大衆的顧客の観点に立つ奉仕
その他のタイトル Service from Mass Customer's Point of View
著者 土屋 好重
雑誌名 關西大學商學論集
巻 16
号 2‑3
ページ 110‑134
発行年 1971‑08‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00021451
110 ( 1 2 )
大衆的顧客の観点に立つ奉仕
土 屋 好 重
1 .
消費者の代表者としての顧客a
生産と企業または営業体b
消費と購買および顧客c
購買者ならびに購買者顧客2 .
消費者優位の哲学的解明a
自己そのもののオントロジ一b 感情の本性と統覚の本性
c
消費者主義と購買者の責任3 .
大衆的消費者と大衆的顧客a
前無意識の哲学に立脚するb
原始的消費者が優先されるC
東洋思想から見た消費者問題d
大衆主義と生産者側からの援助1
消 費 者 の 代 表 と し て の 顧 客a
生産と企業または営業体古くから経済学では生産と消費の語が重要な経済用語として用いられて来 た。それでは生産とはどう言う意味の用語であろうか。クラークは, :::経済 学においてほ,生産とほ効用を付加することによって価値を創造することで あると.しばしば,定義付けられている。そして,それほ形体・時期・場所
・占有の効用を創造するものである::: (
Donald C l a r k and B e r t G o t t f r i e d ; D i c t i o n a r y o f B u s i n e s s and F i n a n c e , 1 9 5 7 , p . 2 7 8 )
と記述している。もしも生産とはこの種の価値を創造するものであるとするならば,それは効用.
換言すれば消費者効用のそれを作り出す過程であると解釈できるであろう。
一般に生産者とは農業者や製造業者の如く形体を創造するものであると考え られやすい。しかしながら,時期や場所の効用を創造することも生産である
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 1 3 ) 111
と解釈する立場を採ることにすると,配給業者もサービス業者も生産者であ ると言わなければならないことになる。そして前者は造形( t r a n s f o r m a t i o n )
あるいは変形を主とした生産者であると考え,後者は造形や変形を主としな い生産者であると考えることができるであろう。いづれにしてもイギリスに おいてほ,商学や商業学関係の学者によって,このような考え方が採用され ていて,プラントンの如きも次のように説いている。 ::::人間欲望の満足に直 接的あるいは間接的に貢献する活動はすべて生産的職業である。::::(NoelBr a ‑ n t o n ; The S t r u c t u r e o f Commerce, 1 9 6 8 , p . 2 )
そして彼は産業を分け て.第一産業(農業を含む) •第二産業(製造を含む) •第三産業(商務・流通およびサービスを含む)の三つに,分類しているのである。
生産的職業すなわち産業
( i n d u s t r y )に従事する人はすべて生産者であると
見ることができる。そして生産的職業の組織体についてほ,企業( e n t e r p r i s e )
とか営業体
( b u s i n e s s )の語で表現せられるのが普通である。エンクープライ
ズの語とビジネスの語はそれぞれ別箇の概念を示すものであると考えられる のであるが,アメリカではビジネス・エンクープライズ(営業的企業)のよ うな合成語として用いられている場合も少なくない。エンクープライズはフ ランス語のe n t r e p r e n e u r
(企業者または発起人)から出ている用語である。そこでその語には利潤獲得的な意味が強く含まれているのである。これに対 してビジネスは英語の
b u s y n e s s(多忙または繁忙)がこの言葉そのものの原
型である。そこでその語には着実に仕事を遂行すると言うことが強く意味さ れるということになるのである。クラークはビジネスを次のように解釈して いる。 ::::ビジネスは物品またはサービスを生産ならびに交換することに関係 を持つあらゆる活動である。そしてこれらの諸活動に関係を持つ金融業務も 含んでいる。"'( D i c t i o n a r y o f B u s i n e s s and F i n a n c e , p . 5 8 )
英語のエン'クープライズとビジネスに対応するドイツ語は蓋し
Unternehmung
およびB e t r i e bの語である。従来わが国ではウンクーネームングの訳語として企業
がベトリープの訳語として経営が広く用いられていたようである。けれども 若しもペトリープを英語のビジネスに対応する言葉と見れば,その訳語に,営業とか営業体とかを使用することにしても差支えないことになるであろう。
112 ( 1 4 ) 大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
我が国においても企業優先の経済から生活優先の経済に移転する動きが現わ れるようになって来た。この際,ニンクープライズ概念よりもビジネス概念 の方が重んじられる必要があることが改めて確認される必要が起きているも のと考えられる。新聞紙上にもしばしばビジネスに照応する意味において営 業体の語が見られるようになっている。我が国では従来からビジネスの訳語 として企業の語が広く用いられ,また経営の語が和訳として使用される場合 すらあったのである。しかし,私はビジネスの訳語として,これらの語とと もに,営業または営業体の語が広く普及することを期待しているものである。
b .
