• 検索結果がありません。

レッシングの文学・芸術論(その一)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "レッシングの文学・芸術論(その一)"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

レッシングの文学・芸術論(その一)

この研究ノートは,Fハンブルク演劇論』に限定したレッシングの芸術論,思想の全体像 である.それがいかに包括的であるかは,私が仮に付けた表題の総目次を見れば,一目瞭然 である.しかし,彼の芸術論の真の全体像を示すためには,さらに彼の他の芸術論,例えば, 寓話論やラオコーンや文学書簡,往復書簡,等々を研究して整理しなければならない.それ は今後の仕事である.

レ、ンブルク演劇論』は,ハンブルク劇場で週2回公演される劇の批評を任されたレッシ ングが,主としてその時々の演劇評一後にレッシングはその時々の演劇評に拘束される ことなく,自らの積極的な演劇論,芸術論を精力的に展開した‑を発表し,それを1冊 の本にしたものである.そのため,彼の豊かで,貴重な演劇論,芸術論が,残念ながら非常

にアットゥ・リャンダムにあちこちで展開されている.そればかりか,今日から見て,あま り高い評価を与えることのできない論評も少なくない.この研究ノートは,それらを,自ら の関心にしたがって,整理し,一つの体系に纏めあげたものである.

今回は,主としてレッシング自身に語らせることが目的である.次回は,私が語る番であ る.つまり,この研究ノートは,レッシングの演劇論と芸術論,そしてそれらの各論につい て,今後本格的な論文を書くための貴重な材料となるものである.したがって,レッシング の演劇論,芸術論‑それらを整理し,体系としての彼の芸術論の全体像を示すことがこ

の研究ノートの主目的であるがゆえに一に私の注釈を加えることは,今回できるだけ控 え,レッシングの生の声を忠実に伝えること,レッシングの理論,思想を忠実に反映させる ことに努力を傾注した.そのため,日本語訳には細心の注意を払い,推考を重ねたつもりで はあるが,まだまだ未熟な拙訳の域を出ていない.今後さらに十分検討して,レッシングの 文学・芸術論,特に演劇論の諸概念を正しく映し出し,彼の批評家としての息吹を生き生き

と伝えるような,よりよい日本語の訳を目指したい.今回発表する F研究ノート(そ.の一)』

の内容は,紙数の都合上,総目次の内の「1.レッシングの自己批評」と「2・批評」の二 つだけである.

最後に,奥住綱男氏の訳は大変立派なもので,大いに参考にさせてもらった・なお,レッ シングの論評の最後につけたページ数は,底本としたLessingsWerkeHerausgegebenvon K。rtW61fel,ZweiterBand,InselVerlagの中の"HamburgischeDramaturgie"のページ数であ る.()内の日本語は,原文の意を汲んだ私の解釈で,11内は,レッシング自身の

言葉である.

総目次

1.レァシングの自己批評 2.批評

批評と天才,規則と天才 3.芸術論

芸術の使命

芸術の意義,芸術の商品化批判 作品の完全性,完結性

‑177‑

(2)

心の言葉,詩的言語,感情の大切さ 言葉と精神,生命

理論に作品が優先 真の規則と機械的な規則

芸術と宗教 芸術,出版の自由 啓蒙としての芸術

1)絵画論(主としてFラオコーン』) 2)寓話論(主として『寓話論』)

寓話と劇のジャンルの区別 3)文学論

A.文学と歴史と哲学の差異と類似性 美とジャンル

作家と歴史家(劇と歴史),歴史劇 B.演劇論

フランス劇批判 シェイクスピア賛美 ギリシア,ローマの古典劇 劇と道徳

悲劇と喜劇,悲喜劇,劇詩 国民演劇

表題について 指輪について A)劇と物語

劇と物語のジャンルとそれらの本質 B)監督・排優論

戯曲と上演

演技力の訓練について C)悲劇論

テーマと題材,十字軍批判 環境と性格

a.市民悲劇論 悲劇の定義

宮廷・貴族批判と演劇

身分,階級の同一性(君侯英雄の名前,称号と劇)

レアリスムス

①詩的真実と絶対的真実 (D模倣

③典型と例外,典型性の創造 個性

性格

(3)

性格と行動,行為,筋 劇の必然性,動機付け モザイク批判 一個の全体性 規則

①三統一 (a)筋の統一 (b)場所の統一 (c)時の統一 同情と恐怖

カタルシス

独創性 単調さの排除

D)喜劇論 レアリスムス 喜劇の定義 書劇と悲劇 笑いと嘲笑 4)音楽論

1.レッシンクの自己批評

「私は俳優でもないし,詩人(Dichter)でもない.

