運動実践を基盤に置いたスポーツ運動の「概論」構築への検討(第2報)
より運動遂行に近づいた運動概論への基礎的な検討一
三 浦 忠 雄*
(1994年10月12日受理)
An Attempt to Generalize Movements in Sports(ll)
Examination the problem of Performance 一
Tadao M【URA
(Received October l2,1994)
はじめに
前回においては,運動の全体的把握という立場から,運動実践に役に立つことに主眼を置いた,教
員養成課程におけるスポーツ運動の「概論」構築への試みを,授業実践の報告を含めての検討を示
した1)が,今回は,「実際に運動を行う・運動遂行」(Bevvegungsausftihrung)2)という視点により近づ いての運動論構築の試みを報告するものである。確かに(特に日本においては)スポーツや体育において,運動を全体的に見通す総論,概論とい うものが成立しにくい。特に,運動をどのように行うのか,どうすればうまくなるのか,運動がな ぜわからないのか,できないのか等,運動を遂行(実行)することに視点を置いた運動論はほとん ど無いと言ってよい状態である。日本においては,スポーツ運動に関する研究や指導論は,運動を 科学的に「説明」する立場から離れられず,それは,具体的な運動実践感覚から遊離しての説明論 に終始することが多く,運動を実際に実践することから遠ざかるばかりである。人間の運動を「運
動の結果」としてしか運動をみず,「観察の対象」として冷やかに見るだけでは,「人間」の運動の 研究にはならない,ということは数々の指摘にある通りである。スポーツや体育分野の運動の研究においては,まず運動実践,すなわち「運動を行う」という点が 基礎に置かれるべきであり,「運動をどう行うか」に触れなければ,本当の運動論にならない。何故 なら,運動は見るものではなく,行うものだからである。
本研究は,ヨーロッパで興った人間学的運動学(allgemeine Bewegungslehre)の代表的研究者である K.マイネル,F.フェッツや,日本における運動学(Bewegungslehre der Leibestibungen)の先駆的研究
者である金子等の文献を手がかりに,より運動実践,というより運動の遂行に近づいた運動論(運
*茨城大学教育学部保健体育講座体育方法学研究室(〒310茨城県水戸市文京2−1−一 1)
動概論)の構築を検討するものである。マイネルやフェッツの運動学は,まさしく運動実践を根底
にしたものであり3),この意味で画期的であり,また発刊後,月日を経た今日においても,我々に与 えてくれる示唆は大きいものがある。運動遂行(あるいは運動を実際に行おうと心的に企図する)の場では,何が問題となるのか。基本 的に次のような点が課題になってくることが考えられる。
・運動を実行に移す時,あるいは移そうとする時,人間はどのような経過をたどるのか,
・スムーズな運動実施とは何か,それは,自分が何をやろうとしているのかが十分にわかって
いるからか,・運動ができないとは何か,それは,やろうとしていることがわからないからか,
・新しい運動(技術)の習得など,運動の学習はどのように行われるのか,
・すぐれた運動とはどういうものか,それはどのように観察されるのか,
マットの側方転回の学習で,先生の示範をみてやろうとする時,マットに立ってからどうやってよ
いかわからないで戸惑っている生徒をよく見かける。この場合いくつかのことが考えられる。まず は,生徒が先生の示範を見て,できそうだと「判断」して,実際にマットに立ってみたら,実は肝 心のやり方がわからず戸惑っている場合である。極端な場合,側方への転回に対して,左右どちら の側を先行させるのか,考え込んでいる生徒もいる。マイネルの表現によれば,生徒は運動の外面 的様子から最初の表象を,経過の視覚一運動性の像を大ざっぱな特徴のなかでとらえたが,運動遂
行にとって大切な運動の仕方(こつ)を把握していなかったのである4)。あるいは,最初の「できそうだと思った判断」が確かなものでなかった場合も考えられる。我々は,運動を見たり,知ったり しても,その運動ができることには,ただちにはつながらない。通常,新しい運動にめぐりあった 時,過去の運動経験と照らし合わせる作業が行われる。運動を知る,と運動ができるにはどのよう
な経過があるのだろうか。また,跳び箱の側方転回跳びの学習で,最も戸惑うことが,マットでできた側方転回と運動の仕方 において,継続性や関連性が掴めないということである。言葉に表現されている「側方への運動」が,
感覚的な混乱を生じているのである。なんとか,関連性を編み出してやると,せいぜい「皿回し」運 動である。大切なのは,目標となる運動がどういう運動であるのか,運動の課題はどこにあるのか,
構造的にも,技術的にも,教師,生徒両者が理解しているということである。先に得た運動経験の
後の運動学習への影響や関連性をどのように考えるのか。運動学習において大切なことは,生徒が学習の目標を明確につかみ,主体的に学習していくことで
あり,教師は生徒の学習の経過を即時的に把握し,的確に方向を示したり,適切な修正の指示を出 すことにある。そのためには運動が行われるという経過について理解することが必要になってくる
のである。運動遂行に関する研究においては,(1)運動遂行に関する諸問題,②運動はどのように観察するの か,(3)遂行しようとしている運動は何なのか,等が研究課題となってくるが,本研究では,運動遂
行の際に,どのような企図や心的過程が起こり,運動実行に入るのかに焦点を絞り,運動指導の基
礎となる運動学概論においてとりあげるべき内容(キーワード)にはどんなものがよいのかを検討
するものである。考察
まずここで確認しておかなければならないことは,体育において中核的位置を占めるのは,生徒に 運動習得を果たさせる運動学習(Bewegungslernen)5)であるという認識である。ここで言う運動学習 とは,心理学的学習理論とは立場を異とし,一つは感覚運動性の学習(senso−motorisches・Lernen)が
前景に立てられる領域で,すなわち,人間の運動行為における感覚・知覚と運動とのかかわりを軸
として,運動の形態発生,修正・分化,自動化が問題にされる領域である。この意味での運動学習
の理論は,人間運動学の立場から,ボイテンディクによって構築されている6)。他の一つは,学習する内容の運動は,スポーツ運動としての独自の価値と意味を背景にしているということである。こ
