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藤 井 啓 行

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本文中の引川文はすべて邦訳し︵もちろん︑既刊の翻択巾手杵に

あるものは参照させていただいたx特に可ジッダールタLからの引 この小論の中でこれから扱おうとする小魏の題名八m匙豊自答富vの州字表砠について︑いま右においては一応尋常の表紀法にしたが二L可シッダルタLとしたが︑初めに一つことわっておきたいことがある︒というのは︑いうまでもなく悉遠多命昼島目冒lサンメクリット砿で︑︑的を達した将の通︶は︑仏陀たる釈迦のいわゆる成道以前の潴であるが︑このヘッセの作品では︑病の翁を僻りつつ︑主人公睦畠建目蓉冒を︑釈尊自身たる衝審駅︵釈迦の姓︑曾再冒層の呂冒目︶と柵成上一応まったく別の人物として取扱勺ているので︑今後は堕屋盲目盲を︑異議があるかもしれぬが︑そのドイツ語としての﹁漂準的なL発音e昌脅︒浄厚c鼻言侭言&●・園層獣宮二等による︶に則って﹁ジッダールタ﹂としておこうと思うのである︒

ヘルマン・ヘッセの

﹁シッダルタ︲印度の詩﹂

用中ぜひ必要と思う個所若干には︑原文も添えておいた︒また引用

文中︑点線の部分は︑縦者が便江上省略した個所である︒それらの

引用文の原典所峨頁数については︑八塑邑盲同号画vからのものはすべて本文内︵︶の中に︑また他の諸作品からのものは︑結尾

の人独Vにおいて記しておいた︒なお︑ヘッセの作品巾直接引用に使

用したテキストのみ︑年代順にして次にあげておく︒︵主として叩

行本形式の作品雌lの悶自目・胃烹鳥・吻尉胃言﹃諄﹃肩.鞭後

砕冒冨ョ吾惠﹃肩より川た国昌儲旨眉噌篇のあるものはそれ︑によ

る︒ちなみに︑ヘッセ生誕七十近年の記念に出た六巻の軽作築は︑

更にその八十才の記念に期袖されて七巻の﹁全染﹄となった︒l

の臨目目曼・亘︒言目需冨ご紹為2冒冒・言酔胃鼻目乞罰.︶題名

の前にあげた数字は︑作品の成立︑場合によっては発表の年度を示

している︒

﹄g︽

﹄︒﹄﹃﹄C﹄︑ 弓星島︵首目︒罵言塁︵切国m号胃︾国⑥藍邑.﹄@函P︶一ざ邑号﹃︑g盲冒如碗①胃画呂冒長①旨.︵罰駕言﹃・岳誤.︶

陣局昌一巨呂﹃層君一旦⑦鳥⑥盲.国自曇ご具色浸皇⑤竺烏昌闇毒︒﹈巨娠曾昼

藤井啓行

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I

*

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しようとつとめているのである︒ みを鍼火に追いつづけ︑扮飾を極力排しつつそれを端的部面に褒現 小脱の中で︑主人公ジッダールタの生涯のうちに作蒋自身の魂の歩 ︐その通狸におけるヘッセの代表作ということができるが︑彼はこの 全には究めつくしえない無限の道なのである︒可ジッダールタ膿も の展開を紐ながら現在にまで至っているわけだ︒この道は決して完 この作品をもって彼が力強く踏みだした自我への道は︑その後不断

