弘前大学教育学部紀要 第
9 0
号 :2 7 ‑3 8( 2 0 0 3
年1
0月)Bu l l . Fa c . Ed uc . Hi r o s a k iUni v. 9 0:2 7 ‑3 8( Oc t . 2 0 0 3 )
熱田八 ケ村宛て信長制札
No buna ga y sOr d i na nc ef o rEi g htVi l l a ge si nAt s ut a
安 野 英 幸 *
Ma s a ki ANNO'
2 7
【論文要 旨】
天文十八年 に熱 田人 力村 に宛てて出 された五 ヵ条か らなる信長制札の分析 であ る。 当時の都市熱 田の姿 の復元や、 関連す る幾つかの文書 との比較 の中で、 この制札が楽市令 の先駆 であ り、都市熱 田はこの制札 を媒介 として楽市 に変身 したことを明 らかに した。
【キーワー ド】
熱 田神宮 織 田信秀 織 田信長 加藤 図書助 加藤全朔 治外法権 自権 断 預 け物 使節入部 俵物 楽市場
目 次
1
.は じめに2.史料 と大意 1
)史料2
)大意3.
舞台 と背景1
)舞台2
)背景4.問題の所在 1
)俵物2
)荷留5.分析 の方法 1
)敵味方 ・預 け物 ・俵物 ・使2
)宮 中 ・門外6.制札 の解釈 1
)第一条 ・第二条2
)第三条3
)第四条4)第五条 7
.むすび1.は じめに
本稿 は、天文十八年 に熱 田八 力村 に宛てて出 さ れた五 ヵ条か らなる信長の制札 を分析 した もので ある。
この文書が最初 に学界で注 目されたのは、第五 条の 「俵物留」が荷留の実例 として取 り上げ られ たことによる。 当初私 はこの (俵物 ‑米穀)説 に 疑いを持 ったことか ら、この文書 に関心 を寄せた。
しか し分析 を進めてい く過程で、 この文書の舞台 である熱田についての歴史地理学的な解明や、関 連す る信長文書 との比較の中で、 この文書 を全体
として明 らかにす る必要性 を感 じた。
2の 「史料 と大意
」
では、 この文書 とその大凡 の意味を取 り上げた。3
の 「舞台 と背景」
では熱田に関す る人文地理学的な考察 を行い、天文十八 年 とい う時代 について歴史的な考察 を行 った。
4
の 「問題の所在
」
では俵物 と荷留 についての先学 の研究 を検討 した。5
の 「分析の方法」ではこの 文書 との比較 を行 うために、幾つかの文書 を取 り 上げた。6
の 「制札の解釈」
では第‑条か ら順 に 分析 と解釈 を試みた。当初 この文書 を分析 しようと考 えた際には、楽 市令 との比較 と云 う視角 は 自覚 してい なか った が、分析 の結果 を どう評価す るかの段 になって、
思い も懸けず楽市令 との比較が問題 となった。神 社 門前 の楽市場 と云 う点で は、先 に取 り上 げた
「富士大宮楽市令」 と近い面があるか も知れない。
2.
史料 と大意 1)史料ここで取 り上 げる制札A川は、現在発見 されて いる信長文書全体の中では、信長の出 した最初の もの として有名 なものである。 ここで信長は藤原
*弘前大学教育学部社会科教育教室
Depar t mento fSoc i a lSt udi esEducat i on,Facul t yo fEducat i on,Hi r os akiUni ver s i t y
氏 を名乗 ってお り、織 田氏 の出自を問題 にす る際 には必ず取 り上げ られるものである。 なお、 この 第四条 には二、三文字ほ どの虫食いの不明部分が ある。
A
制札 熱田八 ケ村 中
‑、 当社為御造営、宮 中可被収 入別、然上者、
国次棟別井他所 ・他 国之諸勧進令停止事、
一、悪党於現形者、不及届可成敗事、
一、宮 中任先例、他 国 ・当国敵味方井奉 公人、
足弱、同預 ケ物等、不可改之事、
付、宮中へ出入 り之者;1於路次非儀申懸事、
一、宮 中Jl使事 三 日以前 [=コ井其村へ相届之、
遂礼明、其上就難渋者、可入謹責使事、
一、俵物留事、任前 々判形之 旨、宮中Jl無相違 可往反事、
右条 々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、偽執 達如件、
天文十八年十一月 日 藤原信長 (花押)
2
)大意奥野高広氏 は 『織 田信長文書 の研究(2:・』上巻の 巻頭 にこの文書 を収録す るに際 して、史料の翻刻、
「読み下 し文」 に続 けて次の ような 「大意」 を掲 げた。 この文書全体 に対す る解釈 ・研究 としては これが最初の ものである。 また氏 は 「大意」 にカ ッコ書 きで注記 を した。 これは、 この文書の各部 分 に関す るこれ までの研究史 を踏 まえた個別研究 である。
一、熱田神社 は、造営のために社領の うちの熱 田八 ケ村 (全村)か ら規定 の人夫 を徴収 して よい。 この人々には一国平均の棟別 (戸赦劃) と他所 ・他 国か ら寺社 の造営 な どで米 や金 を募 ることを禁止す る (このごろの勧進は、す でに強制募縁である)。
一、悪事 を働いた悪党は、届 出でず に成敗 して よ
い。
一、宮 中 (熱田社の境内)では、先例 によって他 国人で も尾張 国人の敵 で も味方 で も、 また 奉公人、足弱 (老幼 ・婦女子)で もまたその人た ちの預 け物で も改めてはな らない (宮中が治外 法権のためここに逃れた敵味方とか、その預け物 を検査することを禁止)。付 り、宮 中へ 出入す る 者 に路頭で無理 を申しかけてはならない。
一、宮 中へ使者 を出す役 目は、三 日以内に連絡
す るか ら遅 れ ない よ うにせ よ、 とやか くい えば遥責使 (問責使)を派遣す る。
一、俵物留 を して も従前の判形の通 り宮 中には 適用 しない (この俵物は米俵のことで、たとえ その移動を禁止しても従前の免許証の効力を認め る。宮中へ運送するのをゆるす。戦国大名は、作 戦上の目的で米穀の移動を禁止 した場合がある。
判形は判物ともいい、花押一書 き判‑を書いた命 令書)。
第五条の カッコ書 きが一番長い ことか ら明かな ように、 この文書が最初 に注 目されたのは第五条 の 「俵物留」である。 4の 「問題の所在」で詳 し
く述べ る ように、私 は奥 野氏 の云 う 「俵物
」
‑(米穀)、「俵物留」‑ (作戦上の米穀の移動禁止) とい う理解 には従 うことはで きない。それ故本稿 における私の課題 は、第五条の再検討 を突破 口 と して、 この制札全体 に対 し、奥野氏 とは異 なる解 釈 を試みることにある。
3.
