沈 黙 に つ い て
鈴 木 泰 則
ハユ 折口信夫氏の全集を読み︑しばしばこんな経験をする︒
それは︑さまざまな語・語句・或はその連なりである文・
文脈に︑絶望的な了解し難さを感じるという経験である︒
省察すれば︑その閉塞感や抵抗感の主因は︑結局︑氏の用
いる術語又は判断︑そして幾つかの纏った判断群が︑氏の
思想・古代観のどこに位置付けられ︑それらが相互に如何
なる関係を結んでいるかが不明なことにあると言ってよい︒
勿論︑如何なる人間の場合にせよ︑一人の学問的全体を
知る上では︑前述のようなことは必ず付き纏うことであっ
て︑こと西日氏だけに言い得ることではあるまい︒しかし
多くの場合︑個々の判断は何らかの形で普遍的なものに還
元され︑更に或客観的基準に則って構造的に秩序付けられ
やがて全体に至るのであるが︑折口学においては︑その個
々の判断における究極的な拠り所が︑氏の学問的総体その
もの︑つまり氏の古代観そのものであるように思える︒
又︑これも全集を読んでいてしばしば感じることである
が︑読み進むうちに︑やがて自然にもとの出発点に戻って しまっている事に気が付くのである︒しかしそれも単純に戻るのではなく︑讐えるならば︑大きな渦潮がさまざまなものを呑み込みながらゆっくりとまわって︑又初めの位置に帰って来るように︑なのである︒当然のことながら︑種々の事柄が︑それぞれ関連付けられて︑いよいよ複雑になってくる感じがして来る︒ このように述べて来ると︑氏の論は︑撞着を含み一見循環論理的に見えるかも知れないが︑そうではない︒想像に過ぎないが︑氏が捉えようとしたのは︑古代のあるがままの姿だったのである︒そしてそのような氏の古代に対する視座を裏付けるものは︑齢しい文献に関する眼光紙背に徹 ぞいする読みであった︒言うならば︑氏の古代観は︑それら文献をどのように解釈し.如何に精密に追体験しようとするかの姿勢そのものだと言うことができよう︒ 従って︑氏の学問を理解しようとして︑さまざまな論考に耳を傾ける者に対して︑折口氏は︑自らが読み込んだ文献を読み込むことを要求し.自らが提示した解釈と︑それぞれの解釈とを︑常に比較検討することを求あているよう
に私には思える︒要するに︑何より原典にあたって︑折口
一 21 一
学の個々を検証することが真の理解のために有効なことを︑
折口学自身が教えているのである︒
氏の業績なる全ての論考は︑学問が常に不明を胚胎し︑
結局は迂遠なるものだということを︑何よりも雄弁に物語
っていると言えるのではないだろうか︒
二
私はこの小論において︑折口信夫氏がその全集の随所で
言及している﹁沈黙︵織黙・しじま︶﹂について調べてみ
たいと思っている︒
先ず︑折口氏が︑﹁沈黙﹂をどのように捉えているかが当
面の問題である︒
氏は︑その数多くの論文の中で︑ ﹁ほ﹂という語︑乃至語
素が︑思念を破って表現された神意の象徴であると述べて
す いる︒所謂﹁まれびと﹂が︑その重要な行動原理とした
﹁ほく︵ほぐ︶﹂・﹁ほかふ﹂・﹁ほむ﹂等の語は︑皆こ ユの﹁ほ﹂から派生したものと説くのである︒
