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智山學報 第51 - 021山本 匠一郎「『大日経』所説の<有相と無相>について」

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全文

(1)

経 』 所 説

有 相

無 相

つ い

本   匠

は じめに

 

日経 』におい て 〈有 相 と無 相 〉 とい う問 題は、 経の全体にわ たっ て説 か れてお り、 教 理 的な問題 群を形 成 してい る。 それ は仏 教 内 部におい ては「実 在と空 」を め ぐっ て の 伝 統 的な問題で あ り、 かつ それ はまた仏 教 以 外の 在 来 諸 思 想との対 話に おける基調で もある。

 

また この 問 題 は、

教の

伝統

教 学に おい て は、 「

とい

論 議の

題 と して取 り上 げ られ る。 これ は と くに頼瑜 にお い ては、 加 持 身説 法

の理

基 盤 その もの で あ り、

新義真言教学

に おい て も重

な意

っ て い る1) 。 現

の 仏 教 学の 立場か ら見て も、 この 問題は真 言 密 教の 教理 ・実 践 体

底か ら支 える問い と して の価 値を含ん で い るよ

に思 わ れ る。 こ こ で は現代の仏 教 学 ・密 教 学の見地か ら

大日経 』所 説の 〈有 相 と無 相 〉 につ い て検 証 し、 主 と してブ ッ ダ グヒ ヤの

大日経 』 註釈を中心 に して考 察を試 み たい 。

有 相 と無 相

の原 語につ い て

 

相」

と漢

され る

代表

的 なサ ン ス ク リッ トには、nimitta

1akSarpa

ikhra

1ihga

が ある。 その

ち 『大日経 』におい て く有 相 と

相〉 とい っ た場 合、 その

「相」の 原語は nimitta (Tib.mtshan ・ma )で ある 「有相」は sanimitta (mtshan  ma

dafi

 

bcas

 

pa

mtShan  ma  can )で あ り、「無

相」

は animitta か

nirnimitta(

mtshan  ma med  

pa

となる。 こ の原 語は 『大 日

』に おい ては

数少

ない

梵文

か ら採 拾で

(2)

智 山学報 第五 十一輯 究に おい て は よ く知られ た箇 所で あ り、 〈有 相 と無 相 〉の 問題をめ ぐ り、 漢 訳 と チベ ト訳 に おい て理解が異なっ てい る箇 所で あ る。

脈 はい わ ゆ る

観 」を説 く短い

で あ り、 その

(字 )・三 (印) ・

(形像)に

有相

無相

を配してい る。

 当該箇

所の

梵文

は、

密教

のチ ャ ン ドラキ ー テ ィ (

9

10

世 紀頃 )

明 』(PradiP。dy。tana−iktl)2)とい

う 『

密集 会

タン ト ラ』の注

書 中に見 出さ

れ、

大 日経

中に 二種の 本 尊 瑜 伽 を説 く

3)と前 置 きして引 用 さ れ る。 そ の サ ン ス ク リッ ト

は長

と偈 頌 と におい て 混乱 を来してい る。 長行で は、 本 尊の身に有 相 と無相 との 二 種があ り、 有 相に よっ て有 相の悉 地が

ら れ、 無 相によっ て

相の

地が得 られ る と説

、 偈 頌で は、 有 相に よっ て有 相の

地を得、 無 相によっ て有 相

と無 相

の 悉 地 を

る、 と してい る。 以下 に よ く知 られ た

所で もあ り煩 瑣にもな る が、 当論

のすべ て に 関わ るの で そ の梵文 と蔵 漢 両訳を示 す こ とにする。

Skt)

『灯 作 明』(Pra  ・dy・tana−

tikE

ch.

12

)中の引用4)

  devat

 

pam

 api 

guhyak

dhipate

 

dvividha

 

pariSuddha

卑 aSuddharp  ceti 

l

 tatra

pariSuddham

 adhigatariipaip  sarvanimitt 盃

pagatarp

/ apariSuddharp  nimitta r面

pa

[rpvarpasarpsth 血 a匠

 

ca

 

l

 

tatra

 

dvividhena

 

devatliriipe4a

 

dvividhak

設ryani §

pattir

bhavati

 

l

 sanimittena  sanimitt 且siddhir  upaj 巨

yate

/animittensnimitt2siddhis /

   

i

§騨 nav 翻 覃[siddhirp  sanimitte  sanimittam  

a

  

animitte  sthitv2 vai sanimittarp  

prasadayate

 

l

   tasm5t sarvapfakare a nimimittam  nisevyata  

iti

 

1

Tib

大日経

本 文 (

D

190a

P

154a

b

 

gsafi

 

ba

 

pa

i

 

bdag

 

po

 

lha

i

 

gzugs

 

kyah

 rnam  

pa

 

gfiis

 te/

yofis

 su 

dag

 

pa

 

dah

yohs

 su ma  

dag

 

pa

’o 〃

de

 

la

 

yohs

 su 

dag

 

pa

 ni rtogs [

Correct

 mi  rtog  

by

 

N

G

pa

i

 

ho

 

bo

 ste /mtshan  ma  thams  cad  

dafi

 

bral

 

ba

o

yofis

 su ma  

dag

 

pa

 ni

mtshan  ma  

da

1

 

bcas

 

pa

i

 

gzugs

 te/   a 

dog

 

dafi

 

dbyibs

 so 〃

de

 

la

 

lha

i

 

gzugs

(3)

『大日経』所説の 〈相 と無 相〉 につ い て 山本)

mam  

pa

 

g

is

 

kyis

 

dgos

 

pa

 mam  

pa

 

g

is

grub

 

par

gyur

 te/mtshan  ma  

dah

 

bcas

pas

 ni mtshan  ma  

dah

 

bcas

 

pa

’o 〃 mtshan  ma  med  

pas

 ni mtshan  ma  

dah

 

bcas

pa

i

 

dhos

 

grub

 

kyah

grub

 

par

gyur

 ro !

  

/mtshan  mar  

bcas

 

pas

 mtshan  

bcas

 

kyi

d

血os 

grub

 rgya 且

ba

 

dam

 

pa

 

b

乞ed 

1

  

!mtshan  ma  med  

la

 

gnas

 

pas

 ni 〃 mtshan  ma  can  

yah

 

bsgrub

 tu nlh 

1

  

1de

 

bas

 mam  

pa

 

thams

 cad 

du

!!mtshan  ma  med  

pa

 

bsten

 

par

 

bya

 

1

Chin)

『大日経 』本 文 (大正

18

44a

 

本尊

二種。 所 謂 清 淨 非 清淨。 彼 證 淨

離 一

非淨有

想 之 身。 則

形衆

色。

二種 尊 形。 成 就二種

。 有 想 故 成就

地。 無想

隨生 無 相 悉 地。 而 説偈 言

   

佛 説有 想 故

  

樂欲成

相       以住 無 相 故    獲 無 相 悉地

   