舞台 と背景制札A分析 の前提 として、 ここでは、歴史の舞 台 となった熱 田(3)とい う場所 と、天文十八年 とい う時代 を考察 したい。熱田は永禄年 間か ら都市化 が始 まるとされているが、 この年は都市化 の始 ま
りに当たってい よう。
1
)舞台 一天文年 間の都市熱 田熱田杜4)の本宮 は境 内北部にあ り、本殿 を瑞垣、
内垣 内、外玉垣が三重 に取 り巻 き、その外側 には 信長塀がある。 神宮の境 内は春敵 門 ・鎮皇 門 ・海 蔵門 ・清雪 門の東 ・西 ・南 ・北四門によって囲わ れ、現在は堀 川 と新堀川 に挟 まれた地域 内にある。
現在は堀川 を通 じて名古屋港 ・伊勢湾 に連絡 して いる とはいえ、周辺の埋 め立ては進み、大都市名 古屋 に飲み込 まれ、昔の港 町の面影 は僅かに石灯 龍の常夜灯 に残 るのみである。 しか もその場所 も 正確 には江戸時代 とは異 なっている とい う。
それ故、古 い時代の熱 田神宮周辺や、都市熱 田 の初期の姿 を復元す るには大 きな困難がある。 熱 田神宮 は名古屋台地の南 に舌状 に伸 びた熱 田台地 の先端 にあ り、昔はこの熱 田台地 は海 に突 き出 し ていた。現在の 「熱 田の森」は神社境 内に限 られ るが、古い時代 には 「高蔵古墳群」 を含む 「高座 結御子神社 」境 内や 「断夫 山古墳
」
「白鳥古墳 」 等 々か らなる熱 田台地全体 を云 った。熱田は古来熱 田八 ケ村宛 て信長制札
よ り伊勢湾水上交通の要 となる港町で、現在の堀 川が古代熱田の西側の海岸線であろう。
東方の笠寺 ・星崎 との間には古 くは 「年魚渇」
の海が広が り、熱田は伊勢湾 と 「年魚渇」の海で 囲 まれた半島で、その付 け根 が古渡であった。古 代の東海道 は伊勢か ら津島 ・萱津 を経て、古渡 を 通 り三河 に抜 けていた。中世の鎌倉街道 も、美濃 の墨俣 か ら木 曽川 を渡 り黒 田 ・一宮 ・下津 ・清 洲 ・古渡 ・古鳴海か ら三河 に通 じていた。つ ま り 古代 ・中世 の幹線道路 は古渡 で熱 田台地 を横 断
し、 「年魚潟」 を北 か ら東‑ と迂 回 してお り、神 宮 は幹線道路か ら離れていたのである。
遠江国見附宿 の者が都 見物 に出かける際に、熱 田参詣が寄 り道 になっていたことは、狂言 『磁石
(
5
)』
か ら確 か め る こ とが で きる。 三 河 を過 ぎて「ヤ アヤア尾張 の国 じゃ、 さて もさて もに ぎやか な国で ござる。 オオそれそれ、尾張の国には、熱 田の明神 とい うて大社 があ る。 ここ‑参 ろ うか。
イヤイヤ これ も戻 りの ことに して、 まず急 いで都 に上 り、 ここか しこを見物致 し、路次すが らの名 所 旧跡 は、戻 りにゆる りと見物致そ うと存ず る」
とあ り、次の舞台は近江の琵琶湖 となる。
「年魚潟」の海 は次第に陸地化 ・水 田化 し、中 世 には熱 田の神領 となった。一方、干潟 を流れる 清 は精進川 とな り伊勢湾 に注いだ。中世後期 には ここに 「裁断橋」が架か り、橋の東 には 「築 出鳥 居」が作 られた。引潮で干潟の時は、熱田か ら戸 部村 ・笠寺‑ は歩 いて渡 ることがで きた。 『信長 公記(61
』
「今 川義元討死 の事」 には 「浜手 よ り御 出で候‑ ば、程近 く候‑ ども、塩満 ち さし入 り、御馬の通 ひ是れな く、熱 田よ りかみ道 を、 もみに もんで懸 け させ られ」 とある。
ここで云 う 「浜手」 とは 「裁断橋」か ら 「築出 鳥居」 を進む道の ことで、当時は満潮 で進めなか ったので、狭い 「かみ道」 をもみ合 いなが ら丹下 砦、善照寺 に進んだ とい うのである。 この 「かみ 道」は春蔽 門か ら東、今の豊岡通 り平針街道であ ろうか。古鳴海か ら古渡 に進む鎌倉街道 に対 して、
「かみ道」がで きた こ とが都市熱 田の発展 に結 び ついている。 一方信長は桶狭 間の戦い後、加藤図 書 に命 じて、干潮時 には通れるが、満潮時には海
に沈むこの 「浜手」の道 を干拓 させ た。
この道 に沿 って 「築 出町」がで きた。「裁断橋」
