弘前大学教育学部紀要 第44号 :19‑28(1980年9月) BullFac.Edc.HirosakiUm'V.44:19‑28(SeL).1980)
構成す る もの と構成 され る もの との関係の逆転
‑ メル p‑ ポ ソテ ィの フ ッサ ール 解 釈 ‑
矢 島 忠 夫*
序 論
「もしあ らゆるものが 自我 の作用 と相関関係にあ るとすれば,われわれは再び超越論的観念論に逆戻 りし て しま うのだ。」(メル ロ‑ポ ソテ ィ, 「フ ッサール と自然の概念」『言語 と自然』176)
この講義 の性格か らして, この 「われわれ」が メル p‑ポ ソテ ィとフ ッサールを ともに含む もの として, すなわち フ ッサールその人を巻添えに した意味で語 られ ていることに疑問はない。だが, メル p‑ポ ソテ ィ
自身 も, 「本来 の意味での現象学」が還元の後に, 「いろいろな志 向的相関者をもった純粋 自我,あ らゆる 従属的な構成作業の最後 の主観 としての純粋 自我」(同上)に関わ る 「隅か ら隅 まで構成す る意識に貫かれ た哲学」 としての 「超越論的観念論」であることを十分承知 しているのであ る。それゆえ もし, 「超越論的 観念論‑の逆戻 り」に対 して 「われわれ」の立場か ら警告を発す ることができるとすれば,それは フ ッサー ル 自身が既に, 「本来の意味での」現象学 (超越論的観念論)の 「限界」(同,117)に立 っていたか ら で なければな らない。
メル p‑ポ ソテ ィは この確証が 「現存す るすべ てのテキス トのなかで フ ッサールが語 っていること,ない しは考えているとお りの ことを述べ る」(同上) ことに よって成就 され るとは考えていない。 この企 ては, フ ッサールの思想が 「思索の終点でなお試みつつあ った もの」,その 「思索 されないで しまった もの」を, それを限定 し包囲 している言葉 の 「表 向きの正面 きった意味」においてばか りでな く,その 「側面 的 な 含 蓄」に即 して理解す ることに よってのみ遂行 され うる。そ して これ こそが 「歴史学的に見てそれ 自体におい て最初 のものはわれわれ の現在である」 と書いた人に対す るおそ ら くは 「ただ一つ の客観 的 態 度」(同, 118)なのであ る。
換言すれば, メル p‑ポ ソテ ィといえ ども, フ ッサールの思想を限定 し包囲す る言葉 の 「本来 の意味」,
「表 向きの正面 きった意味」が, こぞ って 「超越論的観念論」を指 し示 していることに当然,異論はないわ けであ る。すなわち,
「志 向的方法の最深の意味か,超越論的還元 の最深 の意味を誤解す る人,あ るいはそれ らのいずれ をも完 全に誤解す る人だけが,現象学 と超越論的観念論 とを分離 しょ うとす ることがで きる。」(CM.119)
とい う確信に満ちた断呼た る言葉を無視す ることはで きなか ったはずであ る。それに もかかわ ら ず 彼 は,
「超越論的観念論‑ の逆戻 り」に対 して 「われわれ」 として警告を発す ることがで きたのである。
以上の考察を前提す るな らば, メル ロ‑ポ ソテ ィが,現象学は超越論的観念論 と分離 さるべ きであ り, ま たその時にのみ本来 の意味での現象学について語 りうるのだ, と単純に考えていた とは思われない。 テ ィリ ニ ッ トに よれば, メル p‑ポ ソテ ィは現象学 の超越論的観念論的方向に対 して, 「故意に ロを閉 ざ し て い る」(『言語 と自然』,178)のであ る。 しか しこれはむ しろ,現象学 と超越論的観念論 との不可分離 性 を 前提 した うえで,超越論的観念論 の克服がそれに ともな って必然的に現象学 の限界‑の道 を開拓す ると考え られていた ことを意味す るであろ う。だがその時,はた して この 「現象学 の限界」の突破は現象学の原理を 否認す る異な る原理への移行に よって果 され るのか,それ ともそれは現象学 自身に よって,あるいは 「現象 学 の現象学」なるものに よってのみ達成 され るのであ り,それゆえ限界は依然突破 され るのではな く開示 さ れ るにす ぎないのだ と考えるべ きか, とい うことが問題 とな りえ よ う。 メル p‑ポ ソテ ィは フ ッサールの哲 学原理 を否認 し, これを克服 した と宣言す るよ りはむ しろ, フ ッサールの思索 の歩みの うちにひそかに腫胎
*弘前大学教育学部社会科学科教室
し.既に機能 しは じめている新たな哲学原理を,表向きの正面 きった意味の側面において発掘 しようと執扮 な努力をかさねているように思われ る。 しか しその時, さらにこの 「新たな哲学原理」が深刻な問題 とな ら ざるをえない。た とえ思索の終点においてであれ,なお フッサールの思索を現象学 として捉えるかぎ り, こ の原理 もまた現象学の原理の徹底化にはかな らず.それゆえ.それ 自身の原理の徹底に よってその原理その ものを蚕食 し, 自己 自身の原理の限界‑ と導 くとい う逆説 こそが,超越論的観念論の最深の意味 として開示 され る可能性が残 るか らである。 これは同時に 「晩年のメル p‑ポ ソテ ィの哲学はやは り現象学なのか とい
う問題」(『言論 と身体』滝浦静雄,178)で もあ る。
ところで, メル p‑ポソテ ィが フッサールの思索の うちに 「超越論的観念論」 としての現象学の限界が開 かれていると考えることができるのは,ひとつにはそこに 「構成す るものと構成 され るものとの関 係 の 逆 転」(boulev6rsementdes rapports二du constitu6 et du constituant) (Signes,217), 両 者 の 「循 環」
