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へル ムー ト・ベ ッカー における 「管理 された学校」か ら 「自由な学校」- の転換の

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(1)

へル ムー ト・ベ ッカー における 「 管理 された学校」か ら

「自由な学校」‑ の転換の 思 想 的布 置

DiegedanklicheKonstellationinderUmwandlungYon

"derverwaltetenSchule" in"diefreieSchule"

beiHellmutBecker

藤 孝 夫*

TakaoENDO*

論文要 旨

ドイツにお ける公立学校 は

,1970

年前後 を境 に管理統制的な ものか ら 「自由」 を基調 とす る ものへ と大 き く転換 した。 この ドイツにお ける学校教育 の歴史的転換 において, その指導的役 割 を果 た した人物が,ヘルムー ト・ベ ッカーであった。本稿 は,従来 の研究で は本格的 に検討 されて こなか ったへルムー ト・ベ ッカー を対象 として,特 に彼 の 「 管理 された学校」か ら 「自 由な学校」への転換 とい う思想が,如何 なる人的交流や思想的影響 の下 に形成 されていったか を明 らかにしている。

キー ワー ド :ヘルムー ト・ベ ッカー,管理 された学校, 自由な学校, 自律 的人間の形成, フランクフル ト学派

序論 ‑ 課題 と方法 ‑

『ジュンコ先生 の ドイツ教育体 当 り奮戦記』 ( 五月書房

,1992

年) とい う本がある。公立中学 校で

30

年近 く英語教師 をしていた大 内滑子 さんが

,1990

年か ら翌年 にか けて旧西 ドイツ (ドイ ツ連邦共和国.以下 ドイツ と表記)のレアル シュ‑ レ ( 実科教育 を中心 とす る

6

年制 中等学校) で英語 を教 えた時の体験記である

この本 は, ドイツの学校教育が生徒 に とって もまた教員 に

とって も 「自由」 を基調 とした ものであることを学校 の 日常 を通 して教 えて くれ る。 しか し, ここで何 よ りも注 目してお きたい ことは, ドイツにおけるこうした自由を基調 とす る学校教育 の姿 は実 は

1970

年頃以降の ことであって, それ以前 は国家 による管理統制が厳 し く, 日本 と変 わ らない管理主義教育が行われていた ことが, ドイツ人教員か らの話 しとして記述 されている 点である。

周知 の ように,第二次大戦後 の ドイツで は, 日本 の終戦直後 の教育民主化 とは対照的 に, ワ イマール体制への復帰が合言葉 とな り, ワイマール憲法の学校監督条項 を 「国家 に独 占的に帰 属す る,学校 に対す る行政的決定権」 1 )と解釈 した憲法学者 アンシュツツ

(Anschutz,G.

)の

*弘前大学教育学部教育学科教室

DepartmentofPedagogy,FacultyofEducation,HirosakiUniversity

(2)

理論が一旦 はその まま継承 され, その結果国家 による強力な学校支配体制 も存続 されていた。

ところが, こうした学校教育 の在 り方 は1

960

年代後半以降の活発 な教育改革論議 と 「 学校 の民 主化

」(DemokratisierungderSchule)

に向けた一連 の教育政策 ・学校立法 によって,次第 に 民主的で 自由なそれへ と変革 されていった ( 教員の教育上 の自由,学校 の自治的運営,父母 ・ 生徒 の学校参加,学校監督 の法的監督への縮減 な ど)。大内 さんの著書 は,こうした教育改革が 学校 の 日常 を着実 に民主化す るものであった ことを確認 した記録 として も読 む ことがで きるだ

ろう

さて,1

960

年代後半以降の ドイツにおける学校 の民主的改革 の過程で,終始 それ を理論的 に 支 え, この運動 の 「リー ダー的役割 を果 た した」

2)

人物 がヘルムー ト・ベ ッカー

(Hellmut Becker,1913‑1993)

であった。特 に,ベ ッカー はマ ックス・ブランク教育研究所

(Max‑Planck‑

1nstitutftirBildungsforschung)

の創設者兼所長 として教育改革 に資す る学際的な教育研究 を 推進す るとともに,1

965

年か ら75 年 まで活動 した ドイツ教育審議会

(DeutscherBildungsrat)

で は, その中心的委員 として各種 の勧告作成 の主導的役割 を果 た した。 この ドイツ教育審議会 の諸勧告が1

970

年前後か らの各州 における学校民主化 に向けた教育改革 の指針 となっていたの である。そ して,ベ ッカーの こうした旺盛 な活動の底流 には,「 管理 された学校

」(dieverwaltete Schule)

の 「自由な学校

」(diefreieSchule)

への転換 とい う彼 の終始一貫 した教育思想があ

った。 しか し, これ までの先行研究 の多 くは, ドイツ教育審議会 の勧告の概要やそれ を受 けた 学校立法の動向 とその紹介的検討 に とどまり3 ) , そ もそ もこの1

960

年代後半以降の教育改革 と い う大 きな歴史の うね りの原動力 と背景 は何であったのか とい う論点 は自覚的 に追求 されて こ なかった。 とりわ けこの 「うね り」 の中心 に位置 していたヘルムー ト・ベ ッカーの教育論 ない しその背景 となる彼 の教育思想 に関 して は, ドイツにおいて も未 だに本格的研究 はなされてい ない状態 にある4 ) 。本稿 は, こうした課題意識 と研究の現状 を踏 まえ,「 管理 された学校」か ら

「自由な学校」への転換 とい うベ ッカーの教育思想 の中心 テーマの検討 を通 して, ドイツの学 校民主化 の歴史的背景 の解明 に寄与す ることを意図 した ものである

ところで,ヘルムー ト・ベ ッカー研究が, その重要性 に も関わ らず行われて こなか った こと には,一つの大 きな要因が あると考 え られ る。 それ は,ベ ッカーには通常 の意味での教育学者 や教育思想家 の範噂で は捉 えることがで きない困難 さが伴 うか らである。ベ ッカーの元々の職 業 は弁護士であ り,教育社会学 の名誉博士号 ( ベル リン自由大学) を持つ とは言 え,大学の教 育学の教授 のような狭義 の教育学者 であった訳で はない し

