芸 娼 妓 「 解 放 令 」 に 関す る一 考 察
今 西
は じ め に
西 川 長 夫 氏 は,現 代 世 界 の グ ー ロ ー バ リゼ ー シ ョ ンを,新 しい植 民 地 主 義 だ, と規 定 す る(同 『〈新 〉 植 民 地 主 義 論 』 平 凡 社,2006年)1)。 一 昨 年,日 本 で は
「人 身売 買 禁 止 法 」 が 制 定 され た が,21世 紀 の 現 代 資 本 主 義 の な か で,グ ロ ー バ ル 化 と 「性 の植 民 地 」 化,人 身 売 買,性 の 「商 品 化 」,性 暴 力 の 増 大 は,目 を覆 う もの が あ る 。 しか も 日本 は,そ の 人 身売 買 の 「受 け 入 れ 大 国」 と して, 世 界 か ら指 弾 され て い る の で あ る。
サ ス キ ア ・サ ッセ ン氏 に よれ ば,「 セ ッ ク ス 産 業 に 従 事 させ る た め の 女 性 の 人 身売 買 は」,「国 際 連 合 の 推 計 に よれ ば,1998年 に400万 人 の 人 が 取 引 さ れ, 犯 罪 者 集 団 に70億 ドル もの 利 潤 を もた ら した」。 「日本 で は,セ ック ス 産 業 の あ げ る利 潤 は,過 去 数 年 に わ た っ て年 当 た り約4兆2000億 円 に な る」 と言 わ れ て い る(田 淵 太 一 他 訳 『グ ロ ー バ ル空 間 の 政 治 経 済 学 』 岩 波 書 店,2004年)。 日 本 で は 最 低 の 数 字 で も70万 人,国 連 の 推 定 で400万 人 の 人 身 売 買 が 行 な わ れ て
1)資 本 の グ ロ ー バ ル 化 現 象 は,16世 紀 か ら存 在 す る が,こ こ で グ ロ ー バ リゼ ー シ ョ ン とい うの は,1989年 以 降 の社 会 主 義 体 制 の 崩 壊 に よ っ て,市 場 経 済 が 全 世 界 を 覆 っ て か ら を い う こ と に な る。 な お 川 北 稔 氏 の 言 う よ う に,「 世 界 政 府 を つ くろ う とい う試 み は 近 代 に お い て は 全 部 失 敗 し」 て お り(同 「戦 後 史 学 か ら世 界 シ ス テ ム 論 ま で 」 『唯 物 論 と現 代 』 第31号,2003年),20世 紀 の ナ チ ス の 第3帝 国 も,
日本 の 大 東 亜 共 栄 圏 も惨 め に崩 壊 し た 。 確 か に 川 北 氏 の 指 摘 に は 基 本 的 に 賛 成 で あ る が,西 川 氏 の い う よ う に 政 治,経 済,文 化 な ど で ア メ リ カの 「領 土 な き植 民 地 主 義 」 が,今 日,全 世 界 を 覆 っ て き て い る 側 面 を も重 視 す る べ きで あ る 。
〔103〕
104 商 学 討 究 第57巻 第4号 い る 。
コ ロ ン ブ ス が 「新 大 陸 を発 見 」(1492年)し て か ら500年 間 で,ア フ リ カ か ら 奴 隷 と して 連 れ て こ られ た 人 び とが,600万 人 と も6000万 人 と もい わ れ て い る が,推 定 で は1200万 人 か ら1500万 人 と さ れ て い る。 こ れ で も 「ナ チ ス に よ る ホ ロ コー ス トと対 比 」 さ れ,「 こ れ を は る か に上 回 る 犯 罪 と位 置 づ け」 られ て い る(西 山俊 彦 「近 代 資 本 主 義 の 成 立 と奴 隷 貿 易 」『福 音 と社 会 』第42巻5号,2003 年)。 しか し,そ れ を上 回 る犯 罪 が,現 代 資 本 主 義 の なか で展 開 して い る 。
ケ ビ ン ・ベ イ ル ズ 氏 は,「 新 しい 奴 隷 制 度 」 と して,奴 隷 制 を 「経 済 的 搾 取 を 目的 と し た,ほ か の 人 に よ る,あ る人 の完 全 な支 配 」 と定 義 す れ ば,今 日, 世 界 に は2700万 人 の 奴 隷 が存 在 す る と して い る(大 和 田 英 子 訳 『グ ロー バ ル 経 済 と現 代 奴 隷 制 』 凱 風 社,2002年)。 しか し,ゴ ー ドン ・ トー マ ス 氏 は,「 奴 隷 廃 止 協 会 に よ る と,今 日(1990年),世 界 中 の 「奴 隷 」 の 数 は推 定 で2億 人 に の ぼ り,そ の うち の 約1億 人 が 子 ど もだ とい う」 と して い る(関 山靖 子 訳 『二 億 人 の 「奴 隷 」 た ち 』 朝 日新 聞 社,1993年)。 両 者 の 数 字 の違 い は,「 奴 隷 」 の 定 義 の 違 い に よる もの で で あ ろ う が,億 単 位 で 「現 代 奴 隷 制 」 が 存 在 す る こ と は 間違 い な い。
近 代 社 会 は,も ち ろ ん 「反 奴 隷 制 レ ジ ー ム(体 制)」 を築 こ う と して お り,1807 年 の イ ギ リス 帝 国 内 の 奴 隷 売 買 の禁 止,1815年 の ウ ィ ー ン最 終 議 定 書 の 奴 隷 売 買 の 国 際 的 禁 止,1885年 の ベ ル リ ン会 議 の 奴 隷 制 廃 絶 の 決 議 な どで,奴 隷 売 買 は禁 止 され て い る 。 これ は 法 制 面 で も,1926年 の 奴 隷 禁 止 条 約,1948年 の世 界 人 権 宣 言,1956年 の 奴 隷 禁 止 条 約 議 定 書,1957年 の 強 制 労 働 廃 止 条 約(ILO105 号 条 約)な ど に よっ て 担 保 され て い る 。
しか し,土 佐 弘 之 氏 の 語 る よ う に,「 現 実 に は 人 身 売 買 の よ うな 現 象 は,世 界 資 本 主 義 の 通 奏 低 音 の よ う に続 い て い る。 そ の代 表 的 な 事 例 が,買 売 春 と絡 ん だ 女 性(時 に は 男 性 も含 む)の 人 身 売 買 で あ る」(同 『グ ロ ーバ ル/ジ ェ ン ダ ー ・ポ リテ ィ ク ス 』 世 界 思 想 社,2000年)。 資 本 主 義 は,過 去 も現 在 も 「奴 隷 制 」 と並 存 して 存 在 して い る。
本 稿 で は,近 代 日本 の最 初 の 「奴 隷 解 放 令 」 とで も言 うべ き,1872年 の芸 娼
芸娼 妓 「解 放令 」 に関す る一考 察 105 妓 「解 放 令 」 の 歴 史 的 意 義 につ い て,長 崎 県 立 図書 館 の 古 賀 十 二 郎 文 庫 の 写 本 な ど を紹 介 す る な か で 考 え て み た い 。 古 賀 に つ い て は,作 家 の な か に し礼 氏 が 小 説 『長 崎 ぶ らぶ ら節 』(文 芸 春 秋,1999年,文 春 文 庫,2002年)で 面 白 く描 き, 第122回 の 直 木 賞 を 受 賞 し て 映 画 化 も さ れ て い る 。 しか し,古 賀 の 実 像 は語 学 や 古 文 書 に た け た,勤 勉 な歴 史 研 究 者 で あ っ た2)。古 賀 文 庫 の 写 本 の な か に は, 現 在 原 文 書 が 消 失 して い る もの もあ り,貴 重 な史 料 の 宝 庫 で あ る 。
