修 士 論 文
山下菊二のルポルタージュ絵画
《救出提携》にみるリアリズム
教育学研究科 教科教育専攻 美術教育専修 14GP221
坂 本 憲 史
指導教員
岩 井 康 賴
目 次
序章
1.研究の主題と目的 2
2.先行研究と仮説 2
3.論文の構成 3
第一章 戦中戦後の山下
1.従軍と敗戦、そして前衛美術会への参加 4
2.日本共産党への入党 4
3.小河内文化工作隊への参加 5
第二章 ルポルタージュ絵画理論の誕生
1.リアリズム論争 6
2.安部公房のシュルレアリスム理解とルポルタージュ理論 7
3.桂川寛のルポルタージュ絵画理論 9
第三章 《救出提携》の主題と様式
1.小河内ダム問題 10
2.シュルレアリスム様式の発展 12
第四章 戦後日本美術史における山下のリアリズム
1.山下のリアリズム 13
2.戦後日本美術をテーマとした展覧会におけるルポルタージュ絵画の扱い 14
3.戦後日本美術をめぐる批評の変遷 16
終章
序章
1.研究の主題と目的
本論が主題とするのは、山下菊二(1919-1986)が、1952年に小河内ダム 建設現場に赴き、そ
1やました き く じ お ご う ち
こをルポルタージュしたとされる絵画 《救出提携》(図1)である。
2山下菊二は、「差別と国家権力を告発する画家」として知られ、戦場体験を原点として、戦争 で破壊された人間性の回復を試みた作家である。彼は、1919年に徳島県に生まれ、20歳に招集を 受けて現役入隊し、中国南部の戦線で数々の非人間的な体験をした。彼のユニークな点は、多く の戦争加害者がその記憶を内面に封じ込める中、戦場での加害体験を積極的に語り、戦後の日本 に封じ込められてきた敗戦の記憶を、シュルレアリスムの手法で表出した点にある。特に、1953 年に共産党員として描いたルポルタージュ絵画《あけぼの村物語》(図2)は、同年の「ニッポン 展 」に出品されて以来、彼の代表作となっている。
3山下のルポルタージュ絵画には、現実の場所や事件に由来するモチーフがグロテスクに描かれて いる。その画風は、当時のプロレタリア美術(図31、2)やシュルレアリスム絵画(図41、2)
と比較し、異質である。このような傾向は、《あけぼの村物語》に先立って制作された《救出提 携》において初めて見ることができる。
山下は、なぜこのような特殊な手法で小河内ダム建設現場をルポルタージュしなければならな かったのか。本論では、山下菊二の《救出提携》成立の経緯を明らかにし、その主題と様式を考 察する。さらに、彼の画業における《救出提携》の意義を論じることで、戦後の日本美術史を捉 え直す一助にしたいと考える。
2.先行研究と仮説
《救出提携》は、1953年の第6回日本アンデパンダン展 に出品された作品である。画面は、全
4体的にくすんだ暖色で覆われており、次作となる《あけぼの村物語》に通じる前近代的な土着性 を感じさせる。画面中央から両端に向かう遠近感は誇張され、画面中央部が前面に迫るような構 図になっている。夕暮れの赤い空を背景として、左にダム、右に山岳地帯が広がり、それらを中央 で分けるように笠を被った男の上半身が描かれている。笠の男に抱きかかえられたもう一人の男 は、笠の男の首にまとわりつくように抱きつき、ぐったりとしている。左上には、彼らを監視す るかのようなカラスが3羽とまっている。笠の男の顔は、正面の顔と左上を向く横顔に分裂してお り、そのためか、首には裂傷が生じている。さらに、何かの道具のような彼の手は、肘付近で肉 体としての腕に繋がっている。一方、抱えられている男は、黒ずんだ軟体動物のように描かれ、そ の顔は腫れ上がり、奇形的である。
テレビ番組 や美術雑誌、映画 などのメディアを通して、「差別と国家権力を告発する画家」と
5 6しての山下菊二像は次第に広がりを見せたが、その一方で、山下菊二研究の成果は少ない。彼の 画業の全体像を示す文献は、1988年に刊行された『山下菊二画集』(美術出版社)と、1996年の
「山下菊二展」(神奈川県立近代美術館)に際し刊行された『山下菊二展』カタログである。さ らに、研究論文は、『山下菊二展』カタログにおいて初めて見ることができる。本論の主題《救 出提携》については、ドイツ文学者・石黒英男 が『山下菊二画集』の中で解説するに留まってい
7いしぐろ ひ で お
る。従って、ここでは、《救出提携》と同じ問題意識下で制作されたと考えられる《あけぼの村
物語》と、「ニッポン展」に出品されたルポルタージュ絵画群に関する研究成果を確認する。
《あけぼの村物語》は、《救出提携》同様、山下が1953年に制作したルポルタージュ絵画であ る。彼が《あけぼの村物語》でルポルタージュしたのは、山梨県の旧曙村 で実際に発生した「曙
8村事件」である。その事件の内容は、専制的な地主一家を地元の農民たちが襲い、負傷させたと いうものである。学芸員・尾﨑眞人は、モチーフとなった「曙村事件」の実際と《あけぼの村物
お ざきまさ と
語》の画面構成を考察するとともに、《あけぼの村物語》に対する批評の変遷をたどりながら、
今日的な再評価を試みた。
尾﨑の研究は、次のような事実を明らかにした。山下は当初、公判用の紙芝居として「あけぼ の村物語」を構想し、「曙村事件」周辺のいくつかの出来事をモチーフに場面を構成していた。
しかし、後に彼は1953年の「ニッポン展」への出品を考えるようになり、紙芝居として分割され ていた各場面を一枚のタブローにまとめ、今日見る《あけぼの村物語》として描き上げた。その 際、彼は「曙村事件」そのものを描かず、事件周辺の出来事を描いた 。
9これらの事実を踏まえ、尾﨑は《あけぼの村物語》における次のような構造を指摘した。それ は、「作者の『語られぬ図像』を描くという意図的図式と、作者の原風景とを無意識に連結した
『見たことのある図像』というぶつかり合うベクトル上で作品が成立する 」というものである。
10そのうえで、同作を「ルポルタージュ絵画を超えて、山下菊二の内部に宿痾として眠っていた、『差 別』そして『天皇の戦争責任』を覚醒するための、山下菊二自身の内面へ向かった、ルポルター ジュ絵画であったとはいえないだろうか 」と論じた。
11尾﨑の研究は、《あけぼの村物語》における次のような特殊なルポルタージュの手法を明らか にした。一つは、紙芝居という着想がもたらした「現実の解体と再構成」、もう一つは、事件周 辺の出来事を自らの原風景として描いた点に見られる「外部の現実と内部の無意識との接続」で ある。
一方、研究員・鄭賢娥は、「ニッポン展」に出品されたルポルタージュ絵画を一つの運動体と
て い け ん がして考察し、「画壇と美術の存在の方式の問題、そして今日の社会問題と美術をどう結びつける かという問題意識を持った美術運動 」とした。さらに、ルポルタージュ絵画の美術史的価値とし