,435

点 に も及ぶ論文や著書が必ず し も体系的な教育理論 の構築 を目指 して執筆 された訳で もない。 また彼 自身が教育家 として教育 実践活動 を展開 した ことはない し,政治家や行政官 として教育改革 を直接担当 した訳 で もなか った。 に もかかわ らず,彼 は自らの役割 を終始 「 助言的機能」 に限定 し,その都度 「 何 を行 う べ きか を熟考す ること」

5)

によって,次第 に発言力 と影響力 を強めて,結果的 には ドイツの学 校民主化 の中心 に存在す ることになった人物 なのである。

こうしたベ ッカー とい う人物 を捉 える意味で,彼の友人 で前 ドイツ大統領 リヒャル ト・フォ ン・ヴァイツゼ ッカー

(RichardvonWeizscker)

の指摘 は示唆的である

ヴァイツゼ ッカー は,ベ ッカーの

80

才の祝賀会で演説 し, その中でベ ッカー は優 れた対話 ( 議論)の名手であ り, ベ ッカー と対話 した者 は誰 もが 「 対話 の中における思考

」(Denkenim Dialog)

を学ぶ ことに

なる と指摘 しているのである

6

) 同様 にベ ッカー 自身 も,自らの研究活動 を回顧 して,「 私の研究

生活 は総 じて本質的 には議論 によって成 り立 っていた」

7)

と述べている

つ ま り,ベ ッカー は

(3)

書斎 の中で書物 を通 して理論や思想 を形成 していったので はな く,生活体験 や経歴 も異 にす る 多様 な人物や思想家 との避蓮 と絶 えざる対話 とを通 して, 自らの教育思想 を構築 していった人 物 なのであ り, また こうした対話 を通 してベ ッカーの周囲 に形成 された幅広い人間的繋が りや 交友関係が,ベ ッカー とい う人物 を ドイツの学校 の民主化運動 の中心的存在へ と押 し上 げる基 盤 ともなっていた と推測 され るのである。 その意味で,ベ ッカー とい う人物像 とその教育思想 を解明 し, ドイツの教育改革 とい う大 きな歴史的 うね りの背景 を理解す る上で,ベ ッカーが ど の ような人物や思想家 との避道 と対話 の中で思想 を形成 していったのか を検討す ることは,不 可欠でかつ有効 な方法 ともなるのである。

そ こで,以下 の本論で は, まずへルムー ト・ベ ッカーの生育歴や弁護士 としての活動 の過程 で彼 の周囲 を彩 っていた人物 とその思想が如何 なるものであったのか,つ ま りベ ッカーの思想 形成過程 における布置 (コンステラチオー ン)を検証 し

(Ⅰ)

,次 にその布置 の下で次第 に構築 されていったベ ッカーの教育思想 の内実 を検証す ることによ り

()

,「 管理 された学校」か ら

「自由な学校」への転換 の意味 とその思想的布置の解明 に迫 ってい くこととす る。

‑ルムー ト・ベ ッカーの布置 と思想形成過程

1 学者文相の父親 と改革教育運動家たち

ヘルムー ト・ベ ッカー は,第一次世界大戦が勃発す る前年

1913

年,北 ドイツの商業都市ハ ン ブル クで生 まれた。父親 は,当時ハ ンブル ク大学 のイスラム学教授で,後 にプロイセ ン邦文部 大臣になるカール ・ハ イン リッヒ ・ベ ッカー

(CahlHeinrichBecker,1876‑1933

,以下

C.H.

ベ ッカー とい う)であ り,祖父 は裕福 な銀行家,曾祖父 は医師兼言語学研究者であった。 また, ベ ッカーの母親 は,「アウグスブル クの王様」の異名 を取 るほ どの南 ドイツ屈指 の大銀行家の娘 であった。 このベ ッカーの母親 は後 に,夫で あ る

C.H.

ベ ッカーが死 去 した時,ベ ル リンを離 れ,南 ドイツはボーデン湖畔のクレスプロン

(KreBbronn)

に移 り住 み,ベ ッカー 自身 も第二 次大戦後 の約

18

年間, このクレスブロンを拠点 に弁護士活動 を展開す ることになる。 こうした ベ ッカー と南 ドイツ との関係 は,彼 の母親 とその出 自とが関係 していた.

さて,ベ ッカーの父親

C.H.

ベ ッカー は

,1917

年大学担当参事官 としてプロイセ ン文部省 に招 幣 されて後

1930

年 に至 るまで文部次官及 び文部大臣 として,多分 にエ リー ト主義的教育観 を有 しつつ も

(

「 理性的共和主義者

」)

, ワイマール共和制 を擁護すべ く敗戦後 の ドイツの社会的・ 政 治 的 分 裂 状 態 の克 服 を政 策 課 題 と して,新 た な教 育 養 成 機 関 と して の教 育 ア カ デ ミー

(p宜dagogischeAkademie)

の創設 に象徴 され る数々の教育改革 を推進 した

8

) .彼 は特 に

19

紀末以降の青年運動 (

Jugendbewegung)

お よび改革教育運動

(Reformp畠dagogik)

に好意的 態度 を示 したばか りで はな く,積極的に自らの教育政策 にその理念 を反映 させ ようとしていた。

さらに,息子であるヘルムー トに も青年運動 の組織 に入会す ることを熱心 に勧 めて もいた

9

) .

こうした

C.H.

ベ ッカー と改革教育運動 との強い結びつ きで特 に注 目すべ きことは,ヘルムー

トをボーデン湖畔 に創設 された「田園教育舎ザ レム城校

」(Landerziehungsheim SchuleSchloB Salem)

に在学 させている事実である。すなわち,ヘルムー トは一旦 はベル リンのアル ン ト・ギ

ムナジウム

(ArndtGymnasium)

に入学 したが,文部次官である父親 を強 く意識 した この学校

の教師の対応 に居 たた まれな くなって,第

4

学年の時 にこのザ レム城校 に転学 している

10)

。 も

っ とも, この時

10

才前後 のヘルムー トは腎臓疾患 を躍 い, ほ どな くアル ン ト・ギムナジウムに

(4)

遠 藤 孝 夫

復学 している

僅かの期間で はあれ,ヘルムー トが

1920

年 に開設 されて間 もないザ レム城校 に 在学 した詳 しい経緯 は今の ところ不明であるが,ヘルムー トの母親がザ レム城校 において看護 婦 として働 いてい る事実や

11)

, この私立学校 の創設者 である自由主義者バ ーデ ン公 マ ックス

(PrinzMaxYonBaden,1869‑1929,1918

10

月か ら

1

1月の短期間 ドイツ宰相 を務 める)の 息子

(DerMa

r

kgrafYonBaden)

が大学生 として

C.H.