一切

種  當

住 於 非想 一 梵 蔵漢

和 訳 す な る

秘 密 者の主 よ、 本

の色

は また二

で あっ て、 浄 と不 浄 とで ある。 その 中 、浄とは証

自性で あっ て、 一 切の相 を離れた もの で ある。 不 浄 とは、 有相の 色

で あっ て 、顕色や形 色で ある。 そ こ で二

本尊

の 色

に よっ て 二種の 目的を成就 するで ろう。 有相 に よっ て は有 相の

地 で ある。 無相に よっ て は無

Tib

有相)の 悉地 を (も)成 就

るで あろ う。

   

相におい て は

有相

  

悉 地を

最勝 者は説 け

   

無 相に住 し て は

        

有相 (

Chin

無 相) を (も)成就せ ん

   

それ故一切の行 相におい て

 

無相 を修 習 すべ し」 一 こ の 文脈 と以 下

る 5) 。

Skt)

 

行   有相

相の悉 地

   

 

有 相→

有相

       

一切 行相に

無相

する

  無

相→ 無 相の悉 地

 

無 相→

相 (と無相〉の 悉 地

(4)

智 山学報 第五十一輯

Tib)

長 行       偈 頌

Chin )

   

 

有相→ 有 相の 悉 地

 

有相→ 有 相 悉 地

 

一切

相 に無相 を修 する

 

有相→ 有 相の 悉地

 

相→

有相

 

一切 行 相に無相 を修 する

 

無相→

相 の

  無

相→ 有 相 (と無相)の悉 地

 

無 相→ 無

  無相

無相

 

こ の

灯 作 明』の引 用 文が その ま原 典 に患 実で あっ て、 善無 畏や ブ ッ ダ グヒ ヤ (及 びシ ーレーン ドラ ボーデ ィ)が

拠し た 『大 日経

が この 通 りであっ た と

れば

漢両 訳が相 違 する理 由は

の よ

推測

される。

な わち

梵 文

が長

偈 頌 と におい て意 味が二様である ため 、

訳は梵 文の偈

っ て、 漢 訳は梵 文の 長行に従っ て 、

意 を

てい る の である。 ブ ッ ダ グヒ ヤ と善

畏の註 釈 も、 そ れ ぞ れの訳の

脈に従っ てい る。

有 相 と無相

瑜伽修

習一 通 大 乗の所 説

 

一般に nimitta と は、 瑜 伽 行 唯識 学

で と くに重

さ れ る用 語で あ り、 そ れは

精神集

における

物 的対

の 形相、

哲学

的に は

表象

(V。rstellung ) を意 味 する6)。

大日

経』

説本尊

昧品」

の所 説 も、 論 点は本 尊 瑜伽 (

devatay

。ga) にお ける相 (nimitta >の 題で あっ て、 そ れ は唯識 思 想にお ける所 縁 (認 識対 象 、

alambana

) を めぐる問題 と本 質 的に通底 して い る。

 

こ こで 通大乗 の 所 説 として、

瑜 伽 」(

yQga

) を扱 う代 表 的な経典で あ る 『解 深

経 』

分 別 瑜 伽 品

(弥 勒章) を

参照

して み る7) 。 こ の章 は弥 勒 菩 薩 が

間者とな り、 「止

観」

9arnatha

−vipaSyana )を主題 と して論 じて い る。

 

解深密経 』

に即 して 〈

相 と

相〉の 瑜 伽 を述べ て い る

脈の大

を述 べ と以

止 観 を修 す に よ 所 縁得 ら が、 まず二種の所縁 侑 分別影像所縁 と無分別 影像所縁 )が得 られ る。

(vipaSy . ana に よっ て 縁ぜ ら れ る境 界が

有 分 別 影 像

(savikalpabimba で あ り 、 止 (≦amatha によっ て縁ぜ ら れ る境

無 分

別影像」

nirvikalpabimba と さ れ る。 さ ら に瑜 伽 行 者は金 を錬 磨 する よ

菩薩

修行

道を進め て い き、 (

134

(5)

『大 日経 』所 説の 〈有相 と無相〉 につ い て 山本)

辺 際 (vastvarlta の所 縁を得て、 無上菩提を証 得 し、 所 作成

(krtyanUE!

hana

所縁

る こ とが

か れ て い 8)

 

神 集

中にお い て顕 現 するこ の

別影

像 と無 分 別 影 像の 二種の所縁 こ く有相 と無 相 〉 とに対応する もの で ある と言っ てい い の で はない か。

解 深密 経

で説か れる 「分 別」(vikalpa ) を その ま ま 『大 日経 』の 相」 (nimitta )と

絡 させ るの は

辞上の 難 点 を伴 うか もしれない 。 しか し

瑜伽 師地論 』以

、 瑜伽

唯識

学派

内部

に おい て、

分別

の問題 を め ぐっ て は種々 の議 論 が展 開 されたの であ り、 その議論の

点は、 両

が同じもの である か、 異 な る もの で あ る か、 また両者は どの よ

な 関 わ りにある のか、 とい

う点

にあ っ たことが

先行

研究の 中ですで に指 摘 され て い る9)。 その よ

名辞

上の

似性、親近 性 を指摘 した として も、大乗に お ける観 想の 目的は諸 法 ・心 意 識 の 相を観 察 する こ とであ り、

教にお ける

想の 内容 とは本 質 的に異なる、 とい う疑 義も提出 さ れ よう。 しか し後世の 理 解 に おい て は瑜伽行 を修 習 する 立

と して、 諸 法 ・心 意識の 相 と、 仏 像を縁 じる

観想

とは、 ほとん ど

われてい る。 た とえばカマ ラシ ー (約

740

797

修 習

次第

』(Bha − vanakrama 後 篇で

解 深 密 経 』

分 別瑜 伽 品

を念 頭 に置 きつ つ 、 瑜 伽 にお ける 二種の影像 につ い て説 明 して い る。 その 箇 所 で カマ ラシ ー 、 無 分 別 影 像 とは止に よっ て一切 法の影 像 と仏の色

身等

信解

して縁 ずる こ とであ り、 有 分 別

像と は

によっ て

影像

その もの を行 ずる こ とで ある、 と述べ て い る。

解 深 密 経 』所 説 の 二

縁を、 仏の 形 像 を観 想 する こ とに まで 敷衍 して 用 い てい る の で あるlo)。

 

次第』

で は、

解 深 密経

は主 要な所

経 典

の 一 あ り本 論 書 は一貫 と して 「止

双 運の 道

9amatha

−vipa ≦yana−yuganaddha −mdrga

修 す

きこと を

くが 、 それ は有 分 別と

分 別の

影像

を縁 ずる こ とである と さ れる。

その

に援 用 さ れる経典は 『解 深密経 』をは じめ、 『三 昧王経 』、

宝 積経 』、

槃経』

、 『宝 雲

経』

などの代 表 的 な

経典

る。

 

こ の思

後世

のチベ お ける伝 承で も変わ ることが な く、 カマ

(6)

