NII-Electronic Library Service
中
世
後
期
根
来
寺
内
に
お
け
る
修
験
道
好
英
樹
N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
は
じ
め
に
中世後期根 来寺内に お け る修験 道 (三好 ) 本 稿 で は 、中
世 後 期 の根
来 寺 内 に お け る 山 伏 の 在 り方
や 修験
道 の 位 置 を考
察 す る 。 一 六 世 紀 、紀
伊
国 根 来 寺 ( を 中 心 と す る 根 来 の 地 ) は、 イ エ ズ ス 会 宣 教 師 ル イ ス ・ フ ロ イ ス に よ っ て 「 大 い な る 共 和 ( ↓ 互 国的
存在
」 と記
述 さ れ る ほ ど 、 ま た 同時
期 に ヨ ー ロ ッ パ で発
行 さ れ た 「 メ ル カ ト ル 世 界 図 」 中 の 日 本 列 島 に 「≦
P8 」 ( 都 ) と 並 ん で 「Z
Φ ゆq蠶
」 ( 根 来 ) と記
さ れ る ほ ど 、 西 洋 に も知
ら れ た 「 地 域 」 、 そ し て 「 都 市 」 で あ っ た 。 中世
後
期
、 地方
の 顕密
寺 院 は い か に し て周
辺 地 域 の 人 々 を 惹 き つ け 、 人 々 の 集 ま る 「 都市
」 や 「 地 域 社会
」 を 形成
し え た の か 。根
来 寺 は、平
安
後 期 に覚
鑁 が 高 野 山 上 に創
建 し た 伝 法 院 ( 大 伝 法 院 ) に 起 源 を 持 つ 真 言寺
院 で あ る 。 鎌倉
末
期 か ら 南 北朝
期 に か け て 大 伝法
院方
は 高 野 山 上 か ら 根 来 の 地 へ 離 山 を し 、 一 五 世紀
初 頭 に は 根 来 に お い て 大 伝 法 院 を中
心 とす
る 仏 ( 本 尊 ・ 堂 舎 ) ・ 法 〔 仏 事 ・ 法 会 ) ・ 僧 ( 僧 団 組 織 ) の 三 宝 が そ ろ っ た 伽 藍 と 膝 下 庄 園 を 中 心 と す る 経 済 基 盤 を築
( 3 ) き あ げ、 中 世根
来 寺 は 「 成 立 」 し た 。 そ の 後 、 室 町 幕 府 の 保護
が 無 く な り 、 庄 園 制 も 変 容 し て いく
中 、 一 五 世紀
後
一75
一NII-Electronic Library Service 智山 学報第六十輯
( 4 ) 半 か ら
=
ハ 世紀
に か け て寺
域 は 最大
と なり
最 盛期
を 迎 え る と さ れ て い る 。根
来 寺 が こ の時
期
に 「都
市 」 と し て の 隆 盛 を 極 め え た 要 因 と し て 、 先 学 に よ り次
の こ と が 明 ら か と な っ て い る 。 そ れ は 、紀
伊 国 北部
・和
泉 国南
部
地 域 の 土豪
・ 百 姓 の子
弟 ら が 氏 人 と な り 、根
来寺
へ 行 人方
と し て 入寺
し坊
舎
を 次 々建
立 し た こ と 、 行 人方
と な っ た彼
ら が 庄 園 の 代官
職請
負 や 高 利貸
し 活 動 ・ 加 地 子得
分 の 集 積 を 行 い根
来寺
に 富 を蓄
積
し た こ と、 そ の権
益 や 富 を獲
得 ・保
障 す る た め の強
力 な 軍 事力
を 根 来寺
が 、特
に 行 人 方 が 保 有 し て い た こ と 、 であ
る 。 ま た 、 こ の よう
な 当時
の 根 来寺
一 山 の 運 営 実権
も 、 行 人方
に よ っ て 握 ら れ て い た と さ れ て い る 。 そ し て 、紀
伊
国 北 部 ・和
泉 国 さ ら に は 河 内 国 に わ た る 根 来 寺 を 中 心 と し た 「 地 域社
会
」 の形
成 に つ い て も 、 国 や 庄 園 の 枠 を越
え て行
人方
が 築 い た 流 通 ・経
済
圏 、 そ れ ら を護
る こ と の で き た 武 力 の存
在
、 が 重 視 さ れ て い る 。 こ の よう
に 、 中世
後
期
に お け る 根 来 寺 の 発 展 は 、 行 人 方 の 活 躍 に よ る と こ ろ が 大 き い と さ れ て い る 。冖 5 }
で は 、 「 地 域 的 な 一 揆
寺
院
」 と も 評価
さ れ る根
来
寺
に 、 周 辺 地 域 の 人 々 が 氏 人 と な り 行 人方
と し て入
寺
す る 根 源 的 な 理 由 は 何 だ っ た の で あ ろう
か 。確
か に 行 人 方 に よ る社
会 経済
活 動 や武
力 の 存 在 が 大 き な 要 因 であ
っ た こ と は事
実
で あ り 、 流 通 ・ 経 済活
動 に よ る 「 地 域社
会 」 が 生 ま れ、 そ の権
益 を 護り
う る 軍事
力
を有
す る根
来
寺
に 周 辺 地 域 の 土豪
層 が 入 寺 す る こ と も あ っ た で あ ろう
。 し か し こ の よう
な視
点 の み で は 、根
来 寺 が 強 大 な 暴力
を有
す
る た め に周
辺 地 域 社 会 の 人 々 か ら 、 特 に そ の活
動 を 担 う 土豪
層
か ら 求 め ら れ た と いう
こ と に な っ て し まう
。武
士 や 公家
で は なく
寺
院 が、 膝 下 所 領 に と ど ま ら ず和
泉 山 地 を 越え
、和
泉
国 や河
内 国 な ど 広範
囲 に お い て 人 々 を氏
人
と な し え た 理由
を明
ら か に す る 際 、寺
院 の 寺 院 た る 所 以 で あ る宗
教 や信
仰 に 基 づ く 視角
も 重 要 と 考 え る 。本
稿 で は 、 地 方 の 顕 密寺
院 が 核 と な り 生 ま れ る 「 都市
」 や 「 地 域社
会
」 の 成 立 要 因を
考 察 す る た め 、 素材
と し て冖 6 >
根
来
寺 を 取 り 上 げ、 広 範 に 人 々 を 惹 き つ け え た 理 由 を 宗 教的
な 側 面 か ら 考 え た い 。 た だ、 本稿
に お い て 根 来 寺 を 中 心 と し た 都市
論
や 地 域 社会
論 を 展開
す る 準 備 は 、 ま だ 無 い 。 こ こ で は、 根 来 寺 が 広 範 囲 に わ た っ て 人 々 を 惹 き つ け 一76
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 中世後期 根 来寺 内に お け る修験 道 (三好) え た 理
由
を 、 根 来寺
内 に お け る 修 験 道 や 山 伏 に 注 目 し、検
討 し て い き た い 。第
一章
根
来
寺
の山
伏
と
学
侶
一 四世
紀 後 半 か ら 一 六 世紀
に か け て 、 畿 内 近 国 の顕
密
