スイスにおけるナショナル・マイノリティ「移動型
民族」の文化的同化の強制
著者
穐山 洋子
雑誌名
GR-同志社大学グローバル地域文化学会紀要
号
7
ページ
1-29
発行年
2016-10-25
権利
同志社大学グローバル地域文化学会
URL
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014680
「移動型民族」の文化的同化の強制
穐 山 洋 子
はじめに
ス イ ス で は、 欧 州 評 議 会 の「 少 数 民 族 保 護 枠 組 み 条 約[Framework Convention for the Protection of National Minorities : FCNM]」(1998年批准)を 検討する過程で、スイスにおけるナショナル・マイノリティが定義され1、 それに該当するものとして、言語的マイノリティと並んで、ユダヤ人コミュ ニティの構成員および「Fahrende / gens du voyage」が示された2。
「Fahrende / gens du voyage」は、一般的に「定住しない人」つまり「移動 生活者」を意味する。しかし、スイスのナショナル・マイノリティとして定 義されているのは、「スイス国籍を有し、スイスと古く、強固で、永続的な 結びつきを持ち、彼らのアイデンティティを構成するもの、特に文化、伝 統、宗教あるいは言語を、ともに保持しようとする意志によって支えられて いる、国あるいはあるカントン(州に相当する行政単位─筆者)の他の住 民よりも少数の集団および人々3」である。つまり、伝統的、経済(職業) 的、文化的に移動生活を送り、移動生活が彼らのエスニック・アイデンティ ティを構成し、それを保持していこうとする人間集団を指しており、単に経 済的、社会的、政治的な理由から本人の意志に反して移動生活を送る人々は そこには含まれていない。そのため、本論では、ナショナル・マイノリティ 「Fahrende / gens du voyage」の訳語として「移動型民族」を使用する。民族 という概念は研究者によって異なる定義のもと使用されているが、本論で は、民族という概念を、出自(起源)、言語、宗教、文化、生活様式、伝統 などについて共通性を持ち、そしてそれらを通じて互いに結びついていると
『GR―同志社大学グローバル地域文化学会 紀要―』7, 2016, 1−29頁.
いう意識を持つエスニック・グループという意味で使用する。本論で使用す る民族という概念には国家や政治との関わりは含まれない。移動生活を送る こと、あるいは実際は定住していても移動生活を自分たちのアイデンティ ティであると認識している一般的なエスニック・グループを指す場合は鍵 カッコをつけずに移動型民族とする。 スイスの「移動型民族」の大部分を構成しているのは、イェーニッシェ [Jenische]というエスニック・グループである。スイスでは、彼らの言語で あるイェーニッシェ語は、欧州評議会の「ヨーロッパ地域・少数言語憲章 [European Charter for Regional or Minority Languages : ECRML]」(1997年批准)
に基づき、特定の地域と結びつかないスイスの言語としてすでに認定されて いた4。 1970年代の国際機関の支援と人権意識の高まりを背景に、イェーニッシェは 自らの権利を主張できるようになり、自称であるイェーニッシェが認知される ようになったが、それ以前は、他の移動生活を送るエスニック・グループとと もに、「ジプシー」に相当するドイツ語圏の「ツィゴイナー[Zigeuner]」や フランス語圏の「ツィガン[Tsigane]」などの外部社会から付けられた呼称 (エクソニム[exonym])で区別されることなく呼ばれていた5。かつて「ジ プシー」と呼ばれた人々は、長い間、多くの国々で、多数派社会の差別や迫 害の対象となっていた。スイスでも、彼らは、その移動生活という生活様式 から、社会的に周縁に位置する集団として差別と迫害の対象であった。近代 国家が成立すると、移動生活を送る人々は、差別と迫害だけではなく、管理 の対象にもなった。さらに、1920年代からは市民結社(アソシエーション) が50年近くにわたり移動型民族の子ども約600人を親から強制的に保護し、 定住生活を送るように矯正する活動を行った。このような歴史を背景に、 「移動型民族」は、ナショナル・マイノリティとして認定されるようになった。 本論では、移動型民族の差別と迫害の歴史的経緯を明らかし、特に子ども の強制保護が行われた社会的、思想的背景について考察する。その前に、ス イスのナショナル・マイノリティである「移動型民族」がいかなる集団を指 しているのかを明らかにすることが必要だろう。まずは、この問題に取り組 み、かつて「ジプシー」と呼ばれた人々をめぐる諸概念を整理し、「移動型
民族」という概念がもつ問題性を明らかにすることからはじめたい。
1.ロマ・移動型民族・イェーニッシェ
1.1.ロマとは かつて「ジプシー/ツィゴイナー/ツィガン」などと呼ばれた人々は、実 際は多様なグループに分類され、それぞれの呼称を持っている。現在一番広 く用いられているのは、ロマ[Roma]という呼称である。ロマは、1971年 の第1回世界ロマ会議で選択された、さまざまな人間集団を包括する概念で、 多くの機関で包括的な概念として使用されている。2004年に欧州評議会の支 援により設立され、ロマおよび関連するグループを代表するヨーロッパ最大 の組織である「ヨーロッパ・ロマ・トラベラーズ・フォーラム[European Roma and Travellers Forum : ERTF]」では6、ロマは3つの基準によって定義さ れている。ロマとは、①歴史的にインド−ギリシャという共通の起源を持つ と明言する者、②共通言語はロマニ語であると明言する者、③ロマの共通す る文化的遺産を持つと明言する者、と定義され、ロマは多様な集団を包括し た概念として用いられている7。 1960年代からロマの人権保護に取り組んでいる欧州評議会でも、さまざま なエスニック・グループを包括する概念である「ロマとトラベラーズ[Roma and Travellers]」という用語が使用されている8 。欧州評議会では、「ロマ」 に 包 括 さ れ る グ ル ー プ は、 ロ マ、「 バ ル カ ン・ エ ジ プ シ ャ ン[Balkan Egyptians]」、「東部グループ[Eastern Groups]」という3つのグループに区分 され、ロマ・グループには、ロマのほか、シンティ[Sinti]/マヌーシュ [Manousches]、カレ[Kalés]などが含まれている9。これらの呼称の多様性 を見ても、ロマに関連する集団が多様で呼称の抱える問題が複雑であること が明らかである。 インド起源という共通の出自とロマニ語という共通言語を持つ集団のう ち、15世紀頃に中央ヨーロッパに移住してきた集団の呼称は、ドイツおよび オーストリアなどのドイツ語圏ではシンティ、フランスではマヌーシュ、フ
ランス南部とイベリア半島ではカレあるいはジタン[Gitans]である10。つ まり、厳密にロマを定義すれば、ロマとは広義のロマ概念からシンティ/マ ヌーシュ、カレ/ジタンなどの別の呼称を持つグループを除いた集団、つま りインドから移住してきた主要グループの一派を指し、このグループは主に ルーマニア、ハンガリー、スロバキア、ブルガリアなどの東欧に住んでい る11。 欧州評議会が広義のロマ概念と並列して挙げているトラベラーズという概 念にも複数のグループが包括されている。トラベラーズには、アイリッ シュ・トラベラーズ[Irish Travellers]などトラベラーズと呼ばれる集団の他、 イェーニッシェ、「非定住者[gens du voyage]」という行政用語で括られた 集団が含まれ、イェーニッシェはトラベラーズと同じグループとして理解さ れている12。トラベラーズは、ロマとは起源、言語、文化を基本的に共有し ていないが、彼らもこれまでの歴史において、常に社会の周縁に位置し、ロ マと同じような差別や迫害の対象になっていた。欧州評議会の推定による と、現在ヨーロッパには、1000万から1200万人のロマおよびトラベラーズが 存在し、彼らはヨーロッパの人口全体の1.36%を占めるマイノリティ・グルー プを形成している13。 1.2.イェーニッシェとは イェーニッシェとは、エスニック・アイデンティティをイェーニッシェ語 という言語に置き、移動生活文化およびその歴史と伝統を共有するエスニッ ク・グループである。スイスのイェーニッシェは、ロマニ語を共通のアイデ ンティティに置く、別の歴史と伝統を共有する広義のロマとは基本的に区別 されるべきだと考えている14。イェーニッシェ語は、ドイツ語を基礎にして 成立した言語で、ロートヴェルシュ語、ロマニ語、イディッシュ語からの借 用語が多く含まれる言語である15。イェーニッシェの起源についてはさまざ まな説があり、30年戦争を原因とする放浪者、除隊された兵士、宗教難民、 行商、不名誉な仕事の従事者、旅芸人などであるが、これは彼らの起源が決 して単一ではないことを表している16。イェーニッシェ(またはそのルーツ を持つ人)は、ヨーロッパに約35万人存在し、スイス、ドイツ(特に南ドイ
