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歴史的環境の保存と生涯学習

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歴史的環境の保存と生涯学習

椎 名 慎太郎 はじめに

筆者が文化財や歴史的環境に単なる知的好奇心の域を越えて深い関わりをもった きっかけは、15年の文化財保護法改正であった。当時勤務していた国立国会図書館 調査立法考査局文教課は法改正の動きに合わせて各地の文化財保護(主として改正の 焦点となっていた遺跡と町並みが対象)の実態調査を行った。これと同時に米英仏独 の文化財保護法の翻訳にも同課メンバーと共同で取り組んだ。このときに考古学愛 好家として若干の知識があるということで企画・運営の中心になったことから発展し て、17年には文化財保護法の逐条解説を中心とする著書を刊行することになっ た。

その後、後述する伊場遺跡保存の運動と訴訟に関わり、12年に山梨に移住してか らは山梨県考古学協会の遺跡保存運動にも参加するようになった。これまでに公表し たこの関係の著書・論文も少なくない。しかし、こうした20年を越える歩みのなかで いつも心に重く感じるのが、遺跡を含む歴史的環境保存に対する日本人の関心の低さ である。

4年に刊行した『遺跡保存を考える』の執筆過程でこんなことがあった。筆者 は遺跡保存の必要性は自明の前提として、その危機的状況から書き始めたのだが、編 集者は「なぜ遺跡の保存が必要か」から書いて欲しいというのである。なるほど、そ う言われてみると、遺跡発掘のもたらすニュースには関心があるが、その遺跡がどう なるかに関心をもち続ける者はあまり多くない。個別問題となれば、遺跡があるため に工事が遅れて困るという開発関係者はじめ、遺跡よりは道路、鉄道、中心市街地開 発、住宅団地建設の方を大事なことと考える者が多数派であろう。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡、青森県の三内丸山遺跡、そして最近の鳥取県妻木晩田(む きばんだ)遺跡等、幸運にも保存が決まった遺跡もあるが、多くの遺跡は慌ただしい 緊急発掘の後に姿を消していく。歴史を偲ばせる町並みが日本国内にどれだけあるの

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か、正確には確かめようもないが、18年の環境文化研究所の調査や建設省の調査で は少なくとも40以上が確認されている。しかし、このなかで重要伝統的建造物群 保存地区に選定されているもの52地区、これとはやや性質を異にするが、古都保存 法による歴史的風土特別保存地区は京都市、奈良市、斑鳩町、天理市、橿原市、鎌倉 市をあわせて5区域、51地区及び、明日香村全域となっている。吉野ヶ里遺跡が佐 賀県の新しいシンボルになっているように、地域起こしの一環として自治体や住民が 積極的に歴史的環境保存に取り組んでいる事例もあるが、遺跡を含めた日本の歴史的 環境が危機的状況にあるという現実は、否定の余地がない。

筆者はこれまで遺跡の保存を中心に、法制度の改善や行政システムの見直し等を提 言してきたが、最近、この問題を国民の価値意識の問題として検討してみる必要があ るのではないかと考えるようになった。それは、後述するように、歴史的環境への評 価が日本の場合と西欧諸国の場合とかなり違っていること、そして、この価値意識の 転換こそがこの危機的状況を打開する決め手と感じているからである。本稿ではこの 西欧と日本の価値意識の違いを確認するとともに、生涯学習による歴史的環境に関す る価値意識の転換の可能性について考えてみたい。なお、文中での敬称は略させてい ただくこととする。

日本における歴史的環境の価値評価

現代日本の歴史的環境をとりまく厳しい現実

相次ぐ遺跡破壊の物語るもの

遺跡保護行政の基本は、できるだけ遺跡を現状のまま遺して、後世の究明に委ねる ことにある。これは前述の『遺跡保存を考える』で筆者が全体を通しての主題とした ことである。ところが、遺跡の保存どころか、法律に基づく行政の指導で求められた 発掘調査さえできない事例が跡を断たない。全国的に報道されたものに限って、いく つかの例を挙げてみよう。

2年大阪府阪南市では遺跡のある土地に計画された大型衣料品店の開店に支障が あるという理由で、調査の25%しか終わっていない段階で市教委が発掘調査を断念、

遺跡は工事で掘削されて姿を消すという事件が報じられている。同市鳥取の水田約

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0㎡に広がる予定地は弥生時代から江戸時代までにわたる複合遺跡「鳥取南遺跡」

の一部と判明、12年10月から翌年2月末までの予定で調査に入ったが、11月初めに は施工にあたる地元建設会社幹部が数回にわたって教育長等に「仕事が遅い。(調査 を)やめんかい!」等と圧力をかけ、教委も延べ89日を予定していた調査をわずか1 日で打切り、住居跡等遺跡の本体部分は写真撮影も図面作成もできなかったという。

開発で消えてゆく遺跡の保存に代わる最低限の措置としての調査さえできないという 事態は、もとはといえばザル法といわれる文化財保護法が原因でもあるが、従来の行 政慣行に照らしても異常というほかない。

青森の三内丸山クラスという価値が判っていながら調査後に消えていった函館空港 遺跡群の例もまた現在の歴史的環境保存の課題の厳しさを物語るものである。この遺 跡は約80年前の縄文早期の大集落跡で、この時期はまだ定住生活ではなく、小集団 が移動生活をおくっていたという従来の通説を覆す意味を持っていながら、空港建設 という現代の要請によって潰されていったのである

