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Vol.65 , No.2(2017)061北野 新太郎「初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察」

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(1)

取・能取であったもの(我と法)の間の相対的関係性は,そこには全く存在しなく なっているのである.しかしながら,上記のような極めて複雑な認識の構造を前 提としていたのでは,他学派との論争自体が成立しなくなってしまう.それゆえ, ディグナーガやダルマキールティは,アーラヤ識を除外した極めてシンプルな「認 識主観(能取)が認識対象(所取)をみる」というような初期唯識のそれとは異な る認識の構造を採用したと考えられるのである. 本稿の目的は,アーラヤ識を説かない認識論・論理学や,インド哲学諸派のよ うな「能取が所取をみる」というような極めて単純な認識の構造を,アーラヤ識 を前提とした上で唯識三性説を説く初期唯識思想において示される認識の構造に あてはめて考えることはできない,ということを,特に,スティラマティの使用 する「外のアートマン」(bāhyenātmanā)という言葉についての分析を通して明らか にすることによって,北野(2015)と北野(2016)において筆者が提示した考え方 の前提部分をより強固なものとすることに他ならない.

1. 「外のアートマン」とは何か? 

スティラマティは,ヴァスバンドゥの TK に対する注釈書である Triṃśikābhāṣya(= Tbh)において,識転変(vijñānapariṇāma) について説明する文脈の中で,以下のようにいっている.

tam ātmādinirbhāsaṃ rūpādinirbhāsaṃ ca tasmād vikalpād bahirbhūtam ivopādāyātmādyupacāro rūpādidharmopacāraś cānādikālikaḥ pravartate vināpi bāhyenātmanā dharmaiś ca1) /

その自我などの顕現と,色形などの顕現とを,そのヴィカルパよりも,外の存在である かのごとくに執着して,自我などの仮説と,色形などの諸存在の仮説とが,無始時以来, 外界の自我も諸存在もないにもかかわらず,生じているのである.

ここで注意すべき箇所は,vināpi bāhyenātmanā dharmaiś ca(外界の自我も諸存在も ないにもかかわらず)という一節であろう.「ないものをあるとして構想すること」 が虚妄分別の構想作用であり,「構想されたもの」は無論,遍計所執性であって, この場合,TK 第 1 偈における ātman と dharma が遍計所執性に対応する.上記の スティラマティによる説明箇所で,dharma にかかる形容詞を省略しなければ, bāhyenātmanā bāhyair dharmaiś ca となるはずなのであるが,われわれの日常的な感 覚として,外側に諸存在があり,内面に自我があるはずである,という常識的な 思い込みとでもいうべき感覚が前提として存在しており,もともと「諸存在」は 外にあると考えられるため,dharma にかかる bāhyair を省略したとしても,意味 が容易に通じるということはいうまでもないことである.ところが,その場合, 単数・具格の bāhyena が ātmanā にかかっているということはいうまでもないこと 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察(北 野) (169)