ヘッセの小脱には一般にフィクションの要素が稀薄である︒可小

脱らしからぬ小脱﹂とも称する所以であろうし︑その点いわゆる小

脱の川白さ︑眺醐味などといったものとは絃遡いものであるかもし

れない︒それでは︑彼の作品がわれわれに深い意味において感銘を

与えるのは︑何によるのであろうか︒これに対しては︑ヘッセの︑︑︑︑℃︑︑︑︑︑︑bすぐれた芸術家としての魂の深さ︑志向の正しさ︑いいかえればそ

の﹁賊火さし﹁純粋さ﹂などにおいてであるといえると思う︒もと

より︑﹁誠災﹄といい﹁純粋﹄といったところで︑それら自体は本

質的な怠味においては文学と別にかかわりのないことであり︑この

ようなたぐいの概念のみを前に掲げるのは本末転倒ともいうべきだ

ろうが︑また他方︑本当の意味でのモラーリッシニな作家精神が︑

すぐれた文学にとって不可欠のものであるのはいうまでもない︒と

ころで文学作品の与える感銘の本質ということを考えるとき︑何よ

りもまず第一に問題にしなければならないのは︑辨象を街く作家の︑︑︑鋭いまなこである︒作品の底を一筒して浜々と流れる強靭な文学輔

神︑そこから形づくられる可美﹂︑それが一銃︑挽者の心を強く把

えるとき︑そこにこそ魅力も強い感銘も生まれるのではないか︒

作品にとって節一義の問題はこの点にこそ存する︒そして右の覗愉

を十分ふまえた上では︑もとより﹁誠実﹂といい﹁純粋Lといった

魂の態庇はきわめて貴いものであるといわなければなるまい︒

こうした点からヘッセの小説の中で代表的なものをあげるとなる

と︑やはりそれは︑深みを加え円熟したいわゆる後期の作品系列の

巾から避ぶのがまず順当であろう︒といえば︑可デーミアど旬ジ

ッダールタLなどから股近の大作可ガラス玉演戯偽G九四三︶に

至る系列である︒以上は︑中でも先にあげた二作は︑その一途に自

我を︑﹁魂の発展Lを巡求する作嵐からみても︑またその創作年庇

の推近という収附からしても︑祁互の剛にはきわめて緊密な関係が

あるように思われる︒

これらの作品において︑ともかくも側々として迫ってくるヘッセ

の︑デ・イヒターとしての輔神の深さはよくみとめることができる︒

一街してながめるとき︑永遠の求道者ヘッセの姿は明らかである︒

﹁魂の発展﹂というからには︑これらの作品の中にはいずれも︑主

人公たちの魂の様々な蹟き︑悩み︑憧れ︑進展︑そして浄化が︑作

者の狸得した確かな采によって逐一描かれているのはいうまでもな

いが︑しかもまた作品全体を大きくながめるとき︑結局はそれらす

べてが︑最後の絶対の境地にいたる噸次の道程の一つ一つにほかな

らないようである︒同時にとりも直さず︑一つの目標に向かってまつ

しぐらに進む作者の姿勢が自ずからまざまざと浮び︑それだけその

世界も﹁純粋﹂とはいえようが︑他方何か息苦しい感じのされるの

も否みがたいようである︒このことはすでに一.デーミアンLにおい

て認められたところであったが︑可ジッダールタしにしても︑これは

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i

祁然たる一つのみごとな詩ともいうべきもので︑その東洋的に深く 一 一

凉しいおもむきは全く捨てがたいところなのだが︑他方またこの作

品にも︑ごく普通の目でながめるとき所調小説としてはどこか稀

薄さが感じられもするのは︑どうしたわけか︒実はここでも︑前

作﹁デーミアンとに較べてひめやかとはいえ︑やはりなお﹁魂の発

展﹂のいわば図式のようなものが肴られるのである︒他の登場人物

たちはもとより︑主人公のジッダールタまでが︑この作品の詩のま

まに流されて︑ある見方よりすると︑それらの人物はみな作品のイ

デーを具現するための操り人形のようにもみえてくる︒そして索材

があまりにも整然と処理されすぎているといった樫みがあるとも思

えてくる︒しかもなお読後︑全体としての作品の印象がなみなみな

らず強いことは︑作者のアルチストとしての力最の大きさを示すも

のにほかならぬといわざるをえない︒この点︑凱切で洗練された畳

語が非常に多い︑また張りつめて極度に商い調子をもつ−たその独得

のスタイルと相まって︑さきに可デーミアン諭島においてもすでに

触れたところの象徴の意味を︑ここでも︑その作品全体にあらわれ

ているものとして砿視する必要があると思う︒象徴的に作品全休を

銃みとるとき︑この小説の高い調子は芸術的に深い感動を生まずに

おかないであろう︒

このインドを舞台とした作品は︑邦一次世界大職終結後軽速から

ぬ一九二二年︑作考四十五才のときに発表された︒ヘッセは︑その

父も雌もキリスト教の布数師としてそれぞれインドと束インドで伝

適に従班した関係から︑幼時よりインドによって代表される東洋的

︵b︶な雰州気の中に育ったのだが︑とりわけ母方の祖父H・グンデルト

1 1

− −

により︑﹁聖書のグンデルトLとたたえられたその高い人格とともに︑

そのインド学と東洋関係のゆたかな蔵書とを通じて︑大きな影稗を

うけてきたのだった︒幼いときから東洋殊にインドの数々の神話が

その心をとらえて離さなかったのだし︑また彼はそれから久しくそ

の詩や宗教の雰朋気の中に生きてきたのである︒そしてのち一九一

一年に行ったインド旅行で︑彼は現実の東洋には失望をおぼえなが

らも︑他方︑人類は言語や人櫛が異なってもみな兄弟なのだというヒ

ューマニズムを強く体験し︑かえって﹁真のインドLに対する郷愁は

更に地についた錐固なものとなった︒ヘッセが︑第一次世界大戦の

動乱をはさんで資本主義社会の危機を西欧の文化それ自体の危機と

して自覚し︑その救いを東洋︵殊にインド︑のちに中国︶︑彼のい

︵■且︶わゆる﹁太古のアジヤ的な神秘の那想Lに求めたということも︑な

の事情から容易に理解することができるであろう︒

今︵ザ︶ヘッセの回想によれば︑彼はその生涯の半分以上にわたってイン

ドならびにシナの研究に従噸した︒しかもここで十分に注意しなけ

ればならないのは︑それも仏教徒あるいは夕.オィストになろうとし

たのではなく︑﹁機関車の発明によっても︑またピスマルクによって

も破壊されなかった﹂ところの︑またゲーテが等しく神のものと歌っ

た真のヨーロッパと真の東洋︑ヴェーダとバイブル︑そして仏陀とゲ

ーテとが同じくあずかっているところの︑共迦な糀神の世界に対す

る愛が︑実はその雅盤にあったことである︒これは稲ジッダールタ座を

考える上で忘れてはならないことだ︒可ジッダールタLは決して異国

的な風俗小説でもいわゆる歴史小説でもない︒この作品によってヘ

ッセは︑幼いころから多年胸中に端ってきたところの︑束洋への深

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い恢溌に対する感謝の義務を聯ったものとはいいうるが︑その主題

はあくまで︑主人公ジッダールタの生涯のうちに作者自身の魂の歩

みを跡づけようとするものである︒ヨジッダールタ巳においてうか

がわれるヘッセの︑東洋思想に対する把握のしかたは深いものであ

るといわずばなるまいが︑しかもまた彼の次の言葉はここでもやは

りあてはまるものと思われる︒﹁われわれの東洋は単に一つの土地︑

ある地理的なものであるばかりでなく︑それは故郷︑魂の青春で

あった︑それは到るところでありどこでもないところ︵旨い皇︶胃邑

︵﹃j︶昌三冨晨9号︶であった︑あらゆる時代の銃合であった︒・・・﹂

ところでこの作品においてもはっきりとあらわれているヘッセの

自我への道は︑すでに少処女作々可へルマン・ラウジャーL︵一九

○一︶よりはじまるものである︒その間の堺淵については︑すでに

↑・デーミアン勘・﹄で私の考えのアウトラインを述べておいたところ

だが︑作品電ジッダールタしの趾胎ともいうべき﹃デーミアンLに

おける主人公の︑究極の目標たるフラウ・エヴァに関連したイデー

についてだけここで今少し触れておこう︒

フラゥ・エヴァは即ち可デーミアン・↓の序文に語られているとこ

︵・弓︾ろの︑われわれすべての出所たる深淵に通じる︒それはまた︑知性と

官能との対立ならびに共鳴をみごとにうたいあげた一つの罠旨彦8

可ナルッィスとゴルトムントLの中でも明確に述べられているよう

に︑あらゆる存在の根底にあって︑″物を創遊しまたそれを破製す

るところの早目昌胃に通じるものである︒ここには︑世界におけ

るもろもろの対立とそれらをすべて一牙の中に包捜した侃大な存在

とについてのヘッセの考えが︑よくうかがわれる︒そうしてこの

ような存在を具象化したフラウ・エヴァのもとへは︑主人公シンク

レァは自我のきびしい探索・苦闘の果にはじめて達することができ

たのであって︑ここに到達したものはもはや孤独ではなく︑共通の母

によって全人類︑いや更に宇宙の万物とも結びつけられ︑それらと

の間に深い血縁を禅るにいたるのである︒自我はここでついに司卵

︵P3︺の殻﹂を破って新しく誕生するのであって︑この己冒晨胃吋に︑い

わばヨーロッパの新しい生誕の理想地が求められているということ

︹戸⑪︾ができる︒﹁対立の消えるところに拠錐がある﹂のだ︒そしてその

理想をヘッセはたまたまアジヤの輔神文化の中に脇めたわけで︑そ

の東洋的ミスティシスムとの親和側係の故に︑ヘッセの東洋への逃

避などと称してその東洋への傾倒を洩く解釈するのは︑どこまでも

避けるべきであろう︒

しかしながらもとより︑ヘッセみずからがこの鞘未によってその

まま安住の域にはいつ.たのでないことはいうまでもない︒彼は一九

二○年に出た紀行的随想﹁放浪Lの巾で︑術に変らぬ自己の木質を

明瞭に次の如く述べている︒﹁⁝私のなすべきことは︑多くの緊扱

した対立の間に浮かんでいて︑奇跡が私をとらえるときの用講をす

ることだ︒私のなすべきことは︑満足せずにおり︑不安に雌えるこ

とである︒⁝⁝到速された目標はもう目標ではなかった︒すべての

通はまわり道であった︒すべての休息は新たなあこがれを生み川し

︵今j︶た︒L永速の自我の巡礼者︑不断の職士ヘッセは︑さらに︑ジッダ

ールタ忠司端野の狼L電ナルッィスとゴルトムントL禅々と︑その

きびしい一筋道を突進んでゆくのである︒

ヘッセの小鋭は︑彼みずから﹁これらの︵自分の︶小脱はすべて

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私自身のことを取り扱っており︑猛自身の道︑私のひそかな夢と願