確かに,人は時々私を後者であると認めて,敬意を表わしてくれる・しかし,それは単に 私を誤解しているからに過ぎない.私が敢えて作ってみた二,三のドラマの習作から,その

ような寛大な結論を下すべきではないであろう.絵筆を手に取り,絵の具を浪費する人すべ てが画家であるとは限らない.それらの習作の中で一番古いもの(複数)は,歓楽や軽快を 天才的な才能(Genie)とみなしたがる時代に書きなぐったものである・最近のものでやや ましなもの(Ertragliches=我慢のできるもの)については,ひとえに批評(Kritik)のお陰 だ(注1)と感謝しなければならないことを大変よく自覚している・私は,自分自身の力で 向上していくような,(換言すれば)非常に豊かで,非常に新鮮で,非常に純粋な光を自分 自身の力で放って燃え上がるような,躍動する(1ebendig)源を,私の中に感じない・私は すべてを押上ポンプと導管とによって,私の中から押し上げ(heraufpressen)なければな

らない.私は他人の財宝を謹んで借り,他人の火で私を暖め,芸術という眼鏡(dieGlaser d。rK。nSt)(注2)で視力を増すということをある程度学ばなかったならば,非常に貧困で,

非常に冷たく,非常に近視眼的であろう.それゆえ,私は批評(Kritik)に不利なことを何 か読んだり,聞いたりした時には,いつも恥ずかしく思ったり,腹立たしく思ったりしてき た.批評(Kritik)は天才(Genie)を窒息させるという.それなのに,私は天才(Genie)に 非常に近いものを幾分かは批評(Kritik)から得ることができるのだと得意になっていた・

私は松葉杖に対する中傷文(注3)を読むと,いつも気落ちする,足の不自由な者である・

しかしながら,松葉杖は,足の不自由な者がある場所から他の場所へ移動するのに確かに 役立つが,彼をランナーにすることはできない・これは当然のことであるが,批評(Kritik)

もまたしかりである.もしも私が,批評(Kritik)の助けを借りて,私と同じような能才(Talent)

一179‑

(4)

たちの内の一人が批評(Kritik)なしにやれるよりも立派なことを何か成し遂げるとしても, 私には非常に多くの時間がかかるし,他の仕事からは完全に自由にならなければならず,ま た心ならずの散漫さにまったく妨げられないようにしなければならない,そして私の読書に

よって得た知識をすべて非常にありありと眼前に思い浮かべ,一歩進むごとに,非常に冷静 になって,私がかつて道徳や情熱(Leidenschaft)について行なった論評(Bemerk。ng)す べてにざっと昌を通すことができなければならない・だから,目新しいものを提供して,劇 場を楽しいところにしなければならない仕事には,この世界で,私ほど適さない者はいない.」

(第101,102,103,104号S.522)

「誰であれ自分の努力は誇ってもよい.私は,劇の詩学(diedramatisch。Dichtk。nSt)を 勉強したと信じている・それを実際に利用している二十人の人よりもっと多く勉強したと信

じている・また私は共に(共通の土俵で)議論をするのに必要な位には,それを実際に利用 してきた・というのも,.私は,画家が絵筆を扱うことを皆目知らない人から非難されるのを 好まないのと同様に,作家(Dichter)もそんな人から非難を受けるのを好まないというこ とをよく承知しているからである.私は,少なくとも作家(Dicht。r)がなさなければなら ないことはすべて試みてきたし,私自身にできないことが,人にできるかどうかを判断する (urteilen)こともできる・私はまた,あちこちの(demoderje。。m)外国人を真似してしゃ

べることを学ばなかったならば,魚よりも無口であろう(と思われる)多くの人達が,でし やばって発言するような場合には,たったの一言でよいから,(外国人の人真似でなく)わ れわれ(自身)の頭で考えた発言をもするように注文をつけておく.(Ichverlang。a。Chn。r eineStimmeunteruns,)