初期唯識思想における「外のアートマン」

についての一考察

──初期唯識思想特有の認識の構造をめぐって──

北 野 新 太 郎

0. 問題の所在 

周知のごとく,唯識説とアーラヤ識説と三性説は,最初は別々 に説かれていた.本来は別々に形成された思想を組み合わせることによって成立 した完成態としての初期唯識思想における認識の形態というのは,非常に複雑な 構 造 を 有 し て い る . 例 え ば 「 四 識 の 顕 現 」 を 説 く こ と で 知 ら れ て い る Madhyāntavibhāga(= MV)第 I 章第 3 偈においては,① artha(外側の顕現=環境世 界),② sattva(内側の顕現=個体存在),③ ātman(② に対する能遍計(=マナ識=内側 への対象志向性)),④ vijñapti(① に対する能遍計(=意識=外側への対象志向性))と いう認識の構造が示されている.すなわち,アーラヤ識から,内と外との両方向 に直接的に顕現したところの「仮説の所依(=依他起性)」を対象的な依りどころ とした上で,外向きには,意識,内向きにはマナ識が能遍計としての構想作用を はたらかせ,その結果として〈二方向に対して,二重写しに〉遍計所執性の我・ 法が〈仮説の所依〉よりも〈外に(bahirbhūtam ivopādāya)〉執着される,という認 識の形態が示されているのであるが,いうまでもなく,ヴァスバンドゥは,上記 のような思想的背景をすべて踏まえた上で,Triṃśikākārikā(= TK)第 1 偈の「我・ 法の仮説」ということをいっているのである.その場合,われわれが注意してお くべきことは,「我・法の仮説」といわれる場合,「我が法をみている」すなわち, 能取が所取をみている,のではなく,所取(この場合は環境世界)として(アーラヤ 識から)顕現したものを〈仮説の所依〉とした上で意識が能遍計のはたらきをな すことによって,その外側に法(遍計所執性)が仮説される,ということであり, また,能取(この場合は個体存在)として(アーラヤ識から)顕現したものを〈仮説 の所依〉とした上でマナ識が能遍計のはたらきをなすことによって,その外側(内 の外)に我(遍計所執性)が仮説される,ということである.それゆえ,本来,所 (168) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月

(2)

取・能取であったもの(我と法)の間の相対的関係性は,そこには全く存在しなく なっているのである.しかしながら,上記のような極めて複雑な認識の構造を前 提としていたのでは,他学派との論争自体が成立しなくなってしまう.それゆえ, ディグナーガやダルマキールティは,アーラヤ識を除外した極めてシンプルな「認 識主観(能取)が認識対象(所取)をみる」というような初期唯識のそれとは異な る認識の構造を採用したと考えられるのである. 本稿の目的は,アーラヤ識を説かない認識論・論理学や,インド哲学諸派のよ うな「能取が所取をみる」というような極めて単純な認識の構造を,アーラヤ識 を前提とした上で唯識三性説を説く初期唯識思想において示される認識の構造に あてはめて考えることはできない,ということを,特に,スティラマティの使用 する「外のアートマン」(bāhyenātmanā)という言葉についての分析を通して明らか にすることによって,北野(2015)と北野(2016)において筆者が提示した考え方 の前提部分をより強固なものとすることに他ならない.

1. 「外のアートマン」とは何か? 

スティラマティは,ヴァスバンドゥの TK に対する注釈書である Triṃśikābhāṣya(= Tbh)において,識転変(vijñānapariṇāma) について説明する文脈の中で,以下のようにいっている.

tam ātmādinirbhāsaṃ rūpādinirbhāsaṃ ca tasmād vikalpād bahirbhūtam ivopādāyātmādyupacāro rūpādidharmopacāraś cānādikālikaḥ pravartate vināpi bāhyenātmanā dharmaiś ca1) /

その自我などの顕現と,色形などの顕現とを,そのヴィカルパよりも,外の存在である かのごとくに執着して,自我などの仮説と,色形などの諸存在の仮説とが,無始時以来, 外界の自我も諸存在もないにもかかわらず,生じているのである.

ここで注意すべき箇所は,vināpi bāhyenātmanā dharmaiś ca(外界の自我も諸存在も ないにもかかわらず)という一節であろう.「ないものをあるとして構想すること」 が虚妄分別の構想作用であり,「構想されたもの」は無論,遍計所執性であって, この場合,TK 第 1 偈における ātman と dharma が遍計所執性に対応する.上記の スティラマティによる説明箇所で,dharma にかかる形容詞を省略しなければ, bāhyenātmanā bāhyair dharmaiś ca となるはずなのであるが,われわれの日常的な感 覚として,外側に諸存在があり,内面に自我があるはずである,という常識的な 思い込みとでもいうべき感覚が前提として存在しており,もともと「諸存在」は 外にあると考えられるため,dharma にかかる bāhyair を省略したとしても,意味 が容易に通じるということはいうまでもないことである.ところが,その場合, 単数・具格の bāhyena が ātmanā にかかっているということはいうまでもないこと