智 山学 報第五 十一輯 密経

く援 用 し、 『ラム リム

で は諸

経典

の 中で 最

24

回の 引 用を数 える11) 。 さ らに

めて ツ ォ ン カバ は

ガ クリム

におい て 、 止

双運の 瑜 伽 が、 顕教 (波羅 蜜乗) と密教 (真言剰 と を

橋 梁

である

べ て い る12)。

乗 教 学にお ける波羅 蜜 乗 と真言 乗の二 は、 瑜伽の修 習を通 路 と して結ば れてい るの であ る。

有 相 と無相

瑜伽修 習

密教

本尊瑜伽

 

経』

説本尊

に お ける nimitta を め ぐる問 題 は、 通 大 乗 と言 っ て もい い 思

想的

コ ン テ ク ス トを具

てい る ことが 垣 間見 える。 ブッ ダ グヒ ヤ におい て も当

所 は重 要な意 義 を担っ て お り、

大 日経 広

』は もち ろ ん、

大日経 略 釈

に おい て も同文が

2

回 ほ ど引用 され る。 後 世におい て も

用さ れ る だけでは な く、 プ トン の

総 タン トラ

部解 説』

13 、 ッ ォ ンカバ の 『ガク リム もこ の箇 所を もっ て 「所作 ・行 タン ト ラの 理

趣」

と して い る14) 。

8

世紀以後の密 教 者に とっ て

説本尊

昧 品」所 説

の く

有相

相〉 の瑜伽 修 習 が

大 日経

の 要 点 として認 識さ れ

受容

さ れて い たの で

り、 ブ ッ ダ グヒヤの 理

世 にまで

承さ れ たこ とが

える。

 

瑜 伽 行は大乗 仏 教 に 共 通 す る一般 的 な修 行 法で あるが、 密教 に お ける瑜 伽

は、 と り もな お さず

本 尊 瑜 伽」(devatay。

ga

)の修 習 とい う密 教不 共の

行 法である。 先 述 した よ

に そ れ には 二

種あ

っ て 、 有 相 と無相の 二種の本 尊 瑜 伽である。 こ れ は 一

に 「

尊観」

とい わ れ、

(種字 )・三

三 昧耶形)・ 尊 (尊像)に

有相

が あ り、

字に は 〈

と菩提 心〉、 三 昧耶 形 に は 〈有 形 と無

〉、

尊像

には 〈不 浄 と清 浄 〉 とが配され る。 有 相 瑜 伽 とはい わゆ る 四支 念 誦ユ5)修 習 する こ あ り無 相 瑜伽 と は菩 提心 を修 習 す とである、 と さ れ る。 本 尊瑜 伽は

か に密

教独 自

の 修 行 法 とい えるが、 その 独 自性の背 面には当然の こ とな が ら

乗仏教 の教理 が 内

して い る。 〈

有相

と無

〉の

瑜伽

とい

の教 理は、 密教 の 本

瑜 伽の 基 盤である。 『

日経

におい てその

理 は

当時

大乗仏教思想

到達点

と して

受容

され、 そ れが密 教 ・真 言乗の い わ ば

と なっ て い る。 (

136

(7)

『大日経』 所説の 〈有相と無 相〉 につ い て (山本 )  ブ ッ ダ グヒ ヤにおい て、 こ の 〈有相と無相〉は ま た 〈世俗と勝 義 〉とに照 応 して理解さ れる。 こ こで その理解を 『大日経 略釈 』に見て み よう。 少 し長 い が重 要な箇 所なの で 全文を引 用 する16) 。

 

さて自己の本 尊の 自性は世俗 と勝 義 と和 合 して共にある とい

こ とが、 自己の 本 尊 瑜伽 の 相で ある。

Samayogatantra17

か れ る 、 その 次 第は またこ うである。 す なわ ちこの タン トラの 中に、見 聞する とこ ろの 諸の

物は本 初 よ り不 生 に して 生ずることが ない 正 理 に よっ て 、勝 義の

性は生

るこ とが ない におい て信 解 さ れ たの で あ り、 その

・ 界 ・処 等を分 別 する こ と は世俗 と して存 在 し、 ま た 一 多 と を観 察 する 正 理によっ て部 分 的に

察 され る。 それ ら (正 理)におい て顕 現に よる 空

の心 を現 前に な して 、 自己の本

瑜 伽 を成就 する こ と を 世俗、

い は勝 義になすべ である、 と出て い る。   そこ で の本 尊の相は、 勝 義の 自性は法 界で あっ て 、 自己の本 尊 と自身 の

本性等

が無 別の

信解

する門 か ら、 それ と共に 同一性である こ と、 これ は

己の

本尊

瑜 伽

る。

  自

己の 世

本尊

瑜伽

次第

は また、 こ の 中で は二

種示

さ れ る。 その

ち一つ

自身

相が顕 現

る もの 一 切 を もっ て、 空

た る月

輪等

の行 相 となる こ とに より、 我 性が 自己の本 尊瑜 伽 と して顕 現 するこ と を 成就

るのである。 その

他方

は 、 顕現に よ る空 寂の 心か ら立 ち上 が る の で あ り、 それ は 自身と自己の本 尊が幻の如 く平 等 性と信 解 するこ と に

先行

して 、

性として

等に して 一 信 解 す っ て 、 自身を 本

と信 解 したの で っ て 、 自

の 果報たる色 身の 行 相 その もの を、 ま さに 自己の本 尊 と慢 ずるこ とが、 すな わ ち自己の 世俗の 本

瑜 伽 の 第二 で ある。

 

こ の 意 味は ま た、 こ の タ ン トラ の 中で は

本 尊の真 実性

ユ8)を は じ め

諸 品

か れてい る と理

すべ で ある。

(8)

智 山学報第五十一輯

  

この

所の 中に

本尊

に関

る ブッ ダ グ ヒヤの理

と、 その教理 上 の極 処が示さ れて い る。 こ の文 脈の論

と要 点を確 認してみ よ

1

2

3

4

5

本尊

に世

勝義

との

が ある。

勝義

本尊瑜伽

とは、

法界

己の

本尊

とが 同 一

であるこ とをい

。 世俗の本 尊瑜 伽 もま た二種 に分 けられ る。 一 方の世俗の本 尊 瑜 伽 と は、 自身の行 相 を月輪の相と して顕 現 する本

瑜 伽である。

他 方

本尊

瑜 伽 とは、

法性

如幻

・ 平

性 と信

して本

慢を なすことで る。   世 俗 と勝 義 とい う二諦 説は、 大 乗 仏 教の教理上 で 最 も重要な もの の 一 ある。 二諦 説は主と して 中

観哲

学で 説か れる教理で あるが、 その 教理 自

に 唯 識 思想や仏 教

を巻 き込んだ

存在

する。 ブ ッ ダ グヒ ヤ

世の

8

世 紀 当 時の イ ン ドでは、 中観 派 と唯 識 派 との 間に濃 密な思 想 交 渉が展 開さ れ、 バ ー ヴィ ヴェ ー

500

570

後 湧 た と さ れ 両 者論 争

で に

にわた

、 思

上の

問題点

もある

帰結点

を迎 えてい た。 こ の

尊瑜伽

解釈

当時

にお ける思

状 況 を

えてい る。

 