寺 院 で は 、行
人 方 ( 禅 徒 方 ・ 下 僧 ・ 西 座 衆 と も 。 本 稿 で は 行 人ヱ ( 8 ) 方 と 表 記 。 ) の 山 伏 化 が 学
衆
方
に と っ て 大 き な 問 題 と な っ て い た 。 山 城 国 醍 醐 寺 や 河 内 国観
心
寺 ・ 金 剛寺
な ど で は 、学
衆
方
に よ っ て行
人 方 の 入 峯 な ど 修 験 道修
行 が禁
止 さ れ て お り 、 山 伏 は 寺内
に お い て 抑 制す
べ き存
在 で あ っ た 。 ま た 一 五 世紀
後半
以 降 、 紀 伊 国高
野 山 や 河 内 国 観 心寺
・ 金剛
寺
な ど多
数 の 寺 院 で 学衆
方 と 行 人 方 の 対 立 が 表 面 化 し 、す 〕
所
謂
「 禅 学 相 論 」 が 頻 発す
る よ う に な る 。 特 に 大 和 国 興 福寺
大
乗
院 末寺
で は 、寛
正 二年
( 一 四 六 一 ) の 三 輪 山 平 等 寺 や多
武 峰、 同 五年
の 菩 提 山 正 暦 寺 、 文 明 六年
( } 四 七 四 ) の 信貴
山 、 同 八 年 の 成 身院
、 文 亀 三 年 ( 一 五 〇 三 ) の 安 位 寺 、 そ の ほ か 永 久寺
・ 法 隆 寺 な ど数
多 の寺
院 に て 対 立 が 惹 起 し て おり
、 学 衆方
と 行 人方
の 長期
間
に わ た る 衝 突 が 『 大 乗 院 寺 社雑
事 記 』 に 記 さ れ て い る 。 中 世 後 期 、 地 方 の 顕密
寺 院 に は 寺 院 周 辺 の 土豪
層 や有
力
百
姓 層 を 出 自 と す る 人 々 が 行 人 方 と し て 入寺
し、 そ の行
人 が 山 伏 と な り 周 辺 村落
の 祭 祀 を 担う
と と も に 、 応 永年
間 以 降 組 織機
構
を 整 備 しえ
( 10 〕 た 本 山 派 の 聖護
院 を 本寺
と す る な ど、 行 人 方 は 独自
の宗
教 体系
や 宗 教 行事
を 構築
す る こ と に よ っ て 学衆
方 の 宗 教 的( 11 ) 権 威 を 奪 い 、 寺 院 は 「 民
衆
」化
す る と の 評 価 が な さ れ て い る 。 ま た 、 行 人 方 の 山 伏 化 に よ る 寺 内 で の台
頭 と 禅 学相
論 発 生 の 関 連 が指
摘 さ れ る と と も に、 地 域 住 民 へ修
験
が 浸 透す
る こ と と 、 そ の寺
院 へ周
辺 地 域 の 人 々 が 「参
加 」 し〔 12 } 入
寺
す る こ と が 「 ク ル マ の 両 輪 」 の ご と く 進 行 し 、寺
院 を 核 と す る 「 地 域 社会
」 が成
立 ・ 発 展 す る と さ れ て い る 。〔 13 > こ の よ
う
に 中 世 後 期 の寺
院 史 研 究 や 地 域 社 会 論 で は、 行 人方
に よ る 修 験 道 が 注 目 さ れ 、学
衆 方 と の 対 立 の 中 で行
人方
が 修 験 道 を 通 じ て自
律
的 な活
動 をす
る と と も に寺
内 で台
頭 し 、 彼 ら が 担 い 手 と な っ て 「 地 域 社会
」 を 形 成 す る 一77
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智山学報 第六十輯 と 理 解 さ れ て い る 。 そ こ で は
学
衆方
に よ る 修 験 道 の抑
圧 や、 学衆
方 と 行 人 方 の 対 立 と い う 側 面 が 強 調 さ れ 、寺
内 に お け る 学 衆方
の 、特
に修
験 道 上 で の役
割
や 存 在 感 は 薄 い 。( 14 }
根
来 寺 の 山伏
に つ い て は 、東
・ 西 二 つ の 組 織 が 一 五 世 紀 半 ば に 成 立 し て い た こ と が 明 ら か に さ れ る と と も に 、 当 時 根 来寺
も他
寺 の 例 に 漏 れず
行 人方
の 山伏
化
が 進 展 し、 山伏
は 聖 護 院 の 下 方 ( 本 山 派 ) と な り 独 自 に 活 動 、 学衆
方 と( 15 〕 ( 16 ) 行 人 方 と の
対
立 も 起 き て い た と さ れ て い る 。 そ し て 大 永 期 ま で に 「 当 山 」方
へ 所 属 す る よう
に な り 、 一 六 世 紀後
半( 17 ) に は 逆
峯
を 四度
遂 げ た 者 に与
え ら れ る笈
籠
の 人 数 が 「 当 山 」 方 中 最 大 規模
で あ っ た と いう
。 し か し こ の根
来
寺 山 伏 の 規 模 拡 大 や発
展
を 、 学衆
方 と 対 立 す る 中 で の行
人方
の勢
力伸
長 や 行 人 方 の自
律
的 活動
に よ る修
験
道 の 展 開 、 と いう
視 点 の み で捉
え て 良 い の で あ ろう
か 。本
章 で は 、和
歌森
太郎
氏 以 来 注 目 さ れ て い る根
来 寺 の 衆徒
方 ( 学 衆 樋 ) と 行 人 方 ・ 山伏
方
の 関 係 を 記 述 し た 『 大乗
院 寺 社雑
事
記 』 明 応 元年
( 一 四 九 二 ) 八 月 二 二 日 条 を 再考
す
る こ と で 、根
来 寺 山 伏 の 寺内
に お け る在
り 方 に つ い て 、衆
徒方
と の 関 係 か ら 考 え た い 。 一78
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
紀 州
根
比 山者
別 当 三 宝 院 也 、 東寺
末
寺
、 然而
山 伏 共 聖護
院 之 下 方 也 、申
請
綾 ケ サ 可 レ懸
之 旨 、禅
徒 方 支度
也 、学
衆方
此 子 細 ヲ 申 コ 上 京 都 → 来 月十
六 日 法会
在
レ 之 、於
二其
砌 一 珍事
可 二 出 来 一 歟 云 々 、彼
一 乗 山法
師相
語 云 々 、学
衆
方 上 百 人 号 二 学 侶 → 此 末 衆 為 二大
将分
一 召 ゴ仕
山 伏 方 一 云 々 、此
事
為 一 一事
実 一 者 、 引 懸 諸 山寺
珍
事
也 、 聖護
院
殿
成 敗 不 レ 可 レ然
事 也従
来
こ の 記 述 か ら、 根 来 寺 山 伏方
・行
人方
に よ る 「 綾 ケ サ 」着
用 の 申 請 ・ 支度
に 対 し て衆
徒 方 が 反発
し 京都
へ 子 細 を申
し 上 げ た 、 と読
ま れ 、根
来寺
山伏
方 ・行
人方
が 聖 護 院 と結
び つ き 独 自 の宗
教 秩 序 を構
築 、 衆徒
方
と の 間 に 対 立 が起
こ っ て い た 、 と 解 釈 さ れ て き た 。 し か し 、 は た し て そう
で あ ろ う か 。NII-Electronic Library Service 中世後期根 来寺内に おける修験 道 (三好) ま
