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運動研究における理論と実践の断層に関する一考察 (文献的研究)

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運動研究における理論と実践の断層に関する一考察

(文献的研究)

三 浦 忠 雄*

(1991年9月13日受理)

AStudy of the Gap between Theory and Practice in the Studies on Movement

Tadao MIURA

(Received September 13,1991)

は じ め に

スポーツ専門誌での特集記事Dや,中村2)浅見3)等の指摘を待つまでもなく,スポーッに関する 科学的研究が進む中で,その科学的研究により得られた成果と,実際の運動実践との結びつきや,

科学的知見の運動実践への有効性が今日改めて問われていると言えるだろう。

高松4)は,「東京オリンピックから20数年が経過したが国民的にスポーツの隆盛の割には,国 際舞台での日本の競技スポーツの成績は,一部の種目を除けば低迷状態にあると言え,一方,運動 諸科学は近年著しく進歩し,欧米諸国に勝る成果をあげるようになってきた(筆者注:特に,スポ 一ツ施設,用具,スポーッウエアー,薬物検査技術など)。この両者のギャップを一口で述べるこ       ,

ニは難しい」と指摘する。更に,「最近のハイテクノロジーを駆使しての科学的研究の進歩は確か に目覚ましいが,しかし研究内容が高度になればなるほど,専門化・細分化は進むので,そこから 得られた知見は,隣接分野の人はもとより,同じ分野の人でさえも理解は難しくなるという状況を つくってしまう。ましてや,運動科学のように人文・社会・自然系のあらゆる学問を含み,また基 礎から応用・実践までのあらゆる学問を含んでいるとなればなおさらのことである司と言う。

浅見3)は,科学的知見をめぐっての研究者サイドと,選手・コーチサイドの立場の断層を強く指 摘しているが,肝心なことは,両者が持つことができる,共通の,具体的な運動実践に必要な知見

とはどういうものかを考えることであろう。

トレーニング論の村木5)は,「実際のトレーニングにおいて,個々のトレーニング課題に対応し ているはずの,目標となる運動達成の為の諸要素は,実在的な事物ではなく,理論的で抽象的な存 在に過ぎない場合が多く,スポーツ科学で対象になる運動の,部分的で,要素的,定量的なトレー ニング課題は,一面的で,実践から遊離した『運動不在』になりやすい」と指摘し,「何故なら,

*茨城大学教育学部保健体育講座体育方法学研究室(〒310 茨城県水戸市文京2丁目1−1).

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146       茨城大学教育学部紀要(教育科学)41号(1992)

本質的な運動課題は,『運動自体』に内在し,本来,不可分で全体的な運動特徴として,他の運動 との関係で現われる,相対的な存在だからである」としている。村木によると,スポーッ運動自体 が,多面的で,統一的全人的な活動であるので,一面的な,要素的体力を取り出しての筋力強化ト レーニングは,決して合理的なトレーニングとは言えず,これからは,実践的体験を前提とした理 論の確立を主張している。

スポーツと科学について言及した中村6)は,「現代の科学は,デカルト以来の還元主義的西洋文 化の影響が強すぎると考えられ,スポーツが科学を求める時も,その合理的な思考あるいは分析的

な理解の陰で,多種多様な文化が入りまじって,包括的,直観的,協力的な様相を呈するスポーッ のひとつの側面を切り捨てているのではないか」と,この分野の研究の複合化や総合性に目を向け ることを促している。

フエッッ(Fetz,F.)が,運動学(Bewegungslehre)の先駆的研究となった著書7)の巻頭に,ボ ルッマン(Bolzmann,L.) 8)の言を引用して,「すぐれた理論とは,より実践的なもの以外何もの でもない」と述べているのは,今日におけるスポーツ科学の状況を鋭く指摘していて印象深い。

はたして,今日何故,運動研究やスポーツ科学は,実践から遊離していると指摘されるのか。科 学的研究の名のもとに行なわれた研究が,なかなか実践に結びつかないのは何故なのか。スポーッ 科学において運動の研究とはどういうものであるべきなのか,改めて疑問を感ぜざるを得ない。