和同開珎より古い日本最古の貨幣富本銭が出土して有名になった飛鳥池遺跡は奈良 県明日香村にあり、飛鳥時代に金・銀・銅・鉄等の金属加工、漆・ガラスの工芸品、

玉類や仏具、工具、武器、建築用金具等が作成された、当時の先端技術工房であった こと、これに伴って約70の木簡が出土したことなどで貴重な歴史的意義を考古学 や古代史の専門家の誰もが認める遺跡である。しかるに、奈良県が建設する万葉 ミュージアムの着工に伴って、遺構のかなりの部分が影響をうけることになった。発 掘調査で19年1月に富本銭が発見されてからはとくに保存運動が盛んになっていた が、19年10月にくい打ちが開始して、保存はかなり難かしくなってしまった。歴 史的文化施設の建設のために歴史的文化遺産を犠牲にするというのは、どう考えても 矛盾というほかない。

失われる歴史的景観

遺跡だけではなく、歴史的景観も厳しい現実のなかにある。東寺の五重塔の高さ5 mを越える60mの京都駅ビル建設をめぐって激しい景観論争があったことは記憶に新 しい。

平安建都10年(14年)記念事業の目玉として JR 京都駅の改築・高層化が本格 的に論じられるようになったのは10年のことで、翌年4月に国際コンペで公表され

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た7つの設計案はいずれも高層化を志向しており、高さは60m弱から10mまでにわ たっていた。最終的にはそのなかでは一番低い59・8m案が採用されたが、その高さ と、周囲を威圧するような巨大な壁を連想させるデザインに賛否の論議がたたかわさ れた。朝日新聞が11年7月に発表した京都・奈良・鎌倉3市の世論調査でも、この 案に対して、京都市民の賛否は相半ばしていた

この論争をより混乱させたのは、京都ホテルが同じように60mの高層化を計画、一 旦は京都仏教会等の猛反対に再検討を約束して、2週間後にこの計画変更を撤回する という騒動が同時に起こっていたからである

高層化反対運動は次第に世論となり、京都市議会も与野党問わずに行政の姿勢を批 判する態度を示した。しかし、10mという過激な設計案に比べて、最終的に採用 された案が「穏当」であるということ、経済界が京都市の凋落を食い止める活性化策 の決め手として駅ビル高層化を推進したこと等により、採用されてしまった。しか も、45mという制限を「総合設計制度」という特例を設けることによってすり抜けて の決定である。

たしかに、歴史的景観保全を求める立場をひとつのイデオロギーとして相対化する 見方があり、そこには傾聴すべき鋭い視角が提示されている。しかし、個別この京 都の景観論争では、私は京都市の活性化という一過性の要請に屈して「京都のど真ん 中に景観破壊の障害物を造」ったという西山夘三の見解、あるいは、京都駅ビルの 単体としての設計を評価しつつ、駅から京都らしさを消し去り、歴史都市の可能性を 否定したとする渡辺豊和の見解に賛同したい。なによりもこの高層化をめざした関 係者には、ここ数十年という歴史的にみれば短い期間にわれわれの周辺を一挙に変え てしまい、少しずつ変化を重ねることで保たれてきた調和を完全に失わせた現代とい う時代への反省が欠けているようにみえるからである。

歴史に対する現代人の傲慢さを示すのが、表面だけの歴史性追求である。全国各地 にあるニセ天守閣はその愚かしさを体現している。山梨県三珠町の『歌舞伎文化公 園』内に14年にオープンした「ふるさと会館」はまさしくこのニセ天守閣である。

県内の歴史関係団体の建設反対申し入れに対して、当時の町長は「天守閣ではない。

和風建築物である」と強弁、建設を強行したが、できてみれば外観は間違いなく天守 閣である。もちろん、昔ここには天守閣をもつ城は存在しなかった。しかも、巨額を 投じて建設された「ニセ天守閣」を含む「いこいの森公園」の入場者は、14年の3

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万50人をピークにがた落ちという有様である。そして、県内ではこれに懲りず に、甲府市の中心街活性化のために「甲府城に天守閣を」というキャンペーンが行わ れている

裁判判決にみる歴史的環境への評価

つぎに、日本の過去の裁判のなかで遺跡を含む歴史的環境の保存が争点になったも のをとりあげて、どんな判断が下されているかみてみたい。

日光太郎杉判決の示した見識

歴史的環境に関する訴訟事件そのものがあまり多くないうえに、これを高く評価し た判決は極めて少ない。そのごく少数派の判決の例として、13年に東京高裁が出し た日光太郎杉判決がある。

この事件は日光市内の国道が狭隘で混雑するために栃木県知事が拡幅の事業計画を たて、用地の収用(強制取得)のため建設大臣に事業認定を申請、建設大臣は同地が 国立公園の特別保護地区にあたるために自然保護審議会の同意をえて厚生大臣の承認 を受けたので、建設大臣は栃木県知事に事業認定をした。土地の所有者である東照宮 は、その境内地にある太郎杉を含む巨杉15本の伐採と地形変更により文化的景観が損 なわれるとし、この計画は土地収用法20条3号(事業認定の要件として「事業計画が 土地の適正かつ合理的な利用に寄与するものであること」と定めている)に違反する ことを理由に建設大臣の事業認定と県収用委員会の収用採決の取消を求めて出訴した ものである。

これについて東京地裁、東京高裁とも原告東照宮の主張を認め、事業認定が取消さ れたため、巨杉を含むこの付近の景観は破壊されずに済んだ。裁判所は、国道の混雑 緩和には他の方法もありえたのに、事業計画が安易に国立公園の特別保護地区の環境 を変える方法を選んだことに裁量判断過程の誤りがあるとしたのだが、そこでは歴史 的文化的環境に関する次のような高い評価が大きな要素となっている。

