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キャフタ条約の条文形成過程について 澁谷 浩一

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(1)

『人文コミュニケーション学科論集』 9, pp. 55-74 © 2010

茨城大学人文学部(人文学部紀要)

澁谷 浩一

論文要旨

 本稿は,ロシアと清の間で

1728

年に締結されたキャフタ条約の条文の形 成過程について再検討を行ったものである。従来の研究ではキャフタ条約締 結交渉はロシア側主導で進められ,北京交渉において

1727

3

21

日にロ シア側が作成した「北京最終草案」が条約の基礎となり,それに国境画定条 項であるブーラ条約が挿入される形でキャフタ条約の条文が成立したと考え られてきた。北京交渉における草案の形成過程を詳細に分析した結果,ロシ ア側最終草案の前段階の

2

9

日に清側が作成した草案(第二次草案)こそ がキャフタ条約の条文の基礎となったことが明らかとなった。ロシア側史料 の記述を鵜呑みにした従来の理解は不十分であり,キャフタ条約の締結交渉 では,清側が一定の主導権を握っていたのである。

はじめに 

清露間のキャフタ条約は,複雑な交渉経過をへて締結された条約として知られる。清側の ロシア隊商受け入れ拒否により停止状態にあった北京貿易の再開,および国境画定による外 モンゴルの越境・逃亡者問題全面解決等を目指して,ロシア使節ヴラディスラヴィチ(С. Л.

Владиславич-Рагузинский)

が北京入りしたのはユリウス暦

1726

10

21

日のことであった。

その後,翌年

4

23

日までの半年に及ぶ北京滞在において,国境画定条項を除く

10

カ条につ いては合意が成立する。さらにその後モンゴル北境のブーラに移動して国境交渉が行なわれ,

ブーラ条約の名で知られる国境画定条約が締結されるのが

1727

8

20

日,このブーラ条約 を盛り込んだ

11

カ条からなるキャフタ条約が正式に署名・交換されたのはさらに

10

ヶ月後の

1728

6

月のことであった(澁谷

2003)。

従来の研究では,北京での長期にわたる交渉の結果,ユリウス暦

1727

3

21

日にロ シア側が作成して清側に提示した草案が,国境画定条項を除く条約の「最終草案

последний проект」となり,これに国境画定条約として締結されたブーラ条約の文言を挿入したものが

キャフタ条約であると理解されてきた1

。なかでも,わが国におけるキャフタ条約に関する数

少ない専論である野見山(1977b:97-101)は,この

3

21

日にロシア側が作成した草案が,

ブーラ条約の条文中で「最後案(最終草案)」と記されていることを有力な根拠として,この 時の北京における合意を「北京協定」と位置づける。ロシア側は,条約締結に消極的な清側に

(2)

諸要求を認めさせることに成功したのであり,この条約はロシア側の外交的勝利であったとい うのである。キャフタ条約の内容を見れば,氏の指摘するとおり,ロシア側が要求して清側に 認めさせた,という要素が大きいことは確かである。しかしながら,条文の草案作成がロシア 側主導の下になされ,その結果成立した「最終草案(=北京協定)」がそのままの形でキャフ タ条約の条文となったと考えることは果たして正しいのであろうか。

筆者はかつて

11

カ条からなるキャフタ条約の条文のうち,通商に関する規定(第

4

条)お よび両国間の文書通信に関する規定(第

6

条)の成立過程について取り上げたことがある(澁

2003,2006)。そこで確認できたのは,条約締結における最終段階,すなわちブーラ条約締

結後最終的にキャフタ条約の条約文が確定する段階の重要性である。第

4

条と第

6

条について 言えば,上述の北京交渉における「最終草案」以後,キャフタ条約が成立するまでの間に,条 文は変更

それもかなり重要な部分において

されていたのである。少なくとも,一部の 条文については,北京における「最終草案」が絶対的なものであったとはすでに言えないこと になる。

本稿は,これまでに一部検討を加えた条項も含めて,北京交渉におけるキャフタ条約全体の 草案変遷過程を検討し,最終的に成立したキャフタ条約の条文と北京における諸草案の関係を 明らかにすることを目的とする。ただし,キャフタ条約第

3

条の国境画定条項のみは,他の条 文とは異なり,北京交渉での草案ではなく,ブーラ条約の条文が後から挿入される形となって いるため,他の条項と同列に扱うことはできない。国境画定交渉の経過とともに詳細は別稿に 譲ることにしたい。   

本稿で利用する史料はロシア側公刊史料が中心となる。キャフタ条約締結交渉,とりわけ北 京における交渉については,清側に詳細な史料が存在しないので,ヴラディスラヴィチの報告 書2に代表されるロシア側史料に頼らざるを得ない。ただし,その記述は,清側大臣や官憲の 対応に批判的で,当然のことながら自己の立場を強く反映したものとなっているため,扱いに

1

従来の研究の中で,北京交渉から条約締結までの経過について最も詳細に扱っているのは,史料集

的な性格も併せ持つ

Бантыш-Каменский(1882 : 127-157)である。そこでは,ヴラディスラヴィチ

は,国境画定条項を除いて

3

21

日草案と内容が完全に符合する条約を最終的に清側と交換したこ とになっている。この分野における古典的研究である

Cahen(1911 : 211-221)も基本的にこの見解を

踏襲しており,以後の研究の多くがこの

2

著作に頼る部分が大きいこともあって,このような理解が 受け継がれてきたと言ってよい。代表的な研究として,Mancall(1971 : 245-250),Мясников(1996

: 189-202)をあげておく。一方,近年中国および台湾で出版されているいくつかの著作においては,北

京における原則的同意の成立,その後の最終合意・条約締結というほぼ対等な形での交渉経過が説明 されるが,交渉過程に詳細な分析が加えられているとは言い難い。王希隆(1995

: 95-99)および李斉

芳(2000 : 88-93)など。

2

ヴラディスラヴィチの報告書は,帰国後の

1729

12

8

日に提出した公式報告書

( статейный список)

が最も詳細である(АВПРИ

, ф.62, оп.1, 1725, д.12a;д.12б)。この公式報告書から一部を抜粋した写し

(АВПРИ, ф.62, оп.1, 1729, д.9, л.1-119об.)が РКО II(409-466)にある。このほか,1727

5

10

付けの外務参議会にあてた報告が北京での交渉について詳しく伝えている(АВПРИ

, ф.62, оп.1, 1727,

д.9, л.8-20 об., РКО III:34-41)。

(3)

は注意を要する。これに対して,交渉の際にやりとりされた文書・草案の類には各段階での双 方の主張が具体的に反映されていると考えられるので,本稿では草案の文面そのものの分析に 重点を置きたい。なお,条約締結交渉においては,双方ともに主としてラテン文によって草案 を作成したのであるが,史料は交渉時にロシア側によってラテン文から翻訳されたロシア文で ある。なお,以下日付は特に断りがない限り当時ロシアで用いられたユリウス暦による。

