笠原 亜希子
1)知的障害者のスポーツをめぐる「身体経験」の論理
1) 筑波大学大学院人間総合科学研究科博士後期 課程体育科学専攻 〒 305-8577 茨城県つくば市天王台 1-1-1 E-mail: [email protected] 抄 録 わが国における知的障害者のスポーツプロモーションの課題のひとつは、意思の伝達や決定に問 題を抱える知的障害者がスポーツをする当事者としていかに社会認識されるのかということにある。 そこで本稿では、この課題への解決を前進させ、社会的に問題を共有する上で必要と考えられる社 会構築主義的視点に立って、他者と共に自己決定をする知的障害者の「身体経験」を明らかにする 論理とは何かを議論することを目的とした。それはすなわち、従来の「身体論」に基づいてその論 理を探究しながら、その理論的限界を追究し、そこから新たな可能性を論じることを意味している。 本稿ではまず、知的障害者のスポーツをめぐる「身体経験」が社会的に不可視されることについ て、政治的構築主義の視点からその論理を問題化した。次に、現代社会における障害者の身体をめ ぐる経験の理論的課題をおさえた上で、障害学と、スポーツ社会学における「経験」の論理は、そ の中心に心身二元論と言語を前提とする現象学的身体論があることを確認し、知的障害者の「身 体経験」を理解する上において理論的限界があることを指摘した。そこで、このような理論的現 状を乗り越える理論として「肉体論」をとりあげ、その理論的背景にある人間の「未確定の存在」 [Gehlen, 1993=2008]を手がかりにして、社会構築主義的視点における政治的構築主義の立場から 「身体経験」の展開可能性について論じた。最終的には、この肉体論を補完する理論として、比較社 会学における「間身体的連鎖」[大澤,1996]を取り上げ、スポーツ社会学における「肉体論」と「間 身体的連鎖」を関係づけることを通じて、知的障害者のスポーツをめぐる他者を包括した「身体経 験」を考察する上で必要と思われる新たな理論的な枠組みの可能性を指摘した。 キーワード: 知的障害者、身体経験、社会構築主義、肉体論、間身体的連鎖■原著論文
The Logic of “Physical Experiences”
in Sports for People with Intellectual Disabilities
KASAHARA Akiko
1)Abstract
Raising the awareness that people with intellectual disabilities can actively participate in sports, even if they have problems with decision-making or communicating their will, remains a challenge for sports promo-tion in Japan. This study seeks solupromo-tions from the standpoint of social constructivism and aims to define a theory for elucidating the “physical experiences” of people with intellectual disabilities whose decision-making involves others. That is, we explore a theory based on conventional “body theory,” pursue theoretical limita-tions, and discuss new possibilities.
We first raise the issue of how the “physical experiences” of people with intellectual disabilities in sports become invisible to society from the perspective of social political constructivism. Phenomenological body theory assumes that the mind-body dichotomy is the heart of the theory of experience in disability studies and sport sociology; however, there are theoretical limitations to understanding the experiences of people with in-tellectual disabilities. Instead, we focus on a “physics theory” that overcomes such theoretical limitations, use hints from the “undetermined existence” of the human [Gehlen, 1993, 2008] that lies behind that theory, and discuss new possibilities from the standpoint of social political constructivism. Finally, as a complement to physics theory, we focus on the “intercorporeal chain” [Osawa, 1996] in comparative sociology, noting the new potential theoretical frameworks necessary for discussing “physical experiences” that include others through sports.
Key words: people with intellectual disabilities, physical experiences, social constructivism, physics theory, intercorporeal chain
■ Japan Journal of Sport Sociology 29-1(2021)