︵函⑥︸い︑私自身の苦しみを反映している︒Lと述べているように︑彼み

ずからの生涯の内面的変化︑発展を跡づけたものともいえるのであ

って︑従ってその数々の作品の主人公は︑すべて何らかの穆度で各

時代における彼の自画像であり︑分身にほかならない︒その窓味で

Tジッダールタムをはじめとする他の三つの一連の作品︵|︲クリング

ゾルの妓後の夏島可子供の心隆︾︲クラインとヴァーグナー﹄︶に冠せ

られた︑内面への通L君攪昌呂言思毎というタイトルは︑およそす

べてのその作品に︵﹃デーミアンL以後のものにはとりわけ︶︑多かれ

少なかれ妥当するものといってよいと思う︒ヘッセはくりかえし︑胸

の中の脚に耳をすますべきことを税いているのだが︑自我を探し求

泌る通に倣しきった彼の作品は自ずから主観的・非が爽的なものと︑︑もなり︑すじの複雑ないわゆる社会小説とは乳なったものであって︑

その傾向はいちじるしく糀神主蕊的︑非政治的であるといわざるを

えず︑この糊神的な方向は翻デーミアンL以後ことに顕蕃なところ

である︒もちろん自我に対するこの餓実な熊庇も︑ただ性急にその

方向にのみ一途に突きつめた場合︑ややもすれば観念の空転に陥り

やすい危険をも中にはらんでいるわけではあるが︑そこはどこまで

も作潔の︑袋術求としての伎僻にまつべきものであろう︒しかもま

た︑惟界の悲劇はすべて自己に忠火でないところから生まれるとす

るヘッセの兄解に従えば︑自我の探求こそはまことに急務であって︑

社会性の貧沌云々などといっても︑その作品が︑たとえば︑いわゆる

文人趣味によって脆別な主拙の吐蹴にのみおわるべき低舸的な心魂

小税のたぐいに︑決して化するものでないことは当然というべきで

あろう︒その点ヘッセはやはり︑ニーチェのいわゆる毅養俗物︵里︲

邑昌長砦︺三言§︶ならざる︑其の毅養の一路を歩みつづけた詩人であ

るといわねばならない︒

ヘッセは琴.ジッダールタLの鋪一部を︑はじめフランスの尊舶す

る友人ロマン・ロランに捧げた︒ヘッセはその多くのエッセイー

﹁観察し国毘昌e言冒砿昌︵一九二八︶︑知戦争と平和山︵一九四六︶

等I︑自伝的な紫描可短い股雁し︵一九二五︶などからも明らか

に分るように︑常に静かな︑平和に生きる愛の人︑しかも人間の螺

厳︑輔神の価値のために苦闘する弄団冒冨g駕壷であった︒その点

において︑ヒューマニストたるロランが︑過ぐる第一次の大戦小︑

彼をドイツの狩人たちの中で真にゲーテ的な態腱を保持した唯一の

︵9︶人としてたたえたのだが︑こうして芽生えた二人のかたい友冊は︑

一九四四年ロランが死ぬときまで災く銃いたのであった︒

また零ジッダールタLの鋪二部は︑以前からその收溌の砧んど

を川本でおくっている従弟W・グンデルトに搾げられた︒グンデル

トは︑ヘッセのすべての友人たちの巾でも︑雄も深く束洋の思想を

研究し︑また蚊も災い間その空筑の中でくらしてきた人なのであ

ヲや一O

かくてこの作品は︑ヘッセの深いインド研究と︑自我を尋ね愛に

生きる彼の狩的漉観との倣然たる和合のうちに生みだされたものと

いわなければならない︒ここで句ジッダールタLの椛成を其体的にた ︵一一︶

(7)

どづてみることにしよう︒

xx

ジッダールタは︑学識すぐれた尚潔な人物を父として婆羅門の家

に生まれた︒彼は若年にしてすでに︑父や壌羅門の賢者たちからその

岐良の知紬の伝授を大部分うけおわり︑また解羅門としての聡伽修

行もあますところなく積んで︑父母や闘将︑また友人たちからその将

来に多大の伽頼と期待とをかけられていたのである︒しかもジッダ

ールタは彼みずからには何の罫びも与えず︑彼みずからの心をたの

しませることはついぞなかった︒それは彼が塘羅門たちの数捜と︑

︵c︾その川々の祭杷︑生活との間に︑大きな︑矛附Lを娘じて︑いたく

心を悩ませたからである︒ジッダールタは︑一面では︑もろもろの聖

典︑特にサーマヴェーダ留国目︲ご呂画の奥投書において︑司汝の

心は全世界なりLという言葉に象徴されるような叡知を心から頚

︵︒q︶歎した︒しかし他方︑身を洗いすすいだりブラジャーバティに柵牲

をささげることにのみ終始する婆羅門たちの実際生活には︑強い疑

いの念を抱かざるをえないのである︒1丁世界を創ったのは本当

アー︒rマソ︵e︺にブラジャーパティであろうか︒世界を創ったのは︑かの真我︑

﹁彼L︑かの唯一のもの︑かの無二なるものではないのか︒神々も︑

我や汝とひとしく被造のもので︑時の流れに従う無常の姿ではない

のか︒ではかかる神々に穏牲をささげるのは︑よいことであるか︒

正しいことであるか︒恵義ある行為であるか︒可彼L︑唯一のもの︑アートマンかの莫我をおいて︑誰に稲牲をささげるべきであろうか︑誰に崇敬

を致すべきであろうか︒L︵一○頁︶

ジッダールタは単なる知のみでは到底満足しない︒結局彼は︑奥

八﹁見たまえ︒Lとジッダールタはゴヴィンダに声低く言った︒|︐あ

の人こそ仏陀だ︒L⁝⁝⁝・⁝..

