『
大
日
経 』 所 説
の
〈
有 相
と
無 相
〉
に
つ い
て
山
本 匠
一郎
は じめに『
大
日経 』におい て 〈有 相 と無 相 〉 とい う問 題は、 経の全体にわ たっ て説 か れてお り、 教 理 的な問題 群を形 成 してい る。 それ は仏 教 内 部におい ては「実 在と空 」を め ぐっ て の 伝 統 的な問題で あ り、 かつ それ はまた仏 教 以 外の 在 来 諸 思 想との対 話に おける基調で もある。また この 問 題 は、
真
言密
教の伝統
教 学に おい て は、 「有
相無
相」
という
論 議の算
題 と して取 り上 げ られ る。 これ は と くに頼瑜 にお い ては、 加 持 身説 法説
の理論
基 盤 その もの で あ り、新義真言教学
に おい て も重要
な意味
を担
っ て い る1) 。 現在
の 仏 教 学の 立場か ら見て も、 この 問題は真 言 密 教の 教理 ・実 践 体系
を根
底か ら支 える問い と して の価 値を含ん で い るよう
に思 わ れ る。 こ こ で は現代の仏 教 学 ・密 教 学の見地か ら『
大日経 』所 説の 〈有 相 と無 相 〉 につ い て検 証 し、 主 と してブ ッ ダ グヒ ヤの『
大日経 』 註釈を中心 に して考 察を試 み たい 。〈
有 相 と無 相〉
の原 語につ い て「
相」
と漢訳
され る代表
的 なサ ン ス ク リッ トには、nimitta ,1akSarpa
,…ikhra
,1ihga
等
が ある。 そのう
ち 『大日経 』におい て く有 相 と無
相〉 とい っ た場 合、 その「相」の 原語は nimitta (Tib.mtshan ・ma )で ある。 「有相」は sanimitta (mtshan ma
dafi
bcas
pa
,mtShan ma can )で あ り、「無相」
は animitta かnirnimitta(
mtshan ma medpa
)となる。 こ の原 語は 『大 日経
』に おい ては数少
ない梵文
か ら採 拾で智 山学報 第五 十一輯 究に おい て は よ く知られ た箇 所で あ り、 〈有 相 と無 相 〉の 問題をめ ぐ り、 漢 訳 と チベ ッ ト訳 とに おい て理解が異なっ てい る箇 所で あ る。
文
脈 はい わ ゆ る「
種
三尊
観 」を説 く短い章
節で あ り、 その種
(字 )・三 (印) ・尊
(形像)に各
々有相
と無相
を配してい る。当該箇
所の梵文
は、密教
のチ ャ ン ドラキ ール テ ィ (9
〜10
世 紀頃 )作
の『
灯
作
明 』(PradiP。dy。tana−!iktl)2)という 『
秘密集 会
タン ト ラ』の注釈
書 中に見 出され、
「
『
大 日経』
中に 二種の 本 尊 瑜 伽 を説 く」
3)と前 置 きして引 用 さ れ る。 そ の サ ン ス ク リッ ト文
は長行
と偈 頌 と におい て 混乱 を来してい る。 長行で は、 本 尊の身に有 相 と無相 との 二 種があ り、 有 相に よっ て有 相の悉 地が得
ら れ、 無 相によっ て無
相の悉
地が得 られ る と説き
、 偈 頌で は、 有 相に よっ て有 相の悉
地を得、 無 相によっ て有 相(
と無 相)
の 悉 地 を得
る、 と してい る。 以下 に よ く知 られ た箇
所で もあ り煩 瑣にもな る が、 当論旨
のすべ て に 関わ るの で そ の梵文 と蔵 漢 両訳を示 す こ とにする。Skt)
『灯 作 明』(Pra ・dy・tana−tikE
,ch.12
)中の引用4)devat
pam
apiguhyak
且dhipate
dvividha
pariSuddha
卑 aSuddharp cetil
tatrapariSuddham
adhigatariipaip sarvanimitt 盃pagatarp
/ apariSuddharp nimitta 叩 r面pa
−[rp]varpasarpsth 血 a匠
ca
l
tatra
dvividhena
devatliriipe4a
dvividhak
設ryani §pattir
bhavati
l
sanimittena sanimitt 且siddhir upaj 巨yate
/animittensnimitt2siddhis /
i
§騨 nav 翻 覃[siddhirp sanimitte sanimittama
animitte sthitv2 vai sanimittarp
prasadayate
l
tasm5t sarvapfakare りa nimimittam nisevyata
iti
1
Tib
)
『
大日経』
本 文 (D
.190a
/P
.154a
−b
)gsafi
ba
pa
’i
bdag
po
lha
’i
gzugs
kyah
rnampa
gfiis
te/yofis
sudag
pa
dah
yohs
su madag
pa
’o 〃de
la
yohs
sudag
pa
ni rtogs [Correct
mi rtogby
N
,G
】pa
’i
ho
bo
ste /mtshan ma thams caddafi
bral
ba
’o 〃yofis
su madag
pa
nimtshan ma
da
」1
bcas
pa
’i
gzugs
te/ adog
dafi
dbyibs
so 〃de
la
lha
’i
gzugs
『大日経』所説の 〈有相 と無 相〉 につ い て (山本)
mam
pa
g
負is
kyis
dgos
pa
mampa
g
五is
’grub
par
’gyur
te/mtshan madah
bcas
pas
ni mtshan madah
bcas
pa
’o 〃 mtshan ma medpas
ni mtshan madah
bcas
pa
’i
dhos
grub
kyah
’grub
par
’gyur
ro !/mtshan mar
bcas
pas
mtshanbcas
kyi
〃d
血osgrub
rgya 且ba
dam
pa
b
乞ed1
!mtshan ma med
la
gnas
pas
ni 〃 mtshan ma canyah
bsgrub
tu nlh1
1de
bas
mampa
thams
caddu
!!mtshan ma medpa
bsten
par
bya
1
Chin)
『大日経 』本 文 (大正18
,44a
)本尊
之身
亦有
二種。 所 謂 清 淨 非 清淨。 彼 證 淨身
離 一切相
。非淨有
想 之 身。 則有
顯形衆
色。彼
二種 尊 形。 成 就二種事
。 有 想 故 成就有
相悉
地。 無想故
隨生 無 相 悉 地。 而 説偈 言佛 説有 想 故
樂欲成
有
相 以住 無 相 故 獲 無 相 悉地是
故
一切種 當
住 於 非想 一 こ の梵 蔵漢の 三者
を校
合 して 和 訳 する と以下 の ようにな る 。「