1) Doctoral Program in Physical Education, Health and Sports Science, University of Tsukuba
1-1-1, Tennodai, Tsukuba, , Ibaraki, 305-8577 E-mail : [email protected]
1. 問題の所在 1.1 問題意識 2006 年国際連合が発効した「障害者権利条 約」は、そのスローガンに「我らを抜きに我ら のことを決めてはならない!」[Charlton, 2000] とあるように、障害者の人権と基本的自由のた めに、福祉やリハビリテーション等の活動に 対して「当事者(のための)」視点を求めてき た。知的障害者のスポーツも例外ではない。だ が、知的障害者のスポーツ活動が世界規模で行 われるようになったのは、身体障害者を対象と した第 1 回パラリンピック大会(1960 年)の 開催から、およそ 30 年遅れた 1990 年代からで ある1)。この要因は「身体障害者のスポーツは 障害者の当事者活動として推進されたが、知的 障害者は自らの意志や考えを訴えることができ にくい人達であるために、当事者本人の活動と しては推進しづらかった」[渡邊,2006:136] と指摘されてきたが、今日においてもなお、知 的障害者のスポーツ活動の課題は「知的障害の ある人が運動・スポーツを楽しむことができる 存在として社会全体で認識すること」[澤江, 2013:89]とされるように、スポーツ活動にお ける知的障害者を「当事者」として理解しよう とする他者からの視点がどのような論理によっ て成立するのかについては、解決しないまま残 されていることを忘れてはならない。 一方、わが国の民間スポーツ統括団体におけ るスポーツの指針である「スポーツ宣言日本」 において、スポーツは「自発的な運動の楽しみ を基調とする人類共通の文化」[公益財団法人 日本体育協会・公益財団法人日本オリンピック 委員会,2013]と定義している。このような現 代的定義を用いるなら、知的障害者をスポーツ 活動の当事者としてとらえることは、彼/彼女 らが「自発的な運動の楽しみ」を経験している からこそスポーツに取り組む存在であるという 社会的な認識の重要性を意味しているといえよ う。とはいえ、この「自発的な運動の楽しみ」 の「自発的」が意味するところの背景にある人 間像には、本来的に自立した主体としての人間 像が暗黙裡に想定されており、このような現代 的定義からみたスポーツは「自己決定と権利擁 護には支援者、地域社会の理解が不可欠」[古 井,2012:59]だとされる知的障害者をうまく 包摂できないのではないかとの懸念が残る。つ まり、スポーツの現代的定義を知的障害者にあ てはめると、他者とともに行動し自己決定する 彼/彼女らが日常のスポーツ活動をめぐって経 験している「楽しみ」を、社会がどのようにし て担保し、「自発的な運動の楽しみ」として後 押ししていくかという視点が見落とされてしま うのである。本稿の動機は、この見落とされた 視点を補完する論理を検討してみたいというこ とにある。それは、スポーツを通じた「共生社 会」の創生を目指す現代において、知的障害者 のスポーツ活動の課題を前進させるため、彼/ 彼女らの日常のスポーツ活動で経験しているこ とを「身体経験」とし、この「身体経験」を社 会がどのように担保し、後押しするかという視 点と、それに基づく論理を提供することを意味 している。 本稿が「身体経験」を主題とする理由は、次 のとおりである。まず第 1 に、人間にとっての 「自発的な運動の楽しみ」とは、そこに至るま でに日常的に取り組まれたスポーツや運動をめ ぐる「身体経験」の束の帰結からもたらさる生 の喜びや楽しみに裏打ちされているというプロ セスを併せ持っており、知的障害者の場合、「身 体経験」に遡ってその論理を考察する必要があ ると思うからである。第 2 に、本稿でいう「身 体経験」の論理とは、上述したスポーツの現代 的定義から見出される自発的な楽しさを考える 上で必要な論理であり、それは、現代社会で主 流となっている論理と密接に関係していると思 うからである。第 3 には、知的障害者のスポー ツをめぐる「身体経験」とは、本人と他者によ って社会的に構築されると推察され、そこに知
的障害者の新たな「当事者」性を明らかにする 論理が示唆されると考えるからである。 1.2 本研究の目的と枠組み では、「身体経験」が「社会的に構築される」 とはどのようなことか。通常、「身体経験」と は誰のものかと問われれば、「当事者」のもの だろう。だが、それがどのようなものかを問う とき、健常者を基準にした応答においては「当 事者」が「他者」に伝える能力を必要とし、知 的障害者には、「当事者」が自分の経験を言語 化する能力を有しているかが問われることにな る。その時、意思の伝達や決定に問題を抱える 知的障害者の経験は社会的に不可知なものとな らざるを得ない。その要因はどこにあるのか。 次のような記述がある。「相手コートに返す ことが難しかったからといって、転がるボール をラケットに当てる運動の楽しさを知らないと いうわけではないだろう。また、クラス対抗リ レーで相手チームの友達に追い越されても、ニ コニコしながら自分のペースで走る知的障害の ある生徒がいたならば、その生徒は確かに競争 という価値でスポーツを楽しめてはいないかも しれないが、走ること自体の楽しみを得ていな いわけではない。そして、遠くにボールを投げ る投スキルはなくても、投げること自体を繰り 返す子どもは、投げる運動を楽しんでいると理 解してよいかもしれない」[澤江,2013:85] と。この記述から推察すれば、身体経験を不可 知なものにしている要因は、彼らの言語化する 能力にあるのではなく、知的障害者の発達に 応じたスポーツの楽しみ方を理解する[澤江, 2013:85]ことのできない社会の側にあること に他ならないというということである。 では、他者は知的障害者の「身体経験」にど のように関与するのか。たとえば玉置[2007] は、知的障害者のスポーツ活動は、知的障害を 持たない「非当事者」からの接近でしか存在し えないと述べているように、知的障害者のスポ ーツ活動の身体経験は、共に行動する他者との 相互作用という観点からの認識可能性が指摘さ れているものの、「当事者性」の手がかりとし て関心が払われているとはいえない。このよう な経緯から、本稿は、知的障害者の「身体経 験」を、言語を介して理解することにとどまら ず、行動を共にする他者との相互作用としてと らえ、そこに知的障害者の立場から注意を払っ ていくための固有の論理が求められるのではな いかと考えた。