しかし,(人は)勉強をしても,誤謬の中に深く陥ってしまう(ように勉強をする)こと もありうる・したがって,私がそのような人にならなかったということ,私が劇の詩学(di。

dramatischeDichtkunst)の本質を誤解していないということを私に保証してくれるものは アリストテレスはギリシアの演劇(Bnhne=舞台)の無数の傑作から劇の詩学(die

dramatischeDichtkunst)の本質を抽象したが一私がそれをアリストテレスとまったく同 じように認識しているということ,このことである.私は,この哲学者の詩学(Di。htk。nSt) の成立(過程),その原則(Grundlage)から,私自身の思想を得ている.もしこれを私がこ

こで述べ始めるならば,膨大なものになるのは避けられないであろう.とにかく,私はため

らうことなく,アリストテレスの詩学(Dichtkunst)を,ユークリッドの諸定理とまったく 同様に,誤りのない著作とみなしていることを告白する・iそして,この啓蒙された時代に, そんなことを告白すれば,私は物笑いの種になるであろうが,たとえそうなっても告白す

る!iその諸原則(Grundsatze=諸根本命題)は,それらに含まれているものすべてとまっ たく同様に,真理であり,確実であるが,ただ当然のことながら,それほど分かりやすくは ない,それゆえ,それらはむしろ揚足取りのような嫌がらせに晒されてきた.悲劇に関して

は,時代がそれらの諸原則(Grundsatze=諸根本命題)から抽出したものをほとんどすべて われわれに喜んで与えようとしている時でもあるし,私は,特に(悲劇については,)悲劇 がアリストテレスの規範(Richtschnur)から一歩でも離れるならば,必ずその分だけ悲劇 の完全性(Vollkommenheit)から遠ざかるということを,反論の余地のないように証明する 自信がある.

このような信念に基づいて,私はフランスの演劇(B山川e=舞台)の最も有名な典型の内

(5)

から,作品を若干取り上げ,これらを詳細に批判しようと決心した・というのは,このフラ ンスの演劇(Bnhne=舞台)は,アリストテレスの諸規則(Regel)に完全にしたがって作り あげられたものであるという評判があったかちであり,そのうえ,専らこれらの諸規則 (Regel)によって,フランスの演劇(BBhne=舞台)は完成(Vollkommenheit)の域に到達し, その高みから近代のすべての民族(Volk)の演劇(Bohne=舞台)をはるか下方に見下して いる,と人々がわれわれドイツ人を特に説き伏せようとしていたからである・われわれもま

た長い間,わが(国の)作家たちが,フランス人を模倣しても,それは古代人の諸規則(Regel) にしたがって仕事をするのとまったく同じことをしているのだと堅く信じてきた.

しかしながら,このような偏見は,われわれの感情(Gef血1)に対して,そう長くは持ち こたえられなかった.このわれわれの感情(Gef血1)は,幸いなことに,イギリスの若干の 戯曲(S拍Ck)によって,まどろみから目覚めさせられた,そしてわれわれはとうとう,コ

ルネイユやラシーヌが悲劇に与えようと努力した効果とはまったく別の効果をも悲劇はあげ ることができるということを経験した.しかし,われわれは,真理のこの突然の光に目を眩 まされ,跳ね返されて,別の深淵に臨んだ.イギリスの戯曲(SⅢck)には,フランスの戯

曲(Stnck)によってわれわれが知っていた,ある種の諸規則(Regel)が欠けていたのは, あまりにも明白だった(からである).このことから,どのような結論を出したか・それは こうである.このような諸規則(Regel)がなくても,悲劇の目的を達成することができる

ということ,否,悲劇の目的がそれほど充分に達成されないのであれば,おそらくそのよう な諸規則(Regel)に全責任があるのかもしれないということである・

そしてそれ位ならまだ我慢もできたかもしれない!‑しかし,そのような諸規則

(Regel)が規則(Regel)のすべてであると勘違いし(注4),天才(Genie)に対して,しな ければならないこととか,してはならないことなどを指図することは,一般に街学趣味

(Pedanterei)であると言明し始めたのである.要するに,われわれは,軽率にも過去の時 代の経験をすべて捨て去ってしまうというところにまで来てしまったのである,そして作家

(Dicht。r)たちに,あなたがた一人一人が独力(fnrsich)で新たに芸術を創造(erfinden) しなさい,と要求する方がましだとするに至ったのである・

