『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ 三 聚 雲 法 派の 形 成 1 明 季 蜀 東 仏 寺の 罹 災と 僧 徒の 受 難 聚 雲 法 派が 発 祥した 蜀の 地は、 中 国 本 土の 中に 在って 西 陬に 位 置し、また 周 辺を 峻 峰に 囲 繞され 、 交 通の 便に 恵ま れていな か っ たこ とも あ っ て 、 中 原における 政 権 簒 奪の 闘 争に 巻き 込まれ ること も 少なく、 概して 長らく 平 和を 享 受 してきたの で あ っ たが、 明 末 清 初 期、 鼎 革に 伴う 動 乱の 余 波を 受け、 川 東 ( 1 ) 一 帯の 地 域はしば し ば 兵 燹の 厄を 蒙るに 至っ た。 明 末の 崇 禎 癸 酉( 六 年) 聚 雲の 法 嗣の 一 人である 鐵 眉 慧 麗( 一 五 八 六 - 一 六 五〇 ) のごときは、 門において 兵 乱 に 値い、その 徒 悉く 害され たが 、 師のみ は 僅かに 身を 以て 危 機を 脱したと 伝えられ て いる ( 2 ) 。 翌 甲 戌( 七 年) には 、 張 獻 忠 ( 3 ) ( 一 六〇 五 - 一 六 四 七) が 楚より 入って 蜀の 地を 犯し、 州 府およ び 大 寧、 大 昌、 新 寧、 開 等の 諸 県を 陥れ、 梁 山 邑をも 侵した。 こ の 時 原は、 郷 勇を 集め 之を 走らせたとさ れ ている ( 4 ) 。 次いで 崇 禎 丁 丑( 十 年) には 、 李 自 成( 一 六〇 六 - 一 六 四 五) が 蜀 地を 攻 掠しており、 崇 禎 壬 午( 十 五 年) 、 江 邑 中の 白 蓮 教 徒が 混 乱に 乗じて 群がり 起こり、 翌 十 六 年、 鐵 壁 会 下の 三 山 燈 來( 一 六 一 四 - 一 六 八 四) は、 叛 徒と 戈を 交えたといわれ ている ( 5 ) 。 崇 禎 甲 申( 十 七 年) 正 月、 張 獻 忠はまた 楚より 蜀に 寇し、
『
續
燈
正
統
』
と
聚
雲
法
門
〔Ⅱ〕
長
谷
部
幽
蹊
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 州 府を 陥れ、 梁 山を 奪 掠し、 忠 州に 侵 入した。 三 月、 李 自 成の 軍が 京 師に 迫るに 及んで 毅 宗は 萬 歳 山に 縊 死し、 明 の 社 稷は 事 実 上 潰え 去った。 同 年の 事に 属する が、 忠 州 高 城 山の 陽にあった 永 興 寺は、 殿 宇 鞠して 茂 草の 場と 化した。 姚 賊が( 6 ) 達 県 北 巖 寺の 大 雄 殿、 蔵 経 楼を 焚 燬したのもこの 頃 の 事である ( 7 ) 。 七 月 李 自 成は 西 安に 奔った が、 獻 忠は 成 都を 陥れ、 十 一 月 蜀 王 府を 宮となし 大 西 国 王を 僣 称したが、 順 治 三 年に 川 北を 出で 陝 西に 入らん とし、 鹽 亭において 敗 死 した。 明の 遺 臣は、その 後しばらくは 朱 家の 余 裔を 王に 擁 立し て 諸 方に 抗 節し、これ に 農 民の 暴 動も 絡んで 凄 惨な 戦いが 続けら れたの は 周 知の 事 実である 。 順 治 二 年の 前 後に 川 東 の 郡 県は、 賊の 拠 点とな ったもの が 大 半を 占めた。ただ 秦 良 玉の 軍 威が 大いに 振った こ と か ら 、 南 濱 ( 8 ) への 侵 攻はな か っ たという。 順 治 八 年 秋に 張 兵と 于 李 相とが 交 戦した。この 時 破 山 海 明( 一 五 九 七 - 一 六 六 六) が、 先に 聚 雲 派の 法 統 には 真 正の 拠なしとして、 激しく 立 宗の 非を 鳴らした 当の 吹 萬の 嗣、 鐵 壁 慧 機( 一 六〇 三 - 一 六 六 八) の 許に 難を 避 けたの は 、 万 止むを 得ざる 窮 余の 策で あ ったので あろうが、 意 外なこ とに 破 山 一 党は、 鐵 壁から 厚く 礼 遇され た ( 9 ) ので あ っ た。ただ 「 雙 桂 破 山 明 禪 師 年 譜」 には 、 破 山が 南 濱に 入っ たというだけで、 厚 遇され た こ と に は 一 言も 触れていな い 。 それ は 恐らく、 破 山と 一 門の 僧 衆の 胸 裏に、 虧 心の 情なき を 得なかったからで あ ろう。 順 治 己 亥 十 六 年( 永 明 王 十 三 年) 、 川 東 一 帯の 地には 、 烽 煙 再び 緊を 告ぐる の 事 態に 到り、 舟 師は 水 陸を 慌ただしく 上 下するなどして 地 方の 風 鶴を 騒 動せしめた。 鐵 壁 慧 機と 会 下の 僧 衆は、 露 眠 野 宿を 続けな がら、 辛 苦して 漸く 梁 地 に 辿り 着いた ( ) という。 なおこの 年には 、 靖 南 王 耿 繼 茂 ( ) ( ? - 一 六 七 一) によ っ て、 四 川の 地が 鎮 圧され て お り、 聖 祖が 登 極して 康 煕と 改 元され た そ の 三 年 八 月には 、 川 楚の 地において 明 室のため 清に 抗 拒せる 者が、 総べて 平 定され たと 伝えられ て いる ( ) 。 これ よ り 先、 明 末の 崇 禎 年 中に 總 兵に 任ぜら れ、 清 軍と 交 戦した 呉 三 柱( 一 六 一 二 - 一 六 七 八) は、 清に 降ったの ち、 李 自 成と 戦ってこ れ を 破り、 平 西 王として 雲 南に 駐し たが 、 康 煕 十 年、 清 朝に 反 逆を 企てるに 至り、 翌 十 一 年に は 一 旦 蜀 地の 全 部を 手 中に 収めた。
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ 康 煕 甲 寅( 十 三 年) には 、 先に 一 言した 達 州の 古 名 刹 北 巖 寺は、 呉 三 柱の 変に 次いで 潭 彭の 蹂 躪する ところ と な っ ている。なお 梁 山の 地は、 古くから 孔 道に 当てられていた ことから、 賊 徒 出 入の 衝となり 、 ために 近 在の 住 民は、し ばしば 苦 汁を 嘗め させられ る こととなった。 ところ で 世にいう 三 藩の 乱は、 康 煕 二 十 一 年 頃になって 漸く 終 熄をみるに 至ったもの である が 、 天 下を 震 撼させた 大きな 事 件であ った 。そ の 間、 頻りに 出 没した 叛 徒に 侵さ れ、 諸 盗の 竊 拠とさ れた 川 東の 寺 刹や、そこに 在 住 修 道し ていた 僧 衆の 多くが 、 幾 度か 繰り 返して 兵 難の 厄を 蒙った ことは、これ によっ て 明 白である 。 こ こ に は そ の 委 曲を 尽 くすまで の 余 裕はな いの で、 僅かに 一 斑の 事を 挙げたに 止 まる が、 以て 大 凡の 動 向を 察 知することができる で あ ろう。 2 蜀 東における 聚 雲・ 破 山 両 派の 法 化 明 末 清 初の 間、 川 東では 吹 萬 廣 眞が 他に 魁けて 忠 州に 化 門を 開き、 聚 雲 法 派 成 立の 基 盤を 築き 上げた。 当 時 江 南で は 厳 峻なる 為 人の 手 段を 以て 学 人を 接 化した 密 雲が 臨 濟の 再 来と 称せられ、 盛 名を 謳われ ていた。 破 山 海 明は 密 雲に 金 粟に 参じてその 法を 嗣ぎ、やや 遅れて 州 梁 山に 法 令を 全 提した。かくして 聚 雲・ 破 山の 両 派は 拮 抗して 蜀 地 仏 法 の 興 隆を 競 勧するこ と とな ったの で ある 。 初めに 聚 雲 派に 関して である が 、 吹 萬の 主 住たる 聚 雲 禪 院は、 忠 州の 北 一 里、 三 目 山の 麓にあり、 もと 荒れ 地であ っ たが 、 崇 禎 四 年、 吹 萬がこ こに 擲 錫した 際、 田 鍾 衡 ( ) なる 者 が 衆に 勧めて 開 闢し、 山 門、 前 殿、 後 殿、 方 丈、 両 廡、 鐘 楼、 鼓 楼、 小 蓬 莱、 静 室 等を 造 営した。かくして 紺 于 巍 煥 として 州の 勝 地となり 、 また 聚 雲 一 門 法 化の 本 拠ともな っ たの である。 しかし、 聚 雲 禪 院は、 明 李しばしば 兵 火に 遭って 廃 墟と 化した 。 乾 隆 十 九 年に 至るや 郡の 刺 史 五 松 崖が 俸を 捐て、 また 僧 崑 源に 命じて 托 鉢 募 化せしめ、 漸く 風 雨を 凌ぐ 程 度 の 小 殿を 造り、 さらにその 法 孫 継 月なる 者が 独 力 経 営をな し、 賀 敬 夫が 郷 人の 間に 募を 集め、 仏 堂 僧 寮を 建てて 旧に 復せしめんとする ( ) の 事があ った 。 吹 萬は、 聚 雲 禪 院に 次いで 崇 禎 十 年 忠 州 城 西の 巴 臺 禪 院 に 開 法し、 翌 十 一 年 州 府 萬 県 寶 峰 山 雲 來 禪 院、 続いて 同 地の 興 龍 寺、さらに 同 十 六 年 重 慶 府 州 芙 蓉 溪 吟 翁 寺に 出 住し、 次いで 石 三 敎 寺、 長 溪 雲 峰 山 雲 集 寺、 忠 州 牛 首 山
