奈良教育大学学術リポジトリNEAR
サバービアと排除の論理―アメリカにおける郊外住 宅地の形成―
著者 竹田 有
雑誌名 高円史学
巻 23
ページ 1‑22
発行年 2007‑10‑01
その他のタイトル Suburbia and the Rationale for Exclusion
URL http://hdl.handle.net/10105/8845
サバービアと排除の論理 ‑アメ‑カにおける郊外住宅地の形成I
竹 田
一 は じ め に
アメリカ合衆国においては'一九世紀後半から工業化と都市化の波をうけて都市構造が革命的な変化をとげへ l九世紀的
な一点集中型の ﹁歩き回れる都市﹂から二〇世紀的な分散型の ﹁メトロポリス﹂が形成された︒このメトロポ‑スでは︑階
級的区分ならびに民族的・人種的亀裂が明確に都市空間に反映されるようになったo メトロポリスの中心部に位置する﹁イ
ンナーシティ﹂には東・南欧系新移民と黒人で構成される'貧しい不熟練労働者層が居住した︒他方へ 西・北欧系旧移民な
いしアメリカ生まれの中産階級(特にその上層)と富裕層は︑﹁危険な﹂労働者や﹁奇妙な﹂習慣をもった移民が集中し︑
公害に汚染された中心部から脱出し︑周辺部の郊外住宅地(サバービア) で広い庭つきの一戸建邸宅をたて'﹁ブルジョワ・
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ユー‑ピア﹂を形成した︒
この郊外住宅地の中核的住民である中産階級の上層は'近隣住区の景観と生活様式に自らの階級的価値をインプットしへ
その生活環境を自らが望むようにコントロールした︒そして︑このコ‑ユニティ形成の原理のひとつが'排除であった︒彼
らは自らのプロテスタント的中産階級文化に適合しないものを排除Lへ同質的で排他的な近隣コ‑ユニティを築きあげていっ
た︒本稿の目的は︑そのような努力に分析を加え︑合衆国における郊外高級住宅地の特質を明らかにすることにある︒
二 E)‑カル・コントロールと﹁郊外の理想﹂ の追求
ニュージャージー州ショートヒルズ (ShortHills)へ フィラデルフィア郊外チェスナットヒルのセント・マーチンズ地区
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(Kenilworth)という四つの郊外住宅地は'いずれも一九世紀末に計画されて形成された'中流階級上層の郊外高級住宅地
である︒住民のほとんどが北欧系の白人プロテスタントで'大学教育を受けへ 企業の経営管理や専門職のポストに就いてい
たo彼らは街路樹が植えられた街区にある︑手入れが行き届いた庭をもつ'建築家がデザインした単丁家族用の家に住んで いた︒その広さと価格は中程度で'部屋数は八ないし一二へ価格は五〇〇〇ドルから一万五〇〇〇ドルの範囲であった︒こ
れらの郊外地がその高級住宅地としての性格を維持するために用いた戦略は'イ‑ノイ州‑グァIサイド (Riverside)へ ボ
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外カン‑‑‑・クラブ・ディス‑‑ク‑(CountryClubDistrict)などもっと有名な郊外高級住宅地において用いられた
戦略と同じであった︒分譲地開発業者と住民たちは自らのイニシャティヴの下で'快適な物理的・地理的環境を整えへ住民 の社会的・経済的構成の同質性を堅持し'不動産価格の維持と上昇をはかろうとしたのである︒そして︑彼らはこのような 高級住宅地こそが'都会と田舎両方の利点(利便性と自然)を結合した﹁郊外の理想﹂そのものであり︑﹁アメ‑カの夢﹂
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を具現化していると主張した︒
﹁理想的郊外﹂として存続することに成功した以上四つの郊外住宅地に共通する戦略上の特徴がいくつかあった︒ひとつ
は'注意深‑郊外地を選択したことである︒その場所は健康的な風土(特にきれいな水)と自然美に恵まれへ峡谷や郡境な
どで周囲と明確な境界線を引‑ことができ︑中心部への便利で信頼のおける通勤の便があった︒
つぎに'郊外地のデザインと開発に対する包括的計画をもっていたことである︒開発業者や不動産所有者へ最初の住民ら
で構成される中央理事会が広い地所を管理しへ その開発に関する決定を実行に移した︒まずへ道路のレイアウト (直進道路
を避けへ近隣住区を保護しプライバシーを確保するような道路配置)へ地所の分譲地への細分化へガス・上下水道・ゴ‑処
理施設の設置へ学校・公園の建設などが決められた︒つぎに'紳士協定へ あるいは不動産の契約当事者が特定の行為を行わ
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トショーンの大工たちが請け負った︒またへ ハートショーンは死亡する一九三七年までこの地の監督権を保持Lへ周辺の広