ベ ッカー宅 に下宿 していた事実

12)

を考 慮すれば,

C.H.

ベ ッカー夫妻 と田園教育舎ザ レム城校 の関係 は相 当強固な ものであった ことが 推測 され る。 ちなみに,敗戦 の年

1945

年秋,マル クグラー フ ・フォン ・バーデンが主催 したザ レム城校 での会議 には,ヘルムー ト・ベ ッカー も参加 してお り, この会議でベ ッカー は後述 さ れ る精神分析学者 の ミッチ ャー リッヒ

(AlexanderMitscherlich)

と避造 している

13)

。ヘルム ー ト・ベ ッカーが第

2

次大戦後,ザ レム城校 を含 む改革教育運動系列 の私立学校 の法律顧問 と して活躍す ることになる,いわばその伏線が ここにあった と言 えよう

さらに,文部大臣

C.H.

ベ ッカーが 自らの私設広報官 として起用 し,特 に教育 アカデ ミーの人 事 に関与 したライ ヒヴァイン

(AdolfReichwein,1898‑1944)

も,ヘルムー ト・ベ ッカーの思 想形成 に少なか らぬ影響 を与 えた人物 の一人 である。 ライ ヒヴ ァインは,青年運動への参加 を 経 て,第一次大戦後 はイエナをはじめ とす る各地の成人教育運動 ( 市民大学運動)の指導者 と して活躍 し, さらにナチス政権 の下 にあって は, テ ィー フェンゼーの農村学校 でナチ的教育へ の自覚的な 「 教育的抵抗」の実践 を行 い, ヒ トラー暗殺計画, いわゆる

7

20

日事件 に連座 し て処刑 された教育家である

14)

。 ライ ヒヴァイ ンとヘルムー トは

15

才の歳の差があったが, ライ ヒヴ ァイ ンは逮捕 され る

2

カ月前 には,当時博士論文執筆 のためにシュ トラ‑スブル クに滞在 していた若 き友人ベ ッカー を訪問 し, ヒ トラー暗殺 の必要性 を議論 している

後年ベ ッカーが 最初 の本格的な教育論文 として 「 管理 された学校 」

(1954

年)を発表 した時, その末尾 をテ ィー フェンゼ‑でのライ ヒヴ ァイ ンの教育実践で飾 り,何 よ りも子 どもたちを「自由へ と教育 した」

教育家 として, ライ ヒヴ ァイ ンを評価 していることは

15)

,単 なる偶然で はないのである。

また,後年へルムー ト・ ベ ッカーが,成人教育機関である市民大学

(Volkshochschule)

との 交流 を持 ち, ドイツ市民大学連盟

(DeutscherVolkshochschuトVerband)

の総裁 に選出 され る ことになることも, ライ ヒヴァイ ンとの関係 を抜 きには考 えられないだ ろう

ベ ッカーを ドイ ツ市民大学連盟 の総裁 に推挙 した中心人物 は, フ リッツ・ボ リンスキー

(FlitzBorinski,1903‑

1988)

であったが

16)

,彼 はライヒヴァイ ンの親友で,共 に成人教育運動 を指導 した教育家であ った

17)

か らである

2

ゲオルク ・ピヒ トとカール ・フォン ・ヴ ァイツゼ ッカー

さて,ベ ッカー は,アル ン ト・ギムナジウムを経て, フライブル ク大学 に入学 し,次いでベ ル リン大学お よびキール大学で も法学 を修 めた。 この大学時代 に,ベ ッカー はその後 の彼 の思 想形成 お よび活動 に とって も極 めて大 きな意味 を持 つ こ とにな るゲオル ク ・ピヒ ト

(Georg Picht,191311982)

とカール ・フ リー ドリヒ ・フォン ・ヴァイツゼ ッカー

(CarlFriedrichvon Weizs良scker,1912

‑,以下

C.F.

ヴ ァイツゼ ッカー と略) と避造す ることになる

ゲオル ク ・ピ

ヒ トは社会問題 に も積極的 に発言す る哲学者 として知 られ,特 に

1964

年 の『ドイツの教育破綻』

(DiedeutscheBildungskatastrophe)

は, ドイツの高等教育制度の抜本的改革 を主張 した も

の として大 きな反響 を呼んだ。 また,原子物理学者, 自然哲学者 お よび平和運動家 として 日本

で もよ く知 られ る

C.F.

ヴァイツゼ ッカーについては,説明 は要 しないだ ろう

(5)

ゲオル ク ・ピヒ トの父親 ヴェルナ一 ・ピヒ ト

(WernerPicht)

は,元々 は作家 として活躍 し ていたが,ワイマール期 にC. H. ベ ッカー指導の下のプロイセ ン文部省 の成人教育部門の責任者

として招蒋 され,「 市民大学運動の最 も熱心な自由主義的援護者 の一人」

18)

として重要な役割 を 果 た した. 当時,C. H. ベ ッカー とヴェルナ一 ・ピヒ トは家族 ぐるみのつ き合 いをす るほ ど親杏 な関係 にあった。 この ことは,結局 は実現 はしなかった ものの,お互 いの息子であるヘルムー トとゲオル クを南西 ドイツの シュヴァルツヴァル ト ( 黒 い森) にあるピヒ ト家の別荘で個人教 授 の形で教育す る計画があった ことか らも知れ よう

19)

。 当然,ヘルムー トとゲオル クは幼 な じ みで はあったが,二人が 自覚的な交流 を開始す るのは,揃 って フライブル ク大学 に入学 を果 た した

1931

年か らになる

一方,ヘルムー ト・ ベ ッカー は, このゲオル ク・ピヒ トを介 して, その親友であった

C.F.