(Zirkel), 「相互関係」(Wechseltxzogenheit), 「同時性」(Gleichzeitigkeit)を読み とりうるこ と を 確 信 しているか らである。そ して彼は このような 「主観 と客観 との区別 (そ して,おそ らくは ノ‑シスとノ‑マ の区別も?)」がまさに 「私の身体において混乱 して しま う」(ibid.150)ことに特別な意味を 認め ることに よって,意識の現象学か らいわば身体 (相互身体性)の現象学‑の転身の運動に立会 っていることを確信 し ている。
われわれ の以下の考察は, 『哲学者 とその影』が全面的に依拠 している 『イデーソ』第2巻に聞 くことに よって,そ こにおいて果 してフ ッサールの思索の うちに既にメル p‑ポソテ ィの語 るよ うな現象学の限界が 開かれていると解釈す る可能性が与え られているか否かを吟味することを課題 とす る。そのさいこ の 考 察 は, フッサールの言葉の正面 きった表向きの意味のみに執着 しているとす る批判に対 してほ,まった く無防 備であるし,またそれ以上を望む もので もない。
第1章 抽象と還元
1 自然,身体,心の構成の循環
メル p‑ポソテ ィは,構成の諸階層の連続性 と非連続性, 「それぞれの層が他の層にとって以前で もあれ ば以後でもあ り, したが ってそれ 自身に とって も以前でもあ り かつ以後で もある」(Signes,222)こ と,す なわちその循環について語 るために, フッサールが 「自然 と身体 と心のあいだの相 互 関 係」(ibid.223)を 承認 している点に注 目している。
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「われわれの考察の一つの重要な成果は, 『自然』 と身体,そ してさらにそれ と絡みあった心 (Seele)と
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は,それ らの相互関係のなかで一挙に構成 され る (sich in Wechseltxzogenheit aufeinander,in einsmi‑
teinanerkonstituieren)とい うことである。」(ⅠⅠⅠ・124)
この循環は, 「完全に客観的な物は他人に関す る諸経験に基づけ られ,その他者の経験は,それ 自身 とに か く一つの物である身体の経験に基礎づけ られている, とい うことか らくる物 と 他 人 経 験 と の 循 環」
(Signes.222)である。
「何 と言 っても人間の把握は身体の把握を, したが ってまた物の把握を前提す る以上,われわれは循環に 陥 っているのではないのか。」(ⅠⅠ・80)
この問いに答える前にわれわれは, フ ッサールの構成理論全体が,「抽象」(Abstraktion)ないし 「還元」
(Reduktion)の自覚的遂行に よっては じめて可能にな っていることを確認 しておかなければな ら な い。彼 にとっては,あ らゆる態度が一つの無 自覚な抽象ないし還元であって,それゆえあ らゆる態度の志向的相関 著 も,そのつ ど一つの構成 された抽象体である。統一を与える働 きとしての志向性 も,あたか もこの抽象の 働 きの別称であるかのごとく思われ る。 『イデーソⅠⅠ』における志向的分析,あるいは 「経験そのもの に問 いかけ る」 ことも,まず もってこれ らの抽象のそれぞれにいわば 「つれそ う」 ことに よって,そ れ ら 抽 象 の諸階層の‑ それ らがいずれ も抽象であるがゆえに必然的な‑ 相互依存関係を明 らかに し,ついでわれ われの具体的な経験の統一的全体を再構成す ることを課題 としているのである。だ とすれば,『イデーンⅠIJJ
の志向性の階層構造の分析の歩みが,あ らゆる意味での 「心理学的階層理論を排 除 す る」(ⅠⅠ・ⅩⅤⅠⅠ)もの であ り,決 して実在的な時間の 「先後関係」を意味するものでないことも,何 ら不思議な ことではない。
構成するものと構成されるものとの関係の逆転 21
『イデーソⅠⅠ』は 「物質的 自然の構成」か ら開始 され る。 しか し, この開始の必然性については 何 も語 ら れない。それは 「自然お よび経験の概念の限定」(ⅠⅠ・1) に よって開始 され るが, この始 ま りは あ く ま で
「と りあえず」(Vorlaufig), 「さしあた り」(zunachst)のことにす ぎないo このように して 限界づけ られ た 自然,すなわち 「空間一時間的な 『世界の全体』」 もまた,最初のもの,ない し最後のものではないOた とえば 「空間的な音」は 「何 ら必然的な前 もって与えられたもの」ではない。 「いかなる空間的把握 も欠い ているような音を考え うる」(ⅠⅠ.22)か らである。「このときわれわれは純粋な感覚与件において,対象 とし ての対象の構成以前になお伏在 している前 もって与え られた ものに突 き当る」 (ⅠⅠ・23)ことになる。だか ら といって,感覚与件が具体的な始 ま りであるのではな く, このような空間的把握が除外 され うるのも,ただ
「抽象」に よってで しかない。
同様に して, 「剥 きだ しの事象 (blBeSache)の世界 としての 自 然」(ⅠⅠ.25)の 理 念 も, 「一種の 『還 元』」の成果である。 この還元を遂行す る 「われわれ」はまず もって 自然科学者である。現象学者 としての
「われわれ」が 自然科学者の遂行す るこの還元に 「つれそ う」のは これに よって, この還元の抽象性を明る みにもた らさんがためである。
「それゆえわれわれはこれ以後,ひたす ら自然科学的態度の うちに身をお くことに しようQそのときわれ われが これに よって一種の排去,一種のエポケー (eineArte'7TOX≠)を遂行 している, とい うことは 明 らか である。ふだんの生活ではわれわれは 〔かか る〕 自然客観 とは何の関わ りもない。」(ⅠⅠ・27):