1

 条約締結過程の概略

最初に改めて北京における交渉の経過を概観しておきたい。

年表に整理したように,北京での交渉は双方が書面により自己の主張を提示しあう形で進行

  キャフタ条約締結交渉略年表 日付(ユリウス暦) 出来事

1

段階:北京における主要な交渉

1726/10/21

ヴラディスラヴィチ使節団北京入城

11/15

ロシア側

13

項目文書(ロシア文とラテン文)が提出される

12/3

上に対する清側のラテン文の回答文書が提出される

12/5

同上回答文書のロシア語訳を清側がロシア側に提出

12/8

ロシア側の

13

項目の返書(ラテン文とロシア文)が提出される

12/12

ロシア側の短い

14

項目の文書(ロシア文,ラテン文は翌日)が提出され

1727/ 1/13

清側の

14

項目の回答文書(ラテン文)が提出される

1/19

ロシア側の最初の条約草案

13

カ条(ラテン文,第一次草案

)が提出される 2/9

清側の条約草案

11

カ条(ラテン文,第二次草案)が提出される

3/21

ロシア側の北京最終草案

(ロシア文とラテン文)が提出される 4/23

ヴラディスラヴィチ使節団北京を出発

5/10

北京交渉の結果をロシア中央へ報告

2

段階:国境画定交渉からブーラ条約の締結まで

6/14 

ブーラへ到着

8/20

ブーラ条約締結

9/28

ブーラ条約締結をロシア中央へ報告

3(最終)段階:国境での条約文交換まで

10/6

(雍正五年九月三日)

北京の内閣において満洲文・ロシア文・ラテン文の

3

種の条約文が完成

(条文上の日付は九月五日及び 10/19〈グレゴリオ暦〉)

10/10

(グレゴリオ暦 10/21)

最終的に締結されたキャフタ条約の条文上の日付(1727/10/21〈グレゴリ オ暦〉,雍正五年九月七日)

10/12

アバガイトゥ国境画定議定書の締結

10/27

セレンガ国境画定議定書の締結

11/13

北京から送付された清側のキャフタ条約草案(満洲文・ラテン文・ロシア

文,清側最終草案

)をヴラディスラヴィチが受理

1728/4/4

再度北京から送付された清側のキャフタ条約草案を受理

4/8

ロシア側作成の条約文を清側に渡す

4/22 4月段階での条約文についてのロシア中央への報告 6/14

キャフタ条約の条約文交換(=キャフタ条約締結)

8/6

キャフタ条約締結についてのロシア中央への報告

12/18

ヴラディスラヴィチモスクワ帰着

(4)

した3

。最初の書面は 1726

11

15

日の会議でロシア側が提示した

13

項目であり(РКО III:

130-136),この日から正式な交渉が開始された。北京交渉を通じて交渉に当たった清側大臣

は,吏部尚書チャビナ(cabina,査弼納),理藩院尚書テグトゥ(tegut,特古忒),兵部右侍郎 トゥリシェン(tulišen,図理琛)である。13項目のうちの

6

項目は,これより以前のモンゴル 北部,清露双方の接壌地帯における越境者問題をめぐるロシア側の主張である4

。その他,ネ

ルチンスク条約で保証された両国間の通行・通商の自由を阻害する清側の姿勢に対する不満が 述べられ,また,モンゴルの国境画定をめぐっては,かつてのアルトゥン

=

ハーンとの関係 を根拠に当該地域のロシア側の領有を主張した5

。これに対して,清側が文書の形で返答を与

えたのは

12

3

日のことであった。この文書はロシア側の

13

項目の主張に逐一反論する形 で,清側の立場を述べたものである(РКО III:136-144)6

。越境逃亡者問題について,清側は,

こちらはネルチンスク条約の規程を遵守しており,ロシア側から要求のあった件については対 応した,むしろ清側の要求に応えていないのはロシア側である,と主張した。通交・通商を制 限しているとのロシア側の非難に対しても,やはり条約は遵守しているとの立場を示し,通商 は小事であるとしながらも,隊商入京が許可されないのはロシア側が逃亡者の返還を行なわな いためであるとして,責任はロシア側にあるとの姿勢をとっている。また,アルトゥン

=

ハー ンについては,同じホトゴイトに属する王公であるブベイ(böbei,博貝)7等を引き合いに出 し,彼らは同じモンゴル人であってロシアに属したことはない,とロシア側の主張を退けてい る。ロシア側はこれに対して

12

8

日に再び

13

項目にわたって自己の主張を繰り返した

(РКО III:144-153)。

12

12

日,ロシア側はより簡潔な形で条約草案のたたき台ともいうべき

14

項目を清側に 提示した(РКО III:153-155)。この短い

14

項目は,上述の

13

項目をめぐって両者の主張が対

3

北京において双方がやりとりした文書のロシア側写しが,РКО III(130-171)にまとめられている。こ

れはロシア帝国外交文書館に所蔵される,キャフタ条約締結交渉に関する

1727

年の文書(一部

1726

年のものを含む)を集めたファイルに収められたものである(АВПРИ, ф.62, оп.1, 1727, д.9, л.43-79

об.)。

4

ロシア側が返還を要求した逃亡者の中には,ネルチンスク条約締結以前に,ロシア大使ゴロヴィーン

(Ф. А. Головин)に臣属を誓い,その後清側に投じた「7

人のタイシャ」が含まれている。この「7 のタイシャ」については,柳澤(1992)に詳しい。

5

ロシア側は,かつてハルハ・ホトゴイト(ホトホイト)部のアルトゥン

=

ハーンがロシアのツァーリ

への臣属条約に署名したことを理由にその領地のロシアへの帰属を主張した。第2代アルトゥン

=

ハー ンの時,1634年と

1636

年にロシアは使節を派遣して臣属条約への署名を求めたが,ハーン自身では なく,代理人の誓約を得たのみであったという(若松寛

1978a:531-534;吉田 1984:23-24)。第 3

アルトゥン

=

ハーンとロシアとの間にも使節の往来はあったが,若松寛(1978b)によれば,臣属条約 への署名の事実は認められない。

6

この文書の題目部分には,12

5

日にラテン文の文書がロシア側に渡されたと記されるが,ヴラディ

スラヴィチの公式報告書によれば,12

3

日にラテン文が,12

6

日にそのロシア語訳が届けられた とされ,5日の記述はない(АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.235, 249 об.)。

7

ジャサクト

=

ハーン部に属するホトゴイトの王公で,当時対ジューン

=

ガル関係で重要な役割を果た

していた。『王公表伝』巻

63。澁谷(2008:31, 40-43)を参照。

(5)

立し,議論の進展が困難になった状況を受けて,ロシア側が口頭での交渉用に用意したもので あったが,清側の求めに応じてその場で書面の形で手渡すことになったのである。この