仏陀はつつましく︑そして思いに沈みながら歩みをはこんでいた︑ 義脊の中に示されているようなあの偉大なる認識覚知のすばらしさはよく脇めつつも︑その中にはついに大きな歓喜をおぼえること︑︑ができず︑岐商の認纈と湖和せる体験を今やひたすら求めるのであアート︾沙る︒そしてジッダールタは︑真我なるものは雌も奥深きところに住む自我︑各人が内に抱く不壊なるものの巾にこそ鼓助しているのでないかと考えたが︑父雌も賢者たちもそこに述すべき遊を示すことはアートザソ決してないのを強く知り︑彼は内なる自我︑典我を求めて︑父の柵威に枕しつつ︑ついに親友ゴヴィンダとともに沙門の激におもむくのである︒

かくて沙門たちのもとに加わったジッダールタは︑友ゴヴィンダアートザゾとともに一愈卑心︑唯一にして無二なる存在︑真我に到迷せんとし

て︑あらゆる人間的なものを抹殺し︑あるいは断食にっと診あるいは眼想にふけって自我を離れようとしたのであったが.それらも結

局は生の苦揃と無意味とに対するしばしの朧押にすぎず︑彼は絶え

ず可逃れがたい輪廻の苦しみを味わわなければならなかった﹂︵廿

了1.トギンニ頁︶のである︒そしてこの袷廻の苦悩を断って真我に達すること

こそ︑今や彼がみずからに課する不断の大間題となったわけである︒

このようにして三年の苦行を経たとき︑仏陀︵正覚者︶と称されぎI夕ぜる衝審摩が出現して︑おのれのうちに世の苦悩を克服し輪廻転生の

轍を停めた︑との噂が伝わってきた︒そこでジッダールタはゴヴィ

ンダとともに︑その教えを乾くべく出かけてゆくこととなる︒

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その静かな顔は罫くるともなくまた悲しめるともなかった︑それは

かすかに内に向かってほほえんでいるように思われた︒ほほえみを

内に秘めて︑静かに︑安らかに︑どこか健やかな子供にも似て︑仏陀

は歩みをはこんだ︑あらゆる弟子の僻と耐じように︑きびしい戒抑

にしたがって衣を碑け足を踏み進めた︒しかしその頗とその歩み︑

その岬かに伏せたまなざし︑その岬かに恥れた手︑さらにその帥か

に飛れた手の指の一つ一つまでもが︑平和を綴り︑完成を脇り︑求

めず︑倣わず︑とわの安らぎのうちに︑とわの光︑侵しえない平和

のうちに︑おだやかに息づいていた︒v

⁝己①﹃西宮全塁彦営哩冒頭駕冒困弓﹁@頭8辱恩o弓③塵⑥巨属巨邑旨︵皆邑冒詩⑤星

ご曾弧晨昌汚曾︼︑駕旨の風二①いの$ざ冨三自﹃一患色男﹃&三一︒一戸畠貴昏↓冨巨乱季

恩駕巨命目一s呂弓釣⑤彦冒目︒邑嗣匡一腎旨⑮旨.冨芦①言︒目く周一︺っ損c二e目

一F晉言盲.里晨目冨頤①旨①目需普昌呂露邑︒三︒言巨﹄ご昌胃三

君昌己呈ざ全島国巨﹄全き︑.胃巨頭邑鬮の曾雷冨竺屋昌一豊黛ご皇9戸司匡函

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臣冒蔚国罵︸匡邑昴目罰昌①軍営㈹旨⑦昌一巨蔚国5房胃言冒匡︑言.

・眉︒日昌昌罠儲巳目目星昌自︑G・韻I誤︶

枇尊瀦蒋際についてのこの叙述は︑時人の抑制され︑しかも内的活

力にみちたスタイルをあらわしているが︑このスタイルは狼虚さと

恵まれた婆術求気賀によって照らされたものということができる︒

さて喬審隈は︑また完全な安らかさと平和にみちた戸をも三L︑

苦について︑苦の由来について︑苫より離脱する道について︑おだ

やかに︑しかも砿間たる調子で税くのであった︒彼によれば︑.この

阯におけるあらゆる生は苗であり︑この苫の巾米するところは渦愛

にある︑かくてこの苫よりの離脱は︑生の柵捌︑ずなわちもろもろの

本能︑航悩を抑服することによってはじめて述成される︑而してこ

こにいたる道は︑八つの人倫の正しさ︵八型通︶︑すなわち正しい

立甥︑正しい思想︑砿しい#紫︑胆しい行為︑正しい生活︑正しい

努力︑正しい州操︑正しい輔神統一によらねばならぬ︑⁝⁝⁝こ

の税法に感激したゴヴィンダは︑進んで茄依するにいたる︒しかし

ながらシッダルタは︑その際これまで長年一締に歩んできた蝿友と

行動をともにはしないのである︒

今仏陀の説法に対するその態度を見るのに︑世界を完全な︑決してヂインヴエールゲン中断されることなき因果の永速の鎖として示し︑存在よりも生成

を肯定する喬答摩の︑世界像についての考えかたに︑ジッダールタ

は自分と同質のF富農③雪三を感じて深く獺歎する︒ジッダー

プテスクントルタⅡヘッセは﹁気質からも本質からも抗識者Lであり︑そして

﹁其のプロテスタントは︑その本質上存在よりも生成をより多く断

︵︶定するLのである︒しかしまた一方︑溌審駅の説教の実際上の根

幹ともいうべき﹁救済Lの穀鎚に対しては︑その壮崩な枇界像を破

るものであるとして︑ジッダールタは強く批判せざるをえなかった︒仏陀の数えは︑ジッダールタの解するところによれ嘆生成流転

のこの慨界のうちにあって︑生成への渦望Lを滅却してしま今た

者のみが救済され︑寂鮒狐錨の境地に述することができるとなす

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JJI

て︑生成の世界の内に︑またもろもろの現象の多轆性の内に大いな ︑︑︑︑︑ 彼みずから本来は全く知るところのない鞭柄ながら既に予感によっ い彼岸・浬桑に対する期待によっ↑てはあきたらぬあこがれ︑いまだ 仏陀の世界嬢はその論理的欲求を満足させるが︑その︑衷象しえな る教袈に対灘するところのものである︒結局ジッダールタにとって︑ そして苫の肯定︑これが︑ジッダールタが仏陀のいわゆる生の否走な 述の生成の肯定︑もろもろの本能︵感しきものも含めて︶の滑定︑ 定することはできない︒そのいずれもが必嬰なものなのである︒永 ば︑苫悩も欲再も同じ灘泉から川たものであり︑そのいずれをも否 することによって︑この苫を超克しようとするのだヘッセによれ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑や︑勺 方向をとる︒ヘッセは喬符旅と全く巡ったやりかた即ち群をも徹定 ︑︑︑︑︑ ラーと同じく︑ヘッセもまた︑永速の生成︑榔生をあくまで櫛定する 対する態度は全く対照的である︒ニーチェのかのツアラトゥスト ものである︒これに対して︑ジッダールタを通型した詩人の︑生に