ツのラインラント・プファルツ)、オーストリア、言語圏では主に、アレマ ン語地域、バイエルン・オーストリア語地域、フランケン語地域に暮らし、 さらに、ドイツに隣接したルクセンブルクやアルザスにも点在している17。 スイスには多く見積もって約3万5000人が暮らしていると推定されている18。 イェーニッシェのアイデンティティの中心は移動生活で、伝統的に行商、 刃物研ぎ師、金属くず商、楽師、獣使いなどを生業にしていたが、国家や市 民社会による圧力の結果、現在、スイスではその大部分が定住生活を送って いる。ここで概念をめぐる問題が明らかになる。スイスでナショナル・マイ ノリティとして認定されているのは「移動型民族」である。政府発表による と、スイスには約3万人の「移動型民族」が存在し、そのうち3000から5000 人が常時あるいは季節的に移動生活を送っているとされている19。つまり、 スイス政府の「移動型民族」という概念の理解では、実際には定住生活を 送っているが、移動生活[Nomadentum]が彼らにとって文化的アイデン ティティの基本的な構成要素となっているため、定住生活を送るイェーニッ シェも「移動型民族」の中に含まれているのである20。また、スイスの「移 動型民族」という概念には、イェーニッシェの他、ロマの起源を持つシン ティ/マヌーシュも含まれている21。さらに、スイスの「移動型民族」のフ ランス語訳は「gens du voyage」であるが、フランスでの意味(フランスに 定住地を持たずに暮らす人)とも異なっている。このように、各国、各機関 で使用されている概念の定義が異なることは、各エスニック・グループを理 解する際に誤解が生じる原因となり、さらに彼らが権利保護を主張する際の 障害となっている。 スイスのイェーニッシェは、連邦国家設立以前からスイスに暮らすスイス 市民権(国籍)を有する人々で、宗教的には主にカトリックとプロテスタン トを信仰している22。イェーニッシェは、過去には幌馬車に家財道具一切を 積み込んで家族あるいは親戚単位で移動生活を送っていたが、現在ではキャ ンピングカーを使用し、仕事に使用する器具も近代化し、インターネットな どの通信網も使用している。現在、イェーニッシェ全体の1割から2割程度が 何らかの形で移動生活を送り、残りは完全な定住生活を送っている23。つま り、現在、イェーニッシェは、一部が移動生活を送っていることを除けば、
スイス国民として、政治参加をはじめとする権利を有し、納税や兵役などの 義務も果たしている。移動生活を文化的アイデンティティの重要な構成要素 の一つであるとするイェーニッシェの大部分が定住生活を送るようになった 背景には、近代国家が成立して以降、それ以前に増して、移動型民族あるい は移動生活を送る人々が問題視され、スイス国家およびスイス市民社会が彼 らに対して定住生活を強制したことがある。
2.近代国家と非定住者・移動型民族問題
1848年に連邦国家が設立されると、国家は、だれがスイス人(スイス市民 権保有者)であるのか、そしてだれがそうでないのかを定めるために、国民 (市民)の管理に着手した。その際問題となったのは、いずれのゲマインデ (市町村に相当する行政単位)にも所属していない人々であった。スイスで は国家成立の歴史的経緯からカントンの主権が強く、連邦国家成立以降も中 央集権的な政治や行政は基本的に行われていない。市民権に関してもカント ンあるいはゲマインデの管轄である。スイス市民権(国籍)はゲマインデ、 カントン、連邦の3層から構成され、ゲマインデ市民権の保有者に対してカ ントン市民権が与えられ、ゲマインデ市民権あるいはカントン市民権の保有 者に対してスイス国籍が与えられる。つまり、いずれかのゲマインデに属さ なければスイス市民権が得られないということである。いずれのゲマインデ にも所属がない者は公的に「故郷のない者=市民権非保有者[Heimatlose]」 と呼ばれた。スイスでは「故郷=起源地[Heimatort]」は市民(国民)を管 理するうえで歴史的に重要な概念であった。起源地つまり起源ゲマインデは その所属者が貧困に陥った場合に救済する義務があり、起源地は救貧と密接 な関係があった。現在、起源地は救貧の義務を負わないが、今でもスイス人 のパスポートや身分証明書に記載される世界でも他に例を見ない制度であ る。起源地は18世紀の中頃から市民に対して割り当てられたもので、通常、 当時の家族の代表者の居住地が起源地として登録された。起源ゲマインデ は、構成員とその家族および子孫の住所、婚姻関係、生死、埋葬場所などを記録し、起源地は原則父から子へ引き継がれる24。 このように歴史的に起源地(起源ゲマインデ)はスイス人にとって重要な 所属であった。起源地がなく、ゲマインデ市民権を持たない人々は、スイス 市民権を得ることができず、このことが連邦国家成立後に問題視された。連 邦政府は、近代国家において、ある人口集団の法的地位として「市民権非保 有者」を認めることはできないと考えたのである25。「市民権非保有者」に なるにはさまざまな原因があった。「市民権非保有者」の多くは、定住せず 移動生活を送る人々であった。移動生活者は「浮浪者/さすらい者[Vaganten]」 とも呼ばれ26、行商、刃物研ぎ師、金属くず商、楽師、獣使いなどで生計を 立て、通信・交通網が発達していない時代や地域において彼らは社会から必 要とされていたが、定住しないためいずれの市民権も保有していなかった。 その他「市民権非保有者」となる人々は、市民権を剥奪された人々である。 1848年の連邦憲法で市民権剝奪の禁止が規定されるまでは、カントンやゲマ インデは何らかの理由によって市民権を剥奪することが可能であった。たと えば、改宗、異教徒間の結婚、自堕落な生活、長期間の不在などの理由に よってである27。 連邦政府は、このような「市民権非保有者」が存在する状況を解消するた めに、1850年、連邦法「市民権非保有者法[Heimatlosengesetz]」を施行し、 スイスに存在する市民権を持たない人々に対し調査を行い、一定の条件を満 たした場合、その時点で彼らが滞在するゲマインデおよびカントンの市民権 を付与するように定めた28。この法律によって、2万5000人から3万人の市民 権非保有者に市民権が付与された29。この法律では、意図せずして「市民権 非保有者=起源地がない者」になった人も、望んで職業上あるいは文化的に 移動生活を送る人も同列に扱われ、強制的に市民権が与えられた30。この時、 移動型民族に関しては、古くからスイスに住んでいると判断された移動型民 族、つまりイェーニシェに対しては市民権が与えられ、一方で主にシンティ やロマなどの短期間しかスイスに住んでいなかったと判断された移動型民族 は国外追放された31。この法律によってこれまで権利をもたなかった人々に 居住権などの権利が与えられたが、一方で義務も発生し、移動生活者はその 生活様式が厳しく制限され、管理されることになった。「市民権非保有者法」
によって、職に就かず浮浪生活を送る者ならびに物乞いに対する厳しい罰則 と、外国籍の浮浪者に対する国外退去が規定された(第18条)。また、仕事 や生業によって複数のカントンを移動する者は許可申請をしなければなら なくなり、さらに就学児童を連れて移動生活することが禁止された(第19 条)。これらの規定に反する者は財産刑(罰金)や自由刑(禁錮)に科せら れた。この法律に各カントンの規定が加えられ、移動生活が大幅に制限され るようになったうえ、移動生活は罰則の対象となるような一般社会から逸脱 した行為だと認識されるようになった32。グラウビュンデンなどの一部のカ ントンでは、貧しい子どもたちのための養護施設が設立され、イェーニッ シェの子どもが収容された33。これ以降、移動型民族への差別や迫害および 社会からのレッテル張りがますます行われるようになった。このようにして 移動型民族は強制的に市民権が与えられ、その移動生活という生活様式を改 めるよう強制され、適応できない者はますます社会の周縁へと追い込まれて いくようになっていった。
