『人文コミュニケーション学科論集』
15, pp. 189-194. © 2013
茨城大学人文学部(人文学部紀要)−ある心身症の児童の事例から−
野口 康彦
要約
何らかの要因で子どもの心に緊張や不安、あるいは葛藤が生じると、子 どもが身体や行動によって表出する、いわゆる心身症が生じることがある。
母子関係を軸とした子どもの心理発達の視点から考えると、子どもの心身 症は自分の親の苦しみが反映されている場合がある。子どもにとって心身 症になることは、自らの身体を使って親の生き方に修正を求めるというメッ セージの一つであるとも言える。本稿では子どもの心身症の一つである抜 毛症を呈したある小学生男児の事例を検討することで、学童期における子 どもの心理発達と母子相互関係について、特に倫理規範という観点から考 察を行った。また、スクールカウンセリングにおいて、心身症を訴える児 童へのかかわり方についても若干の言及を行った。
1.問題と目的
高橋・野口(2012)は、母子関係を軸とした子どもの心理発達において、母親の内側に ある倫理規範を子どもは取り入れながら成長すると述べている。ここでいう倫理規範とは、
人々が共有している「社会の中で生きるために守るべきものの総体」であるとされており、
法律を遵守する、会社や組織などの規則を守る、人との約束を守るという法律や契約を守る ということから、困った人を助ける、嘘をつかないといった道徳面も含まれる。倫理規範の 土台となるものは幼少時に母親(あるいは母親にかわる養育者)との間の親密な情緒的交流 と愛着関係によって構築される。この母子関係を軸とした倫理規範が家庭内の生活行動の基 礎となり、やがて学校に通うようになると子どもは社会的な規範を身に着けるようになると いう。この指摘に倣えば、子どもは母親との関係を通して、人との付き合い方や社会のルー ル、善悪の判断などを学びながら、母親の考え方や価値の基準、行動の様式を自分の中に取 り込んでいくのだと言えよう。また、親の倫理規範を守るのは、子どもにとって親に従うこ とでもあり、親から護ってもらい生きることへの安心感が得られ、親からの見捨てられの恐 怖が抑圧される側面もあるだろう。
子どもの倫理規範の模範となる親の側に、自分の人生に対する不全感や子どもへの嘘や暴 力といった「心の矛盾」が大きい場合、心理発達の各段階において子どもはどのように体験 するのだろうか。高橋(2012)は反抗期の子どもの行動化は、親が教えた「心の矛盾」に 比例すると述べている。親の辛い生き方を子どもが継いでいると、子は親から自立すること が難しくなり、不登校や摂食障害、家庭内暴力などといった「心の病」を引き起こし、親の 生き方に修正を迫るというのである。一方、小学生の年代となる学童期である場合、子ども は親に従うことに疑問を持たず、彼らの倫理規範が親の側にあることから、自分が我慢して いることを客観視することは難しい。だが、子どもの抱えるストレスが大きすぎると、慢性 的な腹痛や夜尿症、抜毛といった心身症として表現される。小学校低学年から中学年程度の 子どもは、深刻なストレスを言語的な手段で直接的に訴えてくるというよりも、上述したよ うな身体的な症状で表現する点に留意する必要があるだろう。
本稿の目的は、子どもの心身症の一つである抜毛症を呈したある小学生男児の事例を検討 することで、学童期における子どもの心理発達と母子相互関係について考察を行うものであ る。また、スクールカウンセリングにおいて心身症を訴える児童へのかかわり方についても 若干の言及を行った。
2.事例の概要と経過
(1)事例の概要
生徒:A君、小学校4年生の男子生徒。
来談者(クライエント):母親、30歳代。
家族構成:40歳代の父親(単身赴任中)、母親、A君、5歳の妹との4人暮らしである。A君 の父親は、彼が小学校4年生に進級すると同時にB県に単身赴任となり、1週間か2週間に1度、
自宅に戻ってきている。
