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日本佛教學協會年報 第14号 006龜川敎信「三聖圓融の思想體系――特に行學内容としての華嚴經に見る――」

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Academic year: 2021

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特に計皐内容としての華巌終仁見る

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緒 モ主谷 区コE 三聖闇融は華巌壌に於ける重要なる義墜の一問題として‘華最経にあらはれた主要なる聖者の代表たる文殊・普賢 のこ菩薩が‘屋建那悌の徳をあらはすものとし.一経を人に約して、華陣取経は要するに三聖活動の象徴に外ならぬと し‘而も教義の根幹たる固融無磁の立場から‘華巌経の理解に嘗り、三聖固融を大きくとりあげたものであるが、殊 に そ れ が 支 那 華 巌 宗 の 第 四 組 澄 観 ハ 七 三 八 | 八 一 一 一 九 年 U によって観法の規範にとhu容れられ、それはそのま L 行壌の封象 として自己一心のうちにとれを見照し、自心を離れて外に一一一聖の求むべきなしといふ、所謂性起観の内容として理解 せられし以来、極めて宗教味竪簡なる観法として見ら L に 至 っ た 。 今 と L に論究せんとする主目的は、所謂設接的に取扱はれてゐる三聖園融の、若しくはコ一聖一国融観の内容を詳にせ んとするにあるのではなくて、寧ろコ一聖思想が経典成立史上如何にして護展し来ったのであるか、随ってその闇融の 相欣は教率的に取扱はる L 全 L に理解してよいか

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うかを吟味し、以てその思想盟系を探るを以て主要目的とするも のである。嘗然そとには経典成立に闘する推論が可成り重要た意味佐賀して凍るのであるが、とれに関しては既に撃

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者の聞に種 k の論が闘はされつ t A も ・ 一膳の解決はつけられてゐるかの如くに見へる。私は今それら努力に充ちた成 果に多くの示唆を受けつ与、更に自己の推論を加へ、ながら.との問題の解決に分け入りたいと思ふのである。 さて最一初に断。てゐか友くてはならぬととは、表題にある﹁特に行皐内容としての華巌経に見る﹂といふ副註に就 てである。言ふまでもなく・華厳経は重重無蓋主伴具足の華巌哲墜を開示する根本経典として霊関され、従って華巌 宗所依の聖典として傘崇せらる L ととるたるは勿論であるが、その特質は買に悌陀正莞の内容を直額せる畳者韓験の 表白たる黙に存してゐる。との意味に於て、華巌経を﹁行串内容﹂として理解するととは、宗教的意義の極めて濃厚 何 / 4 に表示されてゐる三聖思想を探るに嘗つては‘最も受賞た見方ではたいかと考へるのである。 凡そ備陀敬訪の内容には種 k の分科があり、その何れを重視すべきかは、事者の立場により異見の存するととるで それが核心は賓践的且つ賓際的たる賠に求めねばならぬとは.恐らく異論のゑいととるであ一らう。華 あ る と は い へ 、 巌経が伸陀正覧の内容乞直に顕示するものであるとせらる L 限り.質質に於てそれは程愈自らの宗教関願書であり、 とれが異賓の理解は正しく行墜内容として事者の境地に於て白詮すべきものであって、決して概念的思惟に於て把握 するを許されない。とれ経典記述者がその法の表現に於て極めて事術的な手法をとり‘その章伺を象徴的たらしめざ るを得なかった所以であらうと思はれる。 勺 コ との魔者の鰹験をさして古徳は﹁海印定中一時的現法﹂と説いてゐるが、 その能現の海印定を所現の立場より見る L ι き は 、 一塵一法悉く異性ならざるはたいのである。 と L に海印三昧の内本に就て詳説する紙敢を持たないが、法蹴 とは正しく兵躍的賓践的に館山側せられたる正畳それ自簡を意味する ものであり.能現の立場に在ては備の定心たると共に、所現の立場よりすればそのま L 菩薩の定心でもある。更にそ れはとりも百さや凡夫本来に具有する一心本葺の大聞に外たら友い。 の 安 謹 還 源 観 ‘ その他の指示を侠つまでもなく‘

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拘に悌の定心によって統揖せられたる一切高法は.海印三昧の内容として個々存在の意義を附興せられるが‘個物 それ白躍を立場として見れば、その個物によって益法界が統揖せられ、如来は全法界の一一の個中に佃物とたり切り て顕現する。かの凝然ハ一二四 O | 一 一 一 一 一 一 一 年 ﹀ が 法 界 義 鏡 に 今華巌宗別教一一架正詮ニ定鳳丁専明二心観↓翻行方法唯在二此経−︵日本大菰経華厳部章疏下所牧本二﹀ と言へるは、定心観行の蓄として華償経を理解せんする意国乞灰してゐるものとして注意すべきであらう。 同して此事たるや、支那唐代の李通玄ハ六三五|七コズ U 年﹀が‘その新華殿経論・決疑論等に於て、 一経を悉く修養書 と見倣し、自己心内の一僻心を護揮し‘凡夫一生に於てとれを顕現成就せしむるととを強調し、市も経文を十科に分類 し、その一一を皆寅践門的名栴乞以て呼び、各口聞を行門趣入として解明押してゐり.経の制裂を示しては、 夫 大 方 債 備 華 巌 経 者 ・ ・ ・ ・ 令 下 修 行 中 拘 所 ド 蹄 不 E 疑 等 ハ 正 政 三 六 、 一 O 一 一 一 中 ︶ とて、修行者の信受教法を力説し‘経轄の題目の如きも、委くは﹁略鰹新華巌経修行次第決疑論﹂と稽し、 ん一部分と定めし入法界品は、十門科段中第十善財入位契匡門と名け、との一門の解説には決疑論全回答の内、後三容を 充首してゐるが如き、一経を賓践行門の聖典としてゐるのは・倖統派から兎角の批判を受くべき、調断を敢でしたが 一 程 の 正 ら とれを費者の宗教睦験として意味づけんとせる態度には多くの示唆が含められてゐる。且ハノ彼が新華巌経論説也中ハ ハ 正 威 一 ニ 六 、 七 五 四 上 U に 、 蹄依三賓を以て悌教の本義とする宗教的態度より華巌経をたがめつヘ し、三聖蹄依がとりも直さや三費時依であり、而もとれを所謂一時の三賓として三聖融即詮一経上に理解せんとする とれを三聖に配嘗 敬度たる心情には‘強く心京かる aふものがある。澄翻の三聖固融観門一容は、正しくとの貼を狙った撰述である。 かくて大華巌経の内容が行門賓践の宗教関験室日として、そとに活躍せる三聖を以て一躍を代表せしめ、とれが固融 を 説 く も の と 吐 る 教 問 晶 子 的 立 場 を と L に と り あ げ 、 とれを直ちに平面的に受納するのではたく、寧るとの黙を参照しフ

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t A 更に華巌経の内容に就を、思想史的検討を加へてみたいと思ふのである。

コ一事国融思想の成立過程

経典にあらはれたる三聖思想並にその国融の意義をまづ最初に鮮明させるため、それが前哨としてコ一聖一国融の内容 を一臨探ってゐく必要がある。併し今とれ左詳説する暇を持たないので、観門として最も整へられた形を見吃てゐる 澄観の三聖園融観門一容をとりあげ、とれによってその一班左窺知するととに満足せなければたらたい。蓋し三聖園 融の思想盟系を探るためには‘ る か ら で あ る 。 とれが教畢的理解を全然省みたいととは必やしも嘗を得たものとは言ぴ得たいと信歩 さて三聖園融観門一容は、その紙教に於て極めて簡単なる一小部に過ぎたいが、行事内容としての華巌経友直接に 把 握 せ ん と せ る 貼 に 於 て 、 強 く 注 意 を 牽 く に 見 る も の で あ る 。 そ れ は 既 に 支 那 華 巌 宗 の 第 一 一 一 租 法 蔵 ハ 六 四 一 一 下 士 一 一 一 年 ︶ が 探 玄 記 各 十 八 ハ 豆 寂 三 五 、 四 五 一 上 U に、入法界品に於ける文殊・普賢二聖の立場を読ま‘絡にはとれを舎那法界に融 ヒつ与、とれら二聖と舎那備とを因果・理智に分ちたがら、而も因果融通・理智不二乞力説せるものが、舎那の風光 中にあらはる L 事事無艇の立場に立脚し、主としてとれを義思の釘象として取扱へるにも闘ら示、時凡翻に在てはその 華巌経疏韻義砂谷八十五ハ正威三六、六六三上﹀にも閥れるが如く・一二一望国融に就ては浩蔵の所謂果分左理門とし因分を 事門とし、理事不二の立場に居し、事事無蹴の縁起観よりも寧ろ理観たる印心成怖の性起観を強調するを以て特色と し て ゐ る 。 そとで若し澄観の三聖固融観門の立場に於ける直接的指示をその先皐に宗めるたらぽ.寧ろ法蔵と同代の壊者たる バ ] τ 李通玄に負ふととろが多いのではたいだらうか。通玄の新華厳経論を見るに‘至るととろ三聖の表訟を以て一経の始