︑︑る統一を認めようとつとめる形而上学的なあこがれを︑充たすこと

はできなかつ︽たといいえよう︒この点において仏陀の致鋭は︑沙門と

しての修行同搬ジッダールタの知舳欲に典の澗足をもたらさなかっ

たのである︒

しかしながら以上は︑ひるがえって考えるに︑蒲騨康の脱法にお

いて村蕊を媒介としてあらわされたところの戦幾に対する︑ジッダ

ールタの︑可プロテ猛タントLとしての批判であり︑ジッダールタ

アートでソはこの批判を︑典我を求めて通雌する自分自身︑脚分一個のため

にこそやりとおさなければならなかったのである︒これはプロテス

タントたる者の木質だが︑彼はまた︑禰符隈の真意はいわゆる怠兇

などにはなくその曾葉は人顛救済のための便法であることは十分心

押ており︑喬韓醗が幾千万の轤靴門たちの求めていまだ碍ざる雌高

の脚採に到述した枇螺仏陀であることは硴儒していたのであって︑

この偉大な醐荷を光全な人として大いなる溌敬をささげるのであ

ヂ︵︾︒

﹁いままで︑間分はあのような眼ざしをし︑あのようにほほえみ︑

あのように坐し︑あのように歩む人を兇たことが江いとジッダ

ールタは考えた︒自分もあのように典爽な眼ざしをし︑あのような

典実さで︑ほほえみ︑坐し︑歩むことができるようになりたい︑

あのように自曲に︑あのように型く︑あのように典深く︑あのよう

にあからさまに︑あのように天真にしかも神秘に︒あのような真実

な眼ざしをもって兄︑あのような翼実な歩みを歩むのは︑ただ自己︑︑︑︑︑︑池︑︑︑︑の内奥に途した人だけだ︒よしそれなら︑自分もわが自我の内奥に︑︑︑︑℃︑︑︑℃︑︑︑到述せんとつとめてみよう︒L︵側五頁︑傍点帳者︶

しかもジッダールタは︑まさに自分自身の体験によってこそ︑正党

にいたる通︑その臼我︑その本蘭の核心に到進する道を会群しよう

と欲するのである︒仏陀とMじ道を彼は歩むことができない︒仏陀

の休職はジッダールタみずからのものではないのだ︒ジッダールタ

が繍審駅に向かって述べる次・の曾業は注目に柵する︒

﹁⁝⁝そしてlこれが私の考えでございます︑おお尊肴よ

何人にも救済は戦濃によ﹃ては授けられないのでございます︒何人

にも︑おお世尊よ︑仙螺は符葉と戦侭によって︑伽成道の瞬時に世

蝉の御身に起りしことを︑低えまた淵ることは不可能でございまし

ょう︒多くの内群を︑砿党に蝉く仏陀の御裟えは含み︑多くの荷に

(10)

91

一哩

班しく生きよ怒を避けよと教えられます︒しかしながらこの明らか

な︑この尊き御数えの中に含まれぬただ一つのことがございます︒

その伽毅えには︑仏陀御日野が︑面千万人の巾で仏陀のみが体験し

たまえることの秘奥は含まれていないということ︑即ちこれでござ

います︒これが御裟えを聴いて︑私の打え慨ったことでございま

す︒これが職が遡雌をつづける剛山でございますl他の災え︑よ

りよい数えを探すつもりはございません︑そのような戦えがないこ

と︑それを仏は水知しているのでございます︑あらゆる数えとあら

ゆる師から去って︑ただ一人でおのれの目概に罐すること︑しから

ずんば死することこそ秘の意図でございます︒⁝..⁝・﹂︵四三四

頁︶

ともあれ以上ながめてきた喬樗摩の姿︑またジッダールタと喬審

摩との対話は︑一面的な解釈など許さぬきわめて含蓄の深いもの

であり︑あくまで慎電に銃まねばならないが︑この仏陀との迦逓

は︑ジッダールタの鶉の発展にとって一つの正に象徴的な出米小で

あったということができる︒仏陀は彼に︑いわばジッダールタ自身

を卿ってくれたのである︒かくてジッダールタは限りなき孤独のう

ちに︑全く独自の述命の通を歩みつづけてゆくことになるのだっ

たり

仏陀のもとを去ってふたたび過雌の途にのぽったジッダールタ

が︑それまでの数々の閲雌︑またn分圃身ならびに世界について深く︑︑深く想いをこらしたとき︑まず彼の心をとらえたのは個性の間迦で

ある︒彼はその自我︑その木質のもつ・とも深い雑樅をあらためて探し

求めたのだ︒ここで彼は︑自分がもはや一個の成人となったこと︑

そして幼いころからずっと附いてまわったところの︑師を持ち災え

を聴こうとする願盟が自分の中に全く存在しなくなったことを砿錨

するにいたる︒その進路にあらわれた雌後の師︑妓尚の賢者︑漿上の

捌打たる枇聯蒋群駅からさえ彼は離れなければならなかったのであ

る︒このことに側迎して︑↑︲ジッダールタLとMじころに発炎した

︑ツアラトゥストラーの押州lドイツのが年に与える盆薬|の巾

で︑ヘッセは次のように明宙している︒即ち︑﹁謝芯は︑いかなる液脱

求︑いかなる撒側にも︑どういう名の胸であろうと耳に入れさせて

はならぬ︒謝濁の一人一人のなかにただ一羽の︑彼の︑彼自身の唯

一の燭のみがいるのであって︑彼はこの鰐の云うことに耳をかす必

︵Ⅱ︶要がある︒L自分自身の内閲からの脚をこそ聴かなければならない

のだ︒それに対して︑ジッダールタがこれまで教えや師から学んでき

たものは何であったろう︒それは自我の脱却にいたる厳々の手段で

あり︑しかもそれらはいずれも満足なものではなかった・ジッダール

タ自身なるものは︑彼にとっていつまでも未知の存在であるにとど

まった︒それは何故か︒いまのジッダールタの埒えによれば︑それは

彼が彼白身を怖れ︑術に脚分自身を避けているということからきて

いるのだ︒彼は︑自分︑身の脇紬にあたって妨げとなったものは︑火

アー︑卜﹀ソはいわゆる典我への︑思衆や群行による探紫であったということを

認める︒かく父附いたジッダールタは︑いまやみずからの個性ぞたよ

りにして︑その中にこそ生の秘密を探ろうとするのである︒l刊自

分日身を師にして自分は学ぶのだ︑自分自身の弟子となるのだ︑自

分︑このジッダールタという秘密を十分知るのだ︒L︵四九頁︶

この偶性的な自我へ向かう方向をとることは︑同時にまた︑自然が

(11)

