1.問題の所在
2012年の夏、「新型出生前検査(以下、「新型」と略す)」1が日本に導入されることが 大きく報じられた。「妊婦血液でダウン症診断」「精度99%」(読売新聞2012年8月29日 朝刊1面)と謳われた本検査は、2013年4月より一部の認定施設で臨床研究として開 始された。 そして2014年6月に、本検査が導入されてから一年間のデータ(7740人分)が分析 され、その一部が公表された。驚くべきことに、本検査で「陽性」と判定され、その 後の追検査でも「陽性」と確定された妊婦(113人)のほぼ100%が出産にいたらなか った。113人のうち110人は中絶を選び(これを「選択的中絶」と呼ぶ)、2人は流産し た(読売新聞2014年6月28日朝刊)。 生れてくる子どもは健康であってほしいという願いは、誰もが抱くことであろう。 その素朴な願いを否定することはできない。しかし、検査で「陽性」と確定されたほ ぼ全ての胎児が生まれてくることを拒否されるのだとすれば、そこに横たわる気の重 い問題に目を向けないわけにはいかない。 われわれはこのような報道に触れると、「自分だったらどうするか」「自分の家族だ ったらどうするか」ということを考える。遺伝カウンセラーであり、生命倫理学者で もあり、そしてダウン症児の母でもある玉井真理子は、次のように述べる。野 村 真木子
1.問題の所在 2.出生前診断の現状 ⑴ 出生前診断とは ⑵ 「新型」の登場 3.日本で展開されている議論の整理 4.あまり語られていないこと――選択的中絶を免れた存在について ⑴ 「根源的な安心感」が奪われるということ ⑵ ロングフル・ライフ訴訟からみえてくるものこのように自分だったらどうするかと考えることは大事なことではあるが、もっ と大事なのは、それだけで終わりにしてはいけないということだ。この私の選択 はこの私の選択だけではすまないかもしれない、ということを忘れてはならない。 (玉井、2011、12頁) 日本に出生前診断が上陸したのは1960年代である。それ以来「ターゲット」とされ てきたのがダウン症だ。「新型」登場の報道は、今生きているダウン症の人々にも届い ている。日本ダウン症協会理事長の玉井邦夫によれば、その報道に触れて「生まれて きてはいけなかったの?」と父親に問うた子どもがいるという。(玉井、2013、5頁) 「私の選択」が、「生まれてきてはいけなかったの?」という「私の知らない誰か」 の問いへと通じている。 「新型」が導入され、日本ではますます多くの妊婦が出生前診断を利用し、胎児は 「健康か、障害はないか」というまなざしから逃れられなくなるだろう。もちろん、治 療可能な病気がみつかった場合は、胎児治療2を含む早期の対応が可能となり、かつて は助からなかった生命が無事に生まれて成長できるようになったという喜ばしい側面 もある。しかし、次章で詳しく説明するが、ほとんどの出生前診断が治療不可能な染 色体異常を主たる検査対象としており、「陽性」と診断された胎児の多くは「産むか産 まないか」の篩にかけられていく。 はたしてそのような社会はわれわれが生きやすい社会なのだろうか。 この大きな問いへの足掛かりとして、まずは次の二つの課題に取り組むことを本稿 の目的とする。一つは、「新型」を含む出生前診断の概要を整理することである(第2 章)。もう一つは、出生前診断について日本で展開されている議論を大まかに整理した うえで(第3章)、そこであまり語られていない視点を提示することである(第4章)。
2.出生前診断の現状
⑴ 出生前診断とは まず、本稿の一つめの課題である、「新型」を含む出生前診断の概要を整理する。 出生前診断とは、胎児が何らかの疾患に罹患している可能性や、正確な病態を知る 目的で行なわれる検査のことである。 坂井律子の的確な説明によれば、出生前診断は「侵襲的検査」と「非侵襲的検査」 に分けることができる。侵襲とは医学用語で、体に何らかの傷を与える医療のことを 指し、出生前診断でいえば、子宮に針を刺して羊水を取り出す「羊水検査」や、胎盤 に針を入れて絨毛を取り出す「絨毛検査」3がある。これらは、検査によって流産・早 産・死産が起こりうるため、胎児にとって「侵襲的」である。流産の可能性は、羊水検査が0.3∼1%、絨毛検査が1∼4%である(坂井、2013年、16−17頁)。 「侵襲的/非侵襲的」という分類は、同時に「確定的/非確定的」という分類にも重 なる。「非確定検査」、すなわち胎児の病気や異常の「可能性」を調べる検査として代 表的なものが、超音波検査と母体血清マーカー検査4である。