こ こ で先 行研 究に依 拠 してユ9) 、 この 文脈に

接 する 二諦 説の展 開の トピッ ク を挙 げれ ば、 二 諦 説は 唯 識 思 想 と仏 教 論理 学 との 交

か ら 三性

tri− svabhava

説に よっ て 解 釈 さ れる ように な っ た こ とが

摘さ れ る。 勝

対的

を意

し、 い か なる

戯論

も生 起 も

め ら れ ない の で

円成実性

(pa血

i

§.

panna

)で ある と され る。 そ れに対 し世俗 は

を意 味し、 何ら かの 言語 表 現と 生

とを

伴 う

の で

依他起性

(paratantra) と遍 計 所 執 性 (parikalpita)の 二種に分 けられ る とされる20) 。 これ は唯 識 思 想 に おい て nim 量

tta

存在 性

につ い て 二 通 りの見 解が な され 、

他起性 と して の nimitta (概 念化 さ れる以前の表 象) と 遍計 所 執 性 と して の nimitta 概念化 さ れ た表象)との 二 つ の 別 が立て られた こ と と ま さに対応する 21) 。 ブ ッ ダ グ ヒヤが世

本尊

瑜 伽を二つ に

区別

して

考 え

たことも、

上の 二

諦説

お よび

関す

議論

認知

した上 で の こ と と 思 わ れる。 い まこれ を

本尊瑜伽

関す

規定

れ ば、

自身

を月

138

(9)

r

大日経』所説の く と無相〉 につ い て

山本) の相と顕 現 する本 尊瑜 伽は遍

執性

と して の 世俗に属 し、 自身を如 幻 ・ 等 性 と信 解 する本 尊瑜 伽 は依他 起 性 と して の 世俗に属 する、 と考 え られ よ う。 こ こ で ブ ッ ダ グ ヒヤ は明 確に遍計 所 執 性 依 他 起 性 とい

使

して い る わ け ではない が、 第 一 の 世俗 本

瑜 伽を

説明す

かれる

「自身

を月輪 と して顕 現 す るこ と

は 、概 念

さ れ た表 象 と し て の nimitta に属 す るこ とは明 らかで る し、

に み る

文例

では明確 に

遍 計 所執 性 」とい う語 を世

俗本尊

瑜伽の 内

に用い てい る。 ま た第二 の世俗 本

瑜 伽の

明 に 際 して言わ れ た

如 幻 」 とい う表は、 唯 識 思想 におい て依他 起 性の 内容を 説 明する際につ ね に伴 う重 要語で ある。 ブ ッ ダ グヒ ヤは三性 説 を積 極 的に取 り入れ た二

諦 説

動向

把握

した 上 で、 それ を密 教の本 尊 瑜伽に適 用 して理

してい るの で

る。 我々 は こ こ におい て中観 と唯 識 と密 教の 、 三

見事

合の

例を見 出すことが で きる。

 

ま た ブッ ダグ ヒ ヤ が当時に お ける思想

動向

を把 握 しい た とい こ との さ らなる認 証は 、先の引用 に お け る 「一 と

と を観 察す る正 理」 とい う文言 に も見 出すこ とがで きる。 この

言の 指 示 する とこ ろ は中観 思想

の 上で画

的な意味 を担っ た とさ れ る い わゆ る

離一

因に よ る無 自性

理 で ある。 そ れは

定式化

すれ ば 以 下 の ようになる22)。

大前 提

  

一性 と

性 を

れてい の は、

無 自性

る。

小 前 提

    自他

が説 くこれ らの

は、 一 多 性

     

故 に、 自他が説 くこれ らの事 物は 、 無 自性で ある。 この

によ る無 自性 論 証は、 一切 法 の 無 自性 を一つ の 論 証 式に おい て 示 す もの で あ り、 後 期 中観 派の ジ ュ ニ ャ ーガ ル

700

760

23)

見 出されず、 シ ャ ー ラ クシ タ (約

725

783

)以

に頻 繁 に見 出さ れ る。 こ の

定式

8

紀後半

頃か ら イン ド仏 教思 想 界一般に流 布 した もの と思 わ れ、 ブ ッ ダ グヒ ヤ と同時代 人の ジュ ニ ャ ー

8

紀)の

論書

中 に も見 出され る こ とが報

さ れて い る24)。

 

本 尊 瑜 伽 は、 勝 義に おい て も世

に お い て も、 すべ て 「正 理」(nyaya )に 依 拠 して

さ れ るべ こ とが説か れ る。 正 理 とは、 一 切

初不生 ・

(10)

智 山学 報第五 十一 輯 自性の 真 実を伺

する こ とで ある。 その 意

で 正理 とは勝 義 諦 と

しい 。 本

瑜 伽 に おい て 、 な ぜ正 理に よる観 察が必 要 と され、 一

無 自性

され る のか とい えば、 その理

な らぬその 正理が 、 自己と本 尊 との 自性 が 同一 ・

平等性

で ある と

信解

さ れ る こ との前 提 的

拠で ある と同時に、 本

慢に よる

地 と利 益 を成就せ しめ る源 泉を保 証 する定 理だ か らである。 勝

は世

立 させるた めの

根拠

で あ

、 また源 泉 なの で ある。 ブッ ダ グヒ ヤの二 諦 説

 

』 に お ける 〈有 相 と無 相 〉とい う問 題は、 nimitta をめ ぐる問題 か ら唯 識 思

密接

な関

ち、 さらにそれ が世俗 諦 と勝

諦 とい

思 想 以 来の 二諦 説に

拠 して

解釈

さ れ、

密教

本尊

瑜 伽に適 用 されてい るこ とが把握 さ れた。 つ ま り く有相 と無 相 〉 と 〈世俗と勝

〉 と は、 そ れ ぞ れ唯 識

と 中

派との視 点か ら見 られ た とこ ろ の 同一対 概

る と言 える。

 

世俗 と勝

の 二 諦説 は本

瑜伽の文脈に適 用 さ れるば か りか、 ブ ッ ダ グヒ ヤ の

言密 教は、 つ ね に二 諦 説を基

と して

じ られ る とい っ て も過 言で は ない 。 以下 に

大 日

広 釈

におい て

世俗 」 と

」 とい

語につ い て 整理 し、 その 事 例 を表 と して ま と めて み よ

25) 。

の 見 方は、 ch は 『

経広釈』

示す

が、 ほ とん ど全

ん で い る こ とがわ か る。 対

と は、 それ につ い て く世 俗 と勝

〉が示 さ れた とこ ろの

で あるが、

大 日経

の所 説の全 幅に 向 けられて い る こ と が わ か る。 ch . 対 象 世俗 勝義 酒井訳 /

Bhasya

D

1

証得の法 如 来の三無尽荘厳 蔵 真 如の相 ・空の 自性

12

70a

1

一切智智 十 力 ・四無 畏 ・十八 不共 法等 空性を知る

18

74a

1 戒 饒 益有 情 ・摂善 法 摂 律義 戒 無為戒

28

80b

1

諸法 因 果 を決定する諸所作 をなす 空の 自性

63

99b

1

菩提心 加持力に よる悉地の 果 空

64

99b

2

般若の理 趣 布 施 等の諸 波羅蜜 行 一切法 本不生 ・空性

80

104b

140

(11)

