翻 訳
ハンス・フォン・ビューローの生涯
―― 年〜 年 誕生から成年まで( )――
マリー・フォン・ビューロー 最 上 英 明 訳
しかし,ビューローはここで困難に出くわした。ヴァーグナーが政治的に体面を失 い,追跡や追放にまで至った 年よりも前から,ビューローが心を奪われてし まったヴァーグナーやその芸術に対して,すでにフランツィスカは深い反感を抱いて いたのだ。彼女の保守的な気質 ― 自由主義者の夫と離婚したのもそれが理由 ― か ら,ヴァーグナーの政治的活動,あるいは一般にそう思われていた点に関してヴァー グナーを激しく敵視したことは理解できる。しかし同時に,きわめて優れた上演で絶 えず育まれてきた息子の感情を,こうした圧力が熱狂的なものに高めたのかもしれな い。
年 月下旬,明白な理由は不明だが,ビューローの一家がシュトゥットガルト に転居することが決まったとき,ビューローはよく面倒を見てくれていたリピンスキ と一緒に,「宮廷楽長」〔=ヴァーグナー〕が夏を過ごしていたピルニッツに歩いて出か けた。深く感動した少年は,苦悩したり努力したり,突進する意志を持った若者に成 長しており,自分への慰めと再会の約束を求めて,この偉大な人物の手で白紙に何か 書いて欲しいと懇願した。ビューローは次のような別れの辞をもらった。「あなたの 胸にある芸術に対して,真摯で汚れなき光が輝いているのなら,その美しい炎はやが て大きく燃え上がることでしょう。そこに知的な見識が加われば,この光は力強い炎 へと純化されていくことでしょう。 年 月 日, リヒャルト・ヴァーグナー」。
この神託のような言葉は,ビューローの後年の芸術家としての特性を予言的に言い当 香 川 大 学 経 済 論 叢
第 巻 第 ・ 号 年 月 −
てている。しかし,当面はまだ地獄や煉獄を通り抜けなければならなかったのだ。
ネッカー川の谷間に位置する王国の快適な首都〔=シュトゥットガルト〕では,リュ ティヒャウ夫人が言ったように,ハンス少年は南ドイツ的要素により充実した成長を 遂げたであろう。というのも,若者らしい陽気さと同年代の仲間との交流が,それ以 前よりも活発に見られるように思えるからである。これについては,ビューロー書簡 集第 巻に収録されたモーリック嬢の愛すべき記述からも見てとれる。彼女は宮廷楽 団のコンサートマスターを務める優れたヴァイオリンの名手〔ベルンハルト・〕モーリッ ク⑴の娘で,ハンスはこの家族に心から歓迎された。生涯の友となるヨアヒム・ラフ⑵を 得ることもできた。ラフは 年にスイスで生まれ,多方面の才能を有し,イエズ ス会の神学校で徹底的な教育を受けた若者で,フランツィスカの信頼も厚かった。そ れで,母と息子との間の衝突の際の重大な局面において,それを和らげる影響力を 持っていた。このような音楽的な関係の仲間に加わったのが,エドゥアルトの人脈に よる,いわゆるシュヴァーベンの作家グループの人々で,グスタフ・シュヴァープ⑶, グスタフ・プフィッツァー⑷などだった。彼らは教師として,ギムナジウムでのハンス の卒業試験の投票もした。小さな作品が演奏されたが,プログラムにはハンスによっ て「旋風少佐=ハンス・フォン・ビューロー」とかわいらしく書かれているのが微笑 を誘う。同じプログラムには,同級生ヴァルバッハの名前も載っているが,彼は演劇 への抑えきれない衝動に駆り立てられ,一年後,両親の家から姿を消した。ハンスは 母宛の書簡で,この行為に賛同している。というのも,そこには「生命力,自立性,
大胆性のようなものが見られるからです。それらは今日の我々若者にはほとんど見ら れなくなりました。全体的に冒険心が欠け,無精な若者が多すぎます。私がヴァルバッ ハの立場だったら,ひそかに立ち去るのではなく,前もって許しを求めたことでしょ う」。
シュトゥットガルトの音楽状況について,ビューローはフリードリヒ・ヴィーク
〔クララ・シューマンの父〕に報告している。ヴィークは 年,ドレスデンでピアノの
( )Bernhard Molique( − )