﹁ほ﹂は﹁秀し・﹁穂﹂と通じて何かの尖端に現れるも ハう のであると氏は言う︒例えば︑ ﹁ほにいつ﹂という表現が
あるが︑後世﹁心の思いが顔に出る﹂という意味で用いら
れ︑特に恋心の発露の表現として和歌にも見えるのだが︑
もともとは︑捉えられぬものの暗示の象徴として︑底の心 ゑ意が尖端に現れたものと説明している︒ 日本の宗教の原形として︑外的威力である邑落の守護霊が︑来臨するものと考えられた︒それ以前は︑木・草・岩 さ ばへ石に到るまでことごとく発言し︑買えば五月蝿の様であっ ヱたと言う︒つまり︑地上にはまさに悪霊が満ち︑人々の生活が不安に曝されていたのであった︒ところが一旦神が来臨するや︑神威によって精霊達は沈黙し︑ひたすらしじまを固守した︒.何故なら︑口を開いて言葉を発すれば︑たちまち言語の霊に感染して︑奉仕を誓うことを余儀なくされると考えたからである︒そのように絨黙を守る岩石や木・草に開口させようとしても物言わぬ時期があり︑その間はその意志の象徴として︑神は﹁ほ﹂ ︵又は﹁うら﹂︶を出さしあたのである︒折口氏は更に次のように言う︒
我々の國の文學藝術は︑最初神と精露との封立の聞か
ら出呈した︒神は精塞に製して︑おっかけ語をかけた︒
紳の威力ある語が.精難の力を塵服することを信じたか
らである︒だが精露は︑其を知って居た︒歴服をくひ止
める手段は唯一つ︒紳の語に卸してとりあはぬことであ
る︒ひたすらに織黙を守ることであった︒しゴまを守り
脱げることの外には神の語の威力を逸らす方法がなかっ
た︒此は固より︑馬鞭自身がさう考へたのではない︒古
代人が言語の威力を信じ︑其に厘服せられ行く物の姿を
一 22 一
まざ汐\と見るに連れて︑想像を精薬の上にも廻したの
である︒ ︵﹃全集﹄第十七巻所収﹁日本文學における一
つの象徴﹂ 九八頁一九九頁︶
ここには︑折口氏の文学発生観を理解する上で重要な手
掛りとなる考え方も述べられているが︵例えば︑ ﹁かけあ
い﹂の考え方︶︑興味あるのは︑ ﹁沈黙﹂が持つ意味であ
る︒前述のように︑ ﹁沈黙﹂は︑ ﹁ほ﹂が現れるための前
提であった︒そしてそこで一種の象徴として現出して来た
﹁ほ﹂によって︑沈黙せるものの意思を理解するのであっ
た︒ここで折口氏が述べている﹁沈黙﹂は︑言うならば︑
征服者︵乃至は外来者︶に対する被征服者︵乃至は土着の
者︶の︑拒否又は非服従の意味で行使されたものと理解で
きよう︒氏の言うように︑ ﹁想像を精妙の上に﹂廻した古
代人は︑ ﹁沈黙﹂に如何なる意味を付与していたのであろ
うか︒ 一義的でないことは自明にせよ︑そのことを調査す
ることも︑強ち無駄ではあるまいと思われる︒
飛躍した言辞が赦されるならば︑そもそも﹁ほ﹂は︑物
言わぬ存在である神に対した古代人が︑その意思という名
において行った︑一種の解釈の諸相に他ならないのではな
いか︒ ︵無論︑古代人の心の中では紳は実在したし︑神と
無縁な生活自体︑考えられぬことであったが︶従って︑古