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 雲 巖 寺 ( ) 、 南 濱 南 城 山 寶 聖 寺、 忠 州の 治 平 寺に 晋 住しており、 概ね 忠 州を 中 心とし、 そ の 周 辺に 仏 門を 開いた 事が 分かる 。 これ に 対して 破 山 海 明( 一 五 九 七 - 一 六 六 六) は、 蜀の 果 州、 順 慶 府 大 竹 県に 生を 享けた 人で、 脱 白の 後、 山、 博 山、 聞 谷、 雪 湛 然 等、 当 代の 諸 名 宿に 問 法し、 嘉 興 金 粟に 密 雲 圓 悟( 一 五 六 六 - 一 六 四 二) に 参じ、 崇 禎 元 年 密 雲より 、 曹 溪 正 脈 來 源およ び 信 金を 付せられた。 師は 初め に 嘉 禾の 東 塔の 請に 応じ、 崇 禎 五 年 蜀に 帰り、 翌 年 州 府 梁 山 県 萬 峰 太 平 禪 寺に 開 法し、 崇 禎 一 年には 順 慶 県 渠 県 祥 符 寺、さらにその 翌 十 二 年には 郷 里である 。 慶 安 州 大 竹 県 無 際 寺に 晋 住し、 翌 十 三 年 瀘 州 江 安 県の 蟠 龍 寺、 崇 禎 十 五 年、 州 府 開 県 大 寧 寺、 翌 十 六 年、 慶 安 州 大 竹 県 佛 恩 寺、 清 代に 入り 順 治 九 年に 州 府 萬 県 大 白 巖 萬 福( 年 ( ) ) 寺に 入 院、 というように、 忠 州を 中 心としてその 東・ 西・ 東 南の 諸 大 刹に 歴 住した 後、 順 治 十 年、 高 梁の 總 戎 聖 瑞 姚 公の 勧めに よって、 梁 山 県の 西 南 三 十 里、 古く 黌 宮 ( ) が 存したと 伝えら れ、 二 株の 巨 大な 桂 樹が 生い 茂る 地に 工を 鳩め、 大 殿 方 丈 僧 堂 等 三 十 余 楹を 建 造し、 頓に 大 観を 成すに 至った。そこ で 桂 樹に 因んで 雙 桂 堂と 名づけられ、また 雙 桂 禪 院、 後に 雙 桂 香 園 金 帯 寺とも 称せられた。 寺 後の 破 山 塔は、 県 内の 名 墓の 一に 数えられ、 康 煕、 乾 隆、 嘉 慶の 三 代に 亘り、 清 代の 高 名な 文 人の 手に 成る 題 が 存する ( ) 。 な お 乾 隆 二 年に、 大 清 龍 蔵が 編 印され た 時、 天 下の 名 藍 大 刹に 総じて 百 部が 贈られ てい るが 、 蜀 省 内では、 昭 覺、 雙 桂の 二 大 刹が 賜 蔵 の 恩 典に 浴したということで ある ( ) 。 彼の 聚 雲 禪 院が 兵 火を 蒙って 廃 したとさ れ る のに 対し、 此の 雙 桂 禪 院は、 清 代 中 期 以 後も 蜀 中 第 一の 禅 林とし て 盛 名を 謳われ る に 至った 。 蓋しこ れら 二 大 刹の 興 廃は、さな がらその 後における 両 派 の 命 運を 象 徴しているかの ようである 。 ここで 両 派の 関 係 交 渉につ い て 少しく 述べてお く ことに する 。ただ 聚 雲と 破 山、 破 山と 鐵 壁との 間では、その 関わ り 方に 微 妙な 変 化が 認めら れる 。 初めに 聚 雲につ い て い え ば、 師が 金 陵の 觀 音 庵に 在 住し ていた 時、 朝 宗 通 忍( 一 六〇 四 - 一 六 四 八) が 来って 、 天 童に 就くよう 暗に 勧 説した 形 跡が 認めら れる が、 聚 雲はこ れを 言 下に 一 蹴している。 聚 雲 一 派が 密 雲 系 師 僧の 指 斥を 蒙ったの は 聚 雲が 開 法して 間もな い 頃であ っ た とみ ら れ る 。 師の 漢 月への 書 問は、こ れ を 承けたもの であろう ( ) 。 漢 月 蔵
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ 公は 懇 切に 聚 雲の 問いに 答え、 師を 以て 大 慧の 種 艸と 認め ており、 聚 雲に 対して 好 意 的に 応 対している。この 事に 破 山は、 不 快 感を 持った ようである 。 ただ 聚 雲と 破 山との 間 に 書 信の 応 酬があ ったの は 事 実で、 破 山も 初めは 雲 公を 称 美していたの で あ っ た ( ) 。 崇 禎 十 三 年、 破 山は 一 僧、 恐らくは 聚 雲の 会 下に 在った 松 谷 禪 人が 呈 示した 聚 雲が 上 堂の 語を 目にして、 漫りに 無 識の 輩を 惑わし、 枝 派を 紐 捏して 宗 門を 冒 籍する 者と 難じ、 遠 嗣の( ) 事を 咎め 立てしている。ただ 聚 雲はこ れを 知ること なく、 崇 禎 十 二 年 秋に 滅を 唱えた。 崇 禎 十 七 年( 順 治 元 年) 、 蜀 江の 北 岸に 遍く 戦 火が 及んだ 時、 破 山も 鐵 壁も 秦 良 王に 迎えられ て 石 に 入り、 三 敎 寺、 吉 祥 庵と 互いにその 居を 相い 隣りして 止 住していたことが ある。 順 治 八 年 鐵 壁は、 馬 崇 山の 請に 応じて 石 の 三 敎 寺に 開 堂した。 前 述した 如く 張 獻 忠は、この 年の 秋に 于 李 相と 干 戈を 交えた。 こ の 時 破 山は 南 濱に 入ったとさ れている 。『 鐵 壁 年 譜』 には 、 破 山が 難を 以て 来 帰した、と 明 言され て い る。 そ こ で 鐵 壁は、 執 事に 命じて 礼を 具えて 破 山を 迎え、 西 室に 館せしめ る と 共に、 賊が 略いし 所の 衣 物をみな 補 足 し、 款しばしば 甚だ 優なるもの があ った、と 伝えられ て い る。ま さ に 法 門の 厚 誼を 存した 事というべきで あろう ( ) 。 順 治 十 六 年、 川 東の 地が 再び 兵 寇を 蒙った 際、 三 山 燈 來 は 経 幹 執 事を 遣して 鐵 壁を 梁 地に 迎えしめ、 同 年 三 月、 三 山は 師に 侍して 金 城に 赴いた。 当 事 護 法、 文 武 士 庶が 争っ て 伊 蒲を 設け 供を 留める こ と 両 月に 及んだ 。この 時 破 山も 彼の 城に( ) あり、 乱に 遇うに 非ずん ば 若 輩 何んぞ 一 見するこ とを 得ん、 と 相 与に 甚だ 懽ぶ、 と 『 三 山 年 譜』 に 見えている。 また 破 山が 石 寶 ( ) の 吉 祥 庵を 過りし 時、 鐵 眉 慧 麗が 方 丈を 出て 破 山に 値って 酒を 飲み、 問 答 応 酬があ ったこ と が 伝え られ てい る ( ) 。 聚 雲 一 門の 諸 師は、 危 難に 際 会して は 屡々 破 山 等に 援 助 の 手を 差し 伸べ、 相 会して は 厚 誼を 尽くし 迎 接したようで ある が、 破 山の 側の 対 応は 寧ら 冷 淡であ った かに 受けとら れ、 両 派の 関わりに つ いてもほとんどいう 所がな い 。 ただ 護 法 檀 越は、 田 鍾 衡にしても 田 素 庵、 秦 良 玉、 馬 崇 夫 馬、 聖 瑞 姚 公にしても 両 派の 師 僧を 分け 隔てなく 遇し、 誠 心 供 養していることが 注 目され る。
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 聚 雲 下 第 二 世の 法 化につ い て は 、 節を 改めて 取り 挙げる として、 次に 破 山 下 第 二 世の 動 向に 視 点を 移し 概 括してお きたい。 西 蜀に 生を 享けこの 地に 開 法した 破 山に 参じた 学 道 者 達 の 多くが 、 蜀とその 周 辺の 出 身である の は 寧ろ 自 然で、 敢 えて 異とするに は 足りないことで あ る。 実 際 九 十 名 ( ) に 上る 会 下のう ち、 蜀を 本 貫とする 者は、 記 録によ っ て 確 認し 得 る 限りで も 三 十 七 名を 数える 。いま こ れを 府 別に 見ると、 州 府 六、 成 都 府 七、 潼 川 府 三、 順 慶 府 八、 重 慶 府 七、 瀘 州 府 二、 保 寧 府 一、 嘉 定 府 一というよう に、 蜀 地の 中 南、 東 部の 八 府に 及んで おり ( ) 、その 他の 地 域 が 五とな っている 。 この 破 山 下 第 二 世 代では、 以 下に 列 挙する 諸 師の 名が 著 れ、 化 盛を 謳われ ている。 これ につ いて 出 住の 地 寺 名 等の 一 部と 生 卒 年を 併せ 記して 参 考に 供するこ と とする 。 即ち、 忠 州 梁 山 黄 檗 象 崖 性 ( 一 五 九 九 - 一 六 五 一) 、 州 臥 龍 字 水 圓 ( 一 六〇 五 - 一 六 四 五) 、 體 宗 道 寧( 一 五 九 八 - 一 六 六 九) 、 忠 州 忠 州 江 百 丈 敏 樹 如 相( 一 六〇 三 - 一 六 七 二) 、 成 都 澎 県 白 鹿 澹 竹 行 密( 一 六〇 九 - 一 六 六 七) 、 平 越 草 堂 冰 曇 燕 居 德 申( 一 六 一〇 - 一 六 七 八) 、 成 都 昭 覺 丈 雪 通 醉( 一 六 一〇 - 一 六 九 三) 、 州 開 県 鶴 峯 蓮 月 道 正 ( 一 六 一 四 - 一 六 九 一) 、 貴 州 安 順 紫 竹 靈 隱 印 文( 一 六 二 五 - 一 六 六 七) 、 重 慶 江 龍 潭 慧 覺 照 衣( 一 六〇 五 - 一 六 七 三) 、 忠 州 梁 山 雙 桂 聖 可 德 玉( 一 六 二 八 - 一 六 八 三) 、 巴 州 龍 潭 中 峯 雲 幻 印 震( 一 六 二 三 - 一 六 六 九) 忠 州 梁 山 雙 桂 雲 印 水( 一 六 二 六 - 一 六 九 三) 等である 。 破 山 会 下の 師 僧 達は、 蜀 地の 内 部では 先に 挙げた 本 貫の 場 合とほ ぼ 同 様に、ただ 嘉 定 府を 除いた 七 府 内の 名 山 大 刹に 開 法し ている が 、 蜀 地 以 外では 鄂、 、 、 黔、 豫、 秦 等の 諸 省 に 広く 化 門を 開いており、その 第 三 世 代には さら に 分 枝の 茂 盛を 観て 叢 席 殷 昌し、 嗣 法 者の 数が、 二 七 八 名に 上る 程 の 一 大 勢 力を 形 成するに 至ったもの である 。 3 聚 雲 下 第 二 世の 問 法 修 道と 行 化 聚 雲は、その 家 法 厳 峻にして 室 中 人を 験して 擅りに 許さ なかったと さ れ て いる。 破 山が 多くの 法 嗣を 出し 著しく 宗 勢を 伸 張せしめたのとは 対 蹠 的に、 聚 雲 下では 法 嗣として 燈 録に 名を 留める 者は、 鐵 壁 機、 三 目 芝、 鐵 眉 麗の 三 師に 過ぎない。しかし 実 際には 他に 例えば、 三 目と 同 様に 「 源