12て、「シュールレアリスムを克服して客観的な視点を確保する方法を受け入れた」点を挙げた 。
13鄭はまた、ルポルタージュ絵画における民俗性には、メキシコ美術が影響したと指摘し 、その理
14由として、当時の日本の若い作家たちが、同時代の抵抗美術としてのメキシコ美術に共感したため とした 。
15このように、尾﨑の研究がとりわけ山下自身が抱えた内的問題に注目し、そこに山下作品に見 られる異様な表現の根拠を見出した一方、鄭は、ルポルタージュ絵画を問題意識が理論的に共有 された運動体の成果とみなし、そこに美術史的な価値を見出している。
以上のことから、筆者は次の仮説を立てた。それは、尾﨑が《あけぼの村物語》に見出した山 下個人の内的問題を根拠とする特殊なルポルタージュの手法こそ、山下周辺の作家間で共有され た理論だったのではないか、ということである。山下が無意識的なデフォルメによって描いたか に見える《救出提携》も、同様の理論に基づいて制作されたのではないだろうか。
3.論文の構成
第一章では、戦中戦後における山下の動向を概観し、彼が戦後に形成した問題意識を確認する とともに、彼が小河内ダムをルポルタージュすることになった経緯を明らかにする。
第二章では、戦後のリアリズム論争と、その後国内に芽生えた国民的「記録」意識を踏まえ、
作家・安部公房と美術家・桂川寛の主張を中心に考察することで、ルポルタージュ絵画理論が形
成された経緯とその内実を明らかにする。
第三章では、ルポルタージュ絵画理論を踏まえ山下の小河内ダム認識を明らかにするとともに、
《救出提携》の主題を考察する。さらに、《救出提携》に見られる様式的特徴について論じる。
第四章では、《救出提携》に見られる多面的顔の表現をリアリズム表現として考察するととも に、そのような山下のリアリズム表現が、戦後日本美術史において所在をなくした経緯を、国内 外の美術展や批評言説の動向に注目しながら考察する。
第一章 戦中戦後の山下
1.従軍と敗戦、そして前衛美術会への参加
1938年、19歳の山下は、美術学校入学のために徳島から上京した。受験に備え、絵画研究所へ の入所を検討していた彼は、以前から美術雑誌で見て惹かれていた福沢一郎 の絵画研究所への入
16所を決めた。当時の福沢は、瀧口修造とともに、シュルレアリスムをヨーロッパから日本に紹介 した第一人者であり、彼は、この入所をきっかけとして、シュルレアリスムの理論や手法を徹底 的に学習する機会を得ることになった。ところが、翌年の1939年、彼は軍隊に招集され、中国南 部の戦地へと送られた。そこでの体験は、後の彼の画業に決定的な影響を与えることになる。1942 年に満期除隊となった彼は、再び福沢の研究所に戻って絵画制作を再開した。1943年には、いわ ゆる戦争画である《人道の敵米国の崩壊 》(図5)を制作し、第4回美術文化協会 展に出品し
17 18た 。彼はそこに、アメリカ社会の退廃性をダリ風のねじれと浮遊感をもって描いた。彼は、福沢
19の紹介で1944年から東宝映画に勤務したが、1945年には再度招集され、徳島の部隊に入隊させら れた。彼は、そこで敗戦を迎えた。
敗戦後の1946年、山下は、福沢一郎が主催する美術文化協会の会員となった。しかし、同年に 開催された第6回美術文化展の最中、会内部の共産党の革新集団と綱領堅持派が対立し、革新集団 が分派するという事態が起きた。結果的にこの革新集団は、旧プロレタリア美術系作家と合流し、
前衛美術会 となった。これを機に彼は、前衛美術会に参加することになった。
20回想によると、当時の山下は、戦場体験のトラウマによって悪夢に苛まれたり 、戦争に対して
21明確な立場を表明できなかった自分を責めるなどし、敗戦後の社会における身の処し方を決めあ ぐねていたようである 。
222.日本共産党への入党
1947年、山下は日本共産党へ入党し、さらに第3次東宝争議に参加した。これら政治闘争の体 験は、向かうべき方向を見失っていた彼に、ひとつの道を示した。即ち彼は、東宝の共産党員を 通してマルクス主義芸術論に触れたことで、自身の戦争体験を思想的に再検討する機会を得ると ともに、戦争の主体たる国家権力の存在と、それがもたらす差別の構造を知ることになったので ある 。
23 24 25マルクス主義芸術論 を学び始めた当初の山下は、労働者を描くことで労働運動を側面から支援
26し、結果的にそれが「生活と絵の表現の結びあえてるようなもの 」になるのではないかと考え
27た。近年、山下夫人から徳島県立近代美術館に寄贈された山下のスケッチの中には、第3次東宝争 議を内部から克明に記録したものが含まれており、学芸員・江川佳秀は、これらの発見に際し、
え が わ よしひで
「これらのスケッチは、山下の画業を方向づけることになった日々の記録といえそうだ 」として
28いる。
その後彼は、1948年の第2回前衛美術展にペンによる10点の連作《マルドロールの歌》(図6-a〜
j)を出品した。1951年には《オト・オテム》(図7)、《買弁権力》(図8)、《植民地工場》(図 9)、1952年には《祖国防衛戦線》(図10)を立て続けに発表した。
3.小河内文化工作隊への参加
山下が小河内ダムに赴くきっかけとなったのが小河内文化工作隊への参加である。小河内文化 工作隊とは、山村工作隊を文化的に支援することを目的として、日本共産党が組織したものであ る。そのいきさつは、次のようなものである。
当時の日本共産党は、コミンフォルム に平和革命論を批判されたことを発端に、その批判に反
29論した所感派と批判を受け入れた国際派に分裂し、混乱状態に陥っていた。その後、武装闘争を 志向した所感派は、1951年に非公然組織「山村工作隊」を組織し、ゲリラ戦による反米武装闘争 を目指した。この山村工作隊は、農山漁村を根拠地として「労農提携」の実現と武装闘争を目指 し、工作活動を展開した 。
30一方で党は、文化政策として「社会主義リアリズム」を掲げ、近代主義批判のキャンペーンを繰 り広げていた。中でも党文化部は、シュルレアリストを近代主義の急先鋒とみなし、彼らを批判 の対象とした 。その結果、山下が所属していた前衛美術会からは、非共産党員の作家と社会主義
31リアリズムの作家が相次いで脱退し、当会は左翼的シュルレアリスムの傾向を強めたのである。
これに対し党は、前衛美術会に残ったシュルレアリスムの作家を社会主義リアリズムの作家に矯 正しようと目論み、山下らに小河内ダム建設現場で反対運動を展開する山村工作隊を文化的に支 援するよう指示し、現地へ派遣した 。もともと小河内ダムは、1932年に当時の東京市民の水源