『大日経 』所説の く有相と無相〉につ いて 山 本)

2

真言の 自性 曼荼羅の真言行の諸 支分 菩提心、 無 相

87

108b

2

三摩 地 地 ・水輪等に専念 する こ と 空性に専 念する こ と

137

134b

2 四魔の 降伏 成道に お ける四魔の降伏 一切 法 本 不 生

140

133b

2

真言の相 三悉 地と息災等諸事業 空性自性

143

136a

2

真言の 説法世尊の 功 徳力 、無 畏等 解脱 門、 空の 自性

146

138a

2 文字の 加持 十力 ・四畏 等 一切法本 不 生 ・空 性 150/140b

2

字句の 三昧門 十 力 ・四無畏 等 を示す 本不 生 ・空性 を示 す

151

141a

6

阿字門 大丈夫の三十二を示 す 真 如を示す

206

163b

6

鑼 字 日 ・月 ・星の諸 光 空の 自性、 最勝の真 如

224

172a

9

念 誦 外と内の四支念 誦 無相念誦、内の勝義念誦

257

256a

10 三 世無礙 力 一切魔 ・迷乱に障碍されない 空 性 ・法界観 ず

26

180b

10

阿字 種字に依止する 一切空に依 止する

267

183b

10 阿字 無数の如来を 出 現する 如 来の 自性、菩提 道場心

269

184b

10

五色の加持 各本尊に よ り加持する 界を空性 と加持 する

271

186a

11

如 来地に住す 本 尊 身と瑜 伽する 空 性の本 尊 と瑜伽 する

283

190b

13 法平等観 如来身と有情 界平等観切法と空性の 平等観

296

195b

3

大力持 明王 神 変等を為 す 空 性 の 自性を示す

300

197b

13

広 大 幻 ・陽炎のしとる 一切法は 虚 空性と悟る

301

197b

13 可得の 行 境 諸 法は虚空華 ・如幻 と悟る 諸法は不 可得と

320

205a

13

三摩地 十力・四無畏等 阿字等の

327

207b

16

等至 三昧 諸 仏刹の殊勝を悟 る 法界に 遍満するを悟る

363

216b

16 世尊 一切の を出 空性の 自性

364

217b

17

戒に住 する 如 幻と悟 り執着せず 行ずる 一切法の空性に住 す る

375

222a

18

阿字・真言心 阿字より迦字等を 生ずる 阿字より本 不 生 を悟る

385

225a

20

平等性に入る 如幻と して の平等性 空性と して の

400

229b

21

百 光遍照 如来身よ り真言 を出 生する 真如 智海より出生する

409

233b

22

百 字の 自性 世 尊の 身の 自性 真如智 を 証 す る自性

413

234b

22

六神通 大智、真如 智、 一切 法空

414

235a

(12)

智 山学 報 第五 十一輯

23

曼荼羅 影像 曼荼羅、 身 ・語 曼荼羅 自性曼荼羅、 心曼荼羅

424

240a

23

常 住 有情利 益 を円満する 真如智が円満 する相

426

240b

23

四大種 因縁和合に よ っ て生ずる 無色相 ・空性

430

242b

23

諸 法 因縁 よ り諸法は 生ずる 法は存在し ない

432

243b

23

意 ・輪 有相の心で分別さ れ る 存在 し ない

433

244a

23

心 呪 ・月輪 因縁に よ り利の所作を なす 自性空 434 /244b

24

諸法 空 な らず、名のみ 虚 空 ・空

440

246a

26

真言 顕 現する 存在 し ない

444

247a

28

諸法の相 幻の如 し 空性

454

250b

  

ブ ッ ダ グヒ ヤ は 『

経』所説

の ほ ぼ全 領 域に わ た っ て、 世俗 と勝 義 と を配

してい る こ とが

える。

大日経 』 中に も

に 二諦に

26)とい

言葉

か れる ように、 大 乗 ・真 言 乗教 え

の 二

成 立 してい るこ と は

そ れ自体の 主 張で ある と言える。 上記の

には、 先の本

文脈

ら れる ような、 唯識 思 想を摂 取 した二 諦 説は

られ

、 あら ゆる表象 概 念につ い て、 その 〈世

と勝

〉 と して の

り方 を対 置さ せて い る。 その

表象

概 念 と はすな わ ち

相 」(nimitta )で あ り、 相 と して 顕 現 する も の は、 その 限

どこまで も世

に属 する。 〈有 相 と

相〉は 〈世俗 と勝

〉 と

全 にパ ラ レル な関

にある。 「世

俗」

とは、 大 乗 ・

言 乗の 教 理 ・実 践 一意 味 す 、 我々 が 日

的に生 きて い るこの 世

で の あ らゆ る営み ・言 説 (vyavahata ) を 意味 する。 一 方 「勝

」 と は、 真 如 ・法 界 ・空 性 ・無 自性 ・本 不生 ・菩提 心 を意 味 する。 ブ ッ ダ グヒ ヤ は如上 な る二 諦につ い ての

を 、々な対 象に向 けてあて は めてお り、 その姿 勢に例 外は見 出 さ れ ない

る。

事象

に関

説 す

に、 「

勝 義

におい て …

、 「世

におい て…」 とい

限定が附 され る話

は、 中

観派論 師

特徴 的

傾向

り、 ブ ッ ダグ ヒ ヤ もその 二諦説の 規 範 的使 用 を踏襲 して い る。 しか しその使 用

囲 が密教 の 教理 ・実践概 念 にまで 及 んで い る ところ に、 ブ ッ ダグ ヒヤの 二 諦 説の

趣が ある。 (

142

(13)

『大 日経』所説の く有 相と無相〉 につ い て (山本) ブッ ダグヒヤ

教学

の根 本命 題

 

ブ ッ ダ グヒ ヤの

教 学

はどこ まで も二諦 説に基づ い てお り、

各支

分 に二諦

をあて は めて 、 そ れ らがすべ て勝義に おい て 「無

性 ・空」で ある と してい る。 すな わ ち

大日経

相の 修 行 体 系を一貫と して空観の立場 におい て理解 してい るの である。 これはブ ッ ダ グ ヒヤの教 学上の 性格で ある とい う以 前に 、

経 』 自体 。 すなわ ち

真言行

の 全

曼荼羅と修法等の真 言行の 諸支分) を

相の

i

軌」

(mtshan  mar bcas pa’i ch。 ga) と位 置づ け、 そ れ が本

的に 「

性の理趣 」(法然の道 )で は ない ことを主張 して い る27)。 で は なぜ そ れ ら有相 ・世俗 の儀 軌が仏 説である の か と言 えば、 未来 世の 衆生 は無 相 ・勝 義 ・空性の教 説 を理解せ ず、