初期唯識思想における「外のアートマン」

についての一考察

──初期唯識思想特有の認識の構造をめぐって──

北 野 新 太 郎

0. 問題の所在 

周知のごとく,唯識説とアーラヤ識説と三性説は,最初は別々 に説かれていた.本来は別々に形成された思想を組み合わせることによって成立 した完成態としての初期唯識思想における認識の形態というのは,非常に複雑な 構 造 を 有 し て い る . 例 え ば 「 四 識 の 顕 現 」 を 説 く こ と で 知 ら れ て い る Madhyāntavibhāga(= MV)第 I 章第 3 偈においては,① artha(外側の顕現=環境世 界),② sattva(内側の顕現=個体存在),③ ātman(② に対する能遍計(=マナ識=内側 への対象志向性)),④ vijñapti(① に対する能遍計(=意識=外側への対象志向性))と いう認識の構造が示されている.すなわち,アーラヤ識から,内と外との両方向 に直接的に顕現したところの「仮説の所依(=依他起性)」を対象的な依りどころ とした上で,外向きには,意識,内向きにはマナ識が能遍計としての構想作用を はたらかせ,その結果として〈二方向に対して,二重写しに〉遍計所執性の我・ 法が〈仮説の所依〉よりも〈外に(bahirbhūtam ivopādāya)〉執着される,という認 識の形態が示されているのであるが,いうまでもなく,ヴァスバンドゥは,上記 のような思想的背景をすべて踏まえた上で,Triṃśikākārikā(= TK)第 1 偈の「我・ 法の仮説」ということをいっているのである.その場合,われわれが注意してお くべきことは,「我・法の仮説」といわれる場合,「我が法をみている」すなわち, 能取が所取をみている,のではなく,所取(この場合は環境世界)として(アーラヤ 識から)顕現したものを〈仮説の所依〉とした上で意識が能遍計のはたらきをな すことによって,その外側に法(遍計所執性)が仮説される,ということであり, また,能取(この場合は個体存在)として(アーラヤ識から)顕現したものを〈仮説 の所依〉とした上でマナ識が能遍計のはたらきをなすことによって,その外側(内 の外)に我(遍計所執性)が仮説される,ということである.それゆえ,本来,所

(3)

「識別作用としての顕現」とは[現象的な]六種の識である.「そして,この対象は存在 しない」とは,対象と有情としての顕現には,行相がないからであり,また,自我と識 別作用としての顕現は真実でない顕現だからである.「それが存在しないから,それ(識) もまた,存在していない」とは,その所取は,色(色・形)などと,五つの感覚器官(五 根)と,[汚れた]意(マナス)と,六種の識と名づけられるものとの四種類であるが, その所取としての対象が存在しないから,その能取としての識もまた,存在していない のである3) ここでわれわれが注意しておかなければならないことは,「アーラヤ識からの直 接的な顕現」は,依他起性としての存在性を有するものであり,「仮説の所依」と してのはたらきをなすことができる,ということである.そして,「四識」の中の 最初の二つ,すなわち,artha と sattva が,アーラヤ識からの直接的な顕現として の環境世界と個体存在であり,それら二つが「仮説の所依」としてのはたらきを なすことになる.さらに,それら二つの中の前者(artha =環境世界)に対する能遍 計が四番目の vijñapti,すなわち,前六識であり,後者(sattva =個体存在)に対す る能遍計が三番目の ātman,すなわち,マナ識に他ならないのである.