14

項 目をめぐっては,文書を手渡した

12

日,さらに

3

日後の

15

日に項目ごとにかなり突っ込んだ 議論が行なわれたが8

,新年の宮廷行事等の影響もあり,清側の文書による正式な回答がもた

らされたのは,1ヶ月後の

1

13

日のことであった(РКО III:155-157)。この前後双方は互い の地図を提示し合って国境に関する交渉も行なったが9

,清側は,現にロシア側が支配してい

る領域に大幅に食い込むような形での領土要求を行ない,双方の主張が乖離していたため10

, 14

項目には国境画定に関する項目は含まれない。この

14

項目についてのやりとりは草案作成 の前段階として重要なので,以下に概要を示しておく。

(1)第 1

項目:対等の通交について。

ロシア側は対等の形式による通信・通交の実現を要求した。持参した国書と同様の形式によ る文書を,使節派遣を通じて届けるように要求するヴラディスラヴィチに対して,清側は,文 書を送付する場合は,その他の「小さな国」に送る文書と同様の形式

朝貢国に与える勅書 を意味すると思われる

となるがそれでよいのか,と反論している。

(2)第 2

項目:国務のための使節の通過,無税による自由な取り引きついて。

ロシア側は,国務のための使節の受け入れ,携行商品の自由無税貿易を要求した。清側は使 節についてはこれまですべて受け入れてきたとしながら,貿易に対する課税については,清側 の習慣により清側商人に対して行なっている,税については今後議論する,としている。隊商 派遣によるいわゆる北京貿易については後の項目で言及されているので,ここでいう通商は使 節が商品を持ち込んだ場合が想定されていることになる。

(3)第 3・4項目:北京における教会建設,大使館建設について。

ロシア側が要求した教会建設については,清側は,小さなこととしながらも,修理を求める なら援助するという姿勢を示している。大使館(宿舎)については,ロシア側の求めに応じて 与えるとし,監視つきながらロシア人専用とすることも認めている。

(4)第 5

項目:北京での隊商貿易,広東での海上貿易,制限のない自由無税貿易の要求。北 京,南京,広東における貿易管理のための領事の滞在。

清側は,広東経由の海上貿易については,すでに却下済みのこととし,領事滞在について も,イズマイロフ(Л. Измайлов)との交渉において康熙帝が拒否しており11

,現在の皇帝(雍

正帝)もこれに従うとしている。北京貿易については,清側は特に言及していない。清側が,

中国からロシアへ商人が赴く可能性(希望するものがあれば証明書を与える)について言及し

8

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.265-278 об.

9

この時の国境交渉と双方が提示した地図については,松浦(2006:88-102)に詳しい。

10 1

14

日の交渉で清側が示した案は,ネルチンスク・セレンギンスク・ウジンスク・トゥンキンス

ク・クラスノヤルスク等の地区の半分以上が清領となるものだったという(松浦

2006:100)。

11 1720-21

年のイズマイロフ使節と清側の交渉については,柳澤(1988)に詳しい。

(6)

ている点は興味深い。

(5)第 6

項目:語学学習のための留学生の北京滞在について。

清側は,我らの言語を学ぶことは有益である,との肯定的返答を与えている。

(6)第 7 〜 12

項目:越境者の扱いについて

ロシア側は,越境犯罪者の処罰,通交許可証を持つものの通行許可等について細かく分けて 言及している。清側は,内容の重複を指摘しつつも,大きくは反論せず,おおむね認める方向 で回答を与えている。

(7)第 13

項目:急使の国境での迅速な迎え入れについて

北京での交渉において,ヴラディスラヴィチはしばしばロシアの通信使が国境付近で足止め されていることを抗議しており12

,このことを反映した項目であると思われる。清側は,すべ

ての問題が解決した時,1名か

2

名で来てトシェート

=

ハーンに頼めば許可されるとの限定的 な返答をしている。

(8)第 14

項目:国境での交易場の設置について

国境付近

2

カ所に交易場を設けるというロシア側の提案に対し,清側は積極的に同意し,国 境での交渉時に場所を決定することを提案している。

14

項目に対する清側の回答を受けて,ロシア側は最初の条約草案作成に取りかかり,1月

17

日の

5

時間にわたる交渉では,清側大臣に草稿を読み聞かせている13

。そして,1

19

日,

正式な形での最初の条約草案がロシア側からラテン文で提示された(РКО III:158-164,以下 これを第一次草案と呼ぶ)。この第一次草案は国境画定に関する条文も含む全

13

カ条からなっ ており,ヴラディスラヴィチによれば,この時点までの両者の合意に基づいてまとめられたと いう14

。しかし,清側はこのロシア側草案を受け入れず,新たな草案を作成する。1

31

日 と

2

2

日の両日,テグトゥとトゥリシェンがヴラディスラヴィチのもとを訪れ,作成した満 洲文の草案を読み上げ,第一次草案とはかなり異なるその文言をめぐって議論がなされた15

そして,2月9日,清側はラテン文によりロシア側に

11

カ条からなる草案を手渡した(РКО

III:164-167,以下これを第二次草案と呼ぶ)。この第二次草案は,最初のロシア側草案におい

ては独立していたいくつかの条項を一つにまとめた上,順序を大幅に入れ替える等,後に詳

12

たとえば,2

11

日の交渉では,5か月の間ロシアへ書簡を送ることも許可されず,ロシアからの通

信使も受け入れなかったと清側を非難している(РКО II:444)。また,1727

5

10

日付けの外務参 議会宛報告では,北京から国境へ向かう途上,

2

ヶ月間国境で足止めされていた使節からロシア中央発 の書簡(1727

1

22

日付)を受領したと述べている(РКО III

:40)。

13

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.319об.-321об.

14 1727

5

10

日付けヴラディスラヴィチの外務参議会宛報告

(РКО III :35)。 なお,同頁の脚注では,

この

13

カ条草案が,1726

11

15

日にロシア側が提示した

13

項目のことであるかのごとく注記さ れているが,これは誤りである。

15 1

31

日の交渉については

РКО II(443)および АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.344об. -352,2

2

日の交渉については,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.352об.-357

.

(7)

しく見るように,構成上も文言上も大きく手が加えられたものだった。ヴラディスラヴィチ は,自らが起草した第一次草案とは相当異なるこの清側草案に反発し,かなり激しいやりとり となった。3月

17

日,第二次草案を認めようとしないヴラディスラヴィチに対して,清側は,

現地に場所を移して行なう国境画定交渉がまとまるまでは何も合意しないという方針を打ち出 し,ヴラディスラヴィチに回答を迫った。19日,ヴラディスラヴィチは,北京での条約締結 を命じられているとの自己の立場を繰り返しながら,結局は清側の強硬な姿勢に譲歩し,国境 画定条項については現地で締結するがそれ以外については北京で合意すること,その場合は国 境で足止めされているロシア隊商の入京を認めてほしいという条件を提示した。清側は,隊商 の入京はすべてが終わった後のことであるとして,ヴラディスラヴィチの条件を退けた。その 後も第二次草案を呑むよう要求する清側に対して,ヴラディスラヴィチは,清側の草案では