古 賀 自身 は,『 西 洋 医 術 伝 来 史 』(日 新 書 院,1942年)や 遺 稿 集 『丸 山遊 女 と 唐 紅 毛 人 』前 ・後 編(長 崎 文 献 社,1969年)な どで,こ れ ら の写 本 の 一 部 を使 っ て い る が,全 面 的 な紹 介 は さ れ て い な い。 さす が に女 性 史 の もろ さわ よ う こ氏 は,『 ドキ ュ メ ン ト女 の 百 年4女 の か らだ 』(平 凡 社,1979年)の 「解 説 」 な か で,古 賀 の 『西 洋 医術 伝 来 史』か ら い くつ か の 史 料 を 引 用 して い る。同 シ リー ズ の もろ さ わ氏 の 「解 説 」 は,後 に 『お ん な ・愛 と抗 い 』(ド メ ス 出版,1984年) と い う一 書 に ま とめ られ て い る。 しか し,古 賀 の 写 本 は,芸 娼 妓 「解 放 令 」 に つ い て の 実 に興 味 深 い事 実 が 明 らか にす る もの で,こ こ に紹 介 す る 意 義 が あ る と考 え て い る。
な お筆 者 の 遊 郭 史 全 体 へ の 展 望 に つ い て は,近 刊 の 『遊 女 の社 会 史 』(有志 舎, 2007年 刊 行 予 定)を 見 て い た だ きた い 。 ま た,芸 娼 妓 「解 放 令 」 そ れ 自体 の 施 行 過 程 に つ い て は,拙 稿 「「四民 平 等 」 と差 別 」(新 井 勝 紘 編 『日本 の 時 代 史22 自 由民 権 と近 代 社 会 』 吉 川 弘 文 館,2004年)を 参 照 して い た だ きた い 。
1遊 廓 の成 立
近 世 遊 廓 の 起 源 は,慶 長7年(1602)に,京 都 の 六 条 三 筋 町 に作 られ た六 条 柳 町 遊 郭 が 最 初 で あ る。 しか し,豊 臣 秀 吉 が,天 正7年(1589)に,京 都 の柳 馬 場 に,上 京 ・下 京 の 両 極 化 した 町並 み を繋 ぐた め に,原 三左 衛 門 に 造 営 を 許
2)古 賀 十 二 郎 に つ い て は,永 島 正 一 「新 訂 版 あ と が き」(前 掲 書 『新 訂 と唐 紅 毛 人 』 後 編,長 崎 文 献 社,1995年)ほ か を 参 照 。
丸 山遊 女
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した万 里 小 路 二 条 の 二 条 柳 町 を嗜 矢 とす る(藤 本 箕 山 『色 道 大 鏡 』1687年,八 木 書 店,2006年 復 刊)と い う 意 見 もあ る が,「 二 条 柳 町 時 代 は 傾 城 屋 と して の
同業 町 的 存 在 で は あ っ て も,未 だ遊 郭 と して の 囲 郭 さ れ た都 市 的独 自性 を保 有 し得 な い 状 況 に あ っ た」(内 藤 昌 『角 屋 の研 究 』 中央 公 論 社,1983年)。 独 自に 町 筋 を 囲 い 込 ん だ 遊 廓 は,六 条 柳 町 が 最 初 で あ る 。
寛 永17年(1640),京 都 所 司 代 は 六 条 柳 町 遊 廓 を下 京 区 西 屋 敷 に移 転 させ る 。 こ れ が俗 に言 う島 原 遊 廓 で あ る。 所 司代 板 倉 重 宗 が,傾 城 た ち の華 美 な 装 い に 立 腹 して 移 転 させ た と い話 が 伝 わ っ て い るが(滝 沢 馬 琴 『羅 旅 漫 録 』 ユ802年, 塚 本 哲 三 『日本 紀 行 集 』 有 朋 堂 書 店,1922年),傾 城 が 町 や 禁 裏 を 自 由 に 出 入
り し,遊 女 歌 舞 伎 が 演 じ られ て い た こ との 方 が,禁 裏 か ら遠 隔 の地 に 遊 廓 を移 転 させ た 理 由 だ と考 え られ る 。 こ の 頃,寛 永17年 頃 に大 坂 で も新 町遊 廓 が 特 権 的 な地 位 を得 て い る(塚 田孝 『近 世 大 坂 の 都 市 社 会 』 吉 川 弘 文 館,2006年)。
一 方 江 戸 で は,吉 原 は元 和3年(1617)に 成 立 した と言 わ れ て い る が,こ れ に は既 に 江 戸 時 代 か ら喜 多 村 笏 庭,加 保 茶 浦 成(磯 部 源 兵 衛)ら が疑 問 を 出 し て い る。 また 近 代 最 初 の本 格 的 な遊 廓 史 と も言 うべ き,関 根 金 四郎 の 『江 戸 花 街 沿 革 誌 』(六 号 館 弦 巻 書 店,1894年)の な か で も,「 三 浦 浄 心 が 慶 長 見 聞 集 に よれ ば,慶 長 の 当 時,既 に 葭 原 の 遊 廓 あ り しが 如 し。 洞 房 異 園 に よれ ば,元 吉 原 の 開基 は 降 っ て 元和 三 年 に あ り」 と,史 料 上 の 矛 盾 が 衝 か れ て い る 。
戦 後,『 異 本 洞 房 語 園 』(1720年,蘇 武 緑 郎 『吉 原風 俗 資 料 』文 芸 資 料 研 究 会, 1930年,以 下 『語 園 』 と略)と 『新 吉 原 由 緒 書 』(同 年,国 立 公 文 書 館 所 蔵, 以 下 『由緒 書 』 と略)の 記 述 を敢 然 と批 判 して,元 和3年 の 吉 原 再 興 説 を主 張
した の は,江 戸 学 の 祖 三 田村 鳶 魚 で あ る(同 『元 吉 原 の 話 』1956年,同 『江 戸 の 花 街 』 中公 文 庫,1997年 所 収)。 三 田村 氏 は,吉 原 の 開祖 庄 司 甚 内(後 に甚 右 衛 門)が,小 田 原 の 浪 人 で,江 戸 で 遊 女 屋 を願 い 出 て,突 然,吉 原 の 「名 主 」 に な っ た,と い う 『語 園』 や 『由緒 書 』 の 話 を批 判 して,駿 府 の 「あ ぶ れ 者 」 庄 司 甚 内 が,遊 女 歌 舞 伎 の 「足 あ らい 女 」 で あ る 遊 女 た ち を引 き連 れ て,江 戸
にや っ て きた とい う こ と を 主 張 す る。
こ の 三 田 村 説 に対 し て,法 制 史 の大 家 石 井 良助 氏 が,三 田村 氏 の 「柳 町 」 の
芸娼 妓 「解放 令 」 に関す る一 考察 ヱ07 読 み 間 違 い な ど を指 摘 し,『語 園 』 を使 って,元 吉 原 の 成 立 を 書 い て か ら は(同
『吉 原 』 中 公 新 書,1967年),日 本 史 研 究 者 の 塚 田 孝 氏(同 『身 分 社 会 と市 民 社 会 』 柏 書 房,1992年)や 曽根 ひ ろ み 氏(同 「『娼 婦 と近 世 社 会 』 吉 川 弘 文 館, 2003年)ら は,石 井 説 を と る よ う に な る。 これ に対 して,日 本 文 学 の研 究 者 で
あ る 前 田愛 氏(同 「反=都 市 と して の く廓 〉」 『国 文 学 解 釈 と教 材 の研 究 』 第 26巻14号 臨 時 号,1981年),石 崎 芳 男 氏(『 元 吉 原 考 』 近 代 文 芸 社,1994年),
田 中優 子 氏(同 ほ か 『近 世 遊 郭 の 成 立 とそ の 文 化 史』 科 研 費 研 究 成 果 報 告 書, 2004年)ら は,三 田村 説 を よ り発 展 させ て い る。
前 田 氏 は,『 語 園』 や 『由 緒 書 』 を 書 い た 庄 司勝 富(西 田屋 又 左 衛 門)は, な に を 隠 蔽 した か っ た の で あ ろ うか と問 い,「 幕 府 権 力 の 意 を 体 して 遊 女 の 封 じ込 め に尽 力 した 甚 右 衛 門 ら吉 原 関 係 者 と,女 歌 歌 舞 伎 の 劇 団 に所 属 す る 「ば さ らに い や し」 き遊 女 た ち の 問 に交 え られ た 陰湿 で 長 い戦 い で あ る 。『落 穂 集 』 は(中 略)草 創 期 の 吉 原 が 人 寄 せ の 手 段 に女 歌 舞 伎 を 誘 致 し,や が て そ の 舞 台 を と りつ ぶ して 跡 地 を 町屋 に割 り当 て た とい う伝 承 を語 っ て い るが,こ の伝 承 が 事 実 だ とす れ ば,幕 府 に よ っ て 禁 圧 さ れ る こ とに な る女 歌 舞 伎 の 興 行 に,た