ヴ ァ イツゼ ッカー とも親交 を結ぶ ことになる。ゲオル クの父親 ヴェルナ一・ピヒ トが,

C.F

, ヴ ァイツ ゼ ッカーの父親 ( エル ンス ト・フォン ・ヴァイツゼ ッカー)の弟で,医学者のヴ イク トア ・フ ォン ・ヴァイツゼ ッカー

(ViktorvonWeizs良scker,1886‑1957

,以下

V.

ヴァイツゼ ッカー と 略) と親交があった ことか ら ( ヴェルナ一 ・ピヒ トの妻 はピタ トアの妹) ,ゲオル ク・ピヒ トと

C.F.

ヴァイツゼ ッカー は少年時代か らの親友であった。こうして,ベ ッカー と

C.F.

ヴァイツゼ ッ カー は,共通 の親友ゲオル ク ・ピヒ トを介 して

,1933

年 に避逓す ることとなった。 こうして, ヒ トラーが政権 を取得 して ドイツの前途 に暗雲が立 ち こめて きた頃,法学 を専攻 していた‑ル ムー ト・ベ ッカー は,ハイデガーの影響 の下 に哲学研究 を開始 したゲオル ク ・ピヒ トと, ライ プチ ヒ大学 のハ イゼ ンベル クの下で

21

才の若 さで博士号 を取得 した新進 の原子物理学者

C.F.

ヴ アイツゼ ッカー と親交 を深 めてい くことになる

この三人 の親交 はその後生涯 にわたって継続 され ることになる

3

ビク トア ・フォン ・ヴ ァイツゼ ッカー と

A.

ミッチ ャー リッヒ

さて,ヘルムー ト・ベ ッカー は

,1941

年の対 ソ連戦で足 に重傷 を負い

,1945

5

月の ドイツ 敗戦 を,前述 の よ うに南 ドイ ツの ボー デ ン湖 畔 の町 クレスプ ロ ンで母親, フラ ンス人 の妻

(AntoinetteBecker,1944

年 に結婚)らと迎 えた。彼 はフランス軍 の統治下 にあった この南 ド イツの地で, まず は弁護士 としての活動 を開始 した。主 としてフランス軍事法延で弁護活動 を していたベ ッカーに

,1947

1

1月か ら開始 されたニ ュル ンベ ル ク国際軍事裁判 でのエル ンス ト・フォン ・ヴ ァイツゼ ッカー

(ErnstvonWeizs宜scker

,ナチス期 の外務次官)の弁護依頼 と い う大 きな仕事が入 った。依頼主 は言 うまで もな く,

C.F.

ヴァイツゼ ッカーであった。か くし て,当時

34

才のベ ッカー は,親友 の父親 の主任弁護人 として,厚 いヴェール に隠 されていたナ チス ・ドイツの戦争犯罪の実態 と,同時 に政権 中枢部 にいる人間 によるヒ トラー体制への抵抗 とい う問題 に対峠す ることになったのであるO この裁判 の過程で は,ベ ッカー は彼 の助手 とし て裁判 に協力 した後 の ドイツ大統領 リヒャル ト・フォン・ヴァイツゼ ッカー (

C.F.

ヴ ァイツゼ ッ カーの弟) とも親交 を深 めたばか りで はな く,エル ンス トの弟で医学者 の

V.

ヴ ァイツゼ ッカー とも知己の関係 になった。

ベ ッカー は, 自らの思想形成 に影響 を与 えた人物 として,後述 され るホル クハ イマ‑ ととも

にこの

V.

ヴ ァイツゼ ッカー を挙 げてお り

20)

,特 に彼 を 「 学問上 の父」 とまで呼んでいる

2

1 ) 。で

は,

V.

ヴァイツゼ ッカー とは如何 なる人物 だったのだろうか。

Ⅴ.

ヴ ァイツゼ ッカー は,近代医

学 における専門分化 した機械論的あ り方 ( 医学の自然科学化) を,本来 の人間の 「 癒 しの技」

(6)

遠 藤 孝 夫

としての医学 のあ り方へ と転轍す ることを意図 し, フロイ トの精神分析的手法 を内科学 に適用 す ることで, デカル ト以来 の心身二元論 もまた心身両者間の単線 的な因果関係論 を も排除 して, 心身の相互 の円環的関係論,いわゆるゲ シュタル トクライス

(Gestaltkreis)

理論 を提唱 した こ

とで知 られ る

彼 は,病 いを近代医学のように 「 機械 の故障」 とい う原因の結果 として見 るの で はな く,人生 にお ける危機 ‑転機 とい う意味 を担 う苦境 として捉 えた し, また こうした疾病 観 に基づいて治療過程 も医師 とい う主体 と患者 とい う主体 との対話構追,つ ま り治癒的ゲ シュ タル トクライス として捉 えようとした

22)

0

もっ ともこうした Ⅴ. ヴァイツゼ ッカーの神秘主義 とも見 られかねない 「 医学的人間学」 とい う卓抜 した思想 は,近年 になって再評価 されつつあるものの,その最初 の構想が提示 された

192 0

年代後半 の時期 はもとよ り,戦後 の ドイツ医学界 において も必ず しも好意的 に迎 えられた訳 で はなかった。 しか し,弁護士のベ ッカー は,ニ ュル ンベル ク裁判 を契機 として この Ⅴ. ヴ ァイ ツゼ ッカー と親交 を結 び,両者 の対話 はその後 ヴァイツゼ ッカーが

1957

年 に死去す るまでの約

10

年間継続 されている

ベ ッカー は, Ⅴ. ヴァイツゼ ッカー との対話 を通 して,何 よ りもフロイ トの精神分析学 に開眼す る とともに, その理論 の背景 にある近代 自然科学的で機械論的手法で は捉 えきれない人間存在 の全体性 ない し神秘性へ と思索 を深 めてい くことになる。

関連 して,前述 のようにベ ッカー は,Ⅴ. ヴァイツゼ ッカーの弟子で,戦後 の経済復興 の中で 過去 の犯罪への無反省 と忘却が支配的 となってい くドイツ人全体 の精神構造 の問題 を厳 し く批 判 し続 けた,精神分析学者 アレキサ ンダー ・ミッチ ャー リッヒとも終戦直後か ら親交 を持 って いた。 ミッチ ャー リッヒが