新しく改正された教員職員免許法においても,保健体育の専門教育科目で「運動学」が必修科目 として加えられたが,この「運動学」は,それぞれの教員養成現場においては,さまざまな学系に 受けとられているのが現状のようである。かつて,日本の体操競技の理論的指導者であり,日本に おける運動学(Bewegungslehre)9)の先駆的研究者である金子1°)は,「本来的に,運動の科学は,

人間の行なうスポーツ運動の科学であり,その成果は常に実践において批判されるべきで,一体,

実践の場には,どんな運動問題が潜んでいるのか,何が障害になって成果が上がらないのかなど,

運動そのものの本質に迫っていく努力なしには運動の科学は,いつも実践のわきを素通りしていく だけになってしまう」と強く指摘している。

本研究は,ヨーロッパでおこってきた人間学的運動学の成立をふまえ,運動の研究のあり方と,

理論と実践の断層について考察するものである。

運動の科学について

(1)自然科学に傾斜した運動研究の歴史

いくつもの研究実例でもわかるように,人間の最も複雑で,興味ある現象のひとつである身体運 動は,多くの学者の関心を引きつけてきた11)。しかし,われわれは,どのように運動を捉え,見よ

うとしてきたのであろうか。

マイネル(Me量nel,K.)12)は,レーニンの言を引用する。「われわれは運動というものを,その

連続性を断ち切ることなく,単純化もしないで,大ざっぱにでもなく,小間切れにもしないで,生

命あるものを損うことなく心に描き出すこともできなければ,また,それを表現し,計測し,描写

することもできはしない。思考というものを通して,運動を描写することは,常に大ざっぱであり,

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抑圧されてしまうのである」。マイネルが言わんとするところは,今日に至るまで未解決のまま残 されている,生命ある運動の本質が,いったい分析科学的研究によって,どれ程把握できるかとい うことである。

ハイテク技術を駆使した実験器械器具の開発と併行して,身体運動の力学的,生理学的,心理学 的なディシプリンの発達はめざましいものがあるが,マイネルの言うように,人間の運動は物理的 運動とちがって,「生命ある運動(vitale Bewegung)」であり,それを一つの領域や専門学から把握 するには,あまりにも複雑な対象であると考えることが,まず大切なスタンスではないだろうか13)。

マイネル14)は,人間の生命ある運動というものは,厳密な科学的研究にするのにはきわめてむずか しい複雑な対象であり,それは解剖学・牛理学的研究,数学・物理学・力学的研究,心理学・性格 学的研究,また歴史的・社会的研究が交錯している境界領域と捉えている。

これに対して日本の体育界では,運動に関する研究では,アメリカから導入された,解剖・生理,

力学的な研究を主体とした「キネシオロジー(Kinesiology)」に関心がもたれるようになり,それ に「運動学」ないし「身体運動学」の名辞を当ててきた経緯をもつ15)。国際的にみても,アメリカ 系のKinesiologyの他にも,ドイツ系のBewegungslehre,ソ連や東独などでいわゆるBiomechanik,

またKinematics l6), Kinetics 16), Biodynamics 17), BewegungsmecLanik 18)などと名辞される類縁的

領域を含めて,運動の科学にはさまざまな系統が考えられてきたのだが,日本のスポーッ科学は,

一貫して強い自然科学志向をもっていたので,運動に関する研究も,強くKinesiologyに傾注して いったのである。

 キネシオロジーでいう運動の科学の「科学」は,自然科学系の学問であって,そのなかでも力学,       し解剖学,生理学の3つの分野に立脚していた。とりわけ力学との関係は密接であった。岸野18)によ

ると,「特に古いBewegungslehreの場合は,ドイッの辞典類でも物理学の術語と考えられ力学と同 義語とさえ解されていたくらいである。われわれの教科書的知識からすれば,運動学の科学性は物 理的な運動法則と結びついていると言える。ある意味でこれは一般常識と思われても当然のことか もしれない。KinesiologyやBiomechanicsの文献には,重力・慣性,摩擦,抵抗,弾性,衝撃などの 術語が多く用いられている。こうなると,運動学はどうみても物理学の研究領域である。いな人間 の身体運動を物体運動に抽象して考察する『運動の科学』を,むしろ物理学とみている人も多いの