大な土地を所有することによってショートヒルズの境界を商業的侵食へ有害な土地利用へ望ましくない発展から守った︒こ
れに加えて彼は︑究極の管理法として所有する家屋のほとんどを賃貸としへ他人に所有権を譲渡しなかった︒セント・マー
チンズでもへ家屋のデザインと建設により厳しいコントロールを及ぼせるように開発業者自らが家屋の注文を出した︒また︑
四つの郊外地とも︑買い手を選択する有効な手段をもっていた︒そのひとつが'﹁望まし‑ない﹂行為を禁止しただけでな
‑︑﹁望まし‑ない﹂入間をも排除した制限約款である︒レイク・オブ・ジ・アイルズでは'最低建築費用の設定によって
所得の低い者をふるい落とし'ケニルワースでは非白人とユダヤ系を排除した︒もう一つの手段が'面接と社会的・財政的
な信用調査による適格審査である︒このようにして'不動産と買い手の住民とを有効にコントロールする包括的計画によっ
I,,・lて︑高級な'調和のとれた︑同質的コ‑ユニティが形成されていった︒
以上の私的な戦略とともに︑郊外地は生活の質を守る公的な保護を同時に求めたo これはへ ケニルワースのような'地元
自治体が基本的なサーヴィスを提供し'自ら保護的な条例を作ることができた自立的な郊外では簡単に実現された︒市の境
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が︑ゾーニング (区画化)から治安・消防︑水道・電気︑財政など主要な業務の責任をもった︒ケニルワースでは'住宅地
にフェンスを設けてはいけないというインフォーマルな禁止が破られた一九一〇年に最初の条例が作られへ コ‑ユニティ創
設時のヴィジョンが新住民の増加とともに薄れてい‑につれて︑より厳しい条例が作られていった︒たとえば︑一九二九年
には︑新築や増改築のプランは評議会による正式の審査を受け︑認可されなければならないとした条例が設けられた︒他の
郊外地でも'かなりな収入のある者しか購入できない高品質の建材の使用を求める︑防火のための規約が条例として制定さ
れたOもっとも一般的な規制はゾーニング条例であった︒ケニルワースでは一九二三年に包括的なゾーニング条例が作られへ
村の全地域でA品質の家屋のみが建設を許された︒これはへ少な‑ともl万二五〇〇平方フィー‑の土地に建てられた単一
家族用の︑高さが二階半を超えない家屋を意味し︑四〇フィートのセットバックへ 二五フィートの裏庭と六フィートの両側
:c爪面を求められた︒
しかしながら'ケニルワースと違って'多くの高級郊外地はサーヴィスの提供や保護的条例の制定で市当局と交渉するこ
とを余儀な‑され︑市の境界内に位置するレイク・オブ・ジ・アイルズや セント・マーチンズにとっては厄介な問題であっ
た︒近‑の商業地区からの侵食と土地細分化の圧力に直面していたレイク・オブ・ジ・アイルズの住民は'腐敗したミネア
ポリス市議会からゾーニング条例を手に入れることが簡単ではないと考えへ他の郊外地住民と協力して一九1五年に部分的
勝利を勝ち取った︒地元住民に開発を規制する権利を認めたこの新しい法律を用いて'彼らはすぐに複数家族用の家屋を禁
止した︒包括的ゾーニング条例を彼らがようや‑手に入れることができたのは二度の挫折を経た一九二四年であり'新条例
は住宅を一世帯ないし二世帯用の家屋に限定し'学校と託児所︑教会へ公園︑遊び場︑温室以外の商業的ないし公的な土地
利用を禁止した︒新築住宅は六〇〇〇平方フィー‑以下の土地には建てられずへ その高さは二階半を超えることができなかっ
たLへ セットバックは最低二五フィートへ家屋の周囲はすべて芝生や庭で囲まれる必要があった︒
他方へ セント・マーチンズの住民はフィラデルフィア市と頻繁に衝突し'地域改善協会を設立して市への要望をより効果
的に伝えようとした.それで埠が明かない時は'募金という非常手段に訴え︑自らの必要を満たした︒セン‑・マーチンズ
の重要な施設のい‑つか︑たとえばチェスナットヒル・アカデ‑tとスプ‑ングサイド校は公教育予算の不足のためにへ開
発業者で大土地所有者でもあるヒューストン家とウッドワード家から費用負担を保証されて建設され'チェスナットヒル病
院はすべて地元住民からの寄付金で建設され運営された︒このような地元住民の寄付による施設建設はショートヒルでもケ
ニルワースでも行われた︒ケニルワースでは︑住民が資金を出し合ってケニルワース不動産協会を設立し'﹁望ましくない﹂
土地利用を防ぐために不動産の予防的購入に備えた︒そして︑同協会は1九二〇年代初めに'西側の境界である鉄道線路の
西にある広大な土地を入口密度の高い規格住宅地として開発しようとした不動産業者に売り渡されるのを阻止するためにへ
・J・,その土地を購入した︒以上のように'高級郊外地の住民たちはへ その財政的・政治的資源を利用し'自らが欲するように自
らの手でコ‑ユニティを形成するローカル・コントロールによってへ コ‑ユニティの物理的・地理的景観ならびに快適さを
維持し︑社会的排他性を追求し︑コ‑ユニティの特性を保持しようとしたのである︒