32として建設が計画されたダムであったが、戦後は米軍基地の電源となることが政治的に問題視さ れるようになり、同ダム建設現場は政治闘争の場となっていたのである。かくして、1952年6月、
山下菊二、桂川寛、勅使河原宏、尾藤豊、入野達弥、島田澄也からなる前衛美術会の若手作家ら6
かつらがわひろし て し が わ ら ひろし び と う ゆたか い り の た つ や し ま だ すみ や
名は、小河内村に派遣され、そこに2ヶ月ほど滞在することになった。
彼らの主な任務は、ダム建設反対運動を促すビラをガリ版刷りで制作し、それらをダム建設労 働者や村落の家々に配ることであった 。ところが7月に入ると、彼らは山村工作隊が引き起こし
33た闘争の現場に立ち会うことになる。後に、第二次小河内事件と呼ばれるこの事件の概要は、次 のようなものである。
1952年7月9日の朝、山下含む小河内文化工作隊員ら約10名は、リーダー格の山村工作隊員に率 いられ、ダム建設現場事務所に押しかけた。その目的は、労働者の賃上げ、および夏季手当の要 求などであった。その際、事務所関係者と山村工作隊の一人が押し問答となり、そこに他の工作 隊員が加わって乱闘騒ぎとなった。この騒ぎは、事務所の硝子を割るなどの損害を生じさせた。
間もなく、大勢の警官が駆けつけ、隊員らは散り散りに逃げたものの、逃げ遅れた島田澄也が逮 捕された 。
34 35 36 37この一件を機に、小河内文化工作はあっけなく終わりを迎えたが、その後の彼らは、現場から
得たそれぞれの記憶やスケッチをもとに、各々のルポルタージュ絵画を描いたのである。
第二章 ルポルタージュ絵画理論の誕生
1.リアリズム論争
戦中にプロパガンダと化した絵画「戦争画」 を、日本近代美術の過誤と捉えた美術家や批評
38家にとって、戦前戦中とは違う新たなリアリズムを確立することは命題であった。その模索と混 乱を象徴するのが、1946年から1949年にかけて美術雑誌を中心に繰り広げられた、リアリズム論 争である。
この論争は、美術批評家の土方定一 、林文雄 、植村鷹千代 、さらに画家の永井 潔
39 40 41 42や石井
ひじかたていいち はやし ふ み お うえむらたか ち よ な が い きよし い し い
柏亭 らの間でリアリズム認識をめぐって繰り広げられたものである。美術批評家・中村義一
43 44はくてい なかむら ぎ い ち
は、著書『日本近代美術論争史』にこの論争の成り行きを詳細に記し、総括している。それによ ると、ことの発端は、1946年に林と土方によって始められた日本近代美術認識を巡る論争である。
林の主張は、日本近代美術の形成過程は政治的な市民革命性を考慮して捉えられるべきものであ り、《鮭》や《花魁》を描いた高橋由一 の油彩画にこそ、生活の形象的認識による市民的自由主
45義や、写真主義を克服した新しいリアリズムを見るべきというものである。これに対し土方は、
リアリズムの基礎はヨーロッパ絵画の科学的方法であり、それが不十分な高橋由一の油彩画には、
思想的史的価値があったとしても絵画的な価値はないと反論した。このように、林はリアリズム における主題性を、土方は絵画性を重視する態度を示したのである。
他方で、土方が第一回日本アンデパンダン出品作品を「模写説的リアリズムの限界」と非難し たことを発端に、土方と永井の間で論争が起こった。永井は、リアリズムの本質は「模写」であ り、土方の言は、「非模写的リアリズム」を逆説的に容認し、リアリズムからの主観的逸脱を助 長するものであると批判した。これに対し土方は、日本のリアリストが、絵画世界を視的直感の 世界に限定することで絵画を他ジャンルから独立させたという模写説的リアリズムの近代性を理 解しないまま性急にクールベ以来の典型から出発したため、結果的に彼らの作品はリアリテを喪 失したのではないかと反論した。
1947年、植村鷹千代 がアヴァンギャルドの立場からこれに加わり、論争はアヴァンギャルド
46うえむらたか ち よ
対リアリズムという構図を見せた。植村は、現代では描かれるべき客体が作家内部まで入り込ん でいるのであるから、リアリズムはシュルレアリスムや抽象主義の形をとると主張し、アヴァン ギャルドを感覚偏重の表現として非難する模写説のリアリストたちを牽制した。
ここに及んで土方は、リアリストとモダニスト双方に対し、次のように呼びかける。彼は、リ アリストには近代絵画の造形的意味を理解することを促し、モダニストには現在のリアリズムと かつての社会主義リアリズムを混同しないよう求めたのである。そのうえで彼は、社会主義リア リズムでもアヴァンギャルドでもない第三のリアリズム絵画を提唱する。それは、20世紀に生き る人間の主観的体験を客観化する意識で画面上の造形を支配する絵画である。これに対し植村は、
そのような土方の説こそ前衛絵画理論が内包するものであると応じた。
論争は、石井と古沢岩美 の参加によってさらに続いた。石井は、リアリテが目に映る自然の他
47ふるさわ い わ み
に存在するかのような議論は、いたずらに混乱を招くだけで無意味であると主張し、自然主義的 リアリズムへの回帰を促した。これに対し古沢は、現実の混乱や矛盾こそがリアリズム絵画の主 題であって、懐古的に自然を描くものではないと石井を批判し、一方土方は、石井の言を低俗な 自覚と狭量な不正による物言いと批判した。
以上のように、この論争は、戦後美術におけるリアリズムの主題性と絵画性の関係を巡って、
それぞれの論客が政治的、思想的立場から態度表明したものに留まり、何らかの結論をみるもの
ではなかった。しかし、この論戦を中心的に牽引した土方が、絵画表現における人間の主観的体
験の関与とその客観化意識を強調し、移植文化たる日本近代美術を、様式か主題かという議論以
上に、人間の問題として提示したことは、後にルポルタージュ絵画が生まれる環境を美術界に準 備したと考えられる。
2.安部公房のシュルレアリスム理解とルポルタージュ理論
1950年代に入ると、新たなリアリズムを求める機運は、多分野にわたる「記録」的な運動とし て表れた。早稲田大学教授・鳥羽耕史は、当時の国民が「記録」への関心を高めた原因として、
と ば こ う じ
新たなリアリズムを求める機運の他に、次の二つの機運を指摘している。一つは、戦時下におけ る報道への懐疑と真実を知りたいという欲求、二つ目は、日本共産党内の混乱する現実を「記録」
しようとする動きである 。
48中でも、鳥羽が「今日では全く忘れられ、継承されていないもうひとつの側面 」として特にそ