消費と購買および顧客経済学において消費とはどう言う意味に解されているのであろうか。再び クラークの著作によって調らべて見ると,次のように解釈されている。 祠肖 費とは生産または分配と明確に区別されるものであって,経済学では物品ま たはサービスの使用
( u s e )を意味する。消費は,更に加工したり再阪売する
ためのものであるよりは,むしろ,最終消費者が物品またはサービスを購入( p u r c h a s e )
あるいは獲得するためのものである。" ' ( D i c t i o n a r y o f B u s i n e s s and Finance p . 8 9 )
この解釈を見て明らかなように,消費すなわちコ`ノ サンプションの語は,単に使用とか利用とかの意味を持つに止まらず,その 他に購入あるいは購買も意味するものなのである。消費の語と同様に消費者 の語においても,使用者の意味だけでなく購買者の意味も持つものにせられ ている。そのことに関しては英語においてばかりでなく日本語においても同 様であって,消費者の語で,使用者または費消者を意味するばかりでなく,購入者あるいは購買者も意味されることになるのである。もしも消費者の用 語を一段と明瞭にしようとするならば,図表
I
の点検によって,分析を試み ることが好ましいであろう。消費者を先づ「消費者自身の観点から見て分 類」することにしよう。この場合,消費者は自然物(水や空気や日光など)の消費者としての面からのものと,人工物の消費者としての面からのものと に区分せられるであろう。そして人工物の消費者の面に関してほ,更に,自 家製作物(自分の家の農園で作った野莱とか,手製の器具など)の消費者の
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
( 1 5 ) 113
面と生産者製作物(製造業者が製造した電気器具など)の消費者の面とに分 析せられるであろう。この生産者製作物の消費者としての面が,次の「生産 者側に対する観点から見た分類」に照応するものになる。図表
I
戸 貫 彗 贔 観 点 冒 二 : { 自 家 製 作 物 の 消 費 者 消費者[ 利用者 生産者製作物の消費者
非顧客{購買者 生産者側に対する 観点から見た分類{
顧客{
利用者顧客 購買者顧客
「生産者側に対する観点から見た分類」とは,同時にー「生産者側の観点から 見た分類」に合致するものと言えるのである。生産者側から見ると消費者は 顧客としての消費者と非顧客としての消費者とに区分がなされる。自社また は自店で購入してくれる購買消費者が顧客であることは言うまでもない。し かしながら自社の製品を金銭を支払って購入しないでも他の人がその製品を 購入してくれるため,その使用だけをするという意味での消費者も,また自 社あるいは自店の顧客であるものと見ることができる。かくて企業の顧客と は購買者顧客と利用者顧客とを包含するものであると言えるのである。自社 の顧客でなくても他社の顧客であることが常に考えられる。一応そのような 顧客に関しては自社または自店の非顧客であるとして分類することにしよう。
自社から見た非顧客も,更にこれを二つの消費者群に分析することができる。
一つは他社製品の購入者であって,他の一つほ他社製品の単なる利用者であ る。この種の消費者は自社の現在の顧客ではないが,将来の顧客となり得る ところの消費者群であることが考えられる。何とならばそれらの消費者群は 見込み客,すなわちプロスペクテイブ・カストマーと認め得る可能性を持つ ものだからである。
c .