3. MV 第 I 章第 1 偈との対応関係 

Mahāyānasūtrālaṃkāra(= MSA)と MV の段階以降,三性説は唯識説と結合し,虚妄分別(abhūtaparikalpa)を依他起性とし て位置づけることによって,構造的に大きく変化し,三性説は唯識三性説へと変 化するのであるが,特に MV は思想的によくまとまっており,その中でも冒頭部 分の MV 第 I 章第 1 偈は MV 全体において示される唯識三性説の認識の構造を明 確に描いているといってよいであろう.ヴァスバンドゥが TK を造ったのは,そ の最晩年のことであったとされるが,それに先立って,MV に対する Bhāṣya を 造っているということからみた場合,MV における唯識説がヴァスバンドゥにお ける唯識思想の思想形成に大きな影響を与えていると考えることは,無理のない 考え方であるといえるであろう.MV と TK の冒頭の第 1 偈は,それぞれ,以下 のようになっている. 虚妄分別はある.そこに二つのものは存在しない.しかし,そこに空性は存在し,その (空性が存在する)同じところにまた,それ(虚妄分別)が存在する4) 実にさまざまな我・法の仮説がおこなわれるのであるが,それは,識転変においてであ る.その転変は,三種である5) この MV 第 I 章第 1 偈と TK 第 1 偈とを比較してみると,両者はともに,唯識 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察(北 野) (171) であるが,「外のダルマ」というのは先にも触れたように当然であるとしても,「内 のアートマン」ではなく,「外のアートマン」とは何なのか,ということが一つの 問題点として浮かび上がってくることになるであろう.要するに,ここでは,内 にアートマン(認識主観=能取)があり,外にダルマ(認識対象=所取)があって 「アートマンがダルマをみる」というような,極めて単純な認識の構造についての 説明をしているわけではないのである.また,この部分が TK 第 1 偈について説 明する箇所であるということには注意を要するであろう.それゆえ,TK 第 1 偈 における「我・法の仮説」とは,「我が法をみる」というような単純な構造の認識 について説明しているわけではないということになるのである.結論を先取りし ていえば,「外」とは,「識の外」のことであって,ここにおいて,われわれは, 初期唯識思想における認識の構造について考えるにあたって,「外」を「内の外」 と「外の外」とに分けて考える必要性を意識しておかなければならない段階,す なわち,内・外両方向の対象志向性を意識すべき段階に入っているのである.ま た,後述するように,ヴァスバンドゥは,MV 第 I 章第 1 偈において示される認 識の構造を強く意識した上で,TK 第 1 偈を作偈しているとみられるのである. その場合,三性にあてはめてみると,「我・法」と「能取・所取」が何れも遍計所 執性に対応し,虚妄分別と識転変が依他起性に対応しているという点は重要であ ろう.すなわち,MV に対して Bhāṣya を施したヴァスバンドゥは,そのような認 識のイメージを継承しつつ,独自の vijñānapariṇāma という新概念をそこに加え て,三性の中の遍計所執性に対応する言葉としてヴァスバンドゥ自身が MVbh に おいて使用した grāhya-grāhaka-bhāva(= g.g.bh.)という言葉を TK 第 1 偈では ātman と dharma という言葉によって表現しているということである.

2. アーラヤ識からの直接的な顕現としての「仮説の所依」 

次に,先に 「問題の所在」の中で触れた「四識の顕現」を説く MV 第 I 章第 3 偈とそれに対す るヴァスバンドゥによる説明をみてみよう. 対象・有情・自我・識別として顕現する識が生じる.しかし,その対象は存在しない. それが存在しないからそれ(識)もまた,存在していないのである2) そこにおいて「対象としての顕現」とは[識が]色(色・形)などの存在として顕現す ることである.「有情としての顕現」とは自分や他人の相続において[識が]五つの感覚 器官(五根)として[顕現すること]である.「自我としての顕現」とは,汚れた意(染 汚末那)である.自我についての愚かさなど[の四つの煩悩]と相応するからである. (170) 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察(北 野)

(4)