秘 密 者の主 よ、 本尊
の色身
は また二種
で あっ て、 浄 と不 浄 とで ある。 その 中 、浄とは証得
の 自性で あっ て、 一 切の相 を離れた もの で ある。 不 浄 とは、 有相の 色身
で あっ て 、顕色や形 色で ある。 そ こ で二種
の本尊
の 色身
に よっ て 二種の 目的を成就 するで あろう。 有相 に よっ て は有 相の悉
地 で ある。 無相に よっ て は無相
(Tib
有相)の 悉地 を (も)成 就す
るで あろ う。[
有
相におい て は有相
の悉 地を
]
最勝 者は説 けり
無 相に住 し て は
有相 (
Chin
無 相) を (も)成就せ んそれ故一切の行 相におい て
無相 を修 習 すべ し」 一 こ の 文脈 を整理 する と以 下の よ
う
になる 5) 。Skt)
長
行 有相
→有
相の悉 地偈
頌
[
有 相→有相
の悉
地]
一切 行相に
無相
を修
する無
相→ 無 相の悉 地無 相→
有
相 (と無相〉の 悉 地智 山学報 第五十一輯
Tib)
長 行 偈 頌Chin )
長行
偈
頌
有相→ 有 相の 悉 地
有相→ 有 相の 悉 地
一切
行
相 に無相 を修 する有相→ 有 相の 悉地
有
相→有相
の悉
地一切 行 相に無相 を修 する
無相→
有
相 の悉
地無
相→ 有 相 (と無相)の悉 地無 相→ 無
相
の悉
地無相
→無相
の悉
地こ の
『
灯 作 明』の引 用 文が その まま原 典 に患 実で あっ て、 善無 畏や ブ ッ ダ グヒ ヤ (及 びシ ーレーン ドラ ボーデ ィ)が依
拠し た 『大 日経』
の 本文
が この 通 りであっ た とす
れば、蔵
漢両 訳が相 違 する理 由は次
の よう
に推測
される。す
な わち梵 文
が長行
と偈 頌 と におい て意 味が二様である ため 、蔵
訳は梵 文の偈頌
に従
っ て、 漢 訳は梵 文の 長行に従っ て 、文
意 を統
一 し てい る の である。 ブ ッ ダ グヒ ヤ と善無
畏の註 釈 も、 そ れ ぞ れの訳の文
脈に従っ てい る。〈
有 相 と無相〉
の瑜伽修
習一 通 大 乗の所 説一般に nimitta と は、 瑜 伽 行 唯識 学
派
で と くに重視
さ れ る用 語で あ り、 そ れは精神集
中における事
物 的対象
の 形相、哲学
的に は表象
(V。rstellung ) を意 味 する6)。『
大日経』
「説本尊
三昧品」
の所 説 も、 論 点は本 尊 瑜伽 (devatay
。ga) にお ける相 (nimitta >の 問題で あっ て、 そ れ は唯識 思 想にお ける所 縁 (認 識対 象 、alambana
) を めぐる問題 と本 質 的に通底 して い る。こ こで 通大乗 の 所 説 として、
「
瑜 伽 」(yQga
) を扱 う代 表 的な経典で あ る 『解 深密
経 』厂
分 別 瑜 伽 品」
(弥 勒章) を参照
して み る7) 。 こ の章 は弥 勒 菩 薩 が請
間者とな り、 「止観」
(9arnatha
−vipaSyana )を主題 と して論 じて い る。『
解深密経 』
に即 して 〈有
相 と無
相〉の 瑜 伽 を述べ て い る文
脈の大意
を述 べ る と以下の よう
に なろう
。 止 観 を修 するこ とに より四つ の所 縁が得 られる が、 まず二種の所縁 侑 分別影像所縁 と無分別 影像所縁 )が得 られ る。観
(vipaSy . ana )に よっ て 縁ぜ ら れ る境 界が「
有 分 別 影 像」
(savikalpabimba )で あ り 、 止 (≦amatha )によっ て縁ぜ ら れ る境界
が「
無 分別影像」
(nirvikalpabimba )である と さ れ る。 さ ら に瑜 伽 行 者は金 を錬 磨 する よう
に菩薩
の修行
道を進め て い き、 (134
)『大 日経 』所 説の 〈有相 と無相〉 につ い て (山本)
事
辺 際 (vastvarlta )の所 縁を得て、 無上菩提を証 得 し、 所 作成満
(krtyanUE!hana
)の
所縁
を得
る こ とが説
か れ て い る8)。精
神 集
中にお い て顕 現 するこ の有
分別影
像 と無 分 別 影 像の 二種の所縁 こ そ く有相 と無 相 〉 とに対応する もの で ある と言っ てい い の で はない か。『
解 深密 経』
で説か れる 「分 別」(vikalpa ) を その ま ま 『大 日経 』の 「相」 (nimitta )と短
絡 させ るの は文
辞上の 難 点 を伴 うか もしれない 。 しか し「
瑜伽 師地論 』以来
、 瑜伽行
唯識学派
の内部
に おい て、分別
と相
の問題 を め ぐっ て は種々 の議 論 が展 開 されたの であ り、 その議論の焦
点は、 両者
が同じもの である か、 異 な る もの で あ る か、 また両者は どの よう
な 関 わ りにある のか、 という点
にあ っ たことが先行
研究の 中ですで に指 摘 され て い る9)。 その よう
な名辞
上の類
似性、親近 性 を指摘 した として も、大乗に お ける観 想の 目的は諸 法 ・心 意 識 の 相を観 察 する こ とであ り、密
教にお ける観
想の 内容 とは本 質 的に異なる、 とい う疑 義も提出 さ れ よう。 しか し後世の 理 解 に おい て は瑜伽行 を修 習 する 立場
を軸
と して、 諸 法 ・心 意識の 相 と、 仏 像を縁 じる観想
とは、 ほとん ど同
列
に扱
われてい る。 た とえばカマ ラシ ー ラ (約740
〜797
)
が「
修 習次第
』(Bha − vanakrama )後 篇で『
解 深 密 経 』「
分 別瑜 伽 品」
を念 頭 に置 きつ つ 、 瑜 伽 にお ける 二種の影像 につ い て説 明 して い る。 その 箇 所 で カマ ラシ ーラは 、 無 分 別 影 像 とは止に よっ て一切 法の影 像 と仏の色身等
を信解
して縁 ずる こ とであ り、 有 分 別影
像と は観
によっ て影像
その もの を行 ずる こ とで ある、 と述べ て い る。『
解 深 密 経 』所 説 の 二種
の所
縁を、 仏の 形 像 を観 想 する こ とに まで 敷衍 して 用 い てい る の で あるlo)。『
修
習次第』
で は、『
解 深 密経』
は主 要な所依
の経 典
の 一つ であ り、本 論 書 は一貫 と して 「止観
双 運の 道」
(9amatha
−vipa ≦yana−yuganaddha −mdrga )を修 す
べきこと を
説
くが 、 それ は有 分 別と無
分 別の影像
を縁 ずる こ とである と さ れる。その
際
に援 用 さ れる経典は 『解 深密経 』をは じめ、 『三 昧王経 』、『
宝 積経 』、『
涅槃経』
、 『宝 雲経』
などの代 表 的 な大
乗経典
であ
る。こ の思
想
傾向
は後世