3.「ジプシー問題」と外国籍の移動型民族
国内の移動型民族の管理が徹底される一方で、19世紀後半には外国からス イスに流入する移動型民族の問題、いわゆる「ジプシー問題[Zigeunerfrage]」 が持ち上がった。1872年、中部スイスに位置するカントン・ウーリは、「ジ プシー」、楽師、獣使いの一団が公共の安寧を脅かしているため、国境で彼 らの入国を厳しく取り締まるよう連邦政府に要請した34。カントン・ウーリ にはヨーロッパの北と南を結ぶアルプス越えの主要峠であるザンクト・ゴッ タルド峠があり、ウーリは中央スイスにありながら人の往来が盛んであった 地域である。連邦政府はこの問題を管轄官庁である連邦司法警察省に委ね、 回答を保留にしていたが、同じような問題を抱えていたいくつかのカントン では連邦政府の回答を待たずに、「ジプシー」や獣使いなどのカントンへの 立ち入り禁止を決定した35。連邦政府は、19世紀末までは、スイスの伝統的 な考えである「移動の自由」を考慮して、一部の行いをグループ全体の責任とするのは適切でないと指摘し、厳格な「ジプシー政策[Zigeunerpolitik]」 への関与には消極的だったが、移動型民族の流入の増加、カントン政府によ る度重なる連邦レベルの規定の要請、他国での移動型民族に対する規制など を考慮して、次第にこの問題に対する連邦政府の姿勢に変化が見られた36。 1906年、連邦政府は外国からの移動型民族の入国禁止を決定し、スイスの旅 客運送業者に対して移動型民族と彼らの動産の移送を禁止した37。この規定 は、連邦憲法で保障されている「移動の自由」に抵触するものの、ナチに よって移動型民族が迫害された時も緩和されることがなかった。ようやく廃 止されたのは、移動型民族の子どもの強制保護問題が批判されるようになっ た1972年である。 連邦政府は、近隣諸国に呼びかけ、統一的な移動型民族の規制を策定しよ うと試みたが、賛同が得られず、連邦司法警察省警察局は、それまで以上に あらゆる手段を使い、外国籍の移動型民族をスイスから遠ざけることに力を 入れた。1911年、連邦司法警察省警察局は、カントンに対して、外国籍の移 動型民族の取り締まりを強化し、入国拒否および国外退去を徹底すると同時 に、移動型民族の身体測定や指紋採取を通じて情報収集をするよう提案し た38。翌年、これらの提案はカントンの協力により実現し、連邦司法警察省 は移動型民族に関するすべての情報を一元管理するための専門部署を設立し た39。移動型民族の国外退去は、連邦憲法第70条「連邦は、スイスの国内外 の安全を脅かす外国人を国外退去にする権利を有す」に基づくものであっ たが、この適用が適切であるか否かで連邦官庁内で議論があった40。しかし、 スイス国内に不法入国した移動型民族は、記録のための尋問が行われたあ と、密かに国外追放されていたのである41。
4.市民社会による移動型民族に対する取り組み
これまで、土着の移動型民族に対しては文化的同化を強制し、外国の移動 型民族に対しては排除を試みた連邦とカントンによる移動型民族に関する対 策を考察してきたが、移動型民族の存在あるいは移動生活という生活様式を問題だと考えたのは、スイスの市民社会も同様であった。市民社会の重要な 構成要素の一つである市民結社も、19世紀中頃から移動型民族、とりわけそ の子どもの生活様式を定住生活に転換させる取り組みを行っていた。市民社 会は、国家と私的領域(家族または個人)の間に存在し、双方を結びつける 仲介役として機能するが、単なる社会的相互作用の場所というだけではなく、 そこで共有される価値観や考え方も市民社会の重要な要素である。スイスで 市民結社が特に重要な位置を占めるのは、スイスでは政治や行政の専門化が 進まず、本来国家や自治体が担うべき課題を市民結社が引き受けているこ と42、さらに公的職務の多くが私的な職業をもつ人々の兼務として遂行され る「非専任制度(ミリッツシステム[Milizsystem])」が広く普及しているか らである43。19世紀末のスイスには、地域的な小規模な市民結社を除いても、 すでに3万近い市民結社が設立されていた44。 4.1.子どもの強制保護の前史 1850年の「市民権非保有者法」で、移動型民族および移動生活者は、移動 生活が厳しく取り締まられ、違反をした場合、財産刑や自由刑が科せられた が、他方で、刑法で取り締まるだけでなく、教育を通じで生活様式を定住生 活に転換させようという考え方も広まった。その際、教育の対象となるの は、すでに生活様式が確立した大人ではなく、教育の成果が見込める子ども であった。こういった考え方は、動物保護思想にも見られる傾向で、19世紀 後半になかなか浸透しなかった動物保護思想を広めるために動物保護協会は 積極的に青少年に対して啓発活動を行っていた45。移動型民族の子どもを親 から強制的に保護し、養護施設や里親のもとで教育を受けさせる活動を大規 模に行ったのは、後述する20世紀の「街道の子どもたちのための奉仕活動 [Hilfswerk für Kinder der Landstrasse](以下、「街道の子どもたち」)」である
が、その前史ともなる活動がすでに19世紀の前半から行われていた。 スイス公益協会[Schweizerische Gemeinnützige Gesellschaft]のメンバーに よって、「浮浪児[heimatlose Kinder]のための福祉協会」がチューリヒで設 立された。スイス公益協会は、1810年、チューリヒ市の医師ハンス・カス パー・ヒルツェル[Hans Caspar Hirzel]と彼の友人らによってチューリヒで
設立され、愛国的な傾向をもつ、公共の福祉を活動の中心に置いた協会であ る46。1826年、「浮浪児のための福祉協会」は、浮浪生活を送り、犯罪に手 を染め、不幸な両親のもとで劣悪な環境で暮らしているとして、7名の子ど もの引き取りを決定した47。子どもを保護する理由として「病気にかかった 植物はできるだけ健康な土壌に植え替える」必要があり、そのために子ども たちは、「敬虔なキリスト教徒でかつ勤勉な人のもとで暮らすべきだ」と主 張された48。つまり、浮浪児や移動生活を送っている子どもは、犯罪者であ ると一方的に決めつけ、彼ら家族の生活は顧みず、定住者の社会からみて 「健全」な子どもになるよう対策を講じる必要があると、すでに移動型民族 の子どもの大規模な強制保護が行われる100年近くも前に認識されていたの である。 4.2.福祉財団「青少年のために」と「街道の子どもたち」 ス イ ス 公 益 協 会 は、1912年、 青 少 年 福 祉 財 団「 青 少 年 の た め に[Pro Juventute]」を設立した。当時スイスには、青少年援助(保護・補導)のた めの私的な組織は約3000団体あり、青少年の問題に対する市民の関心が高 かったといえるだろう49。全国組織に成長していたスイス公益協会はこれら の組織の調整役を引き受け、理念的な提案や、資金的な援助を行う一方で、 実践的な活動もしていた。「青少年のために」は、設立当初、主に結核にり 患した子どもの援助活動を中心に行ったが、次第に児童、青少年福祉にかか わるさまざまな課題、例えば、母親への指導、国内外のスイスの子どもたち への保養地や療養地の仲介、山岳地の子どもや戦争で負傷した子どもの支 援、職業訓練のための奨学金給付、行楽地の建設と運営などを引き受けるよ うになった50。また、この財団は、寄付付記念切手やお祝いカードの販売収 入、支援者からの寄付、政府の補助金によって運営されており51、政界、経 済界、軍隊、保健、教育、福祉にかかわる分野との人的つながりが深く、現 在も青少年に関するさまざまな活動を行っている。 「青少年のために」が移動型民族を問題だと認識しはじめたのは、チュー リヒにある中央事務局が、1920年代初頭に、カントン・ティッチーノ出身の 移動型民族の家族が好ましからぬ状態で生活を暮らしている、という情報を