ず
、根
来
寺 は 別 当 が 三 宝 院 で東
寺 の 末寺
で あ る が、 し か し 山伏
方 は 聖 護 院 の 下方
で あ る こ と が 記 さ れ て い る 。 続 い て、 山伏
方 が 聖 護 院 に申
請
し て い る 「 綾 ケ サ 」 ( 綾 袈 裟 ) を懸
け る べ き 旨 、 行 人 方 ( 禅 徒 方 ) が 支 度 し て おり
、 衆 徒 方 が こ の 子 細 を京
都 に 申 し 上 げ た と す る 。来
月十
六 日 に 法 会 が あ り 、 そ の 砌 に こ の よ う な ( 山 伏 方 の 「 綾 ケ サ 」 着 用 と い う ) 珍事
が 出 来 す る で あ ろう
か 、 と 根来
法
師 が 語 っ た と いう
( 傍 線 部 ) 。 さ ら に 法 師 は 、 衆 徒 方 の 上 一 〇 〇 人 は 学 侶 と 号 し 、 そ の学
侶
末衆
が 大 将 分 と なり
山 伏 方 を 召 し仕
え て い る、 と 言 っ た とす
る ( 傍 線 部 ) 。 そ の こ と を 聞 い た 尋 尊 は 、 こ の 「綾
ケ サ 」 着 用準
備
が事
実 で あ る な ら ば 、 山伏
方 が 「 綾 ケ サ 」 を 引 き 懸 け る の は 諸 山 寺 の 「珍
事 」 で あ る 、 聖護
院 殿 の 成 敗 は ふ さ わ し く な い 、 と し て、 山伏
の 「 綾 ケ サ 」着
用 に 難 色 を 示 し て い る ( 傍 線 部 ) 。 こ の 「綾
ケ サ 」 が ど の よう
な法
衣 か は 判 明 し な い が、文
字
通 り 綾 織 り の 袈 裟 で あ る な ら ば 、身
分 を あ ら わす
最 も 重 要 な 指標
で あ る 衣 服 に お い て 、 山 伏 ら が豪
華
な袈
裟 を着
用す
る こ と は衆
徒 方 か ら の 大 き な 反 発 を 招 い ても
お か し く は な い 。 た と え ば 、永
享 九年
( 一 四 三 七 ) に 醍 醐寺
で 出 さ れ た 禁 制 に は 、 「 一山 上 六 時 僧
袈
裟 衣 色并
衣 長 鮒 飾 黝 蠕 榔 轢 ノ 法度
状 追 加 之事
」=
於 二当
山 之 下僧
等
山袋
裟
禁
制 之 処 ( 後 囀 ) L と あ叺
ま た 同 時期
禅 学 相 論 に際
し て 双 〔 20 〕 方 が 取り
交 わ し た 条文
に は 、 三 輪 山 平等
寺
で は=
禅 徒 絹 帽 子、 於 二 寺 中 一 者 停 止
事
」 、 菩 提 山 正 暦寺
に お い て は 〔 遡 =禅 徒 直 綴 著 用 事 、
不
レ 可 レ 然 云 々 」 と あ る な ど 、 行 人方
の 衣 服 を めぐ
る 厳 し い 規 制 や争
い があ
っ た 。尋
尊
が 「 聖 護 院 殿 成 敗 不 レ 可 レ然
事
也 」 と す る の も、法
会 に 際 し て 山 伏 に格
上 と も い え る 衣 服 を 聖 護 院 殿 が 許 可 し た事
に よ る の で あ ろう
。 以 上 の よう
に 見 る と 、確
か に根
来
寺 の 山伏
方
・ 行 人 方 と 衆徒
方 は 「 綾 ケ サ 」 着 用 を め ぐ り対
立 し て い る か の よ う に受
け 取 る こ と が で き る 。 し か し 本 稿 で は 、 「 学衆
方 上 百 人 号 二 学 侶 一 、 此 末 衆 為 二 大 将 分 一 召 コ 仕 山 伏 方 一 云 々 」 ( 傍 線 部 ) 、 と の 記 述 を 重視
し た い 。 学 侶 は根
来 寺 内 組 織 の 上層
部
一 〇 〇 人 と いう
中 心 的 存 在 で あ り 、 そ の学
侶
の 末 衆 の 統率
下 に 山 伏 方 は あ っ た の で あ る 。 こ の 記 載 を 踏 ま え る な ら ば 、 「 学 衆 方 此 子 細 ヲ申
訓 上京
都
一 」 ( 傍 線 部) と の 記 一
79
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智 山学報 第六十輯 述 は 、 山
伏
方
・ 行 人 方 に よ る 「 綾 ケ サ 」 着 用支
度 に衆
徒方
が反
発 し て の 行 動 で は な く 、学
侶末
衆
支 配 下 に あ る 山 伏方
の 「綾
ケ サ 」 着 用 許 可 を 求 め て 衆 徒 方 が 「京
都
」 へ 「申
上 」 げ た と 読 め る の で は な か ろ う か 。 衆 徒 方 と 、学
侶
末衆
の 統率
下 に あ る 山 伏 方 と 行 人 方 は 対 立 す る こ と な く、 互 い に 協力
・協
調 し行
動 し て い た と考
え る 。 そ し て 、衆
徒方
が 子 細 を申
し 上 げ た 「 京 都 」 と は 、 「 聖護
院 殿 成 敗 不 レ 可 レ 然事
也 」 ( 傍 線 部 ) と あ る よう
に、 「 成 敗 」 を 下 し て い る 聖 護 院 だ っ た の で は な か ろう
か 。 延 徳 三年
( 一 四 九 一 ) 、 和泉
国 守 護領
上 郷 と 九 条 家領
日 根 野 庄 と の 堺 相 論 に 際 し 、根
来寺
「 大伝
法
院衆
徒
御 中 」 「 大伝
法 院行
人御
中 」 宛 の 室 町 幕 府 奉 行 人 連 署奉
書 や 、本
寺 であ
る 醍 醐 寺 か ら 「 大 伝 法院
三 綱 御中
」 宛 の 醍 醐寺
山 下 奉 ( 翆行
某 経光
奉
書
な ど が 出 さ れ た 。 と と も に 、 聖護
院 か ら も 「大
伝
法 院 三綱
中 」 へ と 聖護
院 権 大僧
都某
施 行 状 が発
給
さ ( 23 } れ た 。 こ れ は 聖 護 院 が 根 来寺
に 対 し て 影 響 を与
えう
る か ら 出 さ れ た の で あ ろう
。 聖護
院 が 影響
を与
え う る存
在
、 そ れ は 山伏
であ
っ た と 考 え る 。 こ の 聖 護 院 か ら の 文書
が、行
人 方 の み に宛
て ら れ た も の で は なく
三 綱 に 出 さ れ て い る こ と か ら 、根
来 寺 の 山 伏 が 衆 徒 方 ・ 行 人 方問
わ ず存
在 し て い た こ と が窺
え よ う 。 こ の 事 例 か ら も 、 大 将 分 と な る 学侶
末 衆 を は じ め と す る 山 伏方
は 、 聖 護 院 の影
響 をう
け る 立場
に あ っ た と 考 え る 。当
時
聖 護 院 門 跡 は 熊 野 三 山検
校 職 ( 24 ) に あ り 、修
験
道 界 唯 一 の 権威
と し て 君 臨 し て い た 。 山 伏 と し て 広 範 囲 に 活 動 す る 上 で 、 根 来寺
の 山 伏 方 が そ の影