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ 流 唱 和 歌」 を 付せられた 蔚 西 堂 ( ) 、 美 首 座、 平 都の 灼 然 法 子 ( ) 、 また 聚 雲から 「 慧 祖の 一 観 濃く 爾 らに 在り 」 と 将 来を 嘱 望され た 隱 首 座( 隱 然 法 子 ( ) ) 等は、 何れも 罷 参 底の 龍 象で あっ た。 当 時 湖 廣 参 知 政 事の 職に 在った 田 華 国が、いみじ くも 言 明している ように、 「 その 余に 師の 法を 得て、 或いは 遠く 山 林に 引き、 或いは 釣を 湖 海に 垂るゝ 者、 未だ 盡 悉す べからず ( ) 」 、 と い う の が 事 実であ った と す れば 、 聚 雲の 会 下 も、 その 人に 乏しくなかったことが 判るので あ り、それ ら は 朝 陽の 宗 風を 継ぐ 者である 、 とさ え い え る であ ろ う 。た だ 現 実 問 題としてこの 一 派は、 先にも 述べた 如く、 源 流に 拠る 所なしとしてその 法 統そのものが、 破 山およ び こ れ に 連がる 一 門によ っ て 否 定し 去られ た こ とが あり、 そ れが 聚 雲 下の 宗 師をして 積 極 的に 化 門を 張るのを 躊 躇させ、ある いはそこに 出 世 開 法を 牽 制する 力が 陰に 作 動する こ と に なったのではないか、と 考えられ る ので ある。 なおここに 付 言しておきたいの は 、 聚 雲の 参 学 者の 中で は 異 色の、 東 旭 禪 人につ い て で あ る。 東 旭は 沮( ) より 蜀に 入り、 峨 眉を 礼し、 南 濱を 過つて 吹 萬 眞 公に 聚 雲に 見え、 侍 坐の 間に 常に 南 北の 源につ い て 請 益した 。 聚 雲は 実に 拠っ て 頓 漸の 説に 答えた。 そ うした 経 緯から 聚 雲は、 初めて 東 旭が 北 宗の 法を 紹ぐ 度 門 誨 公の 後 裔たる を 知ったとい う。 因みに 誨 公とは 無 跡 正 誨( 一 五 四 五 - 一 六 二 八) のことで ある。 師は 荊 南 普 仰 寺に 蒼 谷 老 人 天 柱 満 秀( ? - 一 五 六 八) に 参じて 北 宗 禅を 学び、 天 柱から 法 派 偈に 似た 一 句を 口 授され た。 それ は 弘に 始まり 神 普と 承け、 自 遠に 終る 五 十 六 字で、 北 宗 各 代の 諸 師の 法 諱の 上 字を 連 結したもので ある。 正 誨は 天 柱の 寂 後 都 門に 入って 講 席に 登り、 慈 聖 太 后から 千 金を 賜い、 玉 泉 寺を 修し、また 度 門 寺の 大 通 禪 師 碑を 修 復したことで 知られ てい る ( ) 。 正 誨の 弟 子に 了 凡があ り、 北 宗 正 派を 承 継したと 伝えられ る 。 東 旭はこ れに 有 縁 の 者とみら れ 、 三 慧 庵 主であ った 。 東 旭はたまたま 聚 雲に 留 錫したに 過ぎない が 、 聚 雲はこ れに 偈 二 首、 法 語 等を 贈 り、 懇 切に 提 撕している。 当 時 北 宗は 後を 絶ったとみら れ ており、たといその 末 裔の 存 在が 一 部に 知られ ていたと し ても 教 界の 主 流から はず れた 位 置づけが な され るのは 必 定 で、 同 似の 境 遇の 下にあった 聚 雲 一 門に、 東 旭がある 種の 共 感を 抱いて 親 近するこ と にな ったの で はないか ( ) 、と 考え られ るので あ る。
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 鐵 壁 慧 機の 行 業 師の 伝 歴は、 明 續 藏 經 中の、 『 鐵 壁 慧 機 禪 師 語 録』 の 第 二 十 巻に 収めら れている 「 行 状」「 塔 銘」 等によ っ て あらま し を 知ることができ る が 、とくに 語 録に 付され た 萬 峰 至 善 編 述の 「 慶 忠 機 和 尚 年 譜」( 以 下 鐵 壁 年 譜と 略 記) は、 師の 面 目を 余すところなく 伝える 好 箇の 資 料と 考えら れ、その 内 容は、 近 代における 禅 修 行の 実 態を 知る 手 掛かり を 提 供す るものとみられ る から 煩を 嫌わず 委 細に 亘り 敍 述するこ と にしたい。 慧 機は、 蜀 北 順 慶 府 営 山 県の 人で、 俗 姓は 羅 氏、 代々 科 甲を 多く 出した 家 柄である 。 生 年は 明 末、 神 宗の 萬 暦 三 十 一 年で、 西 暦では 一 六〇 三 年に 当る。 生れて 衆と 異なる 瑞 相を 具えていたこと、また 幼 時 学ぶ や 師 訓を 仮らずして 文 義に 通 暁したことなどが 語り 伝えら れている 。 十 三 歳の 時、 兄の 無 著と 里 中の 大 蓬 山 靈 鷲 寺 ( ) に 遊び、 壮 麗 森 厳なる 境 致、 寺 僧の 威 儀 整 粛なる 状、また 内 に 有りし 一 僧の 形 儀 挺 異にして 語 論 鋒 発なるに 接して 感ず るところあり、 萬 暦 四 十 五 年 元 白 道 人の 下に 往 来し 雅 意も て 玄 学を 叩 問した。 翌 四 十 六 年には 兄 無 著と 共に 元 白を 訪 うている 。 師が 道 人に、 大 事 了ずべきや 否やを 問い 質した のに 対し、 道 人は、 自らも 未だ 親しく 了 達するに 至ってい ないとし、その 志がある な らば 済 下の 児 孫に 道をとうべき である 、 と 答えた。 元 白はこの 時、 終 南 山に 行き 面 壁 公 案 に 参ずる 意 向を 洩らし ている 。 十 七から 十 八 歳にか けて 、 師は 胸 中に 出 世の 大 事を 抱 懐しな がら 志を 遂げる こ と が で きず、 悶々と 日を 過ごしたようで あ る。 十 九 歳の 時、 一 梵 僧の 庭に 来 至するに 遇い、 共に 語って 啓 発され ると こ ろ が あり、 そ の 際、「 釋 迦 文 佛は 十 九 歳にして 踰 城され た と い う。 汝いま 正にその 時なり 」 と 出 家を 示 唆され 、 遂に 意を 決した。かくして 二 十 歳の 時、ひそかに 遁れて 山 行の 計を 図り、 大 竹 県に 至って 善 士 姚 君なる 者とめぐ り 会った。 姚 君は 師を 留め、 松 間に 一 室を 築 造した。 こ こにおいて 師は、 昼 夜を 分かた ず 跪 坐につとめ 、 苦 修 三 載、 疑 情 頓に 発し、 惑を 釈かんとて 出 関し 元 白を 訪うた が、 道 人はす でに 終 南 に 向かっ て 去っていた。 二 十 三 歳、 師は 魏 安の 小 院に 受 業 した 後、 東 下して 平 都の 地 蔵 院に 灼 然に 謁し、その 勧めに よって 聚 雲に 参ずることとな った。 因みに 灼 然は 聚 雲の 会 下に 首 座を 領した 旧 参である ( ) 。かくして 聚 雲の 指 示に 従っ
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ て 夏 満に 開 示を 求めようとしたが、これを 阻もうとす る 者 が あ ったという。たまたま 聚 雲の 丈 室を 出ずるに 会い。 跪 いて 法 要の 開 示を 求めた が、 雲 大 笑して 去る、と 記され て いる 。 未だ 機 熟せずとみられたので あ ろう。 天 啓 五 年、 師は 僧 湛 持なる 者と 共に 江を 渡り、 休 法 師の 楞 嚴、 圓 覺 等 講 経の 席に 列なり ( ) 、 暁 暢を 覚えたものの、 そ れは 己 分 上の 事とは 没 交 渉である と み な し 、 冊 子を 放 下す べきことを 自らに 言い 聞かせて 聴 講を 罷め、 聚 雲の 下へ 立 ち 帰った。 天 啓 六 年、 朝 陽 老 人が 陵に 来 至した。 師は 聚 雲に 侍して 舟を 遡らせて 往 見し、 衆に 従って 参 礼したが 、 この 時 老 人が 班 尾にあった 師を 認め、 将 来 徑 山の 道を 振 興 する 者は 師を 措いて 他にないことを 予 見し、 聚 雲に 対し 心 に 留めお く よ う 指 示した と 記され て い る。 二 十 六 歳の 時、 師は 朝 陽 老 人につい て 受 具し、 以 後さらに 仏 道に 精 励し、 工 夫につ とめ 、 漸く 大 夫 士 庶の 注 目する ところ と な っ た。 崇 禎 二 年、 聚 雲 老 人が 徑 山に 上ろうと し たこと が あり 、 その 際 四 衆によ っ て 遮 留され たと 伝えられ て いる。 