このような還元,抽象が遂行 されては じめて,物質的 自然 と動物的 自然の区別,すなわち最深層の第一の 意味での自然 と拡張 された第二の意味での自然の区別 とか, 「心的なものが物質的なものの うちに基づけ ら れている」(ⅠⅠ・29)こと,それゆえ前者についての経験が後者につ いての経験を前提 していることな どにつ いて語 りうるようになるのである。物を他の物か ら,それを取 り巻 く情況‑の関係か ら 「隔離」(Isolation) (ⅠⅠ・41) した り,「孤立 した主観」(Subjektinlsolierung)(ⅠⅠ.77)としての 「独我論的主観」を 構想 して みた りす ることも,同 じ意図か ら発 したものと考えざるをえない。あ らゆる抽象体は,まさにそれゆえに絶 対的 自立性を要求 しえない。
「想定 された諸条件の下では到底,客観的 自然の構成にまで到達 しえな くなるとい う危れ も,われわれが
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今まで正当なものとして支持 して来た抽象を廃棄 し,事実的な構成が したが っている諸条件を考慮にいれ さ●●●●●●●●●●●
えすれば,ただちに除去 され る。すなわち,経験する主観は本当は決 して独我論的ではな く,多数の主観の うちの一つなのである。」(ⅠⅠ.78)
ここに, メル p‑ポソテ ィが指摘する謎にみちた循環が,「『客観的に現実的な』物の経験である物把握 それ 自身に問いかけ る」(ⅠⅠ.80)ことに よ って,その実の姿を現わす ことになる。一方において, この経験 の教えるところに よれば, 「相互に交流 しあ う人間の数多性‑の関係が物把握のふ ところ深 く入 り込み,一 つの物を 『客観的に現実的な』 ものとして把握す ることに とって構成的であ る。」(ⅠⅠ.80.)そ し て 「相 互 主観性に とって身体把握が特殊な役割を果 している」(ⅠⅠ.81) がゆえに,客観的な物を認識す る諸主観は,
「身体を持ち,同 じ世界に属 している」 (ll.82)相互に理解 しあ う人間でなければな らない。 これに対 して これ までの構成分析は,人間把握が身体把握に基づけ られ, さらに身体把捉が物把握に基づけ られているこ と, したが って前者が後者を前提にする階層秩序を形成す ることを明 らかに してきたO これは循環,ないし 混乱以外の何 もので もない。
しか しなが ら,かか る基づけの順序関係は, 「独在す る自己」(Solus‑ipse)の抽象に よって初めて可能に なったのであるOかか る抽象, 「独我論的思考実験」 (ⅠⅠ・81)は,そもそ も,孤立 した人間や孤立 した個人 す ら与えることはできない。人間は他人に とって理解 しうる客観的身体を持たざるをえないが.他方,抽象 に よって 「構想 された主観」はかか る身体については何ひとつ知 らないか らである。 この循環,す な わ ち
「自然,身体,心の構成の相互関係」なるものは, まさに この 「独我論的想定」 と,それを前提にす る階層 秩序の抽象性を浮 きぼ りにす ることに,その意義があるのである。
そればか りか,身体 も心 も自然も, したが って身体 と心の統一 としての人間でさえも,それ らが 自然の一 部 と考え られているかぎ り,依然,一つの抽象た ることをのがれえないのである。
2 白魚.人格の構成の循環
メル p‑ポソテ ィは,第一の循環,すなわち物把握 と人間把握 の相互前提関係について述べた同 じ箇所で, 第二の循環, すなわち 自然 と諸人格の循環について語 っている。 これは, 「自然科学の言 う意味での 自然
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(や, しか しまたフッサールに とってそ うした意味での 自然の真理をなす根源的現前老 (Urprasentierbare) とい う意味での 自然) こそまず世界全体 (Weltall)であ り, こ ういった資格か らして諸人格を包括す るもの なのであるが,他方諸個人の方 も直接顕在化 され るな らば,彼 らが共 同して構成 した対象 としての自然を包 摂す るとい うところか ら生 じる」(Signes.222)循環である。
「われわれは ここで悪 しき循環に陥 っているように思われ る。 とい うのも,もしわれわれが,すべての 自 然研究者や 自然主義的態度をとっているものがほかのところでや っているような仕方で,初めか ら無造作に
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自然 とい うものを措定 し,人間をその物理的身体性に加えて何かあるプラスを有す る実在 として捉えるな ら ば,人格 も下位の自然対象, 自然の構成分 とい うことになろ う。」(ⅠⅠ.210)
この時,物理的身体の単なる 「付け足 し」(Annex)と考えられた心の実在性は,それゆえ 「身体的 物 質 性 に基づいているのであ り,逆に後者が心に基づけ られてい るわけではない。」(ⅠⅠⅠ・117)
「しか し, もしわれわれが人格性の本質に沿 って進むな らば, 自然 とい うものも人格の相互主観的結合の なかで構成 され,か くてこの結合を前提す るものとして見えて くる。」(ⅠⅠ.210)
自然 と人格のかかる相互従属関係,その 「悪 しき循環」 も,乗 り越え られ るべ きものである。 フッサール は ここに,相互に何 らの関係をも持たない分断 された二つの世界,すなわち自然の世界 と精神の世 界 と の
「徹底的存在区別」を見 るべ きでないと考える。なぜな らこれ ら二つの世界の区別は,他のすべての 「世界 の区別」 と同 じく,「『態度』の徹底的な区別」 と, したが ってそれぞれの態度に相関的な対象性の区別 と 連関す るものであるか ぎ り,r意味関係」(Sinnesbziehung)に よって相互に媒介 されて いるか らである.梶 本的に区別 された二つの即 日存在の世界の 「相互包摂」のパラ ドクスを ここに見 ることは許 されない。人格 主義的態度 と自然主義的態度,その 「経験に問いかけて見 る」な らば,それ らが並列 して同じ位階に属する ものではな く,後者が前者の 「下位にある」 こと,そ して 自然主義的態度が 「一定の自立性を 獲 得 し」,