響
下 に あ っ た と し て も 不 思 議 で は な い で あ ろう
。 一 五世
紀
半
ば 、 根 来寺
内 で は 、 僧 団 組 織 の 中 心 的 存在
と い え る 学 侶 の 末 衆 が 山伏
方
の 大 将分
と な る 寺 内 秩 序 が存
在
し 、機
能
し て い た 。 山 伏方
の 「綾
ケ サ 」 着 用 に 関 し て も 、 対 立 で は な く、 衆 徒方
と 山 伏 方 ・ 行 人 方 の協
力 関 係 が窺
え る 。根
来
寺 の 山 伏方
に お い て は 、 聖 護 院 の 下 方 にあ
る こ と を も っ て 行 人方
・ 山伏
方 が衆
徒方
と 対 立 し 、寺
内 秩序
を 乱す
独
自 の 活 動 を 行 っ て い た と 断 ず る こ と は 出 来 な い と 考 え る 。 ま た、 山伏
方
の 寺内
に お け る 地 位 が 確 立 し て い た か ら こ そ 、 「 綾 ケ サ 」 着 用 問 題 が 起 こ っ た 法 会 に 山 伏方
は 出仕
す る こ と が 出 来 た の で あ ろう
。根
来寺
に お い て 、 一80
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 山 伏
方
は寺
内
か ら 排除
さ れ る よう
な 存在
で は無
か っ た の で あ る 。加
え て 、 こ の 時 期 の 根 来寺
で は 、 三 宝 院 を 別 当 とす
る本
末 関 係 と 聖 護院
を 頂 点 とす
る 山伏
の 結 び つ き が 抵触
せず
併存
し て い た と 考 え ら れ る 。 で は 一 六 世紀
以 降 、 聖 護院
( 本 山 派 ) か ら 離 れ た 根 来 寺 の 山伏
方
が 「 当 山 」 方 に 所 属 し活
動
し始
め る こ と は 、 山 伏方
に よ る 独自
の 活 動 と 評 価 す る こ と が で き る の で あ ろ う か 。 次章
で は 根 来寺
学 僧 と 修 験 道 の関
係 の 具体
例 を確
認 し、第
三章
で 一 六 世 紀 の根
来寺
一 山 に お け る修
験道
の 位 置 を考
察
し て い き た い 。N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
第
二章
根
来
寺
の学
僧
と
修
験
道
中 世後期根来寺内における修験道 (三好〉 本章
で は 、 根 来寺
の 学 僧 と 修 験 道 の 関 係 に つ い て考
察す
る 。 一 六 世 紀前
半 に 根 来 寺 に お い て 修 学 ・ 研 鑽 を し て い た 学僧
で あ蠡
・ 例 に 見 て い き た 幡 ゲ晋 弘
賢
は 、 「 紀 州根
来
寺 於 二右
学 頭 迎接
院
一奉
一 一 書写
一畢
、 是偏
先 師法
印
亮
盛 仏 果 追 善 也 、 于 レ 時享
禄
二 年 紀 五 月 廿 一 日〔 26 ) 右 筆 金 剛 仏 子
弘
賢
、 再 三 校 了 」 と 奥書
に記
す
よ う に 、 亮 盛 の弟
子 で あ っ た 。亮
盛 は 「 文亀
元年
八月
廿 七 日 於 二 根 来( 辺 壅 寺 十 輪 院 一 書 写 畢 亮 盛 」 や 「
文
亀 二 年根
来
寺 十 輪 院亮
盛 」 と の 奥 書 を残
す
こ と か ら 、根
来 寺 十 輪 院 に も 住 し〔 根 来 寺 ) て い た 学
僧
で あ る こ と が 判 明 す る 。 十輪
院
は 、 根 来寺
の 初 代能
化
で あ る 道 瑜 が 出 た 院 と し て 知 ら れ 、 「 か の寺
の 十冖 29 ) 輪 院 と い ふ は 、 当
寺
一 山 の 学 頭 、碩
学 の聞
えあ
り
と な む 」 と 三 条 西 実 隆 も 記 す ほ ど 、根
来寺
に お け る 教 学 研鑽
の 一〔 30 ) 中 心 と な る 子 院 で あ っ た 。 ま た
亮
盛 は 、 明応
九 年 ( 一 五 〇 〇 ) に成
純
か ら 『 臨 終 大事
』 を伝
授 さ れ て い る 。伝
授 を し た 成 純 は 、 「文
明
十 二年
庚 子 十 月 十 三 日道
瑜 山籠
、 文 明 十 七年
卯
月 三 日 於 二 和 泉国
大 鳥 郡 塩穴
中 條 石 津 庄 新堂
山 成( 31 ) ( 32 ) 覚 寺 → 従 =
根
来 寺 十 輪 院 一 賜 二 御 草 本 一 書 ゴ 写 之 一 末 資成
純
」 と の奥
書
が存
す
る こ と や 、 『 四十
八願
大
事
』 の 「 伝 授 次( 覚 鑁 ) 第 」 に 、
伝
法
院 本 願 − 頼 瑜 ー 頼淳
−
道 瑜ー
成純
、 と 連 な っ て い る こ と か ら 、 十 輪 院 道 瑜 と 師弟
関
係 に あ る 学僧
で あNII-Electronic Library Service 智山学 報第六十輯 っ た 。 ・ の
成
純
・ 弘 賢 は ・ 智積
院 智 山書
庫 蔵 『 金 剛界
加 行表
晶
鰤 舗聾
の譽
に ・ 御本
云 弘 長 元 年 九 月 十 五 日 於 二 酉 酉寺
報 恩 院 一 御 本書
写 畢 僧 正御
房 仰 云 、 是 為 二 初 心 人 一 勘 略 故 僧 正( 瑜 V 御 房
被
レ 記 本 也頼
−
正 応 五年
正 月 廿 一 日 於 二 根 来寺
五 坊 禅 室 一 書( 殿 ) 写
畢
良
−
元 徳 三年
二 月 七 日 於 二根
来 寺 石 曳 草 庵 一( 喜 ) 以 二 師 主 御 本 一 書 写 了
増
−
文 明 五年
喉 三 月 十 三 日 於 二 根 来 寺 十 輪 院 一 奉 レ 伝 ゴ 受 金 界 一 之 次 、書
写 了成
純
永 正十
七 年 五 月 十 九 日 以 二 御 本 一 書 写 了聖 盛 享 禄 二
年
紀 十 一 月 六 日 子 剋 書 写 了弘
賢
と 記 さ れ て い る 。 聖 盛 に つ い て は 現 在 の と こ ろ 明 ら か に し え な い が 、 頼 瑜 − 良 殿−
増
喜 と伝
え ら れ、 そ の後
成純
に よ っ て 十輪
院 に て 伝 授 の 際 に 書 写 さ れ た書
の 、 成 純 − 聖 盛−
弘 賢 へ と 継 承 さ れ る 聖教
の 書 写 過 程 か ら 、彼
ら の学
問 一82
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 中世後期 根 来寺 内に おける修験 道 (三 好) 的 な
繋
が り、 師弟
関 係 を 窺う
こ と が で き る 。 こ れ ら の こ と か ら 、成
純 ・ 亮 盛 ・ 弘賢
ら は、 十 輪 院 を 中 心 と し た 学 問 環 境 下 に あ っ た と 考 え ら れ る 。 以 上 を確
認 し た 上 で ・ 弘賢