が架か り、次いで 「築 出町」がで きる と、幹線道 路 は熱 田台地の北か ら南 に移 り、社会経済の道 は 熱 田神宮の南か ら西北 に進み、古渡で旧道 に合流
2 9
す ることとなった。中世 には 「海蔵 門」の南 には
「浜鳥居」があ り、その前 に東脇 ・大瀬子 ・須賀 の三浦が あっ た。近世 の熱 田は東 海道 の宿場 町
「宮宿」で、桑名 までは 「海上七里の渡 し」 とな った。社会経済の道が熱 田神宮の南 を通 ると、海 か ら 「浜鳥居」 を経 る参道 と直交 した。
この二つの道が直交 した時か ら、熱 田は水陸交 通の要衝 として都市‑ と発展 していった。江戸時 代 の都市熱 田の東の入 口は 「築 出鳥居 ・裁 断橋」
で、西の入 口は古渡の南、新尾頭の 「‑鳥居」で あ った。 「裁 断橋」 の西 の襖 には姥 堂が あ った。
精進川が三途の川 と意識 されていたか らである。
この ことか らも 「裁断橋」が町はずれ、境界であ ったことが分かる。 精進川の上流 は今の新堀川 と 共通 しているが、羽城町の東北で潟湖 をな し 「浜 鳥居」の前方 に注いでいた。
羽城町は裁断橋 の南、精進川の東 にあった。羽 城町は木曽川三川の水郷地帯 にある輪 中 と同 じ作 りで、城郭の ように周囲を堤が取 り巻 き、東北 に は船津があった。江戸時代、住民のほ とん どは漁 師であった。羽城 町の西側 の浦が東脇浦 である。
この当時、東の羽城町 と西の旗屋 町にはそれぞれ、
質営業 を して、織 田氏の御用商人で もあった東 ・ 西加藤氏の屋敷があった。「羽城 の殿様」 と呼ば れた加藤図書介は、郭内の中央 に堀 をめ ぐらした 邸宅 を構 えていた。
束加藤氏が、幼い 日の徳川家康 を人質 として預 かったことは有名である。 旗屋町は機織 りの町か ら名付 け られたのであろ う。 尾張国冨田荘 を 「桑 の荘 園」 と名付 ける(7〜ように、古代 ・中世の尾張 は養蚕業が盛 んであった。 こうした背景の下で熱 田は機織業が盛んであった と想像 される。 彼 ら加 藤氏 の前 身は恐 らくは熱田社の御 師で、熱田社や 織 田氏か らの特権 に守 られ、大商人 として活躍 し た。彼 らと織田氏の関係 は、津 島神社の社 人や後 の堺 の大商人 との関係 と似ている。
また加藤図書介の一族の賀藤佐助 に宛てた信長 の買得安堵状LBlには 「大潮古 の余五郎跡職の座 の 事」 とあ り、大潮子町に商工業者の座があったこ とが分か る。 参道 と社会経済道の交差点の北側、
熱 田神宮 の南 門の鳥居 の脇 「八徹宵」 に接 して
「市場町」がある
。
「毎年十二月二十五 日か ら大晦 日まで ここに市が立 ったので市場町 とい う」 とあ り、 この市場 は (歳市)であった。当時熱 田の特 産品が織物 とすれば、 この市 は 「織物市」であっ た可能性 もある。「名古屋市全図」縮尺二万分之一昭和八年松岡文明堂発行による
「上知我麻神社」は「源太夫社」とも呼ばれ、現在は境内西南の第一鳥居の左脇にあるが、本来は二つの道の交差点の北東にあり、昭和二十四年道路拡張工事のため現在地に移ったという。これは熱田の地主神で、かつては地元の人々が魚を貢ぎ、東海道守護の神として道中安全を祈願したという。正月五日は「初えびす」で、恵比寿・大黒の摺絵を出し、熊手などの縁起物を分けたので現在も参拝は混雑する。この日はかつて「初市」が開かれ、人々はお福餅・掛鮒・苧・葱を求めてお福迎えとした19‑とある. それ故「市場町」の場所は古くは広場だったと思われる。F信長公記‑'び﹄には「是等主従六騎、熱田まで、三塁一時にかけさせられ、辰の克射こ源大夫殿宮のま‑より東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計なり」とあり、信長は「源太夫宮」の
前の広場で、は じめて鷲津 ・丸根 を展望 し体制を 整 えたのである。交差点の西の 「神戸町」は、古 くは今の中瀬町にまで広が り、古 くか ら神社 に附 属する人々が住んでいた。
熱田神宮の西南の大淑子町か ら木ノ免町にかけ ての海岸 に沿 って 「魚市場」があった。「愛知県 の地各 日」 には次の ようにあ る
.