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経とたせる手法が、 とれを観行として取扱ってゐるものとして見られる。而も澄観が貫一父難陀語八十翠股経の整備さ れた註四時として通玄の経註を見なかった筈はたく、従って亦伎の二一聖固融思想の開設に注意せない筈はないからであ 円 コ る。たど澄翻が通玄を承けたとと乞その著述の上に明示してゐないのは.伎が終始殊更に停統を重んじ.かの法琉の 弟子慧苑に封して極力駁論を試みたやうに、経典解躍に就ては法蔵と具った施躍をなぜし李通玄友もその偉統から賦 殺せんためではなかったかと想像されるのである。而も澄観の鳳十者的良心は、時に通玄を承けしととを告白せしめて ゐるととるも無いのではなく、例ぽ新華隈経論程二十ハ正威三六、八五八上﹀に十廻向乞以て十波羅蜜に随へて設くとせ るものを承け、澄観は華巌経陪疏演義砂各四十七に、 以 十 向 配 於 十 度 者 卸 北 京 李 長 者 耀 意 等 ハ 正 威 三 六 、 一 ニ 六 七 下 υ といふが如さ記述をなせるものを見る 査し行門角本の立場そ守る限り同じ立場芝とった六千通玄に釘し内心敬意を梯 ったであらうととは想像に難くない。か L る拾定を正しいものとして、 さて澄翻の著述を通覧するに、通玄に影響せ られたと思はれる思想上の反映は一習に二三に止らぬととが知られるであらう。 さて此三聖固融制問門にありでは、文殊・普賢の表法に就て文殊に信・解・智の三義‘普賢に法・行・理の三義を見 二聖に就て能信所信封・解行封・理智封の三割を設け、二聖の法門三事互に園融なると共に、亦二聖の三事各 K 相望 するに亦相融ずる。かくてこ聖の国融は直に遮那の果門を成じ.そのま L が果徳を詮し、因果不ごとたって三聖園融 す る と い ふ 。 経の初第一舎に就て、遮那法界の果相−

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買設するのは不可読果分を因分に下して説示せしものであり. と の 建 那 の 果海に入らしめん潟に果海より文殊・普賢の二聖を額し、その力により一一束の機がよく大菩提心を起す。此の一一一聖に 托して己が心中にコ一聖一ありと観じ、わが身印見直遮那如来たりと一不すのが華巌経の大綱だとするのである。

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故にその超越たる大方宙開伸華殿経に亦よくとの義を詮してゐるので、大は普賢にして方買は文殊、 との文殊と普賢 腫用合して’わが身に瞳得したる人を備とするのであるが、 との悌とそ昆宜遮那如来である。全た華巌は雑華巌飾と躍 さ れ る が 、 とれ文殊の妙智と普賢の大行の華を以を遮那の果徳を荘巌するをあらはせるに外ならぬ。依ってとの一一一聖 を以て所翻の境とし‘それを華厳行墜の内容となし、 との観成就するとき、自己心中の本来の三聖を開額し・本師三 聖と自己と一同眠不二・自他平等となるのである。 一度は﹁備自内詮の額現である﹂とする賠に於て遮那聖典と見られ、而もそれは ﹁普賢行を設けるもの﹂といふ鮪に於て普賢聖典と見る乞得べく、而も理知日不二・解行一位といふ立場からは、普賢 かくて華巌経を綜合的に見る時、 には文殊を融印すると考へられるから、 それはそのま L 亦 文 殊 型 地 ︵ と 見 な け れ ば な ら た い 。 而 も 費 北 引 の 白 血 児 と し て は 三聖を自己一心に固融するが故に、経典を問符ぜんとする者は自ら三聖を白己の内に間余ペさは首然である。 かくの如き古来の解躍は‘車にこれを教皐的理解として子面的たる意義をわれらに提示するばかりではなく・ と を盟系的にあとづけ思想史的に見直すべく課題を遺してゐる。経典そのものが成立史的に見て或る時代或る一人によ って忽ちに成立せられたととが肯んぜられない今日‘われらに遣されたる課題、すたはちかくの如辛口思想の生やるに 至った径路‘従ってそれが国融思想の附閥系づけに就て、 われ/\は一度経典を冷静な批判にのせて考察を廻らさなけ れ ば ・ な ら な い の で あ る 。

三雲思想を立場とすあ華巌経の成立・組織

大部華巌経が探玄記倉一ハ玉城三五、一三一中 U に示す記述から類推されるが如宏、その首初から一部に纏った経典と して存してゐたものではたくて、各調立せし部口聞の集成であるといふととは、今日では殆ど畢界の常識とさへなって

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K M る。就中第六他佑天宮舎の十地口問は.集成された一輝の中心危なし.とれを取巻く背後の諸口聞とそれとが如何に関 聯するかといふととは、十地口問そのもの L 研究と共に、近時幸一版製制作に於ける寵児の一たるの観を呈してゐる。また 最後の逝多林舎入法界品は.前越の記載を善財童子の求道といふ地上の事質に寄せて物語れるものとして、 の第一篇経典と並んで一つの調立の地位を保つてゐるととは亦人の知るととろである。 それ以前 而も各部の思想内容は、大集成 4 4 の勝れた手腕により、大関に於て前後緊密怒る聯絡をとりつ L 、それ

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に中心 黙があって、それが巧に賠蔵せられ、その巧散なる会館としての臨系は、恰も金躍が同一時に前後脈絡をとりつ L 開 設編纂ぜられたるが如き接ひを有つに至ってゐる。 そ と で 一 般 に 一 去 は る L ととるの十地を主流として統一せられてゐる一群の聖典は、第二北日光法堂舎の名競口問を序分 として文殊の括躍を中心とせるものであり 2、更に文殊の不足を補ふものとして普光法堂の重舎の諸品並にその三舎離 世間品では、普賢が中心となって活躍し、 とれらの過程を経て入法界口聞に至り、複雑たる内容左湛へつ L 而も普賢の 入法界を以て結末をつけ、最後に一経金曜の序分たる寂滅道場合の諸口問に於ける康遮那悌思想によりを聞を結成し、 以て所謂大華巌経を大成しでゐる。 占んも経の序分たるものは、華巌経に於ては別々に成立せる諸口間金盟の輝りをつける震に冠附ぜられたといふ意味で 思想的には大して意味乞有たないといふ見方もせられぬではたい。然し華隈経に限わ J .悶分普賢の言設を借りて建那 果門を一不さんとしてゐるので、特に遮那思想として前二者と区別立てる時、その中心に必やや時代的反映を現した一 。の思想がないとはいへ‘ないであらう。 且う後にも燭れるであらうが、普賢が普賢行として取に一般﹁大乗菩陸行﹂をあらはすものと見らる a ぶ も の か ら 、 漸弐特定の﹁普賢菩藍の所行﹂として考へらる L に 至 h v . と L に普賢菩薩なる固有名詞として盛に使用せられ、その

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内容が明示せらる主に至るまでには、可成り長い期聞を経てゐるのであって、文殊聖典に於て文殊菩薩が上首となり 悌の加被によって普賢行乞設けるものは、所謂一般大乗菩薩行を意味し‘障って三聖園融と云つでも巌密なる意味で は、初の部は文殊に普賢行の完成された遮那を融印するものと解され、後に普賢菩薩思想が明瞭になった時の普賢聖 典に於ては、普賢菩躍は文殊菩薩に代ってその地位を奪ぴ、而もとれ亦上首として趣那悌の加被により普賢菩薩の所 行を設ける鮪よりして、そとには文殊を融印せる普賢が遮那と融印せるものと見ねばならぬ。 最後の遮那聖典と今名けるととるの痕減道場合の諾品は、文殊に代って現れた普賢を上首としつ L 、而も遮那伸思 想乞以て金躍を統一しゃうとした大集成者の時代的思想的意国乞思ふならば.一経は大聞に於て次第の如く文殊・普 賢・遮那の順序を以て成立組織せるものと見てよからう。 かくて本経の設鹿は七鹿となってゐるが、仔細に見れぽその序分を除き入法界品を引離したる七舎の諸口聞に於て. 一臨躍った華巌経典としての形式を整へ、而もその舎座は並日光法蛍と天宮とに闘ら一歩、共に菩提樹下寂滅道場以外の ものとは考へられないのに劃し、入法界品はその設底が室羅筏園逝多林給弧濁園大荘厳重閣とたって烏 h 九 善 財 が 善 知識歴訪の究第を信住行向地等の階段に配首ずる古来の註轄家の見方を侠つまでもなく・序分を除いた第一篇乞形諮 るための極めて素朴た華巌経を模型としも地上の事賓物語に下して記述せられ、随ってそとには文殊思想より普賢思 想へと移行していった経過を露骨に忠はしむるものが見られる。 そとで入法田作品を含める大部経典は、今日では大躍に於て西暦第四世紀の中頃の集成といふととに墜者の意見の一 致を見てゐるやうであるが、会問の序分としての寂滅道場曾の諾品をつないだもの L 構成は.却って第二篇たる入法 界品を模型として、而も入法界品乞取容れつ L 前後に周到な聯絡を保たしむる需の部品を誼宜棺入して、 を巧に整へしめ、今日比るが如さものを大成したものではないかと考へられる。 一 経 の 腫 裁