前者は妊婦の腹部表面か ら超音波を当ててその反響を映像化する方法、後者は妊婦の血液を採取する方法なの で、流産のリスクは無く、「非侵襲的」である。 超音波検査は、通常の妊婦健診で実施されている。画像の精度が上がったことで、 胎児の障害の可能性がわかる程度も上がった。たとえば、胎児の首の後ろにむくみ(頸 部浮腫)が見られることがある。その場合、胎児は染色体異常である可能性が高いと 診断される。母体血清マーカー検査は、母体血中のホルモンや蛋白の量を測定するこ とによって、胎児が染色体異常や無脳症、神経管閉鎖不全症である「確率」を算出す る。 これらの非確定的検査によって、「胎児に異常がある可能性あり」となった場合に行 なわれるのが「確定的検査」である。先ほど侵襲的検査として紹介した羊水検査や絨 毛検査などがこれにあたる。羊水検査は、日本で最も実施件数が多い5確定的検査であ る。 つまり、「可能性」を調べる検査は、安全性は高いが精度が低い。検査の結果、胎児 に異常がある可能性が高いと診断されても、確定的検査を受けなければ正確なことは 分からない。一方、確定的検査は精度100%であるが、流産のリスクがある。このよう なジレンマが、出生前診断を受けることを妊婦に躊躇させてきた部分がある。いいか えれば「歯止め」になっていた。ところが「新型」が上陸し、状況が大きく変化した。 ⑵ 「新型」の登場 「新型」の検査は、妊婦の血液を採取して、血液中にわずかに漂っている胎児のDNA 断片を解析し、13番、18番、21番(ダウン症)の3種の染色体異常を調べる。つまり 「非侵襲的」検査であり、流産のリスクがない。そしてあくまでも「可能性」を調べる 検査なのだが、ダウン症の場合99%以上の確率で診断できると謳われ、従来の母体血 清マーカーなどと比較するとその精度の高さが注目された(が、急いで注意しておき たいのは、「精度99%」という表現は正確さを欠いている6)。さらに、妊娠10週ごろか ら検査可能であり、他の検査と比較すると妊娠の早い段階で診断がでる(母体血清マー カー検査と羊水検査は15週以降)。もし「陽性」と判定されて中絶を選んだ場合、母体 の負担が軽減される。 その精度と安全性と利便性から、多くの妊婦が安易に「新型」検査を行うようにな ることが危惧された。また、染色体異常に対する社会の理解が進んでいない現状では、 選択的中絶が増えることも危惧された。そこで、日本産科婦人科学会は、2013年3月
に「指針」を示した7。たとえば、本検査を受けられる対象妊婦は、「35歳以上」など のハイリスク妊婦に限定された。 「新型」の「壁」ともいえたのは、費用の高さだった。検査費用は約21万円。これ は、超音波検査が1∼2万円、母体血清マーカーが2∼3万円、羊水検査が約10万円 という各検査費用と比較するとかなり高額である。 ところがその「壁」をクリアする、さらなる「新型」の検査が導入されることが2013 年10月に報道された(朝日新聞2013年10月3日朝刊)。同年春に導入された検査と比較 すると、精度や検査項目などの点でいくらかレベルダウンするものの8、その分費用は 約2万5千円と、8分の1ですむ。加えて、先の「指針」で示された検査対象者の年 齢制限も取り払われる。 さらに、今年(2014年)に入って、アメリカでは検査項目の拡大が加速しているこ とも報道された(朝日新聞5月31日朝刊)。日本で導入されたシーケノム社の検査項目 は3種であるが、同社は16番、22番、そして染色体のわずかな欠損で起きる「微小欠 失症候群」9を新たに検査項目に含めた。アメリカでは検査を受ける人の約9割が、新 項目を希望するという。世界中で競うように、胎児の「異常」をみつけだす技術が開 発されている。アメリカでは数年以内に、胎児の全遺伝情報を調べる検査がスタート すると予想されている(同)。 「新型」の検査を日本で開始するときの大きな動機は、「すでに米国で導入されてお り、不可避」というものだったそうだ(坂井、前掲、15頁)。日本はこれからも、出生 前診断先進国の動向に追随しつづけるのだろうか。 先の玉井真理子は、生命倫理学を「その場に踏みとどまるための知恵の結集」だと いう(玉井、前掲、8頁)。われわれは思考を停止せずに、今ここに踏みとどまって考 え続けなければならない。
3.日本で展開されている議論の整理