もしもこのような趣味(G。S。hmack)の騒擾(Gar。。g)を阻む唯一の処置を取ったあが(こ の)私であると思ってさしつかえないならば,私はわが(国の)演劇(Theater=劇場)に

対して,若干ではあるが,功績を挙げたと自惚れてよいであろう・私は,フランスの演劇

(Bohn。=舞台)の規則遵守(RegelmaL5igkeit)とやらの狂気に異論を差し挟むこと以外に何 ものも気に掛けずに,その日的に向って仕事をしてきたことを少なくとも自負してもよいと 思う.まさにいかなる国民(Nation)といえども,古代の演劇(Drama)の諸規則(Regel) をフランス人以上に(ひどく)誤解したりはしなかった.フランス人は,非常に適切な演劇 (Drama)の外的構成に関して,あのアリストテレスの中から,彼らが発見した若干の枝葉 末節的な論評(Bemerkung)を本質的なものと思い,そしてそのかわりに,本質的なものを, あらゆる種類の制限や解釈によってまったく無力化してしまった.その結果,彼らは必然的 に,この哲学者が彼の諸規則(Regel)を算定した時に狙っていた最大の効果とはほど遠い(効

果しかあげられない)作品以外に何も生み出すことができなかった・

ここで私は敢えて一つ意見を言う.人がそれをどのように取ろうが構わない!私が改良し たいと思わないような,大コルネイユの戯曲(SⅢ止)を挙げてみせて欲しい・いくら賭け

‑181‑

(6)

ようか.

‥・私はそれ(大コルネイユの戯曲)をきっと改良してみせる.‑しかしそれでも やはりまだまだこれから先長きにわたって,コルネイユ(のよう)にはなれないであろう.

‑そしてまだまだこれから先長きにわたって,傑作を書きあげた,とは言えないであろう.

私はそれをきっと改良してみせる.‑しかし,このことを誇ることは,やはり殆ど許さ れないことであろう.私は,あのアリストテレスを,私と同じ程度に堅く信じている人なら 誰でもなすことのできること以外何もしていない(からである).」(第101,102,103,104 号S.526〜528)

1.1772年4月21日付けのレッシングのラムラー宛の書簡の中に,「批評は‥・いろいろなこと をするように,私を元気づけてくれる,いやむしろ私を喚ける唯一の手段である.‥・私は何か 新しいことをするには,批評を信頼して利用する.」という告白がある.レッシングにおける批評 の位置,比重を考えるうえで,貴重な資料である.

2■ レッシングは,おそらく,「芸術という眼鏡」(dieGlaserderKunst)という表現を,ドゥライ デンがシェイクスピアを賞賛した名文句,「‥・彼は自然を見るのに,書物という眼鏡を用いな い・」の対照法として,用いたのであろう.したがって,「Kunst」とは,「芸術」と訳したが,そ の意味するところを十分反映したことにはなっていない.しかし,レッシングがここで用いている

ような,対照法としての言葉の妙を表わす適当な訳語が見当らない.意味だけに比重を置いて,「知 識という眼鏡」と訳せば,原文の持つ文を殺しかねず,少しばかり訳し過ぎの感がする.奥住民の

「人工の拡大鏡」もおそらく苦労した訳語であろうが,そうすれば,「書物という眼鏡」との対照 が霞んでしまうし,さっと目を通すと,人工でない拡大鏡があるのであろうかという,素朴な疑問 に突きあたってしまう・ここでは,「Kunst」とは,文学・芸術の作品と理論,哲学,さらには実 際の劇の上演,等々の研究の成果,すべての芸術的知識を意味しているであろう.それゆえ,「die GlaserderKunst」とは,自然に湧き出る創作の泉と対比された,「書物による,人の(人工の)芸 術の知識という眼鏡」くらいの意味になるであろう.

3・ドイツのシュトゥルム・ウントゥ・ドゥラングの詩学における基本概念「独創的天才

(Originalgenie)」の形成に大きな影響を与えた,エドゥワードゥ・ヤングの著作『独創的創作につ いての憶説(ConjecturesonOriginalComposition)』(1759年)に,「規則は病人だけが使う松葉杖で ある・健康な人は,これに反して,それを投げ捨てる.」という,規則に対するラディカルな批判 がある.1761年に,トーマス・アップトゥは,文学書簡の第204号で,その言葉を引用した.レッ シングも文学書簡を書く際に,その言葉に注目していたので,「松葉杖に対する中傷文」とは,そ のことを指しているのであろう.