(この付近の歴史的景観のもつ)文化的価値は、長い自然的、時間的推移を経て 初めて作り出されるのであり、一たび人為的な作為が加えられれば、人間の創造力の みによっては、二度と元に復することは事実上不可能であることにかんがみれば、本 件土地の所有権こそ東照宮の私有に属するとはいえ、その景観的・風致的・宗教的・

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歴史的諸価値は、国民が等しく共有すべき文化的財産として、将来にわたり長くその 維持、保存が図られるべきものと解するのが相当である。

この事件は国立公園の中核ともいうべき特別保護地区の歴史的風致の核心を形成す る巨杉15本を伐採して道路の拡幅を図るという、元来の計画自体がかなり乱暴なもの であったこともあるが、ここに示された歴史的環境の重要性の指摘は見事な見識とい うほかない。しかし、こうした判決は例外で、歴史的環境の保存を求める住民等の訴 えは多くが退けられている。その典型例が次にみる伊場遺跡訴訟である

伊場訴訟判決の論理

伊場遺跡は19年に浜松市で発見された弥生時代から奈良平安時代までにわたる複 合遺跡で、14年に遺跡全体の東寄り、弥生時代を中心とする一部が静岡県史跡に指 定された。ところが、浜松駅前開発と東海道線高架化工事のために旧国鉄の電車基地 と貨物ヤードを移転すべき代替地として浜松市当局が伊場遺跡一帯を候補地に選び、

国鉄との合意のもとに11年頃から付近の土地の買収を段階的に行なっていた。この 過程で浜松市当局は、史跡指定地については「史跡の公有化」を名目に買収を進めて いた事実がある。17年に新聞が、遺跡をつぶして電車基地を建設する計画があると 報じたことから、計画に反対する研究者・市民たちの運動が開始された。運動の中心 になった本訴訟の原告等を含む遠江考古学研究会は伊場遺跡の保存を求めて浜松市や 国鉄と交渉をくりかえし、市民に遺跡の重要性を訴えるた。この運動は全国的な反響 を呼び起こし、全国の歴史・考古学者らが計画反対の意思表示を繰り返し行なってい る。しかし、浜松市は開発推進派市民の声を背景に計画実現に固執し、当初史跡指定 解除に消極的であった県教委や文化庁もこれを認める形で、13年11月に史跡指定が 全面的に解除された

この指定解除処分の取消を求めた訴訟で、被告県教委側は一貫して原告となった地 元研究者達には出訴資格(原告適格)がないと主張し、裁判所もこれを支持した。 年の最高裁判決は次のように述べている。

「これらの規定並びに本件条例及び法(筆者注・県文化財保護条例及び文化財保護 法をさす)の他の規定中に、県民あるいは国民が史跡等の文化財の保存・活用から受 ける利益をそれら個々人の個別的利益として保護すべきものとする趣旨を明記してい るものはなく、また、右各規定の合理的解釈によっても、そのような趣旨を導くこと

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はできない。……本件条例及び法において、文化財の学術研究者の学問研究上の利益 の保護について特段の配慮をしていると解しうる規定を見出すことはできないから、

そこに、学術研究者の右利益について、一般の県民あるいは国民が文化財の保存・活 用から受ける利益を超えてその保護を図ろうとする趣旨を認めることはできない。文 化財の価値は学術研究者の調査研究によって明らかにされるものであり、その保存・

活用のためには学術研究者の協力を得ることが不可欠であるという実情があるとして も、そのことによって右の解釈が左右されるものではない。

原告達は、遺跡の保護やその価値の解明が原告等のような考古学・歴史学の専門家 の助力なしにはできなかったこと、実際にも、原告等は問題の顕在化する以前から伊 場遺跡と深い関連性を有する周辺の遺跡の調査研究にたずさわってきており、保存問 題が発生してからは、研究会の他のメンバーと協力して伊場遺跡一帯11万平方メート ルを踏査して遺跡の分布状況を調べたり、数次にわたる発掘調査に、調査団顧問や調 査主任などの主要な役割で参加してきたこと、市民に保存を訴えるためにさまざまな 活動を展開してきたことなど、伊場遺跡との深いかかわりをもってきたことを主張し ている。文化財保護法も後述する指定史跡の現状変更許可制度や周知の遺跡での学術 発掘の届出の制度など、学術研究者の研究の自由を保証する制度を設けている。遺跡 の学術的研究のための発掘は誰にでも許されるものではなく、専門的能力識見をもた ない者により調査が行われる場合には、文化庁長官はこの発掘の停止、中止の命令を 出すことができるのである(法57条2項)。しかしながら判決は、これらの事実をもっ てしても、原告等研究者の伊場遺跡についてもつ利益は一般県民がこれについてもつ 利益と質的変わりがあるとは認めなかった。これほど深い原告等と遺跡との関わり も、法律的観点の評価では、遺跡にまったく関心のない一般住民と質的に変わるもの ではないということになる。

さらに原告側は、遺跡の保護のような問題については、これについて専門知識をも ち、保存問題に深く関わって来た原告等のような研究・保存団体ないしその代表的メ ンバーが一般国民・住民を代表して出訴する資格をもつと主張した。遺跡は一旦破壊 されたら二度と原状に復することは不可能である。そして、この事件のようにひとた び史跡指定を行なって半永久的に保存することを決定したものを、全面指定解除して 開発を行なうという措置は、前後に例をみない特異なものである。このような事例に おいても通説的法解釈を適用して原告等のような立場の者に原告適格を認めないと、

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仮にこれが違法な行政処分であっても司法的に審査される機会がなく、取消されない ままに処分が既成事実になるという不都合が生ずる。この「代表的出訴資格論」は、