のチベ ッ トにお ける伝 承で も変わ ることが な く、 カマ智 山学 報第五 十一輯 密経
』
を多
く援 用 し、 『ラム リム』
で は諸経典
の 中で 最多
の24
回の 引 用を数 える11) 。 さ らに進
めて ツ ォ ン カバ は『
ガ クリム』
におい て 、 止観
双運の 瑜 伽 が、 顕教 (波羅 蜜乗) と密教 (真言剰 と を結
ぶ橋 梁
である旨
を述
べ て い る12)。大
乗 教 学にお ける波羅 蜜 乗 と真言 乗の二 極は、 瑜伽の修 習を通 路 と して結ば れてい るの であ る。〈
有 相 と無相〉
の瑜伽修 習
一密教
の本尊瑜伽
『
大
日経』
「説本尊
三昧
品」
に お ける nimitta を め ぐる問 題 は、 通 大 乗 と言 っ て もい い 思想的
コ ン テ ク ス トを具え
てい る ことが 垣 間見 える。 ブッ ダ グヒ ヤ におい て も当箇
所 は重 要な意 義 を担っ て お り、『
大 日経 広釈
』は もち ろ ん、『
大日経 略 釈』
に おい て も同文が2
回 ほ ど引用 され る。 後 世におい て も『
灯作
明』
に引
用さ れ る だけでは な く、 プ トン の『
総 タン トラ部解 説』
13)や 、 ッ ォ ンカバ の 『ガク リム 』もこ の箇 所を もっ て 「所作 ・行 タン ト ラの 理趣」
と して い る14) 。8
世紀以後の密 教 者に とっ て「
説本尊
三昧 品」所 説
の く有相
と無
相〉 の瑜伽 修 習 が『
大 日経』
の 要 点 として認 識さ れ受容
さ れて い たの であ
り、 ブ ッ ダ グヒヤの 理解
が後
世 にまで伝
承さ れ たこ とが窺
える。瑜 伽 行は大乗 仏 教 に 共 通 す る一般 的 な修 行 法で あるが、 密教 に お ける瑜 伽
行
は、 と り もな お さず「
本 尊 瑜 伽」(devatay。ga
)の修 習 とい う密 教不 共の修
行 法である。 先 述 した よう
に そ れ には 二種あ
っ て 、 有 相 と無相の 二種の本 尊 瑜 伽である。 こ れ は 一般
に 「種
三尊観」
とい わ れ、種
(種字 )・三(
三 昧耶形)・ 尊 (尊像)に各
々有相
と無
相が あ り、種
字に は 〈声
と菩提 心〉、 三 昧耶 形 に は 〈有 形 と無形
〉、尊像
には 〈不 浄 と清 浄 〉 とが配され る。 有 相 瑜 伽 とはい わゆ る 四支 念 誦ユ5)を修 習 する こ とであ り、無 相 瑜伽 と は菩 提心 を修 習 する こ とである、 と さ れ る。 本 尊瑜 伽は確
か に密教独 自
の 修 行 法 とい えるが、 その 独 自性の背 面には当然の こ とな が ら大
乗仏教 の教理 が 内在
して い る。 〈有相
と無相
〉の瑜伽
という
通大
乗の教 理は、 密教 の 本尊
瑜 伽の 基 盤である。 『大
日経』
におい てその教
理 は当時
の大乗仏教思想
の到達点
と して受容
され、 そ れが密 教 ・真 言乗の い わ ば背
骨 と なっ て い る。 (136
)『大日経』 所説の 〈有相と無 相〉 につ い て (山本 ) ブ ッ ダ グヒ ヤにおい て、 こ の 〈有相と無相〉は ま た 〈世俗と勝 義 〉とに照 応 して理解さ れる。 こ こで その理解を 『大日経 略釈 』に見て み よう。 少 し長 い が重 要な箇 所なの で 全文を引 用 する16) 。
さて自己の本 尊の 自性は世俗 と勝 義 と和 合 して共にある とい
う
こ とが、 自己の 本 尊 瑜伽 の 相で ある。Samayogatantra17
)の 中 に説 か れ る 、 その 次 第は またこ うである。 す なわ ちこの タン トラの 中に、見 聞する とこ ろの 諸の事
物は本 初 よ り不 生 に して 生ずることが ない 正 理 に よっ て 、勝 義の自
性は生ず
るこ とが ない 相におい て信 解 さ れ たの で あ り、 その次
に蘊
・ 界 ・処 等を分 別 する こ と は世俗 と して存 在 し、 ま た 一 と 多 と を観 察 する 正 理によっ て部 分 的に考
察 され る。 それ ら (正 理)におい て顕 現に よる 空寂
の心 を現 前に な して 、 自己の本尊
瑜 伽 を成就 する こ と を 世俗、或
い は勝 義になすべ きである、 と出て い る。 そこ で の本 尊の相は、 勝 義の 自性は法 界で あっ て 、 自己の本 尊 と自身 の本性等
が無 別の相
と信解
する門 か ら、 それ と共に 同一性である こ と、 これ は自
己の 勝義
の本尊
瑜 伽であ
る。自
己の 世俗
の本尊
瑜伽の次第
は また、 こ の 中で は二種示
さ れ る。 そのう
ち一つ は 、自身
の行
相が顕 現す
る もの 一 切 を もっ て、 空寂
た る月輪等
の行 相 となる こ とに より、 我 性が 自己の本 尊瑜 伽 と して顕 現 するこ と を 成就す
るのである。 そのう
ち他方
は 、 顕現に よ る空 寂の 心か ら立 ち上 が る の で あ り、 それ は 自身と自己の本 尊が幻の如 く平 等 性と信 解 するこ と に先行
して 、法
性として平
等に して 一 と信 解 するこ とに よ っ て 、 自身を 本尊
の 色身
と信 解 したの で あっ て 、 自身
の 果報たる色 身の 行 相 その もの を、 ま さに 自己の本 尊 と慢 ずるこ とが、 すな わ ち自己の 世俗の 本尊
瑜 伽 の 第二 で ある。こ の 意 味は ま た、 こ の タ ン トラ の 中で は
「
本 尊の真 実性」
ユ8)を は じ め とす
る諸 品
の 中に説
か れてい る と理解
すべ きで ある。智 山学報第五十一輯
この
引
用箇
所の 中に本尊
瑜伽
に関す
る ブッ ダ グ ヒヤの理解
と、 その教理 上 の極 処が示さ れて い る。 こ の文 脈の論旨
と要 点を確 認してみ よう
。(
1
)
(
2
)
(
3
)
(4
)(
5
)
本尊
瑜伽
に世俗
と勝義
との ;種
が ある。勝義
の本尊瑜伽
とは、法界
と自
己の本尊
とが 同 一性
であるこ とをいう
。 世俗の本 尊瑜 伽 もま た二種 に分 けられ る。 一 方の世俗の本 尊 瑜 伽 と は、 自身の行 相 を月輪の相と して顕 現 する本尊
瑜 伽である。他 方
の 世俗
の本尊
瑜 伽 とは、法性
を如幻
・ 平等
性 と信解
して本尊
慢を なすことで ある。 世 俗 と勝 義 とい う二諦 説は、 大 乗 仏 教の教理上 で 最 も重要な もの の 一つ で ある。 二諦 説は主と して 中観哲
学で 説か れる教理で あるが、 その 教理 自体
に 唯 識 思想や仏 教論
理学
を巻 き込んだ発
展史
が存在
する。 ブ ッ ダ グヒ ヤ在
世の8
世 紀 当 時の イ ン ドでは、 中観 派 と唯 識 派 との 間に濃 密な思 想 交 渉が展 開さ れ、 バ ー ヴィ ヴェ ー カ (500