4・あえて説明をする必要はないのかもしれないが,私なりの解釈を述べれば,ここはドイツの一 部の天才論者たちが,「(ギリシア,ローマの古典劇の諸規則を機械論的に解釈して,誤った,形式 的な諸規則を考え出したフランス人たちの)特殊な諸規則を,(その内容を深く検討する努力もし ないで,単純に演劇の)規則そのもの,規則一般,普遍的規則であると勘違いし」ている,という ことをレッシングは言っているのであろう.

2.批評

「‥・私なら,ここでは,何よりもまず,宗教は除去してもらいたいと思う.趣味(注 5)や批評という事柄では(InDingendesGeschmacksundderKritik),(説明のための) さまざまな根拠が,宗教から取ってこられた場合,それらは,自分の敵を黙らせてしまうに

(7)

は,なかなか良いが,彼を説得するには,余り役に立たない(からである)・ここでは,何

事も,宗教としての宗教に決定させてはならない・宗教の証言は,古代の伝統(t)berlieferung) の一種とみなされるだけであって,古代の他の幾多の証言以上でも以下でもない・」(第11号 S.165)

「自分自身の趣味(Geschmack)を持つことは,誰にでも許される・そして自分自身の趣 味(G。S。hma。k)について説明しようとすることは,賞賛すべきことである・しかし,自分 自身の趣味(G。S。hmack)を正当化するためのさまざまな根拠に,ある種の普遍性一つ まり,自分自身の趣味(Geschmack)が唯一の真の趣味(Geschmack)であるということに

して,それを正しいと思わせようとする,(厚かましい)普遍性‑を与えることは,探求 する芸術愛好家(Li。bhaber)の限度を超え出ることであり,厚かましくもわがままな立法 者になることである.・・・真の芸術批評家(Kunstrichter)は,自分の趣味(Geschmack) から諸規則(Reg。l)を導き出したりはしない.そうではなく,彼は,事物の本性(die Nat。rderSach。)が要求する諸規則(Regel)に合わせて,自分の趣味(Geschmack)を作

り上げてきたのである.」(第19号S.196)

「批評(Kritik)(注6)が享楽(GenuL})の害にならないということ,そして演劇(Stnck) (注7)を最も鋭く批評する(beurteilen)(注8)ことを学んだ人々が常に最も熱心に劇場 に通う人々であるということを,堅く信じて.」(第24号S・218)

「私は芸術家一芸術家が,私と同じ男性であろうと,違う女性であろうと‑七媚を 売るなどということは,たった一つだけしか知らない・私のそのたった一つめ媚とは・芸術

家はあらゆる虚栄的な感情(Empfindlichkeit)からかけ離れており,芸術がすべてに優先し, 自分について率直で公然と批評を述べる(urteilen)のを好んで聞き,奇妙な批評をされる ことよりも,むしろ誤った批評をされることすらも時には望んでいる(er・・・WO11esich

liebera。。hdann。ndwannfals。h,alsseltnerbeurteiletwissen.)と私が想っているという ことに,あるのである.・・・真の巨匠(DerwahreVirtuose)(注9)は,われわれが彼

の弱点に対しても目と感情とを持っているということに自分で気付かない間は,われわれが

彼の申し分のないできばえ(Vollkommenheit=完壁さ)についてどれほど大騒ぎしようとも・

ゎれわれがそのことを見抜き,感じ取っているとは決して信じないものである・彼は・自分 に関するあらゆる限りない賞賛を嘲笑する・そして,自分を非難しようとする気持ちをも持

ち合せていると分かるような,そういう人の賞賛だけしか彼の心を満足させない(kitzeln=

心をとらえる).」(第25号S.222)