1953

年 に 「ドイ ツ精神分析療 法 お よび深層心理学会

」(Deutsche GesellschaftforPsychotherapieundTiefenpsychologie)

の会長 に就任 した時,ベ ッカー は 同学会 の法律顧 問に就任 し

,1963

年 までその活動 を継続 している し

23)

,精神分析的手法 を社会 ・ 政治活動 の分析 に適用す ることの重要性 を指摘 した論考 も発表 している

24)

。 なお, ミッチャー

リッヒは,ハイデルベル ク大学で ビク トア ・フォン ・ヴァイツゼ ッカ‑ と共同 して精神療法 に 関す るゼ ミナールを主宰 し,同大学 の精神分析学および精神身体医学 の初代教授

,1960

年か ら はフランクフル トに設立 したジクム ン ト・フロイ ト研究所の所長 を兼務 した

。1967

年 にはフラ ンクフル ト大学教授 に就任 した。後述 され る現代 ドイ ツを代表 す る社会哲学者 ハーバ ーマス

(JtirgenHabermas)

,1962

年 にハイデルベル ク大学教授 に就任 して ミッチ ャー リッヒと出 会 い,「 心か らの友情で結 ばれた」

25)

関係 を持つ ことになる。ハーバーマスの主著の一つ 『 認識 と関心』

(1968

年)は, ミッチャー リッヒが主宰 したフロイ ト研究所での水曜討論会への参加 を 背景 にして執筆 された ものであった。

4

各種の文化 ・学術団体の法律顧問

1)文化活動の弁護への集中

ところで,ヘルムー ト・ベ ッカー は, ドイツ敗戦直後 のフランス軍事法廷 お よびニ ュル ンベ ル ク国際軍事法廷での弁護活動の後, 自らの活動 をほぼ一貫 して文化 ・学術 団体 の法律顧問 と しての活動 に集中 させていった。 こうした活動 のあ り方 について,ベ ッカー は後年次 のように 回想 している。

「 様 々な文化的な接触か ら私 に明 らか になって きた こと, それ は管理 された世界 において文

(7)

化的 に活動 している人間 は,‑‑・ 刑事訴訟 における被告人 と同 じ立場 に置かれているとい うことであった。彼 は言わば自らの存在権 を証明 してみせなければな らなか った。この こと が,私 の弁護士活動 を文化団体 の弁護へ と完全 に移行 させ ることになったのである。」

26)

この時期弁護士ベ ッカーが法律顧問や委員な どとして関わ った団体 の中には,後述 され る団 体 の他 に も,例 えば ミュンヘ ン大学 の学生 によるナチズムへの抵抗活動, いわゆる 「白バ ラ抵 抗運動」に関連す る 「シ ョル兄妹基金

」(GeschwisterSchollStiftung

, ウルム市),「ミュンヘ ン現代史研究所

(InstitutfurZeitgeschichte)

,「ドイツ学生基金

」(dieStudienstiftungdes deutschenVolkes)

な どが含 まれている

この うち,ベ ッカー は ミュン‑ ン現代史研究所 との 関係 で は, その学術顧問 として運営 に参画す るとともに,ニ ュル ンベル ク軍事裁判での自らが 関わ った裁判資料 を寄贈 している。またベ ッカー は,カ トリック系列 の学生援助組織である ドイ ツ学生基金で は選考委員会 の委員 として参加 してお り, この活動 を通 してフォルスター

(For ster,K

. ),ハ ンスラー

(Hanssler,B.)

, メ ツサー シュ ミッ ト

(Messerschmid,F.)

といったカ ト

リック界 を代表す る知識人 ・ 学者 と親交 を持 った ことは,後 のマ ックス・ブランク教育研究所 の 設立や ドイツ教育審議会 におけるベ ッカーの活動 を側面か ら支 えるもの ともなるのである

2

7 ) .

しか し,文化 ・学術 団体 の法律顧問 としての活動 の中で も, その後 の教育研究者 ない し教育 政策家 としてのベ ッカーの思想 と活動 に とって とりわ け大 きな意味 を持つ ことになるの は,私 立学校,市民大学, そ してフランクフル ト社会研究所 との関係 であった。以下,順 に検討 して みよう

2

)私立学校

そ もそ も,ベ ッカーが教育や学校 の問題 に関与す ることになる契機 となったの は,ゲオル ク・

ピヒ トとの親交であった。ゲオル ク ・ピヒ トは, ドイツ敗戦直後か ら,廃校 となっていた田園 教育舎 ビル クレホ‑ フ校

(Landerziehungsheim SchuleBirklehof,1931

年ザ レム城校 の分校 と して設立)の再建 に着手 し, その校長 として 自律性 と責任 とを兼ね備 えた 「自由な人間」の育 成 を目指 し, そのための国家統制か らの学校 の自由を求 めて教育活動 を開始 していたが, こう した自由な教育活動 は当時の南バーデ ン州 ( 後 にバーデ ン ・ヴユルテ ンベルク州 となる)の学 校当局 との間で厳 しい対立状態 を生んでいた。 この時, ピヒ トは官憲的国家当局か ら私立学校 が 自由を獲得す るためには,何 よ りも私立学校間の連帯 と私立学校 の自由の法的保障の実現 こ そ急務 と考 え,弁護士のベ ッカーに協力依頼 をす ることになる

28)

。 この依頼 を受 けて,ベ ッカ ー は,ビル クレホ‑フ校 の理事 として同校 の運営 に参加す るとともに

,1947

年 に結成 された「ド イツ田園教育舎連盟

」(VereinigungDeutscherLanderziehungsheime)

の法律顧問に就任 し, 精力的に各地の田園教育舎 の訪問, そして多 くの教育者 たち ( 特 にオーデンヴァル ト校 の校長

MinnaSpecht)

との対話 を重ねていった。

同時 にベ ッカー は

,1950

年頃か らは,戦後 のシュタイナー学校 (自由ヴァル ドル フ学校)の

復興 に尽力 していた教育家 ヴァイセル ト

(ErnstWeiBert)

と親交 を持 ち,「自由ヴ ァル ドルフ

学校連盟

」(BundderfreienWaldorfschulen)

