運動研究における理論と実践の断層に関する一考察
(文献的研究)
三 浦 忠 雄*
(1991年9月13日受理)
AStudy of the Gap between Theory and Practice in the Studies on Movement
Tadao MIURA
(Received September 13,1991)
は じ め に
スポーツ専門誌での特集記事Dや,中村2)浅見3)等の指摘を待つまでもなく,スポーッに関する 科学的研究が進む中で,その科学的研究により得られた成果と,実際の運動実践との結びつきや,
科学的知見の運動実践への有効性が今日改めて問われていると言えるだろう。
高松4)は,「東京オリンピックから20数年が経過したが国民的にスポーツの隆盛の割には,国 際舞台での日本の競技スポーツの成績は,一部の種目を除けば低迷状態にあると言え,一方,運動 諸科学は近年著しく進歩し,欧米諸国に勝る成果をあげるようになってきた(筆者注:特に,スポ 一ツ施設,用具,スポーッウエアー,薬物検査技術など)。この両者のギャップを一口で述べるこ ,
ニは難しい」と指摘する。更に,「最近のハイテクノロジーを駆使しての科学的研究の進歩は確か に目覚ましいが,しかし研究内容が高度になればなるほど,専門化・細分化は進むので,そこから 得られた知見は,隣接分野の人はもとより,同じ分野の人でさえも理解は難しくなるという状況を つくってしまう。ましてや,運動科学のように人文・社会・自然系のあらゆる学問を含み,また基 礎から応用・実践までのあらゆる学問を含んでいるとなればなおさらのことである司と言う。
浅見3)は,科学的知見をめぐっての研究者サイドと,選手・コーチサイドの立場の断層を強く指 摘しているが,肝心なことは,両者が持つことができる,共通の,具体的な運動実践に必要な知見
とはどういうものかを考えることであろう。
トレーニング論の村木5)は,「実際のトレーニングにおいて,個々のトレーニング課題に対応し ているはずの,目標となる運動達成の為の諸要素は,実在的な事物ではなく,理論的で抽象的な存 在に過ぎない場合が多く,スポーツ科学で対象になる運動の,部分的で,要素的,定量的なトレー ニング課題は,一面的で,実践から遊離した『運動不在』になりやすい」と指摘し,「何故なら,
*茨城大学教育学部保健体育講座体育方法学研究室(〒310 茨城県水戸市文京2丁目1−1).
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本質的な運動課題は,『運動自体』に内在し,本来,不可分で全体的な運動特徴として,他の運動 との関係で現われる,相対的な存在だからである」としている。村木によると,スポーッ運動自体 が,多面的で,統一的全人的な活動であるので,一面的な,要素的体力を取り出しての筋力強化ト レーニングは,決して合理的なトレーニングとは言えず,これからは,実践的体験を前提とした理 論の確立を主張している。
スポーツと科学について言及した中村6)は,「現代の科学は,デカルト以来の還元主義的西洋文 化の影響が強すぎると考えられ,スポーツが科学を求める時も,その合理的な思考あるいは分析的
な理解の陰で,多種多様な文化が入りまじって,包括的,直観的,協力的な様相を呈するスポーッ のひとつの側面を切り捨てているのではないか」と,この分野の研究の複合化や総合性に目を向け ることを促している。
フエッッ(Fetz,F.)が,運動学(Bewegungslehre)の先駆的研究となった著書7)の巻頭に,ボ ルッマン(Bolzmann,L.) 8)の言を引用して,「すぐれた理論とは,より実践的なもの以外何もの でもない」と述べているのは,今日におけるスポーツ科学の状況を鋭く指摘していて印象深い。
はたして,今日何故,運動研究やスポーツ科学は,実践から遊離していると指摘されるのか。科 学的研究の名のもとに行なわれた研究が,なかなか実践に結びつかないのは何故なのか。スポーッ 科学において運動の研究とはどういうものであるべきなのか,改めて疑問を感ぜざるを得ない。
新しく改正された教員職員免許法においても,保健体育の専門教育科目で「運動学」が必修科目 として加えられたが,この「運動学」は,それぞれの教員養成現場においては,さまざまな学系に 受けとられているのが現状のようである。かつて,日本の体操競技の理論的指導者であり,日本に おける運動学(Bewegungslehre)9)の先駆的研究者である金子1°)は,「本来的に,運動の科学は,
人間の行なうスポーツ運動の科学であり,その成果は常に実践において批判されるべきで,一体,
実践の場には,どんな運動問題が潜んでいるのか,何が障害になって成果が上がらないのかなど,