である」。

日本では,1958年頃から日本体育学会でもキネシオロジーについて検討が始まった。それ以前で も身体動作の研究というと,物理的な要因との関係を調べる研究が多かったのだが,その頃は,運 動力学あるいは運動学というよりは, 「体育物理学」または「体育力学」と称していた。その後

「運動力学」,「身体運動学」と標題を掲げる著作が発刊されるようになってきた19)。他方,身体運 動について,心理学や生理学などの領域にとどまった一般論的知識だけではなくて,運動技術の指 導をうらづけてくれる「総合的な理論」が必要という声があがり,それらのことを解決してくれる ある種の期待を,キネシオロジーの研究に求めたのであるヨ9)。

日本体育学会では,キネシオロジーは,生理・解剖,物理(心理)などの基礎学問をよりどころ にして,身体運動を研究する科学である,と結論された。そして,身体運動には,ボールやバット の動きも含まれて研究されるのである19)。

そこでは,人体は大変複雑にできてはいるが,力学的生物学的法則と原理に支配されている,と

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考えるのが基本的スタンスである2°)。

しかし,Kinesiologyでも, Bewegungslehreでも,初期の単純な「運動の科学」または,いくつ かの科学の混在状態から次第に有機化・体系化の傾向が出てきた。たとえば,共産圏でキネシオロ ジーと同義に解される生力学(Biomechanik)でも,ソ連のドンスコイ(Donskoi, D.D.)などは,

生力学はできるだけ合目的的な運動を研究するために,解剖学的・生理学的・力学的運動分析を試 みる「包括的領域」と考えていたし,アメリカのクーパー(Cooper,J.M.)なども,キネシオロジ 一は,運動に関連した知識を有機的に体系化した科学であるとして,その統一的観点を強調してい る21)。また人間の運動をみる時,行動論的にとらえれば,運動の意味系や価値系との深い関わりあ い22)を無視しては考えられず,人文・社会学系学問をも含めた,「より広い総合性」を考えていく のは当然の要請となってきた。

アメリカで,キネシオロジーが「総合的な運動の科学」を表明しながら,実際には,一部の自然 科学にとどまっている事実が問題になったり,運動学習に関連して心理学の参与が注意されるよう

になったのも,このような傾向を反映してのことである23)。

(2)自然科学的・分析的研究の見直し

20世紀になったからの研究では,徐々にではあるが,有機体の統一性や全体性といった根本問題 が注目されはじめてきた24)。マイネルは25),運動研究の歴史について触れて,一般に,心身二元論 の考え方を基にして,人間の運動を身体的側面から自然科学的方法によって厳密に捉えようとして きたが,20世紀に入ると,物理学的・力学的研究の一面性と不備について,研究者が意識しだした。

その代表的なものに,マイネルは,シュタインハウゼン(Steinhausen, W.)の「人体機構学」の 研究と,バエヤー(Baeyer, H.)の「リンク連鎖理論」の研究をあげている。旧来の生理学的・力 学的運動分析は,走ったり,跳んだりなどの全身運動における個々の関節や筋肉の複雑な協同運動

を,近似的にでも適切に説明するには,まだ十分でないことははっきりと認識されていた。しかし バエヤーは,「もはや問題は,個々の筋ないし関節の運動ではなくて,身体部分の協力の仕方なの であり,………すなわち,連鎖の分析,運動器の連鎖の仕方なのである」との基本的立場から,身 体の運動を,機能的な連鎖の形づくりから捉えようとした。この連鎖理論の意味における機械論的 運動分析は,自然科学的運動研究のなかで,人間の運動の機能的考察法の方向ヘー歩踏み出したと いえるものである。バエヤーは,「もはや分解や個々の部分の考察で甘んじる必要はなく,さまざ まな種類の結びつきを追求すべきである」と主張した。