購買者ならびに購買者顧客114 ( 1 6 }
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)生産者と消費者の中間にあって,両者の調整役を演ずるものがある。それ は公平なる第三者的存在であって,政府や役人がその最も典型的な形態であ る。政府の役人や自治体の役人は公平でなければならないと考えられて来た。
しかし、ながら,資本家主義体制
( c a p i t a l i s t i cs y s t e m )
の従来からの旧制度下 にあってほ,生産者または企業の立場が優位に置かれるのが普通であった。そして消費者優先とか生活優先とか言うようなことは夢想であるのに過ぎな かった。消費者と生産者を若しも対等乎等に扱うことに改めて見るようにし ても問題ほ解決しない。何となれば生産者はいつも強者であって.消費者は いつも弱者だからである。強者である生産者と弱者である消費者を対等乎等 に扱うことにすれば.競争によって生産者が常に優位を占めるに至るのは当 然のことである。そこで形式的な対等平等の方式は理想境を実現し得ないと いうことが分かるのである。真に理想的な消費者と生産者との調和ある関係 の実現のためには形式的な平等主義の方式を離れたものとなることが必要で あるとされる。それは消費者優先の方式に立脚した相対的な平等主義の立場 である。否.それは或る意味で.平等主義と言わるべきものでないかも知れ ない。何となれば,それは消費者優先の考えに立脚した均衡主義であり,消 費者優位を基盤とする平衡主義だからである。
政府に消費者優位の方針や生活優先の政策を採ることが要請されているば かりでなく,生産者や企業としても進んで消費者優位や顧客第一主義のイデ オロギーを採らなければ,時代に適応できないものになりつつある。一体消 費者優位の考え方は,企業の存続を不可能にしてしまうものであろうか。否.
そのようなことにはならない筈である。何となれば消費者に一義的に奉仕す ることができるためにほ,企業にも適正な報酬が与えられることが,その条 件とされるからである。企業に対して消費者に一義的に奉仕するということ が,いつも要請されている。企業や営業体は.使用者としての消費者にも購 買者としての消費者にも,奉仕し貢献するのでなければならない。しかしな がら個々の企業は一切のそれぞれの消費者に同時に奉仕することはできない。
個々の個別企業は.自社を取巻く直接的な消費者に個別的に奉仕することか ら始めて,消費者一般への奉仕を順次に押し進めて行くべき筈の存在だから
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 1 7 ) 115
である。企業に直接的な消費者とは利用者よりも購買者としての消費者であ ると言うことになる。何となれば企業と消費者とは売買によってのみ具体的 に結ばれていくところのものだからである。それぞれの営業体は,それを取 巻く購買消費者に優先的に奉仕することが必要である。自社の購買消費者は,
いわゆる購買者顧客である。結局, 自社の購買者顧客を消費者一般の代表者 であるものと考えるようにすることが望まれると言うことになる。企業とほ 自社の購買者顧客に奉仕することを土台としてのみ,消費者一般にも奉仕す ることが具体的に実現し得るところの存在なのである。
2
消 費 者 優 位 の 哲 学 的 解 明a .
自己そのもののオントロジ一消費者を大切にすることの必要性を認めるとしても, どのような根拠から 消費者を重視すべきかと言う理由については,人々の間にその意見が分かれ ることであろう。或る人は「消費者は生産者に金銭を支払うものであるから,
消費者の方が優先さるべきものである」と考える。しかしこれは往々にして 生産者の利潤追求精神を肯定する立場に終ってしまう恐れがある。或る人は
「消費者は生産者よりも弱者としての存在であるから援助しなければなら ぬ」と考える。これは消費者に同情して生産者が恩恵をかけてやるというこ とを前提としているものに他ならない。或る人は「消費者は多数者であって 生産者は少数者であるので,多数者としての消費者の立場の方が優先されな ければならない」と考える。けれどもこの主張はいわゆる多数者の横暴を認 めようとしているものと解されるのである。消費者は「金銭を与えるものだ から」とか,「弱者であるから」とか,あるいは「多数者であるから」とか言 う根拠に立って,消費者を優位に置こうとする考え方には, どれに関しても 短所があり,深い根底に立った論議であるとは認められない。ここに消費者 優位のイデオロギーの樹立のため,敢えて哲学的な深さにまで掘り下げて,
論理の展開を試みることにした理由が存在する。消費者優位の思想の確立の ためには, 自己そのもののオントロジー(存在論•本体論あるいは実体論と 和訳せられている)にまで基礎を掘り下げて,根源的な探究を行なう必要が
116 ( 1 8 )
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)あるのである。
自己の存在が最も現実的に強く自覚される状態は,自己そのものの意識現 象の活動の中に,おいてであると言えるであろう。意識には知識と感情と意 志の作用が存在するということが多くの学者によって分析せられている。そ こで哲学事典にも次のように説明がなされている。 :::心理学的にいうと意識 は通例,知・情・意の三方面に分類される。これら三方面は多少とも統一さ れており,また明暗の差を有する。……意識の流れは睡眠によって中断れる。
しかし意識の機能はそれによって全くなくなるとは考えられないから,無意 識ではあるがなお効力を保有する。=(平凡社哲学事典 昭和46年 69頁) 意識を知・情・意の三つの作用にだけ限定して考えるということには問題が ある。何となれば知・情・意とともに知情意を調整し統合せしめようとする 意識部分も存在すると認められるからである。このように知識と感情と意志 の諸作用を調整せんとする作用を私ほ統覚
( a p p e r c e p t i o n )と呼ぶことにした
ぃ。それは厳密には意識的統覚と言わるぺきものであろう。意識的知情意と 意識的統覚とが意識的自己の四属性なのである。この四属性の融合あるいは 連合の結果,自己は意識的融合我を形成するのである。図表 l I
に示されているように,意識の世界においては,意識的知識・意識 的感情・意識的意志・意識的統覚の四属性が領域的に連合せられ統合せられ て,意識的融合我を形成しているのである。これに対して意識の世界に関し図表 I l
2
3
知.. 知 ‑..‑....