運動そのものの本質に迫っていく努力なしには運動の科学は,いつも実践のわきを素通りしていく だけになってしまう」と強く指摘している。
本研究は,ヨーロッパでおこってきた人間学的運動学の成立をふまえ,運動の研究のあり方と,
理論と実践の断層について考察するものである。
運動の科学について
(1)自然科学に傾斜した運動研究の歴史
いくつもの研究実例でもわかるように,人間の最も複雑で,興味ある現象のひとつである身体運 動は,多くの学者の関心を引きつけてきた11)。しかし,われわれは,どのように運動を捉え,見よ
うとしてきたのであろうか。
マイネル(Me量nel,K.)12)は,レーニンの言を引用する。「われわれは運動というものを,その
連続性を断ち切ることなく,単純化もしないで,大ざっぱにでもなく,小間切れにもしないで,生
命あるものを損うことなく心に描き出すこともできなければ,また,それを表現し,計測し,描写
することもできはしない。思考というものを通して,運動を描写することは,常に大ざっぱであり,
抑圧されてしまうのである」。マイネルが言わんとするところは,今日に至るまで未解決のまま残 されている,生命ある運動の本質が,いったい分析科学的研究によって,どれ程把握できるかとい うことである。
ハイテク技術を駆使した実験器械器具の開発と併行して,身体運動の力学的,生理学的,心理学 的なディシプリンの発達はめざましいものがあるが,マイネルの言うように,人間の運動は物理的 運動とちがって,「生命ある運動(vitale Bewegung)」であり,それを一つの領域や専門学から把握 するには,あまりにも複雑な対象であると考えることが,まず大切なスタンスではないだろうか13)。
マイネル14)は,人間の生命ある運動というものは,厳密な科学的研究にするのにはきわめてむずか しい複雑な対象であり,それは解剖学・牛理学的研究,数学・物理学・力学的研究,心理学・性格 学的研究,また歴史的・社会的研究が交錯している境界領域と捉えている。
これに対して日本の体育界では,運動に関する研究では,アメリカから導入された,解剖・生理,
力学的な研究を主体とした「キネシオロジー(Kinesiology)」に関心がもたれるようになり,それ に「運動学」ないし「身体運動学」の名辞を当ててきた経緯をもつ15)。国際的にみても,アメリカ 系のKinesiologyの他にも,ドイツ系のBewegungslehre,ソ連や東独などでいわゆるBiomechanik,
またKinematics l6), Kinetics 16), Biodynamics 17), BewegungsmecLanik 18)などと名辞される類縁的
領域を含めて,運動の科学にはさまざまな系統が考えられてきたのだが,日本のスポーッ科学は,
一貫して強い自然科学志向をもっていたので,運動に関する研究も,強くKinesiologyに傾注して いったのである。
キネシオロジーでいう運動の科学の「科学」は,自然科学系の学問であって,そのなかでも力学, し解剖学,生理学の3つの分野に立脚していた。とりわけ力学との関係は密接であった。岸野18)によ
ると,「特に古いBewegungslehreの場合は,ドイッの辞典類でも物理学の術語と考えられ力学と同 義語とさえ解されていたくらいである。われわれの教科書的知識からすれば,運動学の科学性は物 理的な運動法則と結びついていると言える。ある意味でこれは一般常識と思われても当然のことか もしれない。KinesiologyやBiomechanicsの文献には,重力・慣性,摩擦,抵抗,弾性,衝撃などの 術語が多く用いられている。こうなると,運動学はどうみても物理学の研究領域である。いな人間 の身体運動を物体運動に抽象して考察する『運動の科学』を,むしろ物理学とみている人も多いの
である」。
日本では,1958年頃から日本体育学会でもキネシオロジーについて検討が始まった。それ以前で も身体動作の研究というと,物理的な要因との関係を調べる研究が多かったのだが,その頃は,運 動力学あるいは運動学というよりは, 「体育物理学」または「体育力学」と称していた。その後
「運動力学」,「身体運動学」と標題を掲げる著作が発刊されるようになってきた19)。他方,身体運 動について,心理学や生理学などの領域にとどまった一般論的知識だけではなくて,運動技術の指 導をうらづけてくれる「総合的な理論」が必要という声があがり,それらのことを解決してくれる ある種の期待を,キネシオロジーの研究に求めたのであるヨ9)。
日本体育学会では,キネシオロジーは,生理・解剖,物理(心理)などの基礎学問をよりどころ にして,身体運動を研究する科学である,と結論された。そして,身体運動には,ボールやバット の動きも含まれて研究されるのである19)。
