著者 森 雅秀
著者別名 Mori, Masahide
雑誌名 仏教について教えてください : 講義によせられた
3000の質問と回答
巻 1
ページ 662‑696
発行年 2010‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/24025
III.
マンダラから見た日本の宗教1.
両界曼荼羅の構造と代表例聞き漏らしたのだと思いますが、そもそも何で両 界マンダラを取り上げているのですか。
授業では理由をはっきりとは説明していなかった かもしれません。宿題として配付した資料にも書 きましたが、日本ではマンダラといえば両界曼荼 羅を指すのが普通です。日本にマンダラがはじめ て伝わったのは、空海が中国から帰国したときで、
このときに請来したのが両界曼荼羅でした。これ らのマンダラは単に重要なマンダラであったとい うだけではなく、ふたつでひと組としてあつかわ れ、寺院内部に向かい合わせにかけられ、それを 前にして儀礼が行われたり、床にひろげられる敷 曼荼羅として灌頂儀礼で用いられたりしました。
日本密教ではその後、今回の授業でも取り上げる 別尊曼荼羅が何種類も登場しますが、これらは両 界曼荼羅とは同格にはあつかわれず、一段低いマ ンダラと見なされます。仏の世界を表した曼荼羅 とは、あくまでも両界曼荼羅のことでした。その 一方で、別尊曼荼羅にはさまざまな仏が現れます が、そのかなりは両界曼荼羅と同じものです。別 尊曼荼羅を生み出すための素材としても、両界曼 荼羅は重要な役割を果たしました。一部の神道曼 荼羅も同様です。これに対し、浄土教系のマンダ ラや参詣曼荼羅には両界曼荼羅の要素はほとんど 見られません。後期のこの授業の全体は、日本の マンダラの歴史の中でもっとも重要で基本になる 両界曼荼羅からはじめ、だんだんそれから遠ざか っていくという流れで組み立てています。その出 発点が両界曼荼羅になります。なお、インドやチ ベットの伝統では、マンダラは両界曼荼羅だけで はなく、最終的には百種類以上のマンダラが登場 します。そこでは金剛界と胎蔵界がひと組にあつ かわれることもありません。2種のマンダラで全 体を表すという発想も、中国や日本の密教に独特 です。
今日の講義の最後に紹介していた板彫の両界曼荼 羅に驚きました。どのくらい珍しいものなんでし ょうか。他にもありますか?
板彫の両界曼荼羅は有名なものとして高野山の金 剛峯寺に 4 点あり、このうちのふたつは胎蔵界、
金剛界のセットで、あとの 2 点はいずれも胎蔵界 です。前者は縦の長さが 30 センチ弱、後者は 20 センチ弱ので、いずれも小さな作品ですが、そこ にマンダラの仏たちがていねいに掘られています。
作風やモチーフなどから、これらの作品は唐代の 中国で作られ、日本に請来されたと考えられてい ます。空海が伝えた現図系の曼荼羅とくらべると、
胎蔵界に大きなちがいがあり、中国ではさまざま な形式の胎蔵界曼荼羅があったこともわかります。
これらの板彫の曼荼羅が何のために作られたかは よくわかりませんが、単独の胎蔵界2点のうち、
ひとつには裏側に取っ手があり、もうひとつにも かつてはあった形跡があるため、儀式の中で阿闍 梨が手にして、何らかの作法を行ったと推測され ています。板彫曼荼羅には京都の地蔵院に伝わる 作品もあります。これは現在、京都国立博物館の 常設展で展示されています。
曼荼羅というのは儀式の時に出してきて掛けられ るとの話でしたが、そのときの曼荼羅というのは 仏像のように拝む対象として利用されるのでしょ うか。そもそも曼荼羅とは・・・?単に美術的な ものだけではないのでしょうか。
密教の儀礼の特色として、儀礼を行う阿闍梨が仏 そのものとなって、仏の役割を演じることがあげ られます。曼荼羅はそのためのイメージ・ソース のようなものです。曼荼羅を前にして阿闍梨は密 教独自の瞑想を行い、自分自身がマンダラの中央 に描かれた仏であることを自覚します。仏像や仏 画などは礼拝の対象としてとらえられることが一
般的ですが、密教のマンダラや図像は、そのよう なものとは根本的に性格が異なります。また、現 代の人々は密教美術を含めこれらの作品を美術品 として鑑賞することに慣れてしまっていますが、
そもそも宗教美術というものは鑑賞するために作 られたわけではありません。あくまでも宗教とい う文脈の中で、何らかの機能や目的を持って作ら れています。これは仏教に限らず、キリスト教や イスラム教などでも同様です。マンダラの機能に ついては私の『マンダラの密教儀礼』を参照して ください。このあたりのことが詳しく書いてあり ます。
胎蔵曼荼羅で釈迦が登場するのは、密教以前の伝 統が残っているとおっしゃいましたが、よくわか りません。釈迦は仏になる前の仏の姿ですよね。
その釈迦が金剛界になるといなくなってしまうの は不思議な感じがします。
釈迦は仏になった後も釈迦です。釈迦とは彼が属 していた部族の名称で、釈迦の本来の名称はゴー タマ・シダールタです(パーリ語ではゴータマ・
シッダータ)。仏になる前、つまり悟りを開く前 の釈迦は「菩薩」とか、「悉達多太子」などと呼 ばれます。釈迦を含め、仏がどのようなものであ るかは、仏教の歴史の中でつねに変化しています。
密教やその前の大乗仏教の時代には、仏は釈迦だ けではなく、過去にも未来にもさまざまな仏がい て、さらにこの世界とは別の世界にも、それぞれ 異なる仏がいるという考え方が主流でした。その ような仏たちを統括するような、根元的な仏も出 現します。日本密教では大日如来がそれに相当し ます。当然のことながら、この場合、釈迦も多く の仏のひとりに過ぎ ず、大日如来 こそがいわ ば
「真の仏」になるわけです。両界曼荼羅の中心に いるののが釈迦ではなく大日如来であるのは、こ のような仏の世界の構図があります。その中で、
胎蔵界曼荼羅に釈迦が登場するのは、中心ではな いにしろ、まだ釈迦が重要な位置を占めていた大 乗仏教やその前の時代の伝統が残っていたことを 示すのです。
正統系と非正統系があるというお話でしたが、非 正統系はどういう経緯で出来たものなのか、よく わかりません。
日本にはじめて曼荼羅を伝えたのは空海ですが、
その後、真言宗でも天台宗でも何人かの僧が中国 に渡り、さまざまなマンダラを請来します。「入 唐八家」とよばれる8人の入唐僧がよく知られて います。とくに天台宗では、空海と同時期に遣唐 使として派遣された最澄が、本格的な密教を導入 することができず、密教に関しては真言宗のおく れをとったため、その後継者たちが積極的に密教 の文物を中国に求めました。日本では空海請来の 現図系のマンダラがもっとも権威あるマンダラで したが、中国ではさまざまな形態や様式のマンダ ラが流布していたので、あらたに日本に伝えられ たマンダラは、それとは異なる場合があります。
それらは現図以外のマンダラとして位置づけられ ました。これを「非正統系」と呼んだのです。な お、当時の密教僧がマンダラの請来に異常なまで の熱意を持っていたのは、マンダラを用いた儀礼 が鎮護国家のような国家的な儀礼であったことに よります。マンダラとそれに関する儀礼について の情報を入手することは、国家にとってきわめて 重要な意味を持ちます。それはちょうど、現代社 会において、IT や軍事、医療などに関する最先端 の技術を手に入れることに匹敵します。それによ って国家や天皇の安泰がはかられるわけですから。
そして、それを導入した密教僧や、その所属宗派 は、当時の政治権力と密接な関係を持つことがで きます。
胎蔵界曼荼羅の如意輪観音などの周囲には、小さ な像が描かれていますが、これが脇侍なのでしょ うか。
脇侍(きょうじ、わきじ)は中心となる仏の左右 にいる従者的なものです。菩薩が多いのですが、
女尊や天、明王も脇侍になることがあります。左 右に1尊ずつで、全体で3尊からなることが一般 的ですが、4尊をともない全体で5尊のものなど もあります(たとえば五台山文殊)。8尊とか1 6尊とか、それよりも多い場合、脇侍とはいわず
に眷属(けんぞく)と言ったりします。「脇に侍 る」わけではありませんからです。胎蔵界曼荼羅 の小さな像は「使者」と呼ばれます。これは経典 の中でそのように呼ばれていることにしたがった ものです。従者や眷属と、基本的には役割は同じ なのですが、位はあまり高くありません。
私は富山出身なのですが、立山曼荼羅はどう見て も胎蔵界や金剛界のような仕組みになっていない のに、どうして曼荼羅と呼ぶのですか?そういえ ば那智のものも、立山に似ていますよね。
那智熊野参詣曼荼羅も立山曼荼羅はこの授業の最 後の方で取り上げます。まさに、胎蔵界や金剛界 のようにはなっていないことがポイントになりま す。お楽しみに。
三昧耶会の仏を描かず、物で表すという表現方法 がとてもおもしろく感じられました。その物とい うのは、仏の持つ力や性格の抽象的な表現なので しょうか。また、逆に物によって生まれた仏はい るのでしょうか。
シンボルなどのものによって仏を表すことについ ては、つぎの宿題で読んでいただく文章で、その 意義などを考察しています。仏のかわりの物が、
仏の持つ力や性格を表す場合もありますし、仏の 姿で表したときの持物(じもつ)が用いられるこ とも多いです。「物によって生まれた仏」という 質問の意図に合致しないかもしれませんが、密教 では仏の瞑想法として、このようなシンボルをは じめに瞑想して、そこから仏の姿を生み出す方法 があります。
2.