〜570
)以後 湧 き起こ っ た と さ れ る両 者の論 争 はす
で に数
世紀
にわたり
、 思想
上の問題点
もある帰結点
を迎 えてい た。 こ の本
尊瑜伽
の教
理解釈
も当時
にお ける思想
状 況 を伝
えてい る。こ こ で先 行研 究に依 拠 してユ9) 、 この 文脈に
直
接 する 二諦 説の展 開の トピッ ク を挙 げれ ば、 二 諦 説は 唯 識 思 想 と仏 教 論理 学 との 交渉
か ら 三性(
tri− svabhava)
説に よっ て 解 釈 さ れる ように な っ た こ とが指
摘さ れ る。 勝義
は絶
対的
な無
を意味
し、 い か なる戯論
も生 起 も認
め ら れ ない の で円成実性
(pa血i
§.panna
)で ある と され る。 そ れに対 し世俗 は有
を意 味し、 何ら かの 言語 表 現と 生起
とを伴 う
の で依他起性
(paratantra) と遍 計 所 執 性 (parikalpita)の 二種に分 けられ る とされる20) 。 これ は唯 識 思 想 に おい て nim 量tta
の存在 性
につ い て 二 通 りの見 解が な され 、依
他起性 と して の nimitta (概 念化 さ れる以前の表 象) と 遍計 所 執 性 と して の nimitta (概念化 さ れ た表象)との 二 つ の 区別 が立て られた こ と と ま さに対応する 21) 。 ブ ッ ダ グ ヒヤが世俗
の本尊
瑜 伽を二つ に区別
して考 え
たことも、如
上の 二諦説
お よび相
に関す
る議論
を認知
した上 で の こ と と 思 わ れる。 い まこれ を先
の本尊瑜伽
に関す
る規定
に適
用す
れ ば、自身
を月輪
(138
)r
大日経』所説の く有相 と無相〉 につ い て(
山本) の相と顕 現 する本 尊瑜 伽は遍計
所執性
と して の 世俗に属 し、 自身を如 幻 ・平 等 性 と信 解 する本 尊瑜 伽 は依他 起 性 と して の 世俗に属 する、 と考 え られ よ う。 こ こ で ブ ッ ダ グ ヒヤ は明 確に遍計 所 執 性、 依 他 起 性 とい う語
を使
用 して い る わ け ではない が、 第 一 の 世俗 本尊
瑜 伽を説明す
る際
に説
かれる「自身
の行
相 を月輪 と して顕 現 す るこ と」
は 、概 念化
さ れ た表 象 と し て の nimitta に属 す るこ とは明 らかで ある し、後
に み る文例
では明確 に「
遍 計 所執 性 」とい う語 を世俗本尊
瑜伽の 内容
規定
に用い てい る。 ま た第二 の世俗 本尊
瑜 伽の説
明 に 際 して言わ れ た「
如 幻 」 とい う表現は、 唯 識 思想 におい て依他 起 性の 内容を 説 明する際につ ね に伴 う重 要語で ある。 ブ ッ ダ グヒ ヤは三性 説 を積 極 的に取 り入れ た二諦 説
の動向
を把握
した 上 で、 それ を密 教の本 尊 瑜伽に適 用 して理解
してい るの であ
る。 我々 は こ こ におい て中観 と唯 識 と密 教の 、 三者
の見事
な綜
合の事
例を見 出すことが で きる。ま た ブッ ダグ ヒ ヤ が当時に お ける思想
動向
を把 握 してい た とい うこ との さ らなる認 証は 、先の引用 に お け る 「一 と多
と を観 察す る正 理」 とい う文言 に も見 出すこ とがで きる。 この文
言の 指 示 する とこ ろ は中観 思想史
の 上で画期
的な意味 を担っ た とさ れ る、 い わゆ る「
離一多
因に よ る無 自性論
証」
の教
理 で ある。 そ れは定式化
すれ ば 以 下 の ようになる22)。〔
大前 提〕
一性 と
多
性 を離
れてい る もの は、無 自性
であ
る。〔
小 前 提〕
自他
が説 くこれ らの事
物は、 一性 と多 性を離れて い る 。〔
結
論〕
故 に、 自他が説 くこれ らの事 物は 、 無 自性で ある。 この離一
多
因によ る無 自性 論 証は、 一切 法 の 無 自性 を一つ の 論 証 式に おい て 示 す もの で あ り、 後 期 中観 派の ジ ュ ニ ャ ーナガ ルバ (約700
〜760
)23)以前
には 見 出されず、 シ ャ ー ン テ ィ ラ クシ タ (約725
〜783
)以後
に頻 繁 に見 出さ れ る。 こ の論
証定式
は8
世紀後半
頃か ら イン ド仏 教思 想 界一般に流 布 した もの と思 わ れ、 ブ ッ ダ グヒ ヤ と同時代 人の ジュ ニ ャ ーナパ ー ダ (8
世 紀)の論書
中 に も見 出され る こ とが報告
さ れて い る24)。本 尊 瑜 伽 は、 勝 義に おい て も世
俗
に お い て も、 すべ て 「正 理」(nyaya )に 依 拠 して修
習さ れ るべ きこ とが説か れ る。 正 理 とは、 一 切法
の 本初不生 ・無
智 山学 報第五 十一 輯 自性の 真 実を伺
察
する こ とで ある。 その 意味
で 正理 とは勝 義 諦 と等
しい 。 本尊
瑜 伽 に おい て 、 な ぜ正 理に よる観 察が必 要 と され、 一切法
の無 自性
が主張
され る のか とい えば、 その理由
は他
な らぬその 正理が 、 自己と本 尊 との 自性 が 同一 ・平等性
で ある と信解
さ れ る こ との前 提 的根
拠で ある と同時に、 本尊
慢に よる悉
地 と利 益 を成就せ しめ る源 泉を保 証 する定 理だ か らである。 勝義
は世俗
を成
立 させるた めの根拠
で あり
、 また源 泉 なの で ある。 ブッ ダ グヒ ヤの二 諦 説『
大
日経
』 に お ける 〈有 相 と無 相 〉とい う問 題は、 nimitta をめ ぐる問題 か ら唯 識 思想
と密接
な関わり
を持
ち、 さらにそれ が世俗 諦 と勝義
諦 という
中観
思 想 以 来の 二諦 説に依
拠 して解釈
さ れ、密教
の本尊
瑜 伽に適 用 されてい るこ とが把握 さ れた。 つ ま り く有相 と無 相 〉 と 〈世俗と勝義
〉 と は、 そ れ ぞ れ唯 識派
と 中観
派との視 点か ら見 られ た とこ ろ の 同一対 概念
であ
る と言 える。世俗 と勝
義
の 二 諦説 は本尊
瑜伽の文脈に適 用 さ れるば か りか、 ブ ッ ダ グヒ ヤ の真
言密 教は、 つ ね に二 諦 説を基軸
と して論
じ られ る とい っ て も過 言で は ない 。 以下 に『
大 日経
広 釈』
におい て「
世俗 」 と「
勝義
」 という
語につ い て 整理 し、 その 事 例 を表 と して ま と めて み よう
25) 。表
の 見 方は、 ch は 『大
日経広釈』
の章
を示す
が、 ほ とん ど全章
に及
ん で い る こ とがわ か る。 対象
と は、 それ につ い て く世 俗 と勝義