の2つの座標軸の上に立つということである。ここで取り上げる運動遂行の問題も運動学(Bewegung−slehre)的立場に立った,運動習得のプロセスと深い関わりを持つものである。
金子は,「知る」から「できる」へのプロセスと題して,この運動習得の経過を取り上げ,運動発
生のプロセス,つまり,準備段階から試行段階に潜む問題に焦点を当て,運動実践の立場を明確に
した運動学の視座から考察を加えている7)。このような実践的視点でスポーツ運動の学習の問題をと りあげた研究は従来ほとんどなく,運動学習に関する研究へ与える示唆は大きい。① 運動発生の第1段階(示範の問題性)
生徒は,学習の目標となる運動についての情報をどのようにして得るのであろうか。運動指導の際 教師は生徒にまず課題となる運動の全体像を提示する8)。その代表的なものが示範である。しかし生
徒は提示された運動に何を見,あるいは何を見ることができるのか。生徒は「何が」行われたのか はわかったとしても,大方の生徒は,運動が「どのように」行われたのかはぼんやりしているはず
である。マイネルの言うように,生徒はまず一般的な運動の経過形態だけをとらえたのであるが,生徒が受身的に,単に眺めるという態度に終始する限り,何度見せられてもわからないものは,わか
らないのである。重要なことは,本来の習得や学習は,生徒がまず新しい運動を実行し,「最初の試 み」をしてみることから始まる,というマイネルの指摘である9)。恵まれた状態であれば,運動が示範されている間に,生徒たちが示された運動に多少なりとも明確 な「運動共感」(Mitvollziehen der Bewegung)を持つ者が見られることは珍しくない。生徒たちは,経 過を目で追うだけでなく,頭や手,さらには全身でそれとなく経過を追っているのである。
その運動共感をもとに(あるいは全くなくても),実際に試みることがポイントである。その試みが 不完全でも,生徒に最初の価値ある「運動の内的映像」(Innenansicht der Bewegung)を与えるのであ る10)。すなわち生徒は,実際に試みていくなかで,多くの外受容刺激や内受容刺激,つまり触覚や平
衡覚,運動覚などによるいろいろな信号を体験するのである。それらの信号は,生徒に運動中の身 体の位置や姿勢筋神経支配などを生徒に知らせるのであるが,これらの運動の諸感覚は,最初の
うちはぼんやりしているが,運動の修練が進むにつれて次第に明確に意識されてくるのである。
生徒は新しい運動の最初の諸経験を収集する段になって,初めて課題となる運動を意識的に見たり,
区別したり,観察することを学ぶのである11)。ところで,豊富な「運動経験」12)を持っている場合,
なかでも「類似の運動経過」がすでに習得されている場合には,最初の試みに入る前でも,かなり
適切な「運動共感」が可能であり,それによって新しい運動をより正確に把握することが可能であ る。マイネルが言うと;ろの,豊かな運動経験は,運動構造すなわち運動の空時分節,力動分節の
把握を保証するのである13)。しかし学習現場ではこんなことも観察される。運動を視覚によってのみ とらえる時には,以前に習得した類似の運動と誤った連合を引き起こしやすいということである。生徒は古い運動習慣に束縛されてしまい,それによって学習過程が難しくなることがある。先にあげ
た,マットの側転と跳び箱の側転とびの例もこれにあたるだろう。表現を変えれば,生徒の学習レディネスは,運動共感を十分に保有する教師の適切な例示や示範の なかで,点火されるのである。運動学習の第1段階として,この問題は重要な意味を持ってくるので
ある。
バンデュラが指摘する通り,VTRなどのモデル提示(示範)が頻繁に行われる今日においても視
覚的な目標提示をどのように行えば効果的かについては,ほとんど実証的な研究はなされていない14)。フェッツの言う「感覚運動的な共感」の呼び起こし,バンデュラの言う「運動再生過程」に基づい
た,効果的な示範のあり方を追求することは,運動指導の重要な課題である。② 運動表象の形成
朝岡の指摘15}にあるように,運動の学習過程で生じる「運動表象→運動の遂行→現在値と目標値 の比較に関するフィードバック」という円環過程のなかで,「運動表象」(Bewegungsvorstellung)16)
は特に重要な位置を占めている。なぜなら,運動表象の鮮明さは,しばしば遂行の良否にとって基
準となるからである17)。学校の体育授業においても,実際の活動に入る前に,いわゆる良いイメージづくりを目的に,生徒に優れた選手のVTR映像を見せることがよく行われるが,前段で触れたよう に,それは本当に,生徒に運動遂行に寄与するイメージ(表象)を与えることができるのであろう
か。
運動を実行するのに必要な前提となる運動表象は,見るだけで形成されるものではなく,運動が行
われて初あて形成されるのである,とのマイネルの指摘は重要である。生徒が初めて新しい運動を
見る時には,示された運動経過の単なる「視覚的表象」(Optisches Bild)を得たにすぎないのであって,運動遂行に必要な「運動表象」を得たのではない。運動表象というものは,実際に運動を行うこと
に結び付いて起こる運動感覚(Bewegungsempfindungen)や運動知覚(Bewegungswahmehmungen)に基づいて形成されるもので,運動を企図する時,運動共感となって現れ,筋の同時刺激となるのであ
る18)。
運動表象は,運動をやり遂げていくプロセスにおいて少しつつ形づくられるのである。また大脳皮
質における絶えざる分析・総合的働きの結果として,練習やトレーニングのなかで発達し,洗練さ
れ,精密正確になっていき,分化していくのである19)。運動表象は観察トレーニングによって形成され,精確になるだけでなく,高度に発達した運動習熟の獲得にも必要であり,それは絶えざる現実
のトレーニングやメンタル・トレーニング,観察トレーニングを必要とする。こうして「運動記憶」から,変わらない質で,ほとんどいつでも呼び出すことができるのである20)。明瞭で強い運動表象は,
運動の定着と精確化に導くものであり,運動表象の訓練は運動学習にとって極めて重要な意味を持
つものである。実地の訓練を行うことなしに,体系的,集中的,想像的にその運動経過についての表象活動を行う,
メンタル・トレーニング21)については,概念上の多様性が指摘される,いわゆるイメージ・トレー ニングや観念運動トレーニングとの用語上の問題22)も含めて,その効用については十分に検証され
るべきだろう。ただ注意しなければならないことは,畳の上の水練の言葉を借りるまでもなく,具