49の存在を指摘しているのが、各地で起こった文学サークル運動である。鳥羽によると、「サーク ル」とは、もともと左翼の用語であり、戦前に共産党主導の芸術運動における「大衆的なプロレ タリア的な基礎」として組織されたものである。戦時中は、弾圧によってそのほとんどが解体さ れたものの、戦後の新しい文脈の中で新たに誕生した。そこで発行された「サークル誌」と呼ば れる雑誌の多くには、詩と生活記録が載せられ、全国的なネットワークの中で流通した。この運 動は、映画や幻灯 などのメディアと結びつき、地域の歴史を民衆に啓蒙していくという国民的歴
50史学運動の流れとも結びついた。鳥羽は、この一連のサークル運動の記録的性質に注目し、次の ように指摘している。
この時代の生活記録運動と国民的歴史学運動は、それぞれの方法での「記録」により自己を書 き替えていく、主体を変革していく契機となった 。
51つまり、1950年代における「記録」とは、大衆への啓蒙的アプローチであると同時に、記録者 自身の主体変革の問題をも含むものであった。
国民的な「記録」意識が高まる中、文学における「記録」の意義を積極的に提唱したのが作家・
安部公房である。彼は、1949年に「シュール・リアリズム批判 」、1952年に「新しいリアリズ
あ べ こうぼう 52ムのために:ルポルタージュの意義 」という論考を発表した。それぞれの主張は次のようなもの
53である。
まず、「シュール・リアリズム批判」で安部は、シュルレアリスムをダダイズムの系譜で捉え直 し、「現実を否定すると同時に再構成しようとした革命理論」と定義づけるとともに、現実認識 ではなく現実解釈の方法とみなした。彼は、精神病理学の見地から、無意識界の表出が常に意識 の検閲を受ける点に注目し、本来シュルレアリストが主張したものとは、無意識界の存在そのも のではなく、社会が無意識界に与えた刺激が意識の検閲能力を超えたがために生じた苦悩(内的 軋轢)だったのではないかと主張した。そして彼は、具体的な表現方法を論じるにあたり、突如 として「論理的追求による破壊」を契機とした創造を強く主張し始める。彼は、論理的追求を「存 在論的追求」と「科学的追求」に区別しながら次のように説明した。
安部によると、「存在論的追求」と「科学的追求」は、「内的軋轢によって生じる肉体的発作
(デフォルマシオン)」と「抽象作用」に換言できる。あるいは、前者を「パブロフの第一系(深
層作用)」、後者を「パブロフの第二系(抽象能力)」と言うこともできる。そのうえで、真のシュ
ルレアリスムとは、内的軋轢を意識的なデフォルマシオンとして表出することであるとし、次の
ように主張した。
内的軋轢を耐えながら詐病によって放散させず芸術まで高める(昇華させる)ことによって創 造の契機としなければならぬ。しかしこれはすべて論理的追求であることによって破壊的であ り、合理的であり、真の非合理はシュールリアリズムかアブストラクトかというところにある のではなく、創造自体の問題に及んで始めて出てくるものであることを忘れてはならない 。
54このように安部は、精神病理学の見地から、シュルレアリスム成立の発端を意識と深層意識の 関係の中で捉え直し、戦後のあるべきシュルレアリスムを様式論ではなく創造に関わる問題とし て論じた。
一方「新しいリアリズムのために:ルポルタージュの意義」では、安部は意識と物質の関係の 考察から始めている。彼によると、意識とは、「ことば」で構成された構造体であり、そしてそ の「ことば」は、現実を抽象化したものである。従って意識は、現実そのものではないにして も、「現実の知的な見取り図」となる。彼の指摘の重要な点は、意識が社会的、集団的な側面を もつということである。つまり我々は、死者も含めた他人の「ことば」によって空間や時間を共 同のものとしているのであるから、その「ことば」で構成される意識は時空を超えて拡張できる ようになるとともに、現実の本質を探りだして現実を変革できるようになる。その意味で、意識 は、人間と社会にとっての必要条件になると彼は論じた。
一方の物質は、彼によると、意識を発展させるエネルギー源であり、意識の拡張とともにその 広がりを見せる意識外の実在である。従って、物質のエネルギーを変革によって解放することで意 識を発展させることが可能となる。
以上のことから安部は、次のような言葉で、物質を第一義的に取り上げるリアリズムの方法の 必要性を主張した。
われわれは意識の面に現れた部分だけで現実の追求をやめるわけにはいかないのである。どう しても意識の届かない物質の奥底までつっこんでいくリアリズムの方法をつくり出さなければ ならなくなってくる 。
55続けて安部は、シュルレアリスムがなした次のような点、つまり、意識と現実を区別し物質を 発見した点、さらに物質を通じて意識を変革した点を評価しつつも、シュルレアリスムが問題と したのは、あくまでも個人的な意識であり、従って物質も個人的に問題にされたにすぎないと批 判した。そのうえで、リアリズムの発展における新たなルポルタージュを次のように定義した。
現実の変革のために、そして革命が大衆的なものになりつつある今日、新しいリアリズムとし て問題にされたルポルタージュは、やはり新しいルポルタージュ概念であり、常識的なニュー ス記事でないことは当然である。社会的な現実を、社会的な意識、というより社会の意識と物 質との緊張関係においてとらえること
56このように安部は、あくまで文学上の問題としてではあるが、シュルレアリスムの成果を批判
的に継承しながら、社会現実を個人意識ではなく社会意識との緊張関係においてとらえることを
新たなリアリズムの方法、すなわちルポルタージュとしてその意義を主張したのである。
3.桂川寛のルポルタージュ絵画理論
前衛美術会の画家の中で、安部公房の影響を最も強く受けたのは美術家・桂川寛である。彼は、
前衛美術会に所属する以前から安部が組織したグループ「世紀 」に所属し、安部とともに様々な
57芸術的実践を試みた 。彼は後に、1950年当時、安部と最も接触した人物と自認するとともに、
58安部との交流が自身の芸術的手法のバックボーンとなったことを認めている 。
59 60一方、安部とともに桂川に大きな影響を与えたのが文芸評論家・花田清輝である。花田は、戦
は な だ きよてる
後のアヴァンギャルド芸術 論を主導した評論家である。彼の主張は、社会主義リアリズムをア
61ヴァンギャルド芸術の方法論で乗り越え、新たなリアリズムを追求することであり、その言説は 当時の若い芸術家たちに大きな影響を与えていた。桂川もまた、1948年に札幌から上京した時点 で、著作を通じて花田のアヴァンギャルド芸術論に触れていた。花田は、「世紀」が岡本太郎と 自身による前衛的サロン「夜の会 」に参加したことをきっかけに「世紀」に加わった 。このこ
62 63とは、桂川にとって大きな刺激となったに違いない。