「10

年閉じ込められても署名できない」と抵抗し,最後に清側は,ヴラディスラヴィチに対し て,国境画定条項のあるものとないものとの

2

種類の草案提出を求めたのであった16

。こうし

てロシア側が作成したのが

3

21

日の草案(РКО III:167-171,北京最終草案)である。3月

25

日,ヴラディスラヴィチのもとを訪れた清側大臣は,ロシア側から受け取った草案を翻訳 して皇帝に報告したこと,国境画定条項を除いて満足である旨ヴラディスラヴィチに伝えたと いう17

。北京での交渉はこれで終了し,焦点は現地での国境画定交渉に移る。

ブーラにおける国境交渉の詳細についてはここでは触れないが,約

2

カ月にわたる交渉の 後,1727年

8

20

日に国境画定条約であるブーラ条約は締結された。これを受けて,この国 境条約を盛り込む形で条約草案が北京において改めて作成され,それが国境で待つヴラディ スラヴィチのもとに届けられたのは

1727

11

13

日のことであった(以下これを清側最終 草案と呼ぶ)。この時清側は,満洲文・ラテン文・ロシア文の

3

種類の草案を作成している18

調印を強く迫る清側に対して,ヴラディスラヴィチは北京において合意された最終草案とは異 なるとして調印を拒否し,いったんセレンギンスクに退いた。1728年

1

9

日には,ヴラディ スラヴィチは,北京最終草案に沿った新たな条約文を送り直すよう求める雍正帝宛の書簡を添 えてランゲに書簡を送ったという19

。翌年 3

月に再びキャフタに赴いたヴラディスラヴィチに 対して,清側はなおも前年

11

月の清側最終草案による調印を求めたが,ヴラディスラヴィチ は北京最終草案との相違を条文ごとに整理して清側に説明した20

。この間清側は,一部ロシア

16

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.386-390.

17

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.398

.

18

満洲文による条約草案の清側控えは『満文俄羅斯檔』編号

22,176-199

頁(漢訳は『選編』:516-520)

にある。この草案については,澁谷(1998:23-24;2003:61)を参照。ロシア側が受領したラテン文 条約草案のロシア語訳およびロシア文条約草案の写しは,АВПРИ, ф. 62, оп. 1, 1727, д.10, л.122-135об.

にある。なお,この時の満洲文の日付は雍正五年九月五日,ラテン文及びロシア文の日付は

1727

10

19

日(グレゴリオ暦)であった。

19

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12б, л.754 об. - 758 об

. ランゲはブーラ

条約の締結を受けて,1727

9

月には隊商を率いて北京へ出発し,12月末には北京へ到着していた

(Dudgeon 1872:Appendix, 1)。

(8)

側の抗議を受け入れる形で草案に修正を加え,この結果

1728

4

4

日に新たな草案が国境 に届けられた。後に述べるように,この新たな草案は,ロシア側を完全に満足させるようなも のではなかったのだが,ヴラディスラヴィチはこれ以上の紛糾を避けるために受け入れを決 断,条約はようやく締結される運びとなる。ただし,清側が皇帝の勅旨を理由として一端北京 に条文を持ち帰ることを主張したため,条文は再度北京に持ち帰られ,6月

14

日に改めて国 境において条約は正式に交換されたのである21

2

 草案の変遷過程

以下前文および

11

カ条からなるキャフタ条約の条文22ごとに,前章で述べた各草案段階で の条文と最終的に成立したキャフタ条約の条文を比較検討してみたい23

。すでに指摘したよう

に,ロシア側作成の第一次草案は,その後の草案と条文の構成が異なるが,最終的に成立した キャフタ条約の構成に従って整理することとする。

( 1 )前文

条約締結の当事者を記した前文は,ロシア側作成の第一次草案では,ロシア皇帝の称号およ びヴラディスラヴィチの肩書を冒頭に記し,清側皇帝の称号および大臣の肩書をその後に記す 構成をとっていた。これに対して,清側作成の第二次草案では,清側皇帝・大臣名を先に書 き,ロシア側については「ロシア女帝の使節24サヴァ」と簡単に記されるのみであった。こ れに対してヴラディスラヴィチは反発し,対等な形で双方の君主の称号が書かれるべきである と主張した25

。北京最終草案では,前文は 2

種類作成され,ロシア側が作成する条約ではロシ

20

この時の交渉については,

1728

4

22

日付けヴラディスラヴィチの外務参議会宛報告に詳しい

(РКО III :233-236)。なお,ヴラディスラヴィチ自身が 11

月の清側最終草案(ラテン文)と北京最終草案を 条文ごとに比較してコメントをつけた文書が,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1727, д.10, л.142-152 にあり,これ

РКО III (199-209)に載せられている。

21 1728

4

22

日付けヴラディスラヴィチの外務参議会宛報告(РКО III:236-236)および

1728

8

6

日付けヴラディスラヴィチの外務参議会宛の報告(РКО III:259)。

22

キャフタ条約の全文は,Сборник договоров(50-83)にロシア側条約文の控え(ラテン文・ロシア文)

およびロシア側が清側から受領した条約文(満洲文・ラテン文・ロシア文)がある。清側の満洲文控 えは,

『満文録副奏摺』マイクロフィルム 83

巻,

486-502

コマにある。これは

1768

年に締結されたキャ フタ条約追加条約締結の際に清側が参照していた満洲文条約である。キャフタ条約全文の和訳要約は 吉田(1974:135-142)を参照。また,野見山(1977:66-96)は,満洲文条約の逐語訳を示した上で,

ロシア側ロシア文・ラテン文,清側ラテン文・ロシア文との相違を詳細に分析している。

23

各段階での草案の所在は第

1

章で示したので,以下いちいち注記しない。

24 「使節」にあたる語は「посол」だが,後出注 28

で述べるように,ここでは大使と公使の区別を意識し

て使われているとは考えにくいため,このように訳しておく。

25

ヴラディスラヴィチ公式報告書,РКО II:444-445.

(9)

ア側の君主・使節名を先に,清側が作成する条約では清側のそれを先にするという公平な形式 をとり,ヴラディスラヴィチ自身の肩書も正式なものに改めた。ところが,11月に国境にも たらされた清側最終草案は,北京最終草案とは異なったものであった。そこでは,ロシア側の 全権であったヴラディスラヴィチについて,官職名はすべて省略し,単に「伯爵サヴァ」と記 されていた。北京第二次草案に近い形と言える。清側作成の条文のうち,ラテン文のものはそ れ以外の部分については北京最終草案に近いものであったが,満洲文はこれに加えて,冒頭の 清国皇帝の称号を,「全天下を統一した中央の大いなる大清国の皇帝・・・」と表現していた26