「熱 田の魚市場 は朝市 ・夕市 といって、年中一 日二回ずつ市が立 ち、名古屋の魚類の元締めであった。 この市 には 熱 田だけでな く、近海、遠近の諸 国 よ り船積み、あるいは歩荷で,魚介類 ・海産物 ・鳥類が送 られ て きて活況 を呈 していた。織 田信長が清洲 に在城 した時には、すでに熱田に問屋が数軒あって、毎 日清洲へ魚 を運んだ とい う」 と。
交差点の東側には、社会経済の道に沿って西は 源太夫社か ら東は裁断橋 までの間に 「伝馬町」が 展 開 しているが、古 くは 「宿
」
「今道」 の二町か らなっていた。慶長年間この二町が伝馬役 を勤め たことか ら伝馬町 と改称 した と云 う。「宿町」 に は当然伝馬問屋が存在 した と思われる。 この 「神 戸町」
「宿町」あた りが都市熱田の原点であろう。社会経済の道に沿 って発展 した熱田の町は、参道 との交差点 を基点 とすると、地形の関係か ら西 に 偏 って発展 したことになる。
しか し江戸時代の遊里 は東の方面に展開 し、熱 田の中心地、神戸町の遊里が一番格が高 く、名古 屋の身分客 を相手 とし、伝馬町のは土地客 ・名古 屋客 を、場末の築出町古町のそれは漁師や魚屋 を 相手 とした とい う。
2
)背景 一天文十八年天文十八年には織田氏の三河支配の拠点であっ た安祥城 は今川の軍 師大原崇浮のため に攻 略 さ れ、城将の織 田信広は捕 らえ られた。一方織田氏 の人質松平竹千代 は、信広 との交換 で解放 され、
まもな く今川側の人質 となった岨O安祥城 を奪 わ れた結果、織EEJ信秀の支配領域 は激変 し、侶秀 は 三河か ら手 を引 き、知多郡 ・愛知郡 が新 たに織 田 ・今川両氏の国境 とな り、熱田に軍事的な圧力 が強 まった。 この年犬山城主織田信清 は、信秀の 所領東春 日井郡粕井 口を犯 し放火83)したo
制札 Aはこの ような政治 ・軍事的な文脈の中で 理解すべ きであろう。第二条に 「悪党現形」 とあ り、熱田社領 も臨戦体制下に入 り、尾張国内にお ける支配秩序の再編成や治安維持の確保が新たに 課題 となった。峰岸純夫氏が明 らかに した̀叫通 り、
熱 田八 ケ村宛て信長制札
一般に戦時下での禁制 ・制札 は軍勢の濫妨狼籍か ら寺社の平和 を守 るために、寺社側の奔走の結果 発給 された もの と云 う。 この制札 は軍勢の移動す る占領地でな く、独立性の強い外様領主の熱田社 宛てではあるが、事情は似ていた と思われる。
この文書の結びには 「仇執達如件」の文言があ る。 (守護 一守護代 一三奉行) とい う秩序 を前提 とし、尾張守護の意志 を信長が熱田八 力材 に伝達 する形式 になっている。 これは三奉行の一人、織 田信秀が、清洲 にいる守護 ・守護代 を自家薬龍中 の物 にしていたことを示 している。 一般 に戦国大 名の領国は、独立性の強い国人領主たちの連合体 で、「ブ ドウの房」 に讐 え られているが、勝幡系 の織 田信秀の場合 には、一つの房に束ねるカリス マ的な力量が問題 とされている。
その力量の秘密は津島や熱田の経済力の掌握 に あった とい う。 信長の場合 も、一族 との争いを経 過 し尾張 を統一する過程で、馬廻衆や小姓衆か ら なる信長の親衛隊の活躍がめざましく、下村信博 氏(15)は自立性の強い国人領主 をいかに解体 して織 田氏傘下に組織 したかが織 田氏家臣団形成の問題 だ として分析 を続 けてい る。 谷 口克広氏 もまた
『信長の親衛隊16)』で、熱田社の大宮司 ・千秋氏 を
「熱田社大宮司 に して小部隊指揮官」 として 「異 色 な馬廻 り」 に数えている。
しか し、千秋氏は南北朝の頃より武士 として活 躍 し、知多半島の先端波豆崎にある波豆崎城の城 主 として発展 し、織 田信秀 ・信長親子 に従い戦功 を上げた。奥野氏 は論文 「初期の織 田氏'1n」 に於 いて 「熱田社神主千秋氏」 を 「広大な神領 を支配 して兵力 を持つ」 ことか ら 「緒川の水野下野守信 元」 と共 に織 田氏の 「協力者」 に数えている。 特 に熱田社の場合、荘 園領主 として多 くの所領 を持 ち、 これ ら神領 に対 しては治外法権 ・守護不人等 の伝統的特権が認め られていた。
つ まり、制札 Aは信秀の支配体制の激変に際 し て、基本的には、熱田社側が これ まで持 っていた
「既得権 としての独立王国的な治外法権」の安堵 を要求 し、織田氏がそれに応 えることで作 られた もの と考 えられよう。 本稿 は熱田社 を分析する際 に、先人が これ まであまり関心 を払わなかった信 秀領 国に於 けるブ ドウの一粒 とい う側面 に注 目
し、それを解明することを目的 としている。
4.