理 由は 詳らかで な いが、 後に 法 孫 三 山 燈 來が 徑 山の 行を 企てた 時 にも、 結 局 志を 遂げ 得なかったという 経 緯がある と こ ろ か ら、 徑 山 在 住の 僧 衆の 中に、 聚 雲 一 門の 抬 頭を 牽 制し、 抑 止しようとす る 動きが あったのでは ないかと 考えられ る 。 しかし 聚 雲は 敢えて 意に 介せず、 舟を 雇い、 二 行 者を 伴っ て 挙を 遂げようと 試みた。 師が 潜かに 行かんとす るのを 聞 き 及んで、 御 史 田 鍾 衡は、 使を 瞿 塘に 遣わし、 迎え 帰らし めたとい う ( ) 。 崇 禎 四 年には 無 心 大 師が 江 浙より 帰り、 聚 雲に 重ねて 本 寺に 開 法され ん こ と を 請うた。この 時 鐵 壁は 第 二 座に 陛せ られ てい る。 ここにいう 本 寺は、 聚 雲を 指すとみられ る 。 同 年、 師は 人 跡 稀な 忠 南の 菊 隱 庵 ( ) を 養 道の 所とし、 聚 雲の 許しを 得て 止 住した。 檀 信 雲 臻し、 学 侶 麕 至したと 伝えら れている 。 翌 崇 禎 五 年、 師は 己 事 未 透の 故を 以て 再び 聚 雲 に 浯 江に 参じている。 師は 常に 室 中に 到って 咨 決するこ と 曰に 三、 四 回に 及んだ が、 印 証され る に は 至らなかった。 聚 雲はい う、 「 わが この 禅は、 一 団の 大 火 聚の 如きも の で あ る。 汝が 近づかんとすれ ば 連 皮 骨 一 斉に 焼き 爛れる こ と に なる。 汝すべからく 此の 処に 到るべきで ある。 大 死 幾 回か して 根を 和し、 倒 断するこ と 一 下にして 初めて 得られ るで あろう 」 と、このように 師を 叱 咤 激 励し、 九 夏を 以て 限と
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) すべきで あると 命じたので ある。これよ り 師は、 昼 夜を 分 かたず 坐を 行じ、 仏 前に 跪 参をなし、 蚊 蚋の 血を 吮り、 寒 暑の 膚を 侵すあるも 顧みることなく、 息ある 死 人の 如くな り 果てたという。 崇 禎 六 年、 聚 雲が 金 陵へ 出 向くことあり ( ) 、 師はこ れに 随 行したが 緘 黙して 語なく、ただひたすら 体 究につ とめ 、 他 事にかかずらわなかっ た ものの、 悟 入には 至らなかった。 そこで 師は、 しばらく 聚 雲の 許を 辞して 天 童 ( ) に 参ぜんと、 偈を 呈してその 志を 述べた。 こ れに 対して 聚 雲は、 「 汝ひと たびここを 去らば、わが 宗 旨の 負に 構わるこ と はなくなる であ ろ う 。こ れま で 数 年の 間 辛 苦を 重ねきたの であるから、 我と 共に 蜀へ 帰るにしくは な い。 汝をして 懺 毫だに 費さし めずして 、 自 然に 脱 去せしめん 」 と 訓した。かくて 師はそ の 命に 従い 蜀へと 帰った。 聚 雲は 簽して 師に 院 事を 統 括せ しめ た。 鐵 壁にしてみ れば、 何より 己 事 究 明を 優 先したい とて 気の 逸る 折から、そ れは 転た 一 番の 労 騒を 添えること と 感じられ た ようで あ る。しかし 去らん にも 言うべき 辞な きに 苦しみ、 一 旦 職を 受けたからに は 、 全 身を 放 下して 常 住の 事 務を 処 理せん と 私かに 意を 決した。 それ よ り 七 日を 経た 臘 月 八 日、 衆と 共に 念 誦をし 畢って 監 院 寮に 帰り、ま さ に 禅 に 登らん とした 時、 忽 然として 一 、 覚えず 渾 身 骨 碎の 境 地に 至り、 大 笑 止まらず、 偈を 拈じて 聚 雲に 呈したが、 印 可され ることは なかっ た 。 崇 禎 七 年の 一 年 間、 師は 監 院 寮にあって 専ら 院 事を 理し、 兼ね て 体 究にも つとめたの で 、 多 少の 所 得はあ ったも の の 、 玄 要 宗 旨につ い て は 、 な お 通 徹し 得ぬところありと、 自らも 感じとっ て いたようで あ る。 思うにこの 三 十 一 歳から 三 十 三 歳にかけての 凡そ 三 年が、 師の 学 道 上の 苦 悶が 絶 頂に 達 した 時 期であ った とい って よい 。 祖 関 透 徹する を 得ず、 胸 次 未だ 灑 然たる 能わず、 百 計 万 方を 以てするも 如 何とも す るな く、 た だ 一 味 壁 立 万 仭、 湊 泊の 処なき 状 況に 立ち 至った 。 翌 禎 八 年には 、 万 計 窮まり 力 尽きて 起 手のすべなき 有 様 であ った 。 一 日 静 坐の 間に 忽 然として 大 徹し、 微 細に 従 上 来の 諸 事を 理し、 臨 濟の 玄 要、 洞 上 五 位、 雲 門 三 句 等 五 宗 の 祖 意 敬 意に 通 達し、まさに 庖 丁もて 解 牛をなすの 勢いで あっ たと いう 。かく て 入 室し 所 悟を 通ずるに、 聚 雲は 古 今 の 訛 因 縁 等を 挙して 師に 問うた。 師は 問いに 随って 之に 答え、 何れも 雲 公の 点 首する ところ と なり 、 遂に 首 座に 挙
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ げら れた ( ) 。 聚 雲は 上 堂して 大 衆に、 未 了の 公 案あらば 第 一 座を 借りて 共に 商 量せよ 、と 普 告し、 慧 機に 命じて 分 坐 秉 払せしめたので あった。 九 年( 一 六 三 六) 師は 聚 雲の 許を 辞して 菊 隱に 帰り、し ばらく 退 隠せん と し たが 、 聚 雲ならびに 田 公の 勧 説によ っ て 首 座 寮に 入って 聚 雲の 化を 扶けるこ と とな っ た 。 一 日、 普 説の 際に 聚 雲の 問いに 進 語し、 雲 公をして 徑 山の 血 脈な お 吾に 在るが 如し、と 喜 悦せしめたと 伝えられ て いる。 崇 禎 十 年、 師は 聚 雲 下の 首 座 寮に 在って 秉 払をなし、こ れに よって 一 衆 観を 改める に 至り、 隱 首 座 ( ) の 声 名は 人 口に 嘖 嘖たる も の が あ っ た 。 翌 十 一 年には 興 隆 寺 ( ) の 首 座 寮に 在っ て 衆を 化 導した。 崇 禎 十 二 年、 密 雲 圓 悟とその 嗣 三 峰 法 蔵との 間に 宗 義を 廻って の 論 争があり、 これ は 師を 概 歎せし めた 痛 恨 事であ っ た。その 年 七 月 三 十 日 聚 雲 老 人が 遷 化され た。よ っ て 郡の 縉 紳 四 衆 等は、 本 寺に 就いて 開 堂され ん こ と を 師に 請うた。 師は 一 旦 請に 応じたが 、 墓 側に 廬して 守 塔 三 年、 山 間 林 下 に 聖 胎を 保 養し、 時を 俟って 化を 行ずることを 希 望し、 衆 に 告した。かくて 塔 傍に 結 廬したが 請 益する 者 多く、 虚 日 なき 有 様であ った 。 聚 雲 下 久 参の 士 雙 松を 誘 掖して、 契 悟 するに 至らしめ、 西 堂に 陞せたのは この 時であ った 。 崇 禎 十 四 年、 陵の 巨 商 冉 開 明なる 者が、 平 都 山 下 ( ) に 地 蔵 院を 建 立し、 師に 住 持たらんことを 請うた ( ) が、 三 年 廬 塔 を 決 意したからとてこれを 辞した。しかし 開 明は、 聚 雲の 舎 利を 迎えて 院 後に 建 塔し、 師が 志を 遂げ 得るよ う 便 宜を 計った。よっても は や 辞すべき も なしとて 請に 応じて 入 院 した。けだし 平 都は 蜀における 名 勝 地の 一であ り 、 院は 荘 厳 妙 麗にして 蜀 東に 甲たるものといわ れ た ( ) 。 衲 子は 接 踵し て 来 山し、 名 衲にして 秘かに 至り 参ずる 者も 少なくなかっ たようで 、 英 傑は 優に 千 五 百 人を 数え、 公 卿の 問 道 求 法す る 者、また 一、 二 数にて 収まらず、 熊 湛 部 自 福、 劉 憲 副 虔 所、 沈 省 元 等は 中において 最も 著われ た 部 類であ った 。こ のう ち 自 福は 師の 言 下に 開 悟し、 法 嗣の 列に 加えら れ て いる ( ) 。 院 中の 規 縄は 肅せずして 自ら 整い、 法 令は 約せずし ておのずから 厳なりき、と 記され て い る。 崇 禎 十 五 年、 相 国 陳 公の 夫 人が 師に 帰 依 問 道し、また 石 の 宣 慰 秦 良 玉( 一 五 八 四 - 一 六 四 八) は ( ) 、その 孫 馬 萬 年 が 職を 嗣ぐこ とにな っ たの でこ れを 祝 祷し、 壽 山、 古 雲 二