知 識]1
意 識 的知 "・融合我…知 識 的 総融合我…...1 7
覚的月I
無意識的 意 識 的 意 識 的 統覚的 :1
統 統 覚 統1
統 "•(融合我)…:在覚的月
I
意 識 的 無 意 識 的 意 識 的 感 情 的戸・領域的 1
感 感 情1
感 情 感情…融合我"•:潜 在 的 前 無 意 識 的
1
無意識的意識的…意志的...:2
意 志 意 志 意 志1
意 志 融 合 我(潜在覚的)前無意識的無意・識的 意 識 的 融 合 我 融 合 我 融 合 我 融 合 我
• . • ; ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 9
段 階 的
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 1 9 ) 117 てはそれとは別に,意識の世界を上部構造として段階的に無意識の世界がそ の根底,あるいは基礎に置かれることになる。それを更に厳密に検討するこ とにすれば,意識は無意識および前無意識をその根底に持つものであると,
言ことになる。ちなみに図表 I l 中の 1• 2 ・ 3 の数字は,当該融合我が展開 される順位を示すものであって, 1 ' は 1 と同時に展開されることを意味する。
これを具体的に感情の場合をその例にとって示せば,意識的感情の前に無意 識的感情と前無意識的感情が展開され,そして前無意識的感情と同時に潜在 覚的感情の展開があると言うことになる。なおこの場合,意識的感情ほ心理 の世界に照応し,無意識的感情は生命の世界に照応し,前無意識的感情ほ死 せる身体の如きものの世界に照応するのであると仮定せられる。 (この種の 点 の 細 目 に 関 し て は 士 屋 ・ 大 橋 編 現 代 流 通 論 昭 和 4 6
年1 0 頁より 1 6 頁 を 参 照 のこと。) 領域的ならびに段階的の各種の融合我は,再融合せられて潜在覚 的統覚,換言すれば総融合我を形成する。総融合我は全体我としての個体的 我の内的活動の側面に当たるものである。そして個体的我の外的活動の側面
(1)
ほ行動や運動の世界に該当する。
(1)
統覚は a p p e r c e p t i o n (英)または Apperzeption (独)の訳語である。この語は ap ( a d のことで附加とか完成とかの意義)と p e r c e p t i o n (知覚とか認知とかの意 義)を結合して作られた合成語であって,統覚とか明覚とか和訳されることにせら れている。統覚は知・情・意を統合せんとする領域的な作用である。これに対する ものとして,意識・無意識・前無意識の段階的の基本的活動を統合するところの活 動がある。それも統覚と同様に統合的活動をなすものである。しかしながら両者を ともに統覚と呼ぶようにすると,言葉の混乱を招ねくことになってしまうものと思 われる。そこで,これを準統覚と称することも考えて見たのであるが,私は一層の ことこの際「潜在覚」という新語を作って区別するということを敢えて試みたので ある。その英文は s u b ‑ p e r c e p t i o n であって, s u b ‑ c o n s c i o u s n e s s (潜在意識とか下 意識と訳される)の語にヒントを得て,考え出すことにしたものである。
潜在覚的知識と潜在覚的感情と潜在覚的意志を再統合したものが,潜在覚的統覚 の世界である。潜在覚的統覚は,一方,潜在覚的知・情・意を統合するとともに,
他方,前無意識的統覚・無意識的統覚・意識的統覚を統合するものである。それは 結局,個体的我すなわち自己の全体我の内的活動に,合致するところの世界である。
ちなみに潜在覚的統覚に関しては総融合我の語でそれを表現することもできる。我
われは誰も個体的我であると言うことが出来るが,その個体的我の内的活動の世界
118 ( 2 0 )
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)b .