の法律顧問に も就任 している。 さらに,カ トリ

ック系か ら改革教育運動系 の学校 まで を含 むあ らゆる私立学校 の連帯組織 である 「 バーデン ・

ヴユルテ ンベル ク州公益私立学校協議会」が

1952

5

月に, その全 ドイツ的組織である 「 連邦

公益私立学校連盟協議会」が同年 9月に設立 された時,ベ ッカー はそれぞれの協議会 の事務局

(8)

長 (

GeschAftsftihrer

) に就任 している

29)

0

1950

年 に南バーデン州で, その後 の私立学校 の 自由の法的保障のモデル ともなった戦後 ドイ ツ最初 の私立学校法

30)

が成立す るが,ベ ッカー とピヒ トはこの私立学校法 の制定 と内容構成 に 密接 に関与 していたのである

3

1 ) 。 こうしてベ ッカー は,親友 ピヒ トか らの誘 いが契機 とな って, 私立立学校 とその教育関係者 との関係 と対話 の機会 を持つ ことにな り,私立学校 における自由

とその法的保障の問題 と対崎す ることになったのである。

3

)市民大学

ベ ッカーの ドイツ教育界 における地位 をより確かな もの とし,彼 の社会的影響力 を強 めた も の として,以上 のような私立学校 に加 えて, さらに成人教育機関である市民大学

(Volkshoch‑

schule)

との結 びつ きも確認 しなければな らないだ ろう

ドイツにおける成人教育 ( 継続教育) は,1

9

世紀 の労働者教育運動以来 の伝統 を有 しているが,市民大学 はその中核的機能 を担 う機 関 として,前述 のようにワイマール期 に飛躍的 に発達 した ものであった。 ちなみに,1

993

年 の 時点で見 る と,ドイツ全体で1,

067

校 の市民大学があ り,そ こで は年間4

8

万 コースを超 す学習講 座が提供 され,全人 口の約

8%

に相 当す る約640 万人 もの市民が受講 している

32)

ベ ッカー は,前述のシ ョル兄妹 の姉 にあたるインゲ ・シ ョル

(ngeScho

l l ) の指導 の下 に, 敗戦 の翌年1

946

年 に開設 されたウルム市の市民大学 とまず関係 を持 つ ことになる。ベ ッカーの 妻 アン トイネ ッテがインゲ ・シ ョル と親交があ り, この市民大学で しばしば教壇 に立 っていた ことが,ベ ッカー と市民大学 との関係 を取 り結 んだ

33)

当時, ウルム市 の市民大学で講師 を務 め た人物 には,例 えばテオ ドア・ホイス

(TheodorHeuss,1949

年 ドイツ大統領),ハ イゼ ンベル ク

(WernerHeisenberg,1933

年 ノーベル物理学賞受賞),ベル

(HeinrichBG

l l

,197

2年 ノー ベル文学賞受賞),マ リテ ィン・ブ‑バー

(MartinBuber)

, さらに前述 の ミッチ ャー リッヒや C. F. ヴァイツゼ ッカー, そして後述 され る哲学者 のホル クハイマ‑な どがいた

34)

。 いずれ も, ナチス ・ドイツの犯罪 とそれ を もた らした ドイツ人 の精神性 を直視 し,戦後 の ドイツ社会 を批 判的 に問い続 けた人物 たちばか りであることに注 目したい。事実,後 にシ ョル兄妹の抵抗思想 を 『白バ ラ

』(DieWeiBeRose,1952)

で著す ことになるイ ンゲ ・シ ョル は,敗戦直後 の混乱 と貧窮の状況下 の中で,何 よ りも「 広範 な啓蒙 のみが第三帝国の破局 を阻止することがで きる」

との思いか ら,市民大学 の創設 と活動 に奔走 していたのであった し,イ ンゲ ・シ ョルに協力 し た知識人 たち も,ナチス・ドイツへの 「 抵抗 の精神 を継承 す るために」

35)

, この市民大学 の教壇 に立 っていたのである。 この ことか らも知れ るように,市民大学 は単 なる有閑人への教養の提 供 の場 としてよ りも ( ベ ッカーの言葉 を借 りれば 「 教養 デパー ト

」Bildungsware血aus36))

,良 き市民 の形成 を目指す,す ぐれて 「 政治教育」の場 としての機能 を担 う機関 と言 えるだ ろう。

ベ ッカー は,以上 のようなウルム市 の市民大学 との関係 を基盤 として,1

956

年 にはこうした 市民大学 の全国組織である「ドイツ市民大学連盟」(

DeutscherVolkshochschu1V

er band,1 953 年設立)の総裁 (

Pr

sident)

に選出 され,1

974

年 までの1

8

年間 とい う長期 間 その地位 にあ っ

た.ベ ッカー は, ポイエル レ

(TheodorB宜uerle

, ワイマール期 の市民大学 の指導者 の一人)に

続 く,第二代 目の総裁であったが,彼 はこの間に,何 よ りも教育制度全体 に果 たす成人教育 の

役割 と意義 を明確 にす ること,市民大学 にお ける政治教育的機能 を重視 し,特 にナチス ・ドイ

ツにお けるユダヤ人虐殺 ( ホロコース ト) を積極的 に取 り上 げること, この二点 に重点的 に取

り組 んでいった。

(9)

この うち,第一 の点 について は,ベ ッカー は自らがその中心的委員 を務 めた ドイツ教育審議 会 の

1970

年の勧告 ( いわゆる 「 構造計画

」)

において,成人教育 ( 継続教育)を,基礎的および 初等領域,中等領域,大学の 3領域 と並ぶ第 4の教育領域 として,教育制度全体 の中に明確 に 位置づ けるべ きことを提唱 した勧告 を導 き出 している。 また,第二 の点 については,総裁 に選 出 された年 に行 なった演説 「自由な成人教育 のための思考」において, ホル クハイマ

‑ (Max Horkheimer,1895‑1973)

の言葉が引用 されていることに端的 に示 されているように,ベ ッカ ー 自身,ナチス ・ドイツの野蛮性 の持つ意味 を思索の原点 に据 えていたユダヤ人哲学者 のホル クハイマ‑およびア ドルノ