「その世界,つ ま り自然を不当に絶対化す る」(ⅠⅠ.184)ことができるのは,ただ 「抽象,あるいはむ し ろ 人格的 自我の自己忘却 (Selbstvergessenheit)」のゆえで しかない ことが,証示 され るであろ う0
3 抽象ならざる抽象
まず, 自然主義的態度か ら見れば,心 と身体の結合は,心の身体‑の基づけ,依存関係 として捉 え ら れ る。物質的世界に とってはそれに心的実在性が結合す るか否かは偶然的であ りうるが,心的実在性にとって はそれが物質的実在性に結びつけ られていることは必然的である。
ところで,人間が人格 として捉え られ るな らば,すなわち 「諸人格に語 りかけ,あ るいは彼 らの語 ること に耳を傾け,彼 らと共に労働 し,彼 らの行動を気遣 う人格」(ⅠⅠ・236)として把捉 され る と き, 「身休一精 神の統一」は 「『表現』 と 『表現 され るもの』の統一」(EinheitYon"Ausdruck"und"Ausgedrticktem") として与え られ ることになる。 この統一はもはや 「諸部分が 『相互に外的』であるような連関,結び合わせ る形式を無視 して もすべての部分がそれぞれ単独に存在 しうるような結合」(ⅠⅠ・237)ではあ りえない。 「感 覚的諸現出に心を与える(bseelen)精神的な意味は,結合された相互 並存●●●●●(Ne●txneinander)とい う仕方で 単に結合されているにす ぎないのではな く,一定の仕方でそれ らと融合 している」(ⅠⅠ・238)のである。表現 統一におけ る表現 と表現 され るものとの依存関係は,相互に必然的である。それゆえまた,身体 と精神の統 一はなお二重の統一であ り,人間の把握の うちには二重の把握‑ 人格主義的把握 と自然主義的把握‑ と が含 まれ る, ことが可能になる。なぜな ら,精神の 「表現」たる身体が同時に 自然の断片で もある が ゆ え に, この表現を通 して把捉 され る精神 もまた,身体に結合され, 自然に制約 された ものと考え られ るか らで ある。(ⅠⅠ・247)
しか しこのときすでに,身体 と精神の単純な平行関係について語 ることは困難である。 「徹底的な心身平 行関係」 と 「意識の本質法則」とを両立 させ ることができないか らである。 「本質的諸連関が放置 している もの」(ⅠⅠ.293)が経験的な制約を受け うるにす ぎず,それ も 「意識の感覚的基礎」 (ⅠⅠ・294)にまでしか及
構成するものと構成されるものとの関係の逆転 23
ばないのである。結局,身体は精神に とって 「必要条件ではあ りえて も,十分条件ではあ りえない」(ⅠⅠ・297) ことにな らざるをえない。す なわち 「精神は 自然に依存 した ものとして捉え られ ることも,それ 自身 自然化 され ることも可能ではあるが,それ もあ くまで或 る程度 までにす ぎない。」それゆえ,精神はその本質にお いては, 「絶対的であ り,非相対的であ る。」
「すなわ ち,われわれが世界か らすべての精神を抹消 して しまえば, もはやいかな る自然 もない。だが, 自然, 『真なる」客観的‑相互主観的現実存在 を抹消 して も,なおつねに何か‑ 個性的精神 としての精神
‑ が残 り続け る。社会性の可能性,身体の或 る種 の相互主観性 を前提す る理解の可能性が襲われ るのみで ある。」(ⅠⅠ.297)
た とえ 「現象学は唯物論で もなければ精神の哲学で もない」(Signes・208)にせ よ,われわれは もは や そ の ことを メル ロ‑ポソテ ィにな らって, この 「叙述 とのバ ランスを保つ」ために, 「心 の実在性は,身体的 物質性に基づいているのであ り,逆 に後者が心に基礎を置いているのではない」(ⅠⅠⅠ・117)とい う叙述を対 置す ることに よって確証す ることはで きない。 なぜ な らここでは もは辛, 「物質的な世界に関係づけ られ, したが って また人格的世界に も関係づけ られてい る狭義の社会的な意味での人格」(II・297)について語 り 続け る人格主義的態度や, さきに語 られた 自然 と人格の構成の循環, 自然主義的態度 と人格主義的態度の循 環, したが ってまた 自然主義的態度の抽象性や,人間統覚の うちに含 まれてい る二重 の把捉 の問題は越え ら れ てしまってい るか らである。
われわれは ここで, フッサールの構成分析全体が抽象ない し還元の 自覚的遂行に よっては じめて可能にな ったとい う確認 を想起 しよ う。志向的分析は,あ らゆ る態度につ きまと うこの抽象にそのつ どつれそ うこと に よって,その抽象のゆえに必然的な相互依存関係を明 らかにす ることを課題 としていた。今われわれは,
自然 と精神の抹消 とい う極限の抽象に立会 ってい る。 しか も精神は‑ 抽象 のゆえに必然的な‑ 相対性を のがれてい る。かか る事態は, 「抽象」 と 「還元」を区別 して考え ることな しには,理解 しえない。 フッサ ールは これ まで,「抽象」 と 「一種 の 『還元』」とを同義 とす ることはあって も,決 して,還元即抽象である ことを承認 しなか った。 自然 の抹消に よって精神が個性的精神 としてのその本質的内実を何ひ とつ喪 うこと がないゆえにそれは もはや決 して抽象的な もので も,相対的な もので もない とい う, この 「抽象な らざる抽 象」のみが唯一,真の 「還元」の名に値す るものである。あ らゆ る態度が一つの抽象であ るのに対 し, これ
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らの態度につれそいその抽象性を露呈す る視点たる現象学的態度が, もはや他 の諸態度 と同 じ意味でそれ と 並ぶ一つ の態度ではない と言え るの も, このゆえである。 したが って この抽象な らざる極限の抽象,すなわ ち本来の意味での還元に よって得 られ る個性的精神は, もはや独我論的思考実験に よ って得 られ る独在す る 自己のよ うな抽象性,相対性 を持たない ものと考え られている。現象学 の可能性がひ とえに この 「抽象 なら ざる抽象 ‑還元」の可能性にかか っていることは言 うまで もない。