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 座を 遣わし、 銀 両を 寄せて 僧に 飯せしめ、 法 語を 求めた。 ここに 師の 法 道 一 時に 旺んとな っ た が 、 魔 難も 起こり 秘か に 悪 事を 作すことがあ っ た。この 年、 師は 石 楼 昱に 付 嘱し て 成 都へ 帰らしめた。 峨 眉に 掩 関していた 眉 山 甫 公は、 楼・ 喜 二 禪 人が 齎らした 平 山 録を 閲して 頓に 頴 脱を 得、 都に 来たり 参じたので あっ た。 崇 禎 十 六 年、 師は 司 理 陳 蝶 庵、 州 ( ) の 紳 文 孺 白 等の 請 に 応じ、 陵 芙 蓉 溪 吟 翁 寺に 入 院し 上 堂した。 こ れよ り 先、 文 孺 白は 師を 三 請したので ある が、 師が 肯んじ て 起とうと はしな か ったた め 、 陳 公と 語らっ て 改めて 入 山を 請い、 意 を 遂げたとい う 次 第である 。 師の 門 人 熊 月 崖は、 先に 荊 州の 惠 国 主と 議して 荊 城の 護 国 寺に 師を 迎えん と し 、 疏すで に 就くに 至った が、 偶々 寇に 遭い、 秦 良 玉に 迎えられ て 石 に 入り、 太 平 寨を 過り、 茂 宇 蘇に 請われて 吉 祥 菴に 入ること に な っ たので あ る が 、 間もなく 良 玉が 白 牛の 石 峰 寺に 師を 迎えた。 順 治 元 年のこ とで ある。 こ こにおいて 黄 近 來、 呉 天 谷、 寥 維 義、 瞿 不 荒、 田 素 庵、 江 海 籌 等 諸 太 夫の 参 問に 応えたので ある。 時まさ に 争 乱の 頻 発するに 際 会す( ) 。 中において 良 玉の 軍 威は 大い に 振るい、 南 濱のみ は 安 全 地 帯と 目され た か ら、 諸 当 事の 多くが ここに 至り 寓した。よって 兼ねて 鐵 壁の 化に 浴する 機 会にも 恵まれ たので あ っ た 。かくて 師の 道 誉は 愈々 高ま り、 それ に 伴って 師に 対する 良 玉の 外 護も 益々 厚きを 加え た。 曾つての 檀 那にして 師に 倚って 活きる 者は 無 算といい、 座 下は 実に 数 千 指に 近かったと 記され て い る。 順 治 四 年には 寶 峰の 三 巴 掌が 清 泉より 来 至した。 年 譜に は、 弟 兄あい 共に 甚だ 懽ぶ、とあって、その 時の 問 話 応 酬 が 録され て い る。 十 月、 秦 府の 中 軍 桂 森なる 者が 石 寶に 龍 蔵を 開き、 師に 陞 座を 請うている 。そしてこの 年の 暮に 別 駕 田 素 庵が 師を 訪うた。 素 庵は 聚 雲と 親 交があ った 侍 御 田 鍾 衡の 嗣 子であ り 、 三 代に 亘り 布 金 最も 厚しといわれ た こ の 一 門の 篤 信の 居 士であ った 。 鐵 壁は、この ように 多くの 有 力な 檀 越に 恵まれ たから、 打ち 続く 動 乱のさ 中にも 日 用 に 事 欠くことなく、 化を 揚げ る ことができたので ある。 順 治 五 年には 、 郡の 司 馬 江、 陵の 文 学 除 公 等が 相い 継いで その 子を 送って 受 業せしめている。 至 善、 幻 敏がそ れで あり、 共に 聚 雲 法 門を 荷 担し 盛 大ならしめ る 上に 与っ て 力があ った。ただそ れは 後 年の 事に 属する 。この 夏、 師
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ は 太 保 公に 末 後の 大 事につ い て 示 教し、 八 月には 桂 森に 請 われ て 大 方 禪 院に 無 遮 大 会を 設け、 水 陸の 道 場を 啓 建した。 九 月、 首 座 眉 山に 秉 払せし め 自らは 石 峰 院に 退き、 十 月、 青 山の 聖 仏に 遷り、 冬 期 安 居の 会を 結んだ 。 禅 侶が 四 集し 衆 五 百に 至る、と 見えている。 三 山 燈 來が 再 参したのは こ の 時である ( ) 。 順 治 六 年、 師は 三 年の 限を 立てて 青 山に 禁 足した。 相 国 東 山 居 士が 書を 致して 一 面の 示 教を 求め 来り、 使 三 度 往 返 したが 終に 就くことはなかった ( ) 。 順 治 八 年、 師は 石 の 宣 慰 馬 崇 山の 請いに 応じて 三 敎 寺 に 開 堂した。この 頃 破 山が 難を 避けて 来 山したことは 先に 述べた 如くで ある。 順 治 九 年、 長 溪 靈 ( ) 峰 山 雲 集 寺に 出 住、ここ で 三 山に 付 法 し 上 堂した。 五 月、 馬 公は 使を 遣わして 来 迎、 七 月 夏を 解 き、 八 月 靈 峰から 退き 九 月に 南 濱へ 赴いたが、 十 月 再び 三 敎に 入った。 折しも 烽 煙 切りに 緊を 告ぐる の 状 況に 立ち 至 り、 中 臺 寺へ 退 居した。 師は 南 濱に 在りし 日々を 想 念するこ と 久しく、 乱に 遭 遇 した 故 旧の 安 否も 気 遣われたので 、 故 居へ 帰ろうと 思い 立っ た。 順 治 十 年のことで ある。まず 聚 雲 塔を 掃わんとして 道 を 靈 峰にと り、 楠 木 嶺を 越えた。 師の 門 人 達はあ ら か じ め 師の 逸 老の 所として 忠 州 南 岸の 地を 卜し 慶 忠 院を 建 立して いたので あったが、 總 戎 袁 聯 宇は 師の 入 境を 耳にし、 書を 致して 面 謁を 求めたの で 、 師は 江を 渡って 玉 山の 竹 菴 精 舎 に 館したので ある。 袁 公は 一 見して 師に 傾 倒し、 崇 聖 院に 説 法を 乞い、 玉 山の 麓に 几 雲 菴 ( ) を 立てて 寅 夕 問 道した。 長 陽 侯 胡 瑞 吾も 師を 府 第に 迎え、 府 内の 鎮 将 塔と 帰 依 問 道し、 他に 大 司 島 張 公、 小 司 馬 毛 公、 学 憲 楊 公、 大 守 呉 公 等が、 おのおの 書を 寄せて 開 示を 求めたの で 、 師は 逐 一これ に 応 えた。 順 治 十 一 年、 先 年 梓 行され た 『 聚 雲 廣 録』 が 兵 火に 罹っ てその 過 半を 失うに 至ったた め 、 師は 工に 命じて 重 刊せし めた ( ) 。この 年、 寶 善 居 士の 依 嘱によ り、 三 山を 崇 聖に 主た らしめ、 自らは 給 侍 等 二 十 余 人を 率い、 江を 渡って 慶 忠 院 へ 赴いた。 皖 国 劉 公、ならびに 総 戎 張 公 等は、 官を 遣わし て 僧に 飯し、 且つ 性 遠、 性 山、 性 海を 送って 給 侍たらしめ た。 四 月には 汾 陽 啓に 付 法し、 山 嵒に 止まった。 順 治 十 二 年 喬 松 億 ( ) 、 埜 雲 映 ( ) に 付 法、この 年『 慶 忠 集』 二
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 巻が 成った。 解 元 李 井 仙、 中 書 舎 人 楊 楚、 陳 兵 道、 程 民 部 曹 門、 曠 方 伯 譚 邑 等からの 問 道の 書に 答えるなど、 道 俗 化 導の 業も 漸く 繁 忙の 度を 加えつ つ あ っ た 。 十 月、 江を 渡っ て 玉 山を 過り、 總 戎 寶 善 居 士に 遮 留され たが 、 そ の 冬 牛 首 山に 登り、 道に 塗 井を 経、 副 戎 王 用 庭の 問 道に 答えた。 用 庭は 幾ばくもな く な く 旨を 領じて 印 記を 受け、 号を 一 喝、 諱を 燈 供といい、 嗣 法 門 人の 列に 連なることとな った。 順 治 十 三 年、 總 戎 陳 貴 榮、 副 戎 郎 初 開、 都 寺 三 空 杲 等の 請に 応じて 梁 邑の 方 斗 山 棲 賢 寺 ( ) に 住した。 一 時の 龍 象 蝟 集 し、その 数 六 千 余 指、 殿 堂 湫 隘にして 容るる 所なき 有 様で あっ たと いう 。 四 月、 仁 壽 侯 潭 養 玄、 大 中 丞 楊 守 知、 少 司 馬 胡 際 亨、 監 紀 陳 嵩 愷 等が 幣を 致し、 使を 遣わし、 書を 持 せしめて 問 法し、 冬 夏の 結 制には 朝 暮に 参 請をなしたの で ある。 戊 子 斗、 青 山に 在 住せし 時 以 来、その 法 席の 盛んな ること 未 曾 有と 評され て い る。 翌 十 四 年、 師は 棲 賢に 止まっ て 専ら 接 化につ とめ た。 四 月、 長 楊 侯の 夫 人 蒋 氏が、 就いて 比 丘 尼 戒を 受け、 燈 鑑、 妙 德の 号を 授けら れた。こ れより 先、 妙 德 尼は 桐 柏 山に 閉 関して 省 発を 得、 所 解を 呈した。 師は 本 色の 鉗 錘を 以てこ れを 策 励した。かくて 尼は 深く 堂 奥に 入り、 印 記を 蒙り 秉 具するに 至ったの で あ っ た。この 間 師は、 道 俗の 問 道に 答 える 傍ら、 初 祖 影 賛 六 章、 咏 古 風・ 山 居 各 十 二 章、 松 竹・ 梅 柏 各 十 二 章、 爆 竹 頌 几 雲 雑 頌 七 百 二 章、 勝 熱 吟、 念 仏 歌、 参 禅 歌、 経 行 歌など 多くの 歌 頌を 造り 題 咏を 成じた。 順 治 十 五 年、 師は 太 平の 席を 退いて 福 城に 赴いた ( ) 。そ れ を 知って 衡 山 炳は 門 人を 率いて 来り 謁し、 師を 遮 留したが、 幾ばくもなく 牛 首 山 雲 巖 寺の 監 寺、 四 惟、 埜 野 二 公が、 王 用 庭、 傅 淨 美 等と 共に、 山 中に 結 夏せん ことを 請うた。 よ っ て 師は 雲 巖 寺に 行き 上 堂、この 時 眉 山 甫 公が 山 頭に 詣り 省 覲し、 請われ て 座 元 寮に 入って 首 座 位を 領じた。 衆これ を 耳にして 股 栗せざるは なく、 諸 方の 尊 宿は 挙ってこ れ を 畏 敬した、 と 伝えられ て いる。 九 月、 江を 渡って 慶 忠に 之き、 十 月には 玉 山に 返り、 崇 聖を 過るに、 旧 護 法の 旧 護 法 紳に 留 休せられた。 十 二 月、 大 軍 南 下し、 舳 艫 尾を 啣み、 千 艘 相い 貫くの 状を 呈した。これ に ついては 先に 少しく 触れた 如くで ある。 順 治 十 六 年、 川 東 一 帯に 舟 師が 上 下し、 水 陸ともに 騒 然 たる 状 況にあった。 五 雲の 三 山 燈 來が 執 事を 遣して 迎えた