シュタインハウゼンは,生理学的・力学的運動研究の不備に関連して, 「静止や運動における,

広範な人体の機構学には,意識の機序さえも属する」という立場から,生体の機構学に心理学(こ の場合,全体性心理学あるいはゲシュタルト心理学)の参与を考えた。心身二元論について論及す るのが本論の役目ではないが,人間の運動の全体性,総合性に目を開けばこの問題は避けて通れな い。すなわち,二元論的立場に立てば,生命ある運動をまず純粋な物質過程として捉え,空間と時 問における物理学的位置変化そのものとして扱い,さらに欠落している側面,すなわち,意識現象 を補足的につけ足せる,と信じてしまうのである26)。

マイネルは,ピッケンハイン(Picenhain, L.)の言を引用して,「『精神と身体』や『人間の有

機体における主観的・客観的生起のあいだの連関問題に取り組む』のに多くの生理学者が一種の躊

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躇をもっていることを一般に確認している。というより,生理学者たちは,ほとんどこの問題圏を 心理学に属すると考えているのである司

主観的な心理学的な生起を,生理学的研究に取り込んだ,代表的な研究は,ワッハホルダー(Wa一 cLholder, K.)の随意運動の研究である27)。ワッハホルダーによると,「随意姿勢や随意運動の協 調に関する研究は,たとえば,意志行為,運動意図,運動投企の有効性を,また同時に客観的生起 が主観的生起に機能的に依存することをどうしても問題にせざるをえない」のである。彼は,随意 運動は,随意な衝動によって細部に至るまで規定されている統一的全体であるとし,全ての随意運 動は,むしろ環界との積極的な対峠から結果されるのであり,この対峠の中で形成されるのである と考えた。日常生活やスポーッに現われる随意運動も細部にわたるまで中枢のインパルスによって 規定されているのではなく,解決されるべき課題によって,その時々の目的によって,またその時 々の環界の諸条件によって規定されているのであり,それらのもとで随意運動は遂行されると考え たのである。

マイネルによれば28),ワッハホルダーの研究が意味しているものは,純粋な生理学的・力学的考 察法から,多角的な,しかも人間の運動の現実性にさらによく対応する運動研究というものに歩を すすめた,ということである。

人間の運動を現実世界の実践問題として捉え,その解決を迫られると,いったい生命ある運動と は何であるのかと,その本質に向かって問い直さざるをえなくなる。それまでのように,数学的・

物理学的に説明できるかどうかにだけ関心がもたれるのではなく,現実の人間の生命ある運動に直 接に対峠し,その形相的記述に立ち向かうことが要求されてくるのである29)。運動研究のなかに

「主体概念」を導入し,物体としての人体の運動ではなく,価値と意味の関連系をもつ「自己運動

(Selbstbewegung)」としての人間の運動を認識してこそ,はじめて運動の科学は成立するとした のがバイテンディク(Buytendijk, F.J.J.)である3°}。

バイテンデイクによると31),「主体なる概念は,意識の概念よりさらに包括的である。主体とは,

われわれにとって理解可能な意味に対する感受性の根拠として,直観のうちに与えられる存在様式 である。何かあるものが動物にとって食物,目標,危険,同朋といった意味を持つことが確認され た場合,その動物はすでに『直観された主体性』としてわれわれに示されるのである。そのような さまざまの意味を持つものが動物主体にとって存在することは,動物の行動の観察を通じてのみわ かることであるが,他方その行動は,運動や体姿を中枢神経系の過程と関連した一定数の筋攣縮と 考えるのではなく,情況に向う行為(Akt)として,つまり体験された意味と志向された行為の表現

。として捉える場合にはじめて理解されるものである司

動物や人間は有機体であるといっても,単に生きているのみでなく,同時にまた実存する。つま り,環境に対して何らかの関わり方を,主体的につくり出すのである。

「しかし人間は動物とは異なり,単に情況の意味関連のうちに組み込まれているだけではなくて,

情況にも対峠してもいる司「人間は意味の意味,現象するものの存在,事物の形象(Gestalt)を認 識することができ,この認識こそ動物に与えられていない達成(Leistung)を根拠づけるものであ