分 別 に と らわ れてい るの で、 彼 ら を摂 取 し救 済 する た め に、

言行の

相の 儀 軌 が 説 か れ たの である、 と さ れる 28) 。 つ ま り

有 相

執着

する者 には有 相行 を示 して無 相へ と導 くの で あ り 、 一

、 無

執着す

に も

無 自

性の 空理か ら 退

させ る た め に

相の 門を示 して真の空性 を開示させ るの である。 この

に おい ダ グヒヤ も善

畏 も解 釈に異 なるとこ ろが ない29)。

相; 世俗 は単なる誤謬と し て 一義 的に否

さ れ るの で は な く、 無 相 = 勝 義 との 関わ り にお い て (この 条件が大切 なの であ る が)、

理へ と至 る手だて と して肯 定 的な 意 義を担っ てい る。

 

有 相 も無相 もともに

理へ 至 る手段 。 真 言 行の全 体は有 相行であ りつ つ 、 しか も

無相

へ と至

修行法

る と言 え 。 ブッ ダグ ヒ ヤはそ れ を 〈真言の総 相は菩 提 心で ある 〉 とい う

題 に

約 して み せてい る。 そ れ は、 ある箇

に おい ては

(典 拠 不 明) と して提 示 され た り、 または論 述の 中で 言及され る な ど、 彼の註 釈 書におい て諸処で散 見 され る。 以下 にその 文 を提 示 する。 まず 引 用 文 と して 言

され る例 を

挙 げ

3

例)、

に その

の 言及 (

4

例) を示 す。

1

.『

経広釈』

(BhaSya , D .

99a

−bp .

120b

121a

(14)

智 山学報 第五 十一輯

  

shags  mams  

kyi

 spyi’

i

 mtshan  

fiid

 ni 

byah

 chub  

kyi

 sems  so 

2es

 

g

加 血

las

   

gsu

血s na  

1

2

.『

経広釈』

BhfiSya

, 

D

141blP

175a

−b )

   「

その故に 〈一切の

の 自性は

提 心で ある 〉 と他の タ ン トラ 中に      説か れる 。」

   

de

 

bas

 na shags  

tharns

 cad 

kyi

 rah  

b

in

 ni 

byah

 chub  

kyi

 sems  so 

Zes

  

rgyud  

gZan

 

las

 

gsuhs

 so /

3

. 『大日経 略釈

(Pipqartha D .

55b

56a

P

65b

   

「この ように他 処に もま た、 〈秘密 真 言は菩提心 であっ て 〉 と秘

密真

   

総相

かれて い る。

   

de

 skad  

du

 

g2an

 

las

 

kyah

gsah

 shags  

byah

 chub  sems  

yin

 te/

2es

 

gsa

   

sfiags spyi ’

i

 mtshan 徹

d

 

gsuhs

 so /

4

大日経広 釈

(BhASya , D .

99b1P

121a

   

「同

言 の 自性 も、 その菩提 心は勝 義におい て空であるが、」

     

de

 

bZin

 

du

 sfiags 

kyi

 rah 

b2in

 

yah

 

byah

 chub  

kyi

 sems  

de

 

don

 

dam

 

par

   

stoh 

pa

 

yin

 mod  

kyi

5

大日経 広 釈

(BhESya, D .

105alp

128a

   「

諸真言

の一

真実

菩提

心であっ て、

   

shags  mams  spyi ’

i

 

de

  o na’

i

 mtshan  

nid

 ni 

byaiit

 chub 

kyi

 sems 

te

6

.『大 日経 広 釈 』(Bhasya , D .

108bne

132b

   「

諸 真 言の 自性で ある。 (そ れ は)勝

におい て は菩提 心で あっ て、

   

shags  mams  

kyi

 rah 

b

in

 no 〃

don

 

dam

 

par

 

byai

 chub  

kyi

 sems  

yin

 te 

1

7

広 釈

(BhaSya, D .

144blP

179a

   「

言の

自性

は空

た る

提 心 を修 習 するこ と と知 る

   

sfiags  

kyi

 rafi 

bZin

 stoh  

pa

 

fiid

 

kyi

 

byafi

 chub  

kyi

 sems  

bsgom

 

pa

 

Ses

 

pa

  

ブ ッ ダ グヒヤ は 〈

言の 総相は

提 心で ある 〉 とい う内容の 文 言を、 経

典か らの引用 と して

示 してい る が、 こ れは 『

』中 には

存在

せず、他

(15)

『大日経 』所説の く有相と無相〉 につ い て 山本 ) の経 典の に も

出 さ れ ない 。 あるい は ブ ッ ダ グヒ ヤ

当時

に は

存在

して い た不

文献

の 可

能性

もある が、 同

内容

文言

諸処

出され るこ とか らも、 お そ ら く

確 実

な典 拠に基づ くもの で は ない こ とが

測 さ れ る。 これ は ブ ッダグヒ ヤ の 真 言観 を表 明 した一つ の命 題 なの で ある。 その命 題は、 教理 的に重 要 な文 脈 にお い て提 示 さ れ る。 〈有相 と無 相 〉 とい う問題に関わ る箇 所 に お い て 、 ブ ッ ダ グヒ ヤは この

題 を二 度にわた っ て 示 し て い る。 すな わ ち

3

6

で ある。 こ こ で その 例

3

文言

提 示

して み よう。

脈は世俗 と 勝

本尊瑜伽

を説い た

箇所

で ある。

 

に無 相三

ま り) 自 の 本 尊が法 身と瑜 伽 する門 よ りま た、 総 じて一切 の 明 呪 と言 の 念 誦 儀 軌 を説い て い る。 本 経の 中に、 有 相 と

相の 二

次第

に随 っ て、 不 浄 と

浄 との 二

の 差別 門 よ り、本 尊の 身の 二種の 自性が示 されてい る。 さて ま た清 浄 と は法 身で あ る。 無 相 三昧の 自性は 、 無 相 なる智 慧の 自性の 相で ある。 不 浄は ま た遍計さ れ た色 身の 自性であ り、 諸 仏の 受用 身と変化 身の 相 が所 化の衆 生に顕 現 する勢力に よっ て顕 色や形 色の

自性

として

立 した もの で ある。 本

の 差 別は清 浄 と不 浄で あ り、 その うち諸の (依 )他 (起性)の色 身は福 徳 の 因 を あ た か も摂

する とお りに顕 現 し、 ま た遍 計 所 執性 に よるの で不 浄なる もの で ある。 こ こ で また

真解脱

門の心を修 習 する相を如 実に知る こ と、 そ れ が

なの かは、 そ れ らはまた

法身

で ある、 として安立 され よう。 この よ うに他 処に もま た、

秘 密 真 言は菩

心で

っ て

と秘

密真言

の 総 相が 説か れ てい る。 その 身の両 者の相が ま た本 経の 中に

説さ れ る30)。 一 と し こ の

、 冒頭に

げた 「説本 尊三昧 品」の 章 節が経 証と して 引用さ れてい る。 こ こ で文脈 の 要 点 を確認 す れ ば 以 下の よ うに な ろう。

1

) 有

相 と無相の 三 昧によ り、 不 浄と清 浄の 二

本尊 身

の 差 別がある。

2

) 無相

とは、

清浄

なる

法身

と瑜伽 することで ある。

3

有 相三昧 と は、 不 浄な る色

と瑜 伽することで ある。

(16)