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ ので 、 こ れ に 応じ 高 梁を 過り、 輿に 乗じて 五 雲に 向かった。 従う 者 数 百 人、 一 行は 難 渋の 末 数 日にして 梁 地に 到 達し 得 た。 三 山は 衆を 率いて 師の 到 来を 歓 迎した。かくて 禅 衲 漸 くここに 輻 輳し、 荒 乱の 時にあってなお 五 千 指を 数えたと いう。 總 戎 姚 聖 瑞、 邑 令 曾 舜 聘 等はこ れを 伝え 聞き、 師と その 門 人 達のため に 供 米 数 百 斛を 致した。 三 月、 三 山は 執 事を 率い、 師に 侍して 金 城に 赴くに、 諸 当 事 士 庶 当は 争っ て 伊 蒲を 設け 師に 供 養した。この 頃 破 山もまた 金 城に 在っ( ) たが 、 師の 到 来を 知り、 一 見して 与に 懽 擇を 分ったとさ れ る。 両 派の 間に 和 解の 気 運が 開かれつつ あっ たことが 知ら れる 。 五 月、 師は 五 雲へ 引 返し、ここにおいて 頌 古 三 百 余 篇を 著した。 七 月、 中 軍 王 含 輝は、 高 峰の 衙 署に 宅を 捨て て 寺となし、 師に 居 留され ん こ と を 請うた。よって 八 月こ れに 進 院した。 座 下の 参 徒が、 耳 順に 近い 師の 為に 逸 老の 所を 七 斗 峰 下に 創せん と 図った が、 師は 肯んじ な か った 。 順 治 十 七 年、 師は 山 下に 数 百 頃の 土 地を 開 墾して 衆 僧の 食 用に 備えしめた。 六 月、 妙 德 禪 人から 請を 受けたがこ れ を 辞し、 八 月には 川 東 雲 安 向 侯が 師を 迎えん と し たが 、 疾 と 称して 起とうとはしなかった。しかし 再 三に 及ぶ、そし て 彼 此 術を 尽くしての 侯の 招 請に、 止むを 得ず 一 旦これ に 応じたが 、 十 月には 退 院し、 忠 南の 界を 経て 月 余にして 忠 郡に 達した。そして 当 事の 請に 応じて 護 法 院に 説 法し、 聚 雲の 塔を 掃い、 曹 溪において 袁 寶 善の 至るに 会し、 旧 化の 地たる 玉 山の 崇 聖 ( ) に 入った。 順 治 十 八 年、 向 化 侯が 官を 遣 わし、 舟を 具えて 迎 請したので、 師は 磐 城に 入った。 侯は 叛 乱に 斃れた 多くの 犠 牲 者の 供 養の 為、 水 陸 薦 悼の 会を 建 てるのを 望んだの で あ っ た が 、 弘 法を 優 先したいとの 師の 意 向に 副って 、 錦 江の 南、 南 濱 ( ) 寶 勝 禪 寺を 弘 揚の 地となし、 龍 蔵を 開き 千 日の 禅 期を 立てることとな った。この 年 世 祖 が 卒し、 玄 燁が 登 極して 康 煕と 改 元され た。 康 煕 元 年に 童 眞 至 善が 法を 付せられ て いる。これよ り 遡 ること 二 年、 師は 善 公を 印 証せん と し たが 、な お 年 少であ っ た 為、 他との 均 衡も 考 慮して、 暫く 時を 俟つこ とに し た よ うで ある。 童 眞に 次いでその 同 学 竺 峰 敏にも 偈を 付して 、 大 法を 荷 担し 祖 宗を 紹 承し、 家 業を 料 理せん ことを 依 嘱し た。 康 煕 二 年、 雲 南の 圈 司を 罷め、 綬を 解いて 田 士に 帰して いた 陵の 文 葦 庵が 南 城の 山 寺に 師を 訪い、 暇 日には 相 共
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) に 行 録の 纂 修に 当り、また 時には 室 中に 入って 請 益した。 幾ばくもなく 公は、 師を 辞して 陵へ 帰った が、 一 日 跏 趺 端 坐し、 自 若として 世を 去った。 四 月、 一 門 人が 聚 雲 祖 塔 燬 損の 状を 訴え 来ったの で 、 師は 自ら 衣 鉢を 捐て、 玉 山に 赴き、 曾つての 聚 雲の 会 下にあった 諸 子にその 事を 伝えた ところ、 日ならずして 施 物 笥に 盈 溢した。そこで 師は 司 事 に 付してこ れ を 鼎 新せしめた。またこの 年には 、 九 峰 般 若 燈 譜を 初めとし、 廻 龍 普 門 燈 顯、 慶 忠 燈 向、 東 明 惺 徹 燈 法、 天 元 體 如 燈 慧 等に 付 法している。 康 煕 三 年、 法 眷の 善 化 一が 閏 州 椒 山の 海 雲 寺より 、 洞 宗 弘 鑑 和 尚の 法 子 天 則 禪 師 上 侯の 詩を 齎らしたことが 録され ている ( ) 。 四 月、 法 語を 為り、 童 眞 善 公に 書 状を 送って 江 南 へ 赴かしめた。 鐵 壁の 童 眞にかけ る 期 待は 大きく、 法 愛も また 格 別 深かったとみられ る 。 童 眞は、 嗣 法の 後も 師の 膝 下に 書 状の 職を 領し、 奉 事して 生を 終えん こと を 望んだ が、 鐵 壁は、 奉 事するの 節は 小なるも、 弘 揚の 任は 大なりと 訓 して 去らしめようとしたので ある。 因みに 鐵 壁 自 身も 徑 山 に 上り 掃 塔する 志を 遂に 果たす こ と が で き な か っ たか ら 、 一 縷の 望みを 童 眞に 托し、 く 諸 方に 謁し、 集 大 成を 期す べし、と 宗 派の 将 来をこ れに 嘱したので あった。 康 煕 五 年、 向 化 侯 譚 養 玄、 總 戎 任 履 素、 郡 牧 肇 孔を 始め 諸 紳が、 師に 古 刹 治 平 寺 ( ) の 重 建を 請うた。よって 師は 工 を 起さしめ 茆 舎 数 十、 重 閣 七 楹、 大 雄 殿、 天 王 殿、 左 右 両 翼の 諸 楼、 腹 屋、 雲 寮 塔、 お よ そ 叢 林に 欠ける ところ を 補っ てこ れを 整 備した。 康 煕 六 年、この 年 舟を 門に 放ち、 大 守 熊 拙 溪、 重 の 程 總 戎を 訪 問し、 次いで 棹を 磐 江に 返し 曇 華に 三 山 來、ま た 慈 祥 遠の 法 席を 視 察し、 その 冬、 衆に 請われ て 陞 座した。 康 煕 七 年 鐵 壁は、 眉 山 甫、 高 峰 億 等に 命じて 信 衣 手 書を 持して 楚に 入らしめ、 童 眞 善にこれを 寄 託せしめた。その 書 信 中には 、「 老 僧の 上 座にある や 、 魚の 水あり、 鳥の 翼あ るが 如く 云々 」 の 語が 見える。よって 以て 両 者の 親 密 不 離 の 関わり を 窺うこ と が できよう。 師の 会 下に 多くの 嗣 法 者 がある 中で、 真に 衣 鉢を 継ぐに 足る 者は、 善 公を 措いて 他 に は ないことを、 内 外に 告 知しようとした ものと 思われ る。 童 眞は 生 来 謙 譲な 性 格の 持 主で あ ったらしく、また 鐵 壁 門 下では 一 世を 隔てる 程 年 歯の 少い 部 類に 属したから、 上 﨟 の 者には 一 歩を 譲り、とくに 三 山には 師 礼を 以て 対したと
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ 伝えられ、また 決して 師の 寵を 恃むこ と は な か った。 鐵 壁はこの 時 分に 至って 、 自らの 命 数が 幾 何もないこと を 予 知していたもののようで、 衡、 眉、 喬 三 上 座に 対して は、 先に 師に 代って 屡々 衆を 領し 化 導に 当った 労を 犒い、 夫々に 法 衣 一 襲を 寄せている。 八 月 中、 師は 偶々 微 恙を 示 された。しかし 坐するこ と 多くして 睡 少なく、 時に 六 度を 譚じ、 精 進を 尚び、 あ る いは 指 掌を 竪てて 禅 機を 弄する 、 などの 事があ った 。 九 月 十 一 日、 遠 方に 在って 化を 樹てる 者を 除き、 近 在の 寺 庵に 在る 者を 悉く 呼び 集め、 「 老 僧に 三 事あり、 三 山の 来るを 待つべし 」 と 告げら れた 。し かし 三 山の 来 到が 遅れた の で 、 衆 僧が 代って 請 問せん と し たが 、 師は 口を 閉して 敢えて 語ろうとは しなかっ た。 三 山がす で に 南 下したとの 報に、 嗟 嘆これ を 久しうし、 遂に 偈を 書し、 向 化 侯、 郡 守 劉 公に 別れを 告げ、 また 門 人に 対して は、 「 汝 等 程 式に 違うこ と 勿れ、 謹んで 遺 規を 守れ、 即ちこれ 報 徳 なり 」 と 説き、また 「 われ 去りて 後、 麻 效を 披し、 俗 例に 彷うこ とを 得ず 云々 」 と 戒 飭し、 精 進に 力むべしと 訓され 、 安 坐して 化を 遷した。 火 浴の 後 門 人 達は、 遺 命に 基づいて 高 峰 ( ) と 治 平との 両 処に 建 塔し、 且つ 舎 利の 一 分を 聚 雲 塔の 傍らに 収め、 昔 年の 盧 墓の 願いを 遂げし めんとしたの であ る。 師の 主 法は 三 十 二 年に 及んだ が、その 間、 度 門の 弟 子は 実に 一 百 七 十 余 人を 数え、 嗣 法の 門 人は、 石 樓 昱 等 二 十 二 名 ( ) 、 公 侯 郡 文 武の 士 大 夫にしてその 門に 登る 者 一 百 十 余 人、 得 法の 居 士 五 人、 問 道するも 未だ 記 を 受けるに 至っ てない 者 二 十 一 人を 数える が、これらは 何れも 官 界に 重き をなした 要 人 達であ った 。 仏 法の 衰 萎が 頻りに 話 題とな っ た 当 時にあって、 破 山の 一 流と 共に、 師の 門 庭は 殷 賑し 盛 大であ ったこ と が 知られ る。 三 目 ( ) 慧 芝とその 門 下 師は 忠 州の 劉 氏に 出で、 東 明 寺 ( ) に 落 髪してのち 聚 雲に 参 じた。 聚 雲は、 師に 接するに 本 色の 鉗 鎚を 以てしたと 伝え られ る。 その 会 下に 在って 力 究するこ と 数 年、 能く 心 要を 明らめ 得て 院 事を 総べ、 次いで 西 堂の 職に 充てら れ、 「 源 流 唱 和 歌」 を 付せられた。それは 銕 牛 德 遠が 朝 陽に 示した 一 派の 源 流 頌に、 聚 雲が 和して 称 道した 唱 歌で、 頌と 共に 付 法の 証として 与えられ た もののようで ある ( ) 。そ れに は、 瞿 曇 薪 火を 伝え、 西 天の 諸 祖 逓 伝して 達 磨に 至り、 東 土 六 代