来談の経路とA君の学校生活:担任が母親にスクールカウンセラー(以後、SCとする)に 相談することを勧め、母親が同意して来談した。担任は、A君の抜毛の箇所が目立っている ことから、彼がクラスメートの男児のからかいの対象となっていることを気にしていた。担 任によると、A君は比較的な大柄な体格ではあるが大人しい性格であり、まじめで成績も良 好であるとのことだった。抜毛の痕は直径7〜8センチのものが複数あった。
母親の主訴:子どもの抜毛をやめさせたいが、どのように対応したら良いのか。
(2)事例の経過
初回面接はX年6月Y日であった。母親の発言を要約しながら、SCと母親とのやりとり を示した。以下、< >を筆者であるSCの発言とし、「 」を母親(事例の経過では
Mとする)の発言とする。なお、事例については複数の事例を組み合わせており、本質を損 なわない程度で事実関係に修正を加えてある。
予定した面接の時間通りに、Mは学校内の相談室に姿を現した。Mは丁寧に挨拶をされた 後、A君の状況についてゆっくりと話し始めた。5月の連休が終わった頃あたりから、朝起 きると腹痛を訴えて、A君は学校に行き渋るようになった。また、学校でも身体の痛みから 頻繁に保健室に足を運ぶようになった。自宅では髪の毛を引っ張る行為が見られるようにな り、皮膚科を受診した。4月から夫が単身赴任になったので、それがストレスになっている のではないかと考えた。髪の毛の抜けた痕が目立つようになり、学校でからかわれることも あるようだが、本人は怒らないようだ。髪の毛のことは、本人に悩みがあるように思えなかっ た。3日ほど前、寝る前に本人になぜ髪の毛を抜くのか聞いたところ、A君は泣きながら学 校で嫌な目にあったことを話した。子どもの抜毛をやめさたいが、どのようにしたら良いの か分からない。以前から自ら進んでMに甘えるようなところはなかった。A君には我慢して 自分でため込んでしまうようなところがある。夫が単身赴任をしたのは、4月からだった。
B県のC市に行っており、忙しいので帰ってきても子どもと接する時間が少ない。
ひとしきり話し合えた後、Mはうつむきながら「自分の不安が子どもに伝わってしまうん でしょうか」と言うので、<どんな不安がつたわりそうですか>と聞くと、5月下旬に開催 された運動会に仕事のため夫が参加することができず、子どもが残念がったことを話した。
Mによると夫は子どもを可愛がり、A君も父親が好きであるという。夫の単身赴任後、Mの 子どもへのかかわりに変化が生じ、宿題の確認など子どもを叱る回数が増え、子育てに不安 を感じることが多くなったと苦しそうに語った。SCは、Mが父親的な役割を家庭の中で担 うというしんどさにコメントし、<お父さんが単身赴任になって、お母さんが頑張っている から、僕も頑張らないといけないと、A君は思っているのではないでしょうか>と言った。
すると、Mの目からは涙が溢れだし、「ああ、それはあると思います」と答えた。そして
<彼にとって頑張ることは、嫌なことがあってもガマンすることです。髪の毛を抜くのは、
そのガマンができなくなった自分を罰することで、リセットをしているのではないでしょう か>と言うと「髪の毛は抜くなと言っていました」と言った。SCは<髪の毛を抜く行為を 気にするのは良いと思いますが、言葉にしてしまうのはガマンを続けろということですね。
お母様もご主人が単身赴任をされてから、頑張って、ガマンをされてこられたのだと思いま すよ>とMの頑張りを支持する発言をすると、Mは泣きながら「運動会の時、主人がいなく て、テントを張れなくて、暑かったのを覚えています」と答えた。SCは<苦しいことがあっ ても、お母様も我慢をされる方なのでしょうね。彼もお母さんの姿を見ているんですよ。彼 に我慢しているねと言って、疲れたら我慢しなくてもいいよと言ってあげてもいいんじゃな いでしょうか>と言うと「宿題はやるように、何時までには寝るようにときつく言うことも ありました」と子どもとのかかわりを振り返った。宿題やお風呂に入る時間を守るなど、子 どもへの指示的な言動が多くなり、子どもの気持ちを聞いてあげる時間が少なくなっていた