代人が﹁沈黙﹂に与えた意味は︑何らかの形で︑ ﹁ほ﹂が 帯びる意味と関係を持って来るのではないかと思われる︒ ところで︑ここで一言断っておきたい︒かつて︑マック ムス巨ピカートが展開したような︑或意味でキリスト教的な又或意味では現代の騒音に満ちた時代への警鐘として文明批判的な﹁沈黙﹂を狙上にあげるのではない︒私の意図 す は︑折口氏が﹁沈黙;しじま一を固定する﹂と言う場合のような︑古代人の﹁沈黙﹂に窺える意思暗示の諸相なのである︒ この小論のために.次の四点から用例を引いた︒ ﹃日本書紀﹄ ︵以後﹃紀﹄という︶ ・﹃古事記﹄ ︵以後﹃記﹄という︶ ・﹃風土記﹄ ︵以後﹃風土﹄という︶ ・﹃日本霊異記﹄ ︵以後﹃霊異﹄という︶︒いずれも﹃日本古典文學大系﹄
︵岩波書店︶所収のものによった︒
なお︑用例について述べておくと︑ ﹁沈黙﹂という用字
は皆無である︒従って︑次のものを同意義と見なした︒
ω﹁もだ﹂用字の相違により﹁螺﹂・﹁鰍﹂・﹁嵩﹂︒又
万葉仮名で﹁母太し・﹁毛太﹂︒更に︑動詞と複合して
﹁もだすし・﹁もだる﹂となったもの︒
㈲﹁ものいはず﹂・﹁こととはず﹂の類︒ ﹁不語﹂・﹁無
能言之し・﹁不言﹂・﹁銀白﹂・﹁勿言事﹂・﹁事不吐﹂
又︑暗示的に人が﹁化成松樹﹂などと表現されているもの︒
㈲﹁こもる﹂・﹁にぐ﹂・﹁かくるしの類︒ ﹁隠﹂・﹁遁
恥し・﹁逃遁﹂・﹁匿﹂・﹁塞﹂・﹁閑屋﹂・﹁禁﹂︑万
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葉仮名で﹁刺許心理﹂︑又︑暗示的に﹁作無戸室﹂
に表現されたものなど六十例をその対象とした︒
三
のよう
ω 畏怖による沈黙
ここで﹁畏怖﹂というのは︑或超越的能力などに対する
畏れの意味で用いる︒ ①太子聞之舞扇不言誠知歯人知聖凡人不知
︵﹃霊異﹄ 上巻七八頁︶ ②即起巡坊覚無病人怪之螺然
︵﹃霊異﹄ 下巻三六四頁︶ ④化八尋和遍而葡管渠蛇聴器驚畏而遁退
︵﹃記﹄ 上巻一四四頁︶
①・②は双方とも﹃霊異﹄である︒①は︑ ﹁聖徳皇太子
示異回縁 第四﹂の中の一節で︑死者を埋葬した墓の入口
は鎖されたままであるのに︑中に遺体はなく︑入口の所に
歌が書いてあった︒その奇妙なできごとと歌のことを使者
から聞き︑皇太子は黙してしまったという︒作者の解説の
ごとく︑自ら聖人であった皇太子が︑その奇妙なできごと
の︑聖人の所為であることを感得して沈黙したのである︒
②は︑信行という僧が︑或夜︑坊の外に瞭き声を聞いた︒
病人でも来たのかと思って外を見たが誰もいない︒不思議 だと思って人に告げることをしなかった︒結局その声は︑坊中にあった弥勒菩薩の脇士の智が︑折れて落ちていることを痛がる声だったという話の中に出てくる︒又︑③は︑ ほ をりのみこと﹃記﹄の用例であるが︑話はこうである︒火遠理命︵山佐
とよたま びめのみこと知毘古︶との子を豊玉毘売命は出産する︒臨月に至り︑彼
女は︑夫に対し出産の姿を見ないように言う︒夫は不思議
だと思い覗き見ると︑鮫に身をかえて体をくねらせていた︒
夫は驚き畏れて逃げたというのである︒
これらの行為は.不可思議なもの︑霊妙なものに対する
畏怖から発したものと理解することができる︒
② 恐怖による沈黙
④群臣凝然理︒︵﹃紀﹄雄略二年十月四六五頁︶ つく 雄略帝が猟場で︑居並ぶ部下に問うた︒ ﹁自ら割らむに