そのためには、これまで述べて きたような個の人間に対する普遍的で絶対的 な「当事者性」の理解の仕方から一旦離れ、知 的障害者にとっての「当事者」と「他者」との 相互作用によって社会的に構築される「身体経 験」の論理自体を問い直す必要性が見えてくる のである。そこで本稿は、このような社会構築 主義的視点に立ちながら、意思の伝達や決定に 問題を抱える知的障害者のスポーツをめぐる身 体経験を明らかにする論理について議論するこ とを目的とする。 ではなぜ、本稿では社会構築主義的視点とい う枠組みを重視するのか。図 1 は、そこに至る プロセスとして「社会構築主義」的「身体経 験」の構図を示したものである。社会福祉学に おける社会構築主義理論に基づく「ニーズが帰 属する主体」[上野・中西,2008]の概念によ れば、社会におけるニーズは「当事者」と「他 者」によって構築され、社会的に認知される 「要求ニーズ」と「承認ニーズ」を派生させて これを顕在化させるとする。同時に、「当事者」 と「他者」は、望まない「庇護ニーズ」や、社 会的に認知されない「非認知ニーズ」を生み出 すとする。この時、当事者にも他者にも認知さ れない「非認知ニーズ」とは、一般的な健常者 の日常生活の現象としてはあり得ない次元とい えるが、Bradshaw[1972]は、この第三象限を 「比較ニーズ」と呼んで、「同じ状態のほかの対 象者(集団)にニーズがあるかという基準に比 較してとらえる視点」[Bradshaw, 1972: 70-82] と述べるように、この象限は実在する現象を指 すのではなく、社会構築主義理論を前提として
成り立つ認識的な次元と考えるのが妥当であろ う。 本稿は、このような社会福祉学における理論 を手がかりに、知的障害者の「身体経験」が 「当事者」と「第三者」によって社会的に構築 されると考える。そうすることで、この第三象 限の「非認知ニーズ」を「身体経験を不可視化 させる領域」ととらえ、不可視化させる仕組み が社会的に内在されているという視点に立つ。 同時に、この第三象限は具体的な現象をいう のではなく、Bradshaw の定義でいえば「ある サービスを受ける人々の特性を研究すること」 [Bradshaw, 1972: 73-74]から導かれる理論的検 討のための領域であることを踏まえる必要があ る。それは、スポーツをする主体の特性を「他 者と共に意思決定する知的障害者」とし、理論 的検討の中心に「身体」をおいて、そこから導 かれる「身体経験」の論理を議論するというこ とである。それはすなわち、今日のスポーツ社 会学における「身体論」を、知的障害者の視点 をもって検討し、それが彼/彼女らの「経験」 に対して十分な考察を可能にしているかを問 い、そこから新たな論理の可能性を論じること を意味している。 2. 障害者の身体経験に対する研究視点 ―先行研究の検討からみた理論的枠 組み― 2.1 「身体経験」に対する社会構築主義的視点 当事者と第三者=他者による「身体経験が社 会的に不可視化される領域」にアプローチする 社会構築主義理論とは何か。北田[2006]によ れば、社会構築主義は論者の問題関心によって 狭義と広義に二分されるという。狭義には「方 法論的構築主義」といい、社会学の方法論的 な問題関心によって導かれ、「問題がいかにし て語られるか」の経験的記述である。これに対 し、広義には「政治的構築主義」といい、政治 的な問題関心によって導かれ、哲学や言語観に 関係する。主に言語(記号)と言語が指示する 内容、言語観に対抗するもので、歴史的・文化 的な限定性は言語が展開していると考える立場 である。これらの立場と人間の「経験」の論 理との関係をひとことでいえば、前者におけ る「経験」は、その方法論的立場を現象学的考 察が担う。これに対し後者は、「われわれの知 識が実在の知覚であることを否定する」[Burr,
図1 社会福祉学における社会構築主義的ニーズと本稿の視点
[上野・中西,:]に筆者加筆
図2 知的障害者のスポーツをめぐる「身体経験」の肉体論的構造
[大澤,:YLLL]に筆者加筆
【 【第第三三者者】】 顕在 庇護ニーズ 承認ニーズ 【 【当当事事者者】】 庇護ニーズ 承認ニーズ 潜在 顕在 ↑ 知的障害者の「身体経験」が 潜在 社会的に不可視化する領域 非認知ニーズ 要求ニーズ 「間身体的連鎖」による身体経験の構造 三層としての「肉体論」 超越性 ① 主主体体 ssuubbjjeecctt== 人人 mmaann 主体としての「身体経験」 【【wwiillll((意意志志なないいしし欲欲求求))がが問問わわれれるる】】 ② 客体としての「身体経験」 客客体体 oobbjjeecctt== ここととばば llaanngguuaaggee 【
【sshhaallll((制制度度))がが問問わわれれるる】】
客体としての「身体経験」
③ 超超客客体体 ssuuppeerroobbjjeecctt== 自自然然 nnaattuurree 【 【mmuusstt((必必然然))がが問問わわれれるる】】 内在性 ①②→ 方法論的構築主義の問題領域 ②③→ 政治的構築主義の問題領域 肉体=経験する物質 抽象身体 第 三 の 審 級 集権身体 抑圧身体 人の圏 ことばの圏 自然の圏 他者 原身体性 過程身体 運動・スポーツする身体 図1 社会福祉学における社会構築主義的ニーズと本稿の視点 [上野・中西,2008:14-16]に筆者加筆
1995:訳書 4-8]から、「構築主義 vs 本質主義」 [北田,2006]というように経験そのものに方 法論的に迫る意図を持たず、その政治性や再帰 性を明らかにするという理論的特徴をもつ。こ の分類に従えば、前者の方法論的立場は「身体 経験が記述される」ことを理論的前提とするか ら、知的障害者の言語化能力をめぐって派生す る記述可能性が理論的限界として示されること になろう。これに対して、後者の立場は、知的 障害者の「身体経験が不可視化される」ことは 言語によって理論的に限定性がもたらされてい るに過ぎず、そこに健常者を基準とした人間像 に対する政治性とその論理の影響を探っていく 視点であり、本稿に何らかの示唆を与えるもの と考えられる。 では、このような政治的構築主義の立場から みた「身体」とは何か。身体の社会学におい て、政治的構築主義の立場から加藤[2003]は 身体を「物質」と定義し、「さまざまな性質の 総和、諸活動の把捉しがたく動き続ける連鎖だ けが現実の、〈物質的なもの〉としての身体」[加 藤,2003:181]であると述べている。そこで、 次節では、知的障害者の「身体経験」をめぐる 論理について、先行研究における「身体」の論 理の特徴をとらえてみたい。 2.2 障害学における「身体経験」の理論的課題 まず、現代社会における障害者にとっての身 体の「経験」をめぐる問題について、障害学 の論理を見ていこう。障害学は、1980 年代か ら「障害の社会モデル」2)を提唱し、国際的な 障害者運動の主流となる学問分野である。障害 の「社会モデル= disability」とは、個人の障害 「個人モデル= impairment」への介入ではなく、 「障害は個人ではなく社会にある」として社会、 環境によって社会的に構築される障害を強調 し、障害問題を社会問題の俎上にあげてきた [長瀬,1999:17]。しかし、障害学はその成果 と同時に「社会モデル」が他方で障害者の「身 体をめぐる個人的な経験」を看過するものにな っているという重要な問題点が指摘されるよ うになっている[Morris, 1991: 11-12][Hughes & Paterson, 1997: 326]。たとえば、倉本は、社 会構築主義的に一般化され抽象化された「障 害」は、障害者の経験の個別性、すなわち生の 具体性をとりこぼしてきたと指摘する[倉本, 2002:201]。その要因とは、社会構築主義的な 「社会モデル」が、制度的位相においてのみ把 握されるから、障害者の「個人的な経験」を充 分に把握しきれないというわけである[星加, 2007:70]。 こうした障害の「社会モデル」という理論的 なとらえなおしには、政治的構築主義的な「障 害」のとらえ方、すなわち「身体/社会」とい う二分法を用いて、問題の所在を明確にすると いう戦略がある。その戦略は、ポスト構造主 義的理論を背景にして、障害を社会的抑圧とし てとらえる視点を強調することにより、個々 の「身体」を排除するという理論的特徴を持つ [Huge & Paterson, 1997: 328][長瀬,1999][倉 本,2002:199][石川,2003][星加,2010]。 すなわち、障害の「社会モデル」にとって、身 体をめぐる「個人的な経験」は理論的課題とし て棚上げされてきたのであり、その関係性は社 会構築主義的にとらえられた「障害」を、あく まで方法論的立場で補完するものとして位置づ けられるということである。本稿の視点におい ては、このような理論的課題に対して、障害の 「社会モデル」が排除した「身体」が、障害者 の経験にいかなる論理で包摂されるのかを辿る 必要が残されよう。 「身体の社会学」という立場がある。Turner は、これまで述べてきたような「障害」の「身 体/社会」という二分法に対し、障害学に根差 した問題解決を目指し、Burger and Luckman の 知見に依拠しながら「個人的な経験」を理論的 に包括する身体論を展開する。彼は、障害に関 する議論の中心に「身体の社会学」を据え、「身 体化 embodiment」という言葉を軸に、「ポスト 構造主義と現象学の結合」と呼んで、障害者の
動く「身体」を理解するためには、その「個人 的な経験」に対する現象学的分析によって理論 的和解が果たせると考えた[Turner, 2001: 254, 257]。このような「身体化」は、スポーツ社会 学における身体論で広く用いられる概念で、社 会モデルの特徴であった制度的位相が静的な身 体をとらえるのに対し、動的な身体が繰り広げ る経験の視点を提供すると考えるものである。 だが、彼のいう経験をとらえる方法としての現 象学的分析とは、代表的論者をメルロ=ポンテ ィとする人間の意識を出発点とした分析方法で あり、障害学においても「リハビリテーション などで問題にされるオフィシャルな身体と、個 人的な経験の主観的な身体とのあいだの関係そ のものを主観的に扱おうとするもの」[Turner, 2001: 254]である。また、彼は次のようにも 述べている。「社会学から見れば、私の身体と 他者の身体を中心に考えすぎたところに、現象 学の限界がある」[Turner, 1984:訳書 63]と。 つまり、本稿の立場からみた場合、障害学で展 開される「身体の社会学」は、社会構築主義 的にとらえられた「障害」の理論的課題であ る「経験」を、主体を不可欠とする現象学的身 体論で明らかにしようとするのであり、知的障 害者の「経験」の記述可能性を問うという意味 で、その論理は方法論的構築主義に基づいてい るということができるのである。 2.3 スポーツ社会学における「経験」の論理 では、スポーツ社会学における「身体経験」 の論理の特徴とは何か。スポーツ社会学におけ る「身体」の論理は身体論である。こうしたス ポーツ社会学の「経験」の系譜を辿ると、そ れは 1990 年代に提唱されており、その論理は 「現象学的社会学の特色のひとつは、社会現象 や社会制度を単に外側から客観的にとらえるの ではなく、それを経験する人びとの経験そのも のからなるべく切り離さないようにしてとらえ ようとする点」であり、その方法は「スポーツ の体験というものを内側からとらえ、その意味 を汲みとり、スポーツ社会学の理論のなかに組 み込んでいくやりかた」[井上,1993:35]に 集約されてきたといってよいだろう。つまり、 スポーツ社会学にとっての「経験」とは、人間 の「外側」であるスポーツ社会学の理論を補足 する「内側」の論理としての現象学的身体論の ことを指す。これに対して、渡[2014]は、ス ポーツ社会学においてこのような「経験」をと らえる研究は成果をみせず、その要因はその論 理自体にあると指摘するのである。彼が主張す る「経験」は「個々のスポーツ実践とその実践 に与える意味付けの総体」であり、「意味づけ の総体」を通じて得られる「スポーツ実践の固 有の論理」によって「社会的なるもの」へ達 成されるのだと主張される[渡,2014:55-56, 63]。このような彼のいう「意味付けの総体」 には、知的障害者の「身体経験」を社会的なる ものへと目指す志向性から、本稿との理論的接 点が見いだされるが、彼の「経験」も「当事 者」に限定される[渡,2014:56]ことから、 今日のスポーツ社会学における「経験」の論理 の特徴は、現象学的身体論と極めて高い親和性 を持ち、方法論的構築主義の立場から社会理論 を補完する論理ということができる。つまり、 これまで述べてきたように、障害学とスポーツ 社会学は、人間の動的な身体の経験を理論的に 包括するために、現象学的身体論に依拠してお り、その結果、他者と共に意思決定する知的障 害者の「身体経験」へのアプローチが困難にな ったと言わざるを得ない。では、スポーツ社会 学はこれほどまでに徹底して用いられる現象学 的身体論に対し、どのような問題意識を展開し てきたのだろうか。 2.4 「身体論」から「肉体論」へ 「肉体論」[池井,2008][菊,2008]という 認識論がある。肉体論の理論的特徴は、まず 第 1 に、身体論と対象が異なる。身体論が「主 体」「客体」の二分法を用いるのに対し、肉体 論における客体としての身体とは、「呼吸し、
食事し、子どもを生み、ねむり、死んでいく 『生きている身体』」であり、文化や社会や経済 や政治システムに操作されてその鋳型どおり に作り出された人間像のことではない[池井, 2008:23-24]と考える。肉体論では人間の身 体について、身体論ではとらえきれない、「主 体」にも「客体」にも把捉できない残余とし ての「超客体」=「肉体」という視点を提供 する3)。第 2 には、言語との関係性である。肉 体論では、これまでの身体論における身体と は「ことば」によって対象化された幻影のから だであると述べている[池井,2008:11]。菊 [2008]は、スポーツ社会学における身体論の 関心はスポーツに注がれており、それが「文明 化されたスポーツ」という意味を帯びれば帯び るほど、身体経験が理想化されて構築されるこ とに対して身体論の認識論的限界を指摘し、身 体の生体性(動物性)を文化や社会から見ると いう研究視点を失っているとし、スポーツの立 場からそれを乗り越える認識論として肉体論を 位置づけようとする[菊,2008:74-79]。こう して、「肉体論」は、近代社会の「ことば」と 現象学的身体との蜜月に対する批判を中心にお くのである。第 3 には、人間観の違いである。 肉体論的「人間」とは、「他の生物とは違う特 別な行動」[池井,2008:25]をとる生物であ り、「人間は動物とどのように違うのか」[菊, 2008:90]という認識論的観点を持つ人間像で ある。本来的には他の生物と同様に自然のもの であるはずの人間の物質的な「肉体」が、文化 や社会を通じて後付けの「身体」という認識を 纏うことによって、言語が到達できない領域と しての「超客体」を人間は持たざるを得ないと 考えるのである。 池井は、このような肉体の構造的特徴につい て、身体論が「主観」と「客観」の二層である のに対し、肉体論のそれは『人の圏−ことば の圏−自然の圏』」といった三層で構成されて いると述べている。肉体論としての人間の構造 は、まず主体(subject)の圏があって、そのま わりの圏に客体(object)と「にせ」の外界の 対話をもち、この圏を「ことばの圏」と呼んで 想像する自分と想像される自分によって人格が 成り立つと考える。そして、さらにその外側 に「自然の圏」と名付けた圏をおき、その圏で のみ肉体は超客体(superobject)として息づく ものと位置づけるのである[池井,2008:15-16]。このような肉体論の「超客体」を手がかり とすれば、「超客体」である肉体にとっての経 験、すなわち、主体/客体の二元論では説明で きない肉体論的「身体経験」は、既存の身体論 的「身体経験」が顕在化できない客体としての 他者との関係性を持つことを示している。だか ら、本稿が問題化する「身体経験を不可視化す る領域」は、政治的構築主義の視点に立つと き、「肉体論」と「身体論」の「経験」を比較 することを通じて、他者との関係性に対する新 たな示唆を得ることができると考えられる。 しかしながら、これまで述べてきたように、 肉体論は言語を超える理論であることを踏まえ ると、これ以降「超客体」をあえて言語で説明 することには抽象性を免れないことが推察され る。池井[2008]は、「超客体」にアプローチ する方法論として、「ことばでとらえられた人 間であることをたえず反省しながら諸科学の結 果を比較すること」[池井,2008:26]を示唆 している。そこで、次節では、肉体論の理論的 背景にある人間観を探ることを通じて、肉体論 的「超客体」をもった身体経験の構造について 言及し、次に、その結果と共鳴する既存の論理 との関係性を明らかにすることを通じて、新た な論理の可能性を論じていきたい。 3. 社会構築主義的視点からみた 「肉体論」 3.1 「肉体論」の理論的背景 本節では、肉体論的「超客体」をもった身体 経験の構造的な特徴に言及するため、まず、肉 体論的「人間」観の知的源泉のひとつである生
態学と社会学の結合を目指した哲学者アルノル ト・ゲーレンによる著書『人間』から、肉体論 的「人間」観の理論的背景をとらえておきた い。 Gehlen は、人間には生物学的に特殊概念が あり、「まだ定まっていない動物」を意味する 「未確定の存在」として、次のように「動物」 とは異なる人間構成観念を持つと述べている。 まず第 1 に、人間は他の動物ならば持ちうる有 効な適応的自然環境を持たず、「欠陥生物」と して世界に開放されている。そのため、人間は 無防備で、貧弱な存在であり、危険にさらさ れ、生きながらえるために、その感覚と運動の 図式の中に人間独自の「負担免除」のカテゴリ ー3)を持つ生物である。第 2 には、人間はその ような自然環境と一体化していないがゆえ、動 物にとっての「環境世界」の代わりに第二の自 然としての「文化世界」を持ち、それが生活の 条件となる生物である。第 3 には、人間は「行 動する存在」である。Gehlen の出発点は「行 動」である。彼はこのような「未確定の存在」 としての身体を「肉体」と呼んで、第二の自 然=文化世界の身体とは異なるものと考えた [Gehlen, 1993:訳書 4-16,29-32]。 したがって、肉体論的「人間」観とは、動物 より優位であるがゆえに、第二の自然としての 文化世界を環境として社会を構成できる生物で あると考えるのではなく、むしろ、自然環境と 一体化できない人間の「肉体」的性質において は、常に失敗の可能性に晒されているという点 で、動物より劣位だという考え方なのだ。この ような人間観においては、人間は現代社会が求 め続ける単独で自立した存在でいられるわけは なく、社会という他者との共存可能な「環境」 なしには生きながらえることができない特殊な 動物だというのである。このような動物的生態 が見出した「環境」は、今日の人間社会におけ る自立した人間像と根本からあり方を異にして いて、何の共通点をも見いだせないと考える向 きもあろう。だが、Gehlen の人間観に依拠す るなら、今日的な自立した人間像とは幻想にす ぎず、本稿が主題とする他者とともに意思の伝 達や決定を行う知的障害者は、Gehlen の「環 境」概念下では特殊な人間なのではなく、むし ろ他者と共にあることを生活の条件とするこの ような人間を例外視してしまう現代の「文化世 界」という環境にこそ問題があり、そのことが 知的障害者の「身体経験」の不可視化をもたら していることを示唆するのである。つまり、池 井[2008]のいう「生きている体」とは、単独 で自立した人間の体ではなく、他者と共にあ る体であり、従来の身体論はこの「生きている 体」を把捉できないというわけである。では、 動物的生態として「未確定の存在」である「肉 体」の「経験」とはどのような構造を持つのだ ろうか。 3.2 肉体論における「経験」の論理 Gehlen による人間構成観念の下での「経験」 の枠組みとは、「知覚、運動、ことばの関係」 であり、そのシンボル構造を「知覚」とし、「知 覚」「運動」「ことば」からひとつを取り出して 説明することは理論上不可能な構造だととらえ られている[Gehlen, 1993:訳書 208-217]。そ のことを裏付けるのは、「未確定の存在」とし ての人間が自分の生を長らえる条件を自分で作 り出さねばならない運命にあり、そのような 「肉体」には「開かれた豊かな世界を手に入れ る課題」と「運動制御能力の進化」といった実 践的な二系列が課題とならざるをえないところ にある。Gehlen はこのような課題に対し、前 者を「コミュニケーション運動」、後者を「運 動イメージ」とした「行動」を出発点として 「肉体の未完成と適応能力」を発達させる人 間観を作り上げようとするのである[Gehlen, 1993:訳書 125-127]。本稿では、このような 理論的背景から、本稿にとっての「肉体」の 「経験」を、「行動」を出発点として、「ことば」 のみに依拠することのない複合的な関係を持つ ものとして考えていくことにする。では、この
ような肉体論からみた「経験」が複合的である ということはどのようなことをいうのか。これ まで身体論にかかわりを持つと考えられてきた 「ことば」とは何かという視点をもって明らか にしておこう。 Gehlen にとって「ことば」とは、「行動」と の結びつきの中で次のように説明される。ま ず第 1 に、行動としての「コミュニケーショ ン運動」とは「ことば」に固有なものではな く、負担免除される人間の生活の特徴である。 第 2 に、「ことば」とは人間の意図を伝達する 特別な能力であり、人間が本来の自分の体験世 界から解放されて、他の人々の体験世界に基づ いて行動することができるようになる能力であ る。だから、コミュニケーション運動の中心は 運動であり、人間の運動は負担免除された動物 の性質をもつがゆえに、人間にとっての運動は いつでも発動可能で発展可能なものとならねば ならないから、人間の発展能力にとって重要な のはコミュニケーションにおいて自分の活動 と他者を受け入れる行動、すなわち内部の行 動と生き生きとした交渉が深く結びついてい ることなのである[Gehlen, 1993:訳書 39-43, 135-142]。とはいえ、本稿の立場にとって、こ のような「ことば」をめぐる人間の「生活の特 徴」や「能力」は抽象性を免れないので、池井 [2008]の次のような記述を引いておきたい。 すなわち、Gehlen の言語観を通して見えてく るのは、人間の「相手に成り代わることのでき る能力」「別の存在に身を移して見る能力」[池 井,2008:21-22]をいうのではないか。この ように肉体論による「超客体」とは、未確定の 存在である人間が他者と共存するときに発揮す る、主体/客体では自明視できない、人間が独 自に持つこのような位相に対する視点から構成 されているのである。 つまり、一般的に経験とは、身体論を主流と する認識論を通じて「ことば」で再現され、文 化や社会で色付けされた「主体」の経験を把捉 する理論であるが、このように、肉体論の理論 的背景から見た場合、本来「経験」とは、人間 の「コミュニケーション運動」の「運動」に 依拠すると同時に、「主体」と「客体」を超越 する「超客体」を内在させた「複合的な流れを もつ」ことが見落とされてしまうというわけで ある。では、このような人間の運動と、その複 合的な流れによる人間観に共鳴する論理は存在 するのだろうか。たとえば、西田[1994]は、 「行為的直観」ということばを使って、人間の 運動は主体/客体に分離されない形成的作用 であり、それが生命にとっての環境であると 述べている[西田,1994:242-247]。また、大 澤[1996]は、経験は擬制的・仮構的な総体で ある「擬制」であり、活動(運動)を通じてね じれた関係をもつと述べている[大澤,1996: vi]。これらの人間観は、人間の経験が超客体 であると同時に、他者の存在を不可欠とする。 そこで、本稿では、後者の大澤[1996]の理論 を通じてさらに考察を深めてみたい。 4. 「肉体論」と現象学的「間身体的連鎖」 の論理との関係 大澤が考える「身体」とは、明確な「主体」 「客体」の関係性を表すのではなく、「第三の審
級 the instance of the third person」と名付けられ た「超越性」に基づく志向作用としてのプロセ スとして説明され、そのプロセス全体を「間身 体的連鎖」[大澤,1996]と呼ぶものである。 その出発点は、自然の領域の身体としての「原 身体性」であり、彼はこれを「様態」[大澤, 1996:17]と呼ぶ。この「原身体性」は、次 に「客体」としての「抑圧身体」を経て「集権 身体」へ移行し、「主体」としての「抽象身体」 へ向かう。そのプロセスを貫くのが「第三の審 級」であり、これによって循環するという仕組 みを持つと説明する。こうして、主体でも客体 でもない身体を出発点に、「他者」によって特 権的に志向され、その過程の後に「主体」が立 ちあらわれるという特徴をもつ。
この論が肉体論の志向性と共鳴すると考える 理由は 2 つある。ひとつは、先に述べたとお り、彼にとっての「経験」が複合的流れを持つ ということである。彼のいう身体とは人間が 世界、あるいはその存在に埋め込まれて内在 していると考えられ、このような身体の「経 験」とは、位相が動き続けるあり方を指し、分 析的可能性の前提となるのが「他者と本人のあ り方」としての身体なのである[大澤,1996: v-xi]5)。そしてもうひとつは、大澤にとって、 身体のあり方が様々な経路をたどると考える出 発点に、幼児と分裂病者を事例にあげて、人間 の特殊性を踏まえるという点があるからであ る6)。彼によれば、分裂病の場合、「身体の所 作を統括する規範が安定的に実現しない」こと から、「原身体性」が他者を通じて「抑圧身体」 となるとき、「間身体的連鎖から独立した 実 体 として投射されず、具体的な身体像を持っ たものとして結実しない」と述べている。そ れは「他者のまなざしの前で 石化 する」と いう記述が象徴するように、分裂病者の身体の あり方とは、本来他者からの予期的表象として の「規範」を伴って身体像をもつところを、他 者の期待を外してしまうことによって他者との 関係に例外的な反応が起こることを意味してい る。彼は、そのような例外的な流れを包括し た複合的な流れに対し、超越的な「第三者の 審級」を提示するのである[大澤,1996:66-67]。では、このような人間の特殊性に対し、ス ポーツをする知的障害者の身体はどのように関 わると考えたらよいのだろうか。 知的障害者のスポーツをめぐる運動の特徴 は、「不器用さ」「ぎこちなさ」[安井,2004] [村上,2008]にあり、複雑な運動課題になる ほどその差が大きくなることが報告されている [安井,2004]。安井は、その要因に彼/彼女ら が様々な外界からの刺激に対する興味、関心の 低さによって、運動能力を最大限に発揮すると いう必然性を感じられない[安井,2004:160-161]ことを指摘する。また、村上は、「不器用 さ」「ぎこちなさ」の問題とはそれ自体ではな く、彼/彼女らの自尊心に影響することにある と述べる。そして、そのような特徴を克服する 上で必要なことは、「本人の努力や経験、親の しつけ」といった一般的な規範ではなく、知的 障害者の発達特性として「脳の働き方とその人 を取り巻く環境によって方向づけられ、日々変 化しながら進んでいる」[村上,2018:16-19] という視点であるという。つまり、スポーツを めぐる所作や運動においては、知的障害者もま た、本人の意志や関心によってそれらを統制す ることに困難をもち、同時に他者のまなざしの 影響を健常者より過大に受ける存在でありなが ら、他者の「規範」によって統制できないとい う意味において、大澤の記述に類似する人間の 特殊性をもっているといえよう。したがって、 彼が分裂病を事例に記述した人間の特殊性を踏 まえた「間身体的連鎖」とは、人間の身体が展 開する行動の様々な実存形式に言及しようとす る理論であり、本稿は、これを知的障害者にも 適用可能な理論として考えていきたい。そこ で、本稿では、このような大澤の「間身体的連 鎖」による身体経験の構造に対し、知的障害者 のスポーツをめぐる「身体経験」の肉体論的構 造との関係性について考えてみたい。 本稿では、先に知的障害者の「身体経験」が 肉体論的三層の「超客体」の位相にあるとき、 社会的に不可視化されるのではないかと述べ た。では、肉体論とこれまで述べてきた「間身 体的連鎖」との理論的な共有可能性はどこにあ るのだろうか。図 2 は、右側が肉体論的視角に よる三層の「肉体」であり、左側に大澤の「間 身体的連鎖」を位置づけ、その関連を示したも のである。三層の肉体とは、「人の圏」として の「主体」、「ことばの圏」としての「客体」、「自 然の圏」としての「超客体」の集合体として の人間像であった。これに対し、「間身体的連 鎖」の「経験」は次のように呼応すると考えら れる。人の圏における「身体」とは、「抽象身 体」をいい、文化の圏における「身体」とは、
66 制度・文化的な客体としての「集権身体」とそ の前提となる「抑圧身体」をいうと考えるのが 妥当であろう。このように考えてくると、スポ ーツ社会学と障害学で主流とする方法論的構築 主義の論理は、「人の圏」と「ことばの圏」を 問題化する論理として位置付けられよう。 これに対して、「自然の圏」における「超客 体」としての「肉体」は、「間身体的連鎖」に おいて「身体経験」の出発点を意味し、それ は「原身体性」と「過程身体」と考えられる。 この時、「原身体性」とは「様態」であるから、 政治的構築主義からみた「物質」[加藤,2003] としての身体と考えてよいだろう。このような 物質としての原身体性は、静的な位相から志向 作用を伴って空間のそこ・ここに現出させる動 的な流れ[大澤,1996:27]を持つとき、「過 程身体」が生み出される。したがって、この位 相は、スポーツや身体活動で動く「身体」が最 初に「あり方」を変容させる位置であると共 に、先に述べた人間の特殊性を踏まえた場合に 想定される特有の作用が派生する位相というこ とができる。注目すべきは、この位相について 大澤が、自己(主体)の体と他者(客体)の体 は「反転可能」であり、主体の特殊性によって 求心化と遠心化が起こる[大澤,1996:41-42] と述べていることにある。ここでいう主体の特 殊性とは、知的障害者のスポーツや身体運動に おいて、共に行動する他者が主体に同化させた り、成り変わったりしながら過程身体の一部と して存在していること、すなわち、「相手に成 り代わることのできる能力」「別の存在に身を 移して見る能力」[池井,2008:21-22]をいう のではなかろうか。そして、その位相における 主体とは、Gehlen が説いた社会という他者と の共存可能な「環境」なしには生きながらえる ことができない人間の動物的生態であり、その 位相こそが知的障害者に必要な「脳の働き方と その人を取り巻く環境」[村上,2018:16-19]
図1 社会福祉学における社会構築主義的ニーズと本稿の視点
[上野・中西,:]に筆者加筆
図2 知的障害者のスポーツをめぐる「身体経験」の肉体論的構造
[大澤,:YLLL]に筆者加筆
顕在 庇護ニーズ 承認ニーズ 【 【当当事事者者】】 庇護ニーズ 承認ニーズ 潜在 顕在 ↑ 知的障害者の「身体経験」が 潜在 社会的に不可視化する領域 非認知ニーズ 要求ニーズ 「間身体的連鎖」による身体経験の構造 三層としての「肉体論」 超越性 ① 主主体体 ssuubbjjeecctt== 人人 mmaann 主体としての「身体経験」 【【wwiillll((意意志志なないいしし欲欲求求))がが問問わわれれるる】】 ② 客体としての「身体経験」 客客体体 oobbjjeecctt== ここととばば llaanngguuaaggee 【
【sshhaallll((制制度度))がが問問わわれれるる】】
客体としての「身体経験」
③ 超超客客体体 ssuuppeerroobbjjeecctt== 自自然然 nnaattuurree 【 【mmuusstt((必必然然))がが問問わわれれるる】】 内在性 ①②→ 方法論的構築主義の問題領域 ②③→ 政治的構築主義の問題領域 肉体=経験する物質 抽象身体 第 三 の 審 級 集権身体 抑圧身体 人の圏 ことばの圏 自然の圏 他者 原身体性 過程身体 運動・スポーツする身体 図2 知的障害者のスポーツをめぐる「身体経験」の肉体論的構造 [大澤,1996:viii]に筆者加筆