「隈知の第一段階は,誤謬の認識である・』(注10)・‥英知のこの第一段階に立って いるかどうかを試すのに,世界中でフォン・ヴオルテール氏以上に適した著作家

(Schriftste11er)はいないであろうと私なら思う・ところが,それゆえにまた,(英知の)第 二段階(『英知の第二段階は,真理の認識である・』)へと昇っていくのに,彼ほどわれ ゎれの役に立たない著作家(Schriftsteller)はいないであろう・批評をする著作家(Ein

kritisch。rS。hriftst。11。r)は,自分の方法をこの簡潔な格言に合致させるのがまた最も良い, と私には思われる.批評をする著作家(EinkritischerSchriftsteller)は,まず最初に,自分 が闘うことのできる相手を誰か探さなければならない・そうすれば,次第にテーマ(Materie

=論究の題目)に入っていくことができ,その他のことも明らかになっていく(sichfinden

=見つかっていく)のである.正直に告白するが,そのために,私はこの演劇評のなかで,

ー183‑

(8)

ともかくフランスの著述家(Skribent=駄作家)たちを特に選んだのである.そしてさらに 彼らの中でも取り分けてフォン・ヴオルテール氏を選んだのである.・‥完壁なアリスト

テレスでさえも常にと言っていいほどそれ(その方法)を用いていた,・‥ Fアリストテ レスは彼の著作のなかでよく闘いを求めたものである・しかも,彼はこれを軽率に,また行

き当たりばったりに行なってはいない・むしろ,あらかじめよく考えぬいて,そして計画的 に行なっているのであるtなぜならば,彼はまず最初に相手の諸見解を打倒してしまうから

である,等々封(第70号S.403)

「・‥(シェイクスピアについて述べている個所で)私は,芸術家の目は大抵彼の研究 者(Betrachter=観察者)の最も鋭い目よりはるかに鋭い,ということを確信している.

それにもかかわらず,彼は,他人がまたそれら(異議)を差し挟むのを耳にしても,機嫌 を悪くしたりはしないであろう・というのも,彼は人が自分の作品について批評を述べる

(urteilen)のを好むからである・浅薄なものであろうと徹底したものであろうと,誤ったも のであろうと正しいものであろうと(1inksoderrechts),好意的なものであろうと悪意に満 ちたものであろうと,彼にとってはすべて同じである・そして,最も浅薄で,最も誤りがひ

どく(daslinkste・・・Urteil),最も悪意に満ちた批評(Urteil=判断)でさえも,彼にと っては・冷淡な賛美よりはましなのである・彼は,前者はなんらかの方法で,自分の役に立 つように利用することができるであろう・しかし,後者など彼は一体どうしたらいいものだ

ろうか・・‥彼は虚栄心は持っていない,しかし彼は一般に誇りを持っている.そして彼

は,こういう誇りを持っているがゆえに,(自分に対する)不当な賞賛を忍受するよりは, むしろ不当な非難を甘受する方を,十倍も好むのである.」(第73号S.415)

「・‥彼(俳優)は,賞められるのは,いくら賞められても決して十分だとは思わない が,非難されると,いつも余りにもひど過ぎると思う.否,彼は,自分が非難されようとし ているのか・賞められようとしているのか,皆目分からないことさえしばしばあるのであろ

う・一般に・批評(Kritik)に対しては,芸術家の感受性(Empfindlichkeit=怒りっぼさ)は, 彼らの芸術の諸原則(Grundsatze=諸根本命題)の確実性と明確さと量が減少するのにまさ に比例して,高じるということが・すでにずっと前から言われてきている.」(第101,102, 103,104号S.525)

批評と天才,規則と天才

「そして批評(Kritik)を聞いて怒るのは作家(Verfasser)たちだけではない.有難いこ とに,現在,われわれの周囲には,批評家(Kritiker)たち‑ところが,彼らの最良の批 評(Kritik)は何かといえば,あらゆる批評(Kritik)に疑問符を打つことでしかないので あるが‑そういう批評家(Kritiker)たちの一群さえいるのである.彼らは『天才!天才!』

と叫ぶ・『天才はすべての規則(Regel)を超越している!天才が作るものが規則(Regel) である!』このようにして彼らは天才に媚を売る・しかし,私には,その日的は,われわれ が彼らをも天才であるとみなせ,と要求することにあると思えるのだが.しかしながら,彼

らはまさにそう言った舌の根も乾かぬうちに,『規則(Regel)は天才を抑圧する!』‑

あたかも天才が何かこの世の中のものによって抑圧されでもするかのように!しかもそのう え・彼ら自身が言っているのだが,天才が生み出したものによって(天才が抑圧されると言

(9)