に 注 目 し た い ・ 弘 賢 は ・ 「奎
一轟
+
一月
+ 九 日 夜 半書
写 了 大伝
法
院 学 侶 弘 艷 」 と 記 し て お り 、 天 文 三年
( 一 五 三 四 ) 時 点 で 根 来寺
大 伝法
院
の 学 侶 で あ っ た 。 前 述 の よう
に 、 大 伝 法 院 の 学 侶 と は 衆 〔 35 } 徒 の 上 座 百 人 を指
す
。 弘 賢 は根
来寺
衆 徒 の 中 心 的 位 置 に い た と 言え
よ う 。 ( 鍾 そ の 弘 賢 が 、 『修
験 道 私 記 』 と の 外 題 を 持 つ 「 私 記 」 を著
し て い る 。 弘 賢 の 活 動時
期 か ら 見 て、 一 六 世 紀 半 ば頃
に 記 し た も の であ
ろ う 。 「私
記 」 で あ る か ら 、弘
賢 が 私 に 記録
し た も の であ
り 、峯
入 な ど に 際 し 筆 記 し た 可 能 性 や 、 修 験道
に つ い て修
学
し て い た 可 能 性 が あ る 。 加 え て、前
章
で 見 た 『大
乗 院 寺社
雑事
記 』 の 記 事 に あ る 「 学 衆方
上 百 人 号 二 学 侶 → 此末
衆 為 二 大 将 分 一 召 ゴ仕
山伏
方 一 云 々 」 を 思 い起
こ す な ら 、 弘賢
が こ の 『修
験 道 私 記 』 を筆
記 し た 時 も学
侶 の 地 位 に い た な ら ば 、 山伏
方 の大
将 分 と な る 学 侶末
衆
で あ っ た の で は な か ろう
か 。 学侶
末 衆 は た だ 単 に 大 将分
と な り 山 伏 方 を 召仕
っ て い た の で は な く 、自
ら も 修 験 道 に 関 わり
が あ っ た と考
え ら れ る 。 ま た 、 こ の 『 修験
道 私 記 』 に は 、 「泉
州 家 原寺
満 蔵院
弘 賢 」 と の 識 語 も
存
在
す
る 。 弘賢
は 、 「享
禄
三 年 顛 二 月 六 〔 37 〕 日 於 二 泉 州 家 原寺
満 蔵 院 「 書 了弘
賢 、 為 二 亮 盛法
印
証大
菩 提 一 也 」 と 他 書 の 奥書
に 記 し、 ま た師
で あ る亮
盛 も 「大
永
四轟
八月
吾
於 二 家 原 寺 満 蔵 院書
写 了 亠口 冗 塵 」 と 記 す よ う に ・師
弟 と も 泉 州 家 原 寺 ( 和 泉 国 大 鳥羆
現輦
に所
縁 の あ る 僧 で あ っ た 。 家 原寺
は 、文
安
元年
( 一 四 四 四 ) の 東寺
堂
塔
修 造 に 際 し て、 奉 加 に 応 じ た 和 泉 国 中 の寺
院名
を書
き 上 げ た和
泉 国寺
社
東寺
修 理奉
加
人 交名
の 中 に 「 安 国 寺 家 原 五 + 五 人伍
貫 九 佰轟
鸚
顧
劇 」 ・ あ ・ ・ と よ癖
( 40 ) 当 時 和泉
国 の 安 国寺
で あ っ た 可能
性
が指
摘 さ れ て い る 。 そ の 文 書中
で家
原 寺 は 、最
も 高 額 の 五貫
九 〇 〇文
を 寄 進 し て い る と と も に 、奉
加 に 応 じ た 人数
も 最 大 の 五 五 人 で あ る こ と か ら 、 規模
の大
き
な 寺 院 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 こ 〔 41 > の 奉加
は東
寺 門 徒 ・ 末寺
に 求 め ら れ て い る た め 、 こ こ に 列挙
さ れ て い る寺
院 は 、 そ れ ぞ れ が東
寺
の 末 寺 ・ 門 徒 と自
一83
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智山学報第六 十輯
認
す る寺
院 ・僧
侶 であ
ろう
。 こ の よ う に 、 一 五 世 紀 中頃
の 家 原 寺 は東
寺 の 末 寺 と 認 識 す る 、 和泉
国 安 国寺
と考
え ら れ る大
寺 院 で あ り 、=
ハ 世紀
に は修
験 道 を 行う
根 来 寺学
侶 が 子 院 に住
す る寺
院 で あ っ た 。 中世
前
期 の 家 原寺
は 律 院〔 42 ) と し て の 側 面 が 明 ら か に さ れ て い る が 、 中 世
後
期 の 姿 は 未 だ 不 明瞭
で あ る 。 こ の事
例 か ら 真言
寺
院 と し て の姿
が窺
え よう
。 ま た、 家 原寺
を媒
介
と し た 根 来寺
と 「 都 市 」堺
と の繋
が り や 、堺
周 辺 に お け る 修 験 を介
し た 地域
社 会 へ の影
響
も 想 定 で き よ う 。 加 え て、 弘 賢 は 「 大 永 二 二 年 弐 月 五 日卯
尅 於 二泉
州
深
井極
楽
寺 地 蔵 院 一令
二書
写 一 畢執 筆 弘 〔 43 >
賢
」 と の奥
書 を残
す
こ と よ り 深 井 ( 現 堺 市 ) の 極楽
寺
地 蔵 院 に て書
写 活 動 を し て い る こ と が 判 明 し、 成 純 も 前 述 の よう
に 大鳥
郡
塩 穴 中條
石 津 庄 ( 現 堺 市 ) の 新 堂 山 成 覚寺
に て 聖 教 を書
写 し て い る こ と か ら、堺
の ご く 周 辺 に 根 来寺
学 僧 ( 44 ) の 修 学 拠 点 が い く つ か 存在
し て い た こ と が わ か る 。各
寺
院 を 介 し た堺
周 辺 へ の 根来
寺 の 影響
、 堺 か ら 根来
寺 へ の 文化
や知
の 流 入 な ど も 推 測 で き よう
。 以 上 本 章 で は 、 一 六 世紀
、根
来
寺
教 学 の 中 心 と も い え る 十 輪 院 で 修 学 し、大
伝法
院 の 学 侶 と し て 根 来寺
学僧
の 中 心 と な る 僧 侶 が修
験
道 の修
行 や修
学
を行
っ て い た 可 能 性 を指
摘 し た 。 山伏
方 に は修
験 道 を行
う
学 僧 も含
ま れ て お り 、学
侶末
衆 が 大 将 分 と な り、 山 伏方
を 率 い て い た と 考 え る 。 そ し て根
来寺
山 伏 の活
動
拠 点 は 、 堺 に ま で 広 が っ て い た と 推測
す る 。 一84
一N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
第
三
章
根
来
寺
に
お
け
る
修
験
道
の位
置
で は 、 前 章 で見
た よう
な 弘賢
と 修 験 道 と の 関 わ り は 、彼
の 、 ま た は 少 数 の学
僧
ら の 個性
や 個 人 的 な 信 仰 心 ・ 仏 道 修 行 に の み 還 元 で き る の で あ ろう
か 。 本章
で は 】 六 世 紀 の 根 来寺
衆 徒 内 、 ひ い て は 根 来寺
一 山 内 に お け る修