感情の本性と統覚の本性意識としての知・情・意は基本的意識であるが,意識としての統覚は非基 本的意識であって,知・情・意とその性質を異にしている。何となれば統覚 ほ知・情・意の三作用の統合を求めることを任務とするものであって,知・
・情・意の補完をなすものに他ならないからである。知・情・意の三つの基 本的意識の中で最も中核的な意識はどの意識であろうか。それは感情である とされなければならない。元来,知識は主として外界からの剌激によって活 動を起こすものであり,意志と主として外界に対する運動のため活動をなす ものである。これに反して感情は自己の内部そのものから湧き出でてくる活 動である。そこで感情が基本的意識中の基礎的な根源的なそして中核的な意 識であると解されることになる。ちなみに統覚も感情とならんで,感情とは 別の意味で根源的な中核的な意識を形成しているものである。イギリスの哲 学者ヒューム
(DavidHume, 1 7 1 1 ‑ 7 6 )を始めとして,スコットランド学派
の心理学者(たとえばThomas Brown 1 7 7 8 ー 1 8 2 0 )たちは,感情を特に重
視することで古くから知られている。アメリカの詩人ボウ( E d g a rA l l a n Poe 1 8 0 9 ‑ 4 9 )も感情を重視するものであって,彼が如何に感情を重んじたかは次
が潜在覚的統覚の形において把握されるのである。
図表 A
:
・
・
・ 外的活動 個体的我…:
・・・内的活動
1
前無意識的1
無意識的1
意 識 的統 覚 統 覚 統 覚 …統合的・・・
喜 門 鸞 笠 基 本 的 領 域 的
臀聾鴨囀可亨戸占 □ ― 亨
合的
基 本 的
統
‑‑‑‑‑• ‑• ‑‑‑‑‑• ‑‑‑‑‑....‑‑....‑..‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
段 階 的
そしてこの内的活動と対立するものが,個体的我の外部に向ってなされるところの 活動である。それが外界に対する行動の世界であることは言うまでもない。
大衆的顕客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 2 1 ) 119 の論述によって明らかである。 ::::ボウの「詩論」 (The Complete T a l e s and Poems o f E . A. P o e , A Modern Library Giant p . 8 9 3 ) によれば,人の心 性は三つの部分,すなわち純粋知性と趣味と道徳感から成り立ち,知性は真 理を司り,趣味は美を我々に伝え,道徳感は義務に関心する。而して趣味が この三要素の中央に位する ( I p l a c e t a s t e i n t h e m i d d l e ) のは,それが両 端にある知性や道徳感と関連があるためであり,ことに道徳感とは親密な関 係にある。……ポウは……詩の目的は美にあり,詩は美をリズムによって創 造するにあると定義して,「詩のための詩」を唱導した。:: (益田道三 近代唯 美 思 潮 研 究 昭 和 1 6 年 1 1 8 頁 )
図表 m ほ感情を基本的意識の中核あるいは中心として表示しているもので ある。そして知・情・意のそれぞれを,更にその下部意識としての知・情・
意に分解して,解説しているものである。先づその中の感情の世界に関して 図表 l I [
統合的 統 覚
意 識
志
意 的 情
情 惑
感 と情
値感
価. 的
••...•
︐
.
.
.
.
.
.
.
翡 情
感
否 苦
︐
1
真 快 損
一 こ
情 動 省 受 動 評 情 意 省 と 感 活 反 感 活 批 感 決 反 識
的 意 の の 否 究 的 賞 的 害 動
部
苦下
真 研 知 快 鑑 美 利 行 意
•••••
. .
~~oo000 の
"OO"~
.
.
.
.