い か なます何人に︒﹂つまり鮮を自ら作ろうというのであるが︑群臣達
は︑即答できなかった︒怒った帝は︑部下を斬り殺すとい
う暴虐を行う︒後で皇后が︑ ﹁家来達は︑帝の深慮︒意図
が理解できなかったのだから︑答えられずに沈黙したのも
当然なのです︒﹂と︑帝をなだめるのである︒雄略帝は︑塾
しい帝として有名であるが.恐らく群臣達は︑皇后が後で
解説している通りに︑帝の真意を測りかねて怖じ︑沈黙し
たのであろう︒
⑤其堅塁見畏逃出︒︵﹃記﹄中巻二〇八頁︶
この箇所は︑小碓命︵後の倭建命︶の西征の物語の︑言
一24一
わばクライマックスにあたる部分である︒熊素建の兄の方
が弟の眼前で殺害される︒弟は震え上がって逃げ出したの
︒こっこ◎≠ 議み ⑥未還以前郎富船遁去
︵﹃風土﹄播磨・急難郡二七 頁︶
おほなむちのみこと ほあかりのみこと 大汝命は︑子供である火明命の性格が強情で︑行いが荒
々しいのを心配して︑人里離れたところに置き去りにしよう
として︑⑥の用例のような行動に出たのであるが︑これも
小碓命と景行帝の逸話と同じ性質のもので︑子に対する何
らかの恐れと考えてよかろうと思われる︒
以上︑三例をあげたが︑いずれも同次元と考えられる者
達の間における︑力関係の強弱によって生まれる沈黙であ
る︒調査した用例の中で︑この恐怖によるものが最も多か
った︒六十例中十七例にのぼった︒
⑧ 不承諾︒拒否による沈黙 ⑦天皇嚥然不信 ︵﹃霊異﹄上巻八○頁︶
﹁信敬三寳得現婦警 第五﹂にある︒海中にあった楽器
の素晴しさ︑不思議さを︑大部屋栖古の連が伝え聞いて︑
天皇に奏上するが︑天皇は︑ただ黙っているだけで︑信じ
なかったという訳である︒ ⑧然皇子不欲蕪而背居不言
︵﹃紀﹄允恭即位前紀 四三五頁︶
留置帝は︑反正帝の死後.群臣達の薦めにもかかわらず 即位することを拒否し続けた︒その理由として︑履溶液と反正帝︵この二人は允恭帝の兄であるが︶が︑允質素を軽侮していたこと︑又︑自らの身体が不自由であったことなどをあげている︒恐らくは政争があったものと思われるが︑兎に角長い間に亘って即位しようとせず︑ ﹁背居不雷﹂の おしさかのおほなかつひタサヨど状態であった︒やがて︑妃︑忍坂大中姫命が︑身を挺してこれを諌めている︒この条は実に劇的であり︑言わば﹁沈黙しに対する命をかけた挑戦であった︒ ⑨皇后塗謂不薯故獣之亦不虚言︒ ︵﹃紀﹄仁徳二十二年一月 三九九頁︶ ⑩錐謁皇后而黙之不惑︒ ︵﹃紀﹄仁徳三十年十月 四〇一頁︶ ⑨・⑩の例は︑同じ挿話に登場する︒仁徳帝が︑あらたに八田皇女を妃に加える量を皇后にうちあけると︑皇后は怒り︑断乎としてそれを認めなかった︒それ以来延々と二人の対立は続いたのである︒天皇がさまざまに懐柔しても決して皇后は首を縦にふることをしない︒仁政を敷いた仁徳帝にとって︑皇后を治めることの難しさは︑政治以上であったのである︒⑩においては︑⑧と同様に.身を賭して沈黙を破ろうとしているのが見える︒口持臣が帝の特命を帯びて派遣された︒勿論皇后のもとにであるが︑彼は︑返事がもらえるまでと
庭前で雨ざらしのまま待っている︒皇后に仕えていた国依
一 25 一