体的な運動覚表象(kinasthetischen Vorstellung)に基づかない,安易な,観念的な運動技能獲得訓練は存在しないということである。心理学の領域でも,動作課題のなかには感覚・知覚的側面が多く含 まれるという自然な状況を重視して,近年では感覚・運動学習という用語にかわって,知覚・動作 学習が使われるようになってきており,そこでは,実際の動作をせずに感覚情報処理の面だけを予 め練習しておく,感覚的予備分化理論が提唱され,本番の課題学習に促進的であるという報告がさ
れている23)。興味深いテーマだが,スポーツ運動の領域ではどうなのか検討されるべきだろう。マイネルの次の指摘は重要である。まず大切なのは,第1信号系の諸信号である。それらの信号の 基礎の上にたち,またその信号との絶えざる関わりのなかで,説明やデモンストレーションが理解
され,実際の運動遂行に生かされるのである。そして明確な運動表象というのは,第1信号としての 刺激,なかでも運動覚刺激と,第2信号系の働きとの相互関係のなかで,初めて少しつつ形成される
のであるen)。
③ 運動覚の問題
フェッツが言うように,運動表象(Bewegungsvorstellung),運動感覚(Bewegungsempfindung),運 動知覚(B・w・gung・w・hm・hm・・g),運動感(B・w・gung・g・fUh1),運動覚(B・w・gungssinn)等の諸概念の 峻別は運動学にとって重要であるが,難しい問題である25)。運動覚は,聴覚,視覚,触覚と並んで位
置づけられる。骨,腱,筋,耳や皮膚からの多くの感覚は,我々に一定の運動に関してのデータを 提供し,それらの全体のなかで,いわゆる運動覚を形成すると言われているが,大事なことは,そ れらは運動の判断というものの前提であるということである。パブロフ等は,外的分析器(目や耳 の分析器など)に相応しながら,われわれの運動系との関連においてすべての報告を大脳に集める
運動系分析器26)というものを論じている。これらの分析器の働きにより,運動訓練において「運動 の経過」を正確につかみ,「運動系の経験」を確実に集積していくのである2%運動覚は練習の影響を受ける,と当然考えられ,運動覚を使うことは,より正確な運動表象の発達 や運動記憶の修正に役立つ28)。この意味で,運動覚の訓練は,運動訓練の主要な課題である。
運動学習で大切なことは,教える側と学ぶ側の「交流」の構築である。練習現場では,往々にして,
コーチが強くあるいは一方的に教え込み,選手は黙って指示を受け,ただ繰り返すという場面が見
られる。コーチがかつて名選手であればなおさらである。また「頭で考えるな,体でおぼえるんだ」等の指導がまかり通る。大切なことは,当面の課題に対し,何を目的に,何を練習し,今何が問題 になっているのかを,指導者と選手が共通の理解を持ち,お互いに相手の経過を確認しながら練習 が進められるということである。そのためには,指導者は,運動覚やそれに基づいて形成される運
動表象や選手から発せられる感覚運動性の表現について理解を持つことである。マイネルは,運動学習にとって重要な意味を持つ,言語と運動覚との関係について述べている。す
なわち,運動覚による運動の自己経験が同時に運動の「自己知覚」や「自己観察」を意味するのか
というと,そうではなく,自己知覚は,運動覚が「言語」によってとらえられる時に,初めて成立 するのである。肝心なことは,注意を意識的にある運動に向けて,例えば,運動経過の一定の局面
やその力動分節その他のことを把握し,「記述」する時に初めて「言語による把握」が問題とされるのである29}。
動物は,環界と有機体との直接的相互関係から生じる第1信号系の働きに基づいて動くだけである。
しかし人間は,このような直接的な相互関係だけに頼っているのではなく,早くからこの束縛をの りこえ,自分の運動を,同時に言語信号によって,操縦し,制御することを学ぶのである。そして 言語を使って,知らせ,分化した運動反応を呼び起こすことも可能になる。人間は言語の助けによ
って,自分自身の運動経験を,また前の世代の運動経験をも保存しているのである3°)。
このことは運動学習の面で重要な意味を持っている。すなわち,運動覚と言語は,運動に意識を向
けて吟味し,思うように「修正」することを可能にするのである。マイネルはセチェノブの考えを
次のように引用する。『はっきりと意識にのぼる,何等かの「徴表」を伴った運動だけが意に従わせ ることができるのだ。』これらの徴表が言葉ではっきりと捉えられれば,また運動感覚が完全に意識にのぼっていれば,運動を意のままに形成し,操作し,修正する,意識的な学習が可能になるので
ある3])。
運動表記の問題も含めて,運動と言語の問題は運動学にとって,極めて重要な課題を提供すること になる。しかし現実的に,運動を学習する子ども達の運動の現象記述の可能性をどのように考え,そ
して運動の言語記述をどのように指導場面に生かしていくのか,解決すべき課題もまた多いのであ る。大切なことは,子供たちから発せられる,感覚運動性の表現(言語に限らず)をまずしっかり
受けとめることである。④ 「できるような気がする」段階の問題性
金子は,「できる」段階に入る前に「できるような気がする」という学習過程の設定を主張してい る32)。それは「できるような気がする」ということは,単に運動を思い浮かべて頭の中で勝手に成功 させるというような,幻想的なことではない。自分が臨場感をもって,「潜勢運動」(virtuelle・Bewe−
gung)としてやってみて,それに成功するのでなければならない。つまり,どこで,どんなふうに 力を入れ,あるいは脱力して,どんな姿勢で経過するのかを自分の意図によって「投企」し,それ ができること,すなわち「潜勢自己運動による成功」が前提になっているという問題があるからで ある。ここで必要なのは,課題となる運動の分節または部分,ないしは類似のそれらの「感覚運動 性シーケンス」を呼び出せる「運動経験」が不可欠なのである。逆に言えば,課題の運動財につい て,その一分節でも運動経験をもってないとすれば,その運動課題を「臨場感」をもって思い浮か べることはできないだろう。空中で逆さになった感覚を経験していない人にとって,宙返りの潜勢
自己運動はできないし,畳の上の水練では,運動学習は成立しない33)。「できるような気がする」段階に導入するには,その課題に含まれる構成要因の運動経験を獲得さ
せなければならない。ここのところで,いわゆる学習の系統性や段階性の問題が浮かびあがってく
るのである。実際の運動概論の講義では,「運動の類縁性」の問題や,金子の提唱する「運動ファミ リー」の考え方34)にも触れて,方法論的な展開も有益なものとなろう。感覚運動性の構造化を経て,運動メロディーを奏でながら「できるような気がする」として運動が