と え 一 時 的 にせ よ吉 原 の 一 画 を解 放 した こ と は,甚 右 衛 門 の負 い 目 で あ り,失 態 で な け れ ば な ら な か っ た 」 と言 う(前 掲 論 文)。 田 中 氏 らは,前 田 氏 の 説 に 賛 成 し,「 徳 川 幕 府 の 一 貫 した 政 策 とい う の は,遊 行 の民 の 遊 廓 へ の 取 り込 み で あ り,遊 女 芸 能 と の分 離 で あ っ た 」 とす る(前 掲 報 告 書)。
筆 者 は,前 田 氏 らの説 に賛 成 で,元 和 開基 に先 立 っ て 具 足 町 に第 一 次 の 吉 原 が あ っ た と考 え る。 ま た 庄 司 勝 富 が,甚 内 の 経 歴 を偽 って ま で消 した か っ た 歴 史 は,具 足 町 時 代 の話 だ けで は な く,駿 府 時 代 の安 倍 川 遊 廓 の歴 史 だ っ た と考
え て い る。
徳 川 家 康 の在 駿 府 の慶 長 年 間 に,遊 廓 や 「屠 児 町」 の 整 備 が す す み,安 倍 川 沿 岸 に 「悪 所 」 が 成 立 して,「 雑 賎 民 」 と言 わ れ る 遊 芸 者 た ちへ の 統 制 が す す め られ るが,庄 司 家 が そ の 一 員 で あ っ た とい う歴 史 は,見 事 に消 され て い る(前 掲 拙 著 『遊 女 の 社 会 史 』 参 照)。
最 後 に 中世 の 賎 民 的系 譜 を引 く遊 廓 と して 興 味 深 い の が 大 和 の 木 辻 遊 廓 で あ
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る 。 木 辻 遊 廓 は,豊 臣秀 吉 の 元 「奴 隷 」 堀 市 兵 衛 に よっ て,寛 永 六 年(1629) に創 建 され た とい うの で あ る(前 掲 書 『色 道 大 鏡 』)。こ れ に 対 して は,「 木 辻 郷 は声 聞 師 の住 地 で あ っ た 。 奈 良 で声 聞 師 は 五 ケ 所 ・十座 と い っ て そ れ ぞ れ の 集 団 を成 して い た が,そ の 五 ケ所 の う ち の 一 団 が 木 辻 遊 廓 に在 っ た 。 声 聞 師 は 陰 陽 師 ・金 ロ(説 教)・ 暦 星 宮 ・久 世 舞 ・盆 彼 岸 経 ・毘 沙 門経 な どの 芸 能 を 職 と した が,猿 楽 衆 ・ア ル キ 白拍 子 ・ア ル キ巫 ・金 タ タキ ・鉢 タ タキ ・ア ル キ横 行 ・猿 飼 の七 道 の 者 を 支 配 す る こ とが で きた 」。 「こ の う ち 白拍 子 ・巫 達 は女 人 で あ る し,そ の 遊 行 の 輩 で あ る」 と永 島福 太 郎 氏 は,木 辻 遊 廓 の 前 史 を語 る 。
「奈 良 の 声 聞 師 は興 福 寺 に属 し,そ の保 護 をうけてその職 を努 めたが,興 福 寺 の没 落 と と も に 自立 す る し,ま た 生 業 の発 展 を考 え ね ば な らな くな っ た 。 こ
こ に お い て或 る 者 達 が,秘 か に そ の 配 下 の 女 遊 芸 人 を利 用 して,女 屋 を 開 い た 」。
「近 世 に於 け る 下 村 家 四 十 八 番 手 下 の 者 と して ,傾 城屋 は四十八 番 にあげ られ て い る 」。 「な お 遊 女 道 の 家 元 と して,公 卿 の 久 我 家 の あ っ た」 とい う の で あ る
(同 「奈 良 木 辻 遊 廓 の起 源 」 『部 落 』 第62号,1955年)。
文 章 末 の木 辻 遊 廓 が,京 都 の下 村 家 の 支 配 に あ っ た,と い うの は 間違 い で あ る 。 辻 ミチ 子 氏 の 研 究 に よ る と,「 下 村 家 は 公 役 で あ る 「掃 除 役 」 を通 じて, 幕 府 の 身 分 統 制 政 策 の 一 端 を担 っ た が,江 戸 の 弾 左 衛 門 の よ うな 大 き な権 力 は
な く,弾 左 衛 門 と 同格 の 「稜 多 頭 」 と は い え ない 」 とす る。 ま して,1708年 に は 下村 家 は 断 絶 して し ま う の で,支 配 を続 け る とい う こ と は な い(同 『転 生 の 京 都 』 阿 咋 社,1999年)。 久 我 家 は,江 戸 時代 を通 し て も,遊 廓 と 関 係 の あ っ
た こ と は 間違 い な い が,そ の痕 跡 は資 料 的 に も消 され て い る 。
永 島 氏 は また,「木 辻 遊 廓 の 名 は 『奈 良 曝 』に は見 え な い が,木 辻 町 に くつ わ ・ あ げ 屋 を 数 十 軒 あ げ て い る か ら,ま さ に これ で あ る 。 木 辻 の 女 屋 は 天 文2年
(1533)に 声 聞 師 が 経 営 して い た こ とが 知 れ る(『 衆 中 引 付 』)」と も語 っ て い る(同 『奈 良 』 吉 川 弘 文 館,1963年)。 こ こ で は 『衆 中 引 付 』 とい う史 料 まで あ げ て い る が,天 理 大 学 所 蔵 の 同 史 料 に は,そ の よ う な記 述 を 見 る こ とは で き な か っ た。 しか し,中 世 末 の賎 民 的 芸 能 者 た ちが,初 期 の遊 廓 の 担 い手 だ っ た こ と は,今 後 の 研 究 の なか で 明 らか に な っ て い くで あ ろ う 。
芸娼妓 「解 放 令」 に 関す る一考 察 109 こ れ を広 末 保 氏 は,「 む ろ ん 遊 行 性 の 喪 失 と と も に,鎮 送 呪 術 家 も も っ て い た 「役 」者 的性 格 一宗 教 行 事 の 管 理 ・執 行 者 と して の 「役 」を に な うそ の 性 格 一 は次 第 に希 薄 に な り,そ の た め,同 じ卑 賎 に して も,そ の 卑 賎 の性 格 は変 化 し た で あ ろ う。 あ る 意 味 で は,幕 藩 体 制 の 編 成 と と もに,一 層 きび しい 差 別 観 の も と に くみ こ ま れ た」 と語 っ て い る(同 『遊 行 ・悪 場 所 』 未 来社,1975年)。
近 世 国家 を確 立 し,遊 芸 の 民 た ち を 囲 い 込 ん で い くた め に は,遊 廓 は 不 可 欠 な 装 置 で あ っ た と言 え る。
2〈 文 明 〉 の ま な ざ し ヨ ー ロ ッパ 人 の見 た遊 廓
元 禄3年(1690)に,長 崎 出 島 に オ ラ ン ダ 商館 付 き医 師 と して 来 日 した,ド イ ツ の旅 行 家 エ ンゲ ルベ ル ト ・ケ ンペ ル は,『 日本 誌 』(1727年,呉 秀 三 訳 『異 国 叢i書 ケ ンプ エ ル 江 戸 参 府 紀 行 下 巻 』 雄 松 堂 書 店,1929年)の なか で,次 の よ うに 語 っ て い る。
娼 妓 は極 幼 き時,一 定 の 金 子 に て 年 期(十 年,二 十 年)を 定 め て 身 を購 わ れ,楼 主 の 富 の 度 に従 い,七 入 よ り三 十 人 まで も(坪 井 本 に は 「そ の価 格 は 醜 美 に依 り高 下 あ り,又 そ の 年 期 に よ る」 とあ り),年 の多 き も少 き も,
と も に 一 つ の 家 に お か る ・な り。(中 略)か か る 娼 妓 に して(△ 既 に年 期 を 過 ぎ,幸 に し て)公 正 な る市 民 と結 婚 す る な らば,彼 女 は 自 らそ の 倫 落 失 行 に責 任 あ る こ とな く,教 育 も相 当 に あ れ ば,通 常 の 市 民 の 問 に伍 して 公 正 な る婦 人 と認 め らる ・な り。(過 去 の 生 活 の 罪 悪 は,更 に そ の とが と は な らず,も っ と真 面 目 な生 活 を選 択 し得 ない うち,そ の幼 き時 に,斯 く まで 汚 らは し き生 活 方 法 を取 らせ る た め に,彼 女 た ち を売 る 親 や 親 族 の と が と な る 。 尚 又,彼 女 た ち は,概 ね よ く躾 け られ て い る の で,夫 を得 る事 は,彼 女 た ち に と りて は,更 に,む つ か し くな い 。)(()内 は,古 賀 十 二 郎 前 掲 書 『丸 山遊 女 と唐 紅 毛 人 』,以 下 同)