「新型」の日本上陸を契機に、出生前診断がはらむ社会的あるいは倫理的な問題が急 浮上してきた感がある。しかし坂井も指摘しているように、出生前診断について日本 はこれまで十分な議論をしてこなかったわけではない(坂井、前掲、172頁)。医療関 係者はもちろんのこと、倫理学、社会学、哲学、宗教学など幅広い分野で、さまざま な議論が蓄積されてきた。 そこで本稿の二つめの課題として、出生前診断について日本で展開されてきた議論 を俯瞰できるような、やや大胆な整理を試みたい。 そのために二つの軸を設定しよう。一つは「女性の自己決定/胎児の生存権」とい う軸(横軸)、もう一つは「共生/予防」という軸(縦軸)である。一つめの「女性の自己決定/胎児の生存権」という軸は、対立する(とされている) 「産む産まないは女性が決める」という自己決定と、胎児の生存が脅かされない権利の どちらを優先させるべきかという視点である。女性が産まないと決定すれば、胎児は 生存することができない。法律上、女性はすでに「人格」として存在しているが、胎 児はまだ「人格」として存在していないのであるから、両者の「権利」を対立させる ことなど不可能であるという考え方は当然ある。あるいは、問題の本質は生殖にかか わる責任をもっぱら女性に押しつける「社会」にあるのであり、対立軸は「胎児と女 性」ではなく「性差別社会と女性」にあるという意見もある(加藤、2007、50頁)。し かし、本稿の目的は、日本で展開されている議論の大まかな整理である以上、女性と 胎児を対立させる強固な構図を無視することはできない。 二つめの「共生/予防」という軸は、障害者の生存権に関わる。これは森岡正博の 分類を借りている。森岡によれば、「選択的中絶」(出生前診断の結果によって産むか 産まないかを選択すること)の是非をめぐる議論は、「障害者共生論」と「予防福祉 論」とに分けることができる。「障害者共生論」は、障害者も含めた多様な人間が共生 する社会が望ましく、生まれている障害児の数は減る必要はないという立場である。 一方の「予防福祉論」は、障害を理由に中絶するかどうかはあくまで個人の自発的な 選択にゆだねるものの、その結果として生まれてくる障害児の数が減ることを期待す る立場である(森岡、2001、325−326頁)。 これら二つの軸を設定すると、出生前診断をめぐる議論は次の四象限からとらえる ことが可能である。Ⅰ.女性の自己決定&共生、Ⅱ.胎児の生存権&共生、Ⅲ.胎児 の生存権&予防、Ⅳ.女性の自己決定&予防の四つである。 もちろん出生前診断についての議論がすべて四象限のいずれかに該当するわけでは ない。また、同じ象限に入るとしても、各論者の立ち位置にグラデーションが存在す ることは当然である。あくまでも、出生前診断をめぐる議論の複雑な状況を、わかり やすく(ゆえにやや乱暴であることを自覚しつつ)整理するための暫定的なツールと して、二つの軸を採用していることを強調しておきたい。 以下、紙幅の関係上、各象限の代表的な論者しか取り上げられないが、その内容を
みていこう。 Ⅰ.女性の自己決定&共生 女性には中絶の権利があり、女性の自己決定で選択的中絶がなされるとき、それは 責められるべきではないという立場である。と同時に、「胎児に障害があるとわかって も生んでみよう」という選択がなされる社会のありかたが望ましいとする立場である。 医療人類学者の柘植あづみは、「新型」の日本上陸に際して「妊婦が安易にこの検査 を受け、中絶するおそれ」を危惧されることについて、「女性を見下している」と反発 する。「女性が妊娠した際に、産むか産まないかの選択は決して『安易』なものではな い」とし、「出生前診断を受けるのも産まないのも、よく考えた結果なら尊重されるべ きだと思う」と主張する(柘植、2013、160頁)。さらに「女性がより安全で安価に中 絶を受けられる状況を維持するのは必要だ」とも主張する(同、157頁)。と同時に、 「無理解に基づく障害への偏見や差別など、私たちの意識と私たちが作っている社会を 点検」することの必要性を説き(同、160頁)、「検査を受けない選択や、胎児の障害が 分かっても産んで育てる選択が、同等に存在すべきだ」と柘植は主張する(「論点」毎 日新聞2012年5月20日朝刊)。 玉井真理子は、選択的中絶について柘植よりは消極的な立場をとりつつも、女性の 「新しい命を無条件に受け入れるかどうか、揺れる気持ち」に寄り添おうとする(「論 点」、前掲)。そのうえで、「選択的中絶の禁止ではなく、女性たちに多様な情報と生き 方を提示したうえで、偶然子どもに障害があることがわかったが産んで育ててみよう か、と思う女性を増やしていきたい」と述べる(玉井、1999年)。 柘植も玉井も、選択的中絶をするという女性の選択を、「安易な選択」と責めるので はなく、よく考えた結果ならば尊重しようとする。そしてそのような選択を女性に「さ せる」のは、障害児を育てづらい社会、障害者が生きづらい社会のあり方であり、障 害者と共生可能な社会が形成されることの重要性こそが、この象限に位置づく論者た ちが最も強調することである。