姫が︑兄のその姿を見かねて︑歌をロずさんだ︒すると皇
后は︑その妹の兄を思う気持にうたれ︑国依姫に詳細を問
い︑東中の情を抱いた︒そして次のように言い付けた︒
﹁お前が行って︑私︵皇后︶は戻りませんと告げ.お兄さ
んを早く帰らせなさい︒しと︒恐らく仁徳帝の企図もこのあ
たりの事情を熟知した上であったろうが︑順調に運ばなか
った︒ ⑪ 謂坐紳魂命御子 綾門日女命 爾時 女神不肯 週
隠盛時 ︵﹃風土﹄出雲・出雲郡 一八二頁︶
この例は妻問いについての習俗に関するものと言われ︑
求婚を受けた女性が身を隠し︑それを男性が探し出すのを
常としていたらしい︒同様なものが﹃播磨國風土記﹄にも
見える︒この例は確かに不承諾・拒否とは言えぬのかも知
れない︒しかし︑表面的には︑明らかに拒否の形態をとっ
ている︒更に︑承諾に漕ぎ付けるためには︑折口氏の言う
﹁掛け方の努力﹂がやはり必要だった訳であるから︑不承
諾・拒否の意と解してよいと思う︒ ⑫皇子見其欲害隈坐不語︒
︵﹃紀﹄雄略即位前紀 四五七頁︶ ⑬皇子亦知隈坐不語︒︵同四五九頁︶
⑫・⑬も⑨・⑩と同様に一連の挿話である︒物語はこう
である︒眉輪王が︑穴穂天皇︵安康天皇︶を試した︒兄を ハぬ殺された雄略帝は︑ ﹃紀﹄によれば︑他の兄達が前輪王に 対して叛旗を翻さぬのに疑念を抱いて次々と攻めた︒ここに出てくる二人の兄︑つまり愚書白鷺皇子︵允恭天皇第四子︶︑請合黒彦皇子︵同第二子︶は︑その疑いが正当であるとも︑不当であるとも言明せず︑ただ沈黙して死んでゆくのである︒無論︑政権奪取の古代的常識からして︑鼻輪王は物の数ではなかった︒要するに︑最も可能性の高い者同士が︑文字通り骨肉相食む状況を呈する訳であるから︑雄略の攻撃の意図も或はそんな所にあったかも知れない︒しかし︑ ﹃紀﹄の記述から受ける感じは︑或意味では退嬰的と言おうか︑諦念と言おうか︑何か静かな意思である︒そして強い意志である︒諦観は承諾ではない︒その事象にもはや関与しないという意味での拒否なのである︒その意味で︑二人の兄の沈黙は︑複雑な色調を帯びてくるのだ︒ ⑭ 諸魚苗︑仕紅白之中︑海鼠不白︒二天宇受費命︑謂 海鼠云︑此口乎︑速答之起原.以紐小刀︑折三口︒ ︵﹃記﹄ 上巻一三〇頁︶ 折口氏は︑この用例について次のように言う︒
我々の常識は︑神力を持って口を封じたことを考へて︑
其前に更に︑神力が巖木の口を開かせたことあるを忘れ
てしまって居たのである︒ ︵中略︶物言はゴ奉仕を誓ふ
ことになる︒不逞の輩は.かうして口を絨しとほさうと
したのである︒ ︵﹃全集﹄第十七巻所収 ﹁日本文學
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における一つの象徴﹂一〇一頁︶
﹃記﹄の話は︑折口氏が言う﹁棘の語に封してとりあは
ぬこと﹂ ︵本論一に引用︶の典型と言ってよい︒
以上の⑧〜⑭において︑不承諾・拒否の沈黙の大よそを
見ることができた︒これには対象にした書物の用例に偏り
があり︑ ﹃紀﹄には六例︑ ﹃風土﹄に三例︑ ﹃記﹄に一例
﹃霊異﹄には零であった︒
㈱ 差恥による沈黙 ⑮木花開邪姫甚以悪恨乃作無戸室而誓之日