のではないかとMは振り返った。ここで、この日の面接は終了した。
SCの勤務の都合から、Mとの2目回の面接は3週間後となった。その面接の中で、MはA 君との日常的な会話を意識して増やしたところ、クラスメートのからかいによる傷つきなど、
今まで溜めていたことを話すようになり、A君の表情も和らいだと語った。SCが<髪の毛 を抜くことは気になりますか>と尋ねたところ、1日でびっくりするほどたくさん抜くこと はなくなり、また、抜いた痕に髪の毛が生えてきたため、抜毛の痕は目立たなくなってきた という。MはA君の抜毛について「なんで抜毛するのかわからなかった。先生(SC)から お話しを聞いてどうしてというのが分かったので、そういう意味では自分も楽になった」と 話した。そして、「ちょっとでも困ることがあれば私に話すようになった。学校に行っても、
お腹が痛いと言って帰ってくることがなくなった」と嬉しそうに語り、「前は家で早く宿題 をして、早く寝てと言っていた。この頃は、家ではゆっくりさせてあげたいと思うようになっ た」とA君に対するかかわりの変化について確認するように語った。次回の面接の希望につ いてMに聞くと、「本人の様子を見てからにします」という返事だったので、継続的な面接 は行わないことにした。また、担任にもA君の学校生活の様子を聞いたところ、保健室に行 く回数も減り、確かに抜毛の痕は目立たなくなったことでクラスメートによるからかいもな くなり、休まず登校しているということだった。
3.考察
(1)母親の我慢とA君の抜毛
事例の経過におけるSCの<お母様もご主人が単身赴任をされてから、頑張って、我慢を されてこられたのだと思いますよ>と発言したのは、夫が不在となった家庭を支えるために、
苦しい現状を母親が頑張り続けることで乗り切ろうとしていたと感じたからであった。母親 の発言の端々から、何事にも我慢強い姿勢で臨もうとする本人の人柄の一端をうかがうこと ができる。だが、一方では父親の不在を埋めるために、子どもへのかかわりが行動の指示に 焦点があてられるようになってしまい、A君にとって母親は、以前とは違う甘えにくい存在 に映っていたのかもしれない。「運動会の時、主人がいなくて、テントを張れなくて、暑かっ たのを覚えています」と言った際、母親の目からは涙が溢れた。それは夫に代わってテント を張ることができなった自らの不甲斐なさを情けなく思うゆえの涙ではない。陽に照らされ て暑い思いをしているのにもかかわらず、不平を言わずにじっと耐えていたA君の姿を思い 出し、子どもへの慈愛が溢れ出すとともに自らの苦しみが溶け出す様な感情に至ったからで あろう。
父親の突然の単身赴任により、A君も寂しさと戸惑いを感じたであろうが、同時に母親の 不安を子どもなりに受け止めようとしたのかもしれない。A君は、父親の代わりを務めよう
とする母親を助けたかったが、自分もテントを張ることができないなど、運動会での出来事 は自分の無力さを痛感する体験となった。A君の心の中には母親の倫理規範である、「苦し い現状を我慢する」ことが映し出されるが、葛藤を体験するのには心理発達が十分でないこ とから、抜毛という形式で身体化された。つまり、自分の苦しい気持ちを母親に十分に聞い てもらいたいのだが、それは母親を困らせることでもあるので何とか耐えようとするのだが、
その我慢ができなくなり、抜毛という行為で我慢ができない(良い子ではない)自分を戒め ていたのだと考える。A君にとって、抜毛は親を助けるために我慢を重ねた結果としての身 体へのしわ寄せであると言えよう。
神田橋(2006)は、「母親が子どもの体調を気にすることと、子どもが自分の体調に敏感 になることは悪循環の関係になりやすい。大事に育てられた子で体が弱いという例に、この 悪循環がみられる。他方、そうした母子では、一方の心が解き放たれると、他方の心もまた 解き放たれるという良循環の関係も生じやすい」と指摘している。この事例においても、母 親の側の緊張が解けることで、子どもの抜毛は治まっていったと思われる。