「識別作用としての顕現」とは[現象的な]六種の識である.「そして,この対象は存在 しない」とは,対象と有情としての顕現には,行相がないからであり,また,自我と識 別作用としての顕現は真実でない顕現だからである.「それが存在しないから,それ(識) もまた,存在していない」とは,その所取は,色(色・形)などと,五つの感覚器官(五 根)と,[汚れた]意(マナス)と,六種の識と名づけられるものとの四種類であるが, その所取としての対象が存在しないから,その能取としての識もまた,存在していない のである3) ここでわれわれが注意しておかなければならないことは,「アーラヤ識からの直 接的な顕現」は,依他起性としての存在性を有するものであり,「仮説の所依」と してのはたらきをなすことができる,ということである.そして,「四識」の中の 最初の二つ,すなわち,artha と sattva が,アーラヤ識からの直接的な顕現として の環境世界と個体存在であり,それら二つが「仮説の所依」としてのはたらきを なすことになる.さらに,それら二つの中の前者(artha =環境世界)に対する能遍 計が四番目の vijñapti,すなわち,前六識であり,後者(sattva =個体存在)に対す る能遍計が三番目の ātman,すなわち,マナ識に他ならないのである.

3. MV 第 I 章第 1 偈との対応関係 

Mahāyānasūtrālaṃkāra(= MSA)と MV の段階以降,三性説は唯識説と結合し,虚妄分別(abhūtaparikalpa)を依他起性とし て位置づけることによって,構造的に大きく変化し,三性説は唯識三性説へと変 化するのであるが,特に MV は思想的によくまとまっており,その中でも冒頭部 分の MV 第 I 章第 1 偈は MV 全体において示される唯識三性説の認識の構造を明 確に描いているといってよいであろう.ヴァスバンドゥが TK を造ったのは,そ の最晩年のことであったとされるが,それに先立って,MV に対する Bhāṣya を 造っているということからみた場合,MV における唯識説がヴァスバンドゥにお ける唯識思想の思想形成に大きな影響を与えていると考えることは,無理のない 考え方であるといえるであろう.MV と TK の冒頭の第 1 偈は,それぞれ,以下 のようになっている. 虚妄分別はある.そこに二つのものは存在しない.しかし,そこに空性は存在し,その (空性が存在する)同じところにまた,それ(虚妄分別)が存在する4) 実にさまざまな我・法の仮説がおこなわれるのであるが,それは,識転変においてであ る.その転変は,三種である5) この MV 第 I 章第 1 偈と TK 第 1 偈とを比較してみると,両者はともに,唯識 であるが,「外のダルマ」というのは先にも触れたように当然であるとしても,「内 のアートマン」ではなく,「外のアートマン」とは何なのか,ということが一つの 問題点として浮かび上がってくることになるであろう.要するに,ここでは,内 にアートマン(認識主観=能取)があり,外にダルマ(認識対象=所取)があって 「アートマンがダルマをみる」というような,極めて単純な認識の構造についての 説明をしているわけではないのである.また,この部分が TK 第 1 偈について説 明する箇所であるということには注意を要するであろう.それゆえ,TK 第 1 偈 における「我・法の仮説」とは,「我が法をみる」というような単純な構造の認識 について説明しているわけではないということになるのである.結論を先取りし ていえば,「外」とは,「識の外」のことであって,ここにおいて,われわれは, 初期唯識思想における認識の構造について考えるにあたって,「外」を「内の外」 と「外の外」とに分けて考える必要性を意識しておかなければならない段階,す なわち,内・外両方向の対象志向性を意識すべき段階に入っているのである.ま た,後述するように,ヴァスバンドゥは,MV 第 I 章第 1 偈において示される認 識の構造を強く意識した上で,TK 第 1 偈を作偈しているとみられるのである. その場合,三性にあてはめてみると,「我・法」と「能取・所取」が何れも遍計所 執性に対応し,虚妄分別と識転変が依他起性に対応しているという点は重要であ ろう.すなわち,MV に対して Bhāṣya を施したヴァスバンドゥは,そのような認 識のイメージを継承しつつ,独自の vijñānapariṇāma という新概念をそこに加え て,三性の中の遍計所執性に対応する言葉としてヴァスバンドゥ自身が MVbh に おいて使用した grāhya-grāhaka-bhāva(= g.g.bh.)という言葉を TK 第 1 偈では ātman と dharma という言葉によって表現しているということである.