そうすれば、「障害があるけれど産んでみる」という選 択が開かれると論者たちは期待している。 Ⅱ.胎児の生存権&共生 女性の選択的中絶にかんする自己決定に疑問をはさむ立場である。はたしてそれは 本当に「自己による」決定なのか、「自己についての」決定なのか、その決定の蓄積が 障害者の生存を脅かすことにならないか、という問題点を提示しながら選択的中絶に ブレーキをかける。 産婦人科医の大野明子は、「妊婦も産科医も、ダウン症の胎児をまるで正体不明のモ ンスターのように受け止め」、「等身大のダウン症の人たちに思いをはせることなく」、
選択的中絶を行っていると批判する。「異質」を拒むわれわれの不寛容な態度を批判す る(「論点スペシャル」読売新聞2012年10月5日朝刊)。 元国立精神・神経センター室長の白井泰子は、選択的中絶について「本当に妊婦は 『自己決定』しているのか」と疑問を抱く。「健康な子を産もうとする風潮の中、おな かの中の胎児の生きる権利に十分な配慮のないまま『選ばされている』のではないか」 と白井はいう(「論点スペシャル」、前掲)。 大野も白井も、選択的中絶をする女性の選択は、障害者や胎児に対する「無理解」 や「不寛容」や「配慮のなさ」が元にあるとみている。そして両者とも、この種の「不 寛容」が、排除されるべき「ターゲット」を拡大し、子どもの資質や能力のさらなる 選別へと通じていくことを危惧している。 社会学者の立岩真也は、選択的中絶とは、女性が「どういう子が生まれ、どういう 子が生まれないかを決めている」ことであり、それは自分(=女性)のことを決めて いるのではなく、やがて「他者となる存在」のことを決めているのだという(立岩、 1997年)。つまり、「自己」決定ではないという。そして、「どういう人間が世の中にい てよいかを決めることは、究極的には自分たちの都合や好みによる」のであり、それ は「良い趣味」とはいえないし、「すごく退屈なこと」だという(立岩、2009年)。 この立場に共通しているのは、選択的中絶における女性の「自己決定」は決して「自 己による」「自己についての」決定ではないという主張である。そして、その決定は、 「他者」に対する不寛容や、「自分たちの都合や好み」にもとづいて、「他者の存在」に ついての決定であるがゆえに、選択的中絶は否定される。 Ⅲ.胎児の生存権&予防 障害の予防以外を目的とした中絶を禁止し、胎児の生命を尊重しようという立場で ある。 医師の千代豪昭は、「出生前診断を考えるには、『胎児の生命』を尊ぶ社会が背景に なくてはならない」という。それには「胎児条項」10を設け、それ以外の「安易な中絶 を認めない国際的な倫理基準に合わせる法改正が必要」だという。同時に千代は、「夫 婦が検査結果を受けて産むか産まないかのどちらを選択しても不利益を被らないよ う、国が支援を約束し、すべての障害者が安心して暮らせる状況」の必要を説く(「論 点スペシャル」、前掲)。 が、はたして以上の千代の議論に整合性はあるだろうか。まず「胎児条項」以外の 中絶を認めないのだとすれば、中絶に関する女性の自己決定権は剥奪される。そして、 「胎児条項」が障害者の生存を脅かすものであることはいうまでもない。1972年に、政 府が提出した「優生保護法改正案」に盛り込まれたものの一つが「胎児条項」の導入 だった。これに激しく抵抗し、反対運動を展開したのが障害者たちであったことを忘
れてはならない(松原、2000)。 Ⅳ.女性(親)の自己決定&予防 希望する者には積極的に出生前診断を推奨し、選択的中絶については女性の自己決 定に任せる。「障害があっても産む」という選択も尊重する。「新型」導入を推進する 医師たちの多くがこの立場である。 「新型」臨床研究の牽引者である佐合治彦は、「希望者にのみ病気や障害の疑いを拾 い上げるスクリーニングを行うべきだ」という。その理由として、「NICUのベッド不 足の問題」や「高齢者医療もそうだが、限られたお金の使い道」の問題をあげ、医療・ 福祉に対する社会の負担の削減がねらいのひとつであることを明らかにしている(「論 点」、前掲)。 しかし、医療・福祉コスト削減のために障害児の発生を防止しようという考え方は、 ナチスドイツの障害者安楽死計画などに代表される一連の優生政策を支えていたもの である(市野川、2000a)。財政負担軽減と障害児の発生予防を結びつける主張は、日 本においても戦前から存在したが、松原洋子によれば、「福祉国家」の実現が具体的に イメージされるようになった1960年代後半以降に現実味を帯びてきた。