〉が示 さ れた とこ ろの 対象
で あるが、『
大 日経』
の所 説の全 幅に 向 けられて い る こ と が わ か る。 ch . 対 象 世俗 勝義 酒井訳 /Bhasya
.D
1
証得の法 如 来の三無尽荘厳 蔵 真 如の相 ・空の 自性12
/70a
1
一切智智 十 力 ・四無 畏 ・十八 不共 法等 空性を知る18
/74a
1 戒 饒 益有 情 ・摂善 法 摂 律義 戒 無為戒28
/80b
1
諸法 因 果 を決定する諸所作 をなす 空の 自性63
/99b
1
菩提心 加持力に よる悉地の 果 空64
/99b
2
般若の理 趣 布 施 等の諸 波羅蜜 行 一切法 本不生 ・空性80
/104b
(140
>『大日経 』所説の く有相と無相〉につ いて (山 本)
2
真言の 自性 曼荼羅等の真言行の諸 支分 菩提心、 無 相87
/108b
2
三摩 地 地 ・水輪等に専念 する こ と 空性に専 念する こ と137
/134b
2 四魔の 降伏 成道に お ける四魔の降伏 一切 法 本 不 生140
/133b
2
真言の相 三種悉 地と息災等の諸事業 空性の 自性143
/136a
2
真言の 義 説法、世尊の 功 徳力 、無 畏等 解脱 門、 空の 自性146
/138a
2 文字の 加持 十力 ・四無畏 等 一切法本 不 生 ・空 性 150/140b2
字句の 三昧門 十 力 ・四無畏 等 を示す 本不 生 ・空性 を示 す151
/141a
6
阿字門 大丈夫の三十二相を示 す 真 如を示す206
/163b
6
鑼 字 日 ・月 ・星の諸 光 空の 自性、 最勝の真 如224
/172a
9
念 誦 外と内の四支念 誦 無相念誦、内の勝義念誦257
/256a
10 三 世無礙 力 一切魔 ・迷乱に障碍されない 空 性 ・法界を観 ずる力26
工/180b
10
阿字 種字に依止する 一切空の義に依 止する267
/183b
10 阿字 無数の如来を 出 現する 如 来の 自性、菩提 道場心269
/184b
10
五色の加持 各本尊に よ り加持する 法界を空性 と加持 する271
/186a
11
如 来地に住す 本 尊 身と瑜 伽する 空 性の本 尊 と瑜伽 する283
/190b
13 法平等観 如来身と有情 界の 平等観 …切法と空性の 平等観296
/195b
ユ3
大力持 明王 神 変等を為 す 空 性 の 自性を示す300
/197b
13
広 大 幻 ・陽炎の如しと悟る 一切法は 虚 空性と悟る301
/197b
13 不可得の 行 境 諸 法は虚空華 ・如幻 と悟る 諸法は不 可得と悟る320
/205a
13
三摩地 十力・四無畏等 阿字等の 門327
/207b
16
等至 三昧 諸 仏刹の殊勝を悟 る 法界に 遍満するを悟る363
/216b
16 世尊 一切の 所作を出す 空性の 自性364
/217b
17
戒に住 する 如 幻と悟 り執着せず 行ずる 一切法の空性に住 す る375
/222a
18
阿字・真言心 阿字より迦字等を 生ずる 阿字より本 不 生 を悟る385
/225a
20
平等性に入る 如幻と して の平等性 空性と して の平等性400
/229b
21
百 光遍照 如来身よ り真言 を出 生する 真如 智海より出生する409
/233b
22
百 字の 自性 世 尊の 身の 自性 真如智 を 証 す る自性413
/234b
22
智 世俗の 智、 六神通 大智、真如 智、 一切 法空414
/235a
智 山学 報 第五 十一輯
23
曼荼羅 影像 曼荼羅、 身 ・語 曼荼羅 自性曼荼羅、 心曼荼羅424
/240a
23
常 住 有情利 益 を円満する相 真如智が円満 する相426
/240b
23
四大種 因縁和合に よ っ て生ずる 無色相 ・空性430
/242b
23
諸 法 因縁 よ り諸法は 生ずる 法は存在し ない432
/243b
23
意 ・輪 有相の心で分別さ れ る 存在 し ない433
/244a
23
心 呪 ・月輪 因縁に よ り利の所作を なす 自性空 434 /244b24
諸法 空 な らず、名のみ 虚 空 ・空440
/246a
26
真言 顕 現する 存在 し ない444
/247a
28
諸法の相 幻の如 し 空性454
/250b
ブ ッ ダ グヒ ヤ は 『
大
日経』所説
の ほ ぼ全 領 域に わ た っ て、 世俗 と勝 義 と を配当
してい る こ とが窺
える。『
大日経 』 中に も「
常
に 二諦に依
る」
26)という
言葉
が度
々説
か れる ように、 大 乗 ・真 言 乗の教 えが真
俗の 二諦
に よっ て 成 立 してい るこ と は経
そ れ自体の 主 張で ある と言える。 上記の表
には、 先の本尊
瑜伽
の文脈
に見
ら れる ような、 唯識 思 想を摂 取 した二 諦 説は見
られず
、 あら ゆる表象 概 念につ い て、 その 〈世俗
と勝義
〉 と して の在
り方 を対 置さ せて い る。 その表象
概 念 と はすな わ ち「
相 」(nimitta )で あ り、 相 と して 顕 現 する も の は、 その 限り
どこまで も世俗
に属 する。 〈有 相 と無
相〉は 〈世俗 と勝義
〉 と完
全 にパ ラ レル な関係
にある。 「世俗」
とは、 大 乗 ・真
言 乗の 教 理 ・実 践 一般を意 味 する だけで な く 、 我々 が 日常
的に生 きて い るこの 世界
で の あ らゆ る営み ・言 説 (vyavahata ) を 意味 する。 一 方 「勝義
」 と は、 真 如 ・法 界 ・空 性 ・無 自性 ・本 不生 ・菩提 心 を意 味 する。 ブ ッ ダ グヒ ヤ は如上 な る二 諦につ い ての観
念を 、様々な対 象に向 けてあて は めてお り、 その姿 勢に例 外は見 出 さ れ ない如
くであ
る。あ
る事象
に関説 す
る際
に、 「勝 義
におい て …」
、 「世俗
におい て…」 という
限定が附 され る話法
は、 中観派論 師
に特徴 的
な傾向
であ
り、 ブ ッ ダグ ヒ ヤ もその 二諦説の 規 範 的使 用 を踏襲 して い る。 しか しその使 用範
囲 が密教 の 教理 ・実践概 念 にまで 及 んで い る ところ に、 ブ ッ ダグ ヒヤの 二 諦 説の意
趣が ある。 (142
)『大 日経』所説の く有 相と無相〉 につ い て (山本) ブッ ダグヒヤ
教学
の根 本命 題ブ ッ ダ グヒ ヤの
教 学
はどこ まで も二諦 説に基づ い てお り、真
言行
の各支
分 に二諦説
をあて は めて 、 そ れ らがすべ て勝義に おい て 「無自
性 ・空」で ある と してい る。 すな わ ち『
大日経』
の有
相の 修 行 体 系を一貫と して空観の立場 におい て理解 してい るの である。 これはブ ッ ダ グ ヒヤの教 学上の 性格で ある とい う以 前に 、 『大
日経 』 自体の主張である と言えよ う 。 すなわ ち経