••••••••
情 志 識 情 志 識 情 志 識 そ 感 意 知 感 意 知 感 意 知 は 的 的 的 的 的 的 的 的 的 青 識 識 識 梢 情 情 志 志 志 感 知 知 知 感 感 感 意 意 意
, '
﹄ '
︐
﹄
V
︑ 0
情 志 ぅ
ょ
識
︑
知 感 意 し︐ ヽ
`
︐ ア
J
的 と
本 こ 基 るベら
調
と感情的知識とを従属せしめている。この三つの下部意識の中で最も中核的 な意識は言うまでもなく感情的感情である。感情的惑情ほ快や苦を感受する 感情である。快はこれをより深く味わうようにせんとするのが感情の本性で,
その活動はすなわち感情的意志の作用である。また,感情的快感のために,
120 ( 2 2 ) 大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
必要とされる知識を探求することになるが,その作用は感情的知識が受け持 つ役割りである。感情が三つの下部意識を持つごとく,意志や知識もその下 部意識を持つ。そしてどの場合を見てもその感情的側面が価値を感ずる意識 になっている。たとえば惑情的惑情が快苦を意志的感情が損得をそして 知識的感情が真否を感得するものであるが如くである。
惑情はその本性として専ら快楽を味わんとし,苦痛を味わずに暮らそうと する。意志は何よりも利益の追求に専念し,損害を軽減せんとする本性を持 つのである。そして知識は出来るだけ知能を確実なものにしようと念願する 本性を有する。この種の性向を知・情・意の本性,厳密には意識的知識・意 識的感情・意識的意志の本性と呼ぶことが出来る。知・情・意がそれぞれ自 分の領域だけの価値の維持発展を求めていると,いつもそこに混乱が起きて くることになる。ここにおいて真・利・快(いわゆる真・善・美の価値に当 たる)の三つの価値の関係を調整するための意識が必要になってくる。それ は統覚といういわば第四者的な意識の任務である。統覚は知・情・意のそれ ぞれの意識の本性が愛好するところを相対的に調和均衡化するための役割り を受持つものである。それは知・情・意の間における感情の独占ばかりでな く,意志や知識の独占も排除せんとする活動に従事するものである。統覚は 知・情・意の傍観者としての立場に立って間接的に調和を計ることをその本 性とする。しかしながら統覚の本性が念願するところの均衡とは知・・情・意 の求める価値を単に平等に無差別的にバランスさせると言うことではない。
統覚的均衡とほ,感情の価値が意志や知識の価値よりも一義的に優先さるべ き価値であると,評価する立場に立つものだからである。ここにおいて,感 情的価値の優位に立脚した,知・情・意の諸価値の均衡的確保が,要請せら れることになるのである。統覚が目標とするバランスは形式的な均衡ではな い。統覚の本性が理想とするバランスは,実質的な均衡であり,広さと幅を 持った均衡である。統覚の本性の求めるところは,統合的な中立的なバラン スであって,知・情・意の本性のごとく,独占的な排他的なものではない。
統覚は感清を中核とした統合的なバラ ノスを念願するものである。しかし 統覚にはその理想を知・情・意に強制的に押し付けるようなことほできない。
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 2 3 ) 121 統覚も他の知・情・意の意識とともに意識的自己の中の並列的な一属性であ るのに過ぎないからである。知識と感情と意志と統覚の四つの属性が相互に 理想的に融合される時においてのみ,統覚の目的が間接的に相対的に実現で きるのである。統覚ほ知・情・意を支配したり従属せしめたりすることが出 来ない。統覚が知・情・意の協力を確保することによってのみ,統覚はその
(2)
本性の目標を達成することができるのである。
(2) 知識.感情・意志の本性は,それぞれ独占的であり,排他的であり,独善的で ある。何となれば,それぞれの自分の領域の価値だけの極大化を念願するものに過 ぎないからである。これに対して統覚の求めるところは,統合的な価値である。そ れは,一つの断面の価値に偏することなく,知・情・意の三つの分野に亘たる統合 的な中立的な第三者的な立場に立った価値を求めるものである。ちなみにここで言 う知・情・意・統覚の本性とはそれぞれ意識的な知・情・意・統覚の本性の意味で あるのは言うまでもない。知・情・意が排他的に求めるところの価値を,感情を中 核とした共存的な価値にしようとするのが統覚すなわち意識的統覚の本性なのであ る。ここに述べたことは意識界についてのものであった。けれどもそのことは無意 識界についても前無意識界についても同様に言うことが出来る。更に領域界のこと についてばかりでなく,段階界のことについても論及して行くことができる。何と なれば段階的には,前無意識と無意識と意識とが独占的な本性を持つものであり,
図表 B
….......統合的本謡.……..