厚生省を中心 に、とくに出生前診断と選択的中絶による障害児の出生防止に力が入れられていった (松原、2000)。日本で初めて羊水検査が行われたのは1968年である。そして先に述べ た「胎児条項」導入の動き(1972年)へと通じていった。これらの優生学の苦い歴史 から、学ぶべきことは多いはずだ。 以上、出生前診断について日本で展開されている議論を、二つの軸からとらえるこ とによって、四つのタイプに整理することを試みた。 不思議なことに、どの論者も「障害者が安心して生きられる社会を」と唱える。出 生前診断の問題を語るとき、自身の主張との整合性は横に置いたまま、「障害者が安心 して生きられる社会づくりに努力しなければならない」がお決まりのフレーズと化し ている。 ならば考えるべきは、出生前診断や選択的中絶と「障害者が安心して生きられる社 会」との関係性である。その関係に正面から切り込んでいるのはⅠとⅡの立場であり、 Ⅰは選択的中絶をやむをえないと肯定しつつ、選択的中絶を選ばない社会の可能性を 模索する11。Ⅱは選択的中絶を障害者の生存を脅かすものとして否定する。 ⅢとⅣについては、なぜ自身の主張が、障害者の生存を脅かさないといえるのかを 説得的に論じなければならない。残念ながらそういう議論に出会ったことがない。千 代の「胎児条項」という提案も、佐合の「医療・福祉コスト削減のためのスクリーニ ング」という発想も、優生学の歴史を紐解けば、障害者の生存を脅かす危険を孕んで
いることは明らかである。「出生前診断にもとづく選択的中絶は優生学ではない、なぜ なら、それはかつての優生学と違って、個人の自己決定にもとづくものであり、強制 ではないからだ」という主張もあるだろう。しかしこの主張は、市野川容孝によって 次のように切り捨てられる。 「自己決定だから優生学ではない」の一言によって、人びとが出生前診断と選択的 中絶に対して同時に抱く戸惑いや逡巡、あるいは疑問や批判といったものを、杞 憂として一蹴することは、それ自体、歴史的に見れば何の根拠も、裏付けもない 主張であり、また、この一世紀あまりの優生学の歴史を手前勝手に歪曲するもの でしかない。(市野川、2000b、140頁) そして本稿でさらにもう一歩ふみこんで考えたいのは、出生前診断や選択的中絶が 脅かす「存在」は、他にもあるのではないかということである。先の二つの軸でとら えうる対象は、女性、胎児、障害者であった。しかし他にも考慮すべき「存在」があ るのではないか。このことについてはあまり語られていないように思われ、次章で考 察をすすめたい。
4.あまり語られていないこと―選択的中絶を免れた存在について
⑴ 「根源的な安心感」が奪われるということ 森岡正博は選択的中絶を批判する論者の一人であるが、その理由として次の二点を あげる。第一に、現に生きている弱者を無力化することにつながること。選択的中絶 が広く行われるような社会では、われわれが不可避的に発してしまう否定的な「視線 と無意識の態度」によって、現に生きている障害者などの弱者の生きにくさが増大し、 その結果、彼らは自己肯定して生きるための気力を失い、無力化させられる。第二に、 何の条件も付けられずに存在する安心とよろこびを、系統的に奪い去っていくことに なること。私がどんな人間であったにせよ、「生まれてこなかったほうがよかったの に」という視線で見られることはないし、そういう態度で扱われないという安心感 (「根源的な安心感」)―人がこの社会で正気を保っていられるための生の基盤―を、根 底から浸食する(森岡、2001、340−345頁)。 森岡が選択的中絶によって脅かされる存在として危惧するのは、胎児ではなく、す でに存在を獲得した誰かの「存在」である。森岡が想定しているのは、障害者である。 しかし、それは障害者に限定しうる問題だろうか。出生前診断の結果をクリアし、選 択的中絶の篩にかけられずに生まれた子どももまた、「すでに存在を獲得した誰か」で ある。検査の結果、「陰性」と告げられ、無事に生まれてきた子どもたち。彼(女)の 存在は脅かされることはないだろうか。この問題を考えるうえで、大澤真幸の議論が役に立つ(大澤、2005、2008)。大澤が 問題にするのは、「生殖系列遺伝子操作」12である。大澤によれば、人は、先天的な性 質を、単に受動的に与えられるだけではない。人は、選びようもなく与えられる自ら の先天的性質に対してコミットし、それを主体的・能動的に引き受け、ある意味で選 択している。つまり人は自らの先天的性質を、いわば人生に先立って、あらかじめ選 択したものであるかのように引き受ける。