入手した頃であった52。1923年、カトリック保守の閣僚ジュゼッペ・モッタ [Giuseppe Motta]は53、財団に宛てたカントン・ティッチーノにいる移動型 民族の子どもの悲惨な状況を訴える手紙の中で、カントン・ティッチーノに はその費用が賄えないため、「青少年のために」で対策を講じてくれるよう 要請した54。これをきっかけに、「青少年のために」は移動型民族の子ども の問題に深く取り組んでいくことになった。 移動型民族の子どもの責任者となったのは、中央事務局で学童課に所属し ていたアルフレート・ジークフリート[Alfred Siegfried]という人物で、彼 は引退する1958年まで30年以上にわたりこの問題に積極的にかかわった55。 これまでの研究で、この活動におけるジークフリートの人間性が決定的に重 要であったと結論づけられている56。ジークフリートは浮浪生活のため就学 していない移動型民族の子どもを見つけ出し、管轄官庁に子どもを強制保護 するよう要請する活動をはじめたが、1926年に、この活動を広く認知させる ために、全国紙がないスイスで国内外に購読者をもつ高級紙『ノイエ・チュ ルヒャー・ツァイトゥング(NZZ)』に「浮浪児童[Vagantenkinder]」とい う記事を掲載した57。このなかで、カントン・ティッチーノとグラウビュン デンに居住権のある移動型民族の家族が、浮浪生活のなかで数々の罪を犯し ていること、さらにその子どもたちにも浮浪生活を強いて、犯罪者に育てて いることを告発し、少なくとも子どもを救済する必要があると訴えた58。さ らに、この記事には『NZZ』の編集者のコメントが添えられ、この事業に対 する寄付が呼び掛けられた。この記事は、定住生活を送らない移動型民族の 存在や、その子どもも同じような人生を送っているという移動型民族の問題 を一般市民に認識させる大きな役割を担った。この記事は大きな反響を呼び、 多くの寄付が集まったため、1927年、ジークフリートは学童課の課長に昇進 し、同年設立された移動型民族の子どもを専門とする組織「街道の子どもた ち」の責任者になった59。 しかし、「街道の子どもたち」の活動目的は、子ども一人ひとりの福祉や 幸福を追求することではなく、子どもたちを、移動生活を送る親から切り離 し、定住させ、定職に就かせることであった。「街道の子どもたち」は、定 住地を持たず移動生活を送ることは前近代的で、そのような浮浪生活者が今
後現れないように、定住させることが重要であると考えていた。つまり「劣 悪な」環境にいる子どもの保護は建前で、真の目的は「さすらい癖」とうい う悪、つまり劣等だと考えられていた移動型民族の習慣を撲滅することで あった60。 「街道の子どもたち」は、1926年から、メディアを中心に批判を受け活動 を中止する1973年まで、移動型民族の子ども約600人を親から引き離し、彼 らを養育家庭、矯正施設、さまざまな教育施設、母子寮、精神病クリニック などに収容した61。全体的に、養育家庭より施設に送られる子どもが多かっ たが、養育家庭に引き取られるのは男子が多く、彼らの多くは小規模農家に 引き取られ実の子どもというよりも労働力として扱われ、女子についても、 養育家庭に引き取られる場合は使用人として扱われることが多かった62。 4.3.「街道の子どもたち」と連邦およびカントン 「街道の子どもたち」は民間組織である市民結社が主導権をもって行った 活動であるが、その活動は連邦とカントンやゲマインデの援助や協力で成り 立っていた。「街道の子どもたち」の活動資金は、募金活動を通じた個人、 企業、団体からの寄付金の他、主に、個々のケースにおける、保護された子 どもの関係者、当地の協会、ゲマインデやカントンによる費用負担によって 賄われた。加えて、1930年から1966年まで連邦政府はこの事業に対して補助 金を出していた。当初補助金は1万5000フランで事業経費全体の25%を占め ていたが、経済不況の1930年代末に1万200フランに減額され、事業経費が増 大する中、その割合は全体の7%にまで縮小した63。連邦による補助金給付 は、本事業の正当性を担保し、国家によるお墨付きであるという印象をカン トンやゲマインデの官庁および市民に与えた。さらに、補助金給付による連 邦の認可は、活動の認知と拡大に大きな貢献をし、「街道の子どもたち」が 各自治体で活動しやすい環境も提供した。連邦政府の資金面での貢献はそれ ほど大きなものではないが、政治的、精神的な支援という意味において大き な貢献をしたといえるだろう64。 ゲマインデとカントンは、後見人制度、収容施設の管理、移動型民族の管 理を管轄していたため、「街道の子どもたち」はゲマインデとカントンと連
携して活動していた。このように「街道の子どもたち」の活動はゲマインデ とカントンの協力なしには成立し得ないため、この問題におけるカントンと ゲマインデの責任も大きいといえるだろう65。 「街道の子どもたち」が活動していた地域は、活動地域全体の半数を占め るカントン・グラウビュンデンの他、カントン・ザンクトガレン、カントン・ ティッチーノ、カントン・シュヴィーツなどスイス東部・中部のドイツ語圏 とスイス南部のイタリア語圏のカントンが中心で、フランス語圏での活動は ほとんどなかった66。地域的な偏りは、移動型民族の数に密接に関係してい ると考えられるが、子どもの強制保護を決定する際の裁判所の法的解釈がフ ランス語圏とドイツ語圏では異なっていたこと、フランス語圏のカントン が、中央事務局がドイツ語圏のチューリヒにあった「街道の子どもたち」と の連携を望んだか否かなども関係している67。 スイスにおける移動型民族の子ども強制保護は、連邦、カントン、ゲマイ ンデの支援と協力のもと民間組織が市民社会の支援を受けて行った、ある特 定のエスニック・グループの文化を排除する行為であった。この結果、現在、 スイスの「移動型民族」であるイェーニッシェの大部分は定住生活を送って いる。1986年、連邦政府は公式に謝罪をし、被害者に対し1100万フランの賠 償金を支払った。政府はイェーニッシェをはじめとするスイスの「移動型民 族」の文化保護のために、1997年、財団「スイス移動型民族のための将来」 を設立し、さまざまな支援活動を行っている68。
5.移動型民族の子どもの強制保護の社会的、思想的背景
連邦政府、カントン、ゲマインデ、市民結社は、移動型民族の子どもを強 制保護し、定住生活を強制し、さらにスイス市民社会は長年にわたりそれを 容認し支持し続けた。ヨーロッパの他の国々と比べ、非常に早い時期に封建 制度から開放され、市民の政治参加の強いスイスにおいて、このような人権 を無視した行為が1970年過ぎまで看過され続けてきた。ここでは、その時代 に特有な思想的背景(時代精神)とそれと結びついた当時のスイスの社会的情勢について考察する。 5.1.優生学(人種衛生学) 19世紀後半に大きな知的構造変化が起こった。1859年に発表されたチャー ルズ・ダーウィンの『種の起源』は、19世紀の自然主義(哲学)を背景に、 キリスト教的な自然解釈を否定し、人間と動物を結びつけ、進化は生存競争 と自然淘汰によって行われたという生物進化論を説いた。このダーウィンの 理論を人間社会に当てはめたのが社会ダーウィニズムである。近代諸科学で ある優生学、精神医学、犯罪生物学はこの社会ダーウィニズムの影響を強く 受けた学問である。イギリスのフランシス・ゴルトンを祖とする優生学は、 人間を遺伝的に「優秀な」人間と「劣等な」人間に区別し、人間の遺伝的 「劣化」を防止し、「改良」を加えて「優秀な」人間を増やそうとする学問で ある。ドイツでは優生学(人種衛生学)が人種主義と結びついて急進化し、 ナチ時代には障害者に対する大規模な強制断種や安楽死計画へと発展した が、スイスでは優生学は、行政手続き、精神医学的な実践、法治国家と民主 主義に関する市民的・自由主義的な解釈と調和することが可能だ、という考 え方と結びついていった69。 1912年に施行されたスイス民法は優生学の影響を多く受けていた。とりわ け、婚姻禁止条項(第97条)では、精神病患者の婚姻が禁止され、国家によ る国民の婚姻への介入が正当化された。社会的、精神的な弱者は淘汰され、 それによって国民が改善されうると考えられたのである70。1874年の連邦憲 法が定めた「婚姻の自由」という基本的人権に抵触するとは当時まったく認 識されず、個人の人権よりも社会や国民全体の「改良」が優先されたのであ る。同時期のスイスでは一般的に、精神医学の考え方が社会福祉政策で受容 され、この考え方に基づき、カントンや自治体レベルで社会福祉施設が設置 された71。さらに、カントン・ヴォーでは、1928年にアメリカ合衆国を手本 とする欧州初の強制断種法が制定された72。この法律は、ある一定の条件下 において、精神病患者や知的障害者に対して堕胎への医学的介入を可能に した。 近代諸科学の影響を受け、移動型民族の捉え方についても、19世紀末から