子どもにとって親から受け継いだ倫理規範は意識されることもなく、社会を生きる指針と して本人の中に取り込まれていく。だが、A君は「我慢する」という母親の生き方に矛盾を 感じてしまい、それがうまく表現できないために自分の身体を使った抜毛をすることによっ て、自分の苦しみだけではなく、母親の苦しみにも気づいて欲しかったのではないだろうか。
(2)子どもの心身症とスクールカウンセリング
心身症とは、何らかの要因で子どもの心に緊張や不安、あるいは葛藤が生じた際に、身体 や行動として表出される症状や状態のことを指している。心身症が発生する背景には遺伝的 な要因の他に、人間関係での緊張のしやすさ、過剰適応の傾向、神経質な性格傾向といった 環境による感受性の高さといったこともあげられる。小児科医の藤本(2002)は子どもの 心身症について身体症状や問題の出現の年齢による特徴という視点から、学童期と思春期に おける症状の違いを紹介している。むろん、発症には個人差があるが、学童期においては、
抜毛をはじめ、過敏性腸症候群、過換気(過呼吸)症候群などがみられるという。
事例にみるように、A君の抜毛には、自らの苦しみが身体に表出されるという体験の様式 があった。A君にとって、「我慢する」という親から受け継いだ倫理規範を守れないことは、
自分の存在への不安を生み出し、やがて親から見捨てられるのではないかという恐れとなっ ていたのではないだろうか。学童期の子どもは、母親から教わった生活・家庭内の倫理規範 とそれらの拡張形式である学校の先生が教える社会的な規範に従って生きている。学童期の 心理発達においては、倫理規範が内在化されておらず外的な規範のままである。つまり、行 動の基準が親や教師にあるのであり、親や教師の言うことを守ることができなければ、自分 の心の中に不安や恐怖、自責感が生じることになるのである。
このような心理発達の成長の途中にある学童期の子どものカウンセリングでは、子ども自
身への内的な世界に介入するよりも、親や教師といった外的な環境に働きかける方法が有効 であることが多い。学校でのカウンセリングについて神田橋(2006)は、「来談者のニーズ に沿いながら、子どもの行動がどのように変化しているのかを目安にしていくと、面接の目 的を見失わずにすむ。そして、面接の本来の目的と効果を話題にすることが、親や家族のテー マに関してもしばしば有効に作用する」と述べている。A君の事例においても、抜毛への対 応という母親の訴えと悩みに沿いながら、A君が心身症として訴えているメッセージについ て一緒に考えていくという姿勢をとった。2回目の面接で、「なんで抜毛するのかわからな かった。先生からお話しを聞いてどうしてというのが分かったので、そういう意味では自分 も楽になった」と語っているが、カウンセリングを通して得られた気づきが子どもへのかか わり方に変化を及ぼした。母親も聡明な人であったがゆえであろう。スクールカウンセリン グにおいてもカウンセラーの「傾聴」の態度は、相談者である保護者や教員の洞察を導く手 立てとして有効である。加えて、子どもの成長にカウンセラーも瞬発力をもって付き添うよ うな姿勢が必要となるであろう。
4.むすびにかえて
インターネットの普及などによる情報の高度化と競争の激化した社会に生きる子どもたち にとって、学校は自分のエネルギーを消耗する場になりやすい。親からの承認や情緒的な交 流は、彼らのエネルギーの補給源の大部分であろうが、それらをうまく得られないと、子ど もは自らの身体で苦しみを表現することもある。身体を通した子どもの心の苦しみの表現は、
自分の親との関係に帰着するものばかりではなく、現代社会の生きづらさを示すメッセージ も含まれているのかもしれない。
<文献>
かしまえりこ・神田橋條治(
2006
)スクールカウンセリングモデル100
.創元社.高橋和巳(
2010
)子は親を救うために「心の病」になる.筑摩書房.高橋和巳・野口洋一(
2013
)カウンセリングセミナー講義テキスト.HCM事務局.藤本保(