三 ニューm‑ク州スカーステイルの場合
ニューヨーク州スカースデイルは︑マンハッタン中心部から北へ二〇マイルのところにあるへ ﹁ユートピアのような﹂と
形容されるまでになった高級住宅地である︒ニューヨーク・ハーレム鉄道(後にニューヨーク・セントラル鉄道の一部とな
る)が運行を始めた一八四六年以降へ マンハッタンの混雑を避けようとした実業家たちが徐々に移り住むようになったがへ
この地はl八六〇年にはまだ世帯主の七〇%か農民と農業労働者で構成されていたo Lかし︑T八九〇年からT九7五年に
かけて︑住民数は六三三名から二七一二名へ急増し︑最初は主にクラークへ職人へ不熟練工︑その後は実業界の経営・管理
者︑専門職業家︑裕福な未亡人らが流入し︑7九7五年には全世帯の六〇%以上が'7九二五年には七〇%以上が後者の中
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産階級上層で占められるようになった︒
この郊外化のきっかけを作ったアーサI郊外住宅会社は一八九一年に一五〇エーカーの農地を購入して分譲地を開発し︑
販売促進のためにつぎの三点を強調した︒この地の美しく衛生的なことへ マンハッタンへの通勤の便'そしてへ各種工場や
屠殺場へ危険で有害で不快な事業活動を禁止した制限約款による土地購入者への保護である︒スカースデイルにおける分譲
地の住宅価格にはかなりの差があり︑それはそこに住む住民の職業上の地位の差を反映していた︒最低住宅価格が一五〇〇
ドルから三五〇〇ドルのアーサー・マナーへ ノースエンドへ スカースデイル・パークには大工へ肉屋へ配管工︑簿記係へ教
師へ警官が住みへ ここには住み込みの家事使用人はほとんどいなかった︒価格が四〇〇〇ドルから六〇〇〇ドルのオーヴァ
ヒルとポッファム・パークには企業管理職と専門職に就‑者が住みへ一人か二人の使用人を抱えていた︒もっとも高級な分
譲地ヒースコート︑ザ・グレンジ︑マレーヒルへ グ‑‑ンエーカーズでは最低住宅価格は七〇〇〇ドルにもなりへ企業の社
Ip長・副社長へ小売チェーン店のオーナーへ全国的雑誌の出版社社長らが住みへ普通二名から三名の家事使用人を抱えていた︒
以上のような地位の違いへ分譲地間の格差へ そしてへ道路や学校へ治安・消防へ その他サーヴィスに財政支出を望む新住
民と増税を嫌う農民ら旧住民との対立にもかかわらずへ住民たちを結束させたのが'スカースデイルの一部を合併しようと
する動きであった︒この動きは最初一九〇八年に表面化した︒北に位置するホワイト・プレインズが市としての認可を得る
ための動きの中で'南に隣接したザ・グレンジ︑マレーヒルへグリーンエーカーズを吸収しようとしたのである︒スカース
デイルの住民の反対理由は三つあった︒スカースデイルが住宅地域であるのに対して'ホワイト・プレインズが住宅のみな
らず工場へ酒場︑商店も存在する混合地域であったこと︑また︑合併の動機が税収入基盤の拡大という﹁寅欲さ﹂ であった
こと︑最後に︑この三地域の吸収は隣接の町によるさらなる合併の動きを誘発し︑スカースデイルの存在そのものが危機と
なることであった︒反対運動が功を奏して一九一四年に合併の提案は取り下げられた︒この分割の危機を通じてへ自らのア
イデンティティを明確化することを迫られたスカースデイルの住民へ特にその中核の中産階級上層は'翌年タウンシップよ
:eサりも自立的な自治体ヴィレッジ (村) の形態をとることとしへ高級郊外住宅地形成に向けての活動に着手した︒
村の評議会メンバーの社会的・経済的特徴を分析すれば︑スカースデイルの指導層の相貌がはっきりとする︒l九l五年
から一二三年まで︑四〇名の者がそのメンバーであったがへ そのほとんどが男性で (女性は四名のみ)︑北東部に生まれ︑大
学教育を受けへ プロテスタントであった︒その多‑がスカースデイル・ゴルフ・クラブに所属Lへ またへ かなりの者がタウ
ン・クラブに所属していた︒タウン・クラブとはタウンや村の行政全般を監視し'必要な改善点などを村当局に対して提言
するエリー‑層の民間組織であり'法的権限はもたないが'事実上立法府の役割を担っていた︒職業的地位の面では'三六
名の男性のうち一二名が弁護士へ六名が銀行家へ 三名がエンジニアへ建築家と大学教授がl名ずつへ残りが高い地位の企業
経営者であった︒彼ら評議員は'一人を除いて誰も'建物価格の低いノースエンドやスカースデイル・パークへ アーサー・
マナーには住んでおらずへ半数以上がもっとも豪華な地区であるヒースコートへ マレーヒルへ グリーンエーカーズなどに住
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スカースデイルを支配した中産階級の上層はスカーステイルを﹁適切な人間﹂が住むにふさわしい ﹁適切な町﹂ にしよう
と努力した︒その手段のひとつがゾーニングである︒一九二二年のゾーニング条例は'ヒースコート駅近‑の線路沿いでの