第一次世界大戦にかけて大きな変化が見られた。1880年代、移動型民族は、 放浪者、つまり、定住生活を送る「普通の」人々とは切り離されて暮らす、 放浪生活を送る「普通でない」人々と捉えられていたが、世紀転換期頃から 優生学、遺伝理論や遺伝生物学の影響を受け、さらに1910年代には精神医学 とも結びついて、「放浪生活/さすらい癖」は遺伝的なものであるとか、精 神疾患であると捉えられるようになった73。そして、これらは的確な「人種 衛生学(優生学)」、つまり、劣等な遺伝的素質の根絶あるいは優秀な遺伝的 素質との混合によって治癒が可能で、子どもの強制保護や拘禁、強制断種の ような措置は遺伝的要素の改善に寄与する、と多くの精神科医によって主張 されたのである74。 5.2.「外国人過多」という概念 次に、「外国人過多[Überfremdung]」という概念の「街道の子どもたち」 の活動への思想的な影響について検討する。「外国人過多」は、その概念の 誕生以来、スイスの社会的、政治的文化に大きな影響を与え続け、スイス人 と外国人の関係を形つくってきた概念である75。「外国人過多」は、外国人 の単なる数の増加だけではなく、政治、経済、社会、文化に対する外国によ る過度の影響を危惧することも含めて表す概念である76。19世紀後半の人の 移動の自由とスイスの経済発展を背景とした外国人労働者の急増がその概念 の誕生の起源であるが77、スイスではカントンの主権が強く各地域の独自性 が高いため共同体同士のつながりが希薄で、スイスには伝統的によそ者に対 して警戒心が強いという排他的な傾向があった。それでも、外国人の増加が 顕著になり始めた頃は外国人の数が問題にされ、出生地主義の導入、つまり、 スイスで生まれた外国人の子どもに対する自動的なスイス国籍の付与や、市 民権付与要件の軽減などの措置を通じて外国人の数を削減する対策が連邦レ ベルで議論されたが、実際に外国人を受け入れるゲマインデは、彼らの経済 的負担の増加につながることもあり、それらの対策には消極的であった78。 第一次世界大戦は、スイスに政治的、社会的、思想的転換をもたらした。 19世紀の自由主義的な時代が終わり、人の自由な往来が制限され、国家によ る保護主義的な経済政策が導入されると、外国人の問題に対する考え方にも
変化が見られた。1914年、「外国人過多」という概念が官庁用語に採用され、 第一次世界大戦の経過の中で、「外国人過多」という状況は克服すべき対象 として認識されるようになった79。それまでの主に外国人の数の問題から、 次第に外国人の存在自体が問題視されるようになり、スイス社会への同化が 可能かどうか、スイス社会にとって有益かどうかが問われ、「望ましくない [indésirables]」や「同化できない[nicht assimilierbar]」という言葉が使われ るようになった80。つまり、「望ましくない」、「同化できない」外国人の存 在がスイス社会に悪影響を及ぼし、スイスの独自性やスイスの文化が脅かさ れると主張されたのである。 「外国人過多」の克服が問題にされていた頃、スイスは内部分裂や社会的 対立の危機にも直面していた。第一次世界大戦中に、フランス語圏はフラン スをドイツ語圏はドイツを支持し、言語圏の間に「塹壕」があるといわれた ほど社会が分裂したことは、多言語、多文化のスイスの内部結束の弱さを示 した。また、戦争による経済不況や国防費を賄うための増税による生活困窮 は、労働者の不満を増幅させ、彼らの支持を集めた社会民主党が勢力を拡大 した。1918年にはゼネストが決行され、政治的な論争が先鋭化し、社会的な 対立が高まった。このような国内分裂や社会的対立を克服するために、「外 国人過多」の論理が利用された。「街道の子供たち」の活動のきっかけをつ くった閣僚のモッタは、さまざまな外国の要素の存在が、国内の不一致や対 抗関係を生み出し、それは子どもたちのあいだでさえも見られると指摘し、 積極的に「外国人過多」の問題に取り組むべきだと主張した81。つまり、国 内分裂や社会的対立の原因を国内の政治的、経済的な問題に求めず、外国人 の存在がすべての要因だとし、これらの問題を「外国人過多」の問題にすり 替えたのである。 「外国人過多」をめぐる議論は、外国人政策に大きな影響を与えた。外国 人の市民権付与に関しては、「スイスのナショナルな独自性への適応」が求 められ、スイス社会に「十分同化している」ことが重視され、そのために市 民権申請要件の一つである滞在期間が延長された82。東方ユダヤ人が多かっ たチューリヒでは、段階的に東方ユダヤ人に対する市民権付与要件が他の外 国人よりも厳格化された83。これに関してさまざまな論拠が提示されたが、
真っ先にあげられたのは、東方ユダヤ人はスイスに同化することが難しいと いう点であった84。 また、「外国人過多」の問題は、前述した1906年の移動型民族に対する入 国禁止の決定が維持され、外国から流入する移動型民族の厳しい取締りが行 われる要因にもなった。それは、ナチ時代に、スイスが多くのユダヤ難民の 入国を拒否したのと同様に、多くの移動型民族も入国を拒否されたことにも つながっていった85。スイスでは、定住しない生活様式が「ジプシー」とい う人々を定義する際の決定的な基準であった86。つまり、移動生活はスイス 的価値とは相容れないものだと認識されたのである。移動生活というスイス 人が受け入れることができない文化をスイスに持ち込ませないために、外国 籍の移動型民族の流入を食い止め、国内の移動型民族に対しては、定住生活 を送るように矯正が行われたのである。当時の外国人政策は、反ユダヤ主義 や移動型民族に対する敵意と直接的な関連があったと指摘されている87。
おわりに
本論では、「移動型民族」という概念の整理からはじめ、スイスの移動型 民族が、連邦国家成立以降、連邦、カントン、ゲマインデそして市民社会に よって差別や迫害を受けた経緯を明らかにし、その社会的背景や時代的な思 想や考え方を検討した。かつて「ジプシー」と呼ばれた人々は、スイスと同 様に、多くの国々で差別と排除、最悪の場合、虐殺を経験してきた。最後に、 スイスにおいて移動型民族が差別され、移動生活という文化が排除されたス イス特有の要因を考えてみたい。 多言語、多文化のスイスは、多様性をナショナル・アイデンティティの一 つと捉え、共通の言語、文化、宗教に依らず、結束しようとする意志がネー ションを創るという「意志のネーション[Willensnation]」を標ぼうしている。 一方で、多様性を国是とするスイスにおいても、当然のことながら、スイス という国家やスイス国民という集団を維持するために、多様性を超えた内部 結束は常に大きな関心事項であり続けている88。しかしながら、多様性のスイスにおいて、何が「スイス的価値」をもつのか明確に定義することは難し い。しかし、「スイス的価値」がないと判断したものに対して境界線を引く ことは可能である。外部への線引きは内部の多様性を問わずして行うこと ができる。加えて、この境界線はいつも一定の位置にあるのではなく、政治 的、社会的、経済的情勢によって常に引き直される。この境界線の位置が狭 まるのは、有事の時である。それゆえ、第一世界大戦中のフランス語圏とド イツ語圏の対立の先鋭化、ゼネストによって緊張が高まった労働者と市民層 との対立がスイスの内部結束を脅かすものに映ったとき、平時には見られな い「よそ者」や「異質なもの」への警戒心が高まり、それらを排除すること がスイス社会の安定に繋がると考えられ、国家、自治体、市民社会によって 試みられたのである。つまり、移動型民族、特にその子どもたちの強制的な 定住化は、優生学、犯罪生物学、精神医学などの近代諸科学を論拠とし、「外 国人過多」への警戒心が影響した、スイスの内部結束を守るための、異文化 の排除であったといえるだろう。 この境界線は、1973年に「街道の子どもたち」の活動が停止されるまで、 問題視されることがなかった。なぜ、そのような考え方が定着し続けたの か、特に第二次世界大戦において中立国であったスイスには、戦争に参加し た国のような1945年の思想的転換があったのか、なかったのか、また、それ が移動型民族に対する考え方にどう影響を及ぼしたかは、今後の検討課題と したい。 「移動型民族」がナショナル・マイノリティに認定され、保護の対象になっ た現在においても、この境界線は完全に消えたわけではない。ナショナル・ マイノリティと認定されている「移動型民族」の名称が曖昧である問題、移 動型民族/移動生活者のための経由地、逗留地不足の問題、そして何より、 スイス社会やメディアにおいてロマおよび移動型民族に対する偏見のまなざ しがいまだ消えていないという問題がある89。このような状況下では、スイ スが社会的に不安定になった場合、境界線が引き直され、移動型民族が再び 明らかな差別や排除の対象になることも考えうるのである。