このような「世紀」内での安部公房や花田清輝との交流は、桂川の問題意識の形成に大きな影 響を与えた。彼は、絵画の「記録性」と小河内ダムに関する自身の問題意識を次のように記して いる。
私にとって“記録性”とは、シュルレアリスムを超えるための手段として ― 花田清輝のいう「内 部に注がれた眼を、外部に向ける」その実験の方法として意識されていたことである。〈中略〉
つまり、現実の中に潜りこんでそれを超えるという、二重否定としての“潜現実主義”の思考こ そ、期せずしてわれわれの小河内での営為そのものに向けられたものであったからだ 。
64さらに彼は、ルポルタージュ絵画における外部と記録者の主体の問題にも踏み込み、次のよう に記している。
ともあれ、「見たものを描き、描きながら見る」という営為はたんなる現場主義的写生を超え て、異次元の空間と時間を移動する眼によって集積されたイメージの総体であり、状況と主体 を包括するまなざしの問題でなければならなかった 。
65このように桂川は、ルポルタージュ絵画と現場主義的写生を明確に区別しながら、新たなリア
リズムとしてルポルタージュ絵画を描くには、記録者の主体と外部状況を包括することを問題に
しなければならないとした。こうして形成された桂川の問題意識における次の二点、外部状況を
シュルレアリストの眼で潜入的に捉え、それを時空を超えたイメージの総体とする点と、状況と
主体を包括するまなざしで描く点は、尾﨑の研究が《あけぼの村物語》(図2)に見出した山下の
ルポルタージュの手法と重なる 。この事実は、ルポルタージュ絵画が理論的に共有された運動体
66の成果であることを裏付けるものである。
第三章 《救出提携》の主題と様式
1.小河内ダム問題
《救出提携》には、以前の山下作品と比較して、次のような変化を見ることができる。それは、
具体的な主題の獲得とシュルレアリスム様式の変化である。ここではまず、《救出提携》の主題に ついて考察する。
石黒英男は、《救出提携》(図1)を次のように解説している。
弾圧で傷ついた青年を抱いて立つ中央の人物は現地の農民であろう。建造中のダムの橋脚にと まっているカラスは現場を監視する警察官の比喩だ。いささか図式的とはいえ外部の現実とか かわる人間の内面をもとらえようとする作者の描法をそこに見ることができる
67タイトルである《救出提携》という聞きなれない用語は、山村工作隊が実現を目指した「労農 提携」に由来するものと考えられる。従って、この作品の主題は、石黒の解説の通り、「警察の 弾圧に対してダム建設労働者と小河内村農民が提携して抵抗する姿」であると解釈できる。しかし、
タイトルから「労農提携」という政治的主題は理解できるものの、非現実的な人物表現やグロテ スクさを政治的主題に結びつけて理解するのは難しい。先述のように、ルポルタージュ絵画理論 によると、ルポルタージュ絵画とは、現実を外面的に写生するものではなく、画家の眼差しを現 実の最深部まで及ばせ、そこに潜む社会的非合理を表出しようと試みるものである。従ってまず、
小河内ダム問題の実態と山下の小河内ダム認識を明らかにしなければ、本作の主題を明らかにす ることはできない。
そもそも小河内ダムは、戦前から水不足が叫ばれていた旧東京市の有力な水源として建設が進ん でいたもので、市民はその建設の動向に高い関心を寄せていた。新聞各社は、定期的に小河内ダ ム建設の進捗状況を報じ、市民の高い関心に応えた。しかし戦後になると、補償問題の長期化に 伴い、村民生活の疲弊が問題視されるとともに、同ダムが米軍基地の電源となることが政治問題 化され、小河内ダムは補償問題と政治闘争が交錯する場として注目されるようになった。
1937年には、「湖底の故郷」という歌が発売され、流行歌となった。これは、当時の人気歌
ふるさと
手、東海林太郎がダム建設によって村を去る小河内村民の心情を歌ったものである。さらに同
し ょ う じ た ろ う年、作家・石川達三が小河内村をモデルとした小説『日蔭の村』を発表した。これは、ダム建設
いしかわたつぞう
を巡って激化する村民同士の対立や、ダム工事の認可がなかなかおりない中、補償をあてにしてい た村民達の生活が徐々に疲弊していく様子を描いたものである。戦後になると、1950年に『アサ ヒグラフ(7月5日号)』が「宿命の村をゆく」と題して小河内村をルポルタージュし、その惨状 をセンセーショナルに報道した。
このような歌や文学、マスコミ報道の影響を受け、世間は都市文明の犠牲となった小河内村に 同情心を抱くようになっていた。山下が小河内ダムに抱いた認識も、世間のそれと無関係ではな かったことが彼の作品目録からわかる。『山下菊二展』カタログによると、彼は《救出提携》の ほかに《白線下の部落》《湖底の故郷》という小河内ダムに関する二つの作品を制作している 。
68いずれも、タイトルしか確認できないが、これらはダムが小河内村にもたらした悲劇を意味する言 葉である。まず《白線下の部落》の「白線」は、ダム建設予定地の写真にダムの規模を白線で示 すことに由来すると考えられる(図11-a、b) 。一方、《湖底の故郷》は、先述の通り、小河内
69村民の悲哀を歌った流行歌のタイトルである。
以上の事実を踏まえ、改めて《救出提携》(図1)に描かれた情景を確認してみる。舞台となっ
ている夕暮れ時の山道は、曲がりくねりながら二手に分かれている。笠を被った農民は、腕にの
しかかる怪我人の重みに耐えながら、左右の目でそれぞれ違う方向を見て呆然としているようで ある。
石川達三の『日蔭の村』には、小河内村長と村民達が、村の窮状を訴える陳情の集団上京を試 みる場面が描かれている。その道中は、警察の弾圧で数名が負傷するという壮絶なものであった が、村長らは関係要人らと面会を果たし帰村を果たした。石川は、その帰村の様子を次のように 書いた。
暮れゆく小河内村の部落、崖の上の道を陳情の村民たちは昨夜から興奮に次ぐ虚脱に似た疲れ によろめきながら三々五々、ばらばらになって戻っていった。村長はまた荷馬車に乗せてもら い龍三の頭からは血がにじみ、足の傷が痛みだした利八は龍三の肩につかまって跛を曵いてい
びっこ
た 。
70ここに描かれた「暮れゆく」「部落」の「崖」を「虚脱」状態で「よろめ」く様は、《救出提 携》に類似するイメージである。さらに、頭に怪我をした「龍三」という村人は、作中において 足にゲートルを巻いており、《救出提携》で抱えられている人物像と重なる 。
71一方、作詞家・島田磐也による「湖底の故郷」の歌詞は、以下のようになっている。
し ま だ きん や
1.夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らす さらば 湖底の わが村よ 幼き夢の 揺籠よ
2.あてなき道を 辿り行く 流離の旅は 涙さえ