チョコレート工場建設計画を阻止することを直接のきっかけとして制定された︒住民のほとんどは工業都市の汚濁へ群衆︑
腐敗から逃れるためにスカースデイルに移ってきたのでありへ もし工場の進出を許せばこの地で暮らす意味がな‑なると考
えて
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論議を呼んだのは'家屋へ商店へ アパートメン‑の建設に関係する規定であった.条例は村を四種類のゾーンに分けてい
た︒村全体の土地の九三%をカバーするカテゴリーAでは'学校へ教会へ クラブ会館の他には'単一家族用の家屋のみが許
され'村のわずか四%にあたるカテゴ‑‑Bでは病院へ慈善施設︑二世帯用の家屋も許され'また︑両地域では建物の高さ
は二階半までと定められた︒村の土地の一%がカテゴ‑Icとなりへ 四階建以下であればホテルの建設が許されたo最後に︑
全体の二%の土地を占めたビジネス・ゾーンは'スカースデイル駅とヒースコート駅の近‑に位置しており︑建物の高さを
四階までとしへ ﹁不快な﹂使用を禁じたこと以外は'規制はなかった︒大土地を所有する者は土地の集約的利用から利益を
得ようとして︑商店やホテルなどが建設可能な地域を増やすように要求した︒またへ 住宅地に適さない鉄道近くの土地をビ
ジネス・ゾーンへ変更し︑C地区とビジネス・ゾーンで複数の家族が居住する﹁高級な﹂ アパートメントの建設を認めるこ
とを求める願いも出された︒しかし'このような自己利益のためにゾーニング条例の変更を求める要求はかえってへ高級住
宅地としての性格を維持しようとする有力住民たちの態度を硬化させた︒その結果へ ビジネス・ゾーンが五分の一t c地区
が約半分も減らされて'A地区が増加したが︑同時にへ 縮小したC地区にはアパー‑メントの建設が認められ'妥協が図ら
れた︒さらに'後には'二世帯用の家屋に反対する住民の抗議によってカテゴリーBからAへの変更がなされへ この結果ス
︼5<=血カースデイルの実に九七%の土地では単一家族用の家屋しか建てられな‑なった︒
さらに'建築に関する規約についてはへ異なった建物についてそれぞれ最低の基準が決められた︒アパートメントへ劇場へ
病院では不燃性の建材の'学校・図書館・教会などの壁にはレンガやコンクリートのような耐火建材の使用が義務づけられ
た︒この二三年の規約では︑単一世帯用の家が木造であることは認められたが︑床と仕切り壁は燃えに‑い鉱物綿やモルタ
ルを使用しなければならず︑またへ新築家屋には木造のこけら板で屋根をふくことが禁じられ︑さらにすべての家屋は一二
年以内に不燃性の屋根をし‑ことを求められた︒この規約に対して﹁金持ちの提案﹂だという批判が出されたが︑住民のほ
とんどにとっては︑建築規約によって家の所有者が保護され'安全性が高められると同時にへ より低い階層の者が住めな‑
なるのであれば'一石二鳥で歓迎すべきことであった︒こうして'ゾーニング条例と建築規制によってへ スカースデイルは
中流階級上層の郊外住宅地として発展してい‑ことになった︒スカースデイルとバーツデイルの二つの駅は'そのような郊
外地にふさわしいように︑庭園と︑木々で囲まれた池や滝で飾られた︒住民たちはこの地を﹁ブルジョワ・ユートピア﹂と
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したのである︒
一九二〇年代の全国的建設ブームはスカースデイルにも押し寄せへ村の人口もこの一〇年間で約三五〇〇名から九七〇〇
名に増加し'新築住宅が急増し'不動産業者や大土地所有者を喜ばせた︒しかしながら'スカースデイルの静かな美しきと
高級感を重視する住民たちは'最低基準を決めたにすぎない建築規制とゾーニング条例だけでは不十分と考え︑オープンス
ペースを削り取る都市化の波を食い止め︑高級住宅地としての特徴を維持しようとした︒二〇年代末に開発され'四六エー
カーの広さをもつ分譲地バークレーはそのl例を示している︒バークレーの特徴の一つは'売りに出された八五の地所すべ
てに制限約款がつけられたことである︒制限約款はほとんどの分譲地につけられてはいたが'バークレーのものは特に厳し
かった︒﹁有害な﹂土地利用は当然禁止され'家畜の飼育も許されず'単一家族が私的に使用する家屋とガレージのみが建
築を許され'しかも︑土地代と家具・設備の費用を除いた家屋のみの価格は最低で二万五〇〇〇ドルでなければならなかっ
た︒また︑制限約款は所有者ではなく土地につけられていたため'現在の所有者のみならず将来の買い手も束縛をうけ'約
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款に違反があった場合には法的手段に訴えることができた︒
一九二四年末に村の歴史上最大の不動産取引が行われへ 三六〇エーカーのフォックス・メドゥが一五〇万ドルで不動産業
者の手に渡った︒フォックス・メドゥ不動産会社はへ この地が単一家族用の住宅地として区分けされていたにもかかわらず︑