2. アーラヤ識からの直接的な顕現としての「仮説の所依」 

次に,先に 「問題の所在」の中で触れた「四識の顕現」を説く MV 第 I 章第 3 偈とそれに対す るヴァスバンドゥによる説明をみてみよう. 対象・有情・自我・識別として顕現する識が生じる.しかし,その対象は存在しない. それが存在しないからそれ(識)もまた,存在していないのである2) そこにおいて「対象としての顕現」とは[識が]色(色・形)などの存在として顕現す ることである.「有情としての顕現」とは自分や他人の相続において[識が]五つの感覚 器官(五根)として[顕現すること]である.「自我としての顕現」とは,汚れた意(染 汚末那)である.自我についての愚かさなど[の四つの煩悩]と相応するからである.

(5)

が MV 第 I 章第 1 偈に対する Bhāṣya において使用する g.g.bh. という言葉は,遍 計所執性に対応しており,TK 第 1 偈においては,それは,遍計所執性を意味す る ātman と dharma に対応することが確認できる.そして,ātman は〈内の外〉に 構想され,dharma は〈外の外〉に構想される認識の構造が示されているのであ る.この場合,「ātman が dharma をみている」のではないのであるから,両者の 間に相対的関係性が存在しないのは自明のことであるといえる.上記のような検 討の結果として,初期唯識とは異なる,極度に単純化された認識の構造を示す認 識論・論理学(やインド哲学)関係の文献において使用される場合の g.g.bh. とい う言葉に対する訳語である「所取・能取関係」という訳語は,その同じ言葉が初 期唯識論書において遍計所執性を意味する言葉として使用される場合には,採用 できない,ということが確認できるのである.  1)Tbh, p. 16, ll. 4–7.  2)MVbh, p. 18, ll. 21–22.  3)MVbh, p. 18, l. 23–p. 19, l. 4.  4)MVbh, p. 17, ll. 16–17.  5)TK, p. 13, ll. 3–4. 〈一次文献と略号〉

TK(Tbh) Triṃśikābhāṣya. Vijñaptimātratāsiddhi: Deux Traités de Vasubandhu, Viṃ-śatikā (la Vingtaine) accompagnée d’une Explication en Prose et Triṃśikā (la Trentaine) avec la commentaire de Sthiramati. Ed. Sylvain Lévi. I. Paris: H.

Champion, 1925.