る32)司「動物は知覚と運動との一義的統一のうちに生きている。例えば,動物も人間もともに足を

滑らせたときには,足下が滑らかで危険だということを感じるのであるが,人間はそれと同時にそ

の滑らかさのもつ事実的なもの,客観的なものを感じとり,それによって『思考のきっかけ』を与

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えられる。人間は自分が滑ったという事実に対して,経験,判断,計画,同朋,評価といったもの と多様な関連をもった,さまざまな意味を与えることができるのである。行為する人間は,多くの 関連系(Bezugssystem)によって呼び起こされ,なさんと欲すること,なさねばならぬこと,なす ことを許されたこと,なすべき責務のあること,なすかもしれぬことといったものを選択し,決断

しなければならない33固

人間の行為も確かにさしあたり動物の行為と同じく,さまざまの意味体系(情況)に関連しては いるが,同様に価値体系とも関わりをもっている。ここのところが,人間と動物の運動を見る際の 大きな相違点であり,動物の運動を単純には人間の運動の模範にはできないのである。動物は人間 より速く走れても,隣のコースの選手の変化に対応しながら競走したり,別の仕事の為に助走して 踏み切ったり,広いグランドで戦況の展開を予想してボールや選手を追走することはできない。そ れゆえに,バイテンデイクは,人間の行為は「達成(Leistung)」だと言うのである糾}。

マイネルの解説では35)は,「主体は何かを知覚し,行為し,あるいは表わすものである。この主 体がなくては,人間の運動に対する洞察はけっして存在しないし,それゆえに運動学もけっして成 立はしない。というのは,主体は『自分のからだを動かして』意のままにするし,『あらゆる運動 の基盤』であり,また『知覚された運動の原因』として現出する司

       ●  ○   ■  ●      ●

l間は自分が何を為し,なにを知覚しているかを知っている,のである36)。

生命ある自己運動(バイテンデイグやヴァイゼッカー37)の意味において)の問題は,主として精 神病理学者,整形外科医,あるいは比較心理学者などによって,現実の切実な関心として浮き彫り にされ,脳髄損傷者や肢体切断者の運動問題,さらに動物と人間の運動の比較研究などのなかで取 り上げられてきたが,この現象学的,人間学的地平からの運動への問いかけは,特にヨーロッパの 運動の科学に強い影響を与えたが,その後のスポーツ科学の領域においては,バイテンデイク等の 学問構築の真意が十分に汲み取れず,実践との断層をひろげてしまうことになるのである錫)。特に 日本においては,自然科学的・分析的な運動研究に強く傾斜してしまい,バイテンデイクの運動モ ルフォロギー(Morphologie der Bewegung)の研究に大きな関心を寄せて,実践に密着した運動 問題に果敢に取り組んだ,マイネルの「Bewegungslehre」が,翻訳出版されたのは,21年後の1981

年であった39,。

(3)実践に密着した運動の科学を求めて

今日,さまざまな分野で,要素分析的な近代自然科学とは別の次元で,生命ある人間の行為や運 動にとって有意味な知の獲得についての学問的追求がすすめられてきていると言えるだろうという 佐藤の指摘4°)には同感である。

中村は4D,「科学の知は,事物を対象化し操作する方向で,因果律に即して成り立っている。そ して,そこでは,見るものと見られるものとは否応なしに分裂し,そこに冷ややかな対立がもたら される」と言う。それに対して,中村の提唱する「パトスの知」は,受動,受苦,痛み,病いなど 人間の弱さの自覚の上に立つ知ともいうべきものであって,環境や世界がわれわれに示すものを,

いわば読みとり,意味づける方向で成り立っている。それは,われわれのまわりにあるすべての物

事の兆候,徴し,表現について,それらのうちにひそむ重層的な意味を問い,事態の変化に対応し

ようというものである。言い換えれば,科学の知が冷ややかなまなざしの,視覚の知であるのに対

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して,パトスの知は身体的・体性感覚的な知であるということができる42)。中村の言うところは,

近代科学の知一物理学をモデルとした知一がその正しさを,論理的に証明してみせることがで きるのに対して,同じように証明できないが,確かに存在する感覚的な知を認めているのである。

機械論的な身体観では,物体そのものとして身体は対象(見られるもの)の側に入れられ,もっ ばら見られる対象として扱われる。医者の立場がそうであるが,われわれ一人一人も,自分の身体 をそのような「もの」として見るまなざしを知らず知らずに身につけてしまう。しかしわれわれは 自分の身体を意識していなくとも,自分の身体を生きている。われわれは身体を持つのではなく,