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だった︒L︵四九五○頁︶また あるのではなかった︑それは邪物の中にありいっさいの中にあるの さではなかった︒⁝・・・⁝.︑.・・・⁝愈溌と本質とはどこか聯物の宵後に 求める深奥な襲羅門たちの蝿班する︑現象界の無意味で偶然な多椛 ヴェールではなかった︑それらはもはや︑彰繊をおとしめて統一を の中へはいってきた︑それらはもはや廠羅の廠術ではなく︑迷奏の マーラ︽f亭r1f1 た︒⁝⁝これらのいっさいが.⁝・⁝・はじめて眼を終てジッダールタ かった︑世界は色とりどりであった︑枇界は不思議で砿に充ちてい まはじめて惟界を見るように彼はあたりを児まわした︒枇界は英し のでもあるのだ︒しばらくヘッセの筆に目を向けてみよう︒11月い その姿をあらわすところの現象の多域性に対する肯定を意味するも

﹁ジッダールタはその進む一足ごとに新しいことを学んだ︑世界

は一変し︑彼の心は魅せられているのだ︒彼はHが森山の上にのぼ

り︑はるかなる椰子の浜辺にしずむのを見た︒夜は空に星がつらな

り︑三日月が蒼海の中の小舟のようにうかび漂うのを見た︒彼は

樹︑星︑動物や霊︑虹︑岩︑草︑花︑小川︑河︑そして朝の草むら

における露のきらめき︑青みわたるはるかな高山を見た︒烏は歌い

密蜂はうなった︑風は銀色に稲田でそよいだ︒⁝・⁝⁝⁝・・⁝そうい

うふうに求めるところなく︑そういうふうに単純に︑そういうふう

に天真に眺めるとき︑世界は美しかった︒月と星は美しかった︒小

川と岸べ︑森と岩︑山羊と黄金虫︑花と蝶は美しかった︒そういう

ふうに子供らしく︑そういうふうにめざめつつ︑そういうふうに近

いものに心を開き︑そういうふうに不信の念なく世界をさまようこ

とは︑すばらしく︑快かった︒⁝⁝・⁝・・昼は短かかった︑夜は蝿か

かつた︑一刻一刻は海上の帆のようにすみやかに飛び去った︑その

帆の下には︑宝に充ち欲びに充ちた融体があったcジッダールタは

狼の群れが森の高いアーチの中を︑大樹の輔高く沙ってゆくのを見

た︑そして淵々しい︑傭慾に燃える歌脚を耳にした︒・ジッダールタ

は牡羊が牝羊を迫うて交尾するのを兇た︒彼は麓の茂る湖の中に︑鷹つ峨艮魚が夕べの鰍えにかられて餌を追うのを兄た︑職長魚の肺に

は︑怖れ︑はためき︑きらめきながら︑藩魚たちが群をなして水の

そとにはねあがった︑力と州熟とが︑この兇暴な遡求稀のえがく惣

激な波紋から咽ぶように匂いでた︒L

⁝尻昌瓢重胃困冒全⑦自画頭⑤︑天巨﹃脚会⑦z鷲宮⑦.一旦⑦鱒巨自屋③宝︑匿

いわぼ目⑥二言︸巨舅⑦媚望瀞皇冨︑○頭呂湧巨一︽旨目鼻琴﹄のc﹃○勺目旨言目目︑⑤顕⑤一

①冒酔匡亀ぐ呈苫麗粋冨旨9.弓呈さ圏司月昌2.鯉邑冒邑昌留旨

①冒跨電画冒弓己弄目同旨◎毒c回ご至昌︽黄①室筐︸︶c室︾毎頁青﹃回︑一己昌〆冒緯○魚瀞↓毎

臣臣目︸&風①①旨昌一君屋号昌哩胃漬①冨のe豊目寧唾三豊畠邑冒昌彦⑦旨⑦邑

酔冨昏︒鼻︒言︑呂具鳶﹃亘驚自匡員宮署胃邑.厚い島冒凰鳥目

留昌︑8号目塁興営冒淫冨三岸巨曇肖﹄長9.く月旨冨言﹃

の星冒①三︑弓曾一需耳争二言一冨冒ニニ喜色二言目邑急⑦旨邑誓匡冨器﹈5

冒砕言冒冨邑易号目君色患胃.尻昌壽巨昌一毎塁号扇皇畠涛会員ぢざ

身冒警呂色眉号葛言吻晨呂毒届蔚司皇﹃宮言︑︹言︽盲目需鴬二目

冑需昌の鯛潰.命.駅I駅︶

これらの描写の中には︑いままで全く気づくことのなかった自然

のすばらしさ︑力強い美しさに強くうたれて目をみはっている若

きジッダールタの新鮮な息吹が︑そのままいきいきと感じられるよ

うな気持がする︒心耐のまなこの滴く澄んだみごとさ︑自然への

(12)