ケ ンペ ル は,日 本 で は 娼 婦 が 普 通 に結 婚 して い る こ と に驚 い て い る。 当 時 の ヨー ロ ッパ の 娼 婦 で は考 え られ な か っ た こ とで あ り,娼 婦 は賎 民 と して差 別 さ
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れ て い た 。 日本 で は,彼 女 た ち を売 る親 た ち が答 め られ て い る。 しか も 楼 主 は之 に 反 して彼 如 何 に裕 福 な り と も,決 して公 正 な る市 民 と は認 め ら れ ず,又 そ れ と交 際 す る こ とは 叶 わ ず 。 人 々 よ り侮 辱 的 な如 何 わ し き名 を 付 せ ら れ 口 輪 即 ち馬 の轡 と呼 び な ら さ れ て,殆 ど 人 とは 認 め られ ず して, 繊 多 即 ち 柔皮 人 の最 下 級 た る獄 丁(隠 亡)と て 刑 場 の 傍 に(○ 常 民 と)離 れ棲 む もの の 同列 に 置 か る。(繊 多,或 は皮 な め し人 は,世 人 の 考 で は, 人 間 の 中,最 も不 評 判 な も の で,公 の 処 刑 人 の 役 目を 勤 め,邑 の外,刑 場
よ り遠 くな い,一 つ の 離 れ 村 に 住 居 す る事 に な っ て い る 。)轡 人 は な お 刑 の 執 行 の 際 に,其 家 僕 又 は賃 傭 人 を稼 多 に紛 手 と して 送 らね ば な らぬ とい
う。 是 又,彼 等 の 負 うべ き一 つ の 侮 辱 な り。
と,楼 主 で あ る忘 八(ぼ う は ち,く つ わ)へ の差 別 が 強 烈 で あ っ た。「忘 入 とは, 傾 城 屋 の 亭 主 の 別 称 で あ」 り,「入 つ の も の を 忘 れ る とは,忠,信,礼,義,孝, 悌,廉i,智,つ ま り人 間 と し て な くて は叶 わ ぬ これ らの道 を忘 れ て し も う ほ ど, 面 白 い 里 に住 む 心 也 」 と言 わ れ て い る(原 田譲 『遊 女 哀 史 』 榎 本 法 令 館,1926 年)。
安 永 元 年(1772),新 吉 原 の 遊 女 屋 大 文 字 屋 市 兵 衛 が,家 屋 を買 い 入 れ の 件 で 訴 え られ た 時,そ の 時 の 申 し渡 しに,「 遊 女 屋 の 主 人 と 申す は 四 民 の 下 に て, 繊 多 に准 じ候 者 に 有 之 候 処,分 限 を存 ぜ ず 御 城 外 近 くま で 家 屋 敷 調 え 候 な ぞ と 申す こ と,甚 だ不 届 至 極 に候 」 と して,敗 訴 に な っ て い る(津 村 正 恭 『諌 海 』 1767年,国 書 刊 行 会,1917年)。 亡 八 は械 多 に準 じた 身 分 と して,遊 女 町 以 外 で 家 を構 え る こ とが 禁 止 され て い る 。
ま た 「元 禄 期 の 正 木 堂 鳥 跡 は,遊 女 屋 を業 と した も の で あ っ た が,そ の 賎 業 た る こ と を恥 じて,所 を去 っ て風 流 に 身 を ゆ だ ね た が,「 高 尊 の 席 を 絶 た れ, 遊 人 も しい て交 りを許 さず 」つ い に投 身 自殺 を した と い う(榎 本 其 角 『雑 談 集 』 1692年,勉 誠 社 文 庫,1976年)。 郡 司 正 勝 氏 に よ る と,「 遊 女 屋 を職 業 とす る者 は,神 を着 る こ とが で きず,ふ ん ど し まで 六 尺 の 寸 法 は な ら なか っ た 」(同 『歌 舞 伎 と吉 原 』 淡 路 書 房,1956年)の で あ る。 厳 し い 身分 規 制 の も と にお か れ て い た 。
芸娼 妓 「解放 令」 に関す る一考 察 ヱヱヱ 遊 女 屋 の 亭 主 忘 八 と稜 多 頭 の弾 左 衛 門 とが,ど の よ うな 関 係 に あ っ た の か を 直 接 しめ す 史 料 は な い が,ケ ンペ ル の 書 く とこ ろ で は,長 崎 で は 「刑 場 の傍 に 」 住 み,「刑 の執 行 の 際 に,其 家 僕 又 は賃 傭 人 を稜 多 に紛 手 と して 送 らね ば な ら」
な い とい う役 を負 っ て い た 。
儒 者 の 荻 生 狙 来 は,「 遊 女 ・河 原 者 の類 を賎 し き も の とす る事 は,和 漢 ・古 今 と も に 同断 也 。 こ れ らは 元 来 そ の種 姓 の各 別 な る もの ゆ え賎 し き もの に し, 団 左 衛 門 支 配 に な る事 也 。然 る に近 年 古 法 を取 り失 い,平 人 の 娘 を遊 女 に売 り, ま た河 原 も の よ り商 売 人 に な る。 これ よ ろ しか ら ざ る事 の 第 一 也 。 平 人 の娘 を 買 い取 りて 遊 女 町 へ う る者 をぜ げ ん とや らい い て あ り,人 をか どわ か して も売 る也 。(中 略)畢 寛 遊 女 とて も平 人 と種 姓 に替 りな し と了 簡 す る よ り事 起 りた る事 也 」(同 『政 談 』1727年 頃,岩 波 文 庫,1987年)と,遊 女 を稜 多 ・非 人 同 様 に 「種 姓 」 を異 にす る者 と し て い る が,18世 紀 後 半 の 『御 仕 置 例 類 集 』(名 著 出版,1971年)で は
繊 多 の 娘 を売 女 な どい た し候 もの,稼 多 の 身 分 を弁 え なが ら,素 人 ま じわ り致 させ 候 段,不 届 き に候 。 よ って 右 様 の 儀,か ね て 稼 多 ど もへ 申 し渡 し お き(中 略)も し紛 らわ し き儀 これ あ る は,当 人 は も ち ろ ん,そ の 支 配 の 繊 多 ど もに御 仕 置 仰 せ 付 け らるべ き 旨,一 統 へ お 触 れ こ れ あ り然 るべ し。
と,稼 多 の 娘 を遊 女 に売 っ て,身 分 交 わ りな どす る こ と を厳 し く禁 じて い る 。 普 通,稜 多 と遊 女 と は 同列 に は考 え られ て い な か っ た。
次 に ケ ンペ ル と同 じオ ラ ン ダ商 館 の 医 師 カ ー ル ・フ ォ ン ・ッ ンベ ル グ は,『日 本 紀 行 』(1770〜79年,山 田 珠 樹 訳 『異 国 叢 書 ツ ンベ ル グ 日本 紀 行 』 雄 松 堂 書 店,1928年)の 「第16章 遊 女 一 淫 楽 を 目的 とす る 家 」 の な か で
どん な小 さ な 村 で も,大 き な都 会 と同 じに 公 開 の 遊 女 屋 が あ る。(中 略) 欧 羅 巴 人 は この 国 に 来 て,凡 て 自分 の 国 の 先 見 及 び そ の 宗 教 を梯 り棄 て ・ 仕 舞 っ て,日 本 式 の をす る の に す っ か り慣 れ て し ま う。 こ の 土 地 の 人 は節 欲 と云 う こ と を徳 とは 考 え て い ない 。 そ して こ れ を犯 す 罪 に対 し別 に恥 を 辱 じ な い。 且 つ こ の 遊 女 屋 に 出 入 す る こ と を別 に気 兼 な こ と とは しな い 。 遊 女 屋 は 法 に よ り,皇 帝 に よ り保 護 を加 え ら れ て い る の で あ る。(中 略)
一Zヱ2 商 学 討 究 第57巻 第4号