うの)である.‑と付け加えるのであるが,それを考えると,彼らは自分の中に天才の 閃きを一条ですら感じていないということが,手に取るように分かってしまう.すべての芸 術批評家(Kunstrichter=芸術審判者)が天才であるとは限らない.しかし,天才はすべて 生来の芸術批評家(Kunstrichter)である.天才はあらゆる規則(Regel)の見本(Probe) を自分の中に持っている.・・・規則(Regel)や批評(Kritik)が天才を抑圧し得ると主張 することは,換言すれば,実例(Beispiel)や訓練がまさに天才を抑圧し得ると主張するこ とであり,また,そのことは,天才を自己自身の枠の中に閉じ込めるということを意味する だけでなく,天才を専ら彼の最初の習作だけに限ることをさえ意味するのである.

彼ら(注11)は,Fわれわれの演劇(Theater=劇場)は,いまだにあまりにも幼気な年齢 であるので,批評(Kritik)という君主の第には耐えることができない.われわれが今でも なお理想からどれほどかけ離れたところにいるかを示すことより,その理想にいかにしたら 到達することができるのか,その手段を示すことの方がはるかに(fast)必要である.演劇 (Bohne=舞台)は実例(Beispiel)によって改良されなければならないのであって,規則(Regel) によって改良されるのではない.理屈をこねること(Raisonnieren)は,自ら創作すること

(erfinden)よりも,容易である.』(注12)と言う.

思想に言葉の衣裳を着せる(Gedankenin Worte kleiden)とは,このことを言うのであ ろうか,あるいはむしろ,これは,言葉に合った思想を求めているのに,一つも思想をつか

むことができない,ということではないだろうか.・・・彼らは一体どんな実例(Beispiel) を与えたのか.彼らは一体自ら何を創作した(erfinden)のか.枚滑な奴ら(K6pfe=頭脳) だ!実例(Beispiel)を批判する(beurteilen)ことを思いたったときには,規則(Regel)の 方を望み,そして規則(Regel)を批判す(beurteilen)べきときになると,実例(Beispiel) の方を好む.彼らは,ある批評(Kritik)について,それが間違っていることを論証するか わりに,それが厳し過ぎることを論証する,そしてそれで義務を果たしたと思い込んでいる のだ!彼らは,ある論述(Raisonnement)の反証を挙げる(widerlegen)かわりに,創作す る(Erfinden)ことは,理屈をこねること(Raisonnieren)より難しいと述べる,そしてそ れで反証を挙げた(widerlegen)と思い込んでいるのだ!

正しく推論する(richtigraisonnieren)人は,創作もする(erfinden),そして創作し(erfinden) ようと思う人は,推論する(raisonnieren)ことができなければならない.この二つのうち のどちらもやろうとする気がない人だけが,一方を他方と切り離すことができると思い込ん でいるのである.

しかし,私は何のためにこんなお喋りをして時間を潰しているのであろうか.わが道を行 き,道端でコオロギ(気紛)どもが泣き喚いていることを気に掛けないことにしよう.それ らを踏み踊ろうとして,一歩脇へ逸れるだけでも余計な(zuviel)ことである.それらのう るさい盛りが過ぎるのを待つことは,いともたやすいことである!(IhrSommeristso leichtabgewartet!)」(第96号S.502‑S.504)

「・・・天才は批評(Kritik)による境界の線引をすべて嘲笑う.」(第7号S.149)

5.「Geschmack」は,「SChmecken」=「味わう」という動詞の名詞形で,普通は「味,好み,趣味」

ー185‑

(10)

という意味であるが,レッシングは,単なる「好み」,「趣味」という意味にとどまらず,それに,

「美的好み」,「美的趣味」,「美的判断力」という美学的な意味も持たせている.そしてさらに,彼は, この「美的好み」,「美的趣味」,「美的判断力」という美学的な概念を,主観的な概念にとどめず, 主観的であると同時に客観的な「美的判断力」,もしくは「美的趣味」という意味で,用いる.そ