別尊曼荼羅(1
)別尊曼荼羅総論7 という数字が王権と深い関係にあるとおっしゃ っていましたが、どうしてですか。また、三段御 修法の普賢延命法という字がとても気になりまし た。「延命」の儀式が仏教で行われたということ ですか。
7 という数字はインドを含め、かなり広い範囲で 王権と関係します。これは 7 が「完全」とか「全 体」と密接なつながりがあるからです。『インド 密教の仏たち』の中でも書いたことですが、たと えば 1 週間が 7 日であるのもその 1 例です。これ は聖書の創世記で、神が世界を作るために 7 日つ いやしたことと結びつけられていますが、聖書で はわざわざ 7 日にするために、一日はお休みの日、
つまり安息日にします。ほかにも、荘子に出てく る混沌の物語で、混沌の顔に 7 つの穴を開けたら 死んでしまったというのも、世界に秩序を与える ことに通じます(穴を開けることが混沌の秩序化 で、荘子はこれを嫌ったからです)。世界の創造 や秩序化は、王の役割と見なされ、王権の象徴的 な数として 7 がしばしば登場することになります。
普賢延命法は平安時代の代表的な修法で、そのと おり、延命祈願のために行われました。この場合、
特別な普賢の像が儀礼の場に掛けられます。基本 的に、国家儀礼であろうと、個人の願望成就であ ろうと、修法は仏教本来のあり方とは無縁の、現 世利益的な内容がほとんどです。
私は今まで「敬愛」というのは家族間や年長者に するものだと思っていた。乾闥婆が愛を司るのは 知っていたが、性愛(?)につながるこの仏?は 例外的だと思っていたので、すごく世俗的な面も あるんだなと驚いた。
「敬愛」ということばは現代でも用いられますし、
その場合は愛情を込めて尊敬するという意味で理 解されますが、密教の儀礼としてはかなり異なる ニュアンスで用いられます。本来、この語に対応 するサンスクリットは vasīkaraṇa といって、「自 分の思い通りに操る」という意味です。敬愛によ く似た儀礼に「鉤召」(こうちょう)というのも あって、「自分の方に引き寄せる」という意味に
なります。敬愛も鉤召も本来はとくに異性を対象 とすることばではありませんが、そのような状況 で行われたことが多かったようです。敬愛は密教 儀礼の他の 3 種の修法、すなわち息災、増益、降 伏とあわせて四修法を構成しますが、それらの起 源はヴェーダ文献の中でも呪術的な内容が濃厚な
『アタルヴァ・ヴェーダ』に求められます。世俗 的なのはそのためです。乾闥婆はサンスクリット ではガンダルヴァといい、たしかに性愛と密接な 関係があります。好色でもあり、さまざまな神話 が伝えられています。仏教の場合、敬愛法と関係 があるのは愛染明王や孔雀明王などです。これら の仏は安産祈願にも力を発揮します。
小野仁海は雨を降らす人だとのお話でしたが、小 野仁海は小野篁や小野小町の先祖ですか?小町は 雨請小町とも呼ばれていますよね。請雨曼荼羅の 龍王は、四海竜王ではないのですか?三人しかい ないのですが・・。
小野仁海(951-1046)の小野は地名からきてい ます。京都の山科にあり、そこに開いた随心院を 活動の場としました。近くには醍醐寺や勧修寺も あります。小野は京都の地下鉄の東西線の駅の名 前にもなっています。一方、小野篁(802-835)
や小野小町(?-901?)の小野の姓は、小野妹子 で有名な小野家に由来します。小野小町は小野篁 の孫と言われ、有名な書家の小野道風も小野篁の 孫になります。小町が雨請小町と呼ばれているこ とも知りませんでした。詳しいお話をご存じなら ば、教えて下さい。請雨曼荼羅の龍王は、ひとり で立っている方が輪蓋龍王で、二人の方がナンダ、
ウパナンダの二龍王です。あとの二人はたいてい セットで登場します。
仏頂が神格化されて仏頂尊となり、仏頂尊にもい ろいろな種類が出てくるのには驚きました。仏頂 の他にも神格化された仏の体の部位やものなどが あれば知りたいです。
仏頂は仏の身体的な特徴である三十二相のひとつ ですが、ほかの特徴が神格化されることはないよ うです。額の中央にある白毫(びゃくごう)は、
そこから光が発するという特別な機能も持ってい ますが、とくに白毫菩薩とかにはなりません。仏 頂は三十二相の中でもかわった存在なのでしょう ね。頭の肉が盛り上がっただけなのですが 。仏 頂尊の中に仏頂尊勝(ぶっちょうそんしょう)と いう仏がいます。仏頂の中でもとくにすぐれいて いるという意味の名前です。この仏の陀羅尼(だ らに、呪文のようなもの)はとくに広く信仰され、
中国、中央アジア、日本で大流行しました。
日本で密教が流行してから時代がくだるにつれて、
多尊化が進んだという経緯はわかったのですが、
そのときに外国の知識を(しかもあまり知られて いない)、どうやって入手したのでしょうか。ま た、入手の前後に、知識の本来の意味が変わった りしなかったのでしょうか。
別尊曼荼羅を用いて行う修法は、経典や儀軌とい った文献に規定されています。別尊曼荼羅の描き 方も、そこには記されています。このような文献 は空海をはじめとする多くの入唐僧らによって日 本に請来されました。最先端の知識の導入に、必 死だったのです。ただし、儀礼を行うための詳し い情報は、これらの文献には含まれていないこと もしばしばあります。そのような情報は口伝で伝 わったか、あるいは日本で創意工夫されたものも あるようです。そのときに、日本独自の解釈や方 法があらわれました。儀礼の目的についても同様 です。儀礼の大規模化もそのような変化のひとつ としてとらえられるでしょう。
輪と王権のイメージがどう結びついたのかが疑問 です。「輪を転がす」ということはどういう意味 を持つのでしょうか?輪廻思想などとも関連があ るのでしょうか。
イメージやシンボルとしての輪にはいろいろな意 味がありますが、王権と結びついたイメージとし ては、戦車の車輪があります。インドでは王は戦 車に乗って進軍し、その輪が蹂躙するところが征 服地になります。また、中央から放射状にスポー クがのびる輪は、太陽のイメージとも重なります。
太陽の光が全世界におよぶように、王の覇権が世
界全体を覆うのです 。これら二つ のイメージ は 別々ではなく、インドでは太陽神が戦車に乗って 表され、そのイメージは現実の王にも重なります。