枯れてはかなき おもい出よ ああうらぶれの 身はいずこ
3.別れは辛し 胸傷し 何処に求む ふるさとよ 今ぞ当なき 漂泊の 旅路へ上る 今日の空
歌詞は、故郷を追われ、夕暮れ時のあてなき道を彷徨い歩く村人を描いている。この「夕陽」
の中「あてなき道」を行く「うらぶれ 」た「漂泊」の民の姿もまた、《救出提携》に描かれた情
72景と重なる。
山下は、《湖底の故郷》を《救出提携》と同時期に描き、二点とも1953年の第6回日本アンデ パンダン展に出品している。山下が流行歌「湖底の故郷」の世界観を踏まえて同名の《湖底の故 郷》を描いたのは間違いなく、彼が同じ時期に同じ現場をモチーフとして描いた《救出提携》に おいても、その世界観の影響は大きかったと考えられる。
このように山下は、小河内ダムの外面的な現実だけでなく、それを取り巻く社会的な状況にも
目を向け、『日蔭の村』や「湖底の故郷」の世界観を手がかりに《救出提携》のイメージを形成
したと考えられる。従って彼は、小河内ダムを「農民とダム建設労働者の提携」という政治的スロー
ガンを実現させる場としてだけでなく、「小河内村民を流浪の身へ追いやった元凶」として認識 し、巨大権力に蹂躙される人間の姿を主題として《救出提携》を描いたのである。
2.シュルレアリスム様式の発展
一方、《救出提携》には様式的変化も見られる。それ以前の山下作品に見られたサルヴァドー ル・ダリの様式的引用が、人体の物質的変容性を示すものへと変化しているのである。
もともと山下は、戦中からダリに強い関心を寄せており、ダリについて熱心に学習していた。
彼が1948年に、ロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌 』(図12-a〜c 全10点中の一部〉を
73ペン画の連作にしたのも、ダリがかつて同書の挿絵(図13-a〜c 全50葉中の一部)を描いたこと に影響を受けたものと考えられる。また、戦中の1943年に制作された《人道の敵米国の崩壊》(図 5)と戦後の1951年に制作された《オト・オテム》(図7)が、そこで表明された国家権力への態 度が正反対であるにもかかわらず、ともにダリの様式的引用を示したことは、山下の画風にダリ が強い影響を及ぼしたことを示す。
京都市立芸術大学芸術資源研究センター准教授・加治屋健司は、山下が1951年に発表した《オ
か じ や け ん じ
ト・オテム》を構成するイメージが、アメリカの雑誌『LIFE』に掲載された原爆被害者の写真や ミイラの写真から引用されたものであることを指摘し、そのうえで、山下が1947年に発表した戦 争画《日本の敵アメリカの崩壊》と《オト・オテム》の様式的な類似性について次のように記して いる。
山下は、原爆の被害に関心を寄せたものの、それは絵画空間を 一変させることにはならず、自 分のスタイルや既存のモチーフを維持し続けることになった。〈中略〉(原爆投下という)新 しい出来事が与える衝撃が、必ずしも新しい 手段によって表現されるわけではなく、自分が慣 れ親しんだ表現を使い続ける画家もいるのである。そのことをよく示しているの が、この時期 の山下の絵画ではないだろうか。
74《オト・オテム》制作後の山下は、《買弁権力》(図8)《植民地工場》(図9)《祖国防衛戦 線》(図10)に至る作品において「ダリ風」からの脱却を図ったと考えられ、その画風は抽象的 になったが、依然「シュルレアリスム風」の域を出るものではなかった 。
75ところが《救出提携》では、人体がコラージュ的にではなく、物質的に変形、接合、分断させ られているとともに、モチーフの表面は触覚的に処理されるようになった。農民の顔は、横顔と 正面顔に分裂させられ、皮膚として同じ曲面をなしながら再構成されている。彼の道具化した手 は、立体的な合理性を保ちながら肉体部分と接続されているため、義手のようでもある。抱えら れた労働者の顔は、奇形的であるが生体としての整合性は保たれている。また彼の体は、脂肪質で どこか女性的である。このような人体の物質的変容性は、小河内ダムをモチーフにした他のルポ ルタージュ絵画には見られない。桂川寛の《小河内村》(図14)、尾藤豊の《小河内ダム 》
76(図15)、勅使河原宏の《昼食》(図16)には、モダニズム様式を土着的、寓意的に発展させた 痕跡はみとめられるが、本来的な人間像が崩れるほどの表現はみとめられない。
山下がダリ様式を、このような人体の物質的変容の表現へと発展させることができたのは、安
部公房が提唱した物質を第一義的に捉えるルポルタージュ理論に触れたことと、ダリの形態学を
理論的に理解したことによるものと考えられる。特に後者は、《救出提携》の造形的根拠を示す
ものとして論じることができる。
山下のダリ理解を支えたのは、瀧口修造の論文であると考えられる。山下は、シュルレアリス ムに関する情報が少ない戦時中から、福沢一郎の研究所で瀧口の論文を目にしていた 。従って、
77山下がダリに関する瀧口の論文を目にしていた可能性は高い。特に、1939年に発表された瀧口の
「謎の創造者:サルバドール・ダリ 」は、ダリの創作を心理学や形態学の側面から論じたもので
78あり、山下にとって興味深いものであったに違いない。そこで瀧口は、ダリの創作におけるフロ イト心理学への信念と芸術的なシステムの存在、つまり偏執狂的批判的方法を紹介するととも に 、ダリの美学を「可食的」と要約し、その形態学に寄与したものとしてラファエル前派へのダ
79リ的解釈があることを指摘した 。
80ラファエル前派 へのダリ的解釈とは、二つの支点から垂れた完全にフレクシブルな曲線「垂曲
81線」と、完全に磨かれた表面における突出部の二点 から他の一点に張られた一本の線によって生
82じる弧線「最短線」によって理解されるものである。ちなみに、「垂曲線」が見出される具体的 なものとしては、物質の光沢、幕、布地の襞などが挙げられる。一方、「最短線」が見出される 具体的なものとしては、包帯術や衣装の裁断法などが挙げられる。瀧口は、このダリの解釈を、
「ラファエル前派のロマンティックな官能描写にこのような物理的な形態学を見出したものは、
結局衣服から筋肉へ、さらに骨骼へと浸透するダリの悪魔的なX線的視覚 」と称した。
83ラファエル前派へのダリ的解釈を踏まえると、《救出提携》の農民と労働者の肉体表現には「可 食的」要素を見出すことができる。農民の肉体が固く筋肉質であるのに対し、労働者の肉体は脂 肪質で柔軟である。一方、抱えられる労働者の肉体は、農民の二つの手を支点とした「垂曲線」