具体的には地裁段階で兼子仁が原告側にたって提出した鑑定書に詳細に展開されてい る。これによれば、行政処分によって国民・住民の生活利益が損なわれる場合に、こ れが不特定多数人に共通する利益であっても、それについて現代憲法における生存権 保障が存する以上、当該生活利益の擁護を目的とする真摯な団体活動によって代表出 訴の適格を有する者に原告適格を認めるべきである、とされる。この事件に即してい えば、文化財享有の権利はいまだ個別的権利としては弱いとしても、共通的生活利益 として、その集合は大きいものがある。学術研究者の研究の利益はこうした国民の利 益を基盤とし、これを代表する形で行使される。従って、原告等のような伊場遺跡と 深い関わりをもってきた学術研究者は指定解除処分を住民の利益を代表して争う適格 性を有しているということになる

しかし、裁判所はこれも認めなかった。最高裁判決は次のように述べている。

「論旨は、要するに、文化財の学術研究者には、県民あるいは国民から文化財の保 護を信託された者として、それらを代表する資格において、文化財の保存・活用に関 する処分の取消しを訴求する出訴資格を認めるべきであるのに、これを否定した原審 の判断は、法令の解釈を誤ったものである、というのであるが、右のような学術研究 者が行政事件訴訟法9条に規定する当該処分の取消しを求めるにつき『法律上の利益 を有する者』に当たるとは解し難く、また、本件条例、法その他の現行法令において、

所論のような代表出訴資格を認めていると解しうる規定も存しないから、所論の点に 関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はな い。

こうした裁判所の判断が出てくる大きな理由のひとつが、歴史的環境に対する低い 価値評価にあると考える。なぜならば、同じ平成元年にでた最高裁新潟空港騒音訴訟 判決では、主婦連ジュース判決従来の立場を離れ、かなり柔軟に原告適格を肯定 しているからである。この違いのなかに、騒音等の健康に関わる問題なら解釈を柔軟 にして救済の可能性を広げるが、遺跡の保存というような「切実でない」問題は裁判 所の救済の手が及ばなくてもいいという論理が隠れているように思われる。

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和歌の浦判決の論理

和歌の浦事件は和歌山市にある万葉の歌枕として名高い和歌の浦の景観を大きく 損なう道路橋計画について、歴史的景観保護を求める住民等が住民訴訟という形で 争ったものである。

和歌山県は16年10月3日の都市計画決定に基づく和歌山海南都市計画道路の敷設 計画をもっていたが、そのうち、不老橋の海岸寄りの施設区間約20mの区間に新橋 建設を含む幅員11mの道路を建設するため19年2月に建設大臣の事業認可を得た。

不老橋は万葉集に歌われた名勝地和歌の浦の景観の要ともいうべき場所であり、と くに不老橋を前景にして入江を眺める景観はその白眉ともいうべきものであった。後 に「あしべ橋」と命名されるこの新橋の建設によって、この眺望は失われることにな る。この計画が18年に発表されると、古代史学者、万葉集研究家、地元文化人など から強い反対の声があがり、地元住民も加わって全国的な反対運動となった。しか し、県当局は計画を変更せず、89年5月には新橋の建設に着工した。そこで地元の住 民達は県知事であるKを相手取って同橋建設に伴う公金支出の差し止めとすでに支払 われた工事代金の県に対する損害賠償を求めて地方自治法22条に基づく住民監査請 求を行い、これが容れられなかったため、19年12月に同法22条の2に基づいて同 趣旨の住民訴訟を提起したものである。なお、訴訟中にあしべ橋が完成してしまった ため、原告等は被告に対する訴えを追加的に変更して請求を拡張し、橋の全建設費用 の損害賠償を請求した。

訴訟のなかで原告等が、住民には歴史的景観を享受しうる権利(「歴史的景観権」 があると立論したことから、全国的に有名な景勝地をめぐる紛争というだけでなく、

この面でもこの訴訟は全国の注目を集めることとなった。

筆者もこの訴訟の原告側証人として、歴史的景観(原告側は訴訟の過程で、歴史的 景観権は歴史的環境権の一部であると主張している)の重要さとこれが訴訟上保護さ れるべき重要な利益であると述べたのであるが、裁判所の判断はこれを認めなかっ た。

判決は次のように述べる。「……近年、貴重な歴史的・文化的遺産を含む景観が文 化的景観を構成するものとして人々の生活にとって重要であるとの認識が深まってき ており、歴史的文化的環境の保全が一つの社会的な課題とされていることが認められ る。したがって、人々の文化的で健康な生活のために、自然的に良好な環境だけでな

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く、文化的にも良い環境が必要であること、文化的環境の人間の精神生活に果たす重 要性や人格形成に果たす役割についても理解できるところであり、そのような文化的 環境の一環として歴史的景観が存在しうることは肯定されてよいものと考えられる。

……しかし、憲法13条、25条は個々の国民に対し直接具体的な権利を授与するもので ないことは前記のとおりであり、前記立法や諸施策は、行政が文化的・歴史的環境の 重要性に鑑みその政策として採用し、実施してきたものとみるのが相当であって、原 告等主張の「歴史的景観権」なるものが憲法上基本的人権として保障されている結果 であるとみることはできないし、これを法律上の具体的権利と認めることはできな い。

歴史的環境は現代生活に多少の味付け程度の意義はあるが、これを法的に保護する 必要があるような権利ないし利益とは認めないという趣旨である。

この事件の経過や判決をみるとき、人間環境に必要な文化性の側面がなお十分な評 価を受けていないことを痛感する。和歌山県が行った道路橋建設は端的に失当という しかない。道路の路線は動かすことが可能であり、少なくとも不老橋からの眺望を阻 害しない位置にすることは不可能ではなかったはずである。そこには文化性よりも効 率や生産性を重視するという、高度成長期以来のわが国の政策決定の悪弊が色濃く残 存している