大通り沿いの四〇エーカーの地所にアパートメントと店舗を建てる計画を立てへ村の評議会に承認を求めたが'﹁異なった
種類の人々﹂ の流入を恐れる住民の強い反対にあった︒およそ二年後の二七年三月に同不動産会社は︑バーツデイル駅近‑
の三エーカーの場所にアパートメントを建てる許可を求めへ 評議会に拒否された︒しかし同社はtもしこのような非常に控
えめな請願さえ否定されるならば︑裁判所はゾーニング条例を不当だと判断するにちがいないとの期待から'二七年七月に
訴訟を起こした︒三〇年に下級審では会社側の主張が認められたが'三一年のニューヨーク州最高裁判所の上告審へ 三二年
(3)の州控訴審では逆に村側の主張が支持されへ より低い階層の者にコ‑ユニティを閉ざす制限が認められたのである︒
10
人口と新築家屋の増加につれて︑住民の問には﹁田舎の生活﹂がもっていた景観と環境を維持しようという気運が高まっ
た︒住宅の建てこんだ地域が拡大し'オープンスペースが縮小することは憂うべき事態でありへ その対策として公園が新た
に造成された︒村はl九二六年から三三年の間に八七万ドルを投じて六五エーカーの土地を公園用に確保し'スカースデイ
3性乃ル全体が﹁公園のように見える﹂︑広々とした景観を造ろうとした︒
また︑このようなスカースデイルに工業と商業の発展を象徴する幹線道路が造られれば'トラックとともに周辺から住民
以外の人間が入り込んで‑ると考えへ住民たちは特に'村の外の別の道路を使用していた車両を呼び込むような便利な幹線
道路の建設に抵抗した︒この点に関して︑スカースデイルは郡当局と二度対決した︒スカースデイルを南北に通る幹線道路
(ポスト・ロード) の幅を二四フィートから四〇フィートに拡張する郡の計画が一九二七年に出されるとち スカースデイル
は三〇フィートで十分であり'トラックが通る南北の幹線としては隣町にある街路を開発すべきだと主張した︒スカースデ
イル以外のコ‑ユニティは反対しなかったために︑四〇フィート幅の舗装が進む中で'郡当局はスカースデイル内では幅を
三六フィートにするとの修正案を提示した︒スカースデイルは︑この幅の違いがスカースデイルの他のコ‑ユニティとの違
いを示すと考え︑これを受け入れた︒もう一つの対立は村を東西に走る道路の拡張問題である︒一九二九年スカースデイル
は郡の予算で二フィI‑拡張Lへ幅を二〇フィートにする案を示しへ郡当局はl三フィートの拡張を主張したO その後へ村
は石の縁石がついた二四フィート幅を提案したがへ郡当局と折り合えず'結局自力で整備することにした︒恐慌が深まるな
かで'郡からの一〇万ドルもの予算措置と郡による永続的補修の約束を棒に振ってまで妥協を拒否し'外部からの車両が通
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り抜けられる道路の整備を規制したのである︒
交通規制については別にもうl つ問題がおこった︒一九二六年へ 三番街鉄道会社がポスト・ロードからヒースコ‑卜駅ま
EfJ
でバスを運行する許可を村当局に求めた︒住民のほとんどは強‑反対し'村当局もこの要求を退けたが'反対理由の一つは
階級に関係していた︒つまり︑﹁バスを必要とし利用する人々と︑彼らが購入しようとする家の価格の間には直接的関連﹂
がありへ自家用車をもてないような者が住むようになれば'﹁郊外の中のエ‑‑ト﹂というスカースデイルの評判を旺める
ことになるからであった︒このように︑スカースデイルの住民たちは︑模範となるコミュニティを形成しようとする際に︑
コストの問題をあまり配慮しなかった︒﹁適切な町﹂にするためには喜んで税金をつぎ込み'公園のための敷地を購入し'
郡からの資金なしで道路を整備した︒コストよりも都市化(家屋の増加)を食い止めるための景観の維持へ コ‑ユニティの
階級構成の方がより重要であり︑ゾーニング条例の制定や制限約款はもとより︑通り抜け道路の整備やバス運行への反対を
(3)通じて︑﹁適切ではない人間﹂が入り込み'さらには住みつ‑ことに反対したのである︒
スカースデイルでは'一九三〇年当時へ一九七七軒の家屋のうち一九五一軒(九八・七%)が単一家族用のものであり︑
わずか二一軒が二世帯用へ五軒が三世帯以上用であった︒また︑家族の八三%が自らの家を所有し(ウエストチェスター郡
では四三%)へ その持家の九三%が1万ドル以上というもっとも高価なカテゴ‑Iの中に入っていた(郡では七〇%へ州で
は三三%)︒この裕福で同質的なコ‑ユニティでは'バスの運行問題や道路拡張の際の郡予算拒否(したがって高い税金)
などで︑経済的レベルが異なる住民間で意見対立が時折表面化したとしても'圧倒的多数派である中産階級上層の支配の故
にへ大きな政治問題には発展しなかった︒
住民間の経済的格差と同じように'宗派の違いも公的な議論の対象にはならなかった︒一九二五年当時世帯主の七〇%以
上がプロテスタント︑二〇%足らずがカトリックへ一〇%がユダヤであったo他方へ評議員四〇名のうちへ三五名がプロテ