問題の所在この文書が最初に学界で注 目されたのは、第五
31
条の 「俵物留」であ り、荷留の実例 としてこれが 取 り上 げ られた。 しか し後 に掲 げる史料Cで は
「俵物質」が問題 になっていることか らも、先ず 第一に問題にすべ きは、熱田とい う土地に於いて
「俵物」 とは何かである。
1)偉物
豊 田武氏 は 『中世 日本商業史の研究(18‑』第三章
「大名領国の形成 と商品流通」 において、「荷留」
を (大名領国の下での物資の統制) とし、「特 に 注 目すべ きものは米穀 と塩荷」で 「米穀の輸出禁 止」 を (俵留) または (米留) と称 した とした。
米留の最初の例に、天文十二年に尾張加藤家 に宛 てた 「俵留錐有之、海陸其往反不可有煩」 を取 り 上げ、次にこの第五条 を示 した。それ故
2
の2)
「大意」 で取 り上 げた奥 野氏 の説 明 は豊 田氏 の (俵物留 ‑米留)説 に基づいているのである。
佐 々木銀弥氏 は 「戦 国大名の荷留 につ いで19)」 で、 この第五条を 「父信秀が下付 した と思われる 判物に記 されている通 り、熱田あた りで織 田氏が 俵物留 ‑米留を実施 して も、熱田人 力村か ら宮中 への米穀の搬送はさしつかえないことを確認 して い る
。 」
「神 宮 に貢 納 され る俵 物 の搬 送 は、 戦 略 ・戦術 として実施 される俵物留 にさい して も例 外 とされ」 た、 として、 (俵物 ‑年貢米) として いる。 しか し 「前々判形之旨」に任かせ 「宮中へ 往反」 した 「俵物」は (年貢米) なのだろうか。豊田説 く俵留 ‑米穀)か ら、佐 々木氏の (年貢 米の往反)説が導かれたことは明かであるが、荷 留 に年貢が関与 していた とす ることには違和感が ある。戦国大名の行 う 「荷留」と 「年貢米の往反」
とは概念を異 にしていると思 う。 戦国大名の行 う
「荷留」 には関所や道路 に関わる統治権的支配権 が関係 してお り、「荷留」か ら大名 による伝馬制 度の整備 などへの展 開が考 えられるので、「年貢 米の往反」 と 「荷留」 は概念 を異 にし、年貢米は 荷留めの対象にはならない と私は思 う。
奥野氏 は 「白俵物 は、木炭の黒俵 に対 して、米 穀」 とし、 「俵子
」
「俵物」 の全 て を 《米≫の俵 としている。 水野郷定光寺宛て永禄七年十月付 け 信長判物 について も 「寺内に米俵の搬入 を禁止 し た意味である。 俵物の移動 を禁止することが政策 的に実施 され」た とある。 しか しなが ら、「俵物」の一般的な意味は 「俵 に入れて運ぶ もの」で、穀 類 ・芋類 ・塩 などの他、海産物 も多 く俵物 として 運ばれた。近世長崎貿易の 「干 しアワビ ・鯖の ヒ
レ ・煎 り海鼠」か らなる俵物三品は有名である。
ところで永禄元年の 「保 内商人 中条案叫Bに は次の ようにある。 (下線引用者。)
B
従往古、為此方伊勢道ふせ き候物色 々事
あさのを 紙 木わた
土の物 塩 一切のわげ物
あぶ ら草 若め 一切鳥の類 の りの類 あ らめ 一切魚の類 伊勢布
石之物通候‑ハ見相二何時 も荷物取之儀不珍事 候
これは伊勢桑名か ら近江 までの道路 における商 品輸送に優先権 を持つ保内商人が、特権 を傘 に取 り押 さえを行った商品の リス トで、伊勢湾周辺地 域か ら近江 ・京方面に送 られた商品の全 リス トで はないが、商品十三品 日中、熱田魚市場が関係す るものは下線六品 目である。 この中で も 「塩、若 め、の りの類、あ らめ」 は 「俵物」の可能性が強 い。熱田の市場町では (歳市)が開かれたが、一 方 「魚市場」 には (日市) (朝市 ・夕市)が立 っ た。 このことは熱田に於いて 「俵物」 とは何かを 考える上で大切である。
「わげ物」には尾州櫓が適 しているので、 これ も尾張の特産品の可能性がある
。
「土の物」 は常 滑焼や瀬戸焼 ・美濃焼の土器類である。 これ らの 集散地が熱田であった可能性 も否定で きない。他 方、「あ さの を」 は木 曽路 を運ばれた越後の産物「苧」で、「紙」 は美濃産で、両者 とも木曽川で桑 名に運 ばれた。「木わた」 は三河木綿、知多木綿 であろう。 以上か ら、水陸交通の要衝であった熱 田が、様々な物資の一大集散地であったことは明 らかである。
船積み して運んだ後、陸路 を馬の背で運ぶには、
「俵」が最 も合理的であった。「俵物」 とは 「俵 に 入れて運ぶ」商品一般、あるいは運搬途中の海産 物 などの商品を一般的に指 し、奥野氏の云 う米穀 も排 除 しないが、一義的に (米穀)だとの断定は で きない と思われる。 以上 を前提 として次に 「荷 留
」
「俵物留」 を考察 したい。2)荷留
第五条その ものの分析 は6の 「制札の解釈」で 行 うこととし、ここでは 「荷留」をより一般的に考 えて行 きたい。「荷留」を考えるには次の信長判物
C (21)が参考 となる。分析の便宜上、下線 を付けた。
C
今度国中欠所候儀錐 申付、代 々免許在之上者、
不可有別儀、於向後買徳 田地等縦為何錐為下地、
不可有異儀、然者前 々売買之儀二付而出置判形 之儀、於末代例不可有相違、次其方門外i'1出入 之俵物質之儀、国中札錐召上侯、質物事候 間、
可有往反、井新儀諸役不可在之侯、 自然如此免 許類令破棄錐申付、数通判形出置上者、於何様 之儀、以此 旨罷上、理可 申者也、仇状件如、
永禄六年 十一月 日
賀藤全朔
賀藤紀左衛 門尉殿
(花押)
すでに我 々は
3
の 「舞台 と背景」において、天 文年間の都市熱田の復元を試みた際、海か ら神宮 への参道 との交差点に近い街道筋 に 「宿町」の存 在 を確認 してきた。 ここには伝馬問屋 などの運送 業者の存在が想定 される。 一方 この折紙C