投企されると,いよいよ「やってみる」という試行段階に入るのである35》。⑤ 運動の想像や先取り
フェッツの指摘の通り,運動の先取り(Bewegungsvorausnahme)は運動学習にとって極めて重要だ。
これは多層から成る現象であり,運動想像力(Bewegungsphantasie),運動表象(Bewegungs−
vorstellung),運動投企(Bewegungsentwurf),運動モデル(Bewegungsmuster),運動経験(Bewegung−
serfahrung)などに密接に関係しているからである36)。しかしフェッツも指摘するように,これら諸概
念を明確にすることがまず研究上の大きな課題となってくる。それは,我々がある運動を行おうと
意図した時,心的にどのような経過が起こるのかに関連してくるからである。ここにおいては,運動遂行の際に,頭の中に描く「運動へのある企図(企画)」について問題にし なければならない。このような課題に関しては,体育の世界ではほとんど触れられてこなかった。ま
ずゲーレンに重要な示唆をみることができる。ゲーレンは知覚と運動の関連に触れながら,人間の 運動行為の特性について深い洞察をみせて,次のように表現している『人間の態度がますます間接 になり行くこと,事物との接触がますます軽視され,したがって自由にかつ変化に富んだものとな ることである。行為とその目標との間に中間項が挿入され,その中間項が二次的・間接的な関心の 対象となる。そして,手近な目的を果たすために目の前にある道具を何気なしに用いることではな
く,遠くの目的を達成するための道具を作成することこそ,人間らしい態度であると評価される。人間の行為,または一般的に言えば人間の運動は,目の前に思い浮かべて予見した情勢を目指して営
まれ計画された運動であることが解る。したがって,外部から見れば間接的で変わりやすい態度,直接的なものをとびこした態度が,内部から見れば計画され予見された態度,一段高い中枢部からの
操縦による態度なのである。』37)r運動の変化と組合せを一つ一つ覚えていくことは幼児には何年もかかることであるが,この変化 と組合せの課題は,後になって潜在的運動が引き受けることとなる。事実的運動は簡単な道をたど
って,部分的には自動化される。』38)『潜在的運動は初めからこのようなシンボルを頼りにし,このシンボルのまにまに実地の運動を導
いたり阻止したりする。こうして視野の暗示の豊かさは,潜在的運動が次第次第に優勢を占めてい
くこと,したがって実際の試行的運動が指導され計画された運動に移行することと絡み合って進ん
で行く。(中略)人間はますます高等な,骨の折れぬ「小あたりに当たってみる」潜在的な機能を働かせるようになり,それとともに運動は行為,つまり,遠くの目標を目指して操縦され指定された
行動となる。』39)
rこの多様な運動方式の発達のたどたどしい道程は,取りも直さず負担免除の道程である。そして この道の行き着くところ,潜在的な組合せの能力が発展して,事実的運動は全く二次的なものにな り終わる。すなわち,全体的に見渡され,全体的に把握された状況のなかのどの暗示が運動空想に よって受け入れられるかにしたがって,実際の運動は実行されたり,阻止されたりすることになる
わけである。』40)
ゲーレンによると,人間は動物のように,直接的に環界と対峠して動くのではなく,予見され,計
画された運動として実行するのである。その潜在的で,想像的な態度が,人間の運動の自由さ,多 様さを生み出すのである。我々は,子供たちの運動する環境は,このように知的で,計画的で,想
像的であることを保証しなければならない。ゲーレンはそのような人間の運動の想像性について,次のような例を引いて言及している41)。 r私
たちが幅の広い溝をひと跳びしようと考え,さて実行するか否かを決めるのは「想像された」跳躍 の成否にかかっている。私たちは全ての形象を想像裡に,別の状況,運動またはその組合せへ移し
かえることができ,これを「現実に」実行するには及ばない。』ゲーレンは,スポーツの能力は,この運動想像力の達成によるところが大きいとし,ボイテンディクが遊戯やスポーツにおける「潜勢 的運動」の役割について,これがなければ仲間どうしのいわゆる共感も共同生活もありえない,と
論じていることを紹介している。スポーツの能力と運動想像力(Bewegungsphantasie)が密接に関連している,というゲーレンの主張 をフェッツも引用している42)。『スポーツの能力は,非常に運動想像力のすぐれた達成(Leistung)の
中に存在しているようである。その運動想像力はあらゆるスポーツで要求される新しい組合せをあ らかじめ立案するものである。我々は運動を実行しないまでも,運動想像力によって運動に慣れ親
しむことができるのである。それは単に思い浮かべるだけではないのである。』ところで「運動想像力」は,【現存する運動系の経験財(運動系記憶)の上に構築される新しい運 動表象を生み出す能力】と概念されるだろう43)。フェッツによれば,それは客観的な運動経過の形成
や遂行に至らなければならないことは全くなく,運動想像力の産物は要するに実現不可能であって もかまわないのである。運動想像力は,多くの体育運動において重要な役割を果しており,とりわ け新しい,独創的な運動の変化や組合せ,あるいは創作などの領域において顕著である。運動学習 の現場においては,学習する者が運動想像力を自由に育てる場の設定が必要である。しかし,運動 表象運動投企,運動の先取などとの概念の区分は難しい課題である。
これに対して,「運動表象」は,【現実の感覚印象や獲得された運動経験に基づいている,ある形
像的意識内容である】と規定され,それは実現不可能な空想像でも,経験に基づいて構築された運
動遂行の投企(Entwurfe fUr Bewegungsausftthrung)でもありえるのである。だから【実現可能な,後 の遂行のために投企された運動表象】は,運動投企(Bewegungsentwurfe)と表される44)。また,運動系記憶の中で,引き出すことができ,実現可能なものとして扱われる「運動表象」とい うものは,「運動図式」(Bewegungsschemata),あるいは「運動モデル」(Bewegungsmuster)と表現し
たほうが,より明確な把握が可能になるだろう。この運動モデルが,付随する運動経過を遂行する
ために現実のものにされれば,それは運動投企になるのである。「運動投企は,遂行のために整えら れている,経験的に確かめられた運動表象」と理解される45)。運動表象は,多かれ少なかれ強い先取的成分を持ちうる。だから運動投企は,自身の運動(Eigenbe−