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) を 経て 南 嶽から 大 慧、さらに 朝 陽に 連がる 聯 燈の 祖 師によ る 禅 法 流 伝の 次 第、 諸 祖の 禅 旨が 頌 述され て お り、 大 慧の 忌 日に 当り、 供 養の 具とせ んとしたもの であ った。 師は 得 法の 後、 聚 雲、 巴 臺 ( ) に 出 住し、 晩 年に 萬 松の 法 席 を 董しており、 併せて 六 座 道 場に 化を 揚げ、 語 録 八 巻が 梓 行され たと い い 、 上 堂の 語は 『 續 燈 正 統』 に 一 部 抄 録され ている が 、 語 録は 伝わらない。 従って 生 卒 年、 伝 歴 等を 詳 らかにしないが、 同 門の 兄 鐵 壁は、 康 煕 五 年に 三 目の 墓 塔 を 掃った ( ) 事が 記 録に 見えるから、これよ り 少し 以 前に 化を 遷したものと 推 測され る。 師の 法を 嗣ぐ 者に、 雲 巖 古、 覺 樹 世、 岫 巖 燎 三 師の 名が 伝えられ て いる ( ) 。その う ち 雲 巖は 萬 松に 師 席を 襲い 化を 開 いたが、 平 生 身を 律するこ と 厳にして、その 説く 所 人の 記 録する を 許さなかったという。 覺 樹 世は 三 目に 侍して 源 底 に 徹し、 印 心してより 後、 浯 江に 跡を 混するもの 十 有 六 年、 康 煕 五 年に 慶 忠に 錫を 移し、 次いで 聚 雲に 主とな ったこと が 知られ る。 岫 巖に 至って は、 僅かに 上 堂の 語の 一 部が 伝 えられ る のみで あ る。 如 上の 動 向から、この 一 流には 表 儀 とすべき 人 師に 乏しく、 門 廡 傾 頽の 兆しが 認めら れるこ と は 否み 得ない。 概して 隱 跡 晦の 傾 向が 強いの は、 朝 陽を 範としたもので あろうか。 鐵 眉 慧 麗とその 禅 風 師の 諱は 慧 機、 号を 鐵 眉 ( ) 、また 三 巴 掌の 別 号で 知られ て いる 。 北 直 眞 定 府 趙 州 栢 郷 県の 人で 俗 姓は 李 氏である 。 中 歳 天 台 無 盡 禪 師につ い て 披 剃した。 無 盡の 伝 歴は 明らかで はな い が 、 頭 陀を 行じた 人のよ うで 、 師はこ れに 従って 山 間を 錬 磨するこ と 十 六 年に 及んだ とい う。この ように 長 年 に 亘って 閙を 遠 離し、 形 心の 清 浄を 志 楽して 抖 の 行 修 につ とめ た こ とが 、 道 力 化 功を 一 層 高める こ と となり 、 や がて 能 祖のごとく 一 字 不 識を 標 榜し、 直 捷なる 接 人の 機 用 を 発 揮した。そ れが 趙 州 万 里 外の 弟 子として、 聚 雲に 器 重 され ること に 連がる こ と に な った ( ) ので あろう 。 崇 禎 六 年、 衆を 率いて 川の 峨 眉に 来って 衆に 飯し、 門 に 転じた。 前 述の 如くたまたま 兵 乱に 遭い、その 徒 悉く 害 せられ た が 師のみ は 辛うじ て 難を 免れて 忠 州に 帰るを 得た。 そこで 郡 牧 馬 少 遊にめぐ り 会い、 馬 公の 紹 介で 吹 萬 眞 公に 謁し、 その 会 下に 投ずることにな った。 吹 萬は、 「 わが 家 人 来れり 」 といい 歓 迎した、と 伝えられ る 。 師は 自ら 願い 出
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ て 儷 掃の 事に 任じたと さ れ て いる。 当 時 聚 雲の 門 下では 鐵 壁が 首 席を 領じ 衆を 督 励していた。 師は、 十 有 余 歳も 年 少 なが ら 気 鋭の 首 座 鐵 壁 慧 機の 指 示に 従って 入 室し、 まず 「 萬 法 歸 一」 の 公 案を 授けら れて 話 頭に 参ずることとなり、 苦 修するこ と 数 年 ( ) 、 漸くにして 入 所あり、 聚 雲の 上 堂する を 俟って 問 答 商 量し、 工 夫に 一 段の 進 境を 示したものの、そ の 後さらに 決 死の 覚 悟を 以て 間 断なく 参 究に 励み、 遂に 省 悟の 体 験に 至り 得て 鐵 壁の 点 検を 受け、この 時 初めて 三 巴 掌を 自 称した。そ れは 師が 聚 雲に 開 示を 蒙って 以 来、 専ら 撫 掌 三 下に 参じ、 これ を 究め 得た 自 信のほどを 示すものと いえる 。 次に 三 巴 掌の 禅 風に つ いてで あ る が 、 聚 雲も 曾つて 学 人 を 接する 際、し ば し ば 撫 掌 三 下 ( ) の 法を 以てしたことが あり、 門 人の 中には これ に 倣う 者もあったようで あ る。 巴 掌はこ れを 聚 雲から 取 得して 自 家 薬 籠 中のものとなし、 古 人の 棒・ 喝・ 一 指 頭の 機 関に 比 肩し 得る 接 化の 手 段として 完 成せし めた。そしてそ れ は 巴 掌が、 生 涯 受 用 不 尽 底の 活 作 略とし て 自 在に 駆 使したところのもの であ った。そ れを 号とした のは 自 然な 成り 行きで ある。 巴 掌は 文 字 不 識 ( ) を 公 言して 憚 らなかったといわれ る ように、 語 言を 仮らず、 行 動によ っ て 直 下に 捷 巧に 禅 要を 開 示したものとみえる。その 参 学の 初めに 師は、 胸 中に 一 元 字 脚を 著せず、 何 等を 仏 法となす やをも 知らず、 大 疑 団を 発して 心 源に 徹するこ と を 得た。 それ は 頭 陀の 行 者としての 強 靱な 意 志と 持 久 力、 離 著の 業 等の 然らしめ る ところ で あったといえる。 師は 三 掌に 佛 法 僧の 三 宝を 包 摂し、 長 掌の 打 三 下を 以て、 空 空 無 説、 黙、 無 言、 忘 言 等、 知 識 見 聞を 絶した 真 実 義を 端 的に 全 体 現 成 せしめようとした。その 十 五 指に、 一々の 指 端に 光 明を 放 つと 称 讃され て い る。 巴 掌を 以て 微 妙の 法を 説 破したと 評 され た 所 以であ り ( ) 、 三 巴 掌の 名は、 楚 蜀の 教 界を 喧 動した もので あ る。 いま 一つの 号である 鐵 眉は、 聚 雲が 臥 褥に 在った 時、 師 は 労をいとわず 九 日 間 食せず 侍して 看 守った。こ れを 熟 視 するに 眉 宇さなが ら 鐵の 如くで あっ たと ころから、 聚 雲が 師に 授けたものという ( ) 。 譚 正 乾 居 士はそ の 形 状につ い て 蚕 眉と 形 容している。 何れに しても 太く 逞しい 眉の 持 主が 想 像され るが 、そ れ は ま た 頭 陀の 行 者が 発 散する 強 烈な 体 臭、 人 格 的 印 象を 表わすものともいえ よう。
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) 師が 聚 雲の 会 下に 在って 当 時、 夜は 佛に 面して 跪 坐し、 月に 伏し、 ( 日 中には ) 身を 裸にして 日に 露わしたりしたと され て い る。 そ の 魁 偉な 風 貌と( ) 、 頑 健な 体 躯によ る 以 身 説 法は、 迫 力に 満ち、 野 性 的な 力 強さに 溢れたもの であ った と 思われ る 。 巴 掌の、こ の 優れて 行 動 的な 異 色の 禅 風は、 一 方において 考 古 校 勘 的 末 節の 究 明に 拘 泥する 風が 漸く 顕 著となり つ つあ った 当 時として は 、 出 色のものとして 光 彩 を 放っていたとみら れ る の である 。 破 山が 吉 祥 庵を 過った 時、 師は 方 丈を 出て 山に 会い、 飲 酒の 次いで 問 答 応 酬が 為 され た こ と に つ い ては 先に 一 言したが ( ) 、 飲 酒 云々とあると ころに、 巴 掌の 磊 落な 生きざまを 髣 髴とさせるもの がある 。 師が 時に 趙 州 三 巴 掌と 呼ばれた こ と か ら 知られ るよう に 、 趙 州の 再 来として 畏 敬され た。 聚 雲は 化を 遷すに 先 立って 、 偈を 書してこ れ に 付した。その 語 中に 「 実に 老 僧 趙 州 萬 里 外の 弟 子」 と 見えている。 師もまた 日 日、 趙 州の 茶を 喫す る 者として 自ら 任じていたようで あ る。 