(TheodorWiesengrundAdorno,1903‑1969)

たち との対話 を通 して, ホロコース トを直接学 び取 っていた。 リヒャル ト・フォン ・ヴ ァイツゼ ッカーの

1985

年 の名演説 「 荒れ野 の

40

年」の精神 と同様 に,ベ ッカー は, ナチス ・ドイツの犯罪 を単 なる忌わ しい 「 過去」 として闇 に葬 るので はな く,過去 を直視 し絶 えず問い直す ことこそが重要である と考 えていた。 この ことは次 の ようなベ ッカーの主張か らも確認 され よう

「 私 は ドイツ市民大学連盟総裁 として, ナチスの過去 の記憶 を持続 させ ることに努力 した。

私 は全体 として市民大学が こうした観点で思慮深い役割 を果 た した と思 う。他方で はまた,

1933

年以前 の ドイツ人 は違 っていた とか

,1945

年以降の ドイツ人 は再 び元 に戻 った といっ た考 えはまった くたわ ごとだ と言わねばな らない。 ドイツ人 には, もしもそれ を望 むな ら ば,明 白に国家社会主義的な連続性が存在す るのである。‑ナチズム は,天か ら降って き た もので も, また突然悪意 の狂人 によって ドイツ人 に強制 された もので もな く, さまざま な社会 の階層の中で徐々 に準備 されていた ものなのである。」

37)

ちなみに, ドイツ市民大学連盟の教育研究部門 ( 現在, ドイツ成人教育研究所)が

1957

年 に 設 けられた時, その責任者 に起用 されたシュ トウルツェレヴ ィック

(WillyStrzelewicz)

は, 戦前 ホル クハイマ‑が所長 をしていた フランクフル ト社会研究所

(Institut fur Sozialfors chunginFrankfurt)

の所員 の一人 で,ナチス時代 のスウェーデ ン亡命 を経て戦後帰国 した人 物であった

38)

。以後彼 は成人教育領域 の重要性 を社会的 に認知 させ る上で大 き く寄与す ること になる

39)

こうして,ベ ッカー は市民大学連盟総裁 として, ドイツの教育界 で これ まで以上 の影響力 を 獲得す る とともに, この市民大学 ない し成人教育問題 との関係 を契機 として, それ までの私立 学校 と国家 ( 行政)の関係 とい う枠組 みを超 えて,教育 その もの,教育制度 ・教育政策全体 に 対す る考 え方 ・思想 を形成 していった。 こうしたベ ッカーの教育思想 の形成 を側面か ら支 えた もの として, もう一つホル クハ イマ‑お よびア ドルノに代表 され る, フランクフル ト学派 との 関係 を次 に確認 してみ よう

4)フランクフル ト学派

上述 したように,私立学校 や市民大学 との関係や教育者 との対話 は,ベ ッカーが弁護士か ら 教育研究者 ない し教育政策家へ と発展す る際の具体 的で直接的な教育上 の認識 と活動 の場 をも た らした。 しか しその一方で,前述 の Ⅴ. ヴ ァイツゼ ッカーや ミッチ ャー リッヒな どに加 えて, ベ ッカーの思想 と行動 に絶 えず刺激 と養分 とを供給 していた と考 えられ るのは,一般 に 「フラ

ンクフル ト学派」 と総称 され るようになった知的集団, その中で もとりわ けホル クハイマ一,

(10)

ア ドルノ, そ してハーバーマス との親交であった。

フランクフル ト学派の拠点 とも言 うべ きフランクフル トの社会研究所 は,ナチス ・ドイツ時 代 はその有力 メンバーがユダヤ人であった ことか ら,迫害 を逃れて, アメ リカに移 されていた が,戦後 の

1949

年 にアメ リカ亡命か ら帰国 したホル クハイマ‑やア ドルノによって再建 された

(1950

年) 。人間の理性や合理的思考 による 「 脱呪術化」は輝か しい西欧文明 を もた らす筈であ ったが, それが何故 にナチス ・ドイツによるホロコース トに象徴 され る 「 野蛮」へ と転落 した のか とい う根源的問い, この間い との格闘 こそが この学派の活動 の底流 をなす ものであ り, ホ ル クハイマ‑ とア ドルノの共著 『 啓蒙の弁証法

』(DialektikderAufklかung.Philosophische Fragmente,1947)

は, この学派 を象徴す る著書である。 ア ドルノによる 「アウシュヴィッツの 後で詩 を書 くことは野蛮 である」 とい う言葉 は余 りにも有名 になったが

,1950

年代 の ドイツが

「アデナウアー政権下で反共一色 に染 まり, ナチスの過去 を無視 して,怪 しげな西欧 ヒューマ ニズムの名 によって西側 の社会体制 を守 ることに狂奔 していた当時の全体状況 にあって, そ う

した公式の文化 の野蛮性 を鋭 くつ きつづ けたのはア ドルノであった。」

40)

しか し,社会研究所が再建 され, ホルクハ イマ‑が

1951

年 に ドイツの大学史上最初 のユダヤ 人 としてフランクフル ト大学 の学長 に就任 した とはいえ, ドイツ社会 の民主化 の時代潮流の中 で, それ を支 える理論的支柱 としてホル クハ イマ‑やア ドルノ らの思想が一躍注 目され るよう になるようになるのは

1960

年代以降の ことであって

41)

,社会研究所 の再建 当時 はまだ まだ彼 ら 思想家 には厳 しい時代であった。「もっ ともアクチ ュアルで,もっ とも深 く歴史的状況 を把握す る,未来豊かな思想 は, ある時期 には, その担 い手 を孤立無援 な境遇 につれてい くこともある。

知識人 たちはこの厳 しさに耐 えることがで きない」 と書 いたホル クハ イマ‑の言葉 は

42)

, この 時期 の彼 らフランクフル ト学派 の知識人 の姿その もので もあった。

ヘルムー ト・ベ ッカーが この戦後 の ドイツ思想界 を代表す る知的集団 と避逓す るのは, まさ にこうした時期 であった.すなわち,ベ ッカー はまず

,1951

年頃,共通 の友人 を介 して,学長 就任間 もないホル クハイマ‑を学長室 に訪ねている.ベ ッカーの回想 によれば,両者 の出会 い は 「 一瞥 にして生 じる恋愛の ような何かであった」 。 そ して, ホル クハイマ一には,「い ま我々 はあ らゆる悪が起 こりうる世界 に生 きている」 との思いがあ り,ベ ッカーに対 して 「 我々 は一 緒 に仕事 をしなければな らない」 と述べた とい う