歴史的環境権は前述した京都ホテルの高層化工事差し止めをめぐる訴訟でも京都仏 教会が「宗教的歴史的文化環境権」として主張したが、12年8月6日にでた京都地 裁決定はこれを認めなかった。19年3月24日に奈良地裁葛城支部が地元住民の要求 した吉野桜カントリークラブ(仮称)ゴルフ場建設の差し止めを容認した判決でも、

「排水の溢水による生命・財産・水利権の侵害」が理由で、原告等が主張した歴史的 環境権は「未だ未成熟」として認容されていない。現在、島根県松江市の田和山遺跡 の保存をめぐって保存を求める訴訟が提起されているが、その前途は決して明るいも のではない。

西欧の歴史的環境保存政策から学ぶもの

筆者は、何かというと西欧を先進的モデルとし、これを模倣する日本の学問や文化 のあり方にはやや批判的である。しかし、こと歴史的環境の価値評価、これに関する

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市民の意識という点では、西欧と日本の現状の落差がかなり大きいことを認めざるを えない。そこで、以下では、いくつかの事例を通して、ヨーロッパにおける歴史的環 境への価値意識の高さをみておきたい。

イギリスのナショナル・トラスト運動

アメリカはじめ各国に広がっているナショナル・トラスト運動の原点であるイギリ スのナショナル・トラスト運動については、すでに多くの紹介があり、ここで詳論す る余地はない。ここでは15年に、弁護士のロバート・ハンター、社会事業家のオク タヴィア・ヒル、牧師のハードウィック・ローンスリーの3人の先覚者によって始め られた運動が、現在では大きな広がりをもっていること、その所有する土地が24万 0ha、海岸線が55マイル、歴史的建造物が20、庭園が10に及ぶこと、この資産 のうち、17年に成立したナショナル・トラスト法に基づく遺贈や寄贈によるものが 少なくないことは否定できないが、現在25万人に及ぶ会員が年間約50円程の会費 で、いわばボランティア精神でこの運動を支えていることを確認しておきたい 5年の決算で、総収入10万ポンド(1ポンドは25円程で計算されている)のう ち、会費収入が約3分の1を占めており、16年の数字で年間のべ3万50人のボラ ンティアがこの運動に参加している。この団体の総裁には王室関係者が就任してい るという事実はあるが、純然たる民間団体で、環境を破壊する政府や自治体の開発計 画には毅然と反対してきている。その背景には、いい意味でのイギリス人の保守性 があることも事実であるが、歴史的環境や自然環境を大切にしようという市民の価 値観が裏付けになっているのではないだろうか。

イタリアの文化遺産保護

イタリアは日本を含めて全世界から多数の観光客がローマ時代その他の文化遺産を 目当てに訪れる国であり、実際に世界一と自ら認めるほどの多くの文化遺産が遺され ている。しかし、それだけに、それを保存・管理することは極めて困難であることも 指摘されている。イタリアの文化遺産保護の基本をなす法律はファシスト政権下で 成立した文化財保護法である。この時期に文化財保護法が成立している背景には、

国家や民族の重要な遺産という全体主義的思想があることは容易に理解される。しか し、第二次世界大戦が終り、国が民主化された後もこの法律は数次の改正を経ながら

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存続している。

一方、18年に制定されたイタリア共和国憲法第9条は「共和国は、文化及び科学 技術の発展を促進する。共和国は、景観と歴史的・芸術的財産の保護につとめる」と 定め、歴史的環境保存を憲法で宣言している。

7年に都市計画法改正が行われ、すべての自治体に、保存のため規制の下におく べき歴史的市街地(旧中心街)の線引を義務づけた。そして、この線引の内部での建 設工事は「修復計画」と呼ばれる地区詳細計画に従うことを求めている。これは既存 の建造物の内部の改変を規制するものでなく、その外観を保存するための規制であ る。さらに15年には、こうした都市景観の背景をなす水辺、海岸、山岳、氷河とカー ル、国立公園や州立公園とそれに外接する環境保護指定地区、森林、湿地、考古学地 区等が広く規制の対象とされた。この法律は原案の起草者の名前をとってガラッソ法 と呼ばれる

イタリアの歴史的環境保存はこのように徹底しているが、それでもローマ等の大都 市では開発か遺跡保護かという悩みが深いという。ローマの街の地下には古代の劇場 や競技場等がそのまま埋もれている。そこで、地下鉄は遺跡の破壊を防ぐためにすべ て地下25米から30米の深さを通している。しかし、新しい路線では駅の建設で必ず問 題が生じる。これを解決するために駅自体を博物館のようにして、発掘した地下遺構 を利用者にみてもらったらどうかという提案もある。歴史的環境への高い価値評価 が常識となっていなければ。こうした法制化や措置は実現不可能であろう。

フランスの歴史的環境保存

フランスの文化遺産保護は19世紀末に法制化がなされていたが、現在のシステムの 原型をなしているのは13年の歴史記念物法である。この法律では絵画彫刻のよう な動産文化財と歴史的建造物と遺跡を中心とする不動産文化財を保護対象にしている が、この法律を翻訳していて驚いたのが、13年改正で新たに加えられた13条の2の 規定である。この法律では不動産文化財はもっとも厳しい規制をうける指定物件と、

保存の緊急性がそれより少ない登録文化財の二段階に分けられている。そして、この 指定文化財及び登録文化財たる建築物の視界内にある不動産については、事前の許可 なしには現状変更ができないと規定しているのが13条の2の規定である。この現状変 更制限区域は、50米の円内とされている。パリを例にとれば、ノートルダム寺院、