* 本論文は、科学研究費基盤研究(B)「シンティ・ロマの迫害と『反ツィガニズム』 に関する歴史学的研究」(課題番号25284143)および科学研究費基礎研究(C)「ス イス市民社会と移動型民族の社会的排除に関する歴史研究」(課題番号16K03143) による研究成果の一部である。 注 1 「少数民族保護枠組み条約」では、ナショナル・マイノリティついての定義は行 われていないため、ナショナル・マイノリティの定義や認定は各国に委ねられて いる。そのため、本条約におけるナショナル・マイノリティとは、国家による指 定によって一定の権利を付与された少数民族(ナショナル・マイノリティ)を指 している。岩間暁子/ユ・ヒョヂョン「デンマークとスウェーデンにおけるナショ ナル・マイノリティ政策の概要と現状」、『応用社会学研究』、No. 56、2014年、 242頁。
2 Botschaft über das Rahmenübereinkommen des Europarates zum Schutz nationaler Minderheiten vom 19. November 1997, Bundesblatt (BBI) 1998, Band II Heft 11, 1310. 3 Ebenda, 1309.
4 Botschaft über die Europäische Charta der Regional- oder Minderheitensprachen vom 25. November 1996, BBI 1997, Band I Heft 8, 1178. 連邦文化庁のウェブ・サイト「ナショ ナル・マイノリティとしての認定[Anerkennung als nationale Minderheit]」(最終 更新日:2012年10月22日)、(http://www.bak.admin.ch/kulturschaffen/04265/04266/ index.html?lang=de/ 閲覧日:2016年4月29日)。同様に認定されたのは、国家語で ありながら公用語としてあまり普及していないイタリア語とレートロマン語(ロ マンシュ語)である。スイス連邦憲法には、国家語として、ドイツ語、フランス語、 イタリア語、レートロマン語が、公用語(官庁語)として、ドイツ語、フランス語、 イタリア語および、レートロマン語の話者がいる場合はレートロマン語も規定さ れている。しかし、スイスにおける使用言語の割合には大きな差があり、ドイツ 語63.3%、フランス語22.7%、イタリア語8.1%、レートロマン語0.5%である(複 数回答あり)。連邦統計庁、2014年現在。(http://www.bfs.admin.ch/bfs/portal/de/ index/themen/01/05/blank/key/sprachen.html/ 閲覧日:2016年4月29日) 5 多くの当事者が「ジプシー/ツィゴイナー」などの呼称は差別的と感じているた め、ポリティカル・コレクトネスの観点からその使用は避けられている。一方で、 自らを「ジプシー」と名乗る人々や、「ジプシー文化」などポジティヴな側面を 強調する人々も存在し、「ジプシー」という呼称の使用を避けるべきではないと
いう意見もある。IMADRロマプロジェクトチーム(編)『「ロマ」を知っていま すか。「ロマ/ジプシー」の苦難の歩みを越えて』、解放出版社、2003年、38-43頁。 水谷驍『ジプシー 歴史・社会・文化』、平凡社新書、2006年、35-38頁。
6 ERTFは、非営利の国際NGOとして設立された、ロマ、シンティ、カレ、トラベラー
ズおよびヨーロッパの関連するグループに属する人々を代表する組織である。 European Roma and Travellers Forum, Statute for the European Roma and Travellers Forum, last Modifi ed: 5 September 2013, Article 1. 2.(PDFファイル)(https://www.ertf. org/images/Statute__Rules_of_Procedures/Statute_EN_05062013_FIN.pdf/ ダウンロード 日:2016年7月9日)
7 European Roma and Travellers Forum, Charter on the Rights of the Roma, adopted at the plenary assembly in 2009, p. 6.(PDFファイル)「ロマの権利憲章[Charter on the Rights of the Roma]」第3条に、ERTFに属する各人は、名称、アイデンティティ、 コミュニティ(ロマ、シンティ、カレ、ジプシー、ツィガン、ツィゴイナー、ト ラベラーズおよびヨーロッパの関連するグループ)に関しては自己決定権を有す ると記されている。しかし、組織名にあるトラベラーズに関する定義は示されて いない。(https://www.ertf.org/images/ERTF_Charter_Rights_Roma_EN_FIN.pdf/ ダウン ロード日:2016年7月9日)
8 欧州評議会のウェブ・サイト「Roma and Travellers」、(http://www.coe.int/en/web/ portal/roma/ 閲覧日:2016年7月10日)欧州評議会が発表している2012年5月18日 版のロマ問題に関する用語集には、2010年より、ロマに関連するすべての人間集 団を包括する概念として「ロマ」を使用すると記されている。Council of Europe (CoF), Descriptive Glossary of terms relating to Roma issues, version dated 18 May 2012, p. 4.(http://www.coe.int/en/web/portal/roma/ ダウンロード日:2016年7月10日) しかし、 2016年7月10日現在、欧州評議会のウェブ・サイトでは引き続き「ロマとトラベ ラーズ」が使用されている。 9 欧州評議会は、広義のロマを3つのグループに分けている。ロマ・グループには、 この他にロマニチャルズ[Romanichals]、ボヤシュ[Boyash]/ルダリ[Rudari]、 2番目のグループとして、バルカン・エジプシャンズ(エジプシャンズ[Egyptians] とアシュカリ[Ashkali])と3番目グループとして東部グループ(ドム[Dom]、 ロム[Lom]、アブダル[Abbal])、さらに自分自身を「ジプシー」だと認識する 人 々 も ロ マ の 範 疇 に 含 め て い る。 欧 州 評 議 会 の ウ ェ ブ・ サ イ ト「Roma and Travellers」、(http://www.coe.int/en/web/portal/roma/ 閲覧日:2016年7月10日) 10 Galizia, Michele, „Stigmatisierende Etiketten: Die Unschärfe als Gefahrenquelle“,
Eidgenössische Kommission gegen Rassismus (Hrsg.), Tangram, Jenische, Sinti/Manouches
und Roma in der Schweiz, Nr. 30, Dezember 2012, S. 21, S. 23.
11 Ebenda, S. 21.
につくられた概念で、「フランスに定住地を持たず暮らす人」を指す行政用語で ある。Ebenda, S. 23.