験 道 の 位 置 を 考 察 し た い 。 そ の 中 で 、 「 当 山 」 方 と し て 活 動 す る 山伏
方 の寺
内 で の 立 場 を 考 え た い 。NII-Electronic Library Service 天 正 十 三 年 の 根 来
寺
焼
亡 直 前 ま で根
来 寺 に て 修 学 し て い た 肥 後 国 人 吉 願成
寺
の 僧 勢 辰 が伝
え た 聖 教 の 中 に 、 〔 45 ) 作 法 」 と 外 題 を も つ 聖 教 が存
在
す
る 。 そ の 『 祈 作法
』 の奥
書 に は 、次
の よう
に 記 さ れ て い る 。 於 二 円 明寺
一相
応 不 動御
前
祈 之 時 発 願 也 、 「 祈N工工一Eleotronlo Llbrary Servloe
中世後期 根来寺 内における修 験 道 (三好 ) 于 レ 時 永
禄
二 二年
十 二月
於 二 阿 州 出 帳 之 時 →為
二畠
山 殿并
惣 分 軍 兵勝
利 → 祈 訓願
之 ハ余
望
二役
場
冖 俄 書 レ 之 、菩
提 谷 七 番小
池
坊
定
識
快 伝 天 正 八 年 嚴 六 月 一 日於
二根
来寺
一 写 レ 之 、勢 辰 永 禄 四 年 ( 一 五 六 こ 十 二
月
の 阿 州 出 帳 に 際 し 、 畠 山 殿 な ら び に 根 来 寺惣
分
の 軍 兵勝
利祈
願
を す る と と も に 、 そ の作
法次
第
を 根 来寺
菩
提 谷 七番
小
池 坊定
識快
伝 が筆
写 し た こ と が わ か る 。( 46 〕 永
禄
四年
一 二月
の 阿 州 出 張 と は、 『 細 川 両家
記 』 永 禄 四 年 七 月条
に 「 然 に 又 南 方泉
州表
へ は根
来
寺
衆 ・ 畠 山 高 一85
一NII-Electronic Library Service 智山学報 第六 十輯 政 ・
安
見 方 一 味 し て岸
和 田邊
へ 陣 取 也 。 是併
去
年
十 河 民 部 大 夫 殿 死 去 に よ り 出 張 由 候 也 。 ( 中 略 ) 和泉
表
へ は 阿 州 三好
実 休 為 二大
将 → 安 宅摂
津 守 ・ 三 好 山 城 守 ・ 三 好 下 野 守 ・ 三 好 備 中 守 ・篠
原 右 京 亮 ・ 吉 成勘
介 、 此 他高
谷 の 城 の 阿 州 衆打
出 、 泉 州 表 へ 陣 取 。 敵 味 方 の 間 五 町 三 町 に は 過 ぎ ざ り け り 。 兎角
し て年
暮
候 也 。 」 や 、 『長
亨
年
後
畿
内 兵 乱 〔 47 〕 記 』 永 禄 四 年 十 一 月 廿 四 日 条 に 「 同 日於
; 泉 州 一畠
山 殿 ・安
美作
守 ・根
来 衆 、與
三 二 好 豊 前 入 道 実 休 ・ 四 国衆
一 合 戦 、 四 国 衆 随 分数
多
射
死 。 」 な ど と 記 さ れ る よう
に 、永
禄 三年
に 三 好 氏 に よ っ て 河 内 国 を 追 わ れ 紀 州 に 退 い て い た畠
山高
政 が 、 永 禄 四年
七 月 、 河 内 国奪
回 の た め根
来衆
ら と と も に 和 泉 国岸
和 田 へ と 出 陣 、 こ れ に対
し 河 内 国 高 屋 城 に い た 阿 州 三 好 鶏 憾 が 挙 丘 へ 合 戦 が 繰 り 広げ
ら れ て い た 事 態 を 指 し て い よ 麺 。 こ の よう
な 状況
の中
、 畠 山 高 政 と 根 来 寺 惣 分 の 「 軍 兵 勝 利 」 祈 願 が 、 根 来 寺 円 明寺
の 相 応 不 動 御前
に て 修 さ れ た の であ
る 。 こ の奥
書 で まず
注 目 し た い の が 、 勝 利 を祈
願 す る 本尊
が 円 明寺
の 相 応 不 動 と いう
こ と で あ る 。 円 明寺
相 応 不 動 と ( 49 ) は、 慶 安 三年
( 一 六 五 〇 ) の 『 根 来 寺 堂塔
書
上 』 に 「 円 明寺
、 一覚 鑁 堂 、
尊
勝 仏 ・相
応
不 動 ・覚
鑁 仏 ノ 御 長 三 尺 壱寸
五 分木
仏 」 や 、 『紀
伊 名 所 図 会 』 に 「 御 影 堂 面 十 七 間妻 九 間 、 中 尊 覚 鑁 御
影
上 人 自
作
土
像
長 三 尺 一 ( 50 )
寸
五分
、 左 脇 相 応 不動
、 右 脇尊
勝 仏 頂 、 ( 中 略 ) 、右
円 明寺
境 内 に あり
」 と 記 さ れ る 、 円 明 寺 覚 鑁 堂 ( 御 影 堂 ) に 安 置 さ れ て い た 相 応 不 動 の こ と で あ ろ う 。 で は 、 こ の 相 応 不 動 と は ど の よ う な 像 で あ っ た の か 。 中 世後
期
の 根 来寺
に お け ・ 論華
そ の 作 法 な ど を 記 し た 『 塵 麺 』 に は 、 「於
二 覚 ・饒
鸚
騰
覊
想
八 講 鋤 弸 鯏旙
鎖 雌 咋 酖 跡 慟 黶 牒 地 御 豼 跡 騰 鵡撫
蠍 黼 除 」 と の 記 述 が あ る 。覚
星 院 に お い て 行 わ れ る 相応
入講
は 山 門 の 相 応 和 尚御
作 の 不 動 の 法楽
で あ り 、 本 尊 で あ る 不 動 は 怨敵
消 除 を 祈 る 像 で あ る と いう
。 こ の 近衛
院 慈 福 門 院 の御
願所
で あ る覚
星 院 と は 、大
伝
法 院 が 根 来 の 地 へ 移転
し て く る 以 前 、 高 野 山 上 に 大 伝 法 院 の 別 院 と し て 鳥 羽 上 皇 や美
福
門 院 ・ 近 衛 院 の御
願 寺 と し て 建 て ら れ た 覚 皇 院 の こ と で あ ろ う 。 根 来 へ の 移 転 に と も な い 、 高 野 山 上 の 覚 皇 院 で修
せ ら れ て 龕 ) い た 主 要 仏 事 で あ る修
正 会 や 曼 荼 羅 供 は 円 明寺
で 行 わ れ る こ と に な る も の の 、 そ の 後 、覚
皇
院 が 円 明寺
境
内 に 建 立 一86
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 中 世後 期根 来寺内における修験 道 (三好) 〔 53 ) さ れ た の か 、 あ る い は
根
来 の 地 の ど こ か に建
て ら れ た の か 確 認 で き な い 。 し か し 、 三 好実
休 出 張 に 際 し て の 「 軍 兵 勝 利 」祈
願 が 「 怨敵
消 除 」 に 通ず
る こ と や 、 ま た こ の 相応
不動
と と も に 、 円 明 寺覚
鑁 堂 で は 上 人自
作
の 木 ( 土 ) 像 で ( 覚 鑁 ) ( 掣 あ る覚
鑁 御 影 が 安置
さ れ 、 同様
に覚
星 院 相 応 八 講 を 行う
際
に も 西 庇 に 責 上 人 土 作 の 御 影 が 置 か れ る こ と か ら 、 円 明寺
相 応 不 動 と は 覚 皇 院 相 応 八講