MV(MVbh) Madhyāntavibhāga-bhāṣya. Ed. Gadjin M. Nagao. Tokyo: Suzuki Research

Foundation, 1964. 〈参考文献〉 北野新太郎 2015「初期唯識文献と認識論・論理学における grāhya-grāhaka-bhāva という語 の意味の違いについて──アーラヤ識の二重にはたらく対象志向性との関係を中心と して──」『佛教大学仏教学会紀要』20: 39–66. ――― 2016「初期唯識文献における grāhya-grāhaka-bhāva の問題点──〈粘土と壺〉と 〈麻・縄・蛇〉との違いをめぐって──」『佛教大学仏教学会紀要』21: 41–75. 〈キーワード〉 外のアートマン,bāhyenātmanā,遍計所執性,grāhya-grāhaka-bhāva,唯識 三性説,仮説の所依 (九州大学非常勤講師,博士(文学)) 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察(北 野) (173) 三性説における基本的な認識の構造について説明していることが確認できるので あるが,この両偈を三性との関係からみてみると,MV 第 I 章第 1 偈では,① 遍 計所執性= dvaya,② 依他起性= abhūtaparikalpa,③ 円成実性= śūnyatā というこ とが示されており,TK 第 1 偈では,① 遍計所執性= ātman と dharma,② 依他起 性= vijñānapariṇāma というように示されていることがわかる.ヴァスバンドゥ は,TK において識転変という独自の新たな理論を導入しつつ唯識説を展開する のであるが,先にも触れたように,それに先立って,MV に対する Bhāṣya を造っ ているから,ヴァスバンドゥが TK 第 1 偈を作偈する段階においては,当然のこ とながら,MV 第 I 章第 1 偈の認識の構造が念頭にあったはずである.そして, 筆者が北野(2015)と北野(2016)において問題とした g.g.bh. という言葉は,ヴァ スバンドゥが MV 第 I 章第 1 偈に対する Bhāṣya において使用している言葉に他な らないのであるが,それは三性の中の遍計所執性に対応する意味で使用されてお り,TK 第 1 偈においては,遍計所執性を意味する言葉は,先にみたように ātman と dharma に対応することが確認できるのである.仮に,g.g.bh. という言葉を「所 取・能取関係」と訳すのであれば,それに対応する ātman と dharma との間にも, 主観・客観の関係性がなければならないことになる,すなわち,ātman が dharma をみていて,それら二つの間に主観・客観の関係性がなければならないことにな るのであるが,先に確認したように,TK 第 1 偈においては内に ātman があって 外に dharma がある,ということがいわれているのではなく,ātman は〈内の外〉, dharma は〈外の外〉に構想され,それら二つのもの(=遍計所執性)が構想される ための外側方向の対象志向性を有する能遍計は意識であり,内側方向の対象志向 性を有する能遍計はマナ識であるということになるのである.

結論 

TK 第 1 偈を,スティラマティによる説明に従ってみた場合,遍計所執性 を意味する「外のアートマン」ということがいわれていることになるのであるが, 「外」とは,「識の外」であり,それは,「内側方向の外」とでもいうべきものであ るから,やはり,初期唯識思想においては,内と外との両方向に,対象志向性が はたらく認識の形が示されていることが確認できるのである.そして,三性のそ れぞれの中の何れの存在性格に対応するのかということを意識した上で,(よく似 た認識の構造を示している)MV 第 I 章第 1 偈と TK 第 1 偈とを比較してみた場合, ヴァスバンドゥは MV 第 I 章第 1 偈を唯識三性説における認識モデルの一つの原 型と見做した上で,そこに自身の採用した新たな識転変という考え方を導入する ことによって TK 第 1 偈を作偈していると考えられるのであるが,ヴァスバンドゥ (172) 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察(北 野)

(6)

が MV 第 I 章第 1 偈に対する Bhāṣya において使用する g.g.bh. という言葉は,遍 計所執性に対応しており,TK 第 1 偈においては,それは,遍計所執性を意味す る ātman と dharma に対応することが確認できる.そして,ātman は〈内の外〉に 構想され,dharma は〈外の外〉に構想される認識の構造が示されているのであ る.この場合,「ātman が dharma をみている」のではないのであるから,両者の 間に相対的関係性が存在しないのは自明のことであるといえる.上記のような検 討の結果として,初期唯識とは異なる,極度に単純化された認識の構造を示す認 識論・論理学(やインド哲学)関係の文献において使用される場合の g.g.bh. とい う言葉に対する訳語である「所取・能取関係」という訳語は,その同じ言葉が初 期唯識論書において遍計所執性を意味する言葉として使用される場合には,採用 できない,ということが確認できるのである.  1)Tbh, p. 16, ll. 4–7.  2)MVbh, p. 18, ll. 21–22.  3)MVbh, p. 18, l. 23–p. 19, l. 4.  4)MVbh, p. 17, ll. 16–17.  5)TK, p. 13, ll. 3–4. 〈一次文献と略号〉

TK(Tbh) Triṃśikābhāṣya. Vijñaptimātratāsiddhi: Deux Traités de Vasubandhu, Viṃ-śatikā (la Vingtaine) accompagnée d’une Explication en Prose et Triṃśikā (la Trentaine) avec la commentaire de Sthiramati. Ed. Sylvain Lévi. I. Paris: H.

