ステュアート・ホールのいう「文 化的アイデンティティ」の概念によって把握するこ とは、動的ものとしてのリテラシーを考えるうえで 有効であると思われる。それは、「文化的アイデン ティティとは「あるもの」ではなく「なるもの」」 という見方である。また、表象の内部においてアイ デンティティが形づくられるという見方から、メデ ィア制作を現状に合わせて考え直していくことがで きるのではないかと考えられる。 紙幅の都合上、考察の詳細は当日の発表において 示す。また、こうした考えのもと、高等学校におい て、Twitter の利用規約を読んで書き変える実践を試 験的に実施してみた。当日は、その結果の報告と合 わせて、国語科のメディア・リテラシー教育の実践 化の様相をより詳しく示していきたい。 4.引用文献 大谷卓史(2016)「炎上とマスメディア―最近の定 量的研究を読み解く」(『情報管理 59 巻 6 号』, 国立研究開発法人科学技術振興機構, pp. 408-413.) 小川明子(2009)「メディア・リテラシーとパブリ ック・アクセスの接点─ P.フレイレの識字教育を 媒介に─」(『立命館産業社会論集 第 45 巻第 1 号』, pp.91-106.) 佐々木和彦(1998)「映像のリアリティに関する理 論的考察」(『年報社会学論集』, 関東社会学会, pp.47-58.) 羽田潤(2020)「国語科メディア教材としてのマル チモーダル・テクストの可能性―短編アニメーシ ョン『ひな鳥の冒険』の予告編制作から見えてき たもの―」(『国語科教育 第 87 集』, pp.11-13) 松山雅子(2013)「社会文化的テクストに関する研 究の成果と展望」(全国大学国語教育学会編『国 語科教育学研究の成果と展望Ⅱ』、学芸図書) Bhabha, H K. (1994) The Location of Culture, Routledge.

(ホミ・K. バーバ、本橋哲也・正木恒夫・外岡尚 美・阪元留美訳(2005)『文化の場所―ポストコ ロニアリズムの位相』, 法政大学出版局)

Buckingham, D. (2003) Media Education: Literacy,

Learning, and Contemporary Culture, Polity.

Gonick, M. (2007) ‘Girl Number 20 revisited: feminist literacies in new hard times’, Gender and Education 19(4), PP.433-454.

Hall, S. (1990) Cultural Identity and Diaspora in Identity,

Community, Culture, Difference, Lawrence & Wishart.

(ステュアート・ホール、小笠原博毅訳(1998) 「文化的アイデンティティとディアスポラ」(『現 代思想 Vol26-4』, 青土社, pp.90-103.)) Lambirth, A. (2018)「画一化されつつある教育状況下 のコミュニケーション―小学校 17 校の児童談話 にみる書くという行為の捉えかた―」(『国語科 教育 第 84 集』, pp.12-16.)

Potter, J., McDougall, J. (2017) Digital Media, Culture

and Education: Theorising Third Space Literacies,

Palgrave Macmillan UK.

Street, B. (2003) ‘What's "new" in New Literacy Studies? Critical approaches to literacy in theory and practice’

Current Issues in Comparative Education, 5(2),

pp.77-91.

Turnbull, S (1998) ‘Dealing with Feeling: Why Girl Number Twenty Still Doesn’t Answer’, in David Buckingham (ed.) Teaching Popular Culture: Beyond

Radical Pedagogy, UCL Press, pp.88-106.

Williamson, J. (1981/2) “How Does Girl Twenty Understand Ideology?” (Screen Education, 40(Autumn/Winter), pp.80-87)(ジュディス・ウィリ アムスン、砂川誠司(翻訳・解説)(2010)「女 子 20 番はどうやってイデオロギーを理解したの か」(『論叢国語教育学』復刊第1 号(通巻 6 号)、 広島大学国語文化教育学講座), pp.101-113) ― 98 ―

参照

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