身体を主体となし,身体そのものとして生きているのである43)。

運動の研究でも,自然科学的研究として「客観性」を維持しようとするなら,人間の運動から主 体を切り離す前提を持たなければならないのは必然である。金子44)によると,「科学は,再現可能 な対象のみを研究するという前提をもつので,再現可能な運動として特定するために,モデル化を するか,あるいは同一性を保証する抽象レベルに限定せざるをえなくなる。その時に,現実の生命 ある運動は抽象の世界におきかえられ,人間の運動は物体としての人体運動に変容してしまうこと になる司特に,運動実践の面で重大なことは,個人毎の人間的経験というべき領域の体験や認識は,

実験的に繰り返し証明することができないという理由から,科学から切り捨てられてしまうのであ

る45)。

マイネル46)は,運動者の運動(Bewegung)というものは,ある具体的な情況のなかで,一定の 競技規則のもとで,固有なある目標設定とともに,ある一定の競技者の運動として,具体的にのみ 存在し,完全に同一な2つの運動経過は存在しないという,「スポーツ運動系の個別性の原理」を 主張する。金子のいう「スポーツ運動の一回性の特性」である47}。どんなに客観性を求めようとし ても,環界との全面的な対峠関係のなかで現われた運動の変化は,時間経過のなかに消失してゆき 二度と同じ運動は再現できないのである。

運動を映像に捉えて再現しようとするのが一般的な科学的方法であるが,果たしてそこで得られ た「運動像」は本来の運動なのであろうか。ベルクソン48)は,「映画のやり方は,要するに,あら ゆる人物に固有なすべての運動から,非個人的,抽象的,かつ単純な運動,いわば運動一般をぬき 出して,これを映写装置の中に入れ,この無名の運動と個人的な姿勢とを合成することによって,

個々の特殊な運動の個別性を再構成することにある。これが映画の巧みなやり方である」と言い,

「科学は,時間と運動からまず本質的で質的な要素一時間からは持続,運動体からは運動一を 除き去るという条件においてのみ,時間と運動を操作するのである」と指摘している49)。

われわれは,1コマ・1コマに運動する人体の形をとらえたのであって,「運動そのもの」をと らえたのではない。ベルクソン5°)は,「物体はたえず形を変える,あるいはむしろ形というものは 存在しない。というのは,形は動かぬものであり,実在は運動だからである。実在的なものは,形 の連続的変化である。形は移行をスナップ・ショットしたものにすぎない」とし,あらゆる運動は,

一つの休止からもう一つの休止への移行であるかぎり,絶対に分割不能である51)。と主張する。

スローモーションで画面上に運動を再現する方法もよくとられるが,これに対して,バイテンデ イクは52),これは大切な運動リズムの統一性を崩壊してしまうと注意を促している。スローモーシ ヨン画面で得られた情報を,実際の運動実践にあてはめていくことは,相当の注意が必要である。

運動を「もの」として見てはならないのである。

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152       茨城大学教育学部紀要(教育科学)41号(1992)

運動研究が,最終的に主体へ還元されるべきであるという考え方が最も顕著に現われるのが「運 動学習(Bewegungslernen)の問題である53)。ここでは,感覚運動性の学習(senso−motorisches 1.ernen)が前景に立てられ,人間の運動行為における感覚・知覚と運動とのかかわりを軸として,

運動の発生,修正・分化,自動化が問題にされる領域であり,この意味での運動学習の理論は,人 間学的運動学に基づいたバイテンディグによって構築されていると言えるのである。

主体の中で何が行なわれたかの検討もせず,単に表面上に表われたもので客観性を維持しようと することは,もはや人間を扱う学問領域ではなくなってしまう55)。

まとめにかえて

わが国の運動やスポーツに関する研究・教育体制で不備だと思われる点は,「体育運動の一般運 動学(allgemeine Bewegungslehre der Leibes曲ungen)」が構築されていないということである。

その原因は,わが国には,ヨーロッパでみられるようなL般体育運動方法学(allgemeine meth一 odik der Leibes曲ungen)」 さえも確立されておらず,スポーツ種目毎の個別の運動方法学が独自