なお、輪廻には「輪」という文字がありますが、
も と も と の こ と ば は 「 サ ン サ ー ラ 」 と い っ て 、
「つねにうつろうもの」という意味です。とくに 輪が回転するという意味はそこにはありません。
修法は災害を払ったり、加持祈 を行ったりする のに別尊曼荼羅を使用するとのことでした。別尊 の中でも仏、菩薩、明王、天がヒエラルキーを持 っていますが、修法をするときには、その修法の 重要度によって、どの仏を主尊としたものを使用 するかを決めたのでしょうか。もしくは息災や降 伏など、その効用があれば、どの主尊でもよかっ たのでしょうか。初歩的なことかもしれないので すが、曼荼羅は儀礼のたびに作られたのでしょう か。
密教の仏たちにヒエラルキーがあるのは、ご指摘 のとおりです。しかし、本来の地位と修法の種類 とは必ずしも対応しないようです。仏たちの世界 で上位に置かれるのは、狭い意味での仏、すなわ ち大日や阿弥陀などですが、別尊曼荼羅の中でこ れらの仏がしめる割合は必ずしも高くありません
(大日は両界曼荼羅の主尊なので、別尊曼荼羅に はならないのですが、一字金輪や仏眼仏母は大日 と同体と見なされます)。むしろ、不動明王や愛 染明王などの明王のクラスの別尊曼荼羅に豊富な 種類があり、好まれたことがわかります。密教の 仏の世界では底辺に位置づけられる天部の曼荼羅 もいろいろあります。別尊曼荼羅を用いた儀礼の 変化に多尊化をあげましたが、それとともに、そ れまでは知られていなかったようなかわった仏の 曼荼羅が次々と登場します。「新奇な法」として、
それまでにない効果が期待されたのでしょう。こ のような動きは、日本における密教儀礼の独特の 展開として注目されます。なお、インドでは曼荼 羅は儀礼のたびに作られましたが、日本では同じ 曼荼羅を繰り返し使いました。別尊曼荼羅でもそ れは同様で、儀礼が終われば大切にしまわれたよ うです。現存する別尊曼荼羅は保存のいいものが
多いのですが、それはいつも掛けられていたので はなかったことが幸いしたようです。
別尊曼荼羅の多様さを見て驚かされました。別尊 曼荼羅を見ていると、周囲には赤いオーラのよう なものが出ているのですが、色によって仏、菩薩、
明王、天などを見分けることができるのでしょう か。
明王のまわりの赤い彩色は炎を表しています。明 王は忿怒形をとり、その怒りや凶暴さが炎によっ て強調されます。からだの色は仏の重要な特徴で すが、それだけでは仏を見分けることは難しいで しょう。表情、髪型、装身具、顔や腕の数、姿勢、
持物、乗り物などが、見分けるポイントになりま す。
・ No. 2 のプリントを見ると、別尊曼荼羅は「金 胎両部の大曼荼羅から、特定の一尊を選び、配置 されている」とあり、それならば大日経や金剛頂 経にもとづくはずなのに、法華経や違ったお経の 名の付いた別尊曼荼羅があるのはどうしてでしょ うか。
・密教というと、護摩を焚いて加持祈禱というイ メージが強いけれど、それは昔のインドや現在密 教が伝わっている国々でも同じなのでしょうか。
それとも密教と加持祈祷というつながりは、日本 固有のものでしょうか。
「金胎両部の大曼荼羅から、特定の一尊を選び、
配置されている」という別尊曼荼羅の定義は、や や問題があります。別尊曼荼羅の中央の仏は、必 ずしも両界曼荼羅から取り出されているわけでは ないからです。また、同じ仏が両界曼荼羅と別尊 曼荼羅の両方に現れても、その姿は異なることも あります。むしろ、大日如来以外の仏を本尊とし、
別尊法と総称される密教儀礼で用いられた曼荼羅 というのが、妥当と思います。大日経や金剛頂経 は別尊曼荼羅の典拠となる経典ではないのです。
法華経曼荼羅は別尊曼荼羅の中では少し特別な存 在です。法華経信仰は当時の平安時代において、
きわめて重要な位置を占めていました。一般に密 教では法華経はあまり重視されませんが、日本に
おける独自の展開として、密教と法華経信仰が結 びついています。護摩や加持祈祷と密教は、日本 以外でも同様です。護摩という儀礼そのものはイ ンドではヴェーダの時代から行われ、ヒンドゥー 教に受け継がれます。密教が護摩を取り入れたの もヒンドゥー教からです。護摩は密教の中で独自 の展開を遂げ、現世利益的な目的とともに、行者 の悟りのような精神的な側面も伴うようになりま す。護摩は現代のヒンドゥー教でも、あるいはチ ベットやネパールの密教でも行われています。そ の方法は日本の護摩と驚くほどよく似ています。
一番最初に別尊曼荼羅と聞いたときは、宗教など で見られるように、本家争いのようなものや解釈 の違いで対立しているのかと思った。そんなこと はないのですか。
そんなことはないです。別尊曼荼羅の「別」は両 界曼荼羅や大日如来に対して「別」という意味で、
宗派間の違いではありません。しかし、前回もお 話ししたように、別尊曼荼羅が登場した背景には、
真言宗と天台宗、さらに天台宗の中の山門派と寺 門派の対立があったことはたしかです。いかに朝 廷や貴族に関わることができるかが、別尊曼荼羅
とその修法を軸に展開したのです。
叙景曼荼羅となっているものは、素人の僕が見て も両界にならっていないとわかった。他の授業で 聖地の鳥瞰図のような曼荼羅を目にしたので、い ったいあれはどういうものかと思っていたけど、
たぶん、叙景型から変化していったものだと思う。
おそらくそうでしょう。さらに、この先の授業で 紹介する神道曼荼羅や浄土教の曼荼羅を見ると、
その傾向がさらに強くなることもわかると思いま す。世界を鳥瞰的に見るという発想と、曼荼羅と いう形式で世界を表現するというのは、本来、ま ったく異なることでした。インドのマンダラには 風景画のような方法で描かれたものはまったくあ りません(ただし、叙景型を広い意味でとり、簡 単な景観の中で仏たちが並んでいるというだけで あれば、あることはあります)。胎蔵界や金剛界 を見ても、それが何かの景色を描いたものとは思 えないでしょう。いずれのマンダラにおいても、
いくつかの原理で世界が構成されているという発 想で、それを幾何学的な構図や配置で表していま す。われわれが含まれるような現実の世界の再現 ではないのです。
3.