智 山学 報 第五十一輯

4

不 浄な る色 身に 二種 あっ て、 受 用 身と変化 身で ある。

5

は依 他 起性、

変化身

は遍

計所執性

に配

され る と

えられ る。

 

こ こ で ブ ッ ダグ ヒ ヤ は 〈世

勝義

〉の

本尊瑜伽

仏身

につ い て

して い るこ とが

把握

さ れ る。 ここ で

まで の所 説を

に して整 理 すれ ば、 以下 の よ

になろ

。 nimitta 二 三性 種 字 三昧耶形 尊像 仏身 無相 勝義 円成実性 菩 提心 無形 清浄 法身 実世俗 依 他起性 受用身 有相 邪 世俗 遍計所執性 声 有形 不浄 色 身 変化 身

 

図示 して しま

が あ る が、 そ れ ぞ れの項は短 絡 的に連関 させ ら れてい る わけで は なく、 そこ には 一と し た思 想 的 テ クス トが

流と し てある こ とはすで に見て きた とお りである。 ブ ッ ダ グ ヒヤ におい て 〈有 相 と 無 相 〉 とい

う提

題 が

々 な

に おい て重 要な

意義

を担っ てい た とい うこ とを

窺 う

こ とがで きる。 そ して 〈

相 と

相〉 ま た は 〈世俗と勝 義〉の 両義 性 が、 〈

真言

総相

菩提心

る 〉 とい

う根

に よっ て貫 か れて い るこ とが 知 られる。 真 言教 学にはつ ねに そ うい っ た 両

性が

存在

してお り、 そ れ らが 複 雑な連 関 と調和 と を保っ てい る。 〈

言の 総相 は菩

心で あ る 〉 とい

命 題は、 その 連関の 振 り子の

支軸

、相 反 する もの の調和 する結 節 点に他 な らな い o

 

ブ ッ ダ グヒ ヤ におい て

提 心

勝義

その の であ り、 カマ ラ シ ー 見 られ る ような

世 俗 と勝 義の 二 種 菩提 心 説

は、 はっ き りと した形で は ま っ た く説か れ てい ない 。 もちろ ん 世俗 と勝

の二 種 菩 提 心 説 は、

華 厳 経』 の 正当な展開 と しての シャ ーン テ ィデー ヴァの

願と入の 菩提 心 説

に 思想 的 に淵 源 し、 ブ ッ ダ グ ヒヤ もその説を認知 してい る31)。 本

瑜 伽 に おける解

に、 彼は タ ン トリス トと して あ

な が ら、

当時

力な学 説 ・思潮 を把

し、 かつ そ れ を

密教

み に

用 してい る。 当時の イン ド仏 教 思想

一 般に流

した と思 われ る

菩提心

説 を

考慮

に入れ なが ら も、 ブ ッ ダ グ ヒヤ に (

146

(17)

『大日経』所説の く有相と無相 〉 につ い て (山本) お い て、 菩提 心 とはす なわち無 相 = 無 自性 = 空 性で あ り 、 どこまで も勝 義 に 属 する もの で あ り、 かつ 〈世俗 と勝

〉、 〈

相 と

相 〉 を

る心 的基

と して理解 されてい の で ある32)。 ま  と  め

 

こ こ で は

大 日経 』 にお ける 〈有 相 と無 相 〉 とい

題 につ い て、主に ブ ッ ダ グ ヒヤの註 釈を中心 と して論 じた。 その問 題 の

程 は 、 通大乗の 思想 的 コ ン テ クス トを

背景

と して、 中

・唯 識 思想 との対 話を経て、 その綜合へ と 至っ て い るこ とが

看取

さ れ た。 〈

有相

無相

〉は く世

勝義

〉 とパ ラ レ ル な同一対概 念であ り、

大 日経 』の全

に及ん で い る。 『

経』

にお け る そ うした 両義性は、 その両義 的な意味 をその ま ま把 持 しつ つ 、 ブ ッダグ ヒヤ に おい て、一

と して 空性なる菩提 心の もとに定 義づ ら れ てい る 33) 。 そ れ は く言の 総相は菩提心 である 〉 とい う根 本 的命 に集 約 され よう。

 

また この

根本命

題 は、

真言行

で あ り、

提 心が無 相 = 空 性である との定

か らする と、 〈

相の 総

無相

る〉 と

えて もさ し つ い 。 こ

した 二

背 反 的 な矛 盾が 一 の命 題におい て結 合さ れて い るの で あ る。 世俗が勝

の 光明 に よっ て照 ら さ れ るこ とで その 影像 を明らか に し、 ま た勝 義が世俗の手だて を借 りて その

を顕現 する よ うに 、 両者 は

絶対

的に隔 絶 し、 相 対立 する矛 盾概 念で あ りな が ら、 相 補 的 ・

依存

であ り、 共 働 的な相 関概 念で ある。 その

態は ま た 、 相即 とか 、 即 一 とか、 不二 とも

よう。

 

しか しその

意 したい の は、

勝義

として

立 されてい るのが

で も 「空性 」で も な く、 「菩 提 心 」で ある とい

とこ ろ で ある。 まさ に こ こ に密教の 根 本

が あ る と言 っ て よい 。 た だ教理 的に無 相 ・無 自性を 主張す だけな ら ば 、〈真 言の総 相 は 空 性で ある 〉 とい えば済む こ とである。 しか し、 そ

は言わず、

菩 提 心 」 とする ところ に、 や は

り真言 密

教の 一 の存 在 意

るの

(18)

智 山学報第五十一輯

1

) 藤田隆乗 「頼瑜の 「四重秘 釈」につ い て」 『智 山学報 』 第

50

輯,

20Ql

2

 

『灯作明』

hadipodyotana

lika

密 集会 ン トラ の 注釈書 (Candrakirti作)。 聖者

 流の註釈書の 中 で最 も重要なもの の一つ 。

Skt

.及び

Tib

.(

Toh1785

0ta2650

)が存在

 

し、Skt.ed (C .Chakravarti 

, 

1

 

984

 ,全 文 /A .Wayman ,1977, ch.

6

12

[vss .

60

64

])が 出

 版 さ れて い る。 ch .

12

まで が mtilatantra (ch .

1

17

)の 中で も原 初 的 な形 態 と さ れ る。

 

『梵語仏典の研 究亅

IV

 

密 教経 典篇、 

p

234

参 照 .

3

 

『灯作明』は、

Vairocanabhisafpbodhitantre

pi

 

l

 dvividhadeva ogalp  nirdigate /と記   し た後に、 本文を引用 する。

C

Chakravarti

GuhyasamAjatantrapradipodyotana

!ika−sati(otivyakhy 訌,

1984

, 

p

.119 .A .Way −

man Yoga of 

the

 

Guhyasamljatantra

1977

p

41

1Tohl785

, D .