では、信長は織 田氏の御用商人加藤氏 に対 し、彼の持つ 特権 を保証 している。 下線部 「国中札召 し上げ」
か らは、織 田氏の側が伝馬問屋 ・馬借等 に対 して
「札
」
‑営業許可証 を発行 し、運送業者 を統制 し ていた事実が想定 される。下線部では 「俵物」の 「門外」‑の出入 り ・往 反 を問題 としている
。
「其方 門外」 とは (其方 ‑ 門外)で、加藤氏の羽城の屋敷が 「門外」 にある ことを指 し、「俵物質」の質取主 は加藤氏であろ う。 全ての商品が質の対象 とな りうるので、 この 場合の 「俵物」 は米穀 とは限定で きず、「俵 に入 れて運んだ」海産物等であろう。 織 田氏が 「国中 札召 し上げ」 を行い、国中の馬借や伝馬問屋 など の営業 を停止 して も、熱田には及ばず、加藤氏 に 対する質物往反の 自由を保証するとしているので ある。この 「俵物質」は 「俵物留」 を理解する上で も 大切 で、「俵物留」 の対象 となった 「俵物」 も、
「俵物質」の場合 と同様、海産物 な ど 「俵 に入れ て運んだ商品」一般であろう。 例 えば、大瀬子 ・ 木ノ免の海岸に沿った 「魚市場」では、近海 ・遠 近の諸国より海産物の 「俵物」が毎 日朝夕搬入 さ れ、 またここか ら尾張 をは じめ各地の消費地に搬 送 されていた。 これ ら 「俵物」の輸送は、生産者 や小売の中座商人たち自身のほか、馬借や伝馬問 屋 など専門の運送業者の存在が想定 される。
熱田八 ケ村宛て信長制札
この 「魚市場」 を中心 とす る物資の流通 圏は、
熱田社の支配領域や織 田信秀の領国、 さらには尾 張 をも越 えて広が り、織 田氏が配下の運送業者 に 対 して統制権 を主張 しうる範囲を越 えていた。そ れ故 「魚市場」 に関わ りを持つ運送業者には、織 田氏の統制外の者 も含 まれていた。一方 「荷留」
とは、大名が伝馬問屋や馬借 などに営業許可証 を 発行 したことをテコに、物資の流通 を統制するこ とであろう。 物資の流通圏 と織 田氏の統制権、 こ の相互の関係が 「荷留」では問題 となる。
5
.分析の方法1
)敵味方 ・預 ケ物 ・倭物 ・使奥野氏の 『織 田信長文書の研究
』
の中には、制 札 Aを分析する上で参考 になると思われる二つの 文書D
(22I・E
(23)が収録 されている。 どち らも信長 判物で、弘治三年十一月に熱 田社の検校 ・馬場氏 と祝師 ・田島氏 に宛てて出 されている。 検校や祝 師は大宮司 と共 に熱 田社 の支配層 を形成 してい た。 これに対 して制札A
は熱田旗屋町の加藤景都 民所蔵文書で、西加藤家 に伝来 した ものである。西の加藤家が被支配者側の 「熱田八 力村」の宿老 中を代表 していたか らであろう。
東 ・西両加藤家が 「熱田八 力村」の 自治組織の 代表者で、彼 らが制札
A
の実質的な受取 り手であ ったことは、制札A
を理解する上で大切である。D
敵味方預 ケ物、俵物井神田、為何 開所之儀候共、
不可有異見候、門外汁使入之事、竹木所望、郷 質取立候事、末代不可有相違者也、佃如件、
上絵介
霜月廿七 日 信長 (花押) 熱田検校殿参
敵味方預 ケ物、俵物井神 田、為何開所之儀候共、
不有異見候、門外 rl使入之事、竹木所望、郷質 取立侯事、一切令免許之上者、末代不可有相違 者也、佃如件、
弘治参年
霜月廿七 日 熱田祝師殿
上絵介
信長 (花押)
奥野氏 は文書Dを 「弘治三年十一月二 日信長は、
同腹の弟勘十郎信行が生母土 田氏 とも談合 して、
再 び謀反 を企てた ことを柴 田勝家の密告で知 り、
信行 を清洲城で誘殺 した。 この騒動 に関係がある
3 3
文書」 と説明 し、「信長の敵味方か ら熱 田社 に保 管 を依頼 した物品 ・俵物 (米穀)及び神 田は、だ れが開所の処分 をして も、信長 として同意 しない。
また この外 に信 長が使者 を門外 にふみ こませ た り、竹木 をもとめ、或は郷質 を取立てることは永 久に しない」 を大意 としている。
一方、「大瀬古の余五郎跡職座 の事」 を問題 と した天文十九年の賀藤佐助宛ての買得安堵状(24'を 信行が信長に取次いだことか ら、奥野氏の指摘す る通 り、信行 と熱田社 との間には特別な関係があ った(25)と思われる。 この両文書 はその関係 を打破 し、信長 との間に新たな関係 を再構築すべ く出さ れた ものであろう。 それ故 D ・E両文書 は制札 A と同様、基本的には熱田社側の要求に信長が応 え ることを日的 とし、判物の重点は熱田社の持つ既 得権安堵にあった と考 えられる。
A・D・E
が共に治外法権 を主張す る熱田社の 既得権擁護 を目的 としていた とすると、A
は 「熱 田八 ケ村」、D ・Eは熱田社の 「検 校 ・祝師」と、要求主体 に違いがあったことになる。 注 目すべ き は、制札
A
第三 ・四 ・五条 にあ る 「敵味方預 ケ 物 ・使 ・俵物」が D ・E両文書 に記載 されている ことである。 文書D ・E
に関 して言えば、同 じ日 に同 じ内容の文書が、同 じ熱田社の検校 と祝師に 宛てて発給 されたことか ら、下線部の相違は文字 の多い方 を基準 に理解 してよい と思われる。D
・E
二つの信長判物 を理解する鍵 は 「為何 開 所之儀候共、不可有異見侯」の部分にある。 当時 罪 を犯 して 「開所」 とされる と、その 「開所地」は権断権者の手に渡るのが一般であった。それゆ え熱田社の所領 「神田」が 「開所」になると、土 地の所有権 は熱田社側か ら織田氏側 に移 ったはず である。 この ようなルールにも拘 わらず、 ここで は織 田氏側は 「意見 を言わない」、 これ まで通 り 熱 田社 の主張 を認め、「神物」 を 「人物」 に しな い と約束 しているのである。