この 女 た ち が 欧 羅 巴 人 の 子 供 を生 む こ とは 滅 多 に な い 。 或 る 人 か ら 聞 く と こ ろ に よれ ば,こ の 不 法 な 関係 か ら結 ば れ た不 幸 な 実 は,男 の 子 の場 合 は 特 に厳 重 に 禁 じ られ て い る の で,母 胎 か ら生 ま れ 出 るや 直 ち に 殺 さ れ て し ま うの だ と云 う こ とで あ る。 又 或 る人 の 話 に よ れ ば,か くて 生 れ た 子 供 は 大 事 に とっ て お い て,十 五 歳 に な る と,印 度 会 社 の 船 に乗 せ られ て バ タ ヴ ィ ァ に送 られ る の だ と云 う こ とで あ る。 然 し私 と して は,日 本 人 が こ ん な残 酷 な 真 似 を す る とは信 じ られ な い 。 又 か ・る子 供 が バ タ ヴ ィア に送 り返 さ
れ た 例 を見 た こ と も な い 。(中 略)以 上 私 の 物 語 っ た 所 に比 して 一 層 意 外 な こ と は,こ の 遊 女 た ちが,自 分 が 売 られ て 行 き,稚 い 齢 か ら育 て上 げ ら れ た 家 に数 年 間 居 た後 に,な ん らの不 名 誉 の諺 な く社 会 に 還 っ て行 け る し, 猶 時 に よ れ ば 正 し く且 つ よ い 条 件 で 結 婚 が 出 来 る こ とで あ る 。
こ こ で も 日本 で は売 買 春 が 罪 とは 考 え られ て い な い ば か りか,法 に よ っ て 許 可 さ れ て い る公 許 の 存 在 だ とい う こ と に驚 い て い る。
しか し,「 混 血 児 」 に対 す る差 別 は存 在 して い る 。 長 崎 で 表1の よ う な簡 単 な統 計 を と っ た が,1歳 未 満 で 死 亡 して い る 者 が 圧 倒 的 に多 い。 しか し,こ れ は唐 人(中 国人)と の 間 に で きた子 で,オ ラ ン ダ人 との 問 の 子 よ り,外 見 上 の 差 異 は 少 な い。 花 絹 の子 友 吉 の よ う に,成 人 して 人 別 帳 の な か に加 え られ て い
チ ョ ウイ テ イン
る子 も い る 。 文 政 年 問 の 十 二 家 船 主 周 蕩 亭 は,遊 女 初 紫 との 問 に生 まれ た簾 平 の た め に,銀 札21貫666匁 を養 育 料 と して 送 っ た 話 な どは有 名 で あ る 。
幕 府 は,寛 永13年(1636)に 「南 蛮 人 」(ス ペ イ ン ・ポ ル トガ ル 人)の 子 女287 人 を マ カ オ に追 放 し,同16年 に ポ ル トガ ル船 の 来 航 を禁 止 した。 しか し,正 徳
5年(1715)か らは,「 混 血 児 」 は 国 内 に 留 ま る こ と を命 じて,海 外 渡 航 を 禁 止 して い る 。 従 っ て 正 徳5年 か ら60年 後 に来 日 し た ツ ンベ ル グが,「 子 供 が バ タ ヴ ィア に送 り返 さ れ た 例 を見 た こ と も な い」 と言 うの は 当 然 で あ る。 た だ 吉 田常 吉 氏 は,根 拠 を示 し て い な い が,「 混 血 児 は,町 役 人 そ の 他 公 儀 の 役 に就 くこ と を許 さ れ ず,多 くの 場 合,僧 侶,川 原 者 等 と して 世 を避 け た 生 活 を送 る の を常 と した」 と して い る(同 「鎖 国 時 代 に 於 け る我 が 女 性 と混 血 児 の 問題 」,
『歴 史 地 理 』 第78巻5・6号 ,1931年)。
芸 娼妓 「解 放令 」 に 関す る一考 察 1ヱ3 表1遊 女 ・唐 人 ・ 「混 血 児 」 た ち(一 部)
遊 女 抱 主 唐 人 地 位 「混 血 児 」 た ち の 生 没
大 山 寄合 町引田屋百助抱 林達文 船主 1715年(正月29日 病 死徳5)8月3日 男 子 出 産,同 年10 浮橋 同引田屋 百助抱 李鱈士 同 同年9月29日 女 子 出 産,7夜 の う ち矢 折 大 山 同佐 野(伯)屋 きゑ(ん)抱 鄭大典 同 同年10月6日 男 子 出 産,同 年10月28日 病 死 八重雲 丸山町岩田屋与兵衛抱 黄哲卿 同 同年10月7日 男 子 出 産(名 は 金 八),1738年(元
文3)博 多 町 に 居 住
白藤 寄合 町薩摩屋太右衛 門抱 何定扶 同 力 同年10月15日 女 子 出 産,同 年11月13日 病 死 両山 同引田屋百助抱 陳伯威 脇船主1722年(享 保7)10月7日 男 子 出 産(梅 之 助),
元 文 の 頃,両 山 の 親 元 諏 訪 町 に居 住
同 同 同 同 1723年9月23日 男 子 出産(仁 三 郎),元 文 の 頃,
両 山 の 親 元 諏 訪 町 に居 住
同 同 同 同 1724年7月28日3月2日 死 亡 男 子 出産(林 之 助),1730年
若松 同泉屋 太三郎抱 陳敬官 不 明 1724年11月1日 男 子 出 産(辰 之 助),元 文 の 頃, 銀屋 街 に居 住
若紫 同筑後 屋清次郎(忠 三郎)抱 陳倫 船客 1733年2月12日 男 子 出 産(万 太 郎),同 年8 月16日 夫 折
初瀬 同薩摩屋 新四郎抱 陳捷英 不明 1734年2月24日 男 子 出 産(吉 之 助),元 文 の 頃, 上 筑 後 町 に 居 住
大橋 同引田屋 太左衛 門抱 林達新 船主 1737年(元 文2)9月24日 流 産
管絵 同筑後屋 吉兵衛抱 顔遠 山 同 1821年(文明 政4)3月12日 男 子 出 生,以 後 不 1827年12月,親 元 勝 山町 政 八 宅 に 引 き取 り男 初紫 同京屋 次兵衛抱 周講亭 同 子 出産,後 年 の 端 物 目利 石 井 簾i(廉i)平,1867
年(明 治30)9月28日 妓(無 届 け の た め に処 罰)
袖扇 同引田屋 鉄之助抱 江芸 閣 同 1830年2月20日 男 子 出産(八 太 郎),1831年(天 保2)2月10日 天 折
1842年(天 保13)12月 男 子 出 生(友 吉),花 絹 の母せつ宅 に引 き取 り,東 中町にて養育 さ
花絹 同 沈葬香 同 れ る が,家 内 人 別 は引 田屋 内 に加 え た 。1847
年(弘 化4),母 せ つ の 願 い に よ っ て,東 中 町の自家 人別に加 えられ た
高根 同筑後屋忠三郎抱 顧士英 同 1848年(嘉 永 元)正 月12日 男 子 出 産
歌琴 同 程子延 同 同 年7月 頃 よ り妊 娠,そ の後 は不 明
雅妻 同引田屋建三抱 沈晋伯 同 1850年4月 頃 よ り妊 娠,出 生 後 ま もな く夫 折
出典:古 賀 十 二 郎 『丸 山 遊 女 と唐 紅 毛 人 』後 編,『 長 崎 市 史』風 俗 編 ・下 巻,福 田忠 昭 「唐 人屋 敷 」(『歴 史 地 理 』 第27巻2・3・4・5号),山 本 紀 綱 『長 崎 唐 人 屋 敷 』 ほ か 。
114 商 学 討 究 第57巻 第4号
最 後 にユ ニ ー ク な 「遊 女 制 度 廃 止 」 論 を 説 い た ポ ンペ ・フ ァ ン ・メ ー ル デ ル フ ォ ー ル トの 議 論 を 紹 介 して お き た い(PompevanMeerdervoort"Funf
JahreninJapan".1867‑1868.古 賀 前 掲 書 よ り所 引)。 ポ ンペ は,1857年 に 第 2次 海 軍 伝 習 派 遣 団 と して 長 崎 に 来 て い る 。 そ こ で 日本 人 の子 弟 に医 学 教 育 を 行 い,61年 に は長 崎 養 生 所 を建 設 し,63年 に帰 国 して,こ の 見 聞 記 を ま とめ た 。 こ の な か で ポ ンペ は