「自然主義的世界に対す る精神的世界 の存在論的優位」 (ⅠⅠ・281), 自然を消去 した後に残 る精神の 存 在 の絶対性が断言 され るにせ よ.その時,存在 とは Essenz(本質存在)ではな くExistenz(現実存在)の 意 味であ り, これはIndividualitAt(個 〔体〕性) としてのDies(このもの)にはかな らない。 自然 の 相対性 と精神 の絶対性 は, 自然 と精神が この 「個性」をそれぞれ何に よって獲得す るかにかか ってい る。一方にお いて 自然的 な物 もその個性的本質を持つが,それは普遍性 の一事例で しかない。それゆえ, 自然は等質な 自 然 として構成 され,その うちに多 くの相似た物 の存在を考え ることがで きる。 しか し, 「2つ の相似 の物を 区別す るものは, ここと今 とを前提す る実在的一因果連関であ る」がゆえに,われわれは必然的に 「それ と の関係に よってのみ場所‑お よび時間措定の規定が構成 され る」(ⅠⅠ・299)個性的主観‑ と差 し戻 さ れ ざ る をえない。すなわ ち, 自然的な物はその個性をそれ 自身の うちに持 ってい るわけではな く,それゆえその現 実存在は相対的なのである。他方, 「精神は.それが世界の うちに特定 の位置 を占め ることに よって初めて 個性であ るのではない。そのつ どの コギクチオの純粋 自我は既に絶対的な個性化を うけているのであ って,
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この コギクチオ自身がそれ 自身において,絶対に個性的な ものなのであ る●● 。」(ⅠⅠ・299f・)このそれ 自身にお け る個性 のゆえに,精神の現実存在は絶対的なのである。
た しかに メル ロ‑ポ ソテ ィの指摘す るよ うに, フ ッサールの思索をひ きつけていた問題が, 「あ る内容を ある意味な りある本質の一例 として把握す ることを必ず しも第一義 とす るのではないよ うな構成」,い っさ
いを巻 き込み.い っさいを紡 ぎだす 「絶対意識の渦 と同 じ程度に. 自然の個 〔体〕性」(Signes・209)で あ った ことは承認 しうる。 しか しフッサールが この問題を,精神の絶対的な個性的存在を根拠 として解明しよ うと試み続けていることも忘れ るわけにはいかないのである。感覚の局在化の場 としての身体,「感覚す る身 体」や 「方位中心 としての身体」が注 目され るに して も, 「精神は,それが世界の うちに特定の位置を占め ることに よって個性であるのではない」かぎ り,決 して, 自我の唯一性 (個性)が身体の唯一性 (個性)に 還元 され るわけではな く,まさにその反対でなければな らないのである。
第2章 志向性の深層
1 受動的動機づけ
第1章第2節で触れ られた, 自然に対す る人格の優位, 自然の 自立性の絶対化の不当性は, 「精神的世界 の原則 としての動俵づけ (Motivation)(ⅠⅠ.211)の解明に よって基礎づ け られ る。人 格 は 「環 境 世 界 (Umwelt)の主観」 (ⅠⅠ.185)であ り,環境世界はそれゆえ決 して
「
『即 日的な」】世界では な く, 『わ た しに とって』の世界」 (ⅠⅠ・186)である。人格 と環境世界 との関係は決 して2つの実在の あ い だ の 「実 荏 的な関係ではな く,実在的なものに対す る志向的な 関係」(ⅠⅠ.215.), 「主観一客観一関係 (Subjekt‑Objekt‑ Beziehung)」である。 この関係は因果性の関係ではあるが,実在的な因果性ではな く, 「主観一客観的 因 果 性」, 「動機づけの困果性」(ⅠⅠ.216)である。 「主観が客観に自らを関係づけ, 客観が主観を 刺激 し, 動 俵づける」(ⅠⅠ・219)とい う仕方でのみ成立す るこの因果性においては, 「わた しが 『知』 っていないも の が,わた しを精神的に 『規定す る』 とい うことはない。」(ⅠⅠ.231)すなわち, 「動摸づけ」 とは,構成 す るもの (志向性の主観) と構成 され るもの (志向的客観)の関係であ り,志向性の一様態にほかな らない。本来的な意味での自我は,「『自動 】の 自我」, 「『能動的な』,態度をとる自我」(II・213)であ る。
しか し第二の意味での 自我, 「『受動的な』 自我」, 「『傾剛 】の 自我」 もまた,根源的な意味で 「主観的 なもの」,すなわち 「志向性の主観」(ⅠⅠ.220)である。 「受容性」で さえも,能動性の最下層にほかな ら ない。 (ⅠⅠ・213)それゆえ,た とえ受動的な動機づけにおいてであれ志向性が,すなわち構成す る ものと構 成 され るものとのあいだの 「志向的主観一客観関係」が貫徹す る。換言すれば,志向性の外ではいかなる動 機づけ‑ た とえ受動的動機づけであれ‑ についても語 りえないのであるo
「わた しが 『知』 らないもの,わた しの体験,わたしの表象 思考,行為の働 きの うちでわた しに対 して, 表象 されたもの,知覚 された もの,思考 された もの,等 々として向い合 って 立 っている(gegendtxrstehen) のではないようなものが,わた しを精神的に 『規定する』 ことはない。 またわた しの諸体験の うちに‑ た とえ注意 されずにあるいは暗黙の うちにであれ‑ 志向的に含 まれていないものが,わた しを動機づけるこ とはない。た とえ無意識 とい う仕方であって も同 じことである。」(ⅠⅠ.231)