前掲文書
C
の 「今度国中欠所之儀錐 申付‑不可 有別儀」はこのことに対応 してお り、 また次 に掲 げる史料 Gはその実例である。 両文書 D ・Eが制 札A
と対応 している との前提 に立てば、「敵味方 預 ケ物」 は 「敵味方」 と 「預 ケ物」で、織 田氏 は 熱 田社 に対 し 「敵 味 方」
「預 ケ物」
「俵 物 」 と「神 田」の四者 について治外法権 を認める と約束 したことになる
。
「神 田」 については既 に述べた。しか し制札AとD ・E両文書が互いに対応 してい るとした場合、問題 となる文言がある。
それは第四条の 「宮 中Jェ使事」 と 「門外 Jェ使入 之 事 」 で あ る
。
「使 」 が 入 る世 界 が 「宮 中」 と「門外」 と異 なっているのであ る。 辞書 によれば、
「宮 中」 とは (神社 の境 内) を指すのに対 し、 「門 外」 とは (敷地の外)であ り、辞書上では 「宮 中」
と 「門外 」 とは互 い に対 応 して い ない。 「門外 」 を含 む文書 には
C
があ り、 この場合 は加藤氏 の屋 敷 が 「門外」 で あ る こ とを意 味 して い た。 次 に「宮 中」 の用例 を取 り上 げ、「宮 中」 と 「門外」の 関係 を調べ て行 きたい。
2)宮中 ・門外
奥野氏 は、熱 田社 の持つ治外法権 を 「宮 中之事」
「宮 中之儀」 と表現 してい る信 長文書F(26) ・ G (27'
二つ を掲 げている。
ド
明 日 ・明後 日内可被相果候、
今度東脇 ・大瀬古御礼銭之儀付而 申事候、此方 こて可有批 判儀 候‑ 共 、宮 中之事 、先 年 ∂ 於 神前大法被相定之 由候条、六 ケ相宿老 中被仰付、
如前 々被成御異見、可相果候、不可有御油 断侯、
恐 々謹言、
七 月廿五 日 佐久 間半羽介 信盛 (花押) 赤川三郎右衛 門尉 景広 (花押) 村井吉兵衛
貞勝 (花押) 島田所助
秀順 (花押) 祝言師殿
千 秋 殿 惣授 校殿
人々御 中
昨夕 申下刻被仰 出侯条、則以使者 中人侯、偽千 秋 四郎息子 ・母儀近年雛被召使侯、昨年御意 に 被相違 に付、被追出侯、就其千秋治脚之地、買 徳 人かた‑如先 々被返遣侯、宮 中之儀 に候‑者、
両人有馳走、可被返置候 、為其我等使者進之候、
早 々被仰 出之趣相届鉢、先御返事待人候、恐 々 ニ1・l▲・.■・.一
ii里百、
正 月十六 日 加藤 図書助殿
御宿所
菅谷九右衛 門
長頼 (花押)
これ らF ・Gの 「宮 中」 は、共 に狭 く神宮境 内 とい う (地域)ではな く、む しろ熱 田社 の支配領 域 には守護の力 は及ばない と云 う (熱田社 の治外 法権) を意味 している。
F
は祝言師田島家 の伝 来 文書 で、 「東脇 ・大潮古」 の入港税 ・停泊税 な ど に関わる 「御礼銭」 に関す る訴訟の取 り扱 いをテ ーマ としている。 織 田氏 の宿老 四人が裁判す るの も筋 だが、 「宮 中之事 」 (熱 田社 に関 わ る こ とだ か ら) との理 由で、 「熱 田六 力村 」 の 「宿 老 中」に任すので宜 しく処理す る ように とある。
「宿老 中」 の存在か ら 「熱 田六 力村」が 自治組 織 であった こ とが分か る。 この 「熱 田六 力村」 に 浦方の 「東脇 ・大瀬古」を加 える と 「熱 田人 力村」
となるこ とか ら、 「六 力村 」 は先 に分析 した2の 1)「舞台」 の結果 に従 うと、江戸 時代 の ように
「‑ の鳥居」、 「浜鳥居」、 「築 出鳥居」 に囲 まれ た 地域 を云 うか、あ るいは、神戸 町、市場 町、宿町、
中瀬 町、須賀 町あた りか(28'、が考 え られ るが後の 考 えを待 ちたい。江戸時代 に於 いて も、東脇 ・大 潮子 ・須賀 の三浦が船奉行 の支配下 にあ り、陸の 町 と浜の町 とい う区別 はあった。
Gは 「千秋 四郎息子 ・母」が追放 にな り、千秋 氏 の売却 した土地が 「開所」 となった こと‑ の対 応 を宿老 である加藤順光 ・隼 人佑の二人に命 じて いる。 この場合 の売却 は奥野氏 の云 うように年限 を定めた 「年期売 り」 であろ う。 この場合 「宮 中 之儀」は奥野説 と同様 「熱 田社 に関す るこ と故 に」
と解釈すべ きであ ろ う
。
「宮 中之事」
「宮 中之儀」を以上の ように解釈す る とすれば、制札Aに五 回 出て くる 「宮 中」 は、 「神社 の境 内」 よ りも広 い 意味の幅 を持 った もの となろ う。
文書
C
下線部の 「其方 門外」 は羽城 町にある加 藤氏 の屋敷 が 「門外」 にあ る こ とを指 してお り、当然、加藤氏の屋敷 は築 出鳥居 の外部で、 「宮 中」
の外 と観念 されていた と思 われる。 それに も拘 わ らず 「其方 門外 ;ェ出入之俵物 質之儀」が問題 とさ れたのである。 制札
Aでは 「
宮 中」 とい う狭 い範 囲 を問題 としていたのだが、判物D ・E
では 「宮 中」の外側の 「門外」にまで不人の範囲 を拡大 し、「門外」 が不入 なのだか ら 「宮 中」 の不人 は当然 となってい るのである。
以上の分析 か ら、文書 の
A・D・E
間に於 ける 用語 には違 いはあるが、全体 として判物D ・Eと
制札Aの第三条 ・第四条 ・第五条 は互いに対応 し ている と考 え られ よう。制 札Aに出て くる五つの
「宮 中」 のそれぞれの場 合 の解釈 は我 々の次 の課
熱 田八 ケ村宛 で信長制札
題ではあるが、その際に、判物
D ・E
との比較考 察が許 され よう。6.