日本 に 国交 をせ ま り,日 々 い よい よせ ま る所 の文 化 的 欧 羅 巴 国 が,一 つ の 緊 要 な る善 事 を成 さん と欲 す る な らば,彼 等 は,現 在 日本 に於 て 娼 妓 制 度 が 整 え られ て い る方 法 を断 然 廃 止 す べ き事 を,日 本 政 府 に於 て 正 に好 意 を 有 す る者 の 至 当 な る侮 蔑 を経 験 せ ざ らん と欲 せ ば,日 本 政 府 に納 得 せ しむ る 為 に,あ らゆ る 努 力 を 試 む可 き者 で あ る 。(中 略)日 本 に 於 け る 遊 女 制 度 は,政 府 が 之 を保 護 し,社 会 が 之 を避 け ず,親 は,正 当 に其 子 を遊 女 屋 に 売 る事 が で き る の で,斯 く慨 歎 す べ き有 様 に な っ て い る の で あ る 。(中略) 民 衆 の 眼 に於 て,弁 解 を見 出 し得 る の は,ま さ に親 の貧 困 に在 る。そ して, 売 られ た娘 よ り も,き ま り きっ て 親 た ち が,責 め らる ・の で あ る。 既 に 此 点 に於 て,欧 羅 巴 の場 合 と は,最 も大 きな 差 異 が あ る。 欧 羅 巴 に於 て は, 個 人 が,自 ら娼 婦 とな り,そ れ が 為 に,社 会 の指 弾 を受 くる の で あ る 。 日 本 に 於 て は,個 人 に は,罪 は無 い 。 自 己 に何 が 起 る か 些 の 観 念 も無 き年 齢 に 於 て,既 に 売 らる ・の で あ る 。 子 は,喜 び,満 足 して 親 の家 を 出 で ・行 く。(中 略)真 に,こ れ は,慣 習 的 な 奴 隷 売 買 よ り も,余 程 悪 し き も の で あ る 。(中 略)二 十 五 歳 に 達 す る と,こ れ らの 娘 た ち は,自 由 の 身 と な り, 束 縛 は解 け,そ して,予 の 云 う通 り,確 に不 思 議 に 思 わ る ・で あ ろ う が, 彼 女 た ち は,名 誉 あ る婦 人 と して,社 会 に 還 る の で あ る 。(中 略)之 に 反
して,隠 売 は,日 本 に 於 て,甚 だ 厳 し く蔑 視 され る 。 これ は,一 つ の確 実 な る畜 生 行 為 と考 え られ る。 しか し,稀 れ で は無 い 。 そ して,日 本 の道 徳 家 は 云 う 。組 織 だ ち た る公 許 の 遊 女 屋 が あ る以 上,こ れ は,風 儀 の 最 も大 な る 堕 落 を 立 証 す る。 法律 と社 会 が 公 然 許 す所 の もの は,別 に秘 密 に於 て 実行 す る の で あ る。 隠 売 女 は,ま た 革 な め し人,即 ち稼 多 の下 位 に在 る 。
芸 娼妓 「解 放令 」 に 関す る一考察 ヱ15 彼 女 ら は,普 通 の 街 に居 住 す る を得 ず,郊 外 に在 留 を 選 む 可 き もの で あ る。
そ こで,彼 女 ら は,屑 と し て取 扱 わ れ る。 遊 女 屋 の 上 に,一 つ の厳 重 な る 医術 上 の 監 督 が 必 要 で あ る。(中 略)政 府 の微 温 的 態 度 に よ りて,最 も怖 るべ き悪 病 は,ま す ます伝 播 した 。
「家 」 の た め に 売 られ る遊 女 た ち に,非 難 が少 な くて,売 る親 た ち が 責 め ら れ る 日本 の 売 買 春 に 対 して,ヨ ー ロ ッパ の よ うに 「個 人 」 の 責 任 で行 わ れ る売 買 春 との差 異 に つ い て の指 摘 は興 味 深 い 。 そ して,「 公 娼 」 に対 し て 「隠 売 女 」 と言 わ れ る 「私 娼 」 差 別 の厳 し さ を指 摘 して い る 。 「私 娼 」 た ち は,「 郊 外 に」
追 い や ら れ,「 革 な め し人,即 ち稜 多 の 下 位 に」 さ え位 置 づ け られ て い る と い うの で あ る 。
そ して ポ ンペ は,医 師 の 立 場 か ら も,「 政 府 の 微 温 的 態 度 に よ りて,最 も怖 るべ き悪 病 は,ま す ます 伝 播 した 」 と して,遊 女 制 度 の廃 止 を提 言 して い る。
この 場 合,ポ ンペ が 最 も恐 れ た の は,性 病 よ り もむ しろ結 核 で あ っ た 。
3梅 毒 検 査 と 「性 の 管理 」
近 年 の 近 世 史 で は,朝 尾 直 弘 氏 に よ っ て 提 起 され た 「日本 型 華 夷 思 想 」 の 問 題 が,さ ま ざ ま な角 度 か ら検 討 され て い る(同 『朝 尾 直 弘 著 作 集 第5巻 鎖 国』 岩 波 書 店,2004年)。 そ れ を長 崎 の 丸 山 遊 廓 と の係 わ りで 説 い た の は,荒 野 泰 典 氏 で あ る(同 「近 世 日本 国 家 領 域 と境 界 」,史 学 会 編 『歴 史 学 の 最 前 線 』 東 京 大 学 出版 会,2004年)。
中 世 末 の 日本 は,「 諸 民 族 雑 居 」 と も い うべ き状 態 に あ り,各 地 に 「唐 人 町 」 や 「高 麗 町 」 が つ く られ て い た(村 井 章 介 『中 世倭 人 伝 』 岩 波 新 書,1993年)。
日本 国 内 で も宋 銭 や 明 銭 が 使 わ れ,「 和 冠 」 が 自由 に海 上 を交 通 して い た 。 と こ ろ が 寛 永4年(1627),オ ラ ン ダ東 イ ン ド総 督 の 特 使 と し て江 戸 へ 参 府 した ビー テ ル ・ノ イ ツ の 一 行 は,途 中 で 京都 所 司 代 板 倉 重 宗 の 一 行 に で あ い, 挨 拶 の た め に ム イ ゼ ン を遣 わ した が,既 に出 発 した とい う返 事 で あ っ た 。 板 倉
らは 宿 に い た が,「 彼 らは 既 に オ ラ ン ダ人 に気 付 き,オ ラ ン ダ人 の悪 臭 一 彼 等
ヱヱ6 商 学 討 究 第57巻 第4号
は そ の よ う に 言 っ た 一 を 恐 れ て,鼻 も耳 も塞 い で村 を通 り過 ぎた 由 。 こ れ は
ニ ホン カタ ギ
昔 も今 も変 らぬ,日 本 の礼 儀 正 しい 習 慣 で,こ れ ら を彼 らは 日 々,「 日本 気 質 」 の名 で 賞 賛 して お り,日 本 以 外 の何 処 で も この よ う な こ とが 語 られ る例 を知 ら な い」 と語 っ て い る(永 積 洋 子 『平 戸 オ ラ ン ダ商 館 の 日記 第 一 輯 』岩 波 書 店, 1969年)。
荒 野 氏 は,こ の 「外 国 人 忌 避 の 習 俗 」 の対 極 に,天 皇 で す ら外 国 人 の 芸 能 を 楽 しみ,朝 鮮 や琉 球 の使 節 と会 っ て お り,朝 鮮 通 信 使 を歓 待 す る民 衆 の 対 応 や, 朝 鮮 人 漂 流 民 へ の 民 衆 の 対 応(池 内敏 『近 世 日本 と朝 鮮 漂 流 民 』臨 川 書 店,1998 年)な ど に見 られ る 「親 近 性 」 が あ り,そ の 他 の 人 び との 「無 関 心 」 とい っ た
「三 局構 造 」 に な っ て い て,そ の 間 に流 動 性 が 強 か っ た と して い る 。
延 宝9年(1781)版 の 長 崎 金 捨 の 『長 崎 土 産』(長 崎 文 献 社,1976年)の な
ひ ミとを け せ す へ て か を りはな む な
か で も,「 日見 峠 一 の 瀬 と云 所 を 過 る ほ と,都 而 え しれ ぬ 香 鼻 に入 て,胸 心 わ
ろ く,と へ ば 是 な ん長 崎 の に ほ い と 申」 とい っ た 「長 崎 の に ほ い 」 が 強 調 され て い るが,こ れ も 「肉食 よ り浄 稼 観 念 」 が 強 か っ た の で は な い か,と 荒 野 氏 は 推 測 して い る 。