満洲文を解さなかったロシア側は,ロシア文草案の冒頭にある同等の表現をとらえて,北京に おける最終草案と異なっていることを指摘した27

。清側はこのロシア側の指摘を受け,文言を

修正する。しかしながら,最終的に締結された条文では,ヴラディスラヴィチは「使節28

・イ

リリアの伯爵サヴァ

=

ヴラディスラヴィチ」と記され,北京最終草案にあった「特命公使・

全権大臣・四等文官・イリリアの伯爵」という正式な肩書は復活しなかった29

。君主・大臣を

記す順番を使い分けるという形式は北京最終草案の形が踏襲されたが,その内容からは,キャ フタ条約の前文は,北京最終草案そのままではなく,第二次草案と北京最終草案の間をとった ものであると言うことができよう。

( 2 )第 1

1

条は条約の締結による和平の確立を述べた原則的条項である。この条文はロシア側作成 の第一次草案でも第

1

条におかれているが,特徴的なのは,抽象的な両国間の平和を述べる表 現の中に,「快適な通信と通商」の実現を謳っている点である。対等な形式での両国間の文書 通信の実現と停止されたままの通商の復活は,ロシア側にとって条約締結交渉の重要課題であ り,ここにそれが象徴的に表れていると言えよう。ところが,清側作成の第二次草案ではこの

26 『満文俄羅斯檔』編号 22,176

頁(漢訳は『選編』:516)。澁谷(1988:23)参照。

27

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12б, л.729-729 об. および

РКО III:199-200.

28

ロシア文のキャフタ条約においては「посол」の語が使われており,ラテン文条約で対応する語は

「legatusu」である。一見「大使」という訳語がふさわしく思えるが,ヴラディスラヴィチの公式な肩書

きは公使である(次注参照)。「посол」の語は清側作成の第二次草案,さらにさかのぼれば,1727

12

3

日の清側

13

項目回答書から使われており,おそらくは満洲文の「elcin 使臣」に対応する語として 用いられたのであろう。清側が最後までヴラディスラヴィチの正式な肩書を記すことを認めなかったた め,ロシア側もこれに合わせる形で「посол」の語を使用したのではないか。

29

エカチェリーナ

1

世の死去とピョートル

2

世の即位に伴い,1727

5

19

日に新たな全権委任状が作 成された

(РКО III:45-46)。そこではヴラディスラヴィチの外交使節としての資格に変化はなかったが,

ブーラ条約の締結報告を受けて,四等文官から三等文官への昇進,聖アレクサンドル

=

ネフスキー勲 章の授与が決定され(1728

1

3

日および

4

日付けピョートル

2

世および外務参議会の詔書,РКО

III:216-218),ヴラディスラヴィチはその知らせを 3

月9日に受領している

(1728

4

22

日付けピョー トル

2

世への報告,РКО III:244-255)。すなわち,キャフタ条約の正式調印時点でのヴラディスラヴィ チの公式な肩書きは「三等文官・受勲者・特命公使・全権大臣・イリリアの伯爵」であったということ になるのだが,いずれにしてもこれらの称号は条文中には反映されなかったのである。

(10)

部分は削除されてしまう。そして,ロシア側最終草案でもこの表現は復活せずに第二次草案の 文言が踏襲され,そのままキャフタ条約第

1

条となるのである。

( 3 )第 2

これ以前の越境逃亡者については不問に付し,今後の越境逃亡者の相手国への返還について 述べた条項である。ロシア側第一次草案は,ネルチンスク条約締結以後の両国間に生じた問題 を忘却すること,本条約締結以前の逃亡者については罪を許し,今いる場所から返さないこと を述べるが,今後の逃亡者の扱いについては言及していない。清側第二次草案になって,今後 の逃亡者については受け入れず相手側に引き渡すことが付け加えられるが,全体的には簡潔な 表現となる。ロシア側最終草案では,第一次草案にあった表現を復活させる形の修正がなされ たが,国境にもたらされた清側最終草案の段階で第二次草案の形にもどる。最終的に締結され た条文は結局ほぼ清側第二次草案そのままであった。

( 4 )第 3

国境画定条項としての第

3

条は北京での草案が条約文となったわけではないが,ここでは北 京での草案変遷の過程について簡単に触れておきたい。ロシア側第一次草案では国境に関して は第

9

条で扱われている。そこではネルチンスク条約での国境画定に触れ,和平確立のための 未画定であるモンゴリアの国境画定に対する原則がうたわれるが,もっとも特徴的なのは,

「今

支配しているものすべてを支配する」という現状維持の姿勢である。清側作成の第二次草案で は,国境画定に関する条文は第

9

条から第

3

条に移されており,国境画定を重視する清側の姿 勢がうかがわれる。この草案では,ブーラ川を起点に,東方アルグン川までは現状の哨所の

「向こう側に」国境を定めるとし,西方についてはいくつかの具体的地名をあげながら,山と

川によって国境線を決め,それに合わせて住民を移動させるという方針が示されている。ロシ ア側が示した現状維持の原則を清側は拒否したことになる。2月

11

日の交渉で,ヴラディス ラヴィチは清側の自然地形に基づく国境設定方針に強く反発している(РКО II:444)。北京最 終草案第

3

条冒頭において,ロシア側は,第二次草案で削除された現状維持原則を,「増加も 減少もなく」「いかなる官位・階級の住民も現在居住する帝国に残る」との文言を加えた上で 復活させた。結局北京における国境交渉は双方の原則論の対立にとどまり,合意に至ることは できなかった。既述のように,国境画定条項は北京での基本合意からははずされることになっ たのである。

( 5 )第 4

4

条は貿易に関する条項である。前半は北京貿易について,後半は新たに国境に設置され る

2

カ所の交易場について規定されている。ロシア側第一次草案では,北京貿易については第

6

条,国境貿易については第

7

条という形でそれぞれ独立した条項となっていた。北京貿易に ついては,人数制限なし,時間制限なし,ロシア側商人にも中国側商人にも課税しない自由な

(11)

貿易を保証している。非課税については,「これは,今は亡き先代のボグドイハン陛下の寛大 なお指図による」との表現を付け加えている点が注目される。貿易を管轄するための領事の北 京常駐も盛り込まれ,中国側商人がロシアへ来る場合も同様の形をとることが明記される。通 商関係,とりわけ北京へのロシア隊商の派遣によるいわゆる北京貿易の復活はヴラディスラ ヴィチ使節団最大の課題であったため,この最初の草案にはロシア側の通商に対する強い要求 が示されていると言えよう。先の

14

項目のやりとりの中で清側に拒否された領事の北京常駐 が明記されている点にそのことが象徴的に現れている。第

7

条の国境交易場の設立について は,北京貿易を主要な貿易と位置付けるロシア側が,零細な取引の場としての設置を提案した ものであり,既述のようにすでに

14

項目のやりとりの中で清側は賛同の姿勢を示していた

(澁

2003:63-64)。

清側第二次草案では,二つに分かれていた条文が第

4

条として一つにまとめられた。前半は 実質的に北京貿易についての規定なのだが,条文中には「北京」の語がなく,「両国間の自由 な通商」という表現になっている。ロシア隊商をなるべく北京から閉め出そうとする清側の意 図がうかがえる部分である(澁谷