だか らといって,われわれの知 らないもの,われわれの経験の うちで構成 されたのではないものが,われ われを 「自然的に」規定す ること,すなわちそれ らの実在的関 係 た る 「自 然 因 果 性」(Naturkausalitat) (ⅠⅠ・235)が否定 され るわけではない。 「心の実在性は,身体的物質性に基づいている のであ り,逆に後者 が心に基礎をおいているのではない」 ことが承認 され るの も, このか ぎりにおいてである。 メル ロ‑ポソテ ィは この叙述を, 自然の相対性 と精神の絶対性の主張に傾斜す る 「叙述 とのバ ランスを保つ」 ことを意図 し て引用 していたのであるが,われわれはそれが このような意図に適 うものか どうかを疑わ ざるをえ な か っ た。たしかに,精神的因果性を絶対視す る人格主義的態度が, 自然困果性を絶対視す る自然主義的態度 と同 じく一つの抽象,一つの理想化であると考え,それ らの態度の相対性お よび相互従属関係を明 らかにす るこ とに よって,それ らをともに可能に しともに乗 り越えるはずの 「理論化以前の層」を露呈することが 「現象 学の固有の作業」 (Signes・208)であると考えることには異論がないに しても,果 してこのような 深層構造 への遡及作業が同時に, 「われわれの分析の手段」たる 「ノエシス, ノエマ,志向性」 といった考えにまで 変更をせ まっていると言えるか どうかは疑問である。
その とき,われわれは何によって分析するのであろ うか。分析の鍵 となる 「志向性」の概念が分析の進展 そのものに よってその深層構造を解明され るに至 ることは当然あ りうるに しても, 「志向性」の概念そのも のが消え去 って しまえば,いかなる意味での 「現象学」 もあ りえないはずである。理論化以前の層 と言われ
構成するものと構成されるものとの関係の逆転 25
るものも志向性の一階層にはかな らない。た とえ深層の 「作動 しつつある,ない しは潜在的志向性」 として であれ, 志向性が働いているか ぎ りで しか,われわれは志向的「考古学」(Archaologie)について語 ることは で きない。そ して, フ ッサールに とって志向性の概念は,たとえ 「根源我」(Ur‑Ich)とい う在 り方であれ,
「志向性の主観」 としての 「自我」の概念 と不可分離である。
メル p‑ポソテ ィの議論が依拠す る 「前 もって与え られたもの」(Vorgeget光nheit)とい う概 念 は,た し かにフッサールの現象学の成否にかかわ る重大な意味を持ち,そ してこれ こそが現象学に対 して意味の発生 と歴史を直視すべ く迫 った ものである。だが, この概念は二重の意味で語 られ,両者を統一すべ き原理は 自 己分裂せざるをえないかに見える。一方において,感覚与件 こそが 「あ らゆる自我活動に とっての,優れた 意味での前所与」である。すなわち 「もはやいかなる自我能動性によっても構成 されたのではない最後の原 始の根源的対象」, 「自我の最初の 『主観的所有』」である。 ところが他方, 「自我の 自発的な作用の うち で根源的に構成 された もの」 もまたすべて 「構成 された ものとして 自我の 『所有』(Ichhat光)と な り,節 たな自我作用に とっての前所与 となる。」(ⅠⅠ.214)それゆえ,一方では, 自我能動性に よって 「いまだ構成 されていないもの」が前 もって与え られた ものであ り,他方では, 自我能動性に よって 「すでに構成 された もの」が前 もって与え られた ものである。前者について,すなわち 自我作用によって構成 されたのではない この感覚与侃 あ らゆる対象構成の素材的基盤,基層にす ぎないものが, どうして 「対象」‑ た とえ,最 後の,原始の,板硬の, とい う限定を加えようと‑ と呼ぶ ことがで きるのか, 自我に 対 向 (gegenhtxr) す ることのない対象 (Gegenstand)とは一体何か,が疑問 とな らざるをえない。 しか し,既に確認 された よ うに, 自我能動性に よって構成 された ものではない感覚与件に して も,それが 「前 もって与え られたもの」
として自我を受動的にであれ動機づけ ることができるためには,す くな くとも自我受動性に よって 構 成 さ れ,その意味で一つの対象 Ichleidenの対象た る資格をそなえなければな らない。
したがって, メル p‑ポソテ ィの言 うように, 「われわれにとってそれはいつ も 『既に構成 されてしまっ ている』 と言 うこともできれば,それは 『決 して完全に構成 され ることはない』 と言 って もよ く,要 す る に,それに関 して意識はいつ も遅す ぎるか早す ぎるかの どち らかで,決 して同時ではあ り え な い の だ」
(Signes・209)と語 りうるのも, この 「意識」なるものを 「自我能動性」に限定 しうるかぎ りに おいて で し かない。それゆえ, 自我能動性について語 ることが真理の反面にす ぎず,能動的 自我は同時に,触 発 さ れ
る,受容す るとい う意味での受動的な 自我でもあるにしても,だか らといって, 「構成す る自我」が 「構成 しない自我」,構成を放棄 した 自我に, さらには 「構成 され る自我」になってしま うわけではない。志向性 の主観でない 「自我」(Ich) とい う概念は, フ ッサールの現象学の意味か らすれば,背理で ある。受動的 自 我はむ しろ, 「構成す る」 ことを強い られた,あ るいは一定の仕方での構成‑ と傾向づけ られた 「構成す る
自我」であると考えるべ きであろ う。
2 感覚する身体
メル p‑ポソテ ィによれば, 「わた しは触 りつつあるわたしに触 り,わた しの身体が 『一種の反省』を遂 行す る。わた しの身体の うちに, またわた しの身体を介 して存在す るのは,単に触わ るものの,それが触 っ ているものへの一方的な関係だけではない。そ こでは関係が逆転 し,触わ られている手が触わ る手になるわ けであ り」, したが って, 「ここでは触覚が身体の うちに満ち拡 が って お り,身体は 『感ず る物』(Chose
sentante,empfindendes Ding,ⅠⅠⅠ・119), 『主観‑客観』 (sujet・objet,subjektivesObjekt,ⅠⅠⅠ・124)な のだ」(Signes・210)と言 うことになる。