wegung)の先取ということができる。すなわち運動の先取は運動目的の先取と解され,一般に,そ れと結びついた運動投企の先取と解されるのである。投企の先取は,運動の組合せの場合に,その
都度先行する運動が形態的に変更されるということを引き起こす46)。フェッツは,シュナーベルやマイネルの考え方について,「運動投企の先取」について論じるより
は,「運動投企による先取」について論じるほうがよいであろうと指摘している。何故なら,それは
運動投企それ自体がある先取なのであるからである。フェッツは,シュナーベルやマイネルが,運 動の先取を運動のカテゴリー的徴表(あるいは運動質・フェッツの言う運動特質)に組み入れてし まっていることには異論を唱えている。なぜなら,運動の先取は,随意運動を行う前に現れる,あ る心的過程であり,観察者は自ら積極的に動かないでも,他の人の運動を先取するものであるから
である47)。
運動の先取の具体的な内容について検討することは,本論の役目ではないが,フェッツの言うよう に「運動経験」(Bewegungserfahrung)との関連で考えることが重要である。運動の先取は,幅広い運 動経験に基づき,そのことによって,その合目的性あるいは実現可能性における高い確i率を持ちう
るからである。それは運動経験が不足している場合には,きわめて不確実であり,同時に,非常な
冒険をすることを意味する。「運動経験」は,偶然の体験や運動の練習過程や学習過程を通して獲得され,準備された潜在的運動モデルと,それに関連する洞察の財産全体と理解される。大きく豊か な運動経験は,スポーツ選手にとって常に運動の先取を有利にする。熟練者とは結局,そのスポー
ツ種目の領域での豊富な運動経験によって,初心者から区別されるのである48)。運動表象や運動想像,運動投企など,運動についての心的な企図や経過は,広範な概念と多義性を
持っていることは肝に命じなければならないが,人間の運動遂行の原点として,基礎的な運動論の
中で,ぜひ取り上げたい問題である。⑥「運動ができない」ということ
この領域の研究はきわめて少なく,実践の場においても積極的に取り上げられてこなかったのは不
思議なことである。我々は運動ができないということにももっと注意を向けるべきで,生徒がだら しがないから運動ができないのだというような,一方的な,固定的な考えを持つ前に,何故実行に 入れないのか,その原因は何か等の検討が行われることは,運動実践論において重要な課題と言え
るだろう。運動学習の面からみると,「できない」ということについては,さまざまな問題が検討されなけれ ばならないが,一つにスポーツ運動としての意味・価値からみて「できる」「できない」とはどうい うことなのかという問題や,「できる・できない」の判定の問題,他の一つに,運動指導(学習)の
あり方の問題が前景に立てられる。今回の検討では,運動指導のあり方の問題に重点を置きたいの
で,前者の問題に立ち入ることはできないが,まず,金子の指摘のように,「できる・できない」の判定は,目標値を運動習熟のどの位相に置くかによって変わってくるはずである,という基本的な
確認のみ触れておきたい49》。子供たちの運動習熟の経過をできるだけ把握し(あるいは把握しようと 努力し),学習の目標になった課題が,子供たちの習熟レベルに相応しての設定か検証すべきである。また運動種目の特性に注意を払い,学習目標の設定や学習のプロセスが画一的,鋳型的になってい
ないか研究すべきである。とび箱の開脚とびで,とべない原因やとべない子供の不安にはさまざまなものがあるが,多くの例 に,とんだ後とび箱の向こう側に落ち込んでいくようでこわい,というのがある。とび箱の練習を,
助走や踏切りに重点を置いて,とび上がった後のさばきを指導していない場合,このような事が起 きる。支持跳躍運動としての特性を持つとび箱運動は,手を着く局面での対応やそれを境にしての 体の回転のきりかえしが技術的要点で,その肝心な点を子供たちの自発的解決にまかせ,走れ,と
べだけでは不安が増すばかりである。マットの倒立でも,倒立を経過して向こう側に倒れるのが不安で,倒立ができないと訴える生徒も
多い。倒立になることを指導しても,倒立位から立位に戻ることにはあまり注意が払われないこと が多く見られる。練習者が何に不安を覚えるのか,確認することが必要である。そしてその不安は
以外に,運動の課題や技術と密接に関連しているのである。指導者として基本的な立場は,生徒が主体的に,自分の運動を「内観」することができ,それによ
って修正,分化を進めていることに,どのように対応するかである。その時大事なことは,指導者
が,学習者主体の感覚運動性の内実にどこまで「共鳴」できるかである5°)。そのためにマイネルも教 師に必要なものとして,「運動共感の能力」を指摘する。運動共感とは,教師が子供たちの行う運動を見ていて,その運動映像の中に自分を没入させ,自己観察として,その運動覚を自分のものとし て感じとることである。このような運動共感を前提としない教師からの指導指示は,子供たちにと
って空虚な指示になるだろうとマイネルは指摘する51)。課題を前にして,子供たちが欲しいのはどうすればその運動ができるかの,いわば血肉化された情報であり,具体的な感覚運動の世界から遊離
した説明語ではない。教師にとって大切なことは,このような運動共感の能力や運動観察の能力は,
意図的な訓練によって獲得し,向上するということである。
更に大切なことは,生徒の「運動レディネス」に基づいた指導の体系化の問題である。実際の指導
にあたって重要なことは,どのような手順で,学習目標の運動財に導いていくのか,ということで ある。運動の指導は,生徒に目標の運動をただ単に繰り返しおこなわせ,生徒が自分でできるよう になるまで待つというのではない。マイネルが言うように,以前に獲得された運動経験や,既に保
持している運動技能は,新しい運動をすばやく,確実に発生させることに決定的な力を持つ52)。生徒は,目標の図式技術と構造的に類似した運動を幅広く,数多く経験していくなかで,目標の運動に
一歩一歩近づくことができるのである。教師の役割は,目標に連なる,多様な感覚運動アナロゴン(類縁例)53)を多数集積し,いろいろな 生徒に合った,有効的なアナロゴンに基づいた,学習の道筋を示すことである。
運動共感やそれに基づく運動観察の訓練,運動アナロゴンによる体系的な運動財の研究は,運動の