自体
が真言行
の 全体
(曼荼羅と修法等の真 言行の 諸支分) を「
有
相の儀
i
軌」
(mtshan mar bcas pa’i ch。 ga) と位 置づ け、 そ れ が本質
的に 「法
性の理趣 」(法然の道 )で は ない ことを主張 して い る27)。 で は なぜ そ れ ら有相 ・世俗 の儀 軌が仏 説である の か と言 えば、 未来 世の 衆生 は無 相 ・勝 義 ・空性の教 説 を理解せ ず、妄
分 別 に と らわ れてい るの で、 彼 ら を摂 取 し救 済 する た め に、真
言行の有
相の 儀 軌 が 説 か れ たの である、 と さ れる 28) 。 つ ま り有 相
に執着
する者 には有 相行 を示 して無 相へ と導 くの で あ り 、 一方
、 無相
に執着す
る者
に も無 自
性の 空理か ら 退転
させ る た め に有
相の 門を示 して真の空性 を開示させ るの である。 この点
に おい てブ ッ ダ グヒヤ も善無
畏 も解 釈に異 なるとこ ろが ない29)。有
相; 世俗 は単なる誤謬と し て 一義 的に否定
さ れ るの で は な く、 無 相 = 勝 義 との 関わ り にお い て (この 条件が大切 なの であ る が)、真
理へ と至 る手だて と して肯 定 的な 意 義を担っ てい る。有 相 も無相 もともに
真
理へ と至 る手段で ある 。 真 言 行の全 体は有 相行であ りつ つ 、 しか も無相
へ と至る修行法
で ある と言 えよう 。 ブッ ダグ ヒ ヤはそ れ を 〈真言の総 相は菩 提 心で ある 〉 とい う命
題 に集
約 して み せてい る。 そ れ は、 ある箇所
に おい ては引
用文
(典 拠 不 明) と して提 示 され た り、 または論 述の 中で 言及され る な ど、 彼の註 釈 書におい て諸処で散 見 され る。 以下 にその 文 を提 示 する。 まず 引 用 文 と して 言及
され る例 を挙 げ
(3
例)、次
に その他
の 言及 (4
例) を示 す。1
.『大
日経広釈』
(BhaSya , D .99a
−bp .120b
−121a
)智 山学報 第五 十一輯
shags mams
kyi
spyi’i
mtshan
fiid
nibyah
chubkyi
sems so2es
g
加 血las
gsu
血s na1
2
.『大
日経広釈』
(BhfiSya
,D
.141blP
.175a
−b )「
その故に 〈一切の真
言の 自性は菩
提 心で ある 〉 と他の タ ン トラ 中に 説か れる 。」de
bas
na shagstharns
cadkyi
rahb
乏in
nibyah
chubkyi
sems soZes
rgyud
gZan
las
gsuhs
so /3
. 『大日経 略釈』
(Pipqartha D .55b
−56a
/P
.65b
)「この ように他 処に もま た、 〈秘密 真 言は菩提心 であっ て 〉 と秘
密真
言の
総相
が説
かれて い る。」
de
skaddu
g2an
las
kyah
!gsah
shagsbyah
chub semsyin
te/2es
gsa
血sfiags spyi ’
i
mtshan 徹d
gsuhs
so /4
.『
大日経広 釈』
(BhASya , D .99b1P
.121a
)「同
様
に真
言 の 自性 も、 その菩提 心は勝 義におい て空であるが、」
de
bZin
du
sfiagskyi
rahb2in
yah
byah
chubkyi
semsde
don
dam
par
stoh
pa
yin
modkyi
/5
.『
大日経 広 釈』
(BhESya, D .105alp
.128a
)「
諸真言
の一般
の真実
の相
は菩提
心であっ て、」
shags mams spyi ’
i
de
o na’i
mtshannid
nibyaiit
chubkyi
semste
/6
.『大 日経 広 釈 』(Bhasya , D .108bne
.132b
)「
諸 真 言の 自性で ある。 (そ れ は)勝義
におい て は菩提 心で あっ て、」
shags mams
kyi
rahb
乞in
no 〃don
dam
par
byai
chubkyi
semsyin
te1
7
.「
大
日経
広 釈』
(BhaSya, D .144blP
。179a
)「
真
言の自性
は空性
た る菩
提 心 を修 習 するこ と と知 る」
sfiags
kyi
rafibZin
stohpa
fiid
kyi
byafi
chubkyi
semsbsgom
pa
Ses
pa
ブ ッ ダ グヒヤ は 〈
真
言の 総相は菩
提 心で ある 〉 とい う内容の 文 言を、 経典か らの引用 と して
挙
示 してい る が、 こ れは 『大
日経
』中 には存在
せず、他『大日経 』所説の く有相と無相〉 につ い て (山本 ) の経 典の 巾に も
検
出 さ れ ない 。 あるい は ブ ッ ダ グヒ ヤ在
世当時
に は存在
して い た不伝
の文献
の 可能性
もある が、 同内容
の文言
が諸処
に見
出され るこ とか らも、 お そ ら く確 実
な典 拠に基づ くもの で は ない こ とが推
測 さ れ る。 これ は ブ ッダグヒ ヤ の 真 言観 を表 明 した一つ の命 題 なの で ある。 その命 題は、 教理 的に重 要 な文 脈 にお い て提 示 さ れ る。 〈有相 と無 相 〉 とい う問題に関わ る箇 所 に お い て 、 ブ ッ ダ グヒ ヤは この命
題 を二 度にわた っ て 示 し て い る。 すな わ ち例
3
と6
で ある。 こ こ で その 例3
の文言
を提 示
して み よう。文
脈は世俗 と 勝義
の本尊瑜伽
を説い た箇所
で ある。同
様
に無 相三昧
(つ ま り) 自己 の 本 尊が法 身と瑜 伽 する門 よ りま た、 総 じて一切 の 明 呪 と真言 の 念 誦 儀 軌 を説い て い る。 本 経の 中に、 有 相 と無
相の 二次第
に随 っ て、 不 浄 と清
浄 との 二身
の 差別 門 よ り、本 尊の 身の 二種の 自性が示 されてい る。 さて ま た清 浄 と は法 身で あ る。 無 相 三昧の 自性は 、 無 相 なる智 慧の 自性の 相で ある。 不 浄は ま た遍計さ れ た色 身の 自性であ り、 諸 仏の 受用 身と変化 身の 相 が所 化の衆 生に顕 現 する勢力に よっ て顕 色や形 色の自性
として安
立 した もの で ある。 本尊
の 差 別は清 浄 と不 浄で あ り、 その うち諸の (依 )他 (起性)の色 身は福 徳 の 因 を あ た か も摂取
する とお りに顕 現 し、 ま た遍 計 所 執性 に よるの で不 浄なる もの で ある。 こ こ で また真解脱
門の心を修 習 する相を如 実に知る こ と、 そ れ が何