ところで, 『イデーン肌】36節の問題は,感覚 (Empfindung)の局在化の場 としての身体,局在化 さ れ た感覚 (Empfindnis)の荷い手 としての身体の構成である。 まず, 「空間的な物 としての客観についてのあ
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らゆる経験に,経験す る主観の知覚器官 としての身体が 『居合わせ る』(nitdatxiist)」(ⅠⅠ.144)ことが確 認 され る。 「身体を介 して知覚され,空間的に経験 され る物体が,身体物体それ 自身である」のは,その特 殊事例にす ぎない。わた しは 自分の指を机の上に置 き,それを押 し,あるいは表面にそ って指を滑 らせ る。
それに よって机は,たとえば,冷たいもの,堅いもの,滑 らかなものとして経験 され るO他方わた しが この 指に注意を向け るな らば, この指の うちに,すなわち 「身体の うちにその局在化を持つ」(ⅠⅠ.146)冷 た さ
感覚,堅 さ感覚,滑 らか さ感覚が同時に兄いだ され うる。冷た く,堅 く,滑 らかなのは, この机なのか,わ た しの指なのか,判然 としない事態が生 じることもあ りうるであろ う。右手 と左手が触れあ う場合 も同様で あ り,ただ複雑な特殊事例であるにす ぎない。すなわち このときわれわれは,触れ る右手の うちにばか りで な く,触れ られ る左手の うちに も局在化 された一連の触感覚を兄いだす ことにな るであろ う。触れ られ る左 手が単なる物理的な物 として語 られ るのは,左手に局在化す るこれ らの感覚の捨象 とい う 「抽象」がなされ るか ぎ りにおいてで しかない。 これ らの感覚が左手に戻 されたか らといって左手が 「物理的な物」 として, それだけ豊かになるわけではないが,そのとき 「それは身体になる。それは感覚す る。」 (eswirdLeib,es empfindet.)(ⅠⅠ.145)
しか しなが ら,右手 と左手が ともに 「感覚す る身体」であることか ら,ただちに, 「構成す るものと構成 され るもの (主観 と客観) との関係の逆転」 とい う結論を導び くことが許 され るのであろ うか。そのために は 「感覚す る‑構成す る」, 「感覚 ‑志向的体験」 とい う定式が,それゆえ 「統覚理論の撤回」がすでに成 立 していなければならない。た しかにこれは, さきに述べ られた 「感覚の受動的構成」の理論 と照 して微妙 な問題をは らんでいる。だが仮に, 「感覚す るもの‑構成す るもの」であるとして も,な お,そ れ が 「身 体」であると言えるか どうかは別の問題である。 フ ッサールにとって,構成す る主観,すなわち 「志向性の 主観」は身体ではない。身体は 「知覚器官」にす ぎない。 この身体を 「介 して」外界を知覚 し, この身体の
「上に」ないしは 「内に」局在化 された感覚を兄いだす とい う意味で 「感 覚 す る」(ⅠⅠ.145)「わた し」 は
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「わた しの身体であるのではない。」(ⅠⅠ.94)身体が 「感覚す る」,感覚を 「持つ」 とい うこ と は, 感覚 が身体の うちに局在化 されている, とい うこと以上のことを意味 しない。 すなわち, 感覚が身体の うちに 局在化 されているとい う意味で身体が 「感覚す るもの」であるときにもなお,身体は 「知覚 している」わけ ではない。右手の冷たさや滑 らか さの感覚は,依然 として机ないし左手の冷たさ や 滑 ら か さ の 「指標」
(Anzeichen)ない し 「代表象」(Reprasentant)にす ぎない。 これに対 して,志向性ないし 「志向的体 験 そ
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のものは もはや直接かつ本来的に局在化 されているわけではない。」(ll.153)ただ 「比境的意味」にお い てのみ,身体に関係づけ られている, 「身体の うちに存在す る」な どと言われ るのであるo Lたが って,蕊 向性の主観,構成す る自我 もまた,身体の うちに局在化 されているのではない。 したが って, フッサールに とって,受動的志向性 と身体性 (感覚の局在性) とが直掛 こ本質的な関係を持 っているわけではないと考え ざるをえない。すなわち,感覚与件を 「前 もって与え られた もの」 として意味づけ (構成 し),受容す ると い う意味で 「感覚す る」 とい う言葉を使 うな ら,そのとき 「感覚す る」 ものは 「身体」ではない。
メル p‑ポソテ ィは,精神 と身体の分離 しえない融合 した表現統一を,意識の身体‑の 「受肉の奇蹟」 と して語 っているが,それはこの統一を解明す るために 自覚的方法 としての抽象ない し思考実験を遂行す るこ とを禁 じそれゆえに この統一を一つの 「神秘」 として受容す ることを余儀な くさせ るものであってはな らな い。身体の うちに感覚が局在 されて与え られているとい うことが既に,その感覚与件が受動的に構成 されて (経験 されて)いるとい う意味で 「感覚 されている」 と言 うときにも,感覚 しているのは身体ではな く,身 体 こそが まさにそれ と同時に構成 され (感覚 され)ているのである。身体の 「一種の反省」 としての自己構 成, 自己経験 (感覚)は,右手が左手に触れ ることに よって初めて開始 され るものではな く,右手が机を知 覚す ると同時に開始 されていると考えざるをえない。右手は机に触れ るときに既に,いわば 自己に触れてい るのである。それが,感覚が身体に局在化 していること,身体があ らゆるものに居合せ ることの意 味 で あ る。