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パンテオン、オペラ座、ルーブル博物館、サンジェルマン・デ・プレ教会、市庁舎等 が中心街に密集しているため、この周辺はすべてこの制限区域に入ることになる。こ の制限は全国に及んでいるから、新興都市以外では多かれ少なかれこの制限区域があ る。さすがにこの規制は「嫌われ者で厄介な円」(Rond bête et méchante)と通称さ れるように、一般市民には評判が悪かった。しかし、このような規制がともかくも 実施されるところにフランスにおける歴史的環境への深い関心とその社会的評価の高 さを感じる。

その後12年には当時の文化相の名をとってマルロー法と呼ばれる歴史的街区保存 法が制定された。これは歴史記念物法や10年の自然保護及び景観保護法では十分に 保護できない広い範囲の歴史的町並みを保全修景していくことを目的としている。

さらに、歴史記念物の周辺環境の新たな保護制度として、建築・都市・景観遺産保 存地区(Le Zone de Protection du Patrimoine Architectural, Urbain et Paysager、な お、Paysager という形容詞が加えられたのは13年のことで、それまでの略称は ZPPAU であり、法令集にもこの名称で載っているが、以下では現行制度ということ で、ZPPAUP と略す)の制度が設けられた。

ZPPAUP の制度が新設されたのは13年のことで、地方分権改革の一環という意 味ももっているのだが、この点は省略する。この制度が考えられた理由として、①従 前の50米円という制度が画一的で、明らかに不自然であったこと、②この周辺円内 での現状変 更 に 許 可 を 出 す フ ラ ン ス 建 築 専 門 主 事(l'architecte des Bâtiments de France、これは文化省が各県に配置している建築専門家である)の権限が強すぎて、

地方団体等との軋轢があったこと、③この区域内で現状変更許可を得ようとする申請 者にとって、判断の基準になる準則がなかったことが指摘されている。ただし、こ の制度化で13年法の周辺50米規制がなくなったのではなく、ZPPAUP が新設され た所はこれが周辺規制におき替わるという関係にある。実際の地区設定の図面でみる と、従来の円形に替わって、複雑な形状の(それだけ実際の記念物の周辺状況に応じ た)規制地区が設定されており、全般的に従前より規制区域が広がっているようであ る。

この地区設定のイニシアティブをとるのは主としてフランス建築専門主事であると 説明されている。ZPPAUP の設定の手続は、関係市町村、県知事、地域圏(région)

文化財保護審議会等が関与し、最終的には地域圏知事が決定を行なうことになってい

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る。この過程で住民参加手続である聴聞調査手続(enquête publique)も行われる。

この制度で驚いたのは、設定された ZPPAUP のなかに建築禁止区域までもが設定 できるとされることである。実際に、最近のフランス地方行政裁判所判決ではそのこ とが確認されている。つまり、歴史的文化遺産そのものではなく、その周辺環境保 全のために建設禁止措置がとれるということである。この裁判で問題になったのは、

スイスとの国境に近いオート・サヴォワ県のアヌシー湖の周辺景観とそれに近接した タロワール大修道院の周辺景観を保全するための ZPPAUP であった。訴訟が起きて いるのであるから、住民のなかにこの制度に反対する者もいることになるし、それは 当然のようにも考えられる。しかし、このような制度が成立して、16年の文化省統 計では14の地区が設置され、33地区が作成途中という事実のなかに、歴史的環境 に関する国民の価値意識の高さを感じさせられるのである。

歴史的環境保存活用における生涯学習の意義

環境認識と歴史的環境

前章でみた西欧諸国の実情に比べて、第1章でみたように、日本では歴史的環境へ の価値意識はなお極めて不十分な状況にある。

まず、環境基本法における「環境」の定義のなかには歴史的環境は含まれていな い。例えば、同法14条の環境保全に関する基本的施策の指針では、確保すべき事項と して「人の健康が保護され、及び生活環境が保全され、並びに自然環境が保全される よう、大気、水、土壌その他の環境の自然的構成要素が良好な状態に保持されるこ と」(1項1号)「生態系の多様性の確保、野生生物の種の保存その他の生物の多様 性の確保が図られるとともに、森林、農地、水辺地等における多様な自然環境が地域 の自然的社会条件に応じて体系的に保存されること」(1項2号)及び「人と自然の 豊かな触れ合いが保たれること」(1項3号)が挙げられている。ここには歴史的要 素は一切入っていない。日本の環境庁の職責の範囲からしてこういう規定になるので あろうが、この環境観が、例えばこの法律に基づいて制定された環境影響評価法にも 継承されるので、きわめて具合が悪い。日本における環境アセスメントには歴史的環 境や人文景観への配慮が脱落してしまう可能性がある。

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その一方で、日本における環境認識の発展を公害から自然環境へ、そして歴史的環 境へという3段階で捉えた木原啓吉の所論や環境問題の全体像を「地球生態系の変 化」を底辺とし、その上に「自然環境の破壊」、その上に「地域社会、文化の破壊と 停滞(景観、歴史的街並みなどの喪失)」を位置づけ、さらに、「生活環境の侵害」

「ill-health」「健康障害」「公害病」そして頂点に「認定患者」という二等辺三角形 として図式化している宮本憲一の見解等歴史的環境をきちんと環境要素に捉えたも のもあるが、なお少数派の感を否めない。

学校教育と歴史的環境

つぎに、歴史的環境が学校教育でどのように扱われているかを考えてみる。まず、

筆者がかなり関心をもってみている大学生向けの環境法のテキストでは、歴史的環境 まで視野を広げているものはほとんどない。これに対して、小中学校段階の教育では 歴史的環境への配慮がある程度なされている。中学校学習指導要領の社会の歴史的分 野の目標の第3には「国家・社会及び文化の発展や人々の生活の向上に尽くした歴史 上の人物と現在に伝わる文化遺産を、その時代や地域との関連において理解させ、尊 重する態度を育てる」ことが挙げられている。小中学校教師の参考書として出版さ れた環境教育関係文献においても、次のような記述があることに注目する必要があ