別尊曼荼羅(2
)修法との関わりヒンドゥー教の神であるときには、子どもを食べ る神であった鬼子母神が、仏教に取り入れられる ことによって、こどもを守る神になったというの が意外でした。宗教が他の宗教の神を取り入れる ときには、良い神が悪神となったり、取り入れら れた側の宗教で、上位にいた神を下位の神として 取り入れるというのが一般的だと思っていました。
異なる宗教のあいだで神々が往来することはしば しば見られますし、インドではとくに顕著です。
その場合、本来の地位や役割が変わってしまうこ とも、めずらしいことではありません。鬼子母神 の場合も、悪しき神であったものが、仏教では良 い神になったという説明が、仏教の一般書などで
紹介されています。しかし、私はこれは一面的な 見方だと思います。むしろ、子どもの命を奪うほ どの力を持っている神だからこそ、子どもの命を 守ることもできるのだと考えるべきでしょう。イ ンドではとくに天然痘の神として、このような女 神が数多く信仰されています。当時の人々にとっ て、子どもの病気としてもっとも恐ろしいのが天 然痘だったのでしょう。インドにおいては、神は
「善い神」と「悪い神」とに単純に二分化するこ とはできず、その両方の性格を持っているからこ そ、信仰されているものがたくさんいます。とく にそれは民間信仰の神に多く見られます。(拙著
『インド密教の仏たち』第七章「財宝の神と忿怒
の神」参照)
儀礼の指図の中に「栄花物語」の記述にもあった ように、香を炊いたり香水瓶を置いたりしていま したが、曼荼羅は視覚、読経は聴覚で、人間の感 覚に多面的に訴えるものだったのだと感心しまし た。
私もそう思います。儀礼というと、一般にはしき たりにしたがった退屈な行事という印象が強いの ですが、当時の密教儀礼は荘厳なパフォーマンス で、見る人の五感すべてに訴えるものだったよう です。それだからこそ、もののけを引きずり出し たり、死にそうな人を生き返らせたりもできたの でしょう。なお、香水瓶の中の香水は、それ自体 はそれほど強いにおいは発しなかったと思います。
むしろ、清めの水で、儀礼の道具や場所、人など に振りかけます。ところで、日本の密教関係の文 献を見ていると、儀礼の記録が詳細にのこされて いることにおどろかされます。とくに指図は、実 際の儀礼の空間がどのように作られたかがわかり、
儀礼を研究する上で重要な情報となります。私が 専門としているインドでは、指図はもちろん、実 際の儀礼の記録もまったく残っていません。イン ドの人たちにとって、儀礼とは一過性のもので、
記録に残すようなものではなかったようです。
・『栄花物語』で御修法を行っている様子を見て、
筆者が「心弱からん人はあやまりぬべき心地して、
胸はしる」とあることから、お産をしようとして いる女性にしてみれば、この御修法はかなり迷惑 だったのではないかと思いました。
・今だったら、人が死にそうなときはなるべく静 にすることが暗黙の了解のようになっていると思 う。でも、平安時代はむしろもののけを払うため に、騒がしくしていた、というのがおもしろいと 思った。
・出産や往生のときに、大きな音や護摩をさかん に焚いたりするのは、なんだか助けたいのか、盛 大に送り出してやりたいのか、よくわからない感 じがする。そのような中では今の私たちからする と「心安らかに」とはほど遠い気がする。
類似のコメントが何人かの方に見られましたので、
まとめて紹介しました。出産や臨終に際して行わ れた修法が、とても騒がしいものであったことを 授業で強調したように、わたしも同感です。出産 中の女性にも、臨終間際の人々にも、このような 修法は、はなはだ迷惑だったのでないかと思いま す。しかし、それは現代の私たちのとらえ方であ って、平安貴族にとっての「音の世界」は、われ われとはまったく異なっていたかもしれません。
たとえば、不断経といって、昼夜を問わず続けら れる読経の音は、彼らにとって日常の生活音の一 部だったでしょう。そのときには単なる読経だけ ではなく、さまざまな楽器も演奏されます。仏教 では節回しをもった独特の読経の旋律は声明(し ょうみょう)と呼ばれ、天台宗や真言宗では現在 でもその伝統が守られています。念仏もそのよう な伝統の中から生まれました。現在のように単な る題目を唱えるだけのものではなかったのです。
あるいは、絵巻物で、出産をしている部屋の外で、
弓の弦をはじいている男性が描かれているものが ありますが、これは梓弓と言って、弦の音で悪霊 やもののけを退散させるために行われました。音 に関して思いつくものをいくつかあげましたが、
そのような中で行われた修法の音は、けっして耳 障りなものではなく、当事者に安心を与えるもの だったかもしれません。われわれの基準で千年以 上も前の人々の感覚をとらえてはいけないでしょ う。これは視覚の世界でも同様で、授業で紹介し ている曼荼羅などの作品も、教室のスクリーンで 見るのと、当時の人々が修法を行っている堂内な どで見るのとでは、まったくその印象は異なるは ずです。日文や日本史の方はご存じかもしれませ んが、平安時代の声や音に関する興味深い研究が 発表されています。
阿部泰郎 2001 『聖者の推参 中世の声とヲコ なるもの』名古屋大学出版会。
八字文殊曼荼羅に書いてある文字は、何と書いて あるのですか。漢字ですか。
漢字ではなく梵字です。文字の種類から悉曇(し っだん)とも言います。書いてある八文字は、八
音節の真言で「オーム、ア、ド、ラ、フーム、カ ム、チャ、ラ」だそうです。サンスクリットです。
中尊の文殊のまわりには、文殊の分身のような童 子が八人並んでいて 、それぞれが 一文字(一 音 節)に対応します。
今でも安産等のための法儀等はやっているのだろ うか。
安産祈願の儀礼はさかんに行われています。一般 の人たちでも、戌の日を選んで神社にお参りして、
祈祷してもらいます。密教寺院でも同様ですし、
たとえば皇室の重要な出産に際しては、有名寺院 が大規模な安産の祈祷を行います。その方法は、
おそらく平安時代などに確立したものが、忠実に 受け継がれているのでしょう。兵庫県宝塚市にあ る中山寺のように、安産祈願で有名な真言宗寺院 もあります。
栄花物語がおもしろかったです。当時の生活に信 仰が大きく関わっていたことがわかりました。し かし、御修法のように、多くの人や資金が必要な ことは社会のどのような人々が行っていたのか疑 問に思いました。貴族でもお金のある人しかでき なかったのでしょうか。