の本
尊 と な る 、 相 応 和 尚御
作 の 怨 敵 消 除 を 祈 る 不 動 と 同 ] 像 と 考 え る 。本
像
を 作 し た と さ れ る 相 応 和 尚 ( 八 三 一 〜 九 一 八 ) は 平 安 前期
の 天台
僧 で 、 比 叡 山 に 無 動 寺 を建
立 し、 北 嶺 回峯
行
を創
始
し た と伝
わ る 人 物 で あ る 。 北嶺
回峯
行
の 祖 で あ る相
応 に よ っ て作
ら れ た と さ れ る 不動
明 王 を 本尊
と す る 勝 利 祈 願 や 相 応 八講
が 、 根 来 寺 に て 行 わ れ て い た の で あ る 。 そ し て こ の 相 応 不 動 が 安 置 さ れ て い た 円 明 寺 と は 、覚
鑁
が 根 来 の 地 へ と 離 山 し て き た際
に 建 立 し 、 西庇
に て 往 生 し た 根 来 寺 の 根 本 堂舎
で あ る 。 そ の よう
な 円 明寺
内 の覚
鑁
像 や尊
勝
佛頂
像 を 祀 る 堂 に 、相
応 不 動 は 安 置 さ れ て い た 。根
来 寺 内 に お け る 相 応 不 動 の 重要
性 が窺
え よ う 。 次 に着
目L
た い の が 、 永 禄 四年
に 勝 利 の 祈 願 を し 、 『 祈作
法
』 を 書 い た 小 池 坊 定識
快
伝 で あ る 。 小 池 坊 と は 根 来寺
焼 亡 の の ち 長 谷 寺 へ 移 っ た 学 僧 小 池坊
専
誉
( の ち 豊 山 派 祖 ) が 居 住 し た 坊 で 、定
識快
伝
と は 妙 音 院 頼玄
の こ と で あ る 。 頼 玄 は 専誉
や 祐 宜( の ち 洛 東 智 積 院 第 二 代 能 化 ) の 師 に あ た り 、 根 来 寺 一 山 に お け る学
問
上 の 指導
者
で あ る 能 化 職 ( 55 ) に も つ い た、 当時
の根
来 寺 を代
表
す る 学 僧 で あ っ た 。根
来
寺 の根
本 堂 舎 た る 円 明寺
に お い て 、 相 応 不 動 を本
尊 と し た 勝 利 祈 願 の 修法
が 、 根 来寺
の 有 力 な 学 僧 に よ っ て 執行
さ れ て い た の で あ る 。 ま た 前 述 の 相 応 八 講 は 、 二季
報 恩 講 ( 56 ) 論義
や 春 秋 二 季大
会 な ど と 同 じ く 根 来 一 山 に お け る 年 中行
事 法 要 と し て 組 み 込 ま れ て い た 。 修 験 的 要 素 を多
分 に含
ん だ 相 応 不 動 を本
尊 と す る 「 軍 兵 勝 利 」 祈 願 や 相 応 八講
の 、寺
内 に お け る 重要
性 が 窺 え よう
。 こ の よう
な根
来 寺内
の 主 要 仏事
で あ る 相 応 八 講 は 、 正 応 元 年 ( 一 二 八 八 ) ま で に 成 立 し た 『 根 来 要書
』 や 南 北朝
期 の 学僧
頼豪
に よ っ て 書 か れ た 『 束 草 集 』 に確
認 で き な い こ と か ら 、 一 四 世 紀後
期 以 降 に成
立 し た 仏 事 と考
え る 。 ま 一87
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智山学 報第六十輯 た 『 根 来 要 書 』 に 収 め ら れ て い る
覚
皇 院供
養
願 文 案 や覚
皇 院 供養
諷 誦文
案 に よ る と 高 野 山 上 に創
建 さ れ た覚
皇 院 の 本 尊 は大
日 如 来 一体
で あ る こ と か ら、 相応
不 動 は 高 野 山 上覚
皇 院 か ら持
ち 来 た っ た 像 で は な く 、 根 来 の 地 に て 新 た に安
置 さ れ た 像 で あ ろう
。 真言
寺 院 で あ る根
来寺
の衆
徒 が 行 う修
法
・法
要 の本
尊
に 、 様 々 な靈
験
を 伝 え る 高 僧 と は い え 天台
僧 の影
響
が 、 そ し て修
験 道 の 要素
が 強 く 入 り 込 ん で い る 理 由 に つ い て は 、根
来寺
の 山伏
ら が 一 時 天台
宗 寺 門 派 聖 護 院 門 跡 の 配 下 に あ っ た こ と も あ ろう
が 、 そ れ よ り も 、 根 来寺
山 伏 が 「 当 山 」 方 と し て活
動 す る 中 で 、 そ の 繋 が り や 交 流 に よ っ て 山 門 の修
験道
の 要素
を 取 り 込 ん だ た め と考
え た い 。 〔 57 〕 一 六 世 紀 、 和 泉 国 日 根 野 庄入
山 田 村 と犬
鳴
山 七 宝 瀧 寺 の 関 係 の よう
に 山 伏 に よ っ て 村落
寺
社
の 祭 祀 が 担 わ れ て い る が 、 そ こ に は 行 人 方 の 山 伏 が 行 え る 村 落 レ ベ ル の修
法
と、 「 軍 兵 勝 利 」祈
願 や 相 応 八 講 の よ う に 衆 徒方
で な け れ ば 行 え な い 根 来寺
一 山 と し て の 修法
・ 法要
が あ り、 宗 教 的 な 階 層 ・ 秩序
が あ る と 考 え る 。 一 五 世 紀 半 ば 根 来 寺 の 山 伏 方 は 聖 護 院 の影
響
下 ( 本 山 派 ) に て 活 動 し、 一 六 世紀
に は 「 当 山 」 方 に 所 属 し活
動 を す る 。 し か し そ れ は 、 根 来寺
内
の 山 伏 方 が 独 自 の 宗 教 秩 序 を 構築
し た の で は な く、 寺内
秩 序 に 包摂
さ れ て い る活
動 であ
っ た と 考 え る 。 以 上 の こ と か ら 、 一 六 世 紀半
ば ま で に は 、 根来
寺 衆 徒方
を 含 む 根来
寺 一 山 の 中 に 修 験道
の要
素 が 深 く 入り
こ ん で い た と 考 え ら れ る 。 前章
で 見 た 弘賢
と修
験 道 と の 関 わ り の 要 因 は 、 一 部 の 学僧
ら の 個 性 に求
め る の で は なく
、根
来 寺 一 山 と し て修
験 道 を 許 容 し 必 要 と し て い た た め と いえ
よ う 。 許 容 の 理 由 に つ い て は いく
つ か 推 察 で き る が 、 こ こ 冖 58 〕 で は 鎌倉
期 以 来 、役
行 者 所 縁 の 寺 で あ り葛
城修
験
の 行 場 と さ れ て い る 豊 福寺
の存
在
を あげ
て お き た い 。 豊 福 寺 は 覚 鑁 の根
来移
住
時 よ り 境 内 に存
在
し 、 頼 瑜 ・ 聖 憲 期 に お け る高
野 山 下 山 ・根
来寺
成
立 後 に お い て も 大 伝 法 院 ・ 密 厳 院 ・ 円 明 寺 と と も に 根 来 寺 の 中 心 的 堂舎
で あ っ た 。 そ の た め修
験 道 が 重 要視