「昭和40年代の 公害学習 の学習対象は、企業の事業活動に伴う大気汚染、騒音、

水質汚濁等、人々の生活環境の悪化や各種の被害状況が中心であった。しかし、地球 環境規模の環境問題の発生とともに、昭和50年代には自然環境そのものの理解から出 発し、その保全や資源・エネルギー問題、さらに、日本や世界各地で展開されている 生産活動にかかわる課題、地域の伝統的生活の中に見られる食文化や歴史的景観の保 存の課題等々、自然環境から、社会・文化環境まで学習対象を広げてきた」

ここでは社会科教育における環境教育の一環に歴史的環境がきちんと位置付けられ ている。このような視点における実践例も少なくないと考えられる。全国各地の遺跡 発掘現場ではかなり以前から児童生徒を含む一般対象の見学会を開催したり、実際に 発掘を体験するという取り組みがなされている。山梨学院大学考古学研究会が19年 に塩山市の乙木田遺跡で行った水晶の原産地関連遺跡発掘調査では、地元の玉宮小学 校の5年生とその父母が「親子活動」の一環として発掘体験をしている。この時にも

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筆者と発掘指導者の十菱駿武(山梨学院大学教授・考古学)が遺跡保存の意義を参加 者に説明したことを記憶している。判例で取り上げた伊場遺跡の保存運動のなかで も、遺跡近くに住む少女が「伊場遺跡は動かすことはできないけれど、電車基地は動 かすことができる。それなら電車基地の方を動かした方がいいと思う……」と作文に 書いて、保存運動関係者の感動を呼んだ。熊本市で「つつじヶ丘横穴墓群」がマン ション建設計画に伴って発見されたとき、この保存運動を展開して保存実現にもちこ んだ住民運動の中心は地域学習を展開したときの PTA と教職員であったという

学校教育における歴史的環境の重要性の教育は、筆者が冒頭に述べた「価値意識の 転換」の大きな鍵として重要視されねばならない。問題は、これを体系的かつ適切に 環境学習ないし郷土学習に組み込んで指導できる教師の力量にある。この教育実践が きちんとできる教師は、まだ少数にとどまるであろう。この点がこれからの最大の課 題であろう。

生涯学習における歴史的環境保護―むすびにかえて

将来を見通した時には学校教育が重要な鍵になるが、いま、確実に進んでいる遺跡 や歴史的環境の喪失という現実に対しては、すでに現実社会を動かしている年代層が どのように歴史的環境の価値を見出していくかが大きな問題である。この観点で日本 の過去を探ると、幾つかの興味ある事例をみることができる。

盛岡市は歴史的建造物等を生かした景観形成で街の特色をだしていることで有名で あるが、ここの伝統的建造物保存運動のきっかけとして2点が指摘されている。その 一つは、当時の工藤巌市長が11年訪米の際に都市デザインを学んだことである。同 年12月には盛岡市自然環境保全条例が成立、翌年10月には歴史的環境の保全を含めた 自然環境保全基本計画が策定された。もう一つは市内の大正期の代表的建築物の取り 壊しにからむ市民、所有者、そして市役所の三者による激しい議論の繰り返しと具体 的な成果があげられる。10年秋、老朽化した旧岩手農工銀行(現第一勧銀盛岡支 店)改築の計画が起こったとき、反対の市民運動と銀行側の徹底した議論と努力に よって、ずっと昔からそこにあったことような歴史を感じさせる現在の建築のデザイ ンが実現した。これがやがて16年の歴史的環境を自然環境と一体として保存する方 向での条例改正につながったのである

住民の学習が町並み保存につながった例として思い起こされるのは、木曽の妻籠宿

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の保存運動である。歴史の流れにとり残された木曽山中の寒村を多くの観光客が訪れ る名所として蘇らせたこの運動は、発案者の町職員小林俊彦の着想、これを政策とし て採用した片山亮喜町長の先見性とともに、妻籠集落の当時の壮年層の先進的理解力 がこれを支えたことが知られている。この人々は第二次世界大戦中から戦後初期にか けてここに疎開していたドイツ文学の関口存男、社会学の光林富男といった学者との 交流の中で生まれた公民館運動を支えた層であり、これが全国に先駆けた町並み保存 につながったのである。10年代から80年代にかけて盛んな論議を呼んだ小樽運河 保存運動も「単なる埋め立て反対運動」ではなく、「環境学習型・対案提起型運動」

であると評価されている。佐藤一子が峰山冨美の著書を素材に紹介している小樽運 河講座は18年から11年まで3期27回にわたって持続され、北大の専門家達がコー ディネーターを務め、全国からの専門家が講師となり、毎回数十名の市民が熱心な学 習を行った。この学習の成果は運河のかなりの部分とレンガ倉庫保存を実現し、いま やここは小樽の新たな魅力の中心になっている。「熾烈な対立のなかにあっても学習 を持続することで合意形成をひろげ」、それが「小樽の観光都市づくりに活用され、

経済的波及効果をも生み出し」た。そして、「現在は観光による一面的活用にとどま らず、もっと深く歴史的文化財としての意義を活かした本来の活用が課題になりつつ ある」と佐藤は指摘している