に,というより他の種目の個別運動方法学とは絶縁的に研究が進められ,共通の討議の場が持てな いという現状がある56)。また,個別の運動種目の方法学が,例えば,陸上競技運動学や舞踊運動学 などの名称を持つこともあり,ObungslehreとBewegungslehreの認識さえもたっていない現状をみ ると,混迷の感を禁じえない。このような状況では,スポーッ種目を越えた,共通の運動理論や運 動研究を望むことは,ほとんど不可能に近い。

体育運動の一般運動学やスポーツ運動学(マイネルの意味のBewegungslehre des Sports)は,

それらの方法学の一般理論にも,個別運動種目の理論にも不可欠の基礎認識を提供するものと期待 されている57)。しかしわが国では,方法学(Methodik)を「運動学」という表わし方をして,運動 学(Bewegungslehre)の立場を曖昧なままにしている。「運動」の学とは何なのか,そこに立ち入

るには,まず,「運動」という日本語のもつ両義性の問題58)に踏み込まなければならない。

フエッツは,体育運動の一般運動学における重要な問題圏を次のようにまとめている59)。

1.運動研究の基礎としての体育運動の体系の確立。

2.人間の運動系(体育運動と関係のある)の一般的法則性と原理の研究。

そして成果の期待できる諸理論の中にそれらを統合すること。

3.運動系特質(motorische Eigenschaften)ならびに

運動特質(Bewegungseigenschaften)と運動徴表(Bewegungsmerkmale)の研究

4.体育運動の方法学の基礎として,運動の補償(AusgleicL),形成(Formung),達成(Lei一 stung)のための最良の条件,可能性,限界の研究に力点を持った,運動系の学習過程の研 究

5.効果的な体育の前提としての人間の運動に関わる発達の研究と,それらを可能なモデルの 中に表わすこと。

6.運動系の類型学

運動学の科学性は,スポーツ運動経過の客観的法則性を正しく反映させ,かつスポーッの実践を

(9)

より高い段階に引き上げることができるということによって実証されなければならない60)。その為 には,スポーツ指導者が,運動実践の現場で,運動研究者として活動することが大切で,そのこと が理論と実践との間の断層を埋める最大の可能性ということができる。

1) 『コーチング・クリニック』 5−1(1991)pp.4−27.

2)中村好男「スポーツと科学の断章」 『月刊トレーニング・ジャーナル』11−2(1989)pp.74−76.

3)浅見俊雄「実践に生かすスポーツ医・科学」 『体育科教育』36−9(1988)pp.9−13.

4)高松薫「運動科学における理論と実践の断層を埋める一つのカギ」『スポーツ運動学研究』1(1988)

P.10.

5)村木征人「スポーツ科学(理論)での分析的断片化とスポーツ実践での総合的全体化」 『スポーツ運動 学研究』1(1988)pp.112−114.

6)中村好男「スポーツが科学を求めるとき」 『月刊トレーニング・ジャーナル』11−8(1989)p.20.

7)F,Fetz. B8w88槻g∫励r848r Lε∫ わ既8εη(Frankfurt/Main:Wilhelm Limpert−Verlag,1972)

金子明友・朝岡正雄訳『フェッツ体育運動学』 (不昧堂出版,1979)として翻訳,出版されている。

8)Ludwig Boltzmann(1844−1906)

9)1920年代以降になってヨーロッパで台頭した新しい人間学の立場から,人間の運動を包括的に研究する学 領域。この人間運動学を体育・スポーツの領域に応用したのが体育運動学もしくはスポーツ運動学である。

(資料・朝岡正雄)

10)金子明友「運動の科学をめぐる諸問題」 『体育科教育』32−2(1984)p.13.

11)C.R.Jensen,G.W.Sehulty,波多野義郎・小林義雄訳『スポーツ動作の科学的分析』 (泰流社,1977)p.2.

12)K.Meinel,金子明友訳『マイネル・スポーツ運動学』 (大修館書店,1981)p.61.

13)岸野雄三「身体運動の科学と学際研究の問題」 『体育科教育』22−7(1974)p.10.

14)K.Meinel,前掲書, p.61.