となっている(図17a)。さらに、労働者の指に巻かれた包帯の重なりには、「最短線」を見出す ことができる(図17-b)。その他、前景から遠景に向けて魚眼レンズを透過したように歪む背景 にも、いくつかの弧線が確認できる(図17a)。加えて、道具のような農民の手についても、ダリ が1930年代の作品(図18-a〜d)に多く描いた松葉杖のモチーフを由来としていることが指摘で きる。
このように山下は、ルポルタージュ絵画理論が示す物質の第一義性を、ダリの形態学を根拠に 実践したと考えられる。それにより、彼は、ダリの引用に留まっていた自らの様式を発展させ、
人間が抱えた社会的矛盾を物質的変容を伴った人物として表現することができたのである。
第四章 戦後日本美術史における山下のリアリズム
1.山下のリアリズム
山下のリアリズム認識は、彼のキュビスム認識によく表れている。彼は、1980年の美術家・
谷川晃一 との対談で、創作におけるキュビスムの手法について次のように語っている。
84たにがわこういち
確かにキュビズムには一点からものを見るのではなく、多視的にとらまえた総体というものが ありますが、それはただ視覚的に捉えるというだけではなく、対象の実体をつかむ態度の新鮮 な面白さというものを強く感じました 。
85〈中略〉自分の中に人間の問題として考えられる矛盾関係をやはり何らかの形で人間性回復と
いう姿に表現してみたいんです。〈中略〉ですから労働者を姿としてではなく精神的にその人
間がどのように権力のために苦悩し、そしてどのように闘っているのか、つまらない戦争画の
ようにただ戦っている場面の外面描写というだけでは、やはり描いた人間の存在理由が問われ
るであろうし、そのことが人間相互の問題だろうと思っています 。
86この山下の発言から、彼がキュビスムを近代様式としてではなく、人間存在の捉え直しを意図 したリアリズムの手法と認識していたことがわかる。
《救出提携》(図1)の農民の顔に初めて見られたように、その後の山下作品における多面的表 現は、人間の顔に対して適用されるようになる。特に1970年代以降の小作品(図19〜25)におい て、多面的な顔が画面の中心的役割を担うようになり、《どかされる貌》(図19)、《われない1 人…A》(図21)、《きえない顔》(図23)などに顕著である。それらのタイトルに含まれる「ど かされる」「きえない」「われない」などの言葉は、顔の多面性が、作家による多視的な現実解 釈でによるものではなく、人間の統合不可能性を表すものであることを示している。この頃の山 下は、「狭山裁判 」のような具体的事件に触れながら、天皇制に起因する差別構造を積極的に告
87発していた。言わば、彼の多面的顔の表現とは、権力構造によって生じた人間の精神的な苦悩を、
外部からではなく、ルポルタージュ絵画理論が示した画家の視線で人間の内部から告発して描い たリアリズム表現なのである。
以上のことから、《救出提携》は、山下が初めてその眼差しを権力構造下における具体的な人 間へと向けるとともに、ルポルタージュ絵画理論の実践として人間存在を問い直そうとした初め ての作品とみなすことができる。
2.戦後日本美術をテーマとした展覧会におけるルポルタージュ絵画の扱い
山下のリアリズム表現の原形を見せる1950年代のルポルタージュ絵画は、戦後の混乱を反映し た一形態とされるものの、戦後日本美術史の主流をなすものではない。2015年に出版された『日 本美術全集19:戦後〜1995 拡張する戦後美術』(小学館)には、ルポルタージュ絵画の美術史 的な所在はなく、「はじめに」文中で「戦争芸術の残影、変形」と表現されるに留まった 。
88鄭賢娥は、ルポルタージュ絵画が長年日本の美術界で研究対象とならなかった原因として、ル ポルタージュ絵画に備わる観念的な政治意識が非芸術的であると批評家に批判されてきたことを 挙げた。さらに鄭は、そのような「芸術性と政治性とは相容れないもの」とした考え方が日本の 美術界で何十年も継承されてきたことが問題であり、このことは再考すべき地点にきていると問 題提起した 。
89一方、尾﨑眞人は、『山下菊二展』カタログ中で、代表作《あけぼの村物語》評価の変遷を明 らかにした。尾﨑によると、美術批評家・針生一郎 が1953年の「ニッポン展」に寄せた「安易
は り う いちろう90な手法の上にモティーフの整理が足りなくてメロドラマになっています」という《あけぼの村物語》
評は、1960年には「ボス支配と民間信仰などの要素を、グロテスクさと俗悪さの手法で山下菊二 が描いた」という評価へと変化している。この事実を踏まえ、尾﨑は、「針生一郎という評論家 の展開と共に、《あけぼの村物語》(図2)は作品として、戦後美術批評のなかで正当な評価を得 るところまできた」とし、《あけぼの村物語》の評価が高まりつつある現状を示した。
このように、ルポルタージュ絵画は、針生一郎という一美術批評家の批評活動の展開と結びつ けることで評価できるようになったが、戦後日本美術史の文脈において大きく取り上げられるこ とはない。ここでは、戦後日本美術史を扱った1980年代以降の美術展に注目し、それら美術展が 戦後日本美術史をどのように総括したのかを考察することで、山下のリアリズムが美術史的な所 在を失った原因を明らかにする。
1980年代に入ると、戦後日本美術を再考する展覧会が国内外で開催されるようになった。1985 年には、オックスフォード近代美術館で「再構成:日本の前衛19451965」展が、1986年には、
ポンピドゥー・センターで「前衛芸術の日本:19101970」展が開かれた。さらに、1994年には、
横浜美術館で「戦後日本の前衛美術 JAPANESE ART AFTER 1945:SCREAM AGAINST THE
SKY」展が開かれ 、戦後の日本美術を再考する気運が高まった。また、1996年には、目黒区美
91術館で「1953年ライトアップ:新しい戦後美術像が見えてきた」と題した敢えて「具体」以前の 空白期にスポットを当てた展覧会も開かれた。近年では、2012年にニューヨーク近代美術館で開 かれた「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」が記憶に新しい。では、これら展覧会はルポルタージュ 絵画をどのように扱ったのか。
まず、1985年の「再構成:日本の前衛19451965」展は、戦中戦後における軍部や美術文化協 会の動向から考察を始め、さらに戦後美術における岡本太郎の役割について触れるとともに、そ の後生まれた多くのルポルタージュ絵画群に言及した 。美術批評家・海藤和による解説は、山下
92かいどうかず
作品と戦争体験の関連や左翼的思想に触れるとともに、針生一郎による否定的な《あけぼの村物 語》批評と共感に触れるなど、極めて客観的なものであった。