多分そうでしょう。栄花物語には、修法を行って もらうために、調度類を売却して捻出したという ような記述も現れるので、僧侶たちに支払うお金 は相当だったようです。それと同時に、天皇はも ちろん、院、中宮、東宮、東宮妃、女御など、皇 室の人たちのために行う修法には、国家予算から 支出されたのではないかと思います。皇太子や親 王が無事誕生するというのは、国家レベルで重要 な意味を持ちます。天皇の延命長寿ももちろんで す。そもそも、当時の国家予算のかなりは、宗教 行事に支出されていたはずです。無駄なお金とい う気もしますが、それによって体制維持が図られ ていたのです。
一番最初に見た曼荼羅で、孔雀明王が出ていたが、
インドやチベットの仏教で孔雀がポピュラーなの は、「悪食」として有名なので、何でも払うとこ
ろから来たと思っていたから、雨と関連があると いう話は意外だった。
孔雀は仏教の中では重要な動物のひとつです。悪 食といわれるのもたしかで、とくに蛇を食べると いわれることから、毒蛇除けの力も持っていると 考えられています。孔雀明王も本来、毒蛇除けの 女神として信仰されていました。ガルダという想 像上の鳥も蛇や龍を食べることになっていますが、
そのイメージのもとには孔雀があるようです。こ のように、孔雀は蛇や龍の天敵になりますが、む しろこれらの動物と密接な関連があると見た方が 適切でしょう。蛇も龍も性的なイメージと関わり が深く、そこから孔雀も子宝や安産のための信仰 の対象となります。蛇が男性性器のシンボルと見 なされるのは、世界 中に認められ ます。龍( 龍 神)が雨をつかさどることも、雨の降ることが単 なる自然現象ではなく、世界に生命をもたらす一 種の生殖行為と見なされるからです。
栄花物語を読んで、平安の天皇や貴族たちは、あ らゆる手段を講じてきたことを知り、生きる(生 かされる)ためなら何でもありなんだなと思った。
(もののけにしか御修法は効かないといったきま りはあるようだが)。密教の修法、陰陽道、法華 経の仏教、「祓い」や「御祭り」といった神道も しくはもともと日本の信仰的なものも出てきた。
それから天台と真言(仁和寺)の僧が一緒に祈祷 していたが、この時代の後になると、どちらか一 方から何人かの精鋭が選ばれるという形になった のでしょうか。それとも、同様にふたつの宗が一 緒にやってきたのだろうか。
平安時代の密教の歴史は、朝廷や貴族との関わり が重要です。初期にはいわゆる鎮護国家の儀礼は ほぼ真言宗に独占されていましたが、天台に慈恵 大師良源(元三大師ともいいます)という僧侶が 出た頃から、天台は権力に急接近します。道長を ふくむ摂関政治の頃は、天台がもてはやされた時 代です。少しくだって院政の頃になると、醍醐寺 や仁和寺を中心とする真言宗がふたたび優位に立 ちます。ただし、いずれの時代も、一方の宗派の みということはなく、つねに両者が朝廷や貴族と
深い関わりを持っていました。栄花物語で見たよ うに、規模の大きな修法を行うときには、両者か ら有力な僧侶が集められたようです。儀礼の効果 を「験」(げん)といいますが、「験を競う」状況 です。
数年前の陰陽師ブームもあってか、「平安時代 」
「 も の の け 」 と く る と 、 即 「 陰 陽 師 」「 安 倍 晴 明」と出てきてしまうのですが、これはあくまで も現代の物語で、実際の平安時代では密教儀礼が メインであり、陰陽道はそれほどメジャーなもの ではなかったのでしょうか。
陰陽道はたしかに依然としてブームですし、私も 関心はあるのですが、あまり詳しく調べたことが ありません。平安貴族の宗教的世界において、陰 陽道が重要な役割を果たしたことはたしかでしょ うが、密教とどのような関係があるのかはわかり ません。もののけと疫神で役割分担をしていたこ とは、授業で紹介しましたが、そのほかにも分業 体制を取っていたでしょう。その一方で、実際の 儀礼は両者で共通な要素もあるでしょうし、歴史
的な背景を考えれば、密教が陰陽道に影響を与え たところも多かったと思います。陰陽師やその儀 礼は絵巻物でときどき目にすることがあります。
たとえば「不動利益縁起」という絵巻物には、安 倍晴明が儀礼を行っている場面があり、そこには 疫神の姿も描かれています。けっこうかわいいで す。
小学生のときに読んだ「空海」のマンガで、空海 が目隠しをして、蓮の花を持って、花を落とした ら、2 回とも大日如来の上に落ちたというのを思 い出しました。これは曼荼羅ですか。壁に掛かっ ていませんが。
床の上にひろげて用いる敷曼荼羅です。インドや チベットの伝統では砂曼荼羅という形を取ります。
曼荼羅の上に花を落とすのは灌頂の儀式の一部で
「投華得仏」といいます。この儀礼と曼荼羅の役 割については前期の授業で取り上げました。詳し くは私の『マンダラの密教儀礼』(春秋社)をお 読みください。
4.
神道曼荼羅(1
)本地仏と垂迹神授業が進むにつれて、登場する仏や曼荼羅が増え てきて、少し混乱してきました。何かわかりやす い系統図や体系図のようなものはありませんか?
そうならないようにと思って、前回は授業のはじ めにこれまでのふりかえりと今後の見通しをお話 ししましたが、だめでしたか。日本におけるマン ダラの展開は、仏をどのようにとらえ、それをど のような形で表すかという点に関わってきます。
たとえば、今見ている神道曼荼羅は、仏と神を同 一視し、それを仏か神か、あるいはその両者で表 します。それに加え、仏たち(あるいは神々)と どのように配置するか、その背景は何かも問題に なります。むしろ、その方が重要な要素になるこ ともあるでしょう。神道曼荼羅でいえば、中台八 葉院のような胎蔵曼荼羅を意識したものもあれば、
那智や大峯の山々を描き、その中に仏たちを点在 させてものもあります。後者は宮曼荼羅や参詣曼 荼羅につながっていきます。マンダラとは「仏の 世界」なのですから、日本におけるさまざまな曼 荼羅の表現方法は、日本人にとって「世界とはい かなるものであるか」を知るための重要な素材に なると思います。日本におけるマンダラ全体を鳥 瞰できるような図は、私自身これまで見たことが ありませんし、授業ではそれをめざしています。
皆さんも自分で、工夫して作ってみてください。
熊野詣は山を登ることか、それとも単に本宮や新 宮に参拝することのどちらに重点を置いているの だろうかと思った(両方かもしれませんが)。山 を登りたどり着くことに大きな意味がある、効験
があるのだと思うのですが、院政の時期に白河上 皇らは自分の足で登ったのでしょうか。そもそも 熊野詣で(修験道)を行って、上皇、法皇たちに とどまらず、人々は何を成し遂げようとしたので しょうか。熊野詣を行うことで、たとえば病気平 癒といった、一定の効験があったのでしょうか。
熊野詣も、他の巡礼と同じように、行程と目的地 の両者が重要だったでしょう。京から熊野に至る 道には、九十九王子をはじめ、さまざまなポイン トが設定されていて、その場所ひとつひとつで、