93

ジッダールタはまず美しい遊女カマラの愛人となり︑新しい生活

にはいるのだが︑解脱の通に師を求めない彼も︑愛の歓喜と秘密につ

いては彼女からあますところなく教えをうけるのであった︒一︐愛の

逆においてはまだ子供であって︑ともすれば︑ちょうど底なき淵にと

びこむように︑盲目的に飽くことなく快楽の中へとびこもうとする

彼に︑彼女は根底から次のような教えを授けた11快楽を与えるこ

となしに快楽を受取ることはできない︑そしてどんな身ぶりも︑どん

な愛撫も︑どんな接触も︑どんなまなざしも︑からだのどんな小さな

部分も︑みなそれぞれの秘密をもっていて︑この秘密を明かすこと

が︑その道に通ずる者に幸福を与えるのだ︑と︒さらに彼女は教えた

l愛する者どうしは愛の溌宴のあとで不満をいだいて別れてはな

らない︑必ずお互いに識美しあい︑相手を征服したと同時に相手から

征服されたのでなければならぬ︑二人のいずれにも飽満や退屈の気

持が起っ−てはいけない︑相手を縦牲にしたとか︑相手から穣牲にされ

固冒憲二屋長の深さ︑またその采致の流れるようなメロディー︵ここ 〜 三

ではさらに簡勁でもある︶は︑実はヘッセ幹有のものなのである︒こ

うしていまやジッダールタは現象界の多様さに正面から立向かうの

だが︑しかもそれは決してこの多様さ自体に婦依するためではなく︑

やはりこれを覚知への手段として用いようとするものであった︒

彼は云う︑l﹁私はめざめた︑私は真実めざめた︑今日はじめて

との肚に生まれたのだ︒︲︸︵五○頁︶ここにおいて彼がこれまで顕

みなかつ一た俗界の生活が︑新しい意味をもってその心をとらえはじ

めるわけである︒ たとかいう不快の気持が生まれてはいけない︑と︒L︵七七八頁︶

ジッダールタは今にしてようやく︑かつて喬答摩に向かってただ

エアレーペン漠然たる予感のうちに述べたところの体験の意味を明らかに理

解する︒しかもこの体験には︑もはや単に糀神的なもののみならず︑

感覚的なものもまた隣する︒現在のジッダールタの考えによれば︑

思考と感覚︑この両考の中に究極の意義はひそんでいるのであり︑

両者はいずれも︑その声に彼がひたすら耳を傾けようと欲するとこ

ろの内面即ち自我へ到達するための手段としてのみ必須のことであ

る︒かくて感覚が先に︑婆羅門の見解に対立して覚知の手段として

満定されたとすれば︑ここでは感覚は︑思索といっしょになって︑︑︑︑︑︑︑体験ならびに生活形成への道しるべとしてとらえられているのだ︒

ジッダールタは知性と官能とのジンテーゼを求めてつとめていると

いってよい︒

カマラはジッダールタにとって︑ある面ではこの綜合の理想を具

象化した存在である︒そしてこのカマラの愛を禅んがたために︑彼

は財貨の狸得を求めて︑婆羅門の賢暫や善行にいそしむ沙門たちが4ソサーラそれからひたすら逃れようとつとめたところの︑輪廻の世界の典

中に身を投じたのだ︒商人となるわけだが︑しかも彼はやはり︑こ

の俗覗そのものの中に身をひたしきって︑それに憎熱を傾けるとい

うことは到底できないのである︒実は相変らずその魂の本質は内に

︵聰︾向いたもので︑心理学者ユングの用語を用いれば︑彼は可内向型し

Iそれも自己の木質に忠実ならざるlであるわけだ︒

自己の魂に対するジッダールタのこのような不実は報いをうける

こととなる︒日ましに彼の生活は袋小路の中にはいってゆき︑惟俗と

(13)

臘注は徐々にその魂に港みいつ.て糖神が眠りに陥ってゆくのみなら釣鯉魂生活全体が荒廃して救いがたいものに化してしまったのだ︒魂

は眠りこみ︑その内なる声はついに沈黙してしまった︒そのかわり

に官能が活動し罰俗惟間の悦楽が彼をからめ捕える︒ジッダールタは

かつて鋤門のもとで苦行を砿ね︑仏陀への批判において明らかな覚

知にいたらんとつとめたのち︑照覚的な生活の循環﹁サンサーラL

︲を︑ついにそれに背を向けるときまで︑徹底して味わいつくさねば

ならなかったのだ︒.しかも官能の世界に沈酒した彼は︑その無粥を

︑◆︑︑︑体験したときにはじめてこの無術をよく認識するにいたった︒︵疲

れという文字は︑すでにカマラの美しい顔にも書かれていたのであ

る︒︶そしてある喪この無術の不安な感燗は耶叱を他すまでに商ま

り︑ここでついに彼は強く決心し︑町とその所有するいっさいを投

げ拾てて両びさすらいの縦に出てゆくのである︒カマラとのことに

ついても︑二人の愛の雌戯が終励に途し︑もはやこれ以上減じえな

いことをジッダールタは知ったのだ︒そしてこれが彼に蝶された逆

命であり︑彼はこの自己の迎命に忠災に従うより他に通がないので

あった︒Iかくてその川にすでに齢を爪ねていたジッグールタは︑かっ

て藩年のころ蒜棒際の町から力々ラの町への通軽において渡った河

のほとりにふたたびやってくる︒世の溺れ︑卵と魁かさのいっさいを

底まで味わい︑魂が蒐廃しつくした彼にはう今後生きてゆく目的が

もはやどこにも見出されない︒そしてついに絶瓢の果て︑ジッダー︑︑ルタは河に野を投げようとする︒そのみじめな恥ずべき生活にとど州仙.︒︲︑..めを刺そうとする怨しいあこがれのほかには︑何も弧っていなかっ ●卜︲■︲.

.︒.ゴー■L

T.I・r 冊■.・・・日日里I・■・■JJ

たのだ︒しかし正にその瞬間へ彼の疲れきった生涯の過去のかなたが

ら一つの等きが聞えてくる︒それは婆羅門の神聖な可オーム﹄︒旨

﹃●完全なるもの﹂あるいは可完全Lの意味をもった﹁オームL

の一声だ︒この一声が彼の久しく眠りこんでいた魂を突然めざめさ

せ︑自分自身の本然の姿を見出させて︑己の行為の愚かさを悟らし

めたのである︒そして生命の不壊を知り︑忘れ果てでいたいっさい

の神迎なものをふたたび知るにいたり︑この認纈が彼に救いとして

はたらきかけたのである︒ここで偶然昔の親友ゴヴィンダと班遇す

るのだが︑いまや句オームLにみたされたジツダールタには︑ふたた

び可愛恥の気持がよみがえってくる︒この可愛﹄は︑彼が長く忘れ

はてていたところのものだった︒俗界での日附にあって生活の価値

と還義をその中に求めたカマヲとの起雁においても︑二人して愛の

たわむれに耽り彼女の手で多くの快楽に通ずる愛を学んだとはいい

ながら︑しかも彼はカマラに向かつて次のように述懐しなければな

らなかったのである︒1句わたしもお前も同じことだ︒お前もや

はり愛してはいないのだそうでなければ︑どうしてお前は愛を

一つの技術として憐むことなどできよう︒われわれのような抓猟の

人川には︑おそらく愛するということはできないのだろう︒﹂︵八

通頁︶そして彼がこれまで何物をも︑また何人をも愛すること

ができなかったという正にその嵐にこそ︑彼のひどい魂の兇廃の

︑︑もとがあったと考えるわけである︒

ここでジッダールタはもう一皮過去の生涯を擬返ってみる︒この

くだりは︑内容形式ともにきわめて壮美である︒いま零索するに︑

実は彼の自我がとらえられていたところのかつての不遜な腔想銀ぷ

I

(14)

1

1

95

りをほろぼすためには︑遊蕩児ジッダールタ︑寅徒の従ジッダールタ

が死絶えてしまうときに至るまで彼は一個の遊蕩児︑一人の食後の︑︑︑︑徒と化さ無ばならなかったのだ︒彼は非術な廻り道をして大人から︑︑︑子供になったわけである︒だがこの適程に対して︑彼はいま可よしL