大澤はこれを「先験的選択」と呼ぶ。この 先験的選択は、一種の錯覚(擬制・虚構)である。が、それなしでは人間の社会生活 が成り立たないような有用な錯覚である。つまり、先天的な性質のみならず、「自分で はどうしようもない」部分を、「自分で選択した」と主体的に引き受けて行くための、 生きて行くのに必要な「有用な錯覚」である。 そしてじつは、この先験的選択とは、承認という形式をとった親(=他者)の(空 虚な)選択を内面化したものであると大澤はいう。その「選択」は、そうであるほか ないもの、選択しえないことの選択である。筆者なりの言い方をすれば、「選ばない・ 選びようがない」という親の(空虚な)選択を子どもが内面化したものが、先験的選 択である。 このとき親の承認は、まったくの偶然とも、まったくの必然とも解釈しうる、子ど もの存在そのものへの承認でなくてはならない。通常の選択は、人の可能な存在の仕 方のある特定の部分を肯定すること―他のあり方を拒否し否定すること―を含意して いる。それに対して、先験的選択が肯定(承認)しているのは、その人物の「可能な 存在の仕方の総体」である。 ところが、遺伝子操作の技術によって、先天的性質が実際に選択可能なものになっ てしまうと、錯覚(擬制・虚構)でしかなかった先験的選択が、現実化・具体化する ことになる。親の選択=承認の意味が、すっかり変質してしまう。先験的選択におい て、親の選択は、空虚な選択でなければならなかった。それが遺伝子操作によって、 親の選択が、実質化する。親の選択が、通常の選択の同じタイプの選択へと転換する。 そのことによって、子どもは自分自身の同一性への基本的な肯定感を失うことになる と大澤はいう。 以上の大澤の議論は、遺伝子操作を批判するために展開されたものであるが、これ は出生前診断にも通じるところがあるのではないか。 出生前診断は、「子どもに障害があるかないか」を確認し、「障害がない子ども」を 選択するための手段である。出生前診断というプロセスを経ることは、人の可能な存 在の仕方のある特定の部分―つまり「障害がない」という存在を肯定し、「障害があ る」という存在を否定するという、「通常の選択」を親がしていることである。子ども にとっては「障害がないから生まれた」という条件つきの承認を親から得たことであ り、大澤の結論を借りれば、子どもは自分自身の同一性への基本的な肯定感を失うお
それがある。 このことは、先の森岡が選択的中絶を批判する第二の理由に通じる。森岡によれば、 選択的中絶は、何の条件も付けられずに存在する安心とよろこびを系統的に奪い去っ ていく。「根源的な安心感」を、根底から浸食する。 だとすれば、たとえ出生前診断を「陰性」でクリアし、選択的中絶を免れて、存在 を獲得できたとしても、「何の条件も付けられずに存在する安心とよろこび」を子ども から奪うことになりはしないか。出生前診断では発見できなかったような「障害」や 「問題」が、生まれた後や育っていく過程で見つかったり生じたりするかもしれない。 あるいは、人生上のつまづきは誰もが経験するだろう。そのとき、「生まれてこなかっ たほうがよかったのに」という視線で見られたり、そういう態度で扱われないという 「根源的な安心感」を子どもに与えることができるだろうか。あるいは、「自分ではど うしようもない」部分を、子どもは主体的に引き受けて生きていくことができるだろ うか。 「新型」の登場で、ますます多くの妊婦が出生前診断を受けるとしたら、親の「先験 的な選択」でなく「通常の選択」によって生れてくる子どもが増えるということを意 味する。それがあたりまえになる社会について、筆者は悲観的である。 ⑵ ロングフル・ライフ訴訟からみえてくるもの 出生前診断先進国のアメリカでは、1960年代から「ロングフル・ライフ(wrongful life)訴訟」というものがたびたび起こっている。詳しくは、加藤秀一の優れた議論 (加藤、2007)を参照されたいが、簡単に要約すれば、ロングフル・ライフ訴訟の原告 は「生まれない権利」を主張する。「自分が自分の生の価値を否定する」ということで ある。アメリカ以外でも、フランス、イギリス、韓国、オーストラリアで訴訟が起き ている。いずれも、障害をもって生まれてきた「子ども自身」か、あるいは「子の名 義」で、生まれてくる前に障害があることを発見できなかった、あるいは障害がある (であろう)ことを伝えなかった医師を相手どり、「生まれたことの損害」として損害 賠償請求が行われている。ほとんどの訴訟が認められることはないが、一部認められ た例もある。 加藤によれば、「損害」(damage)という概念には、「ある人が本来は A という状態 にあるべきだったのに、誰か他人による不当な介入によって、それと比較して何らか の点でマイナスの価値を帯びた B という状態に陥らされた」という主張が含まれてい る。それでは、ロングフル・ライフ訴訟の場合、何と何が比較されているのかといえ ば、「不可避的に障害を負った苦痛な生の全体が、そのような生が存在しなかった場合 と比べられ、後者に対する前者のマイナス分について賠償が求められ」ていることに なる(同、107−108頁)。