︵﹃紀﹄神代下 一書第二 一五五頁︶
この話には鹿葦津姫︵同︑神代下 一四二頁︶に関する
ものとしても同様なものがある︒天神の子を一夜にして身
籠ったことに対して︑天神は疑いを持ったので︑木花開素
面は︑恥じ入って出口の無い室を作り︑その中に入った︒
そして彼女は︑神意を火によってはかり︑疑念を晴らそう
としたのであった︒ ⑯不知所爲遽健人見化成松樹︒
︵﹃風土﹄常陸・香島郡 七四頁︶
ともに美しい丁田の郎子と安是の嬢子は.相思相愛であ
った︒ただ名前を聞いただけで︑実際に会ったことはなか
ったが︑思いはつのるだけである︒ある擢歌の夜.二人は
遇然にも相まみえることができた︒そんな二人にとって. 夜は短かすぎた︒ふと気が付いてみると︑既に夜は明けていたのである︒二人は︑︸緒にいる所を人に見られるのを恥じて︑松の樹になってしまった︒ ⑰ 然伺見吾形.是甚作之︒郎塞海坂而返入︒ ︵﹃記﹄ 上巻一四四頁︶ この例は.③の後に続く部分である︒③は︑夫は覗き見た出産の異常さに畏れを抱いた部分であった︒ここは.その夫に董恥心を抱いて︑海の国とこの国との境にある墨壷をふさいで.海の国に戻ってしまうところである︒ ⑱董黒蓋克︑臼蓋不服命 ︵﹃紀﹄雄略十八年八月 四九五頁︶ うしろのすくみ あさけのいらっこ これは︑金星宿禰が.勅命を帯びて伊勢の朝日郎を伐ちに行きながら︑敵を攻める方法が拙くて.攻めあぐんでいると︑物部慶雲が代って討伐してしまう︒宿禰は手際が悪くて攻め落とすことができなかったことを︑漸施に耐えぬとして.報告申し上げなかったという話である︒この一種の﹁沈黙しが.蓋恥の故であることは書を待たない︒ 私の予想では.蓋恥による沈黙はもっと多いはずであった︒しかし.意に反して全部で六例であった︒しかも﹁獣﹂の直接的な形での出現は零. ﹁もの言はず﹂の形ではこ例
﹁逃﹂・﹁遁﹂の形で四例である︒ここには.何らかのい
われがあるのかもしれないが.今は私の手に余る︒後日を
期したいと思う︒
一 27 一
㈲ 承認㊥寛恕による沈黙 ⑲匿内其過失岩出不見之︒
︵﹃霊異﹄ 下巻四〇〇頁︶
﹁醐馬長穴箏掲脱以所書示葛谷縁 第十七﹂にある︒穴
君という者の弟が︑伯父の謀略によって殺された︒その伯
父は︑仔細があって︑途中から私一人が先に来たのだとの
夏芝を穴君の弟の両親に伝える︒その虚偽はやがて︑その
子の霊によって暴露されてしまうことになる︒殺された者
の父母は︑自分達の兄である罪人を︑肉親であることによ
って赦し︑縁を断って追放するだけにとどめた︒この用例
にある﹁匿﹂の字は︑公に告訴することをしなかったの意
ではあるまいかと思われる︒
⑳太子自知仲皇子冒名広好黒媛︑密話吾吾也︒
︵﹃紀﹄心中即位前緒 四︸九頁︶
やはり兄弟間での話である︒履中帝は︑意中の人黒媛を
妃にすべく︑仲皇子を立てて︑打合せるために遣した︒と
ころが仲皇子は︑履中帝を名のって︑黒媛と関係を持って
しまう︒しかし︑仲皇子は︑その時うっかり手の鈴を黒媛
のところに忘れて来てしまった︒翌日︑履中止が黒媛を訪
うに及び︑そのことが露見してしまう︒畠中帝は.沈黙し
たままそこから帰ってくるのである︒一方仲皇子は︑制裁