制札の解釈制札 Aの解釈については、次に第一条か ら順に 考察 を試みたい。二、三文字の不明文字 を含 む第 四条の解釈や、第五条 「俵物留」の再考が ここで の考察の中心 となろう。
1
) 第 一 条 「当社為御造営、宮中可被収入別、国次棟 別井他所 ・他国之諸勧進令停止事」第 二 条 「悪党於現形者、不及届可成敗事」
この制札 Aが 「熱田八 ケ村」宛てに出された最 大の理由は、第一条にある。 この天文十八年 とい う年 は熱 田社造営 の年 に当た り、 「熱 田八 ケ村」
側 は造営の条件 に、「国次棟別」や 「他所 ・他 国 之諸勧進」等の守護役 の免除を強 く望 んでいた。
信長 はここで、「熱 田八 ケ村」 に対す る神宮 の特 別な支配権 を認め、その代 わ り守護の課す 「国次 棟別」や 「他所 ・他国之諸勧進」の停止 を約束 し、
神宮造営のために、熱田社 は 「八 ケ村」か ら 「人 別」 を収めて もよい としたのである。
奥野氏 は 「人別」 を (人夫役) としているが、
「棟別」が (棟 毎 に) の意味 なので、「人別」 は (人一人 あた り) を意味 し (人頭税) だ と思 う。
守護課役の実例 には、天文九年 に信秀が伊勢神宮 の外宮仮殿造営費 を寄進 したこと(29)、天文十二年 に前年の台風で荒廃 した内裏の築地修理のため、
四千貰文 を朝廷 に献上 した こと(30)等がある
。
「当 社」 は建物 としての熱 田神社 を、「宮 中」 は一般 的には 「神社の境内」を意味するが、この場合は、熱田人 力村 を支配する熱田社 を指 していよう。
第二条 には 「悪党於現形者、不及届可成敗事」
とあるが、熱田八 力村 には 「宿老中」 という自治 組織があ り、白棒断の村 として 「悪党 を成敗する」
独 自な武力が存在 していた。その具体例 としては、
永禄三年の桶狭 間の戦いの際に、一向宗の河西の 坊主 ・服部左京助が熱田に攻め入 り、熱田側が こ れを撃退 した事件 を挙 げることがで きよう
。
『信 長公記(31‑jlには次の ようにある。愛に河内二の江の坊主、らぐゐらの服部左京助、
義元に手合せ として、武者舟千健計 り、海上は味 の子をちらすが如 く、大高の下、黒末川口まで乗 り入れ候‑ ども、別の働 きなく、乗 り帰 し、 もど りざまに熱田の湊‑舟を寄せ、遠浅の所より下 り
3 5
立て、町口に火を懸け候はんと仕 り候 を、町人ど もよせ付けて、唾と懸け出で、数十人討ち取る間、
曲なく川内‑引き取 り候ひき。
2
)第 三 条 「宮中任先例、他国 ・当国敵味方井奉公人、足弱、同預 ケ物等、不可改之事」
「付、宮中へ 出入 り之者Jl於路次非俵 申懸 事」
第一 ・二条が熱田八 力村の半独立国的性格の承 認 なのに対 し、第三条には 「任先例」 とあ り、 こ れは熱 田神宮 の持つ ア ジ‑ル特権 の再確認であ る。 人々は戦争に際 して神宮 に逃げ寵 もり、 また 大切 な財産を神宮 に 「預け物」 としていた。 これ は藤木久志氏が 「村の隠物 ・預物(32)」で明 らかに した、戦国期の 「戦場 の習俗」 の一つであった。
この場合逃げ寵 もったのは、熱田八 ケ村の住民は もとより 「他国 ・当国敵味方井奉公人、足弱」で、
彼 らは財産 を神宮 に 「預け物」 として隠 したので ある。
ここでは 「預け物」 を 「改め」 ない旨を明言 し ている。 つ まり織田側の軍勢が 「改め」 と称 して
「濫妨 ・狼籍」 に及ぶ ことがない旨を明言 し、次 に 「付けた り」 として 「宮中へ出入 り之者ゞ1於路 次非俵 申懸事」 も禁止 し、熱田神宮のアジ‑ルの 保護 を約束 しているのである。 織 田氏 は尾張国に 於ける支配秩序再編成に当た り、一面に於いて確 かに織 田氏の権力 に敵対する要素 を持つが、公共 性の再確認のため、熱田神宮の宗教的な権威 に基 づ くアジ‑ル特権 を認めたのである。
ところで 『沙石集(33'』の巻 第一の (四)「神明 慈悲 を貴給事」の第三話には次の ようにある。
又、去承久 ノ乱 ノ時、当国ノ住人、恐 レテ社 頭ニアツマ リツ 、神離 ノ内ニテ、世間ノ資材雑 具マデ用意 シテ、所モナク集 り居 タル中二、戎 ハ親ニヲクレタルモアリ、戎ハ産屋 ナル者モア リ。 神官共制 シカネテ、大明神 ヲ下参 ラセテ、
御託宣 ヲ仰ギ奉 ルベ シ トテ、御神楽参 ラセテ、
諸人同心 二祈講 シケル二、一禰宜二託宣 シテ、
「我、天 ヨリ此国二下ル事ハ、万人 ヲ育 タスケ ン為ナ リ。 折こコソヨレ、忌マジキゾ」 ト、仰 ラレケ レバ、諸人一同二声 ヲ上テ、随喜渇仰 ノ 涙 ヲナガシケ リ。 其時ノ人、今ニア リテ語 り侍
り 。サ レバ神明 ノ心ハ、イヅレモ替 ラヌニコソ。
只心活 クハ、身モ汚 レジ。