そこでは,人体は大変複雑にできてはいるが,力学的生物学的法則と原理に支配されている,と
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考えるのが基本的スタンスである2°)。
しかし,Kinesiologyでも, Bewegungslehreでも,初期の単純な「運動の科学」または,いくつ かの科学の混在状態から次第に有機化・体系化の傾向が出てきた。たとえば,共産圏でキネシオロ ジーと同義に解される生力学(Biomechanik)でも,ソ連のドンスコイ(Donskoi, D.D.)などは,
生力学はできるだけ合目的的な運動を研究するために,解剖学的・生理学的・力学的運動分析を試 みる「包括的領域」と考えていたし,アメリカのクーパー(Cooper,J.M.)なども,キネシオロジ 一は,運動に関連した知識を有機的に体系化した科学であるとして,その統一的観点を強調してい る21)。また人間の運動をみる時,行動論的にとらえれば,運動の意味系や価値系との深い関わりあ い22)を無視しては考えられず,人文・社会学系学問をも含めた,「より広い総合性」を考えていく のは当然の要請となってきた。
アメリカで,キネシオロジーが「総合的な運動の科学」を表明しながら,実際には,一部の自然 科学にとどまっている事実が問題になったり,運動学習に関連して心理学の参与が注意されるよう
になったのも,このような傾向を反映してのことである23)。
(2)自然科学的・分析的研究の見直し
20世紀になったからの研究では,徐々にではあるが,有機体の統一性や全体性といった根本問題 が注目されはじめてきた24)。マイネルは25),運動研究の歴史について触れて,一般に,心身二元論 の考え方を基にして,人間の運動を身体的側面から自然科学的方法によって厳密に捉えようとして きたが,20世紀に入ると,物理学的・力学的研究の一面性と不備について,研究者が意識しだした。
その代表的なものに,マイネルは,シュタインハウゼン(Steinhausen, W.)の「人体機構学」の 研究と,バエヤー(Baeyer, H.)の「リンク連鎖理論」の研究をあげている。旧来の生理学的・力 学的運動分析は,走ったり,跳んだりなどの全身運動における個々の関節や筋肉の複雑な協同運動
を,近似的にでも適切に説明するには,まだ十分でないことははっきりと認識されていた。しかし バエヤーは,「もはや問題は,個々の筋ないし関節の運動ではなくて,身体部分の協力の仕方なの であり,………すなわち,連鎖の分析,運動器の連鎖の仕方なのである」との基本的立場から,身 体の運動を,機能的な連鎖の形づくりから捉えようとした。この連鎖理論の意味における機械論的 運動分析は,自然科学的運動研究のなかで,人間の運動の機能的考察法の方向ヘー歩踏み出したと いえるものである。バエヤーは,「もはや分解や個々の部分の考察で甘んじる必要はなく,さまざ まな種類の結びつきを追求すべきである」と主張した。
シュタインハウゼンは,生理学的・力学的運動研究の不備に関連して, 「静止や運動における,
広範な人体の機構学には,意識の機序さえも属する」という立場から,生体の機構学に心理学(こ の場合,全体性心理学あるいはゲシュタルト心理学)の参与を考えた。心身二元論について論及す るのが本論の役目ではないが,人間の運動の全体性,総合性に目を開けばこの問題は避けて通れな い。すなわち,二元論的立場に立てば,生命ある運動をまず純粋な物質過程として捉え,空間と時 問における物理学的位置変化そのものとして扱い,さらに欠落している側面,すなわち,意識現象 を補足的につけ足せる,と信じてしまうのである26)。
マイネルは,ピッケンハイン(Picenhain, L.)の言を引用して,「『精神と身体』や『人間の有
機体における主観的・客観的生起のあいだの連関問題に取り組む』のに多くの生理学者が一種の躊
躇をもっていることを一般に確認している。というより,生理学者たちは,ほとんどこの問題圏を 心理学に属すると考えているのである司
主観的な心理学的な生起を,生理学的研究に取り込んだ,代表的な研究は,ワッハホルダー(Wa一 cLholder, K.)の随意運動の研究である27)。ワッハホルダーによると,「随意姿勢や随意運動の協 調に関する研究は,たとえば,意志行為,運動意図,運動投企の有効性を,また同時に客観的生起 が主観的生起に機能的に依存することをどうしても問題にせざるをえない」のである。彼は,随意 運動は,随意な衝動によって細部に至るまで規定されている統一的全体であるとし,全ての随意運 動は,むしろ環界との積極的な対峠から結果されるのであり,この対峠の中で形成されるのである と考えた。日常生活やスポーッに現われる随意運動も細部にわたるまで中枢のインパルスによって 規定されているのではなく,解決されるべき課題によって,その時々の目的によって,またその時 々の環界の諸条件によって規定されているのであり,それらのもとで随意運動は遂行されると考え たのである。