43)

。 こうしてベ ッカー は再建間 もないフラン クフル ト社会研究所 の法律顧問 に就任 し,以後 ホル クハイマ一, ア ドル ノ,ハーバーマス とい ったフランクフル ト学派 との協力関係 と対話が開始す ることになる

ベ ッカーの論文や講演 に は,随所 にホル クハイマ‑やア ドルノの思想が織 り交ぜ られているし,ア ドルノ との対談書 『 成 人性への教育

』(ErziehungszurM臼ndigkeit.VortrageundGesprchemitHellmutBecker

,

1959‑1969,1970)

はロングセラーを続 けた. またベ ッカーが

1963

年 にマ ックス・ブランク教育 研究所 を創設 した時, その準備段階での議論か ら, ア ドルノの助手 を務 めていたハーバーマス が参画 していた

44)

。 なお,ベ ッカーの親友のゲオル ク ・ピヒ トも

1960

年代 になってア ドルノ と の親交 を結 んでいるし

45)

,同 じ く

1970

年 に設立 され,ベ ッカーの親友

C.F.

ヴァイツゼ ッカーが 所長 を務 めていたシュタル ンベル クのマ ックス ・ブランク研究所 には,ハーバーマスが翌年

71

年か ら共同所長 として参加 している. また,ハーバーマスが精神分析学者 の ミッチャー リッヒ

と親交があった ことは既 に述べたが,その ミッチ ャー リッヒ自身 もフランクフル ト学派の第一

世代,特 にホル クハイマ‑か らの影響 を強 く受 けていた ことも知 られている

46)

.ベ ッカーの周

囲で は, こうした豊かな知的交流が展開 されていたのである。

(11)

以上概観 して きたように,ヘルムー ト・ベ ッカー は ドイツ敗戦後 の混乱 と復興 の時期である

1950

年代 に,学生時代か らの親友ゲオル ク・ピヒ トと

C.F.

ヴ ァイツゼ ッカー との濃密 な親交 を基 盤 として,田園教育舎 お よびシュタイナー学校 を中心 とす る私立学校,市民大学, Ⅴ. ヴ ァイツ ゼ ッカー とミッチャー リッヒ, そしてホル クハイマ‑ とア ドルノを中心 とす るフランクフル ト 学派 な どの文化 団体 および知識人 との友好関係 を築 いていった。つ ま り弁護士ベ ッカーの周囲 には,教育,医学,心理学,哲学 ・思想 な どの分野で,保守的で伝統的な枠組 や思考 に異議 を 唱 え,新 たなあ り方 を模索す る,従 って また復古主義的時代潮流の中にあって敢 えて茨の道 を 選択 した団体 や知識人が輝 き始 めていた。弁護士ベ ッカー は, こうした星々 との避蓮 と持続的 な対話 を通 じて, その後の教育研究者 ない し教育政策家 としての思想 と活動 の基盤 を形成 して いったのである

それで は, この ような思想的な布置 ( コンステラチオー ン)の下で形成 されたベ ッカーの教 育思想 について,次 に検討 してみよう

Ill

へルムー ト・ベ ッカーの教育思想 ‑ 「 管理 された学校」か ら 「自由な学校」へ ‑

1 文化の 自由 とその現実的保障

さて,弁護士ヘルムー ト・ベ ッカーが,文化 ・教育問題 での本格的な学術的執筆活動 を展開 す ることになる出発点 なった論文が

,1953

年 に 『メルターア』誌 に掲載 された 「 誰が文化 の自 由を資金援助す るのか ?

」 (WerfinanziertdiekulturelleFreiheit?1953)47)

であった (この 節 の引用 は特 に注記 しない限 り,この

1953

年論文か らの ものである) 。この論文 は,上述 のよう な各種 の文化団体 の法律顧問 としての実務経験 とそ こか ら得 られた問題関心 を根底 に執筆 され た ものであ り,「 財政権 の国家への集中」とい う特徴 を持つ現代社会 の中で,憲法で保障 された

「 文化の自由」が破壊 され,「 全体主義的な文化への堕落」や 「 文化 の国家化」が進行 している 状況 にあって,如何 にして文化 の自由を現実的に保障すべ きか, この文化 の自由の現実的な保 障基盤 の問題 を論 じた論文である。 このベ ッカーの最初 の学術論文 には,彼が最後 まで維持す ることになる文化 ないし教育政策 における彼 の基本的な二つの考 え方 ( 思想)が提示 されてい る。

まず第一 に,文化や もっと広 くは人間の精神生活 の自由 とい う基本的認識 である。すなわち ベ ッカーによれば,文化すなわち学問,教育,芸術 は,本来的 に 「 今 日の時代 における人間像

(dasMenschenbild)

を求 める永続的努力 のなかで 自由に形作 られ ることがで きるべ きもので あって,国家 によって予め規定 され るべ きものではない。」何故 な ら,「 精神的なかつ人間的な 領域 に対す る如何 なる役人 の支配

(HerrschaftderFunktionare)

ち, 自動的 に非人間的な も のへ と通 じて しまう」か らであ り, その際 に文化 を規定 しようとす る国家 ( 役人)が国家社会 主義 ( ナチズム)の思想 に従 っていようとも, またた とえ民主主義の思想 に従 っていようとも 同 じことなのである。 こうした教育 を含む文化 の領域 を 「 精神的なかつ人間的な領域 」 として 把握 し, そ こへの国家権力 の介入 を排除す る思想 は,古 くはベ ッカーの祖先 も親交があった と い うフンボル ト

(Wilhelm YonHumboldt,1867‑1835)

や, またベ ッカーが法律顧問 として 関与 したシュタイナー学校 の創始者 シュタイナー

(RudolfSteier,1861‑1925)

の思想 とも共 通す るものであった。

同時 に第二点 として,ベ ッカー はだか らといって国家の存在やその役割 その ものを排除す る

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