さ れ た と 考 え る 。 一88
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 中世後期 根来 寺内に お け る修 験 道 (三好)
お
わ
り
に
一 四 世 紀後
半 か ら 一 六 世 紀 に か け て、 畿 内 近 国 の 諸 山寺
で は 行 人 方 の 山 伏化
が 進 展 し て い た 。 一 寺 院 内 に は と ど ま ら な い修
験
道 を介
し た 諸 寺 院 間 と の 独自
な 結 び つ き が従
来 の寺
内 秩 序 を壊
す
と と も に 、行
人 方 の 勢力
伸 長 を も た ら し 学 衆方
と の対
立 を 深 め る と さ れ る 中 、 根 来 寺 で も 他寺
と 同様
、 行 人 方 の 山 伏 化 が 進 展 し 、 行 人 方 が 寺 内 で大
き な 勢 力 と な っ て い た 。 し か し根
来 寺 で は 、 他 寺 で窺
え る よう
な修
験 道 の 禁 止 や 、行
人 方 と衆
徒 方 と の 目 立 っ た 対 立 は確
認 で き な い 。 む し ろ 一 五 世 紀 半 ば 、法
会 に お け る 山伏
の 「綾
ケ サ 」 着 用 に 関 し て 衆 徒方
は協
力 的 で 、 衆 徒 方 と 行 人方
. 山 伏方
が 争う
こ と なく
共存
し て い た 。 「 学衆
方
上 百 人 号 二 学 侶 → 此 末 衆為
二大
将 分 一召
訓仕
山 伏 方 一 」 と いう
、 学 侶 末衆
が 山伏
方 の大
将 分 と な る よう
な 寺 内身
分 秩 序 が 存 在 し 、 機 能 し て い た の で あ る 。根
来寺
で は 、 衆 徒 方 と の 対 立 の 中 で の行
人方
・ 山伏
方
の 勢力
伸 長 と は 言 え ず 、 山 伏 を許
容 す る 秩序
の存
在
が 、 山伏
方
の勢
力拡
大 要 因 で あ っ た と 考 え る 。 ま た 、 学僧
も修
験 道 を行
っ て お り、 一 六 世 紀 半 ば ま で に根
来 寺 の 中 で修
験 道 は 重 要 な 位 置 を 占 め て い た 。行
人方
の 山 伏 が 行 え る村
落 レ ベ ル で の修
法 と、 衆 徒 方 で なけ
れ ば行
え な い 根 来 寺 一 山 や 広範
な 「 地 域 社会
」 レ ベ ル で の修
法
. 法 要 が あ り 、 宗 教的
に も 階 層 ・ 秩 序 が 存 在 し た 。 確 か に 、 行 人 方 山 伏 の 人 数 は衆
徒
方 の 修 験者
よ り も 圧倒
的
に多
か っ た で あ ろう
し 、 聖護
院 や 「 当 山 」方
と根
来寺
山 伏方
と の修
験 道 上 に お け る 繋 がり
は あ っ た 。 し か し 、根
来
寺
内 に お け る 身 分 や 宗 教 の 秩 序 は 維 持 さ れ て い た と考
え る 。 根 来寺
山 伏 方 の 場 合 、 聖護
院 や 「 当 山 」 方 と 結 び つき
活
動
を し て い た が 、 根 来寺
内 の秩
序 を 乱 す よ う な自
律
的活
動
を 行 っ て い た と の 評 価 は あ た ら な い と考
え る 。行
人方
に よ る修
験 道 を 、 衆 徒 方 の 宗 教 的 権威
を 奪 い 新 た な 宗 教秩
序
を構
築
す る も の と 認 識 し て 禁 止 す る の で は な く 、寺
内
秩
一89
一 N工工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 智 山学報 第六十輯
序
に 包 摂 す る こ と で 、 行 人 方 の修
験道
に 対 す る宗
教 的 願望
を 満 た す と と も に、 衆 徒 方 と 行 人方
と の対
立 を引
き起
こす
こ と な く共
存
し え た の で あ ろう
。 修 験道
の容
認 が あ っ た れ ば こ そ、 「当
山 」方
先
達 衆 の中
で 根 来 寺 山 伏 が 一大
勢
力
を 築 く こ と が で き た の で は な か ろ う か 。 行 人方
の 勢 力 伸 長 も 、 衆 徒方
と の 諸 活 動 に お け る協
力
. 補完
と いう
側面
が あ っ た か ら こ そ と 考 え る 。 以 上 、 推 測 を 重 ね た と こ ろ も あ る が 、 根 来 寺 に お い て は 、 他 寺 と は異
なり
修 験 道 や 山伏
を 許 容 し て い た こ と が 、 広 範 な 地 域 の 人 々 を宗
教
的 に 引 き つ け 、 氏 人 と な し え 、 行 人 方 と し て 入寺
さ せ え た 要 因 の 一 つ で あ っ た と 考 え る 。 一 六 世 紀、 根 来 寺 は 人 々 の 集 ま る 「 都 市 」 で あ り、 ま た 庄 園 や 国 境 を 越 え 、 和 泉 国 ・ 河 内 国 へ も影
響
を 与 え う る 「 地 域 社 会 」 を 形 成 し て い た 。 そ の 形成
過程
に お い て 、 こ れ ま で に 明 ら か に さ れ て き た 行 人方
に よ る経
済活
動 や 軍 事 活 動 に 加 え 、 修 験 道 や 山 伏 ら の 活動
を 媒 介 と し た 周 辺 地 域 と の 繋 が り も大
き か っ た と 考 え る 。堺
に 近 い 大 鳥 郡家
原 寺 に は 根 来寺
の 学 僧 や修
験 を 行 う 学侶
が 住 し て い た 可能
性 があ
り 、 同 郡 深 井 極 楽寺
や 石津
庄成
覚
寺
に て も 学 僧 が 活 動 し て い た 。 堺 近 辺 に存
在
す る 家 原寺
な ど を 介 し 、 堺 周 辺 地 域 へ も 及 ぶ根
来 寺 の 信 仰 そ し て修
験
を媒
介
と し た 影響
が あ っ た と推
測 す る 。 今後
は 、 流 通 圏 や経
済 圏 に 加 え 信 仰 圏 も視
野 に い れ つ つ 、 「 地 域社
会 」 に お け る 山 伏 ら の活
動
や 果 た し た役
割
、 そ の 影響
力
な ど に つ い て 明 ら か に す る こ と で 、 「 都 市 」 根 来 や 「 地 域 社 会 」 の 形 成 に つ い て考
察
し て い き た い 。 ま た 学 侶 が 山 伏 方 を率
い て い た の で あ れ ば 、 中 世 後 期 の根
来寺
一 山 の 運 営 実 権 が 行 人 方 に よ っ て握
ら れ て い た と い う 現 在 の根
来寺
像 に も 一 考 の余
地 が 生 ま れ よう
。 課 題 と し た い 。 一90
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【 附 記 】 本 稿 脱 稿