きまった儀礼が行われました。これらは単なる通 過地点ではなく、ポイントを順に押さえながら進 むことで、目的地に近づくにつれて、人々の意識 が高揚してはずです。目的地が本宮、新宮、那智 という 3 つに分かれているのも、クライマックス を複数設定できて、効果的だったと思います。上 皇がどのように山道を登っていったかは、調べて ないのでわかりませんが、平地では牛車などが使 えても、細い山道は、やはり自分の足で登ったの ではないかと思います。熊野詣の目的は、それを 行う人の社会的な位置づけで、さまざまだったよ うです。たとえば、下級貴族の人たちは、立身出 世のような現実的な願望の成就を期待していたよ うですし、上皇や上位の貴族たちにとって、宗教 的な権威を政治的な権力に結びつけ、それを人々 にアピールすることが意図されていたはずです。
一般には現世と来世の二世における幸福・安穏が 主たる目的だったでしょう。とくに、この時代は いわゆる末法思想が人々の間に浸透していたので、
何とか仏や神の力にすがって、少しでもよい境遇 に生まれ変わったり、極楽に往生することを望ん でいました。熊野ではありませんが、藤原道長が 大峯山に登り、金峯山に埋蔵した経筒が出土して いますが、そこに刻まれた願文からは、浄土信仰、
弥勒信仰、法華経信仰など、当時の仏教のさまざ まな信仰が渾然としていたことがわかります。
仏の形態が「俗体」とはどんな姿なのですか?法 体は何となく僧の姿だと思ったのですが。
「俗体」は熊野垂迹曼荼羅の場合、中国の貴族の ような姿です。今回取り上げる山王日吉曼荼羅の
場合、衣冠帯職の、日本の貴族姿で描かれていま す。熊野垂迹曼荼羅では、このほかに女体、童体 があり、それぞれ女性の姿、童子の姿を取ります。
私はマンダラといったら、今までやった両界や別 尊のイメージが強かったので、こんな風景画のよ うなマンダラもあることが意外でした。でも、礼 拝の対象となるような場所を絵に描いた場合、マ ンダラになるか風景画になるかはびみょうな気が しました。
日本のマンダラは次第に風景画になっていきます。
それは日本人にとっての「世界」が、両界曼荼羅 に見られるような幾何学的な構造を持ったもので はなく、自然の景観のような漠然として、境界が はっきりしないものだったからだと思います。そ して、礼拝の対象となる場所というのは、同時に 宗教実践の場所にもなります。熊野詣のような巡 礼や、修験道で行う山を舞台とした修行は、その ような「自然の景観」がいわば「聖なる空間」と みなされるのです。「マンダラか風景画か」とい う二者択一ではなく、おそらくその両者がそなわ っている形式が、日本のマンダラの特徴でしょう。
那智の滝は滝そのものが本尊なのですか。何でそ うなるのでしょうか。仏教で法具が神格化される ことはよくあるみたいですが、道具そのものでは なく、仏の姿が与えられます。でもこの滝はそれ すらなしで、そのまま軸に描かれているので、変 な感じがしました。
滝というのは日本の宗教においては特別の存在で しょう。それは単なる自然の風物ではなく、それ 自体が神そのものとしてとらえられていることが 多いようです。滝(瀧)という字は、その中に竜
(龍)の文字が含まれているように、しばしばご 神体を龍と見なします。しかし、滝そのものが天 と地をつなぐ霊的な存在なのです。熊野の那智の 滝をはじめ、日光の華厳の滝や、身近なところで は立山の称名滝など信仰の対象となっている滝は 日本中にあります。実際に滝を前にすれば、その 迫力に誰もが圧倒されます。非日常的な空間がそ こには出現し、それがしばしば宗教的な世界とと
らえられるのでしょう。そのため、滝は水行など の宗教実践を行う場所にもなりますし、神や仏と 出会う場所にもなります。那智の滝では、文覚と いう鎌倉初期の僧侶が、滝に打たれる修行をして、
瀕死の状態になったときに、不動が現れて、その 眷属である二童子によって助けられたという物語 がよく知られています。これは那智参詣曼荼羅に も描かれています。
密教というと、空海と最澄が伝えた真言宗と天台 宗というイメージが強かったです。そうすると、
そのまま金剛峯寺と延暦寺を思い浮かべてしまい ます。私は以前からただ世界遺産になったからと いう理由で、熊野に行きたいと思っていましたが、
熊野も密教において重要な意味を持つことを知り、
密教と熊野についての知識を深めて、熊野に行き たいと、さらに思いました。
高校までの授業で密教について学ぶのは、日本史 の平安時代初期だけでしょう。しかし、密教の寺 院は日本中にあって現代に至るまで活動を続けて います。金剛峯寺と延暦寺だけではなく、各地の 名だたる寺院が密教寺院です。京都では東寺、仁 和寺、醍醐寺、大覚寺など、いずれも真言宗の寺 院です。千葉の成田山、神奈川の川崎大師なども そうです。石川県では加賀の那谷寺、金沢市内の 雨法院や伏見寺、富山県境にある倶利伽羅寺など があります。日本において密教は山岳信仰と結び つき、修験道を生み出しました。神仏習合も、神 道曼荼羅で見ているように、密教があってはじめ て成り立つ考え方です。一方で、鎌倉新仏教はい ずれも天台宗からあらわれた高僧たちを開祖とし ています。日本の宗教の底流として、密教はとく に重要な存在なのです。そのような意味でも、熊 野、吉野、高野の世界遺産は日本の宗教の原点と も呼ぶべき姿を今に伝えています。
インドの輪廻思想においては、神々も仏の救済を 必要とし、人間と同じようにヒエラルキーの中に 位置づけられているようなのですが、日本の神道 曼荼羅では、神々が実在した人物と同じどころか、
それより下に描かれているものがありました。両
者は同じ考え方によるものなのでしょうか。
日本でも神々が救済されるべき存在という考え方 は、古い時代にはあったようですが、神道曼荼羅 を生んだ時代には、すでに本地垂迹思想が登場し ていますので、ヒエラルキーの中では仏と同格で しょう。神道曼荼羅にあらわれる実在の人物は、
おそらく役行者や弘法大師を指していると思いま すが、いずれも歴史上の人物というよりも、すで に神格化された存在です。神道曼荼羅では画面の 上下が、そのまま神々の上下関係を表す場合もあ りますが、それと同時に自然の景観が描き込まれ ているため、それにしたがった配置も取っていま す。役行者が画面の上部にいるのは、そこに大峯 山が描かれているからでしょう。
プリント「マンダラの表現方法とその意味」の中 で「偶像崇拝の禁止」について、おもにおそれお おいからという解釈を当てはめています。そこは 少し疑問で、私なりには、宗教は基本、精神への 働きかけがメインで、それが偶像崇拝をすると、
ものへの信仰に置き換わる危険があるからと禁止 にしたのでは?