「身体は方位の中心をみずか らの うちに内蔵 している。そ して,それが絶えず現出し続けるものであ り, あ らゆる感覚素材の局在の野 として特徴づけ られ る客観であるとい う事情 と結びつ くことに よって,身体は また このような特殊な仕方においてあ らゆるものに ともに居合わせ る。心的な主観 との絡みあいのなかにあ る身体は, 『それに対 して』(gegendher)他のあ らゆる客観,それを取 り巻 く客観が存在す るところの主観 的客観 (subjektivesObjekt)である。」(ⅠⅠⅠ.124)
他 のすべての客観 と同列な客観 とみなす ことので きない身体の客観性の特殊性 も,すでに述べ ら れ た,
「感覚の局在化の場」「方位の中心」 としての身体, 「心 と身体 との統一」以上のことを意味す るものでは な く,身体が特殊な 「客観」であることを撤回す るもので もない。
構成するものと構成されるものとの関係の逆転 27
フ ッサールに よれば, 「主観的 な存在」の二つの意味を区別す ることがで きる.す なわ ち,(1)「自我 の存 在 とその振舞 い」 と(2)「主観 に とっての存在」 との区別であ る。そ して, 「志 向性 の主観」 のみが 「根源的 かつ本来的 な意味での主観的 な もの」(ⅠⅠ.215)であ る。それ ゆえ. 「身心統一」 は,た とえそれが 構成 さ れ た外界 と同 じよ うな仕方で 自我に 「対 向す るもの」(Gegetit光r)ではない とい う意味で 「特殊 な 自我所属 性」(Ichzugeh6rigkeit)を持 っていることを承認せ ざるをえないにせ よ,や は り(2)の意味でのみ 「主観 的な
もの」であ ることに変 りはない。
す なわ ち,身体は 「構成す るもの」「志 向性 の主観」ではない。
結 論
われわれは以上 の考察に よって,依然 として, フ ッサ ール 自身が現象学 の限界に立 っていること,す なわ ち 『イデーソⅠ』 の思索 の うちに 「構成す るもの と構成 され る もの との関係の逆転」が,既に始動 してい る ことを確認す るには至 らなか った。
第1章 は, 「抽象」 と 「抽象な らざる抽象」 としての真 の 「還元」 とを区別す ることに よって,そ こで問 題に されたあ らゆ る循環が,志 向的構成 の諸階層の抽象性のゆえに必然的な相互依存性 を意味す ることを明 らかに し, この解 明その ものが, いかな る意味で も抽象ではない個性的精 神‑ の還元の可能性に よって根拠 づけ られ るべ きものであ ることを見て来た。
第2章 は,志 向性 の深層‑ の下降,その考古学 は,志 向性 の及ぶ範 囲 まで しか達 っしえな い こと,現象学 があ らゆ る構成以前の構成につ いて語 りうるの も,その構成が依然 として一つの志 向性 の階層であ るか ぎ り であることを まず,確認 した。その ときわれわれが, 「感覚す る」 とは何を意味す るのか, とい う問題にお いて困難に陥 った ことは本当であ る。す なわ ち,第1節で述べ られた よ うに,感覚与件が 「前 もって与 え ら れた もの」 とい う意味を持 ち,そのか ぎ りで 自我 を受動的に動機づけ るのであれば,感覚与件を持つ,すな わ ち 「感覚す る」 とい うことは既に, この感覚与件を構成す るとい う意味を持 たねば な らなか った。 とす る な らば,感覚それ 自身が志 向性 の一様態であ ることにな り,そ こに 「感覚す る主観」 としての 「志 向性 の主 観」につ いて語 りうる可能性が開かれ る。そ して,感覚 するもの,感覚を持つ ものが身 体であ ることが承認 され るか ぎ り,身体 こそが この 「感覚す る」主観であ ると考え ざるをえな くな る。それ ゆえ,相互 に触れ あ う (感覚 しあ う)身体の 自己経験 (一種 の反 省)において 、構成す る主観 の相互 関係ない し構成す るもの と 構成 され るもの との関係の逆転が成立す るかに見え るだろ う。
われわれ もまた, 「感 覚」が, フ ッサールの志 向性 の概念,統覚理論 をその内部か ら蝕む脅威 とな る可能 性 をあ らか じめ排除す るものではない。 しか し統撞理論 の再検討は, 「内的時間意識 の うちでの感 覚 の 構 成」の問題 と分離 して論ず ることはで きず,それゆえ現象学 の可能性 と限界 とを論ず るためには, 『イデー ソ[』では 「抽象」に よって排去 され てい るこの 「最深層の もの」(ⅠⅠ.102)について語 らず に す ます こと は許 され ない。われわれは と りあえず この考察の枠 内では,た とえ 「感覚す る」 とい うことが深 層におけ る
「構成す る」 とい うことを意味す るにせ よ,その志 向性 の主観は 「身体」ではない, と考 え ること に よ っ て, さきの困難を回避 しよ うと努めたのである。
他方 メル p‑ポ ソテ ィに とって も,身体を構成 の主観 とす ることは許 され ないであ ろ う。第1に,彼が理 解す る本来 の意味 での志 向性 の主観,構成す るもの とい う資格を身体に与え るな らば,身体の身体性その も のがそ っ くり脱落 し,それ は受 肉 した精神で さえな く,純粋意識その もの と化すであろ う。第2に,一方 向 的構成 の概念が無意味 とな るよ うな志 向性,それ ゆえ構成の主観 と客観 の可逆性をその本質 とす るよ うな志 向性 の主観 として身体を捉え よ うとして も,相互志 向性がなお依然 として志 向性 の主観 と客観 の区別を前提 に してい るか ぎ り,問題 の本質 を変え ることはで きないであろ う。それゆえ,身体 の うちに, フ ッサ ール的 な根源我 を見 ることは, メル ロ‑ポ ソテ ィ解釈 として も, メル p‑ポ ソテ ィ自身の 自己解釈 として も不徹底● ●●
であ るよ うに思われ る。 メル p‑ポ ソテ ィに とって もフ ッサ ールに とって も, 「身体が感覚す る」 のではな● ●●
く, 「身体に感覚があ る」 ことの意味を解 明す ることが課題であ る。