の際,彼は,客観的な「美的判断力」,普遍的「趣味」の方に,力点を置いている.例えば,「芸術

愛好家(Liebhaber)がすべて識者だとは限らない.ある一人の俳優の正しい演技,ある一つの劇(Sttick

=戯曲)の美を感じる人すべてが,それを根拠に,他のすべてのものの価値をも評価することがで きるとは限らない.一面的な趣味(Geschmack)しか持っていないのであれば,何らの趣味 (Geschmack)も持っていないのである.しかし,人は往々にしてそれだけになお一層偏りがちにな るものである.(aberoftistmandestoparteiischer.)真の趣味(Geschmack)とは普遍的なもので あり,あらゆる種類の美に行き渡るけれども,どの種類の実に対しても,その種が許容する以上の 満足や歓喜を期待したりはしないのである.」(予告S.122)と述べている箇所が,そのことを如実 に物語っている.しかし,ここで注意しなければならないことは,各ジャンルに及ぶ,いわば普遍 的な「美的判断力」,「趣味」は,単なる抽象的な普遍的概念ではなく,各ジャンルに固有な「美的 判断力」,「趣味」として,具体的な概念でなければならないのである.そういう場合にのみ,各個 人の主観的な「趣味」が,真の「趣味」,普遍的な「趣味」,客観的な「趣味」に転化し得るのである.

6.「Kritik」は,語源に遡って言えば,「区別,決定」の意味での「批評」,「判断力に富んだ」と いう意味での「批評」である.それゆえ,本来のドイツ語の「批評」を意味する「Beurteilung」や

「判断」「意見」「説」という意味の「Urteil」とほぼ同じ意味である.レッシングもそれらをほぼ同 じように用いている.

7.「S仙Ck」は本来舞台上演を目的とした「戯曲」の意味であるが,ここでは,意味が拡大されて,

「演劇」の意味で用いられていると思う.また,レッシングは,しばしばそのような広い意味で,

「St批k」という言葉を使っている.

8.「beurteilen」は「価値判断を下す」という意味の「批評する」であろう.

9.「DerwahreVirtuose」の「Virtuose」とは,ここでは,文学のみならず,俳優の演技の芸術, つまり芸の名人をも含む広い意味の「巨匠」であろう.

10.この文句は,教父ラクタンツイウス・フィルミアヌースの著作指申の企て(Institutionesdivinae)』

(紀元後300年頃)の第1巻第23章に出てくる.

11.「彼ら」とは,クリスティアン・アドルフ・クロッツが発行した Fドイツ文庫』一1769年, この『ドイツ文庫』に,レッシングのFハンブルク演劇論』の書評が載った.一に寄稿した人々, いわば,小さなクロッツー派のことである.

12.クリスティアン・アドルフ・クロッツは,『ドイツ文庫』の中でt レッシングの『ハンブルク 演劇論』について書評を書いた.レッシングがここで引用している言葉は,その中の一部である.

しかし,レッシングは,自分の批評について述べられた箇所で,自分の名前をわざと省略して,ク ロッツの叙述を一般化している.レッシングが引用した箇所は,その儀の文章も含めて,正確に引 用するならば,「演劇(Drama)の理論がたとえどれ程多く失われてしまったとしても,私ならば, やはり,レッシングに批評(Kritik)を任せるのではなく,ハンブルクの舞台の監督を任せたら良 かったのに…と,むしろ強く望むであろう.われわれの演劇(Theater=劇場)は,いまだにあま

りにも幼気な年齢であるので,レッシングがしているような批評(dieLessingischeKritik)という 君主の筍には耐えることができない.われわれが今でもなお理想からどれほどかけ離れたところに いるかを示すことより,その理想にいかにしたら到達することができるのか,その手段を示すこと の方がはるかに(fast)必要である.演劇(Btihne=舞台)は実例(Beispiel)によって改良されな ければならないのであって,規則(Regel)によって改良されるのではない.理屈をこねること

(Raisonnieren)は,自ら創作すること(erfinden)よりも,容易である.」ということになる.

参照

関連したドキュメント

この見方とは異なり,飯田隆は,「絵とその絵

ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

tiSOneと共にcOrtisODeを検出したことは,恰も 血漿中に少なくともこの場合COTtisOIleの即行

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

図および図は本学で運用中の LMS「LUNA」に iPad 版からアクセスしたものである。こ こで示した図からわかるように iPad 版から LUNA にアクセスした画面の「見た目」や使い勝手

では恥ずかしいよね ︒﹂と伝えました ︒そうする と彼も ﹁恥ずかしいです ︒﹂と言うのです

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに