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The University of Human Environments 人間と環境 2(2011) ISSN Journal of Human Environmental Studies 2(2011) ニーチェにおける 超人 への階梯について 問い の構造からの検証 キーワー

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ニーチェにおける「超人」への階梯について

──〈問い〉の構造からの検証

内 藤 可 夫 

〈キーワード〉 ①ニーチェ ②超人 ③人格 ④ニヒリズム ⑤問い 〈論文要旨〉  ニーチェの初期思想から検証すると、ニヒリズムを克服する「超人」は、「人格」の根本から の変容によって達成されるということになる。しかし、その達成の階梯は明らかにされていない。 これを人間の生における〈問い─答え〉構造の変更の問題として究明すると、問いを問う生と 答えとしての生きられる世界が同時に変転する構造が明らかになる。ただし、問いのみ操作的 に変更させることは困難であり、〈問い─答え〉あるいは〈人格〉変更のための〈超人〉に至る 階梯の究明によって、存在や生の意味を把握する新たな哲学思想の可能性が検証されることに なる。

Consideration of steps to the “Übermensch” in

Nietzsche’s Thought from the viewpoint of

<question-structure>

Yoshio NAITOH 

〈Key Words〉

① Nietzsche ② Übermensch ③ Personality ④ Nihilism ⑤ Question(Frage) 〈Abstract〉   Considering it from Nietzsche’s early thought, we can find that“Übermensch” is attained by changing “Persönlichkeit.” However, its steps are not clarified by himself. If this problem is considered as the problem of changing the <question-answer> structure of life, it will become clear that question (as life [Leben]) and answer (as world) is to be changed synchronously. Therefore it is difficult to change operationally only the <question>. The possibility of the Nietzsche’s thought is to be verified by clarifying steps which changes <question-answer> structure or <Parsönlichkeit>.

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ニーチェにおける「超人」への階梯について

──〈問い〉の構造からの検証

内 藤 可 夫

はじめに

 哲学の根本を問題とする如何なる問いかけも(小論の如きささやかな問いかけにおいて も)、今日、学問と人類との歴史的転換について言及しないわけにはいかない。かつては確 固たる哲学と学問との発展の歴史の自明性ゆえに、その言わずもがなの歴史自体には言及す る必要がなかった。しかしながら、哲学の歴史は終焉に至り、哲学もその方法も学問自体も、 そして知もが自明性を失っており、哲学は歴史の転換を自覚した上で、自らで自らの議論の 方法と根拠とを確保しなければならなくなったのである。  〈理性の適切な使用が知の前進を確実に積み重ねていく〉、おそらくこれが未だに学問シス テムを可能としている〈根拠〉であろう。近代以来受け継がれてきた学問システムは教育シ ステムの全体と重なり、産業社会システムへと接続し、一体化へ向かっている。しかしなが ら、その中心となる学問システムは実は中空化している。学問と教育、生産、セキュリティー のシステムの一体化は、もはや知の理念からのものではない。かつてこの空虚を埋めるだけ でなく、まさにこのシステムの根拠となり、前述の学問の根拠を確保していた哲学が、いま や追憶と懐古の営みへ化しつつあるからである。  政治的な公正さを確保する処世術が哲学と称して学問の中空の埋め草となり根拠を糊塗す るにまでに至った今日、その知によって規定されるべき人間の理解が破綻しつつあるのは当 然である。今、人間が問題なのである。生、存在あるいは死、無、そしてそれらへの根源的 な〈問い〉の条件であるべき「人間」が、かつてない無条件、無規定の混沌へと陥りつつあ る。  本論はあらゆる知の根柢にある〈問い〉の構造に着目し、ニーチェ思想の可能性の検証を 通じて以上のような知の混迷状況にひとつの可能性を見いだすことを目途としている。特に、 ニーチェが知の本質に〈人格〉を見いだそうとした意義を確認すること、そしてあるべき人 格の獲得あるいは「超人」への階梯について検証する。

現代のニヒリズムにおける〈答え〉の欠如と〈問い〉

 ニーチェが指摘したように、生の意味・価値の欠如は現代のニヒリズムの本質にあり、神 の死に象徴される〈答え〉の欠如となって現象している。人間の生の意味、そして死の意味、 そしてそこから発する全ての意味の欠如にまで至っているが、この欠如の常態化により、も はや欠如自体が自覚されない状態へ近づいている。〈答え〉の無い時代に生まれ、生きる人 間にとって、世界と自らの生、そして社会や文化の意味が確固としていたのは、現在と断絶 した過去の話であり、欠如もその回復も喫緊の問題と認識されていない。しかしながら、か

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つて〈答え〉により形成されてきた学問とこれを基礎として「発展」した現代社会のシステ ムはこの〈答え〉の欠如により中空化しており、この社会システムがそのまま〈発展〉する、 あるいは世代を継いで持続することは困難と言わざるを得なくなりつつある。そのとき、人 間は文化と社会とを、根本的な問題への〈答え〉と生の根本への〈問い〉を欠如した人間に 相応しい文化と社会とに作り直さなければならない。当然ながら人間が何千年もかけて築い てきたものとそれとでは大きく異なる。もちろん、自己の生に自覚的であり、その意味を問 題とするものにとっては、それは絶望的なものとなるはずである。  「神の死」すなわち〈答え〉の欠如という人間の生の本質に関わる重大な問題について、ニー チェはそれが人間の弱さにより隠蔽され、顕在化していないことを暴露した。問題の顕在化 とその自覚こそがヨーロッパ人にとって恐るべきことであったのである。現代においても ニーチェの指摘した問題は全く変わらず、さらなる隠蔽へ向かっている。ニーチェの指摘し た人間の弱さは心理学によって解明されながらも、むしろその心理学自身によって〈答え〉 の欠如が隠蔽されてしまったとも言える。当然、隠蔽によって問題の自覚と克服の努力はな されず、生の根本の不安は意識の岩底で増大していくはずである。  ハイデッガーが〈問い〉の特別の性質に注目し、〈問い〉が〈答え〉の範囲とあり方を規 定していると言ったのは極めて当然のことでありながら、その実、極めて本質的な問題提起 を含んでいたものと考えることが出来る1)。我々の知はなんらかの〈問い〉への〈答え〉で あり、その潜在的な〈問い〉のあり方によって〈答え〉としての知の意味は規定される。ニー チェの指摘するようにヨーロッパの哲学が 2000 年を超えてプラトニズムによって貫かれて いたとしたならば、それは一つの〈問い〉のあり方によって貫かれていたということでもあ る。ニーチェはこのヨーロッパの哲学の求めて来た〈答え〉の形態を拒否している。たとえ ばそれは、存在の本質をプラトン的な知の言葉で表現することの否定であり、近代に至る哲 学の否定と、価値を創造する新しい哲学の主張あった2)。ただし、ニーチェは一方でその否 定すべき哲学の言葉で語ろうともしている。それが「権力への意志(Wille zur Macht)」で ある。ハイデッガーはこの概念について、独自の哲学の立場から、この概念自身がニーチェ の否定したはずの形而上学の最終形態となっていることを理由に批判する。この概念が目指 したはずのものはプラトン以来の不変の本質、永遠の存在自体を否定する「生成(Werden)」 の世界、つまり「存在」排除の世界観であった。しかしながら、この概念自体は伝統的な哲 学と同じ形式で、つまり、伝統的なヨーロッパの〈問い〉の形態、〈何か〉(不変の同一的存 在者)を〈答え〉として要求する〈問い〉への〈答え〉だったのである。  ニーチェの矛盾は、「存在(Sein)」(ニーチェにおいては存在者を意味する)を否定しな がらも、思考形態としては「存在」を〈答え〉として求め、それゆえに前提していること、 つまり、流動的で不変の要素の無い生々流転のうちに静的な「存在者」を見いだそうとした ことにある。この静的な存在者たる権力への意志は、遺稿に散見されるニーチェの思索によ るならば、「本質的」な存在者ではなく、人間が見出す仮初めの存在者でしかない3)。したがっ 1)cf. Heidegger, Mrtin, Nietzsche II, Neske, 1961, p344. 2)内藤可夫『ニーチェ思想の根柢』晃洋書房刊、1999 年、₆ 頁− 16 頁 参照 3)前掲書、118 頁− 122 頁 参照

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て、権力への意志概念を中心として構想された彼の思索もまた〈仮初めの形而上学〉である。 人間的現実の中ではこの仮初めの存在者を認め、その世界のなかで我々は生きる。しかしな がら、この仮初めの人間的認識を超えて人間の生の根本を求め、生の矛盾を越えようとする 時、この権力意志概念の思考形態自体が超えられるべきものとなってしまう。つまり、この 思想は人間理性の限界を規定しつつも、それ自身はこれを超えることのできない従前の哲学 なのである。これが権力への意志の問題的な本質である。確かにその概念に内在的な主張は 哲学の否定でありつつも、形式はやはり従前の「哲学」なのである。ただし、ニーチェの意 図を真に実現しようとするならば、もはや哲学であってはならないことになる。無論、「学問」 であってすらいけない。(小論の問題とするところは、まさにその新しい知の形である。)  ニーチェが越えようとしたのが従来の知のあり方であるならば、権力への意志概念は超え てはいない。権力への意志という〈答え〉は、従来と同じ〈問い〉への〈答え〉であり、 二千年以上にわたりヨーロッパを規定してきた〈問い─答え〉構造をそのまま継承している のである。実は、この構造の転換にこそ知の本質の転換の可能性がかかっており、理論的主 張を目指した権力への意志概念の構想の一方で、ニーチェは明確な認識なしに、生涯、一貫 してこれを求め続けてきたことが確認される4)。まず、この〈問い─答え〉構造について考 察しておきたい。

〈問い─答え〉の構造

 根源的なものへの問い方が一つしかなかったヨーロッパの哲学にとって知のあり方は自明 なものであって、問題は知の具体的な定義の仕方であった。例えば、認識と対象の一致とし て真理が定義されるとき、それはヨーロッパにおける特殊な〈問い〉のあり方を自覚し定義 した一つの例だということになる。(真の意味で自覚されたのではなかったのだが。)つまり、 「対象」なるものを措定し、これに対応し望むらくは一致する「認識」なるものを求めるの がヨーロッパの〈問い〉であり、その〈問い〉の〈答え〉は「認識」という特殊なものだっ たのである。対応する(し得る)のであるから、認識は対象として措定されたものと同様の (少なくとも共通の)性質を持たなければならない。つまり、〈対象〉なるものから〈認識〉 は規定される。そしてさらにこの〈認識〉なるものから〈問い〉のあり方が規定されるとい うことになる。対象が実体、あるいは個物、あるいはその集合体であるとき、〈認識〉もま たそれぞれが独立していてバラバラであり、ときとして集合し組み合わされるようなものと なる。このような知は文脈あるいは全体、そして〈問い〉を問う生から切り離され得るもの であり、したがって〈客観的〉なものとなるだろう。このような〈問い〉と〈答え〉のあり 方の場合、〈問い〉と〈答え〉とは切り離されるので、〈問い─答え〉の構造を自覚すること が困難になる。ヨーロッパ的な〈問い〉の構造の特殊性が自覚されるまで(あるいは今日に 至るまで)、東洋思想においては当然の〈問いのあり方〉自体を問題とする知的な伝統がヨー ロッパに形成されてこなかったことは当然なのである5)。この〈問い〉のあり方の限界に自 4)前掲書、196 頁− 202 頁 および、内藤可夫「ニーチェにおけ る人格概念」、人間環境大学紀要『人間と環境』第1号、24 頁− 34 頁 参照

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覚したニーチェやハイデッガーの思想において、はじめて〈問い〉のあり方、あるいは、正 確にいうならば〈問い〉と〈答え〉とのあり方、すなわち、〈問い〉における生のあり方が 問われたのである。本論の目指すところは、ニーチェにおいてこの〈問い─答え〉構造の変 化がどのように求められたのかを明らかにすることである。

ヨーロッパの〈問い〉

 ヨーロッパにおいて〈問い〉のあり方は自覚されず、したがって、その自覚的な変更は当 然不可能であった。ニーチェに従うならば、〈答え〉を欠如するニヒリズムの状況に西洋哲 学が立ち往生せざる得なかったのもこのためだということになる。(ニヒリズムについては 後述するが、紙幅の問題からヨーロッパに伝統的な〈問い〉の問題に関するさらなる考察は 割愛せざるを得ない。)ヨーロッパに限らず、〈問い〉と〈答え〉とは必然的なものであり、 また、〈問い〉は人間のあり方に深く関わるものである。〈問い〉は対象化された言語や記号、 思想や哲学というものの内に存在するのではなく、〈問うこと〉において始めて〈問い〉と なる。人間の知的営為はこの〈問い〉のあり方に規定されており、したがって、常に生が関 わっているということになるだろう。  このように、知とは常に〈問い〉への〈答え〉である。〈問い〉を欠きながらも意味をな し得る知はない。この知の根拠となる〈問い〉は顕在的な場合もあり、自覚的に問われる場 合もある。あるいは、その知の目的や意義から遡行的に〈問い〉を確定し得るものもある。 求めない者、その意義を見出せない者にとって、知は何でもあり得ないことは自明である。 様々な意味と目的との連関の内に生きる我々の現実の生においては、その様々な連関からど のような些細な知に対してもなんらかの意味を見出すことは可能であるので、このことは通 常は顕在化していない。しかし、前述のヨーロッパの哲学の例のように、哲学や宗教の求め る世界や存在への〈問い〉の〈答え〉について考えるならば端的であり、反証の可能性のあ る例を見出すこと自体が困難である(後述する)。イデアあるいは権力への意志、いずれも 存在の本質を求める者以外、あるいは存在の本質が問題である者以外にとって、それは意味 を持たない。つまり、知は常に〈問い〉に対する〈答え〉なのである。  〈問い〉がいかなるものをいかなる仕方で求めるのか、言い換えれば、〈問い〉がいかなる ものを〈答え〉として認め、満たされるのか、それが知のあり方を規定している。もとめる ものが得られるとき、それは〈答え〉である。〈問い〉に対して〈応える〉あるいは〈対こたえる〉 のが〈答え〉である。この〈問い〉によって〈答え〉のあり方が定まる構造は、表面的な呼 応関係であるだけでなく、人間の知と生のあり方自体を規定している。〈問い〉のあり方が、 人間を規定し、人間の生きる世界とその生とを規定しているのである。人間が何も求めない、 つまり、未来へ向かって何も企投しないとき、〈問い〉は存在しない。しかし、人間はハイデッ 5)儒教の伝統において人格の陶冶が目指されていたことは明白で ある。(内藤可夫「現代文明の運命──生の無から人間の無へ」 関西哲学学会年報『アルケー』2007、157 頁− 159 頁参照)東 洋的な学問の伝統にならっていうならば、「苟日新、日日新、 又日新」と伝えられてきた最も古い言葉がこれにあたる。文脈 としてはこの『大学』の一節は「君子」という人格を得るため に殷の湯王が刻みつけたと伝えられる言葉であるが、人間の本 質からの変化の階梯の如何を示唆するものと言えるだろう。

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ガーの言うような時間的な存在であり、企投をする。したがって、かならず〈問い〉のうち にある。人間にとって〈問い〉は本質であるといえるし、同時に〈問い〉のあり方が人間の 生の根本を規定しているということが言えるのである。  〈問い〉のあり方が〈答え〉のあり方、その範囲と形態を規定するというハイデッガーの 洞察からさらにラディカルに考えて、〈問い〉のあり方が人間の生を規定し、変容させるも のとして把握するならば、いかなる〈答え〉を得るか以前に、〈問い〉を問う時点ですでに 人間の生は規定されているということになる。仮に、この〈問い〉のあり方を本質的に変化 させることが可能であるならば、我々は生を本質的に変えることができる。そして、ニヒリ ズムの克服の可能性がある、つまり、この〈答え〉の欠如を超え、〈問い〉と〈答え〉が呼 応し得る新たな生の可能性がある、ということになるだろう。

〈問い〉と〈答え〉との相即

 〈問い〉が問われるとき、既に〈答え〉が特定あり方のものとして期待されていることに も注意しなければならない。構造的には解釈学的循環に近いが、問題は単なる「理解」では なく、根本的なものへの最終的な〈答え〉を求める〈問い〉の問題であり、「地平融合」な らぬ地平の変容、あるいは地平の天と地が入れ替わるようなことを求めるのであるから、問 題が大きく異なることに注意しなければならない。  己が己の生きる世界を自覚的に変容させること、それはニーチェによるならば「創造」で あり、「立法」とも表現される事態である。既に特定の〈答え〉が期待されているとき、〈問 い〉がその期待によって規定されることになる。人間がある特殊なあり方の〈答え〉を求め る〈問い〉を問うとき、その特定の〈答え〉のあり方は既に与えられているということにな る。問われるのがその〈答え〉のあり方に規定された個別具体的な情報ではなく、〈答え〉 のあり方そのものであった場合(世界や存在の抽象的本質などであった場合)、〈問い〉と〈答 え〉とは同時に与えられるということになるだろう。〈問い〉は〈答え〉のあり方を規定す るが、世界や存在など全体的なものへの〈問い〉の〈答え〉は、その存在のあり方であり、 そのあり方は〈答え〉のあり方として〈答え〉られる。存在が如何なるものか問う本質への 〈問い〉は、具体的な内容を捨象したいわば形式を問うものである。従って、〈問い〉を発す るときすでに〈答え〉のあり方を期待していたとしたならば、〈答え〉自体を期待していた ことと同義であり、〈問い〉と同時に〈答え〉が与えられていたということになるのである。 つまり、〈問い〉と〈答え〉は別個のものではない。したがって、〈答え〉との関わりを考慮 せずに、〈問い〉のみを操作的に変更させるということはできない。〈問い〉を変更させると いうことは、〈答え〉のあり方を変更させることである。そして求める〈答え〉が世界と生 の本質に関わる根源的なものであるならば、〈問い〉を変える、すなわち生のあり方を変え るということは、〈答え〉である世界を変えるということと同時であり、生(問い)と世界(答 え)とが同時に変わるということになる。  世界とそのうちに生きる人間とは〈問い〉によって根源で結ばれており、別個のものでは ない。さらにいえば、その生は〈問い〉を問う我々自身の今ここの生である。問う者が変化

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しつつ世界が変転しつつ、はじめて〈問い〉と〈問い〉を問う生が変化することになる。生 と世界との関わりの根本に〈問い〉を見出す我々の〈問い〉もまた前進するとき、問う〈問 い〉が変化し生が変化し、議論の本質自体が変化するはずである。だからこそ、本論も含め た伝統的な論文の形式で考察を進めるいかなる試みも、あるいはいかなる言葉もその変化の 手前にとどまらざるを得ない。内陣に進むためには下馬しなければならない。6)  〈問い〉を固定しながら、これに対こたえる〈答え〉の欠如を回避するためにニーチェ以後の 哲学は様々な工夫を凝らしてきたが、本質が〈問い〉自身にあることを明確に自覚するなら ば、今日に至る哲学の議論が複雑化の挙句に混乱に陥り、ジャーゴンの集積となり終いには 廃棄されてしまった事情が理解し得る。問題は〈問い〉のあり方を変えることである。ただ し、〈問い〉を変え〈答え〉を変えることは、極めてシンプルかつ困難である。その際、旧 い〈問い〉の〈答え〉とその周辺の事情であるヨーロッパの哲学史の詳細や、旧いジャーゴ ンは全て廃棄されなければならない。つまり、この変更によってそれ以前の〈問い〉と〈答 え〉に関連する全ては意味を失う。全てが新たに創造され、一方で全てが破壊され陳腐化す るのである。それに対し、〈問い〉を変えなければ、〈答え〉は本質的には変わらない。求め て得られない〈答え〉はいかなる工夫を凝らしたところで到達し得ない。このことがヨーロッ パの哲学史の最後に明らかにされたことではなかったのだろうか。

〈問い〉の変更あるいは人格の変容の操作不可能性の問題

 このような「問い─答え」構造によって人間の本質が規定されており、しかもこれを変化 させることが「創造」によって、あるいは「超人」によって可能であるとしたならば、ニヒ リズムの克服というニーチェの目途はそこに達成が目指されるべきだということになる。〈問 い〉に対する〈答え〉の欠如したニヒリズムの克服は、生の根本に関わる〈答え〉を応え得 る〈問い〉の獲得にあるということになる。  ニーチェの企てた〈問い〉の変更の試みに関する考察の前に、ニーチェの後期の理論的思 索における〈答え〉について確認しておきたい。ニーチェは現代の本質にあるニヒリズムを 実に多様な面から把握し、これを問題意識の根本に置き、独自の思索を結晶化させようと試 みるなかでいくつかの概念を提起した。そのうちでも「権力への意志」と「生成の世界」は 中心というべきものである。だが、これらの思索はおそらく破綻が自覚された上で破棄され ている6)。その一方で、一つの〈答え〉が全く別の仕方で提出されている。それはいわば人 間の世界に対するあり方というべきものであり、知という形で表現することを断念した、生 きる態度の思想であった。たとえば、それは自然の本質に解くことのできない謎を認め肯定 する自然観であり、言い換えれば、人間の理性の本質的制約を認め、それゆえに自然の、そ して人間の生の意味を肯定する自然観なのであった7)。そこでは、言葉によって表現するこ 6)ニーチェは理論的主著を権力への意志概念を主軸に発表する予 定であることを著書に公表していたが(『善悪の彼岸』)、この 概念に関わる遺稿断片が残されたのみであり、最後期において は言及そのものが減少しており、物理学や生物学などの観点か らも構想していたこの思想が、当初期待していたようにはうま くいかず、構想が放棄されたと考えることが出来る。ただし、 ニーチェの精神的状況の悪化と共に、哲学的思索の遂行が困難 になったことも、構想放棄の理由と考えることが出来る。 7)内藤可夫『ニーチェ思想の根柢』晃洋書房刊、1999 年、196 頁− 202 頁 参照

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との限界を認識し、知の限界のはるか彼方に存在の意味を認めようとする態度がある。この 態度は、言葉の次元で検証することはできない。なぜなら、ニーチェが明らかにしたのはこ の態度の変更によって、知そのものの意味が変わるということだったからである。検証する としたならば、一体どのような知がこれを検証し得るのか。(現代の哲学を振り返れば、ポ ストモダンを標榜する様々な思想が、いつの間にか新しい知のあり方を検証する基準を確保 していると標榜したり、それがその実、本質的にはデカルト以来変わらない形式の〈問い〉 であったりして、批判の喧騒の中で消えて行ったことが想起される)ただそれは「趣味」、 あるいは「本能」としか表現のできないものによってのみ肯定されるとニーチェは考え、自 分自身の立場を告白した。  言葉、理性、論理、そういったものの限界を認めることは、それ自身、生と世界との関わ りの一つのあり方である8)。すなわち、ひとつの〈問い〉のあり方であり、ひとつの〈問い ─答え〉のありかたである。これが「趣味」や「本能」であり、〈いつどのように変えた〉 というようなものではないとニーチェは主張しているのである。つまり、ニーチェはこのよ うな態度の変更について、操作的にコントロールすることのできないものと考えていたこと になる。ニーチェにとっては自然とそのうちに生きる己の生について規定する知のあり方を 変更することこそが、生の意味を失わせるニヒリズム克服の最終的な〈答え〉であったわけ であるが、しかし、これは知の転換である限りにおいて、従来の哲学のようにそれを理解す るものが全て到達し得るものでなかった。前掲書においては、ニーチェ自身、そのような〈答 え〉に到達する以前にギリシア古典研究などを通じて、すでに態度の変更がなされていたの ではないか、という結論に達した。このことから推論するならば、生きる態度の根本の変更 は操作的に、自覚的にはなされ得ないということが考えられる。つまり、客観的な学問によっ て、万人が〈答え〉を得ることのできるような操作的な方法論は生については不可能だとい うことである。仮にそうであるならば、ニヒリズムを克服する〈哲学〉は不可能であり、か つ、哲学自体もはや不可能である。  このように考えていくならば、我々が〈問い〉を根本から変えていくためには、ニーチェ のように非ヨーロッパの人間の生の痕跡に努めて共感していくなかで生が変化することを待 たねばならない、ということになるだろう。あるいは、ニーチェの場合、ショーペンハウエ ルを経由してニーチェに到達した仏教の〈問い〉のあり方がこれを触発することになったの だろうか。ギリシアの生への理解が仏教という異文化への出会いを契機に得られた〈問い〉 の多様性への開眼によりなされ得たということも考えることが出来る。いずれにしても、ニー チェという思想家において偶然に交錯した多様な〈問い〉、様々な生のあり方が、偶然にも 8) 不変で永遠の実体的存在者が否定される以上、いかなる論理学・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ にも前提される項がそもそも実在に全く対応しない・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ということ になる。むろん、不変の項を前提する論理学はすべて生成の世 界に対応することはない。このことについてニーチェは、「論 理学の基本原理である自同律と矛盾律は、一切の経験に先立つ が故に純粋な認識だとされる。──だがこれらは認識などでは 全くない。規則的な信仰箇条なのである(VIII.7[4])」として、 論理学自体を否定する。確かに、論理学は不変の存在者の措定 を以て初めて現実の世界にそのまま対応し、妥当するものであ るから、論理学も論理的思考も存在への探究においては否定さ れるべきだと言うことになる。これは極めて重大な問題であり、 論理的思考を基礎とする人間の思考の有限性について検証する 必要があるということになるだろう。

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ニヒリズムの自覚へと結実したということは言えるだろう。つまり、ニーチェ自身において は、彼がいうように趣味や本能ではなく(あるいはそれらは文学的な表現にすぎなないとい うことも考えられる)、その意図するところは偶然あるいは〈運命〉ということであったか もしれない。では、その自覚から出発してニーチェがニヒリズムの克服を自覚的に問うとき、 その〈問い〉の変更はどのように考えられているのだろうか。  ニーチェは実は哲学的思索を始めた当初から、生と世界との関わりのあり方を規定する〈知 への態度〉を問題としていた9)。このことは、ソクラテス以前の古代の哲学者たちについて 取り上げたいくつかの論文にも表れている。そこで彼はその生きる態度のことを「人格」と いう言葉で表現している。彼がいう「人格」とは、その人物が社会的な関わりのなかでどの ような評判を得ているか、ということでは(当然)ない。そうではなく、世界や自然といっ た全体的なものに対する知のあり方を人格と呼んでいたのである10)。このニーチェのいう〈人 格〉の概念の曖昧さによって彼の真意はわかりにくいものとなり、批判を受けやすいものと なってもいるが、しかし、たしかにニーチェは生きる態度によってたとえばヘラクレイトス の思想を評価しており、たとえばパルメニデスは否定的に評価されている11)。問題は、生き る態度のあり方であり、具体的にいえば、生の意味を知を通じてどの様に把握するのかであ るが、それは知のあり方によって規定される。したがって、これを変えることが焦点なので ある。むろん、知に唯一のあり方しか認めることのできないヨーロッパに伝統的な立場から すると、ニーチェの主張は受け入れ難いものとなる。それは、近代的な知を超えて行くこと が知を捨てることとしか捉えられなくなってしまうからである。

生の意味を自覚する生とそうでない生の決定的な断絶

 〈理性〉を基準とした普遍的な人間像、人間理解というものは、きわめて狭隘な偏見にす ぎない。生物学的な人間理解、動物行動学的な人間理解、あるいはさまざまな文化的な人間 理解も存在する。人間についての理解の多様性の承認は今日、あらゆる議論の条件となって いると言っていいだろう。一方で、現代の哲学においては人間の生のあり方を確定する根本 的な〈人間〉概念について、相互理解不能とも考えられる論争が行われてきた。たとえばニー チェは「生」の意味が本質的であると考えた。ハイデッガーは存在を重視し、頽落という価 値的な概念を使用する。その議論においては単なる〈理性〉や〈意識〉ではない、本質的な 何かが決定的な基準と仮定され(あるいは確定され)人間と非人間を区別している12)。ただし、 『ツァラツストラ』の副題をみるならば、われわれはニーチェにおいても生の意味への自覚は、 いかなる人間にとっても可能性があることを確認することが出来る13)。重要であるのは、人 間に理性以外の本質的な区別の条件があるという主張である。それは生の意味あるいは〈存 9)内藤可夫「ニーチェのヘラクレイトス解釈における「人格」の 問題について」人間環境大学人間環境学部紀要『人間環境論集 ₈』200₉ 参照 10)前掲書 参照 11)KGW III − 2.329 参照。 12)ニーチェにおいては「距離のパトス」といったこの違いを強調 する発想や、用例は少ないが「畜群」や「小人」などのこれを 強調する語が使用されている。ただし、これらは彼の思想に対 する誤解と反発、拒絶の原因でもあった。 13)著書『ツァラツストラかく語りき』の副題は「すべてのものの ための、そして、誰のためでもない書(Ein Buch Für Alle und Keinen)」である。

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在〉に関わる、あまりに重大な区別である。生に意味の問題を見出さない者は、ニヒリズム に陥ることがない。なぜなら、生の意味をそもそも問題としていないからである。ニヒリズ ムに陥らない者、ニヒリズムを克服する者、そしてニヒリズムにおいて生の意味喪失に苦し む者、この三者が人間の内に存在することになるのである。人間は死へと先んじて、その死 の〈意味〉を見出し得るのか、あるいは死に至る際の身体的な苦痛をのみ見出すのか。ニー チェに即していうならば、自らの生自身の意味を見出すのか、あるいは、生自身には何も見 出し得ないのか。ニーチェやハイデッガーに対してはその根本的な問題意識に対して、擬似 問題ではないかという疑いが差し挟まれることもあった。  この〈生〉の〈意味〉あるいは〈存在〉というものは、人間のあるコンディションにおい ては見いだされ、あるコンディションにおいては忘却されるものだろうか。あるいは、ニー チェが言及するように、見出し得るのはそれにふさわしい〈人格〉にある者か、あるいは生 得的な条件によるのか14)。それに加えていうならば、その意味を説く哲学説あるいは宗教説 に触発されるか、そのような哲学者、あるいは宗教者に触発され共感するのか。これは〈人 間〉の理解の根本を覆す、極めて問題的な主張なのである。見出す者がこれを自覚すること は、見出した己自身では意識し確認することが可能である。一方で、見出さない者について は、見い出さないということが錯誤による誤認か、果たしてそこにはそのような何かが本当 に認められないのか、これは検証できない。しかしながら、かつて見出さなかった者が見出 すようになるとき、これは検証可能になるかもしれない。いずれにしても、客観的検証の非 常に難しい問題である。

超人によるニヒリズムの克服

 人間がどの様にして互いに隔たって行くのかについて、ニーチェは必ずしも矛盾なく考え ていたわけではない。ニーチェが、人間は「権力への意志にすぎない」、この様に言うとき、 人間は根本においてすべて等しい。これが権力状態(Macht-Zustand)のあり様によってそ れぞれ異なる権力への意志となっていくということになるが、原理的にはいかなる生にも可 能性は開かれていることになる。本論は人間の中にこの違いが認められるものとして議論を 進めるが、生の意味を問題とし得る人間にとって、ニヒリズムにおける岐路が次の問題とな る。  今日進行しつつある歴史的な現象としてのニヒリズムにおいては、強さと弱さによって克 服と没落との異なる結末に至るとされる15)。それは運命的なことなのである。生得的である のか、あるいは、結論として単に運命なのであって、個々の人間のおいては、克服する「最 強者」となることは可能であるのか。もっとも、最強者を目指すべきことを知ったときには、 すでにそれは最強者である16)。生自身の価値を見出したとき、生は価値を持ち、その生を生 14)たとえばその人格とはヘラクレイトスの人格と考えられる。 ニーチェは次のようにヘラクレイトスなどについて語ってい る。「明るみに出されるべきは如何なる後世のの認識が加えら れても我々から奪うことの出来ないもの、すなわち、偉大な人 間である。」 15)KGW.₉[107] および内藤可夫『ニーチェ思想の根柢』晃洋書 房刊、1999 年、184 頁 参照 16)内藤可夫『ニーチェ思想の根柢』晃洋書房刊、1999 年、197 頁− 202 頁 参照

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きる人間はニヒリズムを克服する最強者となるのである。人間として生得的に不可能という ことはないが、運命として、結果論としてそこには超え難い壁があると言わざるを得ない。「人 格」の変容は操作的にはできない。だが、可能性がないわけではない。  「超人」はニーチェ思想の中心にある概念と考えられながら、『ツァラツストラ』における 文学的な表現とわずかばかりの哲学的なニュアンスによっておぼろげに語られるのみであっ たことから、ニーチェ思想の価値を決するものとして捉えられながらも、厳密な意義の確定 が困難であった。この超人については、「超人は大地の意味(Sinn)である」という表現に その本質が規定されていると考えられる。むろん大地(Erde)は比喩的な表現であり、前 後の文脈やその思想の全体から考えるならば、それは彼岸や背後世界を想定してきたプラト ン以来の発想に対する批判の象徴であり、身体を含んだ生の全体と唯一のこの世界を肯定す るための表現であることについては確定的であると言える。しかし、意味(Sinn)について は解釈が極めて難しいと言わざるを得ない17)。生の意味と価値とを主張するニーチェの思想 を考慮するならば、これは生の意味と深く関係しているということは言えるだろう。しかし、 〈意味〉なるものが〈超人〉であるということについては、文学的表現として考えることが 順当であるようにも考えられる。〈大地〉の意味あるいは意義として超人があり、あるいは 超人が大地を意味あるものとする、というようにも捉えることも出来る。しかし、いずれに しても確定的なことは言えない。ニーチェはこのほかに類似する定義を語らないのであるか ら、過度な重要性をこの表現に認めることは適切でないかもしれない。とりわけ重要なこと であるならば、繰り返し語ったはずである。大地、意味、そして超人という重要な言葉を一 つのフレーズに表現しようとした際に、表現の文学的な収まりの良さ、つまり語呂の良さを 優先させたと捉えることが適切であろうと考えられる。  さて、「超人」は彼岸世界の否定と生の意味の肯定という二つを押さえた概念であること は確定的であるが、このことによっては超人がニヒリズムを克服する(克服した)人間であ るということのみ明らかなのであり、超人が如何なる〈人間〉かは同時に語られている「人 間は克服されるべき何者かである」を参考に理解していくべきだろう。超人は人間を超えた 何者かである。しかし、それは人間が人間を克服して何者かになったのである。ここでは人 間と超人とが対立させられているのと同時に、人間自身が人間を超えるものと考えられてい る。ニーチェは人間を二重の意味にとらえることによって、この言葉に二つの主張を込めて いるのである。人間は、人間自身をこえて、超人となり得る、つまり、本質から変化し得る 存在だということである。また、「人間」はニヒリズムの克服のためには超えなければなら ない存在であり、したがって、ニヒリズムの原因でもある。そのとき「人間」は、ニヒリズ ムに陥り脱することができない一つの人間のあり方を意味しており、そしてそれは人間その ものとして不変のものと考えられてきたそれなのである(既述のヨーロッパ的な生)。もち ろん、ニーチェはそのような人間理解に反対する。変わるもの、変えられるものこそが人間 17)ドイツ語の Sinn については、語源的には「道」というようなニュ アンスがあったと考えられているが、当然、ここではそのよう なニュアンスで解釈することはできない。Sinn は意味、意義以 外に幅を以て解釈することが困難な語であり、したがって、訳 としても、「超人は大地の意味である」あるいは「…意義である」 以外には考えにくい。

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であり、「人間」を否定的なものとして捉えたときには、ニーチェの考える人間は超人と呼 ばなければならない。超人は〈不変〉の人間的本質とともにニヒリズムに陥る「人間」を超 えているのである。  人間は現に自らがそうであるところの〈人間〉を超える、つまり、本質からして変化し得 るものである。ただし、ツァラツストラは永遠回帰の着想によって書き上げられたのである から、人間を超える人間という主張はこの書においてはじめて主張されたのではなく、ニー チェ思想の初期からある人間のあり方、つまり、人格の多様なあり方の思想を前提としたも のであると言えるだろう。人格、すなわち〈全体的なものに対する生のあり方〉のあり方に よって生と世界の意味が本質的に変わってくるという発想は初期からその哲学を貫いてきた と考えることができる。では、この人格、あるいは人間のあり方というものはいかにして〈人 間〉を克服して別の人間(超人)を獲得することができるのであろうか。  対象である存在者を正しく認識するという意味における真理、つまり対象と認識の一致と しての真理を求める近代哲学は、理性の適切な使用についてのみ人間のあり方を〈調整〉し たが、基本的に哲学の探求は対象へ向かうものであったのであり、人間のあり方、「人格」 のあり方、すなわち自らのあり方を主題的に問題にすることはなかった。存在に不変の本質 を規定するところから議論を出発させる以上、その不変の存在のあり方を根本から変化させ るという可能性に思いが及ぶ事がなかったのは当然である。  人間の存在とその本質と捉えられてきた理性についての把握に変化がなく、一貫してきた ということは、逆にいうならば、存在の捉え方に大きな変化がなかったという事でもある。 それに対し、ニーチェはヘラクレイトスにまで遡る「生成」の世界を主張する。生成につい ていえば、ヘーゲルの主要概念でもあるが、しかし、ニーチェの生成は、徹底的に持続する 要素を排除した、全く認識する事などできないものであり、人間にとって理性の限界の向こ う側にあるものである18)。一切の個体、個物、「存在」は存在せず、ゆえに論理学も成り立 たない。したがって、理性はなんの役にも立たない。そういう世界である。それに対して、 論理学や西洋哲学が認めてきたあらゆる概念は、理性の限界の「地平線」に仮構されたもの でしかない。ニーチェのこの生成の世界の主張は、その実、理性の有限性の自覚、そして謎 でしかない世界の肯定、また、理性に決定的な限界を持つがゆえに不変の持続的同一的な存 在者を仮構し、その幻想に生きる〈人間〉の自覚であり、同時にその様な限界を自覚せずに 無邪気に生きる〈人間〉の肯定でもある。そして、そのような世界と人間との肯定こそが人 間の生を救いニヒリズムを超える思想と考えたのであった。つまり、生きる態度、ニーチェ の言葉でいうならば〈人格〉の変化によって、世界と人間との関わりのあり方が変化し、「存 在」の理解も根本的な所から覆るということになる。あるいは、存在についての理解が変わ るとき、人間の世界に対する態度(人格)のあり方が変化し、生の意味を認め得るニヒリズ ムを超えた生が獲得される事になる。三者は同時であり、かつ、一つの事だという事になる。 18)前掲書 第1部第 2 章「生成概念と生成の世界」 参照。

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全体的なもの、根源的なものへの〈問い〉の意義の再考

 〈人格〉のあり方、全体的なものに対する人間のあり方の変化によって、ニヒリズムを克 服する生、人間を超えゆく超人が獲得されるということになるが、そもそも、ニヒリズムが 問題となるのは、生の意味を剥奪され、無力に徒労の生を生きることに虚しさを感じるから である。これを問題としないのであるならば、我々にとってニヒリズムは全く問題ではない ということになる。確かに、ニヒリズムが究極にまで徹底された現代を不安や徒労を感じる ことなく嬉々として生きる者がある。ニーチェが問題としたニヒリズムの深刻さを深刻に捉 えることのない者がある。その様な者たちは、世界が虚しさのうちに没落するという現代の ニヒリズムについて、はたして学問の関わる問題であろうかと根本的な疑問を差し挟むこと になるだろう。確かに、ニーチェの指摘した問題の意味を把握することすらできず、その思 想に対してむき出しの嫌悪を表明する者さえいたことは確かである。ここで、なぜこの様な 問題が起こり得るのか、改めて考えておきたい。  ニーチェの指摘するニヒリズムにおける虚しさとは何か。これが問題の本質である。虚し さは意味の欠如に由来する。ただし、その意味とは「意味」一般を示すものではなく、特定 の〈意味〉である。例えば、職を得るという目的のために教育を受けるとき、教育を受ける ことの意味は職を得るという目的により意味付られている。目的の連関の中で意味は意味付 けられている。あるいは価値は価値づけられる。ニヒリズムの極限にまで進行した現代社会 においては、この目的や価値の連関が緻密に組み上げられている。しかしながら、人間がそ もそも生きること、世界があること、私が世界に生きることなど、全体的なものや根源的な ものはその連関のうちにはない。これらそれ自身として問われねばならないもの意味の欠如 が問題なのである。つまり、我々が世界のうちに己の生を見出すとき、あるいは死へ向かう 我々の生の全体を見出すとき、そこには意味や価値が失われているのである。全体的なもの を問うとき、意味が欠如しているのがニヒリズムの本質である。したがって、全体的なもの を問うとき、ニヒリズムは問題となり、全体的なものを問わなければ、ニヒリズムは問題で はない。全体的なものを問う生にとってニヒリズムは問題であり、これを問わない生には問 題ではないのである。ここに人間の内に決定的な線が引かれる。  してみれば、ニヒリズムにはいかなる生を生きるかによって多様な意味が見出されるとい うことになる。全体的なものを問う生においては、全体的なものの意味が欠如しており、そ れは深刻な問題となる。また、全体的なものの意味へむけて構築された文化や社会のあらゆ るものの意味が失われてしまうということでもある。一方で、全体的なものを問うことのな い生においては、文化や社会はかつて存在した無意味な全体への〈問い〉を放棄して合理的 なものとなり、自らの生はその都度のとりあえずの意味を見出すことでなんら意味を喪失す ることはない。したがって、ニヒリズムは問題ではない。ただし、学問を始め文化や社会、 人間の生などの最終的な目的や意味、価値が欠如することにより、それらは全体的な統一を 失いバラバラになっていくことになる。また、かつては文化や伝統によって触発され、自ら の生の意味を問うようになった生はそのきっかけを失うことになる。潜在的に生の意味を問 うことができたはずの生が、問うことがなくなるのである。

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 生の意味を問い虚しさを得るのであれば、むしろ問わない方が良いのであろうか。あるい は、虚しさを超え肯定へと達するために、ニヒリズムとの対決をしなければならないのであ ろうか。あるいは、生の意味を問うことは衰退し、ニヒリズムへの苦悩もまた哲学の歴史の 終焉とともに消え去りつつあるのだろうか。生と死、存在と無、世界と人間において開かれ た人間の生きる世界の運命は、全体的なもの、根源的なものの意味を問うことの意義を改め て把握し直すことにかかっていると言える。そのような意味を問うことは、理性や言葉、論 理の限界を認めることであり、生のあり方、〈人格〉のあり方を根本から変えていくことによっ てはじめて把握されるものである限りにおいて、既にある学問的な分析によっては証示する ことのできないものである。したがって、本論の議論した〈問い〉のあり方、生のあり方を 問題とすることの意義についてもまた、この今日の哲学においては決着の困難なものとなる。 生の意味、存在の意味、そしてニヒリズムを問題とする議論は、ただ、その意義を認めるも のにおいてのみ意義を持つ。しかし、それは個人的な人生論の問題ではなく、人間が如何に して人間であるのか、人間とは何かという、根源的な問題の核心なのである。  ニーチェの主張する超人やニヒリズムを克服する人間、あるいは〈人格〉について、ニー チェ自身におけるような異文化への偶然の出会いと触発ではなく、その獲得のための〈階梯〉 が明確に把握されえるのであるならば、この議論に決着をつけることが出来るであろう。し かしながら、これはニーチェの思想自身には明確な形で見出し得るものではない。これを明 らかにするためには、なんらかの人格のあり方に価値を置き、そのための階梯を構想した文 化、例えば東洋の伝統の内に検証し得る可能性がある。そこからはじめて〈問い─答え〉の 構造からニーチェ思想の可能性を問うた本論の意味も確定されるということになる。

むすび

 根本的なものへの〈問い〉と〈答え〉とのかかわりの本質を問うことから、生の意味を問 う〈問い〉について検証するところまで議論を進めた本論の意味は、上述のごとく、生のあ り方を自覚的に根本から変容させるための階梯の存否に関する検証を待ってはじめて確定さ れる。つまり、〈問い─答え〉の変容、生のあり方の変容、あるいは、〈人格〉の変容、これ らは同一の事態を指しているのであるが、これらが如何なる段階を経ながら、如何なる仕方 で実現されるのか、あるいはされてきたのかを検証し、なんらかの形で証示することが、小 論において試みた〈問い〉の次の課題ということになるだろう。人間が自らの生きる様々な 環境のなかでその人間となることは、説明や解釈を待つことない事実であるが、自覚的にそ のあり方を根本から変えていくことは、今日の教育システムから完全に排除されている。そ こには近現代の思想史の偶然が大きく影響しており、これは到底当然の状況とは言えない。 しかしながら、このような状況は皮肉にも〈必然的〉に深刻なニヒリズムを招いている。今 日、まさに人間が試されており、近代哲学が考えたのとは別様の知の必然性が検証されねば ならない。  

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注 表記および記号について

1)“〈”、“〉”は言葉の意味への注意を喚起するために使用されている。 ₂)ニーチェの著作からの引用については、Nietzsche-Werke, Kritische Gesamtausgabe, herausgegeben von Giorgio Colli und Mazzino Montinari, Walter de Gruyter, Berlin/ NewYork, (1967 〜 )(略号 KGW)より、分冊番号と頁を括弧内に表記。遺稿断片につ いては、分冊番号に続けて KGW の断片番号を表記。 内藤可夫 人間環境大学教授(環境倫理学)

参照

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