を恐れ︑叛乱を起こして皇宮を包囲するのだが︑意中帝は
叛乱の報告を受けても︑はじめは全く信じられなかった︒ この記述から考えるに︑履中野の沈黙は︑兄弟である故の寛恕の意であったということができるのである︒ すがた 以上﹁沈黙﹂が暗示するさまざまな相を︑大まかに五つに分類して︑用例をあげ説明してきた︒ 初めの意図のように︑折口氏が示した非服従・拒否・不承認の暗示としての﹁沈黙﹂は比較的⁝般化していたと言い得る︒従Pて古代人は恐らく神意の象徴としての﹁ほし乃至﹁うら﹂の中に︑紳の拒否・不承認の意味を感じとることは可能であったはずである︒又逆に承認や寛恕の意味も理解し得たはずである︒ しかし︑それにも増して︑超越的存在に対してにせよ︑或は人為的なものに対するにせよ︑ ﹁おそれ﹂が多いのは何故であろうか︒六十例のうち二十三例を占める事実である︒それらの用例を見︑陳腐の誹りを免れ得ないことを覚悟で︑敢えて言えば︑結局正体不明であり︑何がなんだか皆目わからぬ恐怖のしじまが古代に多かった証拠ではないか︒そしてやや循環論的になるが︑結局のところ︑ ﹁ほ﹂によって古代人が知ろうとしたこと︑或は知ることができると考えていた神の意思とは︑ ﹁承認﹂又は﹁不承認﹂の意思だったのではないかという気がする︒ ﹁占い﹂は充分にその性質を持っている︒
⑳の用例は︑沈黙をした方の意思と︑理解者側の意思と
一 28 一
の決定的なずれが悲劇を生んだ好例である︒神が紅中帝の
ように寛容か否かは知らないが︑少なからず古代人の立場
は︑仲皇子の立場に似ていたことは想像に難くない︒そし
て︑そのような人と神との関係は︑今現在も続いているし
これからも永遠に続いてゆくのであろう︒
四
さて最後に︑ちょっと気がついたことを二︑三あげて︑
この小論を閉じたい︒
調査によると︑ωの用字法で﹁もだ﹂及びその複合の形
で表記され︑読まれているものは︑圧倒的に﹃紀﹄ ︵十二
例︶ コ霊異﹄ ︵十一例︶に多い︒他は﹃記﹄に一例あるの
みである︒ ﹁もの言はず﹂などの㈲のタイプは僅かながら
﹃記﹄・﹃風土﹄が多い︒又︑㈲の﹁逃﹂・﹁遁﹂・など
のタイプは︑ ﹃霊異﹄を除いて︑ほぼ均等である︒
果して今までの成立論的特徴を調べることだけで解決が着
くであろうか︒何か他の要素の入り込む余地があるのか否
か︒後に譲りたいと思っている︒ ︵1︶﹃折口信夫全集﹄ ︵中央公論社 一九七六年︶︵2︶鈴木満男﹃マレビトの構造一言アジア民俗学﹄ ︵コニ 書房 一九七四年︶一〇頁
︵3︶﹃全集﹄第七巻所収﹁日本文學の襲生﹂六七頁
︵4︶ 同 第十六巻所収﹁﹁ほ﹂・﹁うら﹂から﹁ほがひ﹂
へ﹂三六七頁一三八七頁
︵5︶ 同 第十三巻所収﹁東歌﹂三五〇六︹語釈︺
︵6︶ 同
︵7︶ 同 第十七巻所収﹁日本文學における一つの象徴﹂
九九頁
︵8︶マックス・ピカート﹃沈黙の世界﹄佐野利勝訳︵みす
ず書房 一九六四年︶
︵9︶﹃全集﹄第七巻所収﹁日本文學の三生﹂ 六七頁
︵10︶﹃紀﹄ ︵四五七頁・頭注二四︶に次のような記述があ
る︒ ﹃記﹄には︑返事をしなかったので殺したとなつ
ている︒
一 29 一