指導者養成において不可欠な実践論である。例えば水泳の平泳ぎの練習で,キックの習得には大変 苦労する。原因の一つに,脚のたたみ方や足部の体勢が日常的にあまりみられない,馴染みの薄い 運動ということだが,何よりもその非日常性を克服する段階的,類縁的な練習運動財の設定が難し
いことが最大の原因である54)。まとめ
運動実践を背景にした運動概論において,運動を行うこと,運動遂行に関連する内容の基礎となる
キーワードは次のようである。
運動学習 ●運動学習
●感覚運動性の学習
運動発生の第1段階
●示範●運動共感
●運動経験
●学習レディネス
運動表象の形成
●運動表象●運動感覚
●観察トレーニング
運動覚の問題
●運動覚●言語による把握
できるような気がする段階 ●潜勢運動
●学習の系統性や段階性
運動の先取り
●運動の先取り
●運動想像力
●運動投企
運動ができない
●運動共感の能力
●運動アナロゴン
従来,特に体育の世界では運動に関する研究は,出力として,あるいは発揮されたエネルギーの結
果としての運動の研究が圧倒的に多かった。それに比して運動を行おうとする人間の側の問題には あまり触れてこなかった,と言うことができる。その背景には,運動(スポーツの)は成果や記録 をあげてこそ存在するのだ,という,いわば成果主義的な考え方がある。だから運動ができないの
は,力がないのであり,スピードが足りないからだと説明される。しかしそのような説明だけでは,どうすれば運動ができるようになるのか,課題が解決できるのか解答が得られないし,課題を前に
不安を抱く子供たちを導くことはできない。そこで,運動を行うという点に直接連結した,運動論
運動概論のあり方を模索しようとしたのが,本研究の目的である。しかし,このような問題を課題
とした運動論は体育の世界では例がなく,内容の構築やキーワードの設定にしても全くの試行錯誤
の状況である。本年(平成6年度)後期授業において,このようなキーワードを目安にして講義を試み,運動を行うという点に焦点を当てた授業実践が,人間の運動についての基本的で,広範な知識
を持つということに,何らかの役割を発揮できる可能性を持てるのか検討する所存である。
しかし生徒と教師の共鳴関係といっても,心的に描いた運動の表象をお互いに交流させたり,確認
することは,その表現,表記上の問題とともに,現実的に難しい課題となる。今後この点のより具
体的な研究が要求されるところである。おわりに
心に企図することと実行(遂行)との問題については,体育以外の世界では認知科学に範をもとめ
なければならないだろう。佐々木によると,認知科学での「表象〜パフォーマンス論」にはさまざ まな経緯と論議があるようである。代表的な論議は,表象とパフォーマンスを「分離」して捉える
立場からの脱却である。例えば「イメージ」を提唱したMillerらは,イメージをパフォーマンスの源泉としての地位を与えた。パフォーマンスにおいて表現され,実行される内容はこのイメージと呼
ばれる内的な表象に存在する,という考え方であるss)。佐々木によると, Millerらの独自性は,イメージと実行の間を「プラン」という概念を構想することで埋めたところにあった。パフォーマンスと
は,表象がプランを経由して忠実に実行されたものという考え方である56)。いずれにしても伝統的な分離論においては,人間が行うあらゆる表現において表象が原因であり,パフォーマンスが結果で あるという立場をとるものであり,近年認知研究の分野では,この分離論を克服しようとするさま
ざまな動きがあるようである。パフォーマンスのコントロールとしての認知に言及した梅本によると,このような問題にしても概
念的にも広大な背景を抱えており,知覚の段階でみれば注意による調整,表象の段階でみれば,行 為の過程の中ではプランの形成,行動開始の決定,行動系列における変動の調整,行動終結の決定 など多くの側面で両者の関係が現れている。そして認知からパフォーマンスへの調整でも,神経行 動学の水準で解明できるような自動的調整と,表象に反映されるような意識的調整,さらに意識的 調整の熟達による自動化,あるいは無意識化など,分析の統合を待っている領域は無数にあると指
摘している57}。ゲーレンの言うように,予見的,計画的,間接的である人間の運動は,刺激〜反応と いうような単純な状況にはない。また認知科学において,実験室的な客観的な行動に限定しての,行動主義的な立場から離れて,社会的な,人間的な存在としての技能や技(わざ)を研究する野村の
ような存在は,体育にとって興味深いものがあるSS)。スポーツとしての価値や意味に立脚しての運動 研究がわれわれの立場であるので,認知科学の立場とは直結するものではないが,「人間」や「運動」が持つ領域の広がりには,今後とも注意を払っていきたいものである。
注
1)三浦忠雄「運動実践を基盤に置いたスポーツ運動の[概論]構築への検討」r茨城大学教育学部紀要
(教育科学)』43(1994)pp.55 一 72.
2)遂行とは,実行ともいい,学習と対比して用いられる用語である。学習は練習によって生じる行動の 変化であるという定義があるが,日常の経験からもわかるように,練習の成果が直接観察できる行動
の変化として,そのまま現れないことがしばしばある。そのために,生体の内部に生じているが外か ら観察することができないような変化を学習といい,外に現れた直接観察することができる行動の変 化を遂行とよんで区別している(r新版・心理学事典』平凡社,1984,p.451.)。われわれはスポーツ 運動を遂行する場合,イメージなり運動表象を思い浮かべ,それが運動投企となって現実性を帯びる ことを通して遂行感覚を得るようになる[佐野淳「スポーツにおける[技術]の形態学的視座」『筑 波大学体育学系紀要』(1994),p.173.〕。本論では,実行しようとしている運動の表象を心的に企図 し,実際に行動の変化として観察されるまでの経過全体を遂行としている。
今回,英訳としてPerformanceという語を選択したが,梅本が言うように, Performanceという語 も,遂行行動,動作,活動,作業,業績,実技等を示すなど多義的である。またそれの指示している 事象についても,単位が短くて単純な反応から,系列的な動作,そしてより長くて複雑な行為までさ まざまである。この中で,Performanceは比較的簡単な反応にとどめ,複雑で意図的なものはActある いは行為と呼ばれることが多いようである。認知科学では最も高い水準はActであり,その下にAction,
最も低い水準として行動または運動を位置づけるという階層性の考え方をとっている[梅本尭夫「概 観一認知と遂行のかかわりあい一」安西祐一郎他編r認知科学ハンドブック』(共立出版,1989)pp,
595−596.]