そうかもしれませんね。ぜひ、そのあたりのこと を宿題で詳しく書いてみてください。具体的な例 をあげることもいいでしょう。前回もお話しした ように、私の文章はあくまでもきっかけであり、
皆さん自身がいろいろ考えてみることが大事だと 思っています。
以前、熊野に行きました。静かで神々のすみかに はよいところだと思いました。道は山沿いをくね くねと行き、昔はこの峠ひとつひとつを歩いてい たと聞きました。熊野は死者の国といわれますが、
その入り口はどこになるのでしょうか。恐山や立 山には、この橋の向こうが死者の国と境界がきま っていますよね。
高野山に住んでいるときに、紀伊半島を回る機会 が何度かありましたが、そのたびに、どこまで行 っても山が続いていく景観に驚かされました。ほ んとうに紀伊半島は山ばかりです。熊野はたしか に古くから「死者の国」と呼ばれていたようです
が、その入り口ははっきりきまってはいなかった のではないでしょうか。紀伊半島にはいくつかの 古道があり、それらを通って昔の人たちは吉野や 熊野、高野を参詣していました。これらの道には いくつかの節目となるポイントがあり、それを順 に超えていくことで、次第に目的地に近づくとい う感覚だったのではないでしょうか。そして、ポ イントごとで禊(みそぎ)や浄めを行うことで、
境域を通過するという意識が高められたと思いま す(人類学でいうところの通過儀礼です)。高野 山や大峯山の場合、女人禁制が原則でしたから、
女性が入れない場所が重要な聖域ととらえられて いたはずです。修験では一定期間、山に入って修 行をしますが、そのときには時間の経過とともに、
六道(あるいは十界)を輪廻すると見なされます。
空間の移動だけではなく、時間の推移によっても
「死後の世界」を体験するのです。
一枚目のスライドに載せてあった図の概念がいま いちわかりませんでした。
たしかに、あの図だけではよくわかりませんね。
ポイントとしては、紀伊半島の中に三つの聖地が あり、それをとりまく宗教が重層的になっている ということです。密教、修験道、山岳信仰などが、
それぞれバラバラに存在するのではなく、密接な 関係を保ちつつ、ひとつの信仰世界を形成してい るということです。「道教・神仙思想」といった 個々の名称には、あまりこだわらないでください
(英語表記も少し問題です)。
小野小町は「深草少将百夜通い」という伝説もあ りますが、もうひとつ、竜神伝説があります。そ の内容は、仁明天皇の雨乞いの宣旨を受けたとき に、小野は
千早振る 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口あけ給え
という和歌をもって答えて、みごとに雨を降らせ たそうです。そこから「雨乞い小町」とか「竜神 の生まれ変わり」といわれるそうです。この「雨 乞小町」は能や謡曲になり、そのほかに「草紙洗 小町」「卒塔婆小町」「通小町」「関寺小町」「鸚鵡 小町」「清水小町」があり、すべてまとめて「七 小町」と呼ばれるそうです。
*この内容はとある小説の中から取りました。参 考書としてつぎの本があげられていたので、以下 に記します。
「 小 野 小 町 落 魄 の 真 相 」 高 橋 克 彦 (『 歴 史 街 道』より)
以前の授業で請雨経法と小野仁海について取り上 げましたが、その関連で小野小町と雨乞いの伝承 について調べてきてくれました。私もまったく知 らない分野なので、勉強になりました。実際にい つ頃からこのような伝承が現れたのか、その典拠 となる文献は何か、能や謡曲の世界で、小野小町 がどのようにあつかわれているのか、など興味が わきます。請雨経法は平安時代にもっとも頻繁に 行われた修法のひとつなので、それとの関連もわ かればおもしろいでしょうね。
5.
神道曼荼羅(2
)日吉山王曼荼羅の世界熊野垂迹曼荼羅の中で唯一中心を持った曼荼羅は、
中心の 2 神を囲むように輪が描かれている。私は 光輪のように思えた。また熊野の本迹曼荼羅は、
下半分に雲のようなものが描かれている。印象で しかないですが、光輪や雲といったものを見ると、
極楽を連想してしまった。とくに本迹曼荼羅は、
下半分が現世で、雲をはさんで、上半分に仏や神
がいる構図のように思った。
スライド 25 の垂迹曼荼羅(明石寺)のことだと 思いますが、たしかに日輪のように見えますが、
残念ながらそうではないようです。この部分は蓮 の花の花芯と蓮弁の間に相当し、おしべが並んで いるところです。全体に金色(あるいは黄色)に 塗られていますが、こまかい筋が放射状に描かれ
ています。細いおしべがびっしりと並んでいる様 子が表されています。このモチーフは、もとにな った胎蔵曼荼羅の中台八葉院でも見られ、それを 踏襲したものです。本迹曼荼羅はたしかに下半分 に雲がたなびいてい ます。ここは 熊野や大峯 の 山々を表した部分で、雲か霞か霧に相当するでし ょう。登山する人が言うところのガスです。私も 高野山に住んでいたころは、少し天気が悪くなる と、まわりの山々がこのような霧(雲)で覆われ るのをよく見ました。高野山そのものも、よく霧 で覆われます。この本迹曼荼羅が神々の世界と自 然の景観というふたつの領域で形成されていると いう見方は、適切だと思います。神々の世界を社 殿で表し、それと自然の景観が組み合わされると いうのが、神道曼荼羅のひとつのパターンになり ます。これは山王日吉曼荼羅でも当てはまります。
本迹曼荼羅や垂迹曼荼羅には極楽の要素はあまり 認められないと思いますが、この後、社寺参詣曼 荼羅を取り上げるときには、極楽図を含む浄土教 の美術が登場するので注意していてください。
なぜ日吉曼荼羅において神々が増えていったので しょうか。ご利益が上がると考えられたのですか。
それとも何か他の神社と提携したのですか。
なぜ増えたのでしょうね。このあたりは日本の神 道史の問題になるので、私もよくわかりません。
日本中には同じ名前の神社がたくさんありますし、
逆に、別の神社の中に他の有名な神社の神がまつ られていることも一般によく見られます。このよ うな神々や神社の統合や連携は、日本の神道の流 れの重要なポイントになるようです。山王日吉曼 荼羅に関して言えば、日吉の山王二十一社だけで もずいぶん多くの神様がいますし、さらにそれに 祇園や北野などの有名神社が加わります。はじめ からの上七社ですら、外来の神が半分程度はいた ので、このような神の増加は、山王日吉曼荼羅が 本来持っていた特徴のひとつでしょうし、おそら く他の有力な神社の曼荼羅でもある程度は認めら れるようです。熊野曼荼羅でも時代とともに登場 する神の数は増える傾向にあります。ただし、神 道曼荼羅をあつかう場合、曼荼羅に登場する神々
の拡大と、神社や神々の組織の拡大とは、ある程 度分けて考えた方がよいようです。たとえば、曼 荼羅として描く場合、全体のバランスや構図とい った、技術的、美意識的な要素も加わるからです。
最初に見た絵(映像)のことですが、前回の残り で、先生はたとえば、絵 25 番の場合に、キツネ に乗った女が登場した、他の宗教が入ってきたと おっしゃいました。今回の分でもわかるように、
神々の姿、構図などで、象徴性や個性が表れてい るが、それなら前回分の 31、32 のように、実際 の景観を描いたものの場合、どの点からその個性 を探すことができるか、気になりました。
キツネに乗った女はダキニ天と呼ばれ、稲荷信仰 と関係があります。熊野信仰とダキニ天、あるい は稲荷信仰とがどのような関係にあるかは、よく わかりませんが、本来、熊野とは関係のない要素 が、神道曼荼羅にはしばしば加わっていきます。
それは、はじめから描かれる仏の顔ぶれがきまっ ていて、左右上下のバランスを重視する密教の曼 荼羅ではありえないことです。それは、日本にお いて曼荼羅が幾何学的な仏の配置図ではなく、山 や雲、実際の神社仏閣などを背景として描くもの に変わっていったことと密接な関係があると思い ます。新たな要素を加えることが容易だったから です。鳥瞰的な景観図や建物の絵が曼荼羅と呼ば れるのが、日本の曼荼羅のひとつの特徴ですが、
その背景には神道曼荼羅の登場と、さらに今回か ら取り上げる浄土教の曼荼羅の影響が大きかった と思います。