13 欧州評議会のウェブ・サイト「Estimates and official numbers of Roma in Europe updated July 2012」(http://www.coe.int/en/web/portal/roma/ 閲覧日:2016年5月4日) 14 Radgenossenschaft der Landstrasse / Wottreng, Willi, „Wer sind die Jenischen in der
Schweiz“, Artikel für Scharotl Nr. 3, 2015, S. 1-2.(PDFファイル)(http://radgenossenschaft. ch/images/kultur/jenische_wer_sind_die_jenischen.pdf/ ダウンロード日:2016年5月9日) ス イ ス の 移 動 型 民 族 の た め の 組 織「 街 道 の 車 輪 組 合[Radgenossenschaft der Landstrasse]」のウェブ・サイトからダウンロードした文書には、機関紙『Scharotl』 の2015年3号からの抜粋となっているが、実際の雑誌に載っている記事とは内容 が異なる。参照:Wottreng, Willi, „Wer sind die Jenischen“, Radgenossenschaft der Landstrasse (Hrsg.), Scharotl, Nr. 3, 2015, S. 8-10.
15 Roth, Hansjörg, Jenisches Wörterbuch. Aus dem Sprachschatz Jenischer in der Schweiz, Frauenfeld/Stuttgart/Wien 2001, S. 160-165. ロートヴェルシュ語[Rotwelch]とは、 ドイツ語を基礎として、中世に社会の周縁にいたグループ(移動生活者や物乞い) の隠語として成立した言語で、イディッシュ語やその他の移動生活者が使用して いた言語から多くの借用語がある言語。ロートヴェルシュ語は使用グループのア イデンディディの構築にも大きく寄与した。イディッシュ語は、ドイツ語がヘブ ライ語、アラム語、スラブ語の影響を強く受けて独自の言葉に発展した中欧・東 欧ユダヤ・コミュニティで使用されていた言語。
16 Randgenossenschaft der Landstrasse (Hrsg.), Scharotl, Nr. 3, 2015. S. 9.
17 Roth, Jenisches Wörterbuch, S. 23. ドイツ、スイス、オーストリアのイェーニッシェ の数は約10万人と推定されている。Galizia, „Stigmatisierende Etiketten“, S. 20. 18 Roth, Jenisches Wörterbuch, S. 23. 連邦文化庁の公式発表では、ナショナル・マイノ
リティである「移動型民族」は約3万人と推定されており、さまざまな数が提示 されていることから、イェーニッシェの数を正確に把握することは難しい。 19 連邦文化庁のウェブ・サイト「スイスにおける『移動型民族』[Fahrende in der
Schweiz / Les gens du voyage en Suisse]」(最終更新日:2012年2月27日)(ドイツ語版: http://www.bak.admin.ch/kulturschaffen/04265/04267/index.html?lang=de/, フランス語 版:http://www.bak.admin.ch/kulturschaffen/04265/04267/index.html?lang=fr/ 閲覧日: 2016年5月5日) 20 前掲の連邦文化庁のウェブ・サイト「スイスにおける『移動型民族』」(ドイツ語版)。 スイスの移動型民族の利益団体である「街道の車輪協会[Radgenossenschaft der Landstrasse]」は、2015年に、ナショナル・マイノリティに認定されている「移動 型民族」という用語は、移動生活という生活様式を維持している人々に限定され るため、イェーニッシェとシンティ、つまり少数派の自称によって、ナショナル・ マイノリティとして承認することを求める請願書を政府に提出し、現在、請願運
動を行っている。
21 前掲の連邦文化庁のウェブ・サイト「スイスにおける『移動型民族』」 22 Galizia, „Stigmatisierende Etiketten“, S. 21.
23 Ebenda, S. 21
24 2012年に起源地に救貧の義務がなくなってから(それまでは、新しい居住先で2 年以内に生活困窮に陥った場合、起源地に救貧の義務が課せられた)、起源地は 書類上の登録で、実務上の機能はもたないが、現在でも起源地はスイス人のアイ デンティティの一つとして認識されている。
25 Argast, Regula, „Zwischen Tradition und Innovation: Das Schweizer Bürgerecht im jungen Bundesstaat, 1848-1898“, Studer, Brigitte/Argast, Regula/Arlettaz, Gérald, Das Schweizer
Bürgerrecht, Erwerb, Verlust, Entzug von 1848 bis zur Gegenwart, Zürich 2008, S. 54.
26 「Vaganten」は中世では主に遍歴芸人や遍歴学生を指す言葉であったが、次第に、
ネガティヴな意味合いを含むようになり、放浪する「物乞い」、「詐欺師」、「犯罪者」
をまとめて指すような言葉になった。Galle, Sara/Meier, Thomas, Von Menschen und
Akten. Die Aktion „Kinder der Landesstrasse“ der Stiftung Pro Juventute, Zürich 2009, S.
31. 非定住者は、この他、「いかさま師[Jauner]」、「詐欺師/ならず者[Gauner]」、 「物乞い[Bettler]」とも呼ばれていた。Meier, Thomas Dominik/Wolfensberger, Rolf,
„Eine Heimat und doch keine“. Heimatlose und Nicht-Sesshafte in der Schweiz (16.-19. Jahrhundert), Zürich 1998, S. 189.
27 Argast, „Zwischen Tradition und Innovation“, S. 54.
28 Bundesgesez, die Heimathlosigkeit betreffend. Vom 3. Dezember 1850. BBI 1850, Bd. 3, Heft 62.
29 Meier/Wolfensberger, Heimat, S. 495. 30 Ebenda, S. 188.
31 Meier, Thomas, „Zigeunerpolitik und Zigeunerdiskurs in der Schweiz 1850-1970“, Zimmerman, Michael (Hrsg.), Zwischen Erziehung und Vernichtung. Zigeunerpolitik und
Zigeunerforschung im Europa des 20. Jahrhunderts, Stuttgart 2007, S. 227.
32 市民権非保有者や非定住者があらゆる市民的秩序において潜在的な危険因子だと いう認識は、1820年代には広まっていた。Meier/Wolfensberger, Heimat, S. 526. 33 Meier, „Zigeunerpolitik“, S. 228.
34 Egger, Franz, „Der Bundesstaat und die fremden Zigeuner in der Zeit von 1848 bis 1914“, Schweizerisches Bundesarchiv (Hrsg.), Studien und Quellen, Band 8, Bern 1982, S. 52. 35 Ebenda, S. 54-55.
36 Ebenda, S. 57. 37 Ebenda, S. 58. 38 Ebenda, S. 65-67. 39 Ebenda, S. 67.
40 Ebenda, S. 68-69.
41 Ebenda, S. 69-70. Leimgruber, Walter/Meier, Thomas/Sablonier, Roger, Das Hilfswerk für
die Kinder der Landstrasse. Historische Studie aufgrund der Akten der Stiftung Pro
Juventute im Schweizerischen Bundesarchiv erstellt durch die BLG Beratungsstelle für Landesgeschichte im Auftrag des Eidgenössischen Departments des Inneren herausgegeben vom Schweizerischen Bundesarchiv, Bern 1998, S. 22.
42 Jost, Hans Ulrich, „Zur Geschichte des Vereinswesens in der Schweiz“, Hugger, Paul (Hrsg.), Handbuch der schweizerischen Volkskultur, Zürich 1992, S. 467.
43 ミリッツシステムが特に反映されている制度の一つは民兵制である。スイス軍は 徴兵制による市民兵によって構成され、職業軍人の数は少ない。また、職業政治 家の数も少なく、多くの政治家は本業の傍ら職務を行っているため、一般市民に 近い政治家といわれている。 44 Ebenda, S. 468. 19世紀末のスイスの人口は約330万人。 45 たとえば、動物保護協会の会員には青少年教育を担う多くの教師や聖職者が含ま れていた。穐山洋子「19世紀スイスにおけるユダヤ教の屠殺方法・シェヒターの 禁止−動物保護協会の活動と会員の社会構成を中心に」、『ヨーロッパ研究』、 Vol. 12、 2013年1月31日、東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センター、34-37頁。ま た、本協会は、青少年向けの動物保護カレンダー(19世紀末には50万部発行)な どを通じて、青少年の動物保護の啓発を積極的に行っていた。Lüth, Ruth, „Der Schutz der stummen Kreatur“, Schweizer Tierschutz (Hrsg.), Festschrift 130 Jahre
Schweizer Tierschutz, Basel 1991, S. 34.