なの かは、 そ れ らはまた法身
で ある、 として安立 され よう。 この よ うに他 処に もま た、「
秘 密 真 言は菩提
心であ
っ て」
と秘密真言
の 総 相が 説か れ てい る。 その 身の両 者の相が ま た本 経の 中に詳
説さ れ る30)。 一 と して こ の 直後
に 、 冒頭に掲
げた 「説本 尊三昧 品」の 章 節が経 証と して 引用さ れてい る。 こ こ で文脈 の 要 点 を確認 す れ ば 以 下の よ うに な ろう。(
1
) 有
相 と無相の 三 昧によ り、 不 浄と清 浄の 二種
の本尊 身
の 差 別がある。(
2
) 無相
三昧
とは、清浄
なる法身
と瑜伽 することで ある。(
3
)
有 相三昧 と は、 不 浄な る色身
と瑜 伽することで ある。智 山学 報 第五十一輯
(
4
)
不 浄な る色 身に 二種 あっ て、 受 用 身と変化 身で ある。(
5
)
受
用身
は依 他 起性、変化身
は遍計所執性
に配当
され る と考
えられ る。こ こ で ブ ッ ダグ ヒ ヤ は 〈世
俗
と勝義
〉の本尊瑜伽
を仏身
につ い ても
配 して い るこ とが把握
さ れ る。 ここ で今
まで の所 説を表
に して整 理 すれ ば、 以下 の よう
になろう
。 nimitta 二諦 三性 種 字 三昧耶形 尊像 仏身 無相 勝義 円成実性 菩 提心 無形 清浄 法身 実世俗 依 他起性 受用身 有相 邪 世俗 遍計所執性 声 有形 不浄 色 身 変化 身図示 して しま
う
と平板
な感
が あ る が、 そ れ ぞ れの項は短 絡 的に連関 させ ら れてい る わけで は なく、 そこ には 一貫と し た思 想 的コ ン テ クス トが底
流と し てある こ とはすで に見て きた とお りである。 ブ ッ ダ グ ヒヤ におい て 〈有 相 と 無 相 〉 という提
題 が様
々 な点
に おい て重 要な意義
を担っ てい た とい うこ とを窺 う
こ とがで きる。 そ して 〈有
相 と無
相〉 ま た は 〈世俗と勝 義〉の 両義 性 が、 〈真言
の総相
は菩提心
であ
る 〉 という根
本命
題に よっ て貫 か れて い るこ とが 知 られる。 真 言教 学にはつ ねに そ うい っ た 両義
性が存在
してお り、 そ れ らが 複 雑な連 関 と調和 と を保っ てい る。 〈真
言の 総相 は菩提
心で あ る 〉 という
命 題は、 その 連関の 振 り子の支軸
、相 反 する もの の調和 する結 節 点に他 な らな い oブ ッ ダ グヒ ヤ におい て
菩
提 心は勝義
その もの であ り、 カマ ラ シ ー ラ以後に 見 られ る ような「
世 俗 と勝 義の 二 種 菩提 心 説」
は、 はっ き りと した形で は ま っ た く説か れ てい ない 。 もちろ ん 世俗 と勝義
の二 種 菩 提 心 説 は、『
華 厳 経』 の 正当な展開 と しての シャ ーン テ ィデー ヴァの「
願と入の 菩提 心 説」
に 思想 的 に淵 源 し、 ブ ッ ダ グ ヒヤ もその説を認知 してい る31)。 本尊
瑜 伽 に おける解釈
と同様
に、 彼は タ ン トリス トと して あり
な が ら、当時
の有
力な学 説 ・思潮 を把握
し、 かつ そ れ を密教
に巧
み に援
用 してい る。 当時の イン ド仏 教 思想界
一 般に流布
した と思 われ る菩提心
説 を考慮
に入れ なが ら も、 ブ ッ ダ グ ヒヤ に (146
)『大日経』所説の く有相と無相 〉 につ い て (山本) お い て、 菩提 心 とはす なわち無 相 = 無 自性 = 空 性で あ り 、 どこまで も勝 義 に 属 する もの で あ り、 かつ 〈世俗 と勝
義
〉、 〈有
相 と無
相 〉 を貫
通す
る心 的基体
と して理解 されてい るの で ある32)。 ま と めこ こ で は
『
大 日経 』 にお ける 〈有 相 と無 相 〉 という
問題 につ い て、主に ブ ッ ダ グ ヒヤの註 釈を中心 と して論 じた。 その問 題 の射
程 は 、 通大乗の 思想 的 コ ン テ クス トを背景
と して、 中観
・唯 識 思想 との対 話を経て、 その綜合へ と 至っ て い るこ とが看取
さ れ た。 〈有相
と無相
〉は く世俗
と勝義
〉 とパ ラ レ ル な同一対概 念であ り、『
大 日経 』の全体
に及ん で い る。 『大
日経』
にお け る そ うした 両義性は、 その両義 的な意味 をその ま ま把 持 しつ つ 、 ブ ッダグ ヒヤ に おい て、一貫
と して 空性なる菩提 心の もとに定 義づ けら れ てい る 33) 。 そ れ は く真言の 総相は菩提心 である 〉 とい う根 本 的命題 に集 約 され よう。また この
根本命
題 は、真言行
が有
相行
で あ り、菩
提 心が無 相 = 空 性である との定義
づ けか らする と、 〈有
相の 総相
は無相
であ
る〉 と言
い換
えて もさ し つ か えない 。 こう
した 二律
背 反 的 な矛 盾が 一つ の命 題におい て結 合さ れて い るの で あ る。 世俗が勝義
の 光明 に よっ て照 ら さ れ るこ とで その 影像 を明らか に し、 ま た勝 義が世俗の手だて を借 りて その隠
蔽態
を顕現 する よ うに 、 両者 は絶対
的に隔 絶 し、 相 対立 する矛 盾概 念で あ りな が ら、 相 補 的 ・相互依存
的 であ り、 共 働 的な相 関概 念で ある。 その事
態は ま た 、 相即 とか 、 即 一 とか、 不二 とも言
い得
よう。しか しその
際
に注
意 したい の は、勝義
として定
立 されてい るのが「
無
相」
で も 「空性 」で も な く、 「菩 提 心 」で ある という
とこ ろ で ある。 まさ に こ こ に密教の 根 本義
が あ る と言 っ て よい 。 た だ教理 的に無 相 ・無 自性を 主張する だけな ら ば 、〈真 言の総 相 は 空 性で ある 〉 とい えば済む こ とである。 しか し、 そう
は言わず、厂
菩 提 心 」 とする ところ に、 や はり真言 密
教の 一つ の存 在 意義
があ
るの だろう
。智 山学報第五十一輯
注
1
) 藤田隆乗 「頼瑜の 「四重秘 釈」につ い て」 『智 山学報 』 第50
輯,20Ql
.2)
『灯作明』
hadipodyotana
−lika
;秘密 集会タ ン トラ の 注釈書 (Candrakirti作)。 聖者流の註釈書の 中 で最 も重要なもの の一つ 。
Skt
.及びTib
.(Toh1785
,0ta2650
)が存在し、Skt.ed (C .Chakravarti
,
1
984
,全 文 /A .Wayman ,1977, ch.6
,12
[vss .60
〜64
])が 出版 さ れて い る。 ch .