スタントへ 四名がカト‑ツクへ l名がユダヤ系であったoしたがって︑プロテスタントが圧倒的に優勢であったが︑他のグ
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ループを完全に締め出すほど強烈なネイティヴィズムはなかったといえる︒だが'強烈ではないが'カ‑‑ツク系とユダヤ 系に対する差別はやはり存在していた︒特にユダヤ系の者は︑社会的交際を拒否されたり︑スカースデイル・ゴルフ・クラ
0=
)
ブに加盟できなかったり'多くの地区で不動産を購入するのが難しく︑またへ いくつかの地区では不可能であった︒
四 制限約款による排除
不動産の契約当事者か﹁望まし‑ない﹂活動を禁止し'﹁望ましくない﹂人々を排除するために︑特定の行為を行わない
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る手
段で
あっ
た
だけでな‑'一九世紀末から高まった彼らの恐怖と不安をも表わすものでありへ その排他性のゆえに ﹁ブルジョワ・ユート 13
ピア﹂ の影の部分を示していた︒本章では'ローカル・コントロールの重要な手段であった制限約款に焦点を絞りへ 郊外住
民のメンタ‑ティを明らかにしたい︒
一九二〇年代には全国的に拡大する制限約款は'一八八〇年代にはまだ例外的であったが'これには理由が二つあった︒
ひとつは︑財産を譲渡する不動産所有者の権利はコモンローのもとでは制限されないため︑裁判所によって認められなかっ
たからである︒しかし'譲渡と使用とが区別されるようになり'分譲地の価値を下げ︑住宅私有地としての特性を損なうよ
うな使用法を止めさせることは合法との判断が出されるようになった︒そしてへ l八七九年へ 連邦最高裁判所はある地域で
アルコール類の製造と販売を禁止する制限を合法としへ絶対的な財産所有権に基づいて土地を自由に使用する権利は制限さ
れることとなった︒
もう一つの理由は'制限約款が顧客を遠ざけてしまい︑厳しい制限付きの土地を誰も買おうとはしないのではないかとい
う不安であった︒私有財産の使用と処分について他人がとやか‑言う権利はないという根強い信念があったしへ自立の象徴
であり﹁自らの城﹂である持家になぜ制限を課せられるのかという疑問があった︒さらに'郊外の土地を投資と投機の対象
とし︑土地利用の変更によって利得を得ようとする場合︑制限約款はその変更を妨げるものであった︒変化は望まし‑不可
避であり'制限約款は不動産市場の自然法への近視眼的へ実効のない干渉であった︒しかしながら'急速な工業化と都市化
が進行した一九世紀末に︑伝統的な歴史的建造物や満酒な建物が壊されて店舗や事務所にかわり︑ファッショナブルな近隣
住区に集合住宅や下宿屋が進出するようになると'富裕層の多‑はこのような変化を憂い︑地域への愛着がもてるような永
続性と安定性を望むようになった︒制限約款は︑一八九〇年代にもなると︑望まない変化をもたらすような﹁望まし‑ない﹂
ra活動や人間を排除する手段として有力視されるようになった︒
突破口が大きく開かれたのは︑ボルティモアにおいてであった︒一八九一年へ ローランド・パーク社は'同市の北五マイ
ルの所にある広さ五〇〇エーカーの土地をファッショナブルな住宅地として開発する事業を開始した際へ‑スクを覚悟です
べての地所に制限約款を課す決断を下した︒屋外便所へ店舗へ酒場︑あらゆるビジネス活動が禁止され'地所には一家屋し
か許されず'境界線ぎりぎりまで家を建てることはできず'鶏とウサギを飼うことはできたが'豚の飼育は許されなかった︒
またへ黒人に地所を売ったり︑彼らを住まわせたりすることを禁止しようとしたが'違法であるとの顧問弁護士の助言を受
け入れ︑思いとどまった︒この制限約款は宣伝広告ではかなり控えめに扱われ'代わって強調されたのが'丘陵地という美
しい場所ときれいな空気などの健康的環境であった︒約款の存在理由は︑有害で不快なものを除去し'望まし‑ない隣人を
排除Lへ美観を守りへ土地の価格を維持することにあると弁解がまし‑述べられていた︒しかし'一九〇〇年代に入りへ ロー
IE
ランド・パークが最高の郊外住宅地であるとの評判をとるようになるとち開発会社や地元紙へ さらには以前約款を私的権利
の制限と否定的に捉えた住民らも'ローランド・パークの成功は主に制限約款のためであると考えた︒ローランド・パーク
杜は'近くに三〇〇エーカーの土地を所有する業者とともに一九二年に分譲地ギルフォードの開発に着手したか'ここで
はより包括的でより厳しい制限約款を適用した︒セットバックは正面だけでな‑裏と側面にも求められ︑鶏類の飼育が禁じ
られ︑設計審査が実施されて審美的理由などで周囲と調和しない建物の建築が拒否されることになった︒また︑黒人の居住
を禁止する条項が加えられ'ユダヤ人も拒否された︒さらに︑以前と異なりへ ギルフォードではこのような制限約款を前面
(2に押し出した販売キャンペーンが展開され'永続性と土地利用の完全なコントロールへ財産の保全が強調された︒