98a

4

) 松 長有 慶 「大 日經の梵 文斷編につ い て」『印仏研 』

14

2

1966

.文 中括 弧は松 長博  士に よ る チベ ッ ト訳か らの補正で ある。 この 補正梵文に はい くつ かの文例が仮想さ れ  よう。 い ずれ にせ よこ の偈文の 一 があ まり にも直前の長 行と類似 してい る た めに梵  文を参照し た者が前文と同一で ある と誤っ て判 断し書 写 したの で あろ う。

5

 

高橋 尚夫 「本尊の原 語を め ぐっ て」『大正大 学大学 院研 究論 集』 第

2

号 ,

1978

/ 栗  山秀純 「「大 日経』「説本尊三昧品」所説の非 想 三昧」 『豊 山教 学 大 会紀 要 』第

10

号 ,  

1982

/大塚 伸夫 「『大日経』における 三密思想 と十縁生句につ い て」 『大正大 学大学 院  研究論集』第

11

号、

1987

等参照。 漢訳の趣意は、 有相で も無相で もない 「非 想」 を修   習せ よ、 とする (栗 山秀 純 Ibid.)。 梵 文は nirnimitta で あ り、 あ えて こ こ を 「非想」

 

と したの は善無 畏の意訳と 言える。 し か し nimitta に は 「想 (sa刺匍 」の 定義 もある

 

ことが先行 研究で指摘 さ れてい る

6

Ibid

.,

pp

105

106

6

) 横 山紘一 「nimitta (相 )につ い て」 『仏教 学』創 刊号、

1976

7

) 『解 深 密 経 』 「分 別瑜伽 品」 (SaTpdhinirmocana−stitrach.

8

Maitreya−

parivarta

その

 

献上の 問 題 につ い 、袴谷昭 『唯識解 釈学解 深密経 』

1994

pp

34

 〜

43

が詳 しい

8

) 懈 深密経』大正16,

697c

L

  otte校訂本,p .

88

.還元梵 文は Lamotte に よ る。

9

) 袴谷 憲昭

Ibid

.,pp .

97

100

10

 

G

Tucci,Minor 

Buddhist

 

Text

 

Part3

Third

 Bhavanakrama

1971

pp

1

2

 

ata eva  bhagavat互 catv互ry 烈ambanavast 巨ni 

yoginfirp

 nirdi§匿ni l a 丿

 

(nirvikalpa )

pratibim

 

bakam

/b 丿

 

savikalpapratibimbakam  / c丿vastUpalyantata !

d

丿

karyapa

iSpatti6

 ca 1 tatra

a丿螽amathena  yat sarvadharmapratibimbakarVi  buddh 互diriipaip ctidhimucyalambyatc  tan nirvi−

 

kalpapratibimbakam

 ucyate 

l

 tatra bhUt諷 han 

pa

a vikalpabh 盃v 五n nirvikalpakam  ucyate  

1

(19)

『大 日経 』所 説の く有相 と無相〉 につ い て (山本 )

ya

血almtodgτhTt五n湎 ca dh 

pratibimbakam

 a)dhimucyalambyata iti願

pratibim

 bakam

 ucyate /b 丿tad eva  

pratibimbakaip

 yad互 vipa6yanaya  vicdrayati  yogi tattvfidhiga−

 mfirtharp   tad五 savikalpapratibimbakam  ucyate / tattva皿

irUpa

  vikalpasya   vipa 忌yan詛ak一  ミapasya tatra samudbhav5t !

G

Natndol

,Bhavanalcrarrial) of  Achrya Kamalagila,CIHTS ,BITS 

9

 , 

1997

, pp .

253

254

 芳村修基 『イン ド大乗仏 教思 想研 究一 カマ ラ シーラ の思想一』

1974

,p 。

416

11

) 長尾 雅人 『西蔵仏 教研 究』

1954

,p .

84

12

) 高田仁覚 『イン ド・チベ ッ ト真 言密教の研 究』

1978

p

362

13

)  遠藤 祐純 「瑜伽 タン ト ラ につ い て    『総 タン トラ部 解説』を中心に 1   」   『大正大 学研 究紀 要』第

78

輯、

1993

14

) 高田仁覚 lbid.,

pp

370

371

15

 

四支念誦 と は心想 ・先 承事 ・具支 ・作 成就の 四種で ある。 これにつ い て は松 長有  慶 「念 誦の 四支分と種三尊」 『密教文化』

20

1952

参照。

16

) 北村 太道 訳 『大日経略釈』、

pp

.43 〜

44

。  PipdarthaD .

20b

21a1P

25a

〜b,

17

) 典 拠不明。 Skt.Samyoga 伽 tra. Tib.kun du sbyor  ba rgyud . 

Skt

.は

J

S

Negi

『蔵梵 辞

 

典 亅に よ る暫 定的 な 還梵で あ る。 い わ ゆる

Sarvabuddhasamfiyogata

皿traに相 当 する経 典

 

(乃至それ に準ずる原初 的な形態を そ な え た経 典)だろ うか ? もっ ともその場合 、mffam

 

par

 sbyor  ba rgyud と蔵 訳さ れる のが常で あ る。 『

切 仏

集合 タン ト ラ 『一切仏

 平 等 瑜伽 タン トラ』 とも和 訳 さ れる。 根 本 タ ン トラ (malatantra )は失わ れ、 続 タン

 

トラ (uttaratantra,Toh .

366

/Ota .

8

)と続々 タン ト ラ (uttarottaratantra , Toh .

367

/Ota .

9

 

の み が伝わる。 その文献上の問題につ い て は、 頼 富本広 「密教仏の研 究』

1990

pp

29

 

7

310

参照。

18

 

この 「本尊真 実性 をは じめ とする諸品」(

1ha

i

 

de

 

kho

 na  fiid la sogs  

pa

 rim 

par

 

phye

 

ba

 

dag

は典拠不 明であ る。 北 村博士 はこれを 『大日経 』と して、 こ の箇所の註で 「秘

 

密マ ンダラ品等を指すよ うである

北村訳

p

44

、 註 p.

8

)と推 測 する。 宮 坂博 士 も

 

そ れを受 けて 「秘密 曼荼羅 品」と してい ン ド古 典研 究』冊、

1995

p

313

。 し

 

か しこれ は 『大日経 』の章 名で は な く、“

Samayogatantra

” とい うタン トラのある章 名を

 

指 示する もの であろ 。 も しもこれ が

Sarvabuddhasamgyogatantra

で ある とする と、現

 

存 する続 タン トラ と続 々 タン トラ には こ の章 名が見あたらない こ と か ら、 失わ れ た根

 

本タン トラの名を指 示 して い る と推測 さ れ る。 この タ ン ト ラ の典 拠が所 在不 明

 

である こ とは、 すで に ツ ォ ン カバ が 『ガ ク リム 』の 中で指 摘 し て おり、 厂現在翻 訳 さ

 

れてい る タン トラ には存在しない こ と を言 明してい る (高田仁覚 Ibid.,

p

376

)。

  

なおこれ と似た事 例が漢 訳に も存在す る。 『大 日経 』第七巻 「持 誦法 則品第四」中

参照

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