長 崎 の 丸 山 遊 廓 で は,遊 女 の 問 に 「日本 行 き」 「唐 人 行 き」 「オ ラ ン ダ行 き」
と,相 手 の客 に よ っ て 三種 類 に 区 分 さ れ,日 本 人 を相 手 にす る遊 女 が 一 番 よ く, オ ラ ン ダ 人 相 手 の 遊 女 が,最 下 位 に位 置 づ け られ て い た(古 賀 前 掲 書)。 も ち ろ ん 黒 人 や,日 本 人 で も 「稼 多 ・非 人 」 は 遊 女 屋 に上 が る こ とが 禁 じ られ て い た 。荒 野 氏 は,「 境 界 領 域 だ か らこ そ,「 華 夷 」 と身 分 制 の秩 序 は貫 徹 して い た 」 とす る。
「混 血 児 」 差 別 に対 し て も,「 近 世 社 会 に お い て は,性 の 社 会 的役 割 が 「産 む た め の性 」 と 「消 費 の た め の性 」 に二 分 され,そ れ が 女 性 の属 性 とさ れ た 。 そ して 幕 府 は,前 者 を担 う女 性 を 「家 」 に,後 者 と担 う女 性 を 「遊 郭 」 に 閉 じ 込 め る こ とで,そ れ ぞ れ の 性 を 国 家 的 に管 理 しよ う と した 。(中 略)「 遊 郭 」 に 閉 じ こ め ら れ た 女 性 た ち は,「 消 費 」 の 対 象 と な っ た が,子 供 を産 む こ とは 期 待 さ れ な か っ た,あ る い は,想 定 さ れ て い な か っ た 。 「丸 山遊 郭 」 は そ の 国 際 版 で あ り,彼 女 た ち は オ ラ ンダ 人 ・唐 人 の 「消 費 」 の対 象 と して,利 益 を生 み
芸娼 妓 「解放 令」 に関す る一考 察 ヱヱ7
こ そ す れ,混 血 児=「 境 界 人 」 を産 む こ と を想 定 さ れ て い なか っ た 」 とす る 。 華 夷秩 序 や 種 姓 観 念 の 問 題 か ら も近 世 日本 で は,本 格 的 な 「ク レオ ー ル文 化 」 は生 み だ しえ な か っ た の で あ る。
ま た 「同 時代 の 朝 鮮 で は,釜 山倭 館 で の 日本 人 男 性 と朝 鮮 女 性 との 関係 は, た とえ 遊 女 で も禁 じ られ て い た こ とか ら考 え る と,国 家 が 外 国人 の性 の 面 倒 ま で見 る とい うの は,き わ め て 日本 的 な特 徴 な の か も知 れ な い 」 とす る(荒 野 前 掲 論 文)。 後 者 は ペ リー 来 航 や 敗 戦 後 のRAA(特 殊 慰 安 施 設 協 会)を 指 して い る の だ が,前 者 の な ぜ 朝 鮮 で は,「 日本 人 男 性 」 との 性 的 関 係 が 禁 止 さ れ た か とい う問 題 は気 に な る 。
17世 紀 の 明 帝 国 崩 壊 後 の 朝 鮮 は,異 民 族 支 配 で あ る清 朝 よ り も,自 身 を 「中 華 文 明 」 の 後 継 者 と し,朝 鮮 を 「華 」,周 辺 諸 国 ・地 域 を 「夷 」 とす る 世 界 観 を深 め て い っ た 。 朝 鮮 王 朝 の 両 斑 た ち は,儒 教 の 思 弁 的 な 論 理 と純 粋 性 を よ り ど こ ろ に,「 小 中 華 思 想 」 とい う 自己 中 心 的 な 世 界 観 に 身 を固 め て い っ た の で あ る 。 従 っ て 「「交 隣i」関 係 に あ っ た 江 戸 期 の 日本 につ い て も,内 心 で は文 化
ムンギヨンス
的 に劣 等 な蛮 夷 と見 下 した い た の で あ る」(文京 沫 『韓 国 現 代 史』岩 波 新 書,2005 年)。 朝 鮮 の 「小 中華 意 識 」 が,朝 鮮 文 化 の 「ク レオ ー ル」 化 を 阻 止 して い っ た の で あ る。
大 筋 で は 荒 野 氏 の 議 論 に賛 成 で あ るが,「 性 の 国家 管 理 」 が 完 成 して い くの は近 代 以 降 で あ り,特 に 「身 体 の 管 理 」 と い う点 で は,梅 毒 検 査 が 大 き な役 割 を果 た して い っ た と考 え る 。 そ の 問題 を考 え る材 料 の ひ とつ が,長 崎 県 立 図書 館 の 古 賀 文 庫 に所 蔵 さ れ て い る,古 賀 十 二 郎 『梅 毒 の 研 究 草 稿 』 で あ る。 以
下,同 文 書 の 内 容 を紹 介 して い きた い 。
末 次 忠 助(後 興 善 町 の 乙名,総 町 乙 名 頭 取,出 島 町 乙名,天 保9年(1838) 10月29日 逝 く。 行 年75)は,「 奇 人」 と称 さ れ て い た が,志 筑 忠 雄 に師 事 して, 蘭 学 に精 通 して い た 。 志 築 は,フ ル ブ リ ュ ゲ氏 の梅 毒 学 説 を 学 び,梅 毒 ア メ リ カ伝 来 説 を 唱 え た 。 末 次 は,出 島 オ ラ ン ダ屋 敷 の 医 者 ゲ ル リ ッ ト ・レー ンデ ル
ト ・バ ー ゲ ンか ら ヨー ロ ッパ にお け る 遊 女 定 期 検 梅 の こ とを 聞 い て い た 。
か つ し
松 浦 静 山 の 『甲子 夜 話 』(1821〜41年)巻18に は,オ ラ ン ダ屋 敷 乙 名 忠 助 よ
118 商 学 討 究 第57巻 第4号
り土 屋 七 郎 宛(9月9日 付)書 簡 が 掲 載 され て い る(平 凡 社 東 洋 文庫,1977年)。
梅 毒 を恐 る こ と甚 だ し く候 。 人 身 の 弱 む る は梅 毒 に よ る所 甚 し く候 。 日本
むまれよう ふせ ぎ
人 は人 の 生 様 は 強 く而 国 に並 ぶ か た 有 ・之 問 敷,然 る に 梅 毒 の 防 疎 に 見 へ 候 。 国 の 強 きは 人 に よ り候 。 今 の 如 く疎 に て は不 ・可 ・然 と存 候 と,是 又 バ ー ゲ ン之 説 。
彼 方 に て は,若 淋 病 を患 ひ候 へ ば,人 知 れ ば付 合 もせ ぬ 程 に御 座 候 。 是 淋 は梅 毒 の イ ロハ な れ ば,夫 婦 暮 しの もの も,梅 毒 を片 か た 患 れ ば 引 離 して 市 中 を ば 元 よ り遠 ざ け,遠 在 に独 身 に し て大 家 な どに は梅 毒 あ る も の は 出 入 もい た さ ず 。こ れ 若 も其 種 子 を遺 さ ん こ とを恐 れ て との 説 に候 。 遊 女 も七 日 目 ご と に 医 師 遊 女 屋 に 参 り候 て 陰 門迄 あ らた め候 由 。 彼 方 に 而 は 病 人 千 人 の 内,梅 毒 あ る は 五 六 人 に止 ま り可 ・申候 。 此 方 に て は 病 人 千 人 の 内,梅 毒 無 きが 五 六 人 な るべ し。 可 ・恐 事 と 申候 。
末 次 は,日 本 で 一 般 に梅 毒 や 淋 病 が,殆 ど恐 れ られ て い な い こ と を嘆 い て い る 。 ヨ ー ロ ッパ が 「病 人 千 人 の 内,梅 毒 あ る は五 六 人 」 で,日 本 が 「病 人 千 人 の 内,梅 毒 無 きが 五 六 人 」 とい う の は,い さ さ か 大 袈 裟 な 表 現 で あ る こ とが, 後 述 す る 数 字 か ら も言 え る。 しか し,こ こで 既 に ヨー ロ ッパ に学 ん で,遊 女 の
「陰 門」 検 査 が 必 要 だ と説 か れ て い る 。 バ ー ゲ ン は,定 期検 梅 の必 要 を述べ て い るが,古 賀 は,こ の 書 簡 は 文 化14年(1817年)の も の と推 定 して い る。
末 次 書 簡 に よ る と,以 前 は 「淋 梅 同病 説 」 が 主 流 で あ っ た が,フ ラ ンス 人 医 師 ブ イ リ ップ ・リ コー ル(PhilippeRicord,1800‑1889)が 淋 梅 異 毒 説 を大 成 した の は,天 保8年(1837)で あ る。 末 次 は,梅 毒 検 査 を丸 山 遊 廓 で 実 施 し よ う とす る が,反 対 に あ っ て挫 折 す る(末 次 書 簡 に よ る)。