と断定する︒やはり﹁自分の胸の中の烏﹂︵胃く・過言目︒胃﹃犀冒

は死ななかったのだ︒︷別自分は絶望を体験しなければならなかつ一た︑

自分はあらゆる思想の中のもつとも愚かな思想︑自殺の思想にまで

沈油しなければならなかった︑そこを通ってはじめて恩寵にあずか

ることができ︑ふたたびオームを聴くことができ︑ふたたび本当に

眠り本当にめざめることができるようになったのだ︒自分は愚者に

ならればならなかった︑そうしてこそはじめて真我をふたたび自分

の中に兄出すようになったのだ︒自分は罪を犯さねばならなかっ

た︑そうしてこそはじめて再び生きることができるようになったの

だ︒L︵二○一頁︶この発展的な考えかた︑一穂のオプティミ

スムはヘッセの作品の一つの特徴をなすものだが︑それは可ヴァン

デルングLの中の次の雷葉にも端的にあらわれているところで︑彼

プシツ・●︑ヒカイトの倫条のほどを銃取ることができるのである︒↑深い儒仰へ逸

する通はひとりひとり違っているのだろう︒私にとっては︑その道は

多くのあやまちと悩み︑多くの自己苛責︑申しぶんない愚行︑愚行の

原始林を越え死の通だった︒L﹁祈りは歌のように神聖で︑歌のように

救う力をもつている︒折りは信頼であり︑確征である︒⁝⁝敬慶な新

教従の宗から出た者は︑この祈りに逃するまでには遠く求めて歩か

ねばならない︒彼は良心の地献を知っている︒彼は自己分裂の致命的

な鯨を知っている︒彼はあらゆる菰類の分裂と苦悩と絶望を味わっ

I

r I l

I

た︒その道の終りにやっとたどりついて︑彼はあれほど鰊の多い通

で求めた大きな幸福が︑どんなに単純で子供らしく自然であるかを

知って驚く︒しかし茨の道は無駄ではなかった︒故郷に州ってきた

者は︑ずっと家にとどまっていたものとは連っている︒彼はより深

︵蝿︶く愛するし︑正義と迷いとからより自由である︒﹂

かく七世界全体を歓喜に溢れた感謝の目で眺めるところの︑新し

いジッダールタがここで生まれたことになる︒さきに喬稗廉のもと

から去ったときをジッダールタの第二の生誕とすれば︑これは彼の

いわば第三の生鍵ともなすことができよう︒彼のおどおどした︑しか

も傲岸な小さい自我は︑これこそ彼が長年月にわたって戦いつづけ︑

その揚句は再三再四彼が打負されたところの相手だったが︑それが

ついにこの河のほとりで死んだわけである︒かつて彼は︑思考も感覚

もともによいもので︑両者から最奥者の秘蔵を聴きとらればならぬ

としたのだが︑それに対して今の彼によれば︑そのいずれもが︑人

が自我を見出すに際して妨げとなるものなのであった︒現在のジッ︑︑︑︑︑・ダールタにとの一ては︑ただ一つ没我的な愛のみが︑彼をその孤独か

ら救うことができ︑またあらゆる存在に対して統一をもたらすこと

ができるのである︒没我的な愛こそが自我なのだ︒この愛の美しさ

は︑ヘッセ自身終生思慕してやまず一九○四年にはその伝記まで出

︵ワ毎﹄したところの︑かのアッジジの聖フランチェスコから︑詩人がその

無所有の理想とともに学びとったところのものだが︑またジッダー

ルタにとって︑この愛こそは生の般商の表現なのであった︒

いまやジッダールタはその絶望の︑しかしまたその救済の証人で

もあったところのこの河のほとりで︑賢者にして聖者たる渡守りヴ

(15)

I

︵︑︾アズデiヴァとともに幕しつつ︑河の声に耳を傾ける︒その精神がや

はり認識に向かっていることをふたたび学んだ彼にとって︑この河

が段師となったのだ︒その認識はもはやかつてのような抽象的思考

によるものではなくして︑嬢官と魂をとおしてのそれである︒ここ

においてはじめて︑彼の知は体験化されるわけだ︒そしてこの体験化

された認裁は︑彼をして内的本質の統一︑また万有との統一への願望

を抱かせるのである︒一つの自然現象︑河が︑世界ならびに人生の諾︑︑︑︑関係全体にとつ一てのシンボルとなる︒彼はこの河から︑聴くこと︑︑︑︑︑︑︑︑耳を傾けることを学んだのである︒.iそれも︑可心静かに︑期待し

明け放たれた魂をもって︑熱することなく︑望むことなく︑判断をも

たず︑通兇ももたないで︒L︵一二三頁︶このことに関巡しては︑す

でに一九一七年に︑ヘッセは諭文﹃魂についてLの中で次のように

述べている︒︑意欲のまなざしは不純であり︑翼実をゆがめる︒わ

れわれが何ものをも求めないとき︑われわれの見る眼が純粋の観照

となるとき︑はじめて蛎物の魂︑美は開けてくるのだ︒Lまた﹁⁝︵な

ぜなら︑︶観照は賎索や批評などではない︑それは愛以外のなにも

のでもないのだ︵から︶︒求むるところなき愛︑これがわれわれの

︽卿︶魂のもっとも高くもつ一とも認ましい境地である︒Lこの河にひたす

ら耳を傾けうる者︑即ちヘッセのいう﹁純粋の観照Lと﹁求むると

ころなき愛Lなる蝿想を充たす者のみが︑このシンボルを剛解する

ことができるのである︒かくてヘッセにとって︑その妓良の蹄輔神

力を接合するのは認雛と愛とであるようにみえるが︑その中でも愛

こ号は︑ますます枢要なモメントとなってきたのである︒その魂の

内にあって蟻えあがる愛は大きく強くなり︑彼は渡守りとしてはた

らきながら︑求められれば︑人々に慰めと助言を与えることもあっ

た︒この生活の価値と意義は愛のうちにこそ認められる︒そして静

観と素朴な仕事とが互いに調和を保って交替するところの︑このヴ

ァズデーヴァとの生活の中において︑ジッダールタはついに魂の平

和を縛るにいたるのであった︒

しかしながら︑ジッダールタはまだ鍛高の完成に達したわけでは

なかった︒なお一つの苦しい試練が前に立ちふさがっていたのであ

字︿︾︒

かって彼の愛人であったカマラは︑仏陀の数えに帰依し︑すでに早

くから遊女としての生活から隠退していた︒そしてこのとろ仏陀入

滅の報を耳にして︑ジッダールタとの間にできた幼い息子を伴って

巡礼に出たのだが︑途中稀蛇に咬まれ︑子供をジッダールタの手に委

ねたままついに死ぬのである︒ここで彼ははじめて現実の父として

の生活にはいるわけだが︑息子はこの父を蝿腿して蛎々に反抗す

る︒そして︑昔傍観者として渋んだところの︑﹁小児人L屋昌胃I

冒呂箆一gの一人にまでみずからなって献身する父親の盲目的な愛消

を振切り︑ついにそのもとを去ってしまう︒この溺愛の対象をなく︒︑︑してしまった苦悩は悲揃きわまる体験となって︑ジッダールタの胸

をかきむしるのである︒

しかし︑それにもついに救いがやってくる︒しかも︑かってはげ

しい絶望にかられて自殺しようとしたときと同じく︑みずからの

﹁揺りLによって︒この苫しみは︑背ジッダールタ自冴が︑子とし

て父に与えたものでもあった︒究極まで悩みぬかれて解決されたも

ののほかは︑すべてが再びめぐってくるのだ︒⁝⁝河がいまや全く

旦込

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