( )Joachim Raff( − )
( )Gustav Schwab( − )
( )Gustav Pfizer( − )
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研究会を主宰していた。「古典的な作品が国王が不在のときだけ演奏が許されるのは,
悲劇的な事態です。それは 年に国王が復活させた厳しい処刑への導入のような 感じを与えます。公的な音楽の保護育成を,責任ある部署の側が怠惰なやり方で遮断 したのです」。
アビトゥーアは良好な成績だったが,その直前の 年 月 日と 月 日,宮 廷楽団の定期演奏会に出演する機会があった。曲目はラフの幻想曲とメンデルスゾー ンのピアノ協奏曲第 番ニ短調だった。さらに精力的に作曲もしたが,これはヴァー グナーからの激励のメッセージに歓喜したことも関係している( 年 月)⑸。
カール・リッター⑹がこの喜ばしいメッセージの伝達者だったが,彼は弟アレクサン ダー⑺と同じように,ハンスのドレスデン時代の学友だった。リッター兄弟の母ユーリ エ・リッター夫人はナルヴァの出身で,未亡人となったあと,ドレスデンに居を定め た。熱烈なヴァーグナー信奉者のひとりで,革命の年にヴァーグナーが追放処分と なったときは,もっとも献身的に動いた人物のひとりだった。彼女の熱狂ぶりは息子 たちにも受け継がれ,彼らは若きハンスが同志だと知ると喜んだ。カールの精神的素 質は,ヴァーグナーから優れていると思われていたが,残念ながら,いい方向には発 展しなかった。彼は長年,音楽家の職業と作家の職業との間で迷い続け,いわば一種 の「問題児」だった。いずれにせよ不幸な人間で, 年,孤独な変人としてヴェ ローナで亡くなった。若きビューローとの関係は,弟との関係のように親しい間柄 で,それがヴァーグナー礼賛に根ざしていることから,フランツィスカの怒りの原因 ともなった。彼女のリッター家に対する不信感は,ドレスデンでのちょっとした訪問 でもリッター家には立ち入らないことを,ある仲たがいのあとで彼女が許すための前
( ) ヴァーグナーが 年 月 日付でビューローに宛てたメッセージは次のような内容である。
「親愛なるビューロー君,君の作品は私に喜びをもたらしました。これらの作品を必ず激励の 言葉を添える形であなたの友人のリッターを通じてあなたにお返ししようと思い立ちました。あ なたの作品に批評の言葉は添えません。あなたは私がいなくても十分に自分で批評できる力を 持っており,弱点とかこの私に合わない個所をわざわざ拾い出すなどするのはかえって私の意に 沿いません。他からみても,まもなく君は初期の作品を自分で評価できるだろうと私にはわかっ ているからです。今のままを続けてください。そしてもっとたくさんの作品を私に見せてくださ い」。 (Alan Walker : Hans von Bülow. . S. )
( )Karl Ritter( − )
( )Alexander Ritter( − )弟アレクサンダーの方は, 年にビューローが率いるマイニン
ゲン宮廷楽団のコンサートマスターに就任するなど,後世に名を残している。
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提条件として 歳のハンスに課すまでに激化した。これは, 年 月 日付の ビューローの苦悩に満ちた手紙からわかる。
ビューローの創作活動への奮闘に対してのヴァーグナーの関与は,一時的なもので はなかった。 年に公刊されたビューロー宛のヴァーグナーの書簡の一部から,
それは明らかになった。ヴァーグナーはビューローが創作活動で正しい道を歩み,
ビューロー自身がよく「熱心になりすぎる」「じっとしていられない」と嘆いたよう なビューローの気質の危険性に用心することを切望しているように感じられる。実例 はあとで紹介しよう。
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