3)この意味で,日本においては実践論的な著作が少ない状況であるが,金子明友r体操競技のコーチン グ』(大修館書店,1974)は,ひとつの種目に限定されてはいるが,優れた実践的運動学の代表的な 文献と考えられる。
4)K. Meinel,金子明友訳『マイネル・スポーツ運動学』(大修館書店,1981)p.376.
5)マイネルは,運動系の学習は新しい運動を獲得し,洗練させ,定着させ,さらに適用していくことと 要約している。マイネルは,運動系の現在の学習理論が動物実験で得られた結果に依存していること が多いと指摘し,これらの研究結果はただちに人間の運動系の学習に転移できるものではないとして いる。人間は言語をもち,言語は思考を可能にし,また思考しながらの学習をも可能にするのであり,
次第に感覚上の多くの直接的運動刺激を思考的学習におきかえることを可能にするのである(文献4),
pp.364−365.)。このことが人間の運動の創造的な発展を可能にしているのである。このあたりは, A.
ゲーレンと同様の考え方と認められる。ゲーレンは著書のなかで随所において,高次の運動経験と言 語との関係について述べている。r現実に操縦される運動すなわち整序の観点を確保している運動は,
言語なくして不可能なことが,今こそ判明したわけだ。私たちの高次の運動達成は徹頭徹尾,知的で ある。計画・確保される図式において,状況の圧力と情勢のいかんによらずそれは発揮される。』(A.
Gehren,平野具男訳『人間一その本性および世界における位置一』(法政大学出版局,1985)
p.280.
6)金子明友「体育学習のスポーツ運動学的視座」r体育・保健科教育論』(東信堂,1988)p.58 7)同書,pp.59−67.
8)フェッツは,提示(Vorzeigen)として次の種類をあげている。①教師による示範②生徒(学友)に よる提示,③映画,④スライド,⑤線画(スケッチ)である。フェッツは,提示の重要な意味は,欠 点を見分けたり,法則性を捉えることだけでなく,いわゆる観念運動的反応やカーペンター効果を考 えることが大切で,最も大切なことは,運動的な共感であると,マイネルの考え方を紹介している。
フェッツは用語的に,示範(して見せる)と提示(見せる)は区別すべきとしている[F.Fetz,阿部 和雄訳r体育の一般方法学』(プレスギムナスチカ,1977)pp.109−110.]。教師が実際にしてみせ る示範は,生徒の運動覚を現実的によびおこすものであり,単なる視覚的なモデル呈示とは区別され るべきである。感覚運動系の学習の領域では,運動示範(Bewegungsvorbild)という用語がある[P.
R6thig,岸野雄三監修rスポーツ科学事典』(プレスギムナスチカ,1981), p.33.]。
9)K.Meine1,前掲書, p.376.
10)K.Meine1,前掲書, p.376.
野村によると,勘やこつの伝授ように,言語によらず手で知り,心に伝わるとは,つまり「共感によ
る認識」といえる。この共感を支えているのが「感応的同調」である。この感応的同調は前意識的な 次元での「感覚一運動的感応」によるもので,まず初歩的には他者の行動をそのままなぞるところか ら,やがて素描的な身振りや表情による感応,さらには外に現れない筋肉的次元での下描きに縮約さ れ,もっと進んだ段階ではたんなるイメージあるいは概念によって可能的行動を先取りし,下描きす る「観念的感応」へと内面化されるという。[野村幸正r知の体得一認知科学への提言一』(福村出版,
1989) p.151.]
11)K.Meinel,前掲書, p.377.
12)運動経験(Bewegungserfahrung)は,偶然の体験や、あるいは運動学習のなかで,運動を成功したり 失敗したりすることを通して獲得された,潜在的な運動モデルの全体ととらえられる。運動経験は,
実現可能なものとして運動記憶のなかに蓄積される[朝岡正雄「運動学用語解説」r運動学講義』(大 修館書店,1990),p.259.]。運動経験は,あの運動はやったことがあるという,単なる体験談とは 区別されるべきものである。
13)K.Meinel,前掲書, p.376.
14)杉原隆,石井美子「示範(モデル呈示)はどのように行えば効果的か」『学校体育』7(1993)pp.68
−71.
15)朝岡正雄「運動学用語解説」r運動学講義』(大修館書店,1990)p.264.
16)当然のことだが,表象やイメージという言葉は広範な概念内容をもつので,金子の指摘の通り本論の ようなスポーツ運動に関する分野では,運動に関する心象,つまり運動の映像的表象と限定して考え ていくこととする。なお,この時の「運動」はUbungではなくBewegungとしての運動である[金 子明友「体操競技とイメージ」r体育の科学』6(1980)p.420.]運動表象は一定の運動の経過につ いて,遂行する前や,その間や,また終わってから,いろいろな鮮明度をもって機能する意識的・無 意識的な知識の全体である。遂行の直前の運動の先取りにおいては,頭の中でその経過が試行され,
そこでは運動の時間的,空間的,力動的徴表ができるだけ現実に即して,理想的表象から区別されて,
最もよい遂行価値を求め,緊張感をもった,感情をもった力点を同時に頭に思い浮かべられる。(『ス ポーツ科学事典』p.41.)
17)『スポーッ科学事典』p.41.
18)K.Meine1,前掲書, pp.377−378.
19)K.Meine1,前掲書, p.378.
20)rスポーツ科学事典』p.41.