46 本協会は1850年以降全国的な組織になり、1912年、青少年のための福祉財団[Pro Juventute]、1917年、高齢者のための福祉財団[Pro Senectute]、1978年、精神病患 者のための福祉財団[Pro Mente Sana]など多くの福祉関連の協会を設立した。活 動は主にドイツ語圏で広まった。Schumacher, Beatrice, „Schweizerische Gemeinnützige Gesellschaft (SGG)“, Historische Lexikon der Schweiz (HLS), Version vom 27.10.2011, (PDFファイル)(http://www.hls-dhs-dss.ch/textes/d/D16451.php/ ダウンロード日:
2016年5月5日)
47 Leimgruber, Walter, „Einheimische Fremde- Fremde Einheimische. Fahrende in der Schweiz“, Prodolliet, Simone (Hrsg.), Blickwechsel. Die Multikulturelle Schweiz an der
Schwelle zum 21. Jahrhundert, Luzern 1998, S. 124.
48 Ebenda, S. 125.
49 Galle/Meier, Von Menschen, S. 13. 50 Ebenda, S. 13.
51 政府からの補助金は包括的なものではなく、プロジェクトごとに補助金が給付さ れていた。
ンで、イタリア語圏である。 53 モッタはカントン・ティッチーノ選出の国民議会議員で、1920年から1940年まで 外務大臣を務め、国際連盟への加盟問題など難しいスイスの外交政策を担った。 モッタは、1915年、1920年、1927年、1932年、1937年に大統領に選出されている。 54 Ebenda, S. 18. 55 アルフレート・ジークフリートはロマンス語・ロマンス文学の博士号を持ち、 1915年から18年まで「青少年のために」のルツェルン支部長を務めたのち、ギム ナジウムの教員を経て、1924年にチューリヒの中央事務局に採用された。1927年 から学童課の責任者になった。Leimgruber/Meier/Sablonier, Hilfswerk, S. 24. 彼の引 退後はキリスト教系の慈善協会[Seraphisches Liebeswerk]で同様の活動に携わっ ていたクララ・ロイスト[Clara Reust]が引き継いだ。Galle/Meier, Von Menschen, S. 39.
56 Leimgruber/Meier/Sablonier, Hilfswerk, S. 71. 57 Galle/Meier, Von Menschen, S. 19.
58 „Vagantenkinder”, Neue Zürcher Zeitung, 13.07.1926. カントン・グラウビュンデンは ドイツとオーストリアと国境を接するスイス東部に位置するカントンで、ドイツ 語、イタリア語、レートロマン語の3言語が使用されている。グラウビュンデン には比較的多くの移動型民族が市民権(居住権)を持っていて、1920年代から 移動型民族の定住化を図るための予算である「放浪者予算[Vagantenkredit]」 を 計 上 し、 こ の 問 題 に カ ン ト ン が 取 り 組 ん で い た。Galle, Sara, „Bündner “Vagantenfamilien“ im Fokus der Pro Juventute. Die Zusammenarbeit der privaten Stiftung mit den Behörden und der Psychiatrischen Klinik Waldhaus“, Dazzi, Guadench/Galle, Sara/ Kaufmann, Andréa/Meier, Thomas, Puur und Kessler. Sesshafte und Fahrende in
Graubünden, Baden 2008, S. 174.
59 Galle/Meier, von Menschen, S. 19.
60 Leimbruber/Meier/Sablonier, Hilfswerk, S. 33. 61 Ebenda, S. 7. 62 Ebenda, S. 78. 63 Ebenda, S. 28-30. 64 Ebenda, S. 157. 65 Ebenda, S. 58-59.
66 Galle/Meier, Von Menschen, S. 63.
67 Leimgruber/Meier/Sablonier, Hilfswerk, S. 53.
68 財団「スイス移動型民族のための未来[Zukunft für Schweizer Fahrende]」は、連邦 文化庁と17のカントンの資金援助によって運営され、移動型民族に関する啓発活 動や彼らの権利を守るための活動をしている。
Handlungsmuster in der Schweizerischen Psychiatrie, 1850-1950, Zürich 2009, S. 49.
70 Huonker, Thomas/Ludi, Regula, Roma, Sinti und Jenische, Schweizerische Zigeunerpolitik
zur Zeit des Nationalsozialismus, Veröffentlichung der UEK Bd. 23, Zürich 2001, S. 32-33.
71 Ebenda, S. 33.
72 最近の研究、特にNational Forschungsprogramm „Integration und Ausschluss“ (NFP51) の研究によって他のカントンでも、法律は制定されなかったが、同様の強制断種 が行われていたことが明らかになっている。
73 Huonker/Ludi, Roma, Sinti und Jenische, S. 33. 74 Leimgruber/Meier/Sablonier, Hilfswerk, S. 61.
75 Buomberger, Thomas/Kury, Patrick, „Behördliche Überfremdungsbekämpfung und Überfremdungsbewegung. Züricher Spuren eines wirkungsmächtigen Diskurses“, Niederhäuser, Peter/Ulrich, Anita (Hrsg.), Fremd in Zürich-fremdes Zürich? Migration,
Kultur und Identität im 19. und 20. Jahrhundert, Zürich 2005, S. 177.
76 「Überfremdung」の訳語については、穐山洋子「スイスの外国人政策−19世紀末か
ら『外国人の滞在と定住に関する連邦法(1931年)』成立まで−」黒澤隆文(編)『中
立国スイスとナチズム 第二次大戦と歴史認識』、京都大学学術出版社、2011年、 603-604頁を参照。
77 Kury, Patrick, Über Fremde reden. Überfremdungsdiskurs und Ausgrenzung in der Schweiz
1900-1945, Zürich 2003, S. 33.
78 穐山「スイスの外国人政策」607-608頁。
79 Buomberger/Kury, „Behördliche Überfremdungsbekämpfung“, S.178. 80 Ebenda, S. 179. Kury, Über Fremde Reden, S. 212.
81 Argast, Regula, Staatsbürgerschaft und Nation, Ausschließung und Integration in der
Schweiz 1848-1933, Zürich 2007, S. 298.
82 1920年、連邦法によってそれまで2年か4年であった第一世代の外国人の市民権申 請要件の滞在期間が6年に引き上げられた。Argast, Staatsbürgerschaft, S. 292, S. 320. Bundesgesetz betreffend Abänderung von Art. 2 des Bundesgesetzes vom 25. Juni 1903 über die Erwerbung des Schweizerbürgerrechtes und den Verzicht auf dasselbe vom 26. Juni 1902, BBI 1920, Band 3, Heft 28, 816.
83 チューリヒでは1912年に東方ユダヤ人の市民権申請要件の滞在期間が10年に、 1920年には15年間に引き上げられた(その他の外国人は10年)。滞在期間だけで はなく、ドイツ語の習熟度や、社会への適応度なども厳格化された。Kamis-Müller, Aaron, Antisemitismus in der Schweiz 1900-1930, Zürich 2000, S. 85-90.
84 Ebenda, S. 89.
85 Huonker/Ludi, Roma, Sinti und Jenische, S. 92-93. 86 Ebenda, S. 41.
die Flüchtlinge zur Zeit des Nationalsozialismus, Zürich 2001, S. 63. 88 スイスのナショナリズムおよびナショナル・アイデンティティの形成に関しては、 穐山洋子「ヨーロッパ世界のナショナリズムとアルプスの多民族国家」踊共二 (編)『アルプス文化史 越境・交流・生成』、昭和堂、2015年、179-200頁を参照。 89 スイスのおける最近のロマに関する報道は、ほぼ、犯罪者、物乞い、売春婦、不 法入国者に限定され、それらがロマのイメージを低下させ、レッテル張りをして いると報告されている。それにともない、スイス国籍を持つ移動型民族も同等に 扱われる場合がある。参考:Ettinger, Patrik, „Berichterstattung über Roma in der Presse der Schweiz“, Eidgenössische Kommission gegen Rassismus (Hrsg.), Tangram, Jenische