2003:64)。通商の内容については,取引期間,人数に制限

を設けていない第一次草案に対し,200人を超えない,3年に一度等の制限がつけられている30 一方で,双方の商人とも非課税とすることが明記されており,領事の北京滞在については記さ れていない。清側はロシア側の諸要求のうち,非課税の部分のみを認めたことになる。ロシア 側作成の北京最終草案では,第二次草案に欠けていた「北京」の語を復活させ,前半が北京貿 易の規定であることが明白となっているが,それ以外の部分は後半の国境交易場設置規定も含 めてほとんど第二次草案を踏襲している。

ところが,

1727

11

月に国境へ送られてきた清側最終草案の第

4

条には,

「北京」

の語が入っ ていなかった。ヴラディスラヴィチは清側のもたらした草案が隊商については曖昧に書いてお り,「北京へ」とはっきり書いていないとして,清側に抗議したが31

,清側が,北京最終草案

ではなく,第二次草案をもとに条約文を作成したことは明らかである。清側はロシア側の抗議 を受け入れ,最終的には「北京」の語が明記された形に落ち着くのであるが,第

4

条は,清側 第二次草案に「北京」の語を加えた条文がキャフタ条約となったとまとめることができる。

なお,北京最終草案に付せられたヴラディスラヴィチの説明文(РКО III:172)では,貿易 に関しては最大限の努力をしたことが強調されている。中国国内における自由交易を求めて拒 否され,3年に一度,隊商の人員

200

名等の制限がつけられたことについても,毎年隊商が北 京に来ても毛皮が売れないので,この条項はロシアにより有利であるとする。毛皮が売れない

30

隊商の入京時期に関するキャフタ条約第

4

条の文言は,ロシア側作成のロシア文のみが「3年に

1

度」

という表現になっており,それ以外の条約文では

「3

年を隔てて

(経過して) 1

度」という形なっている

(吉

1964:755-756)。第二次草案はラテン文でロシア側に手渡されており,ロシア語訳では 「3

年に一度」

となっている部分が,もともとのラテン文では「3年を経過して

1

度」という表現になっている可能性 は高いと思われる。

31

ヴラディスラヴィチ公式報告書,РКО III:480.

(12)

ことを理由に隊商の入京に制限を設けるという案はもともと

1710

年代後半から清側が主張し 始めたものである(澁谷

1994:78-85)。このヴラディスラヴィチの説明は清側の主張を受け

入れざるを得なかった自らの立場を正当化しようとする苦しい弁明のように思われる32

( 6 )第 5

5

条は北京のロシア使節専用の宿舎,教会建設と聖職者の滞在,語学留学生の北京滞在に 関する条項である。第一次草案では,それぞれ第

5

条,第

3

条,第

8

条として独立した条文と なっていたが,第二次草案で清側が第

5

条として簡略化する形で一つにまとめた。清側はロシ ア側の要求を基本的には受け入れる形をとったが,第一次草案にあった,使節の宿舎の清側負 担による増築については,第二次草案では削除されていた。ロシア側は北京最終草案で,第二 次草案の文言に付け加える形で,「今の建築が小さくなったら清側によって増築される」とい う文言を挿入し,削除された部分の復活を図った。だが,11月の清側最終草案では再びこの 部分が削除され,北京第二次草案に逆戻りしている。また,清側作成の第二次草案では,「サ ワ(=ヴラディスラヴィチ)」が望んだことを許可するという表現がなされているのに対して,

ロシア側最終草案では,この表現を削除して,通常の条約規定とした。ところが,清側最終草 案の段階で,この部分も再び第二次草案の表現に逆戻りしている。清側最終草案はほぼそのま まキャフタ条約となっているので,第

5

条についても,清側第二次草案がキャフタ条約条文に なっていることが確認できる。ただし,教会建設の部分については,清側最終草案の段階で,

第二次草案とも北京最終草案とも異なる表現が現れる。北京最終草案までは,これから教会が 建てられるという未来形の書き方になっていたのが,すでに建てられたという過去形に変わっ てしまったのである。北京におけるロシア教会の建設は

1727

年末に起工され,1732年に竣工 したという33から,工事がまさに始まろうとしていた段階で作成した草案において,清側は すでに完成したものとして扱ったことになる。

( 7 )第 6

6

条は両国間の文書通信に関する条項である。第一次草案では,関係する条文は第

10

条 であるが,この条文では,越境する人員が携行する証書(パスポート)の形式についてかなり 細かい規定がなされており,文書通信については条文末尾に,困難を避けるために帝国・宮廷 同士のやり取りは元老院(セナート)・トリブナル34同士とすることが簡単に記されるだけで

32

同じくヴラディスラヴィチによる説明によれば,雍正帝は貿易に

16%の課税をしていたが,交渉の

結果無税を認めさせたという。この

16%という数字は清側資料からは今のところ確認することがで

きない。

33

ロシア隊商を率いて

1727

12

26

日に北京に到着したランゲ(Л. Ланге)は,同月

28

日に教会建 設のための資材がロシア使節宿舎に持ち込まれるのを目撃している(Dudgeon 1872:Appendix, 5)。

Meng Ssu-ming(1960:28)を参照。

34

トリブナルとは特別裁判所,法院を指す語であるが,ここでは清側は理藩院,ロシア側は外務参議会

を指している。澁谷(2006:36)を参照。

(13)

ある。文書通信の形式については,あくまでも対等な形式の国書を求めるロシア側に対し,清 側は対等な形での国書はあり得ないとの立場をとり,この問題は北京交渉を通じて重要な争点 となった。第一次草案の段階でロシア側は一つの妥協案を提示したわけである。この後の草案 にこの妥協案は受け継がれてゆくが,双方の機関名は微妙に変遷してゆく。この機関名の変遷 過程についてはかつて詳細に検討したので(澁谷

2006:44-50),ここで詳述することは避け

るが,キャフタ条約の条文の基礎となるのが,清側作成の第二次草案(第

6

条)であることは 強調しておかねばならない。

第二次草案では,第一次草案第

10

条にあった越境者が携行する証書の形式については削除 されており,最後の部分に,国境付近での越境逃亡者・犯罪者が出た場合に,両国の国境付近 の官吏が文書を送付しあうことが新たに盛り込まれている。キャフタ条約の締結は,モンゴル 北境で頻発した越境者・逃亡者の問題を全面的に解決するために,清側が国境の画定をロシア 側に呼びかけたことがそもそもの契機となったのである。第

6

条のこの部分は逃亡者問題を重 視する清側の姿勢がうかがえる箇所であると言えよう。

その後のロシア側作成の北京最終草案においても,第二次草案で文書の送受信機関が理藩 院・元老院間とされていたのを,理藩院・外務参議会間と修正したほかは,第二次草案が踏襲 された。そして,11月の清側最終草案は,すでに見てきたいくつかの条文と同様に北京にお ける第二次草案により近いものであった。ただし,送受信機関名について,満洲文・ロシア文 草案とラテン文草案との間に微妙な差異が存在したことにより,最終的に成立した第