今日見たスライドの中で、舎利厨子がありました が、実際に遺骨は入っているのでしょうか。また、
キリスト教の聖遺物のように、聖人(仏)に関係 するものも信仰の対象になるのでしょうか。
舎利に対する信仰はインド以来、仏教の伝播した ところでは、おそらくそのすべてで見られます。
そこでは舎利は単なる「釈迦の遺骨」というだけ ではなく、仏教の教えや信仰そのものと密接に結 びついた重要なものです。仏教の歴史は舎利信仰 の歴史と言うことさえ、ある意味では可能です。
日本にも舎利は伝わり、それに対する信仰はきわ めて重要でした。舎利は本物の釈迦の遺骨もあり ましたし(本物かどうかは信じるか信じないかに かかっていますが)、水晶も舎利としてあつかわ れることがありました。本物の方を生身(しょう じん)の舎利とも言います。聖衆来迎寺の舎利容 器の舎利は本物の方のようですね。なお、舎利以 外にも釈迦の歯、托鉢の鉢、大衣なども聖なるも のとして、インドやその周辺地域で信仰の対象と なりましたが、日本にはほとんど伝わっていませ ん。舎利信仰については拙著『仏のイメージを読 む』の最後の章で取り上げています。
前のスライドの熊野曼荼羅のところで「これは空 海」という説明があった気がするのですが。熊野 と天台宗は密接なつながりがあるということなの で、本来、そこにはむしろ最澄が来るべきなので は。それともやはり修験道と密教の関連という点 から、密教をもたらした空海を重んじ、そこに描 いているのでしょうか。密教では重要視される大 日如来が、山王曼荼羅では下七社のうちのひとつ に当たっているが、密教と修験道のつながりが深 いということと、大 日を頂点とす る(根源と す る)ことはイコールではないのでしょうか。
空海が登場することのはっきりした理由は、私に はわかりません。熊野垂迹曼荼羅に空海が登場す るのは、かなり後の作品のようで、そのころは高 野山を中心とする真言宗でも修験道と密接な関係 を持つようになったのではないかと思います。天 台宗が修験と関係を持つようになったのは、最澄 よりも円珍の時代で、天台宗の中でも寺門派と呼 ばれるグループ(円珍が開いた園城寺が中心)で す。なお、熊野本地仏曼荼羅で、頭のとがった僧 侶を前回は「円仁」と紹介したような気がします が、円珍の間違いです。山王日吉曼荼羅でも紹介 しているように、天台宗はもともと山林修行を重 要な行として位置づけ、回峰行のような実践を行 っていましたが、これは修験道の修行と近いもの です。質問の後半の、密教の仏の世界と、神道曼 荼羅の本地仏の構造とが対応しないことは、私も 重要だと思います。本地仏では大日如来の位置づ
けが低く、観音や薬師、阿弥陀などが上位におか れる傾向にあります。これら上位の仏は山林修行 がはじめられた奈良時代の仏教(とくに古密教と 呼ばれます)における重要な仏に相当し、平安時 代に伝えられた密教の仏の世界とは異なるからで しょう。とくに観音はその中で重要な位置を占め ます。
日本の神道曼荼羅は中心に向かっているのではな く、外側に拡散していくように描かれており、風 景画のようになっていったらしいが、他の国でも そのような例はあるのですか?
授業中にも少しふれたかもしれませんが、チベッ トでもマンダラは「解体」されて、風景画のよう に描かれることがあります。しかし、日本とは異 なり、完全に風景の中に溶け込むことはなく、背 景として自然の景観を持ちつつも、仏たちはかな り幾何学的に配されます。日本とチベットではマ ンダラの解体の方法が一致しないところに、それ ぞれの地域でのマンダラのとらえ方の相違、さら には「仏の世界」や「聖なる世界」の表現方法の ちがいが現れるようです。
曼荼羅の原点回帰として、構図に中心性が生じた というお話でしたが、神がそのままの姿で曼荼羅 に描かれるのも、日本の宗教への回帰という風に も考えられます。両者に関連はありますか。
その場合、日本の神々が持つ「そのままの姿」と いうのが問題になります。日本の神々は本来、特 定の姿を持って表現されることがなかったのでは ないでしょうか。古墳時代や飛鳥時代に、特定の 神の像が彫刻や絵画で表された例はおそらくあり ません。アマテラスもスサノオも、イコン(神の 像)によっては表現されなかったのです。現在、
神社や神宮寺などに、神像、すなわち神の像が伝 わっていますが、それらは仏教のイコンである仏 像や仏画の影響を受けたものと考えられています。
神道曼荼羅に描かれている神々も同様で、神を描 いた垂迹曼荼羅は、仏教の影響のもとで制作され た も の と 考 え ら れ て い ま す 。「 回 帰 」 で は な く
「創作」なのでしょう。授業で熊野曼荼羅も山王
曼荼羅も本地仏曼荼羅、垂迹曼荼羅という順に紹 介しているのは、そのためです。
山王二十一社本地仏一覧で、下七社の中に摩利支 天という本地仏がありました。南アルプスの中の 標高 3,192m、日本第二位の北岳の山頂のかたわ らに、「摩利支天」という名の付いたピークがあ ります。丸っこい塔みたいにそびえ立つ、特徴的 な姿で、その名前から何となく荘厳なイメージを いだかせる山容です。旧称に「山末」とあること から、山と関係があるのでしょうか。
南アルプスのピークの名のことは知りませんでし た。摩利支天は仏教の仏のひとりで、女神です。
もとの名前をマーリーチーといいます。密教の仏 で、大日如来と密接な関係を持つのに加え、ヒン ドゥー教の神である太陽神(スーリヤ)やヴィシ ュヌとも関係があります。いずれもそれぞれの宗 教における最高神や至上神で、きわめて位の高い 神や仏です。山の形が塔のようというのは、偶然 かもしれませんが、インドにおいてマーリーチー が塔の中に描かれることに由来するからかもしれ ません。日本における摩利支天信仰については、
私はほとんど知識を持っていませんが、以前、鈴 鹿の山のひとつ、御在所岳でも、山頂で摩利支天 がまつられているのを見たことがあるので、山岳 信 仰 と つ な が り が あ る の か も し れ ま せ ん 。「 山 末」についても不詳ですが、「末」は摩利支天の はじめの「マ」を表しているのでしょう。インド のマーリーチーにつ いては『イン ド密教の仏 た ち』の第二章を参照してください。写真もいくつ か出しています。
前後鬼というのが昔何かのテレビで見たインドの 神様とかいうのに似ていました。たしかハヌマー ンとかいうのだと思ったのですが、そのような名 前の神様は実在して信仰されてたりするのでしょ
うか。
います。サルの神様です。ただし、前後鬼とはあ まり似ていないと私は思います。インドの有名な 叙事詩『ラーマーヤナ』の登場人物のひとりで、
主人公のラーマを助ける重要な人物(動物)です。
ラーマがヴィシュヌの化身であることから、ヴィ シュヌ派ではとくに篤い信仰を集め、ハヌマーン をまつる寺院も多くあります。『ラーマーヤナ』
は東南アジアに伝わり、ジャワ島では有名な影絵 芝居(ワヤン・クリッ)の演目になっていますが、
そこでもハヌマーンは人気が高く、主人公のよう になっています。ちなみに前回とりあげた山王日 吉曼荼羅の大行事もサルの姿をしていますね。
種子曼荼羅は簡略化と考えればいいのでしょうか。
それとも他に何か意味や意図があるのですか。
簡略化と見てもいいのですが、密教ではことばや 文字を重視するので、それよりは重要な位置づけ です。密教の仏たちは一尊ごとにきまった文字が 対応していて、瞑想をするときにその形を仏のか わりに出現させたり、文字から仏を生み出したり します。そのときには文字の形とともに音も重要 で、行者は発声もします。文字は一種のシンボル
(象徴)で、その背後にはインド以来の文字やこ とばに対する神秘思 想があります 。単なる言 霊
(ことだま)ではありません(もちろん、日本で はそのようなとらえ方もされますが)。密教では このような象徴として、三昧耶形(さんまやぎょ う)もあります。仏ごとにきまったモノ(まさに シンボル)が定められていて、マンダラを描くと きも、仏ではなく三昧耶形で描くことがあります。
神道曼荼羅の場合、授業でも紹介したように、種 子曼荼羅はあるようですが、三昧耶曼荼羅はない ようですね。このあたりも密教とそれ以外の曼荼 羅の相違になります。