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によってカンザス・シティ周辺に開発されたカント‑‑・クラブ・ディス‑リクトである︒彼は'やはり最初は制限約款を 1 5
導入するのを恐れたが'一九一〇年代になると制限約款なしでは土地が売れないとまで主張するようになり'三〇〇〇エー
カーの広さのなかに二四の区画をもつカント‑‑・クラブ・ディスト‑クトは全国でもっとも厳しい制限をうけたコ‑ユニ
ティとなった︒ニコルズによれば︑買い手は制限約款のある土地の方を買いたかりへ それゆえ制限約款は割に合う (もうか
る)Lへ制限約款なしでは高く売ることは無理であった︒こうして︑中流や中流上層の人々は'望まし‑ない活動や人々を
禁止・排除Lへ高級分譲地の環境保全をはかりへ財産価値を安定化し上昇させるためにはいまや制限約款を望ましいだけで
( 加)
な‑不可欠と考えるようになり︑一九二〇年代には制限約款は例外ではな‑'常態となった︒
都心部ビジネス地域(CBD) からの工場の脱出と周辺部での工場地区形成にともなって'郊外地域においても労働者が
居住する区域が形成され'何人かの分譲地開発業者はこの労働者階級の郊外においても制限約款を導入しようとした︒彼ら
の住む近隣住区は馬小屋へ石炭置場︑工場などからの有害な影響を受けやすく挟‑て人口密度が高いために分別のない隣
人に悩まされる恐れが強かったからである︒しかしながら'労働者は人種の制限には賛成したがへ建物と土地利用への制限
には反対した︒彼らの観点からいえば︑自宅近‑の工場は公害の源というより仕事を提供する場であり'酒場は労働の後に
‑ラックスできる憩いの場であり'近くにガソ‑ン・スタンドがあればやはり便利であった︒またへ彼らは鶏へ ウサギへ ヤ
ギなどを飼うことを決して悪いとは田心わず'不安定な雇用と苦しい生活のなかでそれらは食糧となりへ貴重な収入源ともなっ
た︒さらに'彼らは今住んでいる郊外地区に住み続けることも︑子どもたちがこの地にとどまることも望んでおらず︑この
地を最終のゴールではな‑単なる通過点とみなしていた︒したがってへ彼らは中流以上の人々のように永続性を重視せずへ
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制 限 約 款 は 郊 外 の 労 働 者 居 住 地 域 で は 例 外 的 な も の で あ っ た
︒ 一
制限約款は'時間の経過とともにへ より包括的に'より厳格になっていった︒一八九〇年代の約款で禁止されたのは屠殺 l
場や皮なめし工場へ鋳物工場など各種工場へ酒場へ馬車屋などわずかであり'セットバックと建物の高さの規制が課せられ
ていたOだが'規制項目数は平均して一九〇〇年代初期の四から'二〇年代末の一三に増加していったo
新しく加えられた規制のひとつが'最低建築経費の設定である︒これは周囲の土地価格を下げるような家屋の建築を阻止
するためにへ換言すれば'労働者を締め出すために設けられ'多‑の分譲地では二〇年代末には五〇〇〇ドルから一万ドル
を最低経費のレベルとした︒ただしへ問題は価格の高い家屋が必ずしも魅力的で︑周囲の環境と調和的な家屋とはかぎらな
いことであった︒このためへ目障りで非調和的建物を排除する別の規制が必要となりへ分譲地開発業者に対して建築プラン
を審査する権利を与える設計審査という考えが浮上した︒他人の家のデザインを評価し'買い手の個人的趣味をも吟味する
ことへの蹟跨があったかへ一九二〇年代中頃には設計審査は一般的なものとなりへ建物のデザイン︑建築上の調和や︑屋根
や壁の色合いへ用いられる資材などが審査された︒さらに'二〇世紀に入ると'家畜類の飼育の禁止が全面的となりへ犬と
︑ ご︑
猫以外のものの飼育が禁止されることは普通となった︒
﹁望まし‑ない﹂活動のみならず︑﹁望まし‑ない﹂人間を排除することも強化されていった︒もっとも一般的なのが人
種・民族に基づ‑排除であり'ある特定の人種・民族グループに対して土地を売りへ貸すことへ ならびに土地・家屋を使わ
せ'居住させること (運転手へ庭師へ家事使用人は例外)を禁止した︒このような差別的制限は一九世紀末以前には例外的
であった︒その理由のひとつは不必要であったからである︒アフ‑カ系やアジア系の者は郊外住宅地にはほとんど住んでは
いないしへ この地で土地を購入するほどの収入(そして勇気)がある者はまずいなかった.もう一つの理由は'人種差別的
制限約款が'市民権を規定し保護した憲法修正第一四条に抵触し'違法であると考えられていたからである︒しかしなから'
第l次大戦以降へ南部から北部への黒人の大移動と北部メトロポ‑スにある黒人ゲットーの人口過密化にともない︑黒人が
ゲットー周辺の白人労働者・中産階級居住地へ進出を試み始めるとへ この ﹁黒人の侵入への恐怖﹂は'人種暴動の形をとっ
て爆発するとともに︑郊外へも拡大していった︒郊外の分譲地開発業者と白人住民とは黒人の ﹁侵略﹂が不動産価格の下落