6

条は,

清側満洲文・ロシア文,清側ラテン文,ロシア側ラテン文・ロシア文のそれぞれが微妙に異 なった表現となって成立したのであった(澁谷

2006:44-50)。なお,清側最終案においては,

それ以前において,ロシアへの対応の窓口をハン・王・ベイレ・公といった爵位で表現してい たのを,トシェートハン

=

ワンジャル

=

ドルジ,王ダンジン

=

ドルジという固有名での表記 に変えていることも注目される。このような個人名を記すことは条約としてはふさわしくない とも言えるが,できるだけ具体的な表記とすることで,国境付近でのトラブルを迅速に解決し たいという清側の意図が垣間見える。

( 8 )第 7

7

条は,ネルチンスク条約で国境が未画定のまま残されていたウディ川流域の扱いに関す る条項である。ウディ川流域の問題については,清側がロシア側に対して,今回の交渉での国 境画定を強く求めたのに対し,ロシア側は,皇帝からの指示がないこと,現地の情報が不足し ていることを理由に応じず,結局今回も未画定とすることになったのである。この問題に関し ては,北京最終草案提出直前の最後の交渉(3月

19

日)においても激論となっており35

,清

側が最後までこだわりを持っていたことをうかがわせる。

さて,第

7

条は,ヴラディスラヴィチと清側大臣の対話形式によって記されているのだが,

35

ヴラディスラヴィチ公式報告書,АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1725, д.12а, л.389об.- 390.

(14)

この条文は実はロシア側作成の第一次草案には存在しない。第一次草案では,第

9

条において 国境画定問題が述べられているが,ネルチンスク条約で定めた国境を確認しているこの条文で もウディ川流域の未画定問題については明確な言及がない。この問題については清側作成の第 二次草案において第

7

条として初めて登場するのである。ロシア側作成の北京最終草案では,

第二次草案の内容を踏襲しつつ,対話形式ではない形に改めているのが大きな変更点である が,内容的にみると,2点大きく異なる部分がある。1点は,第二次草案で,清側大臣がロシ ア側の今回も未決とするとの言い分を認めた後で,ロシア側の人が境界を越えてそれを清側が 処罰した時に,ロシア側は清側が平和条約を破ったと非難することはできない,とロシア側に 釘を刺している部分である。国境が未画定になっているのは,ロシア側に原因があり,問題が 生じた場合でも清側の責任ではない,との清側の考え方がうかがえる表現であるが,北京最終 草案では,平和を壊さないように(双方が)越境者を処罰すべきである,との対等な表現に改 められている。もう

1

点は,第二次草案条文末尾にある,ヴラディスラヴィチが帰国後この地 域の国境画定をなすべきことについてロシア皇帝に伝え,清側がこの件に関して元老院宛に文 書を送付する,という部分が北京最終草案では完全に削除されていることである。かなりの大 きな変更と言えよう。

清側のこの問題に関するこだわり具合から見て,この大きく変更された条文を清側が北京交 渉において本当に承認したのかどうか,やや疑問に感じざるを得ない。というのは,国境に届 けられた清側最終草案第

7

条は,ほとんど北京での第二次草案そのものだったからである。こ の時の清側最終草案と北京最終草案を逐一比較したヴラディスラヴィチは,この第

7

条につい ては「この条項はすべてが似ていない」とコメントするしかなかった(РКО III:206)。この 条文に関しては,北京最終草案は完全に無視されていると言えよう。ヴラディスラヴィチはこ の清側草案に対し,北京の時と同じように,清側がロシア側越境者を処罰するという一方的な 規定に訂正を申し入れており36

,清側は最終的にこの部分については一部修正を受け入れてい

る。ただし,ヴラディスラヴィチと清側大臣の対話形式は維持され,北京最終草案で削除され ていた末尾の部分も第二次草案のままであった37

。 

なお,この第

7

条については,清側満洲文・ロシア文と,清側ラテン文・ロシア側ラテン 文・ロシア側ロシア文の間に相違があることが指摘されている。未画定国境について,前者

36

ヴラディスラヴィチ公式報告書,РКО III:480.

37

7

条末尾の,清側から元老院への文書送付については,北京第二次草案においてはこれから送られ

るという表現になっていたが,11月の清側最終草案においては,すでに送付されたという過去形に なっていた。ヴラディスラヴィチは

1728

4

月の時点で清側大臣にこの元老院宛文書の所在につい て問いただしているが,清側大臣は過去に送られた文書のことか,或いはこれから送られるかだろう と言葉を濁している(1728

4

22

日付ヴラディスラヴィチの外務参議会宛報告,РКО III:237)。

キャフタ条約ではこの部分はラテン文・満洲文・ロシア文いずれも過去形になっているが,条約締結 の前後にこのような文書が送付された形跡は見いだせない。この問題に関して理藩院が元老院宛文書 を発送するのは,雍正

12

年になってからのことである(АВПРИ, ф. 62, оп.1, 1735, д.2, л.13, 16-17. 雍正

12

12

20

日付け満洲語文書の原本がある)。

(15)

が「中間に残す」との表現をとるのに対して,後者は「以前のように未決定のまま残す」とい う意味の表現になっており,野見山(1977b:92-93)は,清側が単なる未画定ではなく,中立 地帯とする考えであったことを指摘する。清側の第二次草案(ラテン文のロシア語訳)におい ても表現は後者と同様である。この時清側が作成していたはずの満洲文条約の表現については 不明であるが,清側最終草案の満洲文は,キャフタ条約最終形と同じく前者の表現なので,満 洲文(およびその直訳に近い清側ロシア文)の表現は一貫していたと考えられよう。この表現 の違いは,元をただせばネルチンスク条約の満洲文とそれ以外の条文の違いにさかのぼる(野

見山

1977a:18)。ネルチンスク条約の時もそうであったように,キャフタ条約締結時点でも,

近い将来に改めて国境画定が行なわれることが想定されていた。特に清側がその意志を強く 持っていたことは条文自体が証明している。このことが,条文間の相違が特に問題とならな かった背景にあると言えるのではないか。

また,この第

7

条に関しては,ロシア側の思惑通りに未画定のままとなったことが,ロシア 側の外交的成功と評価されることが多い(Мясников

1996:207;Мелихов 1998:208)。これは

言うまでもなく,後の

19

世紀後半のアムール川(黒龍江)流域における新たな国境画定を意 識した議論である。繰り返しになるが,キャフタ条約締結時点においては,清側が近い将来に おけるこの地域の国境画定に強い意欲を持っていたこと,第二次草案でこの条文が初めて出現 することに象徴されるように,清側の強い意志によってそのことが条文の中に盛り込まれたこ とは軽視されるべきではないであろう。

( 9 )第 8

8

条は,国境の首長・官吏が迅速・公平に公務をこなすべきことを述べた簡潔な規定であ る。第一次草案では第

12

条にあり,第二次草案では文言は書き改められているが趣旨に相違 はない。ただ,ここでも第二次草案の文言がほぼそのままキャフタ条約になっている点は指摘 しておきたい。