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かくて第一篇の中心たる十地品と.第二日入法界品と左比較するに.かの十地口問が十地経に於ても見らる L 如 く 、 階段としての菩匿の行位を定めるよりも.菩薩行の徳目左提示してその行的内容を直分するととろに室開が沿かれて ゐるのに反し.入法界品に在ては普財遍歴の善知識の名や性質またその住底に於て、著しく現賓的・賓際的なものが 見受けられ、それが背景となって菩薩肘位の色彩が濃厚とたって来てゐり、更に一轄して大部経典になると、悌果所 詮の内容乞開示するといふのが表面主となってたりながら、益々北口陸の階位としての行目が編纂者の意園の中にあっ たととが目立って来てゐる。蓋しとれが挺に伎の成立と思はる L 解深密経や金光明経等に至って、愈々判然と菩薩階 位の高下が設かる L に至る著明た一段階たるととが知られるのである。 さて大部華巌経の極めて大綱的友成立順序を大盟上述の如く推定してとれが受賞性を認めるならぽ、と与に三聖思 想の護連過程が概略見首づけられるやうに思はれる。今慨に経典を成立史的に見て四期に直分し‘その各期に三聖思 想を配賞すれば共の如くなる。 序 分 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 第 一 舎 ︵ 世 主 妙 巌 品 乃 至 毘 宜 建 那 口 問 ︶ ・ ・ ・ ・ ・ 圃 ・ ・ ・ ・ 建 那 聖 典

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第四期

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第 一 群 ・ ・ 第 二 食 ︵ 名 競 品 乃 至 賢 首 品 ︶ | 一 一 一 : 文 殊 聖 典 | | | 第 一 期 第一篇

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一 第 二 群 | 第 一 一 一 合

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第六合︵昇須繭山頂品乃至十地品︶

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一 | 第 一 二 群 ・ ・ 第 七 ・ 八 舎 ︵ 十 定 品 乃 至 離 世 間 品 ︶ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ : ・ ・ 初 期 普 賢 聖 典

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第二期

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第 二 篇 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 第 九 舎 ︵ 入 法 界 品 ︶ − − − − − − − − − E ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 後 期 普 賢 聖 典

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第三期 かくの如き分類は極めて大雑把なもので、若しとれを仔細に検討するならばその聞に或は受賞を扶けるが如きもの もたいではない。併しそれは﹁三聖思想護濯の順序﹂といふ大きな見地からすれぽ大して問題にすぺきでは友いとも 円 り 一憶の説明を加へてゐく。 考 へ ら れ る が ‘

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まづ序分たる第一合寂滅道場合の諸品を遮那聖典としたが、賓はその上首は普賢菩薩となってゐり.帯主一口の能読者 に立てば或は普賢聖典とするのが正しいのではないかとも思はれぬでもない。また第三群の初期普賢聖典の一群中・ 並日光法堂の重合たる悌不思議法口問・如来十身相海口問・如来随好光明功徳口問の三品は、悌果の功徳を設けるものであ り.また後の如来出現品は普賢行によって感得せらる L 如来性起の法を説くものであるから、所誌の内容より見て一 群の遮那聖典と見倣されぬとともない。併しと与に所謂建那聖典と後の普光法堂章一合問中に含まる L 悌果の諸品とを比 較するに、前者は菩提道場に於て始めて五畳を成ぜし光景よりはじまり.見車遮那伸を讃嘆し、園土の控躍を示し‘ 蓮華蔵世界の如何たるものなりやを詳説するもので、上首は偲令普賢菩薩とはなってゐるが、それは因分可設の立場 より普賢を語り来ったまでどあって、所詮は遮那自睦の依正の表白である。故に普賢菩薩の入った定を一切諸伸見虚 建都如来臓三味︵耳目謹では如来持蔵三昧とたってゐる︶と名けであるが‘澄顧の註するととろによれぽ.建那如来が 無明の中に隠れたまふを蔵といひ、 一切衆生身中にある遮那は、 一切諸仰の智眼を以て照せば明白にとれを知るとと が出来るより、普賢を以て在帽臓の如来蔵とするのであるが、 との定名によっても普賢を上首としたがら賓は遮那の果 徳を直にあらはさんとする意国が汲みとられる。普賢三味品の如きも‘普賢菩薩所入の三味を一不すを主眼とするもの たる故、勿論普賢に闘する中心思想を明したものではない。然るに備不思議法品以下の諸品は、菩薩行の究覚として 嘗然示されたければならぬ徳相を明したものであり、 ﹁備の表白﹂といふよ

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も菩薩の延長として因果相封の上に立 つ菩躍遣の究寛乞示すととるに力結が置かれてゐるととに注意すべきである。 共に第一篇の第一群たる普光法堂舎の六口聞を‘第二詳の第三舎乃至第六舎に封して、同ヒ文殊聖典中上り分立せし め、第一期に含まる a A 諸口問を一・二群としたのは、第二舎の初に置かれた名競品がその別語たる兜沙経ハ後漢文要迦議 譲二八七

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一 八 六 年

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於て見らる L 如く・問中に華巌経特有の記述を見せた序分としての悟裁が明瞭である上にヮ十住・

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十行・十廻向・十蔵・十地・十願・十定・十通・十頂等.ト敢を以て一不す義 h z 間 へ る も の は ハ 五 戒 一

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、 五 八 上 U 十 住 口 問 以下の諸品を諜想せるものたるととは既に多くの墜者の注意せるととろである上に.同

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光 法 堂 舎 に 於 け る 賢 首 口 問 , 刀 若 有 害 薩 初 護 心 誓 求 官 詮 悌 主 口 提 ハ 正 威 一

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、 七 二 中 ︶ と 言 ひ 、 ま た . 則於十方諸悌所臆受濯頂而昇位ハ正滋一

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、 七 三 下 ﹀ と言へるが如きは.十住品を橡想せるものと考へられ、また、 若獲十地十自在修行諸度勝解明ハ正成一

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、 七 三 上 一 ︶ とあるは十地品や十通口聞を想ひ起さしめるものがある。且つ四諦口聞に十碕の名の出るはハ玉城一

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、 六 O 上ゴ明に十無 重蔵品 b L 諜想せるものたるととが知られる。依て便宜上それら六品左第一群として一憾第二群と巨劃を示した。 たどその中、浮行品には 断一切悪具足衆韮ロ嘗如普賢色像第一一切行行願皆得具足ハ豆毅一

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、 六 九 下 ﹀ とて、普賢一五点の語が見られるのでるるが、 とれは前後の闘係上、初から存してゐたものか左うか甚だ疑はしく、寧 ろ無くもがなの語と考へられるので、今問題としてとりあげる程のととも‘なからう。攻に第二群の明利天合・夜摩天 舎・兜卒天舎・他化天舎は、それ

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\法慧・功徳林・金剛憧・金剛競の諸菩薩を上首とし、十住・十行・十廻向・十 地の内容友説く各品を中心として成立したものであり‘而してそれら天宮諸舎を代表する上首は何れも文殊に依て象 徴せらる L 悌慧の内容を別融せるものと見られ‘文殊を中心として各舎を統一する場合、何れも文殊の内徳と見られ ぬとともない。との事は是等を模型として成立したと忠はる L 第二篇入法界口聞に於ける揖善財舎の五十五善知識に就