翌年の「前衛芸術の日本:19101970」展は、「美術手帖」誌上でも特集され、国内でも高い 関心が寄せられた。しかし、展示構成において「具体 」以前の作家は岡本太郎と山下菊二、河原
93温に限られ、「具体」そのものへの考察に重点が置かれるようになった。
1994年の「戦後日本の前衛美術」展では、遂に「具体」以前の作品が考察の対象外となった。
横浜美術館学芸員・天野太郎は、同展カタログ中において、戦後の社会主義的な前衛美術につい て次のような認識を示した。
ところで戦後の前衛美術の歴史の中では、例えば文学とは異なり、社会主義的イデオローグに 先導された表現は、ついにメジャーになり得なかった。戦後においては、イデオロギーではあ りえない資本主義に対する知識人のアレルギー反応が、大方の前衛作家たちのバック・ボーン となっていたにすぎず、決してそうしたイデオロギーのメッセージの手段として前衛美術の意 義が見出されることはなかった 。
94このように天野は、社会主義的思想に先導された表現は、資本主義に対するアレルギー反応を バック・ボーンとしたものにすぎないとし、そのうえで、前衛美術と政治的メッセージは相容れ ないものとして認識されたという見解を示した。
では、1996年の「1953年ライトアップ:新しい戦後美術像が見えてきた」展はどうだったのか。
同展の趣旨は、1953年を戦後日本美術史上のまさに空白期としながら、この年の美術を通念に囚 われずに新鮮な目で読み直そうとするものであった。しかし同展は、政治的なリアリズム絵画、
つまりルポルタージュ絵画を展示構成から除外した。企画に携わった美術批評家・峯村敏明は、
みねむらとしあきそれらを「社会的現実(外部)の反映でも個人の意識下(内部)の表出でもなく」新たなリアリ ズムを模索した「努力の結集点」として評価しながらも、除外した理由を次のように表明した。
(社会的な主題の比重がきわめて重い絵画の)問題は、多くの作品がこの重い主題を支えきれ るだけの独自の強靭な形式(造形的自立性)を伴っていたとは言いがたい点にある 。
95峯村は、同展を構成するうえで掲げたテーマ「物の凝視」に照らしあわせ、ルポルタージュ絵 画は観念的すぎると判断したのである。
このように、日本の前衛美術を扱った美術展の展示構成に注目すると、時代を下るごとにルポ ルタージュ絵画を筆頭とした「具体」以前のリアリズム表現が除外される事例が増え、「具体」
以後を戦後日本美術史とする歴史観が通説化していった過程が確認できる。
3.戦後日本美術をめぐる批評の変遷
各美術展の展示構成において大きな影響力を持ったのが、学芸員や美術批評家による学術的な 視点である。では、戦後日本美術が「具体」から始まるという歴史観が通説化した背景には、ど のような批評言説が影響したのだろうか。
ポンピドゥー・センターでの「前衛芸術の日本:19101970」展後、海藤は、次のような感想 を漏らした。
この展覧会には第二次世界大戦と、戦後直後の十年間がほとんど不在である。〈中略〉戦後 十年ほどの美術傾向を代表して、岡本太郎の「森の掟」や山下菊二の「あけぼの村物語」といっ たほんの数点の作品が、ふとん部屋のような小さなスペースにお義理のように展示されている のは残念に思った。〈中略〉事実上、戦後のセクションは、この河原温、そして「具体」で始 まるも同然という構成であるが、こういう戦後日本美術史の視点は、本展の学術コーディネー ターのひとり、千葉成夫の著書『現代美術逸脱史』(晶文社、1986)と同一のものであ る 。
96このように海藤は、同展の不公平な展示構成に不満を漏らすとともに、その原因を、美術批評 家・千葉成夫が著した『現代美術逸脱史』に求めた。
ち ば し げ お
千葉成夫は、「前衛芸術の日本:19101970」展、「戦後日本の前衛美術」展、いずれにも学 術的に関わった美術批評家である。彼は、戦後の美術批評が無視してきた「具体」を発見し、そ の活動に美術史的意義を見出した初めての美術批評家である。彼が1986年に発表した『現代美術 逸脱史』は、戦後日本美術史を通史として示した唯一のものと言われる ほど画期的であった。
97『現代美術逸脱史』における彼の論調は、美術批評家・宮川淳の論文「アンフォルメル以後」の
みやかわあつし批判的継承である。
宮川淳の論文「アンフォルメル以後」とは、1963年美術出版社第四回芸術評論コンクールで第 一席入選した論文である。宮川は、批評家がアンフォルメル 以後を様式概念としてのみ近代芸術
98から区別し、「現代絵画」と呼ぶ現状では、絵画の問題は様式の交替の永久運動のなにものでも なくなると指摘した。そのうえで彼は、近代芸術は様式概念であると同時に価値概念として成立 したことを踏まえ、表現ではなく表現論の次元における転換をアンフォルメル以後に見なければ ならないと問題提起した。つまり、アンフォルメルから反芸術 に至る動向に近代のコンテクスト
99で《激情の対決》を見るのではなく、「表現行為の自己目的化」という表現概念の価値転換をみ なければならないとしたのである
100。
これに対し千葉は、戦後美術批評を概括した宮川の功績を讃えながらも、宮川の批評には、日 本固有の文脈に対する自覚が欠けていると指摘した。彼は、「美術という『表現』そのもの、表 現上の『近代と現代』そのものが、戦後に限ってみても、日本では固有の文脈をたどってきてい る」のだから、宮川が欧米と日本における「美術」の本質的な差異を排除したことは、決定的な 誤算であったとした。そのうえで、宮川が主張するように、アンフォルメルから『反芸術』にいた る時期が決定的な転換期だったのあれば、その内実は日本固有の文脈によって検討されなければ ならないとし、宮川がアンフォルメル以後に見出した「表現の自己目的化」という現代美術の表 現傾向は、アンフォルメル以後ではなく「具体」にこそそれを認めるべきであると主張した。な ぜなら、1956年のアンフォルメル旋風以前の初期「具体」の活動は、西欧的な美術概念、つまり
「絵画」や「彫刻」といったものを自明の前提としていなかったからだというのである。さら
に、そもそも日本における「美術」の不在は常態であり、初期「具体」も含め、「反芸術」は始
まりであったとする。この「反芸術」的様相を日本固有の美術史的文脈の出発点としたところ が、千葉のユニークな視点であった。
このように、宮川がアンフォルメル以後を表現論的に考察して絵画の現代性を捉えようとした 視点、さらに千葉がそれを踏まえ、日本固有の文脈から「反芸術」に先駆ける現代性を「具体」
に見出し、それを戦後日本美術史の出発点とした視点を提示したことは、美術批評界において画 期的なことであったと言えよう。
しかし千葉は、河原温
101の《浴室シリーズ
102》など、「具体」以前の作品にオリジナリティの
か わ ら おん