Champion, 1925.

MV(MVbh) Madhyāntavibhāga-bhāṣya. Ed. Gadjin M. Nagao. Tokyo: Suzuki Research

Foundation, 1964. 〈参考文献〉 北野新太郎 2015「初期唯識文献と認識論・論理学における grāhya-grāhaka-bhāva という語 の意味の違いについて──アーラヤ識の二重にはたらく対象志向性との関係を中心と して──」『佛教大学仏教学会紀要』20: 39–66. ――― 2016「初期唯識文献における grāhya-grāhaka-bhāva の問題点──〈粘土と壺〉と 〈麻・縄・蛇〉との違いをめぐって──」『佛教大学仏教学会紀要』21: 41–75. 〈キーワード〉 外のアートマン,bāhyenātmanā,遍計所執性,grāhya-grāhaka-bhāva,唯識 三性説,仮説の所依 (九州大学非常勤講師,博士(文学)) 三性説における基本的な認識の構造について説明していることが確認できるので あるが,この両偈を三性との関係からみてみると,MV 第 I 章第 1 偈では,① 遍 計所執性= dvaya,② 依他起性= abhūtaparikalpa,③ 円成実性= śūnyatā というこ とが示されており,TK 第 1 偈では,① 遍計所執性= ātman と dharma,② 依他起 性= vijñānapariṇāma というように示されていることがわかる.ヴァスバンドゥ は,TK において識転変という独自の新たな理論を導入しつつ唯識説を展開する のであるが,先にも触れたように,それに先立って,MV に対する Bhāṣya を造っ ているから,ヴァスバンドゥが TK 第 1 偈を作偈する段階においては,当然のこ とながら,MV 第 I 章第 1 偈の認識の構造が念頭にあったはずである.そして, 筆者が北野(2015)と北野(2016)において問題とした g.g.bh. という言葉は,ヴァ スバンドゥが MV 第 I 章第 1 偈に対する Bhāṣya において使用している言葉に他な らないのであるが,それは三性の中の遍計所執性に対応する意味で使用されてお り,TK 第 1 偈においては,遍計所執性を意味する言葉は,先にみたように ātman と dharma に対応することが確認できるのである.仮に,g.g.bh. という言葉を「所 取・能取関係」と訳すのであれば,それに対応する ātman と dharma との間にも, 主観・客観の関係性がなければならないことになる,すなわち,ātman が dharma をみていて,それら二つの間に主観・客観の関係性がなければならないことにな るのであるが,先に確認したように,TK 第 1 偈においては内に ātman があって 外に dharma がある,ということがいわれているのではなく,ātman は〈内の外〉, dharma は〈外の外〉に構想され,それら二つのもの(=遍計所執性)が構想される ための外側方向の対象志向性を有する能遍計は意識であり,内側方向の対象志向 性を有する能遍計はマナ識であるということになるのである.

結論 

TK 第 1 偈を,スティラマティによる説明に従ってみた場合,遍計所執性 を意味する「外のアートマン」ということがいわれていることになるのであるが, 「外」とは,「識の外」であり,それは,「内側方向の外」とでもいうべきものであ るから,やはり,初期唯識思想においては,内と外との両方向に,対象志向性が はたらく認識の形が示されていることが確認できるのである.そして,三性のそ れぞれの中の何れの存在性格に対応するのかということを意識した上で,(よく似 た認識の構造を示している)MV 第 I 章第 1 偈と TK 第 1 偈とを比較してみた場合, ヴァスバンドゥは MV 第 I 章第 1 偈を唯識三性説における認識モデルの一つの原 型と見做した上で,そこに自身の採用した新たな識転変という考え方を導入する ことによって TK 第 1 偈を作偈していると考えられるのであるが,ヴァスバンドゥ

参照

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