マイネルによれば28),ワッハホルダーの研究が意味しているものは,純粋な生理学的・力学的考 察法から,多角的な,しかも人間の運動の現実性にさらによく対応する運動研究というものに歩を すすめた,ということである。
人間の運動を現実世界の実践問題として捉え,その解決を迫られると,いったい生命ある運動と は何であるのかと,その本質に向かって問い直さざるをえなくなる。それまでのように,数学的・
物理学的に説明できるかどうかにだけ関心がもたれるのではなく,現実の人間の生命ある運動に直 接に対峠し,その形相的記述に立ち向かうことが要求されてくるのである29)。運動研究のなかに
「主体概念」を導入し,物体としての人体の運動ではなく,価値と意味の関連系をもつ「自己運動
(Selbstbewegung)」としての人間の運動を認識してこそ,はじめて運動の科学は成立するとした のがバイテンディク(Buytendijk, F.J.J.)である3°}。
バイテンデイクによると31),「主体なる概念は,意識の概念よりさらに包括的である。主体とは,
われわれにとって理解可能な意味に対する感受性の根拠として,直観のうちに与えられる存在様式 である。何かあるものが動物にとって食物,目標,危険,同朋といった意味を持つことが確認され た場合,その動物はすでに『直観された主体性』としてわれわれに示されるのである。そのような さまざまの意味を持つものが動物主体にとって存在することは,動物の行動の観察を通じてのみわ かることであるが,他方その行動は,運動や体姿を中枢神経系の過程と関連した一定数の筋攣縮と 考えるのではなく,情況に向う行為(Akt)として,つまり体験された意味と志向された行為の表現
。として捉える場合にはじめて理解されるものである司
動物や人間は有機体であるといっても,単に生きているのみでなく,同時にまた実存する。つま り,環境に対して何らかの関わり方を,主体的につくり出すのである。
「しかし人間は動物とは異なり,単に情況の意味関連のうちに組み込まれているだけではなくて,
情況にも対峠してもいる司「人間は意味の意味,現象するものの存在,事物の形象(Gestalt)を認 識することができ,この認識こそ動物に与えられていない達成(Leistung)を根拠づけるものであ
る32)司「動物は知覚と運動との一義的統一のうちに生きている。例えば,動物も人間もともに足を
滑らせたときには,足下が滑らかで危険だということを感じるのであるが,人間はそれと同時にそ
の滑らかさのもつ事実的なもの,客観的なものを感じとり,それによって『思考のきっかけ』を与
馳
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えられる。人間は自分が滑ったという事実に対して,経験,判断,計画,同朋,評価といったもの と多様な関連をもった,さまざまな意味を与えることができるのである。行為する人間は,多くの 関連系(Bezugssystem)によって呼び起こされ,なさんと欲すること,なさねばならぬこと,なす ことを許されたこと,なすべき責務のあること,なすかもしれぬことといったものを選択し,決断
しなければならない33固
人間の行為も確かにさしあたり動物の行為と同じく,さまざまの意味体系(情況)に関連しては いるが,同様に価値体系とも関わりをもっている。ここのところが,人間と動物の運動を見る際の 大きな相違点であり,動物の運動を単純には人間の運動の模範にはできないのである。動物は人間 より速く走れても,隣のコースの選手の変化に対応しながら競走したり,別の仕事の為に助走して 踏み切ったり,広いグランドで戦況の展開を予想してボールや選手を追走することはできない。そ れゆえに,バイテンデイクは,人間の行為は「達成(Leistung)」だと言うのである糾}。
マイネルの解説では35)は,「主体は何かを知覚し,行為し,あるいは表わすものである。この主 体がなくては,人間の運動に対する洞察はけっして存在しないし,それゆえに運動学もけっして成 立はしない。というのは,主体は『自分のからだを動かして』意のままにするし,『あらゆる運動 の基盤』であり,また『知覚された運動の原因』として現出する司
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