「生まれないほうがよかった」というとき、「いまある〈存在〉」と「生まれないとい う〈非存在〉」を比較しているが、これは比較不能である。「誰かが存在することを、 その当人にとっての利益や不利益とみなすこと自体が無効」であり、「人が生まれ、存 在することは、他のいかなる状態とも比較不能」であるからである(同、131頁)。 にもかかわらず、比較できるかのように錯覚してしまうのは、親が子どもを存在さ せるときの選択が、「先験的選択」から「通常の選択」へと移行しているからではない か。本来、子どもを存在させるときの選択は、「まったくの偶然とも、まったくの必然 とも解釈しうる、子どもの存在そのものへの承認」であったはずのものが、「障害のあ る生」と「障害のない生」を「比較」し、前者を肯定し、後者を否定する「通常の選 択」へと変更されたとき、子どもは自分という存在が、「いまある自分とは違う存在 (非存在も含めて)」と比較できるかのように錯覚してしまうのではないだろうか。先 験的選択が肯定(承認)しているのは、その人物の「可能な存在の仕方の総体」であ った。しかし通常の選択は、その人物の「限定的な存在の仕方」しか肯定しえない。 ゆえに子どもは、自分がどんな状態で生まれてこようと、どんなふうに成長しようと、 「何の条件も付けられずに存在する安心と喜び」を奪われ、「いまある〈存在〉」を主体 的に引き受けられなくなるのではないか。 出生前診断や着床前診断13がさらに進展し、先天性疾患・障害のある子を生むことを 忌避する意識がさらに広まっていけば、ロングフル・ライフ訴訟を認める判例が増え ていくかもしれない、と加藤は推察する(同、96頁)。ロングフル・ライフ訴訟は障害 をもって生まれた場合の例であるが、「生まれないほうがよかった」という思いやつぶ やきは、ときにわれわれ自身が抱いたり、別の誰かから聞いたりすることがあるだろ う。本来ならば「人が生まれ、存在することは、他のいかなる状態とも比較不能」な はずである。が、出生前診断があたりまえとなる社会は、「生まれないほうがよかっ た」という思いやつぶやきを、「そうだね」と認めてしまう社会となりはしないだろう か。筆者はそれを危惧している。 【引用・参考文献】 市野川容孝「ドイツ―優生学はナチズムか?」、2000a年、米本昌平ほか編著『優生学 と人間社会』、講談社 市野川容孝「北欧―福祉国家と優生学」、2000b 年、『優生学と人間社会』前掲 大澤真幸「『人間の終焉』解説」ビル・マッキベン『人間の終焉』、2005年、河出書房 新社 大澤真幸『〈自由〉の条件』、2008年、講談社 加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』、2007年、NHK 出版 坂井律子『いのちを選ぶ社会 出生前診断のいま』、2013年、NHK 出版
立岩真也『私的所有論』、1997年、勁草書房 立岩真也「いのちとはなにか 立岩真也さんにきく」、『Fonte』、2009年、不登校新聞 社 玉井邦夫「〈新型〉出生前診断(NIPT)を巡って」、生命尊重センター『生命尊重ニ ュース』、2013年2月号 玉井真理子「出生前診断・選択的中絶をめぐるダブルスタンダードと胎児情報へのア クセス権」、『現代文明学研究』2号、1999年 玉井真理子「ドイツの胎児条項廃止とドイツ人類遺伝学会声明」齋藤有紀子編著『母 体保護法とわたしたち』、2002年、明石書店 玉井真理子「序章 答えの出ないことを考え続けるために」、玉井真理子・大谷いづみ 編著『はじめて出会う生命倫理』、2011年、有斐閣 柘植あづみ「『新型出生前検査』が可視化する日本社会の問題」『世界』2013年1月号、 岩波書店 松原洋子「日本―戦後の優生保護法という名の断種法」、2000年、米本ほか『優生学と 人間社会』、前掲 森岡正博『生命学に何ができるか』、2001年、勁草書房 米津知子「女性と障害者」、齋藤有紀子編著『母体保護法とわたしたち』、2002年、前 掲 【注】