判例で紹介した和歌の浦景観保存運動も、18年に発足した「和歌浦を考える会」

を中心にシンポジウムや連続講座、見て歩く会等様々な形で和歌の浦の価値を発見・

再確認しながらの運動であった。とくに、「考える会」が数十回にわたって継続した

「若の浦講座」はこの種の運動のなかでも特筆に値する学習活動である。この運動と 訴訟のなかから、幾つかの出版物も生まれており、まことに文化性豊かな運動であっ たといえよう

本学の地元である甲府市で展開されている甲府城跡保存運動の一環として、城下町 甲府の形跡を探訪する「甲府の城下町を歩く会」の運動がある。これも地域の歴史的 環境保存をめざした生涯学習活動である。不精な筆者は17年8月17日に行われた第 1回だけしか参加していないが、近代化された街のなかに細い流れとなって中堀や外 堀がきちんと遺されている状況や往時の石造物が専門家や地元の高齢者の案内で発見 されていく経過は、まことに興味深いものがあった。こうした生き生きとした学びの 体験は、このように保存運動と一体になされればこそ実現できるものである。全国で

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もこのような保存運動と連結した生涯学習がかなりあるだろうと推測できるが、実態 は把握のしようがない。しかし、冒頭に述べた「価値意識の転換」のためには、より 積極的に各種の生涯学習活動において歴史的環境保存が課題とされる必要がある。

全国で行われている生涯学習、とくに熟年世代を中心とする学習では歴史、とくに 郷土史の研究が盛んである。この傾向をもう一歩進めて、遺跡を含む歴史的環境保存 の重要性を課題に取り込んでいく必要がある。つまり、知的探求心から保存意識へと ステップ・アップが求められているということである。歴史的建造物や伝統的町並み そして遺跡は、いずれも有限であり、いま急速に失われつつある。生き生きした歴史 の学習は決して文献だけでできるものではない。歴史を物語る遺跡その他の歴史的環 境の保存は、逆に、生涯学習そのものにとっても重大な意義をもっているわけであ る。

さらに、こうした学習活動は、地方分権改革のなかで一層重要性が指摘される住民 参加の実質を支え、向上させてゆく自立的力量形成(エンパワメント)にもつなが るものである。こうした意味で、生涯学習の場を確保し、これを住民参加による地域 づくりに活かすために、歴史的環境保存を学び、保存運動を実践していく動きが全国 に滔々として沸き起こる事を期待して結びとしたい。

《註》

国立国会図書館調査立法考査局『米・英・仏・西独の文化財保護法』(1975年5月)。

椎名『精説文化財保護法』(新日本法規、1977年)。

岩波新書(新赤318)。

木原啓吉『歴史的環境』(岩波新書、1982年)126頁。

1999年5月1日現在(http : //www.bunka.go.jp)。

古都保存財団編『古都保存法三十年史』(1997年)による。

毎日新聞1993年9月20日。

朝日新聞1995年8月10日

1999年6月6日に明日香村中央公民館で開催された第1回飛鳥池シンポジウムにおけ る山尾幸久氏の発言による。

朝日新聞1999年10月6日、同11日。

朝日新聞1991年7月1日。

このホテルは京都仏教会の差し止め請求や市民の反対運動等があったが、結局は建築

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されている。

ちなみに、この120mという高さは京都タワーの131mを意識したものとされる。

以上の経過については、新聞記事のほか、村上弘「京都の景観行政と政策過程」都市 問題84巻4号、1993年4月参照。

上島顕司ほか「景観というイデオロギーについて」(座談会)都市計画213号1998年。

例えば、白砂青松だとか富士山という景観が明治以降のある時期に「かなりの程度仕 組まれた」ものであるという指摘など。しかし、このなかでは、「そういう議論をする ときに、専門的な議論をもちこまずに、直観的にこれこれが失われるような選択は嫌 だという気持ちがあってもよいはずでしょう。そういう気持ちを素直に表現する場や チャンスがあまりないですよね」という発言もある。

朝日新聞1993年10月23日。

山梨日日新聞1997年8月5日。

この「ニセ天守閣」の「威容」とその後の運営状況は FRIDAY1998年5月20号に報じ られている。

最近の発掘調査の結果、豊臣時代の甲府城には天守閣があったことが有力視されてい る。しかし、徳川時代になってからの徹底的破壊と歴史隠蔽工作の結果なのだろうか、

その絵図もないし、どんなものであったか推定できる資料は一切発見されていない。

これで天守閣を造れというのは、要するに「張りぼてでもいい」という主張に等しい。

東京高裁昭和48年7月13日(判例時報710号、23頁)。

ただし、行政側の行った史跡指定処分や現状変更不許可処分を裁判所が肯定した事例 は少なくない。一方、仮処分事件で公刊資料はないが、筆者が当該事件担当弁護士の ご協力で入手した堺の旧浪速銀行堺支店建造物保全決定(1964年12月18日)は歴史的 環境の保存を求める住民の訴えを認めた希少な例である。これについて、椎名慎太郎・

稗貫俊文『文化・学術法』(ぎょうせい、1986年)40〜41頁。

事件の経過と内容について、椎名・遠江考古学研究会『歴史保存と伊場遺跡』(三省堂 選書、1987年)参照。

最高裁平成元年6月20日、(判例時報1334号、201頁)。

兼子鑑定書の要旨は椎名・遠江考古学研究会・前掲註(22)書123〜124頁に紹介してあ る。

最高裁平成元年2月17日(民集43巻2号、56頁)。

最高裁昭和53年3月14日(民集32巻2号、211頁)。

和歌山地裁1994年11月30日。

この事件に関する筆者の判例評釈は、椎名『行政手続法と住民参加』(成文堂、1999 年)183頁以下に収載されている。なお、訴訟の全記録は、和歌の浦景観保全訴訟の裁

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参照

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