金子は,近年,スポーツトレーニング理論において,運動観察に対する問題意識は高まり,その内容 が体系化され始めた,としてマーチンやハーレのトレーニング理論に触れている。
それによると,スポーツ運動の学習においては,実際に行うトレーニングと内的実現化によるトレー ニング(Training durch Realisation)に分けられ,さらに後者はメンタル・トレーニングと観察トレー ニングに分けられる[金子明友「運動観察のモルフォロギー」r筑波大学体育科学系紀要』第10巻(1987)
p.117.]。スポーツ科学事典によると,観察トレーニング(Observatives Training)は,特定の運動行 動を反復して観察することによって,学習者に運動経過の表象(運動表象)を得させようとするもの である。学習速度が高められるとされる(p.79.)。
しかし金子の指摘では,研究は緒についたばかりで,観察トレーニングは単に,メンタル・トレーニ ングや観念運動トレーニング(ideomotorisches Training)の前段階に位置づけられているようである。
今後の研究の進捗が待たれる。
21)『スポーツ科学事典』p.41.
メンタル・トレーニングの有効性は「カーペンター効果」によって説明されるのが一般的だが,
関連する概念として随伴運動(Mitbewegung)や観念運動(ideomotorik)等があげられる。これらはまた,
運動共感を説明する重要な概念である。
22)西田保「イメージ・トレーニングの活用」『体育の科学』第43巻,10月号(1993)pp.795−799.
23)『新版・心理学事典』(平凡社,1984)p.47.
なお,同書において,メンタル・トレーニングとおなじ意味で,メンタル・プラクティス(practice)
やメンタル・リハーサル(rehearsal)の用語が提示されている(p.540)。
24)K.Meinel,前掲書, p.378
25)F.Fetz,金子明友,朝岡正雄共訳『フェッツ体育運動学』(不昧堂出版,1979)p.234.
26)マイネルは,「運動行為の自己経験」についてのパヴロフとクラスノゴルスキーの証明に関して論究 している。「有機体にとって外界の分析だけが大切なのではなく,有機体それ自身に起こることを信 号で上に知らせ,分析することも同様に必要であるのは明かなことである。」
外的分析器の他に,内的分析器も存在し,その重要なものとして運動性分析器(motorische Analysator)
と運動分析器(Analystor der Bewegung)があるとしている。その分析器は,たいへんな複雑さをもつ 運動行為を,膨大な数の最小要素に細分し,これによって,我々の骨格運動の途方もない多様さと厳 密さが成り立っている(文献4),p.124.)。クレストニコフは,一般に,あらゆる感覚が参与してい ることを示して「複合性運動受容器」(komplexen Bewegungsrezeptors)の概念を明確iにした(文献4),
p.368.)。
27)F.Fetz,前掲書, p.237.
28)rスポーツ科学事典』p.24.
29)K.Meine1,前掲書, p.125.
30)K.Meine1,前掲書, p.371.
31)K.Meine1,前掲書, p.125.
32)金子明友,文献6),p.62.
33)金子明友,文献6),p.63.
34)金子明友,文献6),p.64.
35)運動ファミリー(Bewegungsfamilie)とは,学習しようとしている運動の中核となる図式技術に非常に 類似したいくつかの運動を一つのグループにまとめたものである。ここには感覚運動性アナロゴンが 集められていることが必要であるが,ただ似たような運動を寄せ集めたものではない。金子による優 れた器械運動の指導書は,この運動ファミリーの考え方で構成されており,指導論的に大きなな示唆 を与える(金子明友r教師のための器械運動指導法シリーズ』大修館書店,1982年から器械種目毎 に刊行)。
運動の系統的な指導の効果を保証するために,運動者自身によって体験される「内的運動構想に基づ いた類似性」という観点から,運動ファミリーを再吟味することは,運動学の今後の重要な研究課題 となろう。(朝岡正雄,文献15),p.267.)
36)F.Fetz,前掲書, p.247.
37)A.Gehren,亀井裕,滝浦静雄他訳『人間学の探求』(紀伊國屋書店,1970)pp.51−52.
38)同書,p.53.
39)同書,pp.53−54.
40)同書,p.54.
41)A.Gehren,平野具男訳r人間一その本性および世界における位置一』(法政大学出版局,1985)p。
213−214.
42)F.Fetz,前掲書, p.248.
43)F.Fetz,前掲書, p.248.
44)F.Fetz,前掲書, p.249.
45)F.Fetz,前掲書, p.249.
46)F.Fetz,前掲書, pp.251−252.
47)F.Fetz,前掲書, p.255.
48)F.Fetz,前掲書, p.255.
49)金子明友「できる子とできない子」『体育科教育』9(1982)p.14−16.
50)金子明友,文献6),p.65.
51)K.Meinel,前掲書, p.453.
52)K. Meinel,前掲書, p.383.
53)金子明友,文献6),p.62.
54)渡辺はこの問題で,あおり足からかえる足への修正が難しいのは,生徒があおり足を忘れて,かえる 足をつくり出す困難さがあるからで,その原因は生徒が自分の運動経過を対象化し,教師の指示を受 けて,自分の運動を修正する訓練を受けていないからであるとし,プールサイドでの機械論的運動原 理による指導から,外界関係原理による修正として,両側の壁に足裏をこするような運動財を提言し ている[渡辺伸「体育学習で運動を工夫することの問題性」r体育科教育』8(1993)pp.63−65.]
55)佐々木正人「表象とパフォーマンス」安西祐一郎他編『認知科学ハンドブック』(共立出版,1992)
p.603.』
56)佐々木正人,同書,p.603.
57)梅本尭夫「概観一認知と遂行のかかわりあい一」安西祐一郎他編『認知科学ハンドブック』(共立出 版,1992)p.600.
58)野村幸正r知の体得一認知科学への提言一』(福村出版,1989)pp.103−109.
野村は,認知科学においても,技能のような研究では,学問という以上,技能を対象化し,分析して いく方法に依拠する以上,得られた知見はどうしても,技能を発揮する人からかい離したものになら ざるをえない,と指摘する。科学的研究には限界があり,人間の発揮する能力の特性というものを考 慮するど「まず技能を人の働きとして捉え,その人の生きる状況のなかに適切に位置づけていかな ければならない」[野村幸正「わざの形成」安西祐一郎他編r認知科学ハンドブック』(共立出版,1992)
P.618.]