安 政10年(1857年)に,ド ク トル ・ポ ンペ ・フ ァ ン ・メ ー ル デ ル フ ォー ル ト が 来 舶 す る。 こ こ で も 日本 の 遊 女 に検 梅 を行 うべ きだ と を力 説 さ れ て い る が,
「未 だ 時 機 は 熟 して い なか っ た 」 の で あ る(古 賀 草 稿,以 下 同)。
万 延 元 年(1860),ロ シ ア海 軍 提 督 の ビ リ レフ が,長 崎 奉 行 の承 諾 を 得 て, 軍 医 に ロ シ ア 人 行 きの 遊 女 の検 梅 を命 じた 。 ポ ンペ らの 検 梅 運 動 が 「多 大 な刺 激 を与 え た 」 の で あ る。 こ れ が,日 本 に お け る梅 毒 検 査 の嗜 矢 で あ っ た が,ポ
芸 娼妓 「解 放令」 に関す る一 考察 ヱヱ9
ンペ は 同 時 に,先 述 した 「遊 女 制 度 廃 止 」 論 を上 申 す る が,「 幕 府 は 豪 も之 を 顧 み なか っ た 」。
慶 応3年(1867年),イ ギ リス の 海 軍 軍 医 ジ ョー ジ ・ブ ル ー ス ・ニ ュ ー トンが, 横 浜 に渡 来 す る。 イ ギ リス で は,1864年 に伝 染 病 法 案 が 通 過 して お り,66年 か
ら娼 婦 に対 す る定 期 検 診 が 行 わ れ て い る。
明 治 元 年(1868),イ ギ リス の 軍 医 ニ ュ ー トンは,ハ リ ー ・ス ミス ・パ ー ク ス公 使 の 後 援 に よ っ て,横 浜 吉 原 町 に梅 毒 病 院 を設 立 した 。 明 治 政 府 は,旧 前 橋 藩 医 松 山不 苦 庵 を,そ の 副 に 抜 擢 し た 。 ニ ュ ー ト ン は,「 覚 書 翻訳文」(九 月 晦 日)の な か で
英 国 兵 隊 井水 夫,於 日本 梅 毒 を受 け,当 人 不 具 に相 成 候 の み な らす,其 子 に至 る迄,生 質 矯 躯 且 病 身 に して,兵 隊水 夫 等 に 難 相 成 者 多 分 に して,右 弊 相 防 候 為 め,我 政 府 命 令 に依 而,拙 者 日本 え 出 張 致 候 事(中 略)遊 女 時 々 相 改,其 中梅 毒 あ る もの は,全 快 ま て病 院 へ 引 籠 め 候 。 其 始 末左 之 通 。 一 千 八 百 六 十 七 年 来
,右 仕 方 無 之 時 に て,一 ケ年 の 中 百 人 之 中 八 拾 人相 病 候 事 有 之 。右 英 国 政 府 に て 出板 に相 成 候 書 中 に有 之,詐 欺 無 之 事 に候 。 一 千 八 百 六 十 入 年,此 年 四 ケ 月 は遊 女 相 改 め,九 ケ 月 は梅 毒 治 療 を施 し
候 。 此 の 年 中,百 人 に付 五 拾 壱 人 迄 梅 毒 相 病 候 。
一 千 入 百 六 十 九 年,今 年 中 改 め 方 又 治 療 等 始 終 致 故,相 病 候 者,百 之 三 十 六 に相 成 申候 。
一 海 軍 水 夫 之 方 に而は,其 に比 較 し候 へ は,又 一 増 相 減 申候 。 何 故 と申
も ぐ り
候 へ は,(陸 軍 は 一 引 用 者)屯 所 近 辺 之 酒 店 に居 候 密 売 淫 女 を弄 ひ,水 夫 之 方 は右 改 方 等 之仕 方 施 行 之 吉 原 に通 ひ候 也 。
と して い る。 吉 原梅 毒 病 院 で は,「 二 千 有 余 人 が 全 快 した 」 と言 うの で あ る 。 こ の よ う に ニ ュ ー トン らが,梅 毒 病 院 を設 立 した 目的 は,日 本 の民 衆 の た め で は な く,イ ギ リス 海 軍 の 軍 人 や 水 夫 に梅 毒 が 移 っ て は,そ の 子 弟 た ち が 病 弱 と な り,ひ い て は イ ギ リス の 帝 国海 軍 が 弱 化 す る の を恐 れ た か らで あ る。 そ れ に して も,遊 女 「百 人 之 中八 拾 人 」 とい う の は,す さ ま じい 感 染 率 で あ る。
明 治3年9月,神 奈 川 県 権 少 属 に な っ て い た松 村 不 苦 庵 は,梅 毒 が 蔓 延 し,
ヱ20 商 学 討 究 第57巻 第4号
患 者 が 逡 巡 して 治 療 し ない た め に 軽 傷 が 重 傷 に な る こ と,医 者 が 予 防 に留 意 し な い の で,娼 婦 の 居 る所 に病 院 を創 る必 要 が あ る こ と,特 に海 港 地 に病 院 を創 る 必 要 が あ る と建 白 して い る。 この 頃,各 国 公 使 も東 京 ・兵 庫 に梅 毒 病 院 を設 立 す る こ とを,明 治 政 府 か ら同 意 を得 て い た が,実 現 を見 る に い た ら なか っ た 。
同 年 秋,ニ ュ ー トンは,寺 島宗 則 外 務 大 輔 に面 会 して,長 崎 に梅 毒 病 院 の 設 立 を 要 請 して い る。 寺 島 は,薩 摩 藩 士 で,も と松 木 弘庵 とい い,長 崎 で 蘭 学 を 学 ん で い た 時 に,ポ ンペ の 廃 娼 論 や 検 梅 論 な ど を傾 聴 して い た。 寺 島 は,長 崎 県 庁 に ニ ュ ー トンの 梅 毒 病 院 設 立 を しか るべ く取 り扱 う こ と と,英 国 公 使 館 に
「横 浜 梅 毒 病 院 諸 入 費 書 類 」 の写 し を提 出 させ る こ と を命 じた。
ニ ュ ー トンは,長 崎 県 知 事 野 村 盛 秀 に面 会 して,梅 毒 病 院 設 立 の 賛 同 を得 た 。 10月17日,彼 は 「覚 書 」 を野 村 知 事 へ 差 し出 した 。 そ して 遂 に,10月 下 旬 に 大 徳 寺 境 内 に仮 病 院 を設 立 させ た。
同 年12月15日,遊 女 屋 連 中 は,仮 病 院 諸 入 費 の 献 金 を 申 し渡 され た 。1力 年 凡 そ 金6000余 両 の 負 担 で あ っ た。 しか し,こ の 巨 額 の負 担 に,大 坂 屋 孫 八,大 坂 屋 出 店 う た,靹 屋 是 吉 郎 の3名 を 除 い て は不 承 知 で あ っ た 。
翌 明 治4年 正 月,丸 山町 遊 女屋8名,寄 合 町遊 女 屋13名 が,上 等 遊 女 運 上 の 割 を も っ て,惣 人 別 よ り上 納 す る事 を許可 され た き旨 を歎 願 す らが,こ れ は拒 否 さ れ た。 さ ら に協 議 の 上,遊 女 人 別 を平 等 人別 に して,毎 月 金3朱 を上 納 す る よ う 申 し出 る 。 しか し,入 院 中 の 遊 女 は,別 段 に毎 月2朱 つ つ,全 快 退 院 ま で 日割 計 算 に て 納 付 す る こ とを 申 し 出 た 。 これ で 病 院 の 運 営 費 の 件 は,一 応 の 妥 結 を み た 。
しか し明 治3年10月,遊 女 屋 の 「陰 門 開観 」 に対 す る抗 議 文 が 残 さ れ て い る。
「別 紙 之 覚 」 に は ,次 の ように書 かれてい る。
一 惣 人 数 陰 門 開 観 に 相 成 候 而は,遊 女 之 身柄,地 旅 之 逢 客 者勿 論,市 郷 之 諸 人 よ り種 々風 説 申鰯 之 儀iは,顕 然 之儀 に御 座 候 得 は,客 席 は勿 論, 神 仏 参 詣 都 而他 行 之 往 来 難 出 来,難 渋 之 仕 合 御 座 候 。
一 惣 人 数 開観 に相 成 候 而 は,市 郷 之 湯 屋,或 は 髪 結 所,都 而人 々 相 集 候 場 に而風 説 申鰯 候 得 は,親 兄 弟 之 名 前 相 顕,親 子 共 恥 入 候 仕 合 に御 座 候 。