師は 随 語 生 解の 行 き 方を 斥けたが、そ れ で も 語 録 一 冊を 留め、 上 堂、 開 示の 語の 他に 若 干の 詩 偈が 伝えられ て いる。それは 格 律に 拘 泥 せず、 長 短も 不 定で、 奔 放 自 由に 瀟 灑な 境 涯を 詠い 上げた もので あ り、 ま さ に 野 人の 面 目 躍 如たり、 と い え る で あろ う ( ) 。 崇 禎 十 四 年、 師は 州 府 石 牛 南 山 華 嚴 寺の 請に 応じ 結 制 上 堂した。 次いで 同じ 府 内の 萬 県 寶 峰 山 雲 來 寺に 開 法し、 さらに 萬 県 大 佛 寺に 晋 住した。 甲 申( 順 治 元 年) の 秋、 師 は 工 部 熊 公 月 崖 居 士と 共に 湖 廣の 施 州 衛 ( ) に 入った。 萬 県 東 南に 当る 地である 。 熊 公は 曾つて 聚 雲に 参じ、 鐵 壁に 傾 投 して 嗣 法 門 人の 列にも 加えられ た 久 参の 居 士である 。 丙 戌 ( 順 治 三 年) 、 師は 兵 乱によ っ て 南 濱の 瑞 光 洞に 錫を 移した。 楚の 鳳 衛 侯 牟 公は、 師の 語 録を 閲して 讃 嘆し、 先に 巴 掌が 入 来した 折、 師に 接する 機 会を 逸したのを 遺 憾とし、 陳 化 宇 公と 共に 来 化を 請うた 。か く て 師は 請に 応じて 施 州に 入っ たの である が 、 微 恙を 示し、 衣 鉢を 門 人 耳 庵 嵩に 付して 長 往したので あった。 行 状に は、その 時 師が 到 来し 通 過した 地 点や 寺 名を 記していない が 、 塔が 都 會の 觀 音 山 熊 耳 庵に 建てられたということで あるから、 恐らくここに 迎えられ、 幾 何もなく 滅を 唱えられ た もので あ ろう。 熊 耳とは 、 巴 掌 の 寂 後にその 嗣 耳 庵が 継 席 演 法した、 施 州 衛 三 渡 屯 觀 音 山 にあったそ れ で あ ろう。 譚 正 乾が 撰した 師の 行 状は、 記 述 内 容が 簡 略で、ただ 世 寿を 挙げ、 語 録 一 巻が 存したことに
『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) ─ ─ 触れている だ け で 卒 年 等は 記され て い な い 。 し か し 『 續 燈 正 統』 は 順 治 庚 寅 十 月 初 十 日として い る 。 こ れ に よ ると、 西 暦では 一 五 八 六 - 一 六 五〇の 在 世となる 。 また 正 統には 行 状にない 記 述が 存する 。そ れは 師が、 牟 公の 請を 受けた 際、 疾と 辞したということ、そ れ に 対し 牟 公が 僧 俗に 肩 輿 を 以てして 迎えしめたという 点である 。こ の ような 事 例は、 勅 召を 辞した 場 合にも 聞かないところ であり、 熱 意の 表れ といえなくもない が、 敬 重する 者を 遇する 法とは いい 難い。 若し 問 法が 目 的だとすれ ば、 病 者を 迎えるのは 意 味がな い 。 辞 退したということは、 開 法の 意 志がな い 、 乃 至はそ れに 耐え 得ないと 師 自 身が 判 断したから であろうから、 無 理に これ を 起たしめるの は 強 引の 謗りを 免れな い 。 正 統には 続 けて 巴 掌が 至るや 、 檀 越 陳 化 宇の 子 贊 伯 ( ) が 開 法を 請い 偈を 授けら れ、 雲 衲 市 集したと 記され て い る。 ところ で 巴 掌の 法 嗣たる 耳 庵 嵩 ( ) は、 順 治 六 年、 巴 掌の 遺 命によ り 檀 越に 請われ て 上 堂したとさ れており、その 法 語 中に 「 三 巴 掌 先 師に 供 養す 云々 」 とある と ころ から、 巴 掌 は 庚 寅 年には 既に 在 世していなかった、とみなければなる まい。 然るに 『 三 山 年 譜』 にみ れ ば 、 巴 掌は、 順 治 六 年 十 二 月、 施 州 衛の 鳳 衛 侯 牟 公 封 翁、 化 宇 陳 公によ る 熊 耳の 請 に 応じ、 その 時 預め 三 山を 延いて 記 室に 充てたといい、 翌 庚 寅 七 年に 三 山は 施 州 衛に 入ったことにな っている 。そし てそこに は 巴 掌が 耳 庵に 付 法して 脱 去したとも 記され て い る。 正 統に 巴 掌の 寂 年が 庚 寅とな っているの は 、 同じ 編 者 の 手に 成るもので あるから 当 然である 。 巴 掌には 、 毒 害され たと の 風 聞が 存する 。その 事につ い ては 、 先に 「 鐵 眉 三 巴 掌の 急 逝をめぐっ て ( ) 」 の 中で 触れて あるから、ここに 重ねて 論 及するこ と はしない が、 示 寂の 年 次につ い て 一 言 付け 加えておきたいと 思う。 「 三 巴 掌 和 尚 行 状」 には 、 師が 請せられ、 既に 至るや 微 疾 を 示し、 衣 鉢を 耳 庵に 付して 円 寂した、とあり、 施 衛 入り から 謝 世に 至るまで 、 極めて 短い 期 間であ った ( ) ように 受け 取られ るので あ る。 実 際 師の 法 縁に 連がる 者 達は、その 脱 去の 速やかなことに 注 目している ( ) 。 巴 掌の 死をめぐっ て 不 自 然な 動きが あり、そこから 毒 害の 疑 惑も 生れたの で あろ うが、 緘 口され て い た ら し く 、 事が 発 覚する ま で 若 干の 時 日を 要したと 考えられ る 。 なお 巴 掌 亡き 後には 、 こ れ に 参じた 遺 弟 教 導のこともあ
─ ─ 『 續 燈 正 統』 と 聚 雲 法 門 〔Ⅱ〕( 長 谷 部) り、 速やかに 師 席を 継 承して 化を 開く 必 要があ ったに 相 違 ない。 こ うした 場 合、 忌 辰の 月 日はそ の ま ま 伝えられ、 年々 齋が 設けら れるの が 常である こ と か ら 、 巴 掌は、 正 統が 伝 える 寂 年を 一 年 遡った 順 治 六 年 十 月 初 十 日に 滅を 示し、 同 月 十 五 日 ( ) 、その 嗣 耳 庵が 上 堂して 師の 供 養を 陳べ、 熊 耳に 開 法した、とするのが 可 能 性の 高い 一つの 見 方である 。 巴 掌の 嗣 耳 庵は、 玉 眉 亮( - 一 六 七 七 頃) に 法を 付 嘱し、 次 いで 氷 絃 法 - 笑 旨( 空 法? ) と 順 次 相 承け、 聚 雲 派 下の 一 分 脈を 伝えたので ある。 注 ( 1 ) 清 代には 川 東 道の 称あり。 重 慶、 州、 綏 定の 三 府と、 忠、 西 二 州を 含む。 ( 2 ) 鐵 眉の 伝 中にい う と こ ろ 。『 續 燈 正 統』 巻 一 七 - 四。 中 華 藏 第 二 輯 - 七 七 冊、 卍 續 藏 經は、 二 乙 一 七 - 三~ 五( 影 印 本、 一 四 四 冊) 、 新 纂 大 日 本 續 藏 經では 、その 八 四 巻に 収 録。 ( 3 ) その 人を 殺 傷するこ と 多きは、 黄 巣に 百 倍す、 と い わ れ ている。 『 明 史』 巻 三〇 九 - 二~。 新 文 豊 刊 二 十 五 史 所 収。『 清 代 名 人 傳 略』 上、 二 五 八。 ( 4 ) 『 明 史』 巻 三〇 九 - 九。 朱 言 詩 等 修『 梁 山 縣 志』 巻 一〇 - 一〇。 ( 5 ) 『 高 峰 三 山 來 禪 師 年 譜』 一 三。 以 下「 三 山 年 譜」 と 略 記。 中 華 藏 二 - 五 八 所 収。 ( 6 ) 『 梁 山 縣 志』 巻 一〇 - 五。 ( 7 ) 『 達 縣 志』 巻 一〇 - 二 九。 ( 8 ) 秦 良 玉は、 馬 千 乘から 石 宣 撫 使を 引 継ぎ、 の ち 功によっ て 指 揮 使、 總 兵 官を 授けら れ て いるが 本 拠は 石 で、 活 動も ここを 中 心とし ていた 。 聚 雲 一 門が 化を 開いた 地 域、 破 山 年 譜その 他 関 連した 記 述を 彼 此 考 較すると 、こ こ に い う 南 濱は、 石 を 含めた 忠 州 一 帯の 地を 指してい る よ う に 思われ る 。 そ の 根 拠として 、 例えば 順 治 八 年、 破 山が 難を 南 濱に 避け、 鐵 壁に 依 附した とされてい る が 、 その 時 鐵 壁は 石 三 敎に 在 住 していたこと、また 東 旭が 峩 眉から 南 濱を 過り、 吹 萬に 聚 雲 に 見え た 、と され て い るこ と 等が 挙げられ る 。 忠 州は 唐 宋の 一 時 期、 南 賓 郡と 呼ばれたことが あり 、 音 通で 南 濱と 書くこ とがあったと も 考えら れ る 。 南 賓の 治 所は 都 縣 東 南 七 十 里 の 地で、 古 南 賓 縣、 明 代には 南 賓 里と 呼ばれ て い た。 他に 忠 州とは 地を 隔てる が、 成 都の 南に 南 濱があ る 。 これ に つ いて は 後に 触れる 。『 蜀 中 名 勝 記』 巻 一 九、ほか 。 ( 9 ) 『 治 平 鐵 壁 機 禪 師 年 譜』 二 九 紙。 以 下「 鐵 壁 年 譜」 と 略 記。 ( 10) 「 鐵 壁 年 譜」 三 九、 十 六 年 己 亥の 条。 ( 11) 『 清 代 七 百 名 人 傳』 中、 七 六 九 頁。 ( 12) 蕭 一 山『 清 代 通 史』 巻 上、 四 四 四 頁。 但し 実 際には、そ の 後も 反 乱は 続 発してい る 。 ( 13) 聚 雲の 「 行 状」 には 、 侍 御 田 公 無 無 居 士とあ る 。 これ と