1 「無侵襲的出生前遺伝学的検査」といわれ、英語の「Non-Invasive Prenatal Genetic Testing」の頭文字をとって NIPT とも呼ばれる。検査対象は三つの染色体異常(13 番、18番、21番トリソミー)。日本では「NIPTコンソーシアム」という研究者グルー プがつくられ、アメリカのシーケノム社の技術を臨床研究として導入した。 2 子宮内の胎児に行う治療。治療対象は、胎児が死亡したり、出生後の治療では手 遅れとなったり、きわめて重い障害を残したりする病気に限られている。主な対象 疾患は双胎間輸血症候群、胎児胸水など。胎児治療が実施されている施設は限定さ れている。 3 絨毛検査は、胎盤になる前の少量の絨毛を採取し、染色体を調べる。比較的高度 な技術が必要とされ、実施施設は限られている。 4 本検査が開発されたイギリスでは、医師が中心となって検査の普及に取り組み、 現在ではおよそ90%の妊婦が検査を受けている。イギリス政府は、出生前診断を受 けることを妊婦の権利と位置づけ、検査の情報を妊婦に積極的に知らせることを病 院の義務と定めている。一方日本においては、1994年に本検査が導入されたが、障 害者や、障害児の親などから強い反論が起き、99年に厚生省(当時)に専門委員会
が設けられ、次のような見解を示した。①妊婦が検査の内容や結果について十分な 認識をもたずに検査が行われる傾向があること。②確率で示された検査結果に対し 妊婦が誤解したり不安を感じること。③胎児の疾患の発見を目的としたマススク リーニング3検査として行なわれる懸念があること。そして結論として、「現在、我 が国においては、専門的なカウンセリングの体制が十分でないことを踏まえると、 医師が妊婦に対して、本検査の情報を積極的に知らせる必要はない」とする見解を 発表した。 5 日本における受診率は、年間100万件の分娩に対して、15000件から2万件。うち、 約4%に異常がみつかるという。 6 ここでいわれている「精度」には注意が必要である。本検査の「陽性的中率」(検 査で「陽性」と出たとき、胎児が実際に染色体異常である確率)は、妊婦のもって いる背景や特性で変わる。たとえば妊婦の年齢が大きく関係する。全妊婦を対象と したとき、ダウン症の子どもを出産する確率は1000分の1である。この確率は妊婦 の年齢によって変化する。仮に30歳であれば、同じ1000分の1である。そして、30 歳のNIPTの「陽性的中率」は49.8%となる。35歳だと83%となる。このように、妊 婦の年齢が高くなれば的中率は上がる。「99%の精度」となるのは、ダウン症の子ど もが生まれる確率が10分の1の集団を対象としたときである。 7 正式には「母体血を用いた新しい出生前遺伝的検査に関する指針」。その骨子とし て次の5点があげられる。①マススクリーニングにすべきでないこと。②ハイリス ク妊婦を対象とすること。③一般診療は認めず、臨床研究として行うこと。④認定 された施設でのみ行うこと。⑤臨床遺伝専門医、認定遺伝カウンセラーによる遺伝 カウンセリングが行われること。また、②の「ハイリスク妊婦」とは次の条件のい ずれかを満たす者を指す。①超音波で胎児に染色体異常の疑いがあるとわかった者。 ②過去に染色体異常がある子どもを妊娠したことがある者。③高齢妊娠(出産時に 35歳以上)の者。 8 検査可能時期は11週以降、「精度」は約80%、調べる異常は2種(ダウン症と18ト リソミー)。 9 微小欠失症候群はさまざまなタイプがあり、数千人から数万人に1人の割合で発 症する。心臓の病気や心身の発達の遅れなどの症状がある。個人差が大きく、症状 がほとんど出ない人も少なくないという。(朝日新聞5月31日朝刊) 10 胎児条項とは、中絶の一つの要件として、胎児の疾患を理由に認め、法律の条文 上それを明記するというもの。これに対しては、障害者団体等からの強い反対が繰 り返されてきた経緯がある。したがって、現在の日本は、胎児の疾患を中絶の要件 として法律の条文上は認めていない。(玉井、2002年、154頁。松原、2000年) 11 女性(親)の産まないという決定が、なぜ障害者の生存権と対立するのかといえ
ば、「障害者は生まれてこないほうがよい」という価値観やまなざしの生成や強化に つうじるおそれがあるからである。これは1970年代に隆盛した障害者運動とウーマ ンリブとの闘い以来問い続けられてきたテーマである(米津、2002)。 12 生殖を担う生殖細胞(卵子や精子)の遺伝子を変更すること。 13 受精卵から遺伝子や染色体を解析し、遺伝疾患や流産の可能性を診断する技術の こと。胎児の性別の特定に使われることもある。