と近隣住区の不安定化をもたらすと恐怖を抱きへ人種差別的制限約款の必要性を初めて認識したのである︒問題は裁判所が
どう判断するかであったが︑l九l〇年代初めまでは違憲であるというのが大方の法律家や裁判所の判断であった︒しかし︑
現実に人種差別的制限約款が増加してい‑とう裁判所も意見を変え︑同調し始めた︒そしてへ一九二五年に連邦最高裁判所
は全員l致で'憲法修正第一四条は自らの財産の管理と処分に関する私人の契約を禁止できないへ と判断したのである︒
一九二〇年代末には︑二〇年前には例外であった人種主義的制限約款は常態となり︑制限の中でもっとも一般的なものとなっ
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た︒黒人の他にはアジア系のものも排斥の対象となりへ多‑の場合ユダヤ系も︑また稀だが東欧系も排除された︒
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﹁望ましくない人間﹂と規定されるのはへ その個人の行為や立ち居振る舞いよりはうむしろ人種的・民族的属性のためで
あったが︑労働者階級や下層階級に属する者も'中流以上の者からは﹁望まし‑ない人間﹂とみなされた︒ただしへ最富裕
層からみれば中産階級もまた﹁望まし‑ない人間﹂となる︒つまり'ある郊外分譲地が夕‑ゲットとする階級よりも下に位
置する階級の場合には'彼らも﹁望まし‑ない人間﹂となるのである︒そしてへ そのような﹁望まし‑ない人間﹂を排除す
る際に有効に機能するのかへ彼らが購入できないレベルに不動産価格を設定する最低建築経費の規制であり'その結果概ね
同じようなレベルの所得層が特定の分譲地区に集中する︒このようにして︑人種・民族差別的制限約款と最低建築経費の設
定を通じてへ郊外住宅地の住民と開発業者は異なる人種・民族や異なる階級・階層の者を排険しへ同質性を追求したのであ
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る︒
それではへ人種・民族差別的制限約款と最低建築経費の設定によってへ近隣住区の人種的・民族的・階級的構成をコント 18
ロールすることができたのであれば'その他のわずらわしい制限はなぜ必要なのであろうか︒それは'たとえ隣人が自分と
同じような種類の人間へ つまり白人でも裕福で'ク‑スチャンであったとしてもう近隣の環境や雰囲気を損なうような者が
その中にいたからである︒彼らもまたへ 黒人や貧しい労働者と同じくへ ﹁望ましくない人間﹂ であり︑その行動は規制され
なければならなかった︒したがって︑ファッショナブルな住宅地にはそぐわない広告掲示板(ビルボード)を立てること'
セットバックを無視することへ単一家族用の一戸建住宅地域に複数家族用のアパートメント・ハウスを建てることなどは禁
止された︒当時︑集合住宅はプライバシーを保証できず︑したがって道徳への脅威となるとみなされ︑またへその居住者の
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多‑を占める借家人は個人的快適さのみを追求し'定着せずへ コ︑︑︑ユニティの問題に無関心だと考えられていた︒しかし'
このような﹁浮動的﹂借家人を批判し'自らのコ‑ユニティのあり様に対しては細心の注意を払った郊外住宅地の住民たち
もう より大きなメトロポリスの社会的・経済的・政治的諸問題からは自らを遮断Lへ自らの個人的快適さの追求を可能とす
る排他的・閉鎖的居住空間をつくり上げたのである︒
五 お わ り に
﹁境界を設けることは常に政治的な行為である︒境界はメンバーを決定する︒すなわちへ ある人問は内側に居るべきとし︑
ある人間は外側に居るべきとするのである︒またへ境界は'スペースをつ‑り線引きして'政治的︑経済的へ社会的生活の
活動と目的の達成を促進する︒物理的スペースを利用して社会的空間をつくり出すことは'米国における永年にわたって深
‑根ざした伝統である0﹂ この引用は'ブレークリー/スナイダI著﹃ゲーテッド・コ‑ユニティー米田の要塞都市‑﹄第 l
一章の冒頭の部分であ璽ゲーティッド・コミュニティとは壁とフェンスで周囲を囲み,ゲ1‑で出入りを規制する,主に ︼
中流以上の階層と退職者向けの閉鎖的コ‑ユニティであり'一九七〇年代から急増し始めて'九〇年代末には全米でおよそ
二万を数えている︒その目的は'人種対立や拡大する貧富の差へ (貧困・人種と不可分である)犯罪への恐怖等のアメリカ
社会が抱える緊張状態から自らを分離し︑ゲートとフェンスの内側で快適で安全な生活の質を維持し'不動産価値を安定さ
せることにある︒したがってへ 二〇世紀初めに形成された排他的・閉鎖的な高級郊外住宅地とゲーティッド・コ‑ユニティ
とはへ その排他性と閉鎖性ならびにその日的において共通し︑同1の連続した線上にある︒階級へ人種へエスニシティに基
づ‑居住空間の分離は合衆国の強烈な伝統なのである︒