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て探玄記翁十八の解躍に依ればハ五々一一五、四五一上ゴ初の文殊より後の文殊に至る五十四人を般若門に属せしめて悉 くとれ文殊位とし‘後普賢を法界円に属せしめて普賢位とし、文殊位に於て飴の善知識あるを穂て一文殊に統一して 皆是文殊撮化徳故悉従ニ文殊智慧大海−所ユ出世−故 と言へるものは、今の所論に有力な敢闘申的一示唆を興へてゐるというてよい。 況んや成立史的に見れば.文殊の主要なる活動舞喜たる般若に、間接的た影響を受けつ L 展開せる大乗菩薩行の開 設としてとれら天舎を一纏めとし、とれを第二群とたし、内容よりしてこれらを一類の文殊聖典としたのである。 但し今言はんとするととるは、とれらがその嘗初より名競品を序分として今日見らる L が如辛口整然たる形に於て組 織を有てゐたといふのではたく、恐らく兜沙経の翻語せられた西暦第二世紀の後宇より少しく翻った時期に在て、そ の原型的訟ものが見られたとするに止る。 また従来一般には十地品は前三舎と区別して取扱はれ来ったゃうであるが 9 今とれ乞も併をて第二群の中に投じ、 以て文殊聖典として一括したのは、華厳経金程を⋮二聖の活動によって強ぴて統一せしめんとする古来の俸統に容を込 まれてゐるのではたいかとの躍も‘ないではないが、とれは先の推論に加ふるに十地品の成立が比較的古い時代に属し また名銃口問等の第一群の諸口聞と結合するに至り天宮諸舎を何れも菩提樹下 て KMh 九天宮三舎の所設との聯絡に於て、 を離れ守して設かれたとの語によって、矛盾を合通せんとはかつてゐる賠等より見て‘

円 。

る 。 とれらを綿て一括したのであ 更 に 第 三 群 と し て 重 合 普 光 法 堂 舎 の 十 定 口 同 等 の 十 一 品 、 並 に コ 一 台 並 日 光 法 堂 舎 の 離 世 間 口 問 を 一 括 し . とれを初期普賢 聖典とたし‘金盟としての第二期に充てはめしめたのは、主︵中に上首として心王菩薩や青蓮華草口際等左混請し.或は 簡皐ではあるが、備の白設をも含んでたり、その代表者に主貼を K M く時はや主無理が掛らぬでもたいが、黙し大躍に

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於て普賢菩薩が中心となってなるのみたら示、仔細に検討するならば、重合北日光法堂舎はその内容から考へて‘前舎 より読き進められたる後を承け、菩薩行の説明として十定・十通・十忍の三品を友がめ、更に同位の菩薩が等畳妙賓 として如来地に入りし桐決功徳を示し、菩誌の信行による果徳を明したものとすれば、普賢行とそれによる成果とを 一括せるものとして縄りがつく。そとでとれらの中心は何といっても普賢菩薩でなければならぬ。 と a A に唐経が十地品についで十定品を加へ、而もその初に﹁普光法堂に於て﹂とある文字より推して、澄観は十地 品のみを他化天舎の説法とし‘十定品以下如来出現品に至る諸品を、離世間品の三舎北日光法堂舎に比封し重倉北日光法 堂舎としてたるととは、耳目経について法蔵が七庭八舎となぜるものに潤して合理的であると考へられる。等日菩寝所 間 三 味 魁 ハ 百 晋 竺 法 護 謬 、 二 六 六

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三一三年︶は十定品に首る別語経典であると思はれるが‘西暦第三世紀の後牛にとれ が諒されてゐるととろを見ると、的陀践陀羅所語の党本に十定品に官る部分が果して続けてゐたかどうか謹に決定出 来ないものがるるのではなからうか。 三舎普光法堂舎の離股間品に至つては、普賢菩麗が普慧菩薩の二百伺の聞に劃して、二千の行法を以て答へたもの で、賓に大乗菩薩行の一大集成と見るペく、謂はど普賢行の買い内容器・示として普賢行が懇切に設きあ一らほされてゐ る。普賢聖典たるはいふまでもないととるであらう。 最後に第二篇たる入法界の一品を後期普賢聖典としたが.その内容は買は皐に普賢聖典と名けらる L が如き簡単な ものではたく‘極めて複雑なるものを合んで沿り.そとには一一一望国融の思想が漸く露骨に示されて来てゐるとと左認 められるのであるが、而も記述の上より見て、初は文殊の出現乞見つ主、絡には普賢が却って重要なる地位を有っと と L なって沿るので、とれ乞一一期の普賢聖典とした。特に初期のそれに封して後期としたわけは、此品の別謹たる四 十 組 也 本 の 通 稿 貞 一 冗 経 ハ 府 知 若 謬 、 七 九 六

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七九八年︶が、普賢行願口聞の一品乞加へて器出年代が可成り後代であるといふ

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思で、疑もなく大部華最経成立後のものとするはいふまでもなく、新宮一用語の華最経に見る入法界口聞にしても、第一 篇に含まる t A各口問乞.大躍に於て濠知してゐるととが随魔に見らる・与のみなら示、文殊に始って普賢に経る諸益口知識 を、信・住・行・向・地等の段階に配仲間する採玄記の解躍は‘とれを只単に教事的註轄とばかりに理解し去らやに、 成立史的にもその順序を思はしめるものがあるのでは・なからうか、 と L に入法界品の成立は時代的に見て可成り後れてたるやうであり、諸種の事情を綜合して第一篇の素朴た形を諜 q J 想せるととは動かぬととろである。同してそとには複雑なる思想内容を湛へつ L 、普賢思想の極力高調されたあとが 見られるので、とれを後期普賢聖典としたのでるる。 かくて以上の論究を綜合するに.第一期に於て成立せしと思はる L 第一群・第二群の経典には文殊思想があらは れ、第二期・第三期に於て成立せしものと考へらる L 第三群並に第二篇のそれには普賢思想が強く一不され、第四期成 立の序分としての諸品は遮那聖典として不可誌なる宜遮那備依正そのものを因分に下して一訴しつ L 、そとに文殊を融 印せる普賢を遮那の表現態として出してゐるととが見られる。 かくの如き推論は、併しながらそれメ\各部の思想内容の

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しを理解を侠ち、以て前後の瞳系的恩来が定められね ぽならぬ。言ひ換れぽ、一一一型国虫日の本質なりその思想護展が如何に交絡聯関するかを、経典各部の組織の上に精査す るととにより、その思想閥系が明白にせられるわけであって、爾かく簡草に断定を下すととは許されたいであらう。 が今は只一一臨上燕の如く推定し.とれを受賞たるものと許した上で論歩を謹めて行く。

四文殊聖典氏現はる冶文殊思想と三事国融

大蔵経中に於て文殊に開設された経典を求むるならば、 その題競に文殊師利を附せるもの三十飴部が数へられ、内

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容に於て文殊を活躍せしめてゐるもの L 主要なるもののみを拾ってみても亦数十部が見られる。それら大一飛躍典中に 於て、文殊の名が一誕の上首として姿な現してゐる最初は、恐らく小品般若であり.更にそれが菩薩としての活動を 円 U 一部し来ったのは文殊般若に於てであらう。 文殊語口薩は般若波羅密の読者として取扱はれ、時代の洗練を受けるに随ひ、般若と文殊の関係は愈 K 緊密の度を加 へ燕り‘還には文殊菩薩は般若を完全に人格化したものとせらる L に至り、般若の具現者と見らる L や う に な っ た 。 かくて文殊思想が攻第に理想化され、未来備として表現せらる L に至ったものが文殊師利悌土巌持経ハ西田日竺法護誇 二 九 O 年 υ であるが、更にまた首楊巌三昧経ハ後秦鳩睦羅什語、四 O 二・1四一二年︶に見るが如を過去備として姿を現し.或 は 央 掘 魔 羅 経 ハ 劉 宋 求 那 蚊 陀 羅 誌 、 四 三 五 | 四 四 三 年 ︶ に 一 不 さ る L が如く現在悌と化現してその功徳が讃嘆せらる L に 至

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、且つ内容に於ても一面普賢との混胤を見せるものさへ現れた。文殊師利殻願経ハ来皿日係陀肢陀羅誇、四一

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年︶の如 きは‘古型の般若との関聯より全く還ぢかつて行うたよき例である。 何れにしても文殊思想は般若の成立と殆ど同時に起

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、それとは全く切り離されぬ関係の下に取扱はれ来ったとと は否まれぬ事貫であり、古型として般若を中心とせるものは大躍に於て文殊が中心と怠って活動してゐるを見るので あ る 。 市して般若経の出現は大一東経典の少く共先馳をなす一類のものとして、その態度が阿毘曇致事に劃して攻撃的に出 で L 沿るものであるが.般若と不可分の闘係にある文殊思想も亦それに準じて小一燕羅漢を根本的に批到し、自らとれ に超勝せるものなるととを物語ってゐる黙に策付かされる。 さて以上の如き般若経を、主たる活動舞事とせる文殊が、如何にして華巌経に移動し来

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、以て華巌部の文殊聖典成 立乞成し遂げしめたのであらうか。華巌経に於ては十地問聞が中心とたれるととは前に既に閥れたととろであるが、そ

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れが後代久しく印度伸教界に君臨してゐたととはこれが諸種の論部に引用され.且つその註揮は建く悦親以後にまで 及んでたり‘更に支部詩経史上にも早き時代より屡 K その姿を見せてゐるととろから推察されるのであるが、本は菩 躍の行目として示されてゐたものが次第に菩薩階位として盟系化されるに至ったもの L 如くに尽はれる。とれが成道 の過程として整理せられる以前に在て、備の本生曹がとれと密接不離の関係に於て考察せられたであらうととは察す るに難く友く、官然本生謂を整思したと考へらる L ﹁ 大 事 ﹂ 目 白

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の十地記述がわれ/\の硯野に浮び上って くる。近時事者の聞に、華巌十地思想の根源として﹁大事﹂が著しく注意左喚び起されるに至ったととは極めて安世田 内 ノ “ で あ る と 一 五 は ね ば た ら ぬ 。 然し未だ小乗の域乞院しない﹁大事﹂の十地と、幽玄慶大なる十地経に説く獣喜等の十地と乞直接に結びつけると とは、儀りに飛躍に過ぎはしないかと思はれる。と与にその媒介として十住の形で一不された一類の経典が諌想される の で あ る 。 か く て 華 巌 の 十 地 思 想 に は 、 ︵ 十 住 口 聞 の 原 型 と 同 類 の も の と し て ︶ 並 に ﹁ 十 地 経 ﹂ の 一一一つの結び付きが、次第の如く背ぜられざる左得たい。とのととは現今の串界で、華巌諸部中では十地粧の成立が最 ﹁ 大 事 ﹂ ﹁ 菩 薩 十 住 行 遺 経 ﹂ 古のものと一般に考へられてゐるゃうであり、十住と十地との順序を遣に見るととは軽 k に論断を許されたいとは忠 ふが、支那語経史上に於て十住品の皐濁別語が十地口聞のそれよりも早いといふ賄、また菩薩十住行道経の内容が十地 経に比して悌本生諒の延長としての風貌が強くあらはれてゐる知、或は﹁大事﹂の十地の名稀と十住の一 k の名稿と が、監喜等の十地のそれよりも似悶してゐるととは、近く探玄記巻五ハ正毅コ豆、 一 九 五 、 中 下 ﹀ に 十 住 の 日 開 名 を あ げ て ゐるものを霜り来るまでもなく、極めて明瞭に知られる。その他十住品の一部を含む菩薩本業経︵央支謙譲、一一一一一一 l が菅に観語年代の早いといふのみたらやノ、十地口聞をさし措いて十住口問左名競口聞に結合せしむる最初のもの 二 二 八 年 ﹀

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とする形を具へてゐるが如き、十住と十地の成立前後に一つの暗示を奥へる素材とたり得るであらう。 凡そとれらの諸賠より推察して、十住の成立乞十地の前に置くととが受賞ではないか左思はしめるのである。只龍 樹出世前後を境として、それ以後に於て十地経の流行が陵盛を極めたものと思はれ、それは十住の内容が十地に比し て小栗的色彩を忠はしむるものがあるので、大乗教的立場を極力強調せんとする時代精紳には敬遠され不満足を費へ しめたので、最も普遍的も仏大乗車口藤道の賓践を強調せる十地思想が十住の地位を奪ひ、そのため後には十地経のみの 流 行 と な っ て あ 一 ら は れ 、 十住口聞は漸く大華巌経の中に取り容れられてその存在性左保って行ったものとすべ・ぎではな か ら う か 。 一方般若経では、大般若殻趣品第二十︵豆裁八、二五九下︶に乾慧等の十地を明し、龍樹は大智度論説也四十九 ハ 豆 戒 ニ 豆、四二上﹀等に於て、 とれを三一衆共の十地となし、華段の十地を﹁但菩薩地﹂としてゐるのに就て、古来との雨者 聞に調和を試みしものとし、 とれを同一系統であってたど一は未種展のもの他は護展的のものと考へ、その直接的な 結び付きを見てゐるのであるが‘今私は華巌十地の直接的た結び付きを菩薩十住経の介在に依る大事の十地に求めた 闘係上、華巌の十地と般若の十地には寧ろ間接的危繋りを有たしめたいと考へる。とのととは決して般若と華巌との 関聯を無視しゃうとするものではなく、﹁般若は室の初にして華巌は室の経たり﹂と一般に言はれる如く、般若の室 義左華巌に治化してゐる貼も勿論認めねばたらたいが、表面直接的た影響は寧ろ波羅蜜思想に於て見られるのではた い だ ら う か 。 般 若 に 一 不 さ る a A 六波羅蜜思想は乾慧等の十地の上にその面影を見ぜてゐるのであるが. 一躍を貫く修行の主班的徳 とれを除いた飴の五波羅蜜の翠謂行たらぽ、道徳的内容を示す以上に 大した意味のゑいものであり、而もとの重要たる般若波羅蜜とそ文殊の抽象的た表示である。とれ佐裏から一言へぽ、 日として般若波羅蜜とそ殊に重観されてたり、

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般若波羅査の具曜的人格化されたものが文殊菩麓であると一一言ぴ得るであらう。 然るに華巌経の十地品には十波羅蜜が考へられ、就中その第七地の下に於てはハ豆蔵九、五六一中下︶、 ﹁ 菩 薩 念 々 の 中に十波羅蜜を具足し﹂乃至その時四揖法・一二十七品・一二解説門など、菩提を助くる詩の一切法は皆念止の中に具足 するを設けるものは、大乗菩躍にとっては一切の法皆菩提心法ならざるたをゆどあらはずと共に‘ ハ 大 豆 蹴 九 、 五 回 三 下 U たる十地には十波羅蜜を兵足するととを示して K M る 。 そ れ が 十 行 問 聞 に な る と 、 ご切併法の根本﹂ そ の 一 K の行の内 容に瓦うてとれが明に解説せらる L に至ってゐり、後出の十地経の如きには亦その関係が密接に見られるとと L た れ てゐる。蓋しとれは般若波羅蜜にようて意味づけらる L 絵の冗波羅蜜を加へた六波羅蜜の上に、殊更宗教的内容を著 しく盛ってゐる方便・願・力・智の四波羅蜜を般若波羅蜜より開出し‘般若を兵問問的積極的に顕示して十波羅蜜を明 とれを能行の人たる文殊菩躍の上に見るとか己、般若経に現れたる文殊が華巌経陀於ては、次第に 具間的た括動の行蹟を見せて来たとと t ぶ し て 理 解 せ ら れ る 。 に し て ゐ る と と は 、 さて華巌鰹に於て第二北日光法堂舎の如来名銃口問より賢首口聞に至る六品の上官は文殊であり、経典の上では初に文殊 が備の名披の不同たるとと腫 k 無量たるを設を、最後に賢首に封し持信の功徳左開顧ぜんととを乞ひ、と t に 室 内 陸 の 修行が悉く停信に依って成就するととを設︿。第三舎より第六舎に至る天宮四舎の中に於て、初の一一一舎は十住品・十 行品・十廻向口聞を中心として其前に道場の症慣と来舎の菩薩の讃嘆等共誼するととろあって、何れも一経典の形式を 具 備 し て あ る が 、 とれが結合は十位在先とし十地を以てとれな楠ひ、それに十行・十担向を介在吃しめ‘市も結果と しては十地品が中心とたうて、他は十地の内徳たるの意味乞持たしむるに至って去る。 先にも燭れし如く、とれら天宮四舎の上首はそれ

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\法慧・功徳林・金剛瞳・金剛臓の諸古口陸、とたっており、それ らは何れも探玄記に注意せるが如く鞍率的にはその合座の特徴をあらはすものと阻相されてゐるが、而も何れも亦文殊

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に依って象徴せらる L 蓑の内容一堂別開せるものとして、文殊の内徳と見るべく・ 方便三味・強口一睡普思惟三味・菩薩智光三味・菩産大知日慧光明三昧に入出して設かれるとと t ふされてゐるが、とれら三 味の内容も亦何れも文殊 b L 象徴する慧を種々の方面より表現せしものに外ならぬ。只それが文殊師利護間経︿束晋偽陀 更にそれらが各順の如く菩麗無量 時 以 陀 羅 誇 、 四 二 O 年 ﹀ や ・ 或 は 悲 華 経 ハ 北 涼 曇 無 議 議 、 四 一 四 1 四 ご 六 年 u く は 文 殊 師 利 伸 土 巌 再 開 経 ︵ 西 耳 目 竺 法 護 課 、 二 九 O 年 ﹀ 等に見らる t h が如きものよりも‘性徳としては更に素朴たものと考へられるので、般若の直後にあらはれたとれら華 巌の第一期経典の上に示さる L 文殊思想は、漸く般若から院け出たといふ程度のもので、華巌にとり容れられて後普 賢思想と摺合しつ L 、遂には普賢思想に堅倒され・ながら・別の系統を樹て L その後展開し‘文殊信仰として護達して 行ったととは、上来所引の各種文殊系経典が推滑に物語ってなるととるでるって、今の所論とは自ら論究の角度が異 つで来る。すたはち文殊師利閉経から、ひいては大方買大臣殿経︵普曜経の異諒︶等に醸成されて行った文殊信仰は 般若から別の系統を以て文殊思想が極度に護展して行ったものと去っ γ よい。かくて第一群・第二群の文殊聖典は成 立史的には第二群を先とし第一群への順序をとってゐるとはいへ、文殊思想そのものとしては大した特徴の差異がな い の で ・ とれを一括して華殿経成立史の上で第一期としたわけである。 さてとの文殊聖典に於ては、華麗経の特色として常に上首の文殊が設をなすに嘗って、 ﹁ 承 悌 威 力 ﹂ と 一 言 仏 、 ま た 三味に入るに就て﹁承悌神力﹂となってなる。且つ文殊聖典の中心乞なす天宮四舎には、それ

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\序説として須繭頂 上偶讃口問・夜摩宮中倍護口問・兜卒天宮中偽讃口問︵十地口問にとれなきは、前三舎が何れも他化天舎の需の方便位なるが 故にと法戒は解揮を施してゐる︶等の讃仰に示さる与ものは、通じアとれ、如来法身の普遍常住なる黙にるるので

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り‘言ふととろの悌とは敦皐的に見ていふまでもたく華最経の教主悌を指すのであるが.そとには文殊が慧の代表と して内に理却の果徳を融印せるととをあらはしてたるのではないか。華践が定の宗教であるといはれるのは、寧ろ普

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賢を侯って親られる部故であり、癌が普賢行を説くといふ肝摘が一経会韓乞定の宗教たらしむる所以であ札 U 他の一固 また華巌は譲の宗教であると見られて為る。それはこの文殊が遮那を融印し、題那に代って不可設の果法を可設に表 白するものと見られるととろから考へられたものといってよからう。 然らば文殊聖典に在ては、その表現に於て見る限りでは、文殊と遮那の二聖の融却に止って、未だ三聖園融には歪 ちたいのであらうか。とれに就ては後の普賢思想の下に於て普賢行の意義を考察する下に譲るを便宜と思ふので、と h A には詳設を避けるけれども、若し大乗菩薩行を普賢行と名けるゑらぽ‘十地の行遣は賓に典型的た普賢行といはね ぽ た ら や 、 とれを鍛に人格的に還元して普賢苓匿の所行とするならば‘文殊聖典に於ても亦或る意味に於て三聖園融 が示されてゐると考へられぬととはゑい。然じ三聖なる名稿が正しく﹁人﹂に就けるものとして菩薩名に局限するた らぽ、文殊聖典に在ては表面二聖の園融があらはれてゐるに過ぎぬといはねばならぬ。更に戎の項目下に於て・此賠 が明白にせられるであらう。

普賢基典にあらはる

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普賢思想と三事国融

華巌躍中に活躍せる代表的な菩薩として、先にあげし文殊と共に‘否寧ろ文殊以上に重要たる地位 b L 占めてゐるも のは普賢である。大蔵経中普賢思想のあらはる L 経典はその敢極めて多く、経題の上にその名を掲ぐるもの L みでも 十数種をあげるととが出来、その内容に普賢を封台衆とし或は普賢行を説けるもの亦極めて多いが、就中華陣取経は思 想史的に見てその起源をなすものと言って然るべく、それが後に法華の普賢菩薩勧強口問あたりにたると、普賢菩薩が 法華経乞守護せんとの誓願を珪し、世舎とれを讃嘆して﹁普賢名を受持するものを守護すべし﹂と言ふに至 h v ・華巌 経にあらはる L 普賢思想からの大種展が見られるやうになった。翻普賢菩薩行法経では.直接に法華経を承け、間接

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に華巌経伝樺承して、普賢を以て憐悔業障を中心とする教主として普賢信仰を生むに至り、かくて普賢菩薩はその行 を具足し普賢如来としてその地位を高め、随うて闘土を持するに至った。かの大方等大集経企也七ハ正威一一一一、一八五下︶ や 悲 華 経 翁 三 ハ 玉 城 コ 一 、 二 五 三 中 下 υ 等に見らる L 記述は正しくとれである。而して華厳経はとれら普賢思想若しくは普 賢信仰の起訴をたすものとして、普賢は一経左通じて最も亘更なる地位を有し、その思想的中心となって活躍せるも のたるととは注意すべきである。かの解智の代表としての文殊が般若経を舞蓋とぜるものに比し、行智の代表として 華巌経に普賢を見るととは、 既に八十翠巌経重品問抗日光法堂舎には普賢行口聞の一品があって普賢行の徳を設き示し、また入法界口聞の別語たる四十 華巌経には、最後に普賢行願口聞を附加して一経の結師としてゐる。八十粧の倉山ハ十こには、善財をして文殊菩薩に如 一般的た観方として安官なりと一試はねぽたらぬ。 何か普賢行を具するやと問はしめ、文殊は頒を以て 修行普賢行 成就菩提道 故於無量剥 無謹諸拍海 修行普賢行 成浦諸大願 乃至願事普賢栗ハ正威一

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、 下 ﹂ と言ふてゐる c そとには文殊をして普賢行を極力讃嘆せしめ、普賢一飛を皐べよとさへ願はしめてゐるのであるが、と れらの上に一貫して考へられるととは、文殊思想に不満を感じた時代の人々が、文殊とは別にそれ以上のものを求む る と と ろ か ら . とれな補ふものとして普賢思想が都民連したものであると見られる賠である。 勿論文殊によって代表せらる L 般若の解智といへども‘行慧方使が全然認められぬのではない。既に龍樹が大智度 論 巻 二 十 七 に 、 難レ得コ諸法貧相−而以戸一大悲−不レ拾二切衆生−復有二二法二者清拝智慧二者万便慧復有吋三法二者探心念コ浬繋−二者 所 作 不 レ 離 − 一 世 間 弘 正 威 ご 五 、 二 六 三 下 U

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と言へるが如き‘般若波羅蜜は菩曙慈悲を行やるに室無椙の心に住し、滑浮智慧を以て深く浬撰を憶念する一方‘亦 方便慧を以てその所作するととる世間左離れぎるをあらはせるものである。故にとのこ者は結局一に障するので、同 容百に 菩薩通有二二種二者般若波羅蜜謹二者方使蓮乃至般若興ニ方便−本樫是一ハ五裁二五、七五四中 υ と述べるはとの意に外たらぬ。然しそれは般若の積極面を強く開示せんとする中観思想に於て明に見らる L ととろで あって、般若の嘗面は何といっても室韓国であ h 目、清浄智慧を以て第一義とせなければたらぬ。 4 んもかの勝天王般若波 一四七上﹀にたると、来舎の菩薩名中に普賢の名が問てくるのは‘般 羅 蜜 経 ハ 陳 月 婆 首 那 謬 五 六 五 年 ﹀ 念 一 通 露 品 ハ 豆 蔵 八 若経典中著し︿積極面の現れ来った部に属するものであり、そとには後の普賢思想が混入して来てゐるととが見られ る 。 何れにしても華巌経の上に見る文殊聖典に活動せる文殊菩躍は‘般若経の罫蓋よりその姿を華殻経へ移すととによ って、行道の積極性を多分に加へ来り、それが更に一一府補成せらる L に至ってと L に普賢菩薩の活躍を見せるに至。 たものが、所謂普賢聖典といはる L 一群の部品華厳経典出現の意義である。すたはちまづ三舎普光法堂舎たる離世間 品には、普賢の行法が普賢菩薩所行のものとして委典に一不されて烏る。同品に二千の行法を説く中、その第二十一に 十種の普賢心を饗するととをあげ、第二十こには十種の普賢行を示してゐるのである 0 ︵ 正 燐 一

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、 二 八 二 上 ︶ 十種普賢心とは、一種大慈心、二護大悲心、三一殻一一切施心、四護念一切智潟首心、元議功徳荘殿心、六種如金剛 心、七種如海心、八護如大山王心、九護安穏心、十種般若波羅蜜究寛心の十種であって、所謂無所有心に住しつ L よ く一切衆生を救護し、一切衆生に代って一切苦毒を受くる等の心を以て説明して居る。更に十種普賢行法とは、一一蹴 住未来一切封普賢行法より乃至十願於一切悌園土成無上菩提普賢行法に至る十願行であるが、普賢心の記述に在って

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も普賢行のそれに於ても、その中に悉く﹁一切﹂の語を用ぴて以て﹁普﹂を厩へる心行を明瞭に示してゐるととは注 意すべさである。更に積いて十種観衆生而起大悲を一示し、十種護菩提心因縁を説く等、要は大乗車口薩の至極たる悌自 詮の境を念じて、悌徳を普遍ならしむるものであり.と与に菩薩行の具位的責際的な要求が、普賢行として充たされ るわけである。それが先の普賢行口問では﹁隈﹂を否定するものとして示されてゐるのである。 既に普賢行が大乗菩薩の所行の特色である以上、先の文殊聖典に一不さる L 十地の行道も亦とれ普賢行の中に牧めら れて然るべきである。殊に十廻向品には普賢思想の萌芽が可成り濃厚に現れてたり、と tぶには後に出て来る所謂普賢 思想の素質が明に認められるといふ射で. 一般大乗菩薩行を普賢行とし、所謂十波羅蜜の普賢行に関聯するととが知 られるであらう。故に華巌教事に於ては、常に普賢行の重んぜらる L とと極めてあっく、智慣が一一来十玄門の初 ハ 五 蔵丸、五一四︶に園漏絡極の入法界は普賢にありと定め‘法蔵が探玄記倉一ハ正威一二五、 とれを窓て普賢法界を因とし令那法界左果とたし、かくて法界因果乞以て宗趣と定めてゐるに依っても知

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上中﹀に華巌経に五周の因 呆 を 立 て 、 られる。且つ法蔵が華巌回目障に最後の結語として 窮 二 重 法 界 − 越 ニ 虚 空 界 ﹃ 唯 普 賢 智 方 窮 コ 其 底 弘 正 毅 四 五 、 五 九 六 下 ︶ と言へるは、亦一経の中心佐普賢にたき、普賢行とそ一経に貫く中心賠なるととを詮したものといってよからう。拘 に普賢行は亦普賢思想の中一肢をなせるものである。 さて然らば普賢行とは如何なる意味のものであらうか。既に智慨は控玄記各四之下に 行 周 二 法 界 − 言 レ 並 日 間 順 調 稿 レ 賢 ハ 正 毅 一 ニ 五 、 七 へ 下 ︺ また法蔵は探玄記巻十六に と い ひ 、 徳 遍 ユ 法 界 − 日 レ 普 用 順 ニ 成 一 一 ず 栴 レ 賢 ハ 正 威 三 五 、 四 O 三 よ ︶

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といふ。澄観の華巌経疏砂巻四十八 ハ 五 戒 三 豆 、 八 七 O 上︶に説くととろも.要は上述の鶴名左緯承せるものに外なら ぬ

然し更に湖ってその語義を見るに、 われ/\は入法界品の党本たるの忠宮司日吉乞披見する便宜をもっ。それに よれば普賢の語源は党語∞

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で あ り 、 とれを三塁多蹴陀羅と一音器せられる。 と れ は

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岡 山 口 宮 た る 昔 と ゲ 日

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門 同 町 山 たる養または士口といふこ語の合成であり、 賞誼の言葉として大衆菩薩をあらはすのに誼嘗たる語であ る。とれにの母苫︵修行せらるべき︶なる形容詞が附加せられ、轄じて女性名詞に使はれの山門吉田山

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となり、普賢行と漢詩せらる L に 至 っ た 。 故に賢並回行は本は一般に大乗菩薩行をあらはすもので、必ボしも普賢菩薩の所行と局られてはゐ‘なかったものと思 はれる。それは普賢行品に十悌世界徴居敷諸口躍の言として‘ 我 等 岡 崎 肌 皆 名 普 賢 ハ 主 成 一

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、 二 五 九 上 ﹀ と一言へるものに照合するときその本来の意義が何であったかどよく理解され得るであらう。蓋し敦準的立場から普賢 について人普賢と共に法普賢の設かる L ものも、畢寛との意乞あらはせるものに外ならぬとも考へられる。 そとで並日光法堂霊舎の諸品は、先に示したるが如く、大睦に於ては普賢菩薩を上首とするも‘察る前舎に於て説き 準められ来ったととる乞承けて、十定・十通・十忍等の三口聞が開かれ、とれは明に普賢行の提示として見られる。 ζ の普賢行を行するととにより、進んで等質妙覧として如来の地に入りし相欣功徳を後の諸口聞が示すものとすれば、そ とには一般大一来菩薩行思想から普賢菩薩思想へ漸く移ったものとして普光法堂の重舎を理解するとき、それは更に弐 の第三批日光法堂舎の離世間品に現はる普賢菩薩思想への成立序曲とた h へとれらを一群として初期普賢聖典と見るわ けも理解せられると思ふ。

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さて然らぽ印刷る意味の普賢行が如何にして普賢菩薩へと移って行ったのであらうか。先の文殊聖典に在つでも.殊 にその後期に於ては、大一飛車口薩行として普賢行たるものが考へられてゐたであらろが‘特に普賢行が大一束菩薩行とし とれを只一般的なものに止めて沿かやに、特殊な菩薩名 ての究寛であるとして殊更強調せらる L やうになった結果、 として他の諸菩盤、就中文殊と剣然巨別せねばならたくたったのである。沼

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然らやしていつまでも一般大乗菩薩行 を普賢行として観るならぽ、とれを行守る一切菩躍は皆普賢菩薩と名けねばたら示、斯くては普賢行の究寛を極むる 普賢菩躍の性格が漠然とたってくるととを樫れたからである。そとで普賢菩薩思想が極めて旺盛になって来るや、買 い意味の普賢行が只普賢菩薩の所行として考へられ、還に普賢行と普賢主口躍とは同一義として見らる L に至った。そ とで並日光法堂の三舎離世間品では此の意義が愈 k 明瞭にたり、中に明すととろの二千の行法の内容は、先の文殊聖典 の諸品並に重合普光法堂舎に明すととると昼複したがら、而も一定の順序に按配されてとれを普賢菩薩の所行とせら れ る と と る に 、 との一品が以前の諾品の後に成立した思想的推移を物語れるものと見怠ければたらゑい。 さてそれが第二篇経典たる入法界品にたると如何たる展開を見せるに至。てゐるであらうか。入法界品は種 K の 角 度から見て、全躍としての序分を除いた第一篇の諸品左諌想

L

.且つ濁立した一経典として成立嘗初存在してゐたと とが知られるのであるが、その序謹が文殊に始って普賢に終る善知識を以てし‘結局は普賢合那の一因一果の法門を 示すべく目論見られてゐるととが明瞭に汲みとられ、記述の形式が殊更らしく文殊を第二弐的訟ものとし、普賢を以 て文殊に代らし b んとナる手法は‘所謂後期普賢聖典として普賢菩薩思想の欄熟した時代の成果怒るを思はしめるも のがあり、そとに文殊を融掃し切って而も遮那と国融ずるの趣そ見せてたる。 特に四十華巌経は普賢聖典としての一品の特色を極力加味し増麗せられたもので、古型の入法界口聞の上へ更に普賢 行願品が添加せられ、普賢行願にようて畠口財が不可思議解脱の法界に悟入したるを以て、四十経の具題を﹁入不思議

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解脱境界普賢行願品﹂とせらる L に至ったものであると考へられるが、その怨四十の初には、 爾時普賢菩薩摩詞薩稿歎如来勝功徳巳北口諸諸菩薩及菩財一言善男子如来功徳偲使十方諸伸経不可読不可設備制極徴塵 教的相縫演説不可窮墨若欲成就此功徳門臆修十種慶大行願 として、一膿敬語備、二稿讃如来、三蹟修供養、四横幅業陣、五随喜功徳.六請轄法輪、七請悌佐世、八常随悌筆、 バ 性 九恒順衆生‘十普皆姐向の十大行願をあげて K M る 。 ハ 疋 刊 紙 一 O 、 八 四 四 中 U その一々の内容も包見るに、如何にも具間的にして且つ賓際的であり、普賢思想が更に後代普賢信仰を生むに至る蔚 芽が充分に見られる。 要するに入法界品がその結末に於て ﹁普賢菩薩の諸行闘海を得て、 普賢と等しく諾備と等しく、 との一品が極めて旺盛にして欄熟せる普賢菩薩思想 乃 至 解 脱 自 在 ﹂ ハ 八 十 華 殿 経 谷 八 十 | 正 威 一 O 、 四 四 二 中 ﹀ に 蹄 せ し め て ゐ る と と は 、 を以て中核とせるものなるととを物語ってたり‘ と L にあらはる L 普賢行がもはや﹁普賢の菩薩行﹂では‘なくて、明 に﹁普賢菩躍の行﹂として特定の意味を持つてゐるととが知られる。 かくて未だ人としての菩薩の特定の意味が附奥されてゐなかった普賢思想の原始的意味をなす普賢行が‘一般大乗 菩薩行として見られるのであるから、買は敦接的に取扱はれるやろな三聖園融は表面未だ判然しない。それが後の普 賢菩薩思想の旺盛なる普賢聖典、殊に後期のそれになると共に、普賢行は明に普賢菩薩の大行大願としてそとに文殊 を融掃し、普賢の一因は遮那の一果に封して因果不二・能所一館として固融するとと L な り 、 一 二 聖 固 融 が や L 判然と して見られるのである。 とれより逆見して、先の文殊聖典に於ても、大衆菩薩行左普賢行とし‘ とれを慨に人格的に推考して女殊に普賢を 融揖し.それと一躍那備との融邸を見るならば‘義より推して先の文殊聖典に於ても亦三聖一閏融が見られぬととはたい

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と一出口ひ得るのみ。併しとれば成立史的に見れば直接的た推考ではないといふととを忘れてはならぬと思ふ。 かくてわれ/\は華院経に於ける普賢思想が一躍を通じての中心となれるととを知 b J 、本経が後代一般に普賢行願 を設くものなりとせらる L 意義をも併せ了解するととが出来るのである。

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遮 那 聖 典 に あ ら は る 、 遮 那 思 想 と 三 事 国 融 華蔵経の成立はその各部品がそれ件、、時代乞異にして長り、現今見るが如き大部の華巌粧の集成が、大略西暦第四 世紀の中葉と見るととは‘概ね事者の一致するととるといってよからう。就中その第一舎の諸品は相互に闘係を以て 相離るべからざるものであり、一類のものとして最後に成立したものであり、と L に盛られた思想には、序分として の性質上特別なる思想的異色は見られないにしても、他のものに比較してそとた何程かの性格が見られ、所謂第四期 の成立として遮那聖典の一類をたすものと見たいのである。 とれが説鹿を摩掲陀閤阿閑若法菩提道場とし.経始光明赫突の相を記述せるは、成悌界裡の光景、か歓喜・希望等を 象徴する光明を以て一部す他に誼首たるものが無いからであらう。試に世主妙巌口問の最一初の頁を聞いて見るも、 ﹁ 常 放 光 明 ﹂ ﹁ 費 樹 行 列 枝 葉 光 茂 ﹂ ﹁ 笠 ︵ 樹 周 園 戚 放 光 明 ﹂ ﹁ 諸 荘 厳 具 流 光 如 雲 ﹂ ﹁摩尼光雲互相照耀﹂﹁警中妙費悉放光明﹂ ﹁ 無 謹 色 相 園 調 光 明 ﹂ 等 ハ 正 威 一

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、 光の字を冠せるものが断然目立ち‘ ﹁威光赫突如日輪出照明世界﹂ 一下以下﹀の章何を見、来集の菩薩・異衆の名も亦 一品悉く光明と光明と相映やる控巌の相を記述して沿るととは、悌正畳の光景を 光明によって記述の形式に移したものに外たらぬ。 とれば践に見宜遮那ぐ包

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目白の豆語が、遍照・遍光明であり、 との悌名を明示するものとしても極めて相臨はしいものといは・なくてはならぬ。かの名競口聞の別器たる兜沙経には. とれ亦華巌経特有の序分の形式ではあるが、それ ﹁ 始 作 併 時 光 景 甚 探 ﹂ ︵ 豆 綴 一 O 、 四 四 五 上 ︶ な る 文 字 を の せ て お り .

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ば極て筒翠なる記述に過ぎボノ‘他の大乗経典を見るも、此鹿に表現せられたほどの豪壮雄大さはその比類を見守、ま ととに十身兵足融三世間の見畳悲那如来の依正二報をあらはすに相臨はしを記述といはねばならぬ。 かくて来集の菩薩の第一位に位する普賢菩薩が、普賢三味品に来って一切諸悌昆昼建那如来賠身三味に入り.内に 事理を翻じ外に群機を照思し、説法の杢準備を塾へて後定より超ち、以て備の依報たる蓮華燕世界の相放を説くので ある。依ってその記述の上では普賢が上首となってゐるのであるが‘とれば只不可読果分を因分可読に下す渇に‘因 位上言の普賢を語り来ったに過ぎぬとする教事的解躍は、成立史的には大した意味を持つてはゐないとも一言ひ得るが 各舎の上首が常に﹁備の紳力を承けて﹂その説法を続けてゆくものと問み合せて、華巌経金贈を見宜理那悌の正畳内 容なりとする解躍も充分生辛口て来るし、かかる思想の最も高調されたものが序分の諸品に於て見られるといふ賠で、 第四期成立の序分の諸品は特に遮那思想を額露に表現せるものとして注意すべきであらう。 既にとれが遮那備を中心とせる思想の表現を強調されたものたるが故に、経一初にあげらる L 多種多様ゑる来舎者の 名稽も、車に来舎者としての列名とのみ単純に見過してしまふべきではたく、六十華陣取経では三十四衆、八十華巌経 では四十業配事げており、 その下に各 K 更に敷 K の名を出し、純計合して三百飴名、四百の名が敷へられるが、それ は伸陀の成正覚により虚悲那仰の心地に於て.それら一切のものが悉くその名の如くに本来具足せる穂相を示現せる ものと理解すべきである。 市してまたそれら来合者が何れも仰の正覧乞詩興せるととは.それら一切の名が同時に悌徳をあらゆる方面から表 示せるものたるとと b L 詮すものである。然らぽ悲那の内にあらゆる森羅高象左蝕すととろなく融印し、燭目拝聴悉く とれ遮那伸たらざるたをを表示してむる。華厳経が帥正畳の内容を直に露呈せるものであるといふ古来の解躍は、賓 は斯る遮那聖典としての序分の思想内容より、粧の金躍を統一せる考へ方ではたいだらうか c

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かうした懇那思想の確立を導火線としつ L 、更に一一回諸法賓相に立つ法華一一飛思想の影響そ受けて、と L に一切衆 生悉有働性を説く浬撰経が生れ.更にそれより衆生が煩悩に纏縛せられたがら、而も併性を内に懐くとする如来碕を 説く勝軍経が現れ、ひいては如来蔵より諾識が論出現して生死海を起すとする樗伽経を成立せしむるに至り、龍樹以後 無着世親の轍伽中心の悌教が生れるまでの印度大衆教護展の基礎づけをたずに至ったものである。 凡そ昆慮郵趣悌思想は歴史上の備陀たる生身の躍抱が極力理想化されたもので、既に六十華陣取鰹十地品ハ正毅九、五 六 豆 中

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八 十 禁 殿 畑 艇 で は 一 比 一 減 一

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、 ニ OO 上︶第八不動地の菩躍が、大方便諸国巧智よ h y 穫すととるの無功用費慧を以て、 一家生身、ご園土身、コ一業報白河.四聾聞身、五縁覧身、六菩薩身、七如来身、八智身、九法身、十成宮身の十身をよ く知るととを設でたるのであるが、後代の事者はとれを解境の十悌と言ふてたる。離世間口問ハ玉戒九、六三四下

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八 十 薬 殺 経 で は 正 毅 一

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、ご八二上﹀に於ては、十地品の十備中、殊に第七如来身 h z 開き更に菩薩身・願身・化身・住持身・ 一 正 寛 備 、 二 願 悌 . コ 一 業 報 悌 d 四 住 持 併 、 相好誼巌身・勢力身・如意身・踊徳島ガ・智身・法身とたぜるものを承け、 五化備、六法界伸、七心伸、八三昧働、九性悌.十如意備を皐げてたるが、それはその名稽のや L 異るととろはある も、内容は全く似同しており、惟ふに離世間品はとの十地品の如来身の十種を賢設して他を捨棄するととにより.小 栗的な名稽を取除かんとしたものと考へられるが、古掘とれを行境の十悌と言ふてゐる。而してとれらの十併は共に 菩薩所知の十悌として事げられたもので、只とれ佐以て後代の事者が華巌教主の性格措寝の根擦として依用するもの で ‘ − b J ︿とも記述の上では直接に建那の伸身を表示ぜんとする意園に出たものとは言以難い。 か の 四 十 華 巌 経 巷 三 十 九 ︵ 主 誠 一 O 、 八 四 O 上︶に普賢菩薩の紳通境界を設ける中、毘塵遮那如来が顔を出すが、とれ ば 八 十 華 巌 経 巻 八 十 ハ 主 娘 一

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、 四 三 九 下 ﹀ に 相 嘗 す る と と る で 、 新 し い 形 の 箇 所 と 見 る ペ く 、 ま た 名 抽 抗 日 間 ハ 五 議 一

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、 五 にも騨迦牟尼の別名としてその名を奉げられてゐるが、兜沙経にるらはれ左い此名構が、名披品に出てゐると 八 下 ︶

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