( 10 )第 9

9

条は使節の迎え入れに関する条文である。第一次草案では第

4

条に置かれ,ロシア側が この条文を重視している姿勢がうかがえる。使節が国境に到着した時,用件を宮廷に伝え宮廷 から人を派遣して迎え入れること,途中の駅馬の官給,到着後の住居提供,食料の給与,商売 の自由,急使の場合は国境官憲の判断で宮廷の判断を待たずに直ちに受け入れる等の規定はお おむね第二次草案にも受け継がれており,第二次草案では以上の規定の末尾に,「サワ(=ヴ ラディスラヴィチ)が言ったように」との文言が付け加えられている。北京最終草案では,第 二次草案で付加された末尾の文言が削除されているが,これは清側最終草案で復活する。そし て,ここまでの部分については,後に述べる一部の修正を除いてこの清側最終草案がキャフタ 条約の条文となる。

第一次草案では,条文は上で述べた内容で終わっているのだが,二次草案では,この後に続

(16)

けて,文書・使節が遅延して回答が届かなかった場合の対応が次のように記される。

そのため,使節も商人も通過させられない。しかし,しばらくの間,使節と商人は説明が なされるまで止められるかもしれないが,説明の後,以前のように通過させられる。

同じ部分が北京最終草案では次のようになっている。

そのため,一方の側が公的な停止を行なうのなら,トリブナルがトリブナルに表明し,公 正な同意をなす。もし,私的な場合は,その停止の原因となる私的な個人は固く罰せられ る。・・・・・・

清側は,これまで清側の文書送付を通じた返答要求になかなかロシア側が応えなかった経緯 を踏まえて,回答を与えなかった場合の措置について付け加えた訳である。これはまさに,清 側が条約締結交渉までとってきた通商停止政策を思い起こさせるが,ロシア側が,できるだけ 停止が発動されにくくなるような方向で条文に修正を加えていることが確認できる。しかしな がら,この部分も清側最終草案は第二次草案を踏襲した文言となっており,これがキャフタ条 約条文となるのである。なお,ここで注意したいのは,この第

9

条が使節の受け入れに関する 規定である点である。すでに述べたように,隊商の入京については第

4

条で規定されているの で,ここで述べられている使節・商人の停止というのは,使節とそれに付随する小規模の商 人・商品のことであると考えられる。そのことがはっきりわかるのは,条約締結の文字通りの 最終局面になって条文に加えられた修正である。すなわち,1728年

4

月に国境へ送られてき た草案には,第

9

条前半部分にそれまで

― 1727

11

月の清側最終草案段階においてすら

存在していた使節の通商を許可する表現「もし売り買いを望むなら拒絶されない」が削除 され,かわって「商人商品を通過させられない年に来れば,使節といっしょには通過させられ ない」との文言が加えられたのである。この

4

月段階での修正について,ヴラディスラヴィチ は清側大臣に問いただしているが,清側は「このように書かないと,以前のように,いつでも

1年に 2

度も

3

度も商品のために使節がやってくる」と答えている38

。使節と称して貿易目的

でやってくる商人がネルチンスク条約以後かなりの数に上ったことはすでに指摘されており

(澁谷 1994:81),これをできるだけ排除しようとする清側の姿勢がここからうかがえる。

以上,第

9

条については,第一次草案の内容に文言を付加して作られた第二次草案にさらに 最終段階で修正を加えたものがキャフタ条約となったことが確認できる。

( 11 )第 10

10

条は越境逃亡者に関するかなり詳細な規定である。第一次草案では第

11

条に置かれ,

38 1728

4

22

日付ヴラディスラヴィチの外務参議会への報告,РКО III:237.

(17)

①越境者死刑の原則,②武器を携帯しての殺人・略奪の死刑,③殺人・略奪しないものの処 罰,④公務からの逃亡者による越境犯罪の絞首刑,⑤獣・家畜の窃盗に関する回数別の刑罰,

⑥狩猟・漁撈者の処罰,⑦証書不携帯の細民の処罰,以上

7

項目にわたる規定がある。これは ほぼそのまま第二次草案に受け継がれ,例によって末尾には「サワが言ったように」と付け加 えられている。すでに論じた第

5

条や第

9

条と同様に,この末尾の文言は北京最終草案では外 されるが,清側最終草案で復活する。なお,この清側最終案では,④の公務からの逃亡者の 絞首刑という規程について,ロシア側は絞首刑,中国側は斬首刑という形に修正がなされてい る。そして,この修正がなされたものがキャフタ条約の条文となった。野見山(1977b:94-96)

が指摘するように,清側の規程としては,④のみならず,それ以外の「死刑」とされているも のも斬刑がふさわしい。清側は,公務からの逃亡者(逃亡兵士)のみを「絞首刑」と指定する 規程の仕方が国内法と矛盾することに最終段階で気がつき修正したと考えるべきか39

( 12 )第 11

11

条は条約文の交換に関する規定である。第一次草案(第

13

条に置かれる)ではロシア 側作成のロシア文とラテン文,清側作成の満洲文とラテン文を交換する規定となっており,北 京最終草案まで基本的にこの形が維持される40

。この条文が大きく変化するのは清側最終草案

である。清側が国境へ送付した草案には,清側の条約文として,満洲文・ラテン文の他にロシ ア文が規定されていたのである。これは,北京からロシアへ向けて発送する通常の書簡形式に 則る形で,3種類の言語が用意された結果であると考えられる(澁谷

2003:61)。ロシア側は

清側作成のロシア文条約は不要であると主張したが清側は受け入れず,最終的にそのままキャ フタ条約条文となった。

 以上,条文ごとにその形成過程を見てきた。ブーラ条約の条文に基づく第

3

条を除き,全 体をまとめればおおむね次のように整理できよう。

清側作成の第二次草案とロシア側作成の北京最終草案の折衷的表現となったもの:前文。

清側作成の第二次草案がほぼそのまま北京最終草案となり,それがキャフタ条約となったも の:1条,8条。

北京最終草案を無視する形で,清側第二次草案がほぼそのままキャフタ条約となったもの:

2

条,7条。

39

野見山(1977b:94)はラテン文条約のみがこの部分を「斬首」としていると指摘するが,満洲文条

約においても,「中国人なら絞め殺す,ロシア人なら斬り殺す」と明確に区別されている。なお,ロ シアの国内法では,『会議法典』(1649年)第

7

章第

20

条に,逃亡して敵に寝返った兵士を「絞首刑」

として,それ以外の単なる「死刑」と区別する規程があるが(中沢・吉田

2005:147-148),④の規程

はこれを援用したものか。

40

第二次草案で,清側が作成する条文のうち「満洲語」が「満洲語あるいはタタール語」との表現とな

る。ラテン語の「タタール」とはこの場合「満洲」と同義であるから,これはラテン語の表現上の問 題であると言えよう。最終的なキャフタ条約条文もラテン文の条文だけがこの形になっている。

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