12
まで が mtilatantra (ch .1
〜17
)の 中で も原 初 的 な形 態 と さ れ る。『梵語仏典の研 究亅
IV
密 教経 典篇、
p
.234
参 照 .3
)『灯作明』は、
Vairocanabhisafpbodhitantre
’pi
l
dvividhadeva町 ogalp nirdigate /と記 し た後に、 本文を引用 する。C
.Chakravarti
,GuhyasamAjatantrapradipodyotana
!ika−sati(otivyakhy 訌,1984
,p
.119 .A .Way −man ,Yoga of
the
Guhyasamljatantra
,1977
,p
.41
.1Tohl785
, D .98a
.4
) 松 長有 慶 「大 日經の梵 文斷編につ い て」『印仏研 』14
−2
,1966
.文 中括 弧は松 長博 士に よ る チベ ッ ト訳か らの補正で ある。 この 補正梵文に はい くつ かの文例が仮想さ れ よう。 い ずれ にせ よこ の偈文の 一部 があ まり にも直前の長 行と類似 してい る た めに梵 文を参照し た者が前文と同一で ある と誤っ て判 断し書 写 したの で あろ う。5
)高橋 尚夫 「本尊の原 語を め ぐっ て」『大正大 学大学 院研 究論 集』 第
2
号 ,1978
/ 栗 山秀純 「「大 日経』「説本尊三昧品」所説の非 想 三昧」 『豊 山教 学 大 会紀 要 』第10
号 ,1982
/大塚 伸夫 「『大日経』における 三密思想 と十縁生句につ い て」 『大正大 学大学 院 研究論集』第11
号、1987
等参照。 漢訳の趣意は、 有相で も無相で もない 「非 想」 を修 習せ よ、 とする (栗 山秀 純 Ibid.)。 梵 文は nirnimitta で あ り、 あ えて こ こ を 「非想」と したの は善無 畏の意訳と 言える。 し か し nimitta に は 「想 (sa刺匍 」の 定義 もある
ことが先行 研究で指摘 さ れてい る (注
6
、Ibid
.,pp
.105
〜106
) 。6
) 横 山紘一 「nimitta (相 )につ い て」 『仏教 学』創 刊号、1976
.7
) 『解 深 密 経 』 「分 別瑜伽 品」 (SaTpdhinirmocana−stitra,ch.8
,Maitreya−parivarta
)その 文献上の 問 題 につ い ては、袴谷憲昭 『唯識の解 釈学一 『解 深密経 』を読む』
1994
,
pp
.34
〜
43
が詳 しい 。8
) 懈 深密経』大正16,697c
.L
otte校訂本,p .88
.還元梵 文は Lamotte に よ る。9
) 袴谷 憲昭Ibid
.,pp .97
〜100
.10
)G
.Tucci,MinorBuddhist
Text
Part3
,Third
Bhavanakrama,
1971
,pp
.1
〜
2
.ata eva bhagavat互 catv互ry 烈ambanavast 巨ni
yoginfirp
nirdi§匿ni l a 丿(nirvikalpa )
pratibim
−bakam
/b 丿savikalpapratibimbakam / c丿vastUpalyantata !
d
丿karyapa
血iSpatti6
ca 1 tatraa丿螽amathena yat sarvadharmapratibimbakarVi buddh 互diriipaip ctidhimucyalambyatc tan nirvi−
kalpapratibimbakam
ucyatel
tatra bhUt諷 hanpa
早a vikalpabh 盃v 五n nirvikalpakam ucyate1
『大 日経 』所 説の く有相 と無相〉 につ い て (山本 )
ya
血almtodgτhTt五n湎 ca dh 蜘 (pratibimbakam
a)dhimucyalambyata iti願pratibim
−bakam
ucyate /b 丿tad evapratibimbakaip
yad互 vipa6yanaya vicdrayati yogi tattvfidhiga−mfirtharp tad五 savikalpapratibimbakam ucyate / tattva皿
irUpa
vikalpasya vipa 忌yan詛ak一 ミapasya tatra samudbhav5t !G
.Natndol
,Bhavanalcrarrial) of Achrya Kamalagila,CIHTS ,BITS9
,1997
, pp .253
〜
254
. 芳村修基 『イン ド大乗仏 教思 想研 究一 カマ ラ シーラ の思想一』1974
,p 。416
.11
) 長尾 雅人 『西蔵仏 教研 究』1954
,p .84
.12
) 高田仁覚 『イン ド・チベ ッ ト真 言密教の研 究』1978
,p
.362
.13
) 遠藤 祐純 「瑜伽 タン ト ラ につ い て 『総 タン トラ部 解説』を中心に (1) 」 『大正大 学研 究紀 要』第78
輯、1993
.14
) 高田仁覚 lbid.,pp
.370
〜371
.15
)四支念誦 と は心想 ・先 承事 ・具支 ・作 成就の 四種で ある。 これにつ い て は松 長有 慶 「念 誦の 四支分と種三尊」 『密教文化』
20
,1952
参照。16
) 北村 太道 訳 『大日経略釈』、pp
.43 〜44
。 Pipdartha,D .20b
〜21a1P
.25a
〜b,17
) 典 拠不明。 Skt.Samyoga 伽 tra. Tib.kun du sbyor ba rgyud .Skt
.はJ
.S
.Negi
『蔵梵 辞典 亅に よ る暫 定的 な 還梵で あ る。 い わ ゆる
Sarvabuddhasamfiyogata
皿traに相 当 する経 典(乃至それ に準ずる原初 的な形態を そ な え た経 典)だろ うか ? もっ ともその場合 、mffam
par
sbyor ba rgyud と蔵 訳さ れる のが常で あ る。 『一切 仏
集合 タン ト ラ』とも 『一切仏
平 等 瑜伽 タン トラ』 とも和 訳 さ れる。 根 本 タ ン トラ (malatantra )は失わ れ、 続 タン
トラ (uttaratantra,Toh .
366
/Ota .8
)と続々 タン ト ラ (uttarottaratantra , Toh .367
/Ota .9
)の み が伝わる。 その文献上の問題につ い て は、 頼 富本広 「密教仏の研 究』
1990
,pp
.29
7
〜310
参照。18
)この 「本尊真 実性 をは じめ とする諸品」(
1ha
’i