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ア
太宰治の作品系列を︑年代を迫うて兇渡すと︑第一期は昭
和七年の﹁晩年﹂から昭和十二年の﹁西口目目5m己まで︑
第二期は昭和十三年の﹁姥捨﹂から昭和二十年の﹁新釈諸圃
噺﹂まで︑第三期は二十一年のズンドラの肥﹂から二十三
年の﹁人間失格﹂まで︑と大きく三つに分けて考えることが
できる︒
この小稿では︑第一期の太宰治について考えるのであるが
この期間は︑私の考えでは更に二つに分けるのが至当である
と思われる︒
即ち第一創作集﹁晩年﹂に収められた十四筋の作品﹁葉﹂
﹁忠ひ出﹂﹁魚服記﹂﹁列車﹂﹁地球図﹂﹁独ヶ島﹂﹁雀こ﹂
﹁通化の鞭﹂﹁猿而冠者﹂﹁逆行﹂﹁彼は昔の彼ならず﹂﹁ロ
マネスク﹂﹁玩典﹂﹁陰火﹂が杏かれた昭和七︑八︑九の三
ヶ年と︑昭和十年三月の鎌倉旧殺未遂躯件以後に将かれた
﹁ダス・ゲマイネ﹂から﹁虚柵の稀﹂﹁狂言の神﹂﹁刺生記﹂
などを経て﹁二十世紀旗手﹂﹁雷巨日§旨いこに至る昭和十
十一︑十二の足かけ三ケ年である︒この二つの期間は︑従米 ﹁晩年﹂と﹁晩年﹂以後
ひ
1﹁晩年﹂時代
﹁どうせ死ぬのだ︒ねむるようなよいロマンスを一篇だけ害
いてみたい︒﹂︵葉︶
父は政治家で忙がしく︑母も病身であって︑叔母・乳母・
子守の手で育てられた太宰は肉親の愛をうけることが薄く︑
そういう人々から教えられる既成の遁徳・習慣がのみこめな
いために︑目分ひとり変っているような思いで成人し︑更に
コミュニズムの洗礼をうけて︑自分が滅び去るべき地主の階
級に属するという愈識をもち︑いよいよ死なねばならぬと思
いこんだ彼が︑岐後に抱いた祈願が︑それであった︒
彼は﹁迪併﹂のつもりで︑滅亡の民の典型を稗きのこすつ
もりで錐をとったのである︒ 一括して太宰節一期として論じられてきているが︑彼の創作 態皮は明らかに別のものであり︑この机述は太宰治を紬ずる 上において兄逃がすことのできないものだと思う︒以下︑そ のことに触れながら︑太宰文学を考えてゆきたい︒
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森
井
道男
りげ4
︲︲h︲や晨紗lll
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﹁小さい遺書のつもりで︑こんな穂い子供もいましたとい
ふ幼年及び少年時代の私の告白を︑書き綴ったのであるが︑
その遺書が︑逆に猛烈に気がかりになって︑私の虚無に幽か
︒と︒もし
な燭燈がともつ↑た︒﹂︵東京八景︶
これは作家としての執念を告白していると言えよう︒死を
前提としてや彼は心おきなく彼の芸術を造型した︒あらゆる
小説のメタイルを︑彼はここで試みている︒豊富な幻想と才
能によって綴られたこの期の作品が︑﹁晩年﹂には収められ
︵註1︶
ている︒﹁私はこの本一冊を創るためにのみ生れた︒﹂とか︑
﹁これが私の唯一の遡著になるだらうと思ひましたから︑題
︽鮎2︶
も﹁晩年﹂として置いた﹂︲といった彼自身の言莱が︑このと
きの彼の創作態度をハッキリ語っている︒
︵註3︶
彼は自分の作品のことを﹁でんでん太鼓の美しさ﹂だとい
っていた︒社会に対して︑直接的には何の効用も持たぬもの
だという意味である︒けれども︑それはそれなりに︑人を慰
め︑心をうるおすものだという点で︑彼は作家としての自分
の存在を肯定する気持になれたのである︒
﹁遺書﹂が逆に彼を生かしたわけである︒
太宰には自己否定のコンプレックスと共に大地主の私門に
生れたための選民意識もあったことは︑多くの人が指摘して
いる︒彼自身はそういうものを嫌悪して︑何とか排除しよう
としていたのであるが︑この期の作品にはこの意識は聡然と
して出ている︒傑作をつくろうとする若い太宰の意気ごみと
10今︑少点毛◆
己
自信は︑﹁晩年﹂十四筋の作品において︑構成︑手法︑文体
に至るまで︑あらゆるスタイルを使いわけている事実にもす
でにうかがわれる︒書きあげたら死ぬ気で書いていたのであ
︵註4︾
るから︑﹁生涯の惜熱すべてこの一巻に収め﹂ようとする気
純も当然であろう︒
しかし後に彼はこの傑作意識を自省して﹁君の一点の非な
き短荊集〃晩年とやらの︑冷酷︑見るがいい.傑作のお手
︵註5︶
本︑あかはだか苦しく﹂と言っている︒こういう自省をさせ