ではなかろうか。もし、そうであれば、「原身 体性」「過程身体」が、「抑圧身体」へ移行する プロセス上に、主体からも客体からも認識でき ない「超客体」としての身体経験が存在すると 考えられる。こうして、肉体論的経験の特徴で ある「複合的な流れ」の出発点とは、大澤の場 合、「原身体性」と「過程身体」を他者がかか わることで擬制される抽象的な第三者的身体で あり、彼はその経験を「第三者の先行的投射」 として特定している。このような経験は「主 体」と「客体」を行き来すると同時に、第三の 審級を伴う主体/客体の二分法を超えた経験で あり、ここに身体の比較社会学と共有可能性が 指摘できる。すなわち、本稿が主題としてき た、知的障害者の「身体経験」が「社会的に不 可視化される領域」とは、肉体論的「超客体」 であり、「間身体的連鎖」における「原身体性」 と「過程身体」とが「抑圧身体」に移行するこ のプロセス上で構築されるということができる だろう。 このように、本稿では社会構築主義的視点に 立つことに加えて、肉体論への理論的転換から 問い直すことを通じて、従来の二元論的身体論 とは異なる「超客体」としての身体を取り出し た。その身体経験の論理は、大澤のいう比較社 会学的な「間身体的連鎖」の論理との共有可能 性が示唆され、本稿が主題とした知的障害者の 「身体経験」における他者を包括した論理とし て有効ではないかと考えるものである。 5. 結び わが国における知的障害者のスポーツプロモ ーションの課題のひとつは、意思の伝達や決定 に問題を抱える知的障害者がスポーツをする当 事者としていかに社会認識されるのかというこ とにある。そこで本稿では、この課題への解決 を前進させ、社会的に問題を共有する上で必要 と考えられる社会構築主義的視点に立って、「他 者」と共に自己決定をする知的障害者の「身体 経験」を明らかにする論理とは何かを議論する ことを目的とした。それはすなわち、従来の 「身体論」に基づいてその論理を探究しながら、 その理論的限界を追究し、そこから「肉体論」 [池井,2006][菊,2006]を手がかりに、新た な可能性を論じることを意味していた。 本稿ではまず、知的障害者のスポーツをめぐ る「身体経験」が社会的に不可視されることに ついて、政治的構築主義の視点から問題化し た。次に、現代社会における障害者の身体をめ ぐる経験の理論的課題をおさえた上で、障害学 とスポーツ社会学における「経験」の論理の中 心に現象学的身体論の視点がおかれていること を確認し、このような視点からの身体論が知的 障害者の「身体経験」を理解する上において理 論的限界があることを指摘した。そして、これ を乗り越える理論として「肉体論」をとりあ げ、その理論的背景にある人間の「未確定の存 在」[Gehlen, 1993=2008]を手がかりに社会構 築主義的視点における政治的構築主義の立場か ら「身体経験」の新たな展開可能性について論 じた。 最終的には、この肉体論を補完する理論とし て、比較社会学における「間身体的連鎖」[大 澤,1996]を取り上げ、スポーツ社会学におけ る「肉体論」と「間身体的連鎖」を関係づける ことを通じて、知的障害者のスポーツをめぐる 「身体経験」を考察するために他者を包括した 新たな理論的な枠組みが得られる可能性を指摘 した。この理論的視点がスポーツプロモーショ ンの実践的立場において、いかに機能するかに ついては今後の課題である。 【注】 1) 知的障害者のスポーツ大会は、1968 年に第 1 回スペシャルオリンピックス世界大会が行わ れたが、参加国数は少なく、日本選手団の派 遣は 1983 年アメリカ夏季大会が最初であった が認知度は低かった。1992 年、夏季パラリン ピックに知的障害者部門が創設されたのを機 に、同年国内大会として全国知的障害者スポ
ーツ大会が開催されるようになった。 2) 社会モデルは身体障害者中心の理念であり、 障害学的「障害」とは、「人間の物理的特徴 =身体的特徴」であるから、身体的な障害で はない知的障害者を意図していない[田中, 2007:43-44][ 坂 原・ 佐 藤,2012:359-360] ため、知的障害者にそのまま適用することに は無理があると指摘されているが、ここでは、 障害の一般的理論にとどめ、問題化した。 3) スポーツ社会学における「経験」の論理は、 「主体」と「客体」の二分法を用い、主体を不 可欠とする現象学的身体論に依拠してきた。 それは、「客体」としての社会理論を出発点と し、「主体」の「経験」がそれを補完すると いう関係性を有していた。同時に、その論理 を主流とする背景には、「スポーツの素晴らし さを論証できる魅力」[菊,2008:79]という ように、現代的かつ、支配的な文化的な価値 がある。これに対し、「生きている身体」に注 目する肉体論においては、このような文化的、 社会的価値から離れることを通じて、社会理 論が「客体」として把握してこなかった身体 を「超客体」としてとらえ、「主体」からも 「客体」からも補完できない「経験」の視点を 提供すると考える。 4) Gehlen は、人間はそのもちまえの手段と行動 で、自分の負担を免除し、自己の生き残りの ために、その欠点の多い生存条件を独力でつ くりかえねばならないと述べ、それは能力を 段階的に向上させていくような体系づくりで あると述べている[Gehlen, 1993:訳書 28-29] 5) 大澤の論は、「他者と本人のあり方」を内在化 した身体が、人間の活動を通じて世界に外在 化していく現象学的分析の前提となる理論で ある。本稿は、この現象学的分析の結果に注 目するのではなく、主体と客体のあり方とし て構成されるものと同時に、客体としての他 者にしか認識することができない経路を併せ 持つという視点を提供すると考える。 6) 大澤は分裂病者の事例を多く記述しているが、 それは、「原身体性」が虚構ではなく、実在す る場面をもつこと説明するためである。本稿 は、その意図において彼が「幼児(もっと徹 底的には胎児)」のほか、心理学的実験、薬物 投与による事例[大澤,1996:19-23]に言及 しようと試みたことに注目し、知的障害者の 身体に関する実際の存在様式から、大澤の理 論の援用可能性について言及しようと考えた。 【文献】
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