15)朝岡正雄「ドイツにおけるスポーツ運動学の現状」 『スポーッ運動学研究』3(1990)p.63.

16)前川峯雄・猪狩道夫・笠井恵雄『現代体育学研究法』 (大修館書店,1978)pp.121−127.

人間の運動は,それが運動であるかぎり,物理学どいう動力学(dynamics)にもとついた観察が必要で,

dynamicsはKinematicsとKineticsに分けられる。前者は力という概念からはなれて,動きそのものを追求し,

後者は動きを,その原因である力との関連から追求する(p.121.).

17)永田 晟編『からだ・運動の科学一バイオメカニクス入門一(朝倉書店,1987)p.3.

18)岸野雄三「運動学の対象と研究領域」 『序説運動学』 (大修館書店,1968)pp.8−9.

19)前川峯雄他,文献16),p.57.

20)C.R.Jensen他,文献11), p.1.

21)岸野雄三,文献18),p.10.

22)金子明友,文献10),p.13.

23)岸野雄三,文献18),p.11.

24)岸野雄三「体育・スポーツの科学的研究の歴史的概観」 『現代体育・スポーツ大系』

(講談社,1983)p.132.

25)K.Meine1,前掲書, p.66.

「リンク連鎖理論」とは,例えば,前腕や上肢を一種のリンクと考え,関節部で連絡されているとして,リ

(10)

154       茨城大学教育学部紀要(教育科学)41号(1992)

ンク装置と同じ理論で,人間のいろいろな種類の運動を解明しようとしたもの(資料:金子明友)

26)同書,P.68.

27)同書,P.68.

28)同書,P.69.

29)金子明友,文献10)p.11.

30)同書,P.12.

31)F.J.J.Buytendilk,浜中淑彦訳『人間と動物』 (みすず書房,1970)p.36.

32)同書,P.78.

33)同書,P.79.

34)同書,P。79.

35)K.Meine1,前掲書, p.72.

36)F.J.J.Buytendijk,文献31), p.82.

37)V.V.Weizsacker,運動と知覚の一一元論を構築し,それをゲシュタルトクライスと名づけ,人間の運動研究 にはじめて主体性の原理を導入した。

日本では,木村敏・浜中淑彦訳『ゲシュタルトクライス』(みすず書房,1975)が出版されている。

38)金子明友,文献10),p.12.

39)Kurt Meinelの初版は1960年であり,それを翻訳出版したのが,金子明友訳『マイネル・スポーツ運動学』

(大修館書店,1981)であるが,Meinelの1973年没後Giinter Schnabelを中心とする複数の著者によって,

全面改訂(1975年)された。その改訂版は,萩原仁・綿引晴美訳『動作学』上・下巻(新体育社,1980)と して翻訳出版されている。

40)佐藤 徹「スポーッ運動の類型的把握の内的構造」 『スポーッ運動学研究』4(1991)(印刷中).

41)中村雄二郎『術語集』 (岩波書店,1990)p.187.

42)同書,P.188.

43)中村雄二郎『哲学の現在』 (岩波書店,1990)pp.96−98.

44)金子明友「スポーツ科学における運動研究の地平」 『運動学講義』 (大修館書店,1990)pp.4−5.

45)朝岡正雄,文献15),p.66.

46)K.Meine1前掲書, p.146,

47)金子明友「運動学からみたスポーツ」 『スポーツの科学的原理』 (大修館書店,1977)p.289.

48)市川 浩『ベルクソン』 (講談社,1991)pp.291−292.

49)同書,P.126.

50)同書,PP.290−291.

51)同書,P.212.

52)F.J.J.Buytendijk,文献31), p.32.

53)金子一秀「運動修正における知覚の構造化」 『スポーッ運動学研究』3(1990)p.4.

54)金子明友「体育学習のスポーツ運動学的視座」 『体育・保健科教育論』 (東信堂,1988)p.58.

55)金子一秀,前掲書,p.4.

56)金子明友,文献47),p.272.

57)同書,P.273.

       、

T8)同書,pp.269−271。に詳細に述べられている 59)F.Fetz.前掲書, pp.58−59.

60)K.Meinel前掲書, p.88.

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