るものは︑彼の︑文学は市民への奉仕である︑という考えか
らである︒即ち︑奉仕を忘れて芸術のための芸術美をつくろ
うと腐心することは︑彼の倫理が許さないのである︒しかし
ながら繰返すようであるが﹁晩年﹂は半ば遺書的な気持でか
かれた︒だから︑これ以後の太宰文学とくらべて︑かなり異
った味をたたえているのである︒
2﹁晩年﹂以後
この期の太宰文学は︑遺書ではない︒彼は自己否定の意識
を逆にとって︑これを以て彼の文学の存在理由とするのであ
る︒
まず︑人間としての自己否定意識であるが︑そういう意識
を抱いているもの︑即ち弱き者︑日陰者としての自己を作品
に造型し︑描き出すことによって︑彼は自分と同じような弱
き者たちを力づけ︑安堵させようと考える︒
『
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一
にちがひない︑と傭じでゐた︒﹂︵瀬傭の欧留多︶ して︑ひそかに安堵︑生きることへの自負心を持って呉れる ゐる弱い貧しい人の子は︑私の素振りの陰に罪の兄貴を発見 の盗賊を抱き︑乞食の実感を宿し︑襖悩娠嬢の日夜を送って た︒乞食の真似をさへしてみせた︒心の奥の一隅に︑まこと せたく︑そのことのみを念じてゐた︒私は盗賊のふりをし さうして一時間でも永く楽しませ︑自信を持たせ︑大笑ひさ ﹁私は︑みんなを畏怖して︑それから︑みんなを少しでも︑
この期の彼の作品は︑そういう意繊で以て稗かれている︒
たとえば﹁狂言の神﹂は︑彼の謙倉自殺行を杏いた小説であ
る︒そういう小脱にすら︑主人公を︑サラリーマンにあこが
れ︑死ぬる際まで一定職につこうつこうと焦った挙句︑みや
こ新川社の入社拭験に藩節して死をえらぶ小脱家として設定
している︒これはサラリーマン礼繊であると側時に︑そうい
う市踏としての生活力すら伽え得ない弱き軒への諏援でもあ
る︒鋤き将を文学に地型することがA弱き考Vへの声扱にな
ると彼は考えたのである︒奉仕の文学の倫理である︒この倫
理は彼の作品の内容のみならず︑スタイルまでを律してゆ
く︒﹁狂薗の神﹂において︑森鴎外の文体を薪りて評き出し
ながら︑忽ち作蒋が議場してひっくり返す意識的な混乱﹁創
生記﹂の片仮名文や振り仮名の混用︑極蝋な助詞の省略︒
﹁四厘日目Foこのほとんど散文詩のような︑意識的な旧小
説スタイルの破壊lこれらは傑作意搬を捨てて︑奉仕の文
庚由
学をつくろうとしての太宰の倫理がさせたものであろう︒ ﹁斜陽﹂の直治の手記に︑次のように言わせている︒ ﹁ゲエテにだって誓って言へる︒僕は︑どんなにでも巧く書 けます︒一篇の栂成あやまたず︑適度の滑稽︑読者の眼のう らを焼く悲哀︑若しくは︑粛然︑所謂襟を正さしめ︑完盤の お小説︑︵中略︶どだいそんな傑作意識がケチ臭いといふん だ︒﹂また︑ ﹁文いたらず︑人いたらぬ風附︑おもちゃのラッパを吹いて お川かせ申し︑ここに日本一の脇鹿がゐます︒あなたはまだ いいはうですよ︑健在なれfと願ふ愛蹄は︑これはいった
︵註6︶
い何でせう︒﹂
あなたはまだいいほうだ︑と荷ってきかせる︒それが澁慨
である︒古来そんな意識で小脱を沸いた作家は併無であった
ろう︒
××
以上で︑極めて而叩にではあるが︑節一期太宰文学を奥に
細分して︑その机述点をのべてきた︒
即ちⅢ期は所洲﹁遺神﹂として︑かなり自己満足的なもの
を︑その根本に含んでおり︑後期は一幟して︑市民のため︑
社会のための奉仕の文学という倫理を掲げて︑非術に努力し
て作品を害いているのである︒
註
1可もの思う薮L所収﹁晩年について﹂
一F
、
ユ7
・西1抑0伊︐.0470口lhⅡI
田口伊
6 5 4 3 2
﹃二十世紀雄手﹄ との﹁斜陽﹂の直治の手紀には︑次のような前匿が附してあ る︒可そのノートブックの表紙には︑夕顔日誌と香きしるされ︑ その中には︑次のような事が一ぱい書き散らされていたのであ る︒面治が︑あの麻薬中毒で苦しんでいた頃の手記のようであっ た︒L﹁斜賜﹂はずっと後︑昭和二十二年の執繁であるが︑この 面治の手記だけは明らかにこの節一期後半︑パピナール中誰に陥 っていた頃の太宰の湊が含まれていると考えてよいであろう︒
﹃他人に語るL河もの思う誰L所収司ふたたび番簡のことL 可二十世紀放手﹂
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