再統合的本性… □ □ □ 汀門『 —•_ ・
1 潜 在 的 1 前無意識〜
統 合 的 本 性 . ] . 月 〔 『 い 只 I ::;:・・独占的本性 に 潜 在 覚 的 1 月 I 意識的無意識的意識的...:
意 志 意 志 意 志 意 志
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 独占的本性
潜在覚の世界が統合的な本性を持つものであるからである。
統覚のそれぞれの段階である,前無意識的統覚と無意識的統覚と意識的統覚とを
統合することにした世界が潜在覚的統覚の世界である。この世界の本性は,単に知
情意の価値のバランスを求めるばかりでなく,前無意識・無意識・意識の価値のバ
ランスも求めるものである。それは人間の究極的な本性であり再統合を求める自己
そのものの立場である。独占的な知・情・・意の本性よりも統合的な統覚の本性の方
122 ( 2 4 )
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)c .
消費者主義と購買者の責任経済学における消費とか生産とかと,意識における知・情・意とかとにほ 密接な関係がある言葉である。何となれば快感や美意識に関連を持つ感情は 経済的な消費とか使用とかに深い関係を有するものだからである。そして利 益とか福利とかに関連を持つ意志は,経済的な生産とか能率とかに深い関係 を有する意識だからである。同様に知識の意識に関係を持つものが経済的な 調節とか統制の分野であると解されるからである。もしもそのように論理を 展開させて行くと,知・情・意および統覚に対応するものとして,経済的な 消費(情) 1• 生産(意) ・調節(知)および無利害性(統覚)のそれぞれの 分野が列挙できることになる。それらほ同時にその作用についての関係者と も表裏一体のものである。そこで消費に対して消費者あるいは購買者,生産 に対して生産者あるいは企業,調節に対して政府あるいは統制者,無利害性 に対して無関心者あるいは間接的公衆が考えられることになる。自己またほ 自分とは如何なる存在であろうか。若し自己が知・情・意の持主としての存 在であるとされるならば,それは消費をなし生産をなし調節もなす存在であ ると言われなければならない。かくて同様に,自分は消費者であり生産者で もあり,そして統制者でもあると類推することができるのである。もしも自 分の中の諸意識中で感情が最も中心的な重要なものとされるのであるならば,
自分の中の消費者としての自分が最も中心的な重要な側面であるものと断定 されなければならない。もしも自分の中の諸意識中で意志が手段的な二義的 が重視されなければならないのは当然のことである。しかしながら,このような統 合的本性よりも更に重視されなければならないのが,再統合的本性である。それは 全自己の本性あるいは自己そのものの本性であるということを意味するものだから である。このような自己そのものの本性は,より深さのある調和を愛好する。換言 すれば,より根源的なものに立脚した,そして感情的調和に立脚したところのバラ
ンスを愛好する。自己の究極的な本性がこのように深い調和に立つバランスを愛好 するものである限り,自己そのものの本性が,本来,平和的な崇高なものであると 判断されることになるのである。かくて自分の自己そのものの本性を讃美し賞讃す ることの必要性が生ずる。結局において,自分の自己の究極的本性も,他人の自己 の究極的本性も,すべて賞讃と愛慕に価するものであると言えるのである。
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 2 5 ) 123.
なものであるとされるならば,生産者としての自分は当然に手段的な二義的 な側面であるものとされるのでなければならない。この論理は個人的な自分 においてばかりでなく,集団的な自分たちの観点からも同じように展開し得 るのである。かくて,自分たちの中で消費者としての自分たちが最も基本的 な目的としての存在であるとされ,また,自分たちの中で生産者としての自 分たちが二義的な手段としての存在であるとされるのである。更に自分や自 分たちを離れた,他人として個人や集団についても,同様の論法を進めるこ とが出来ることになる。すなわち自他を論ぜず,消費者としての存在が一義 的な目的としての存在であり「生産者としての存在はすべて二義的な手段」と しての存在であるとさるべきものだからである。コンスーマリズムがアメリ 力における消費者運動の発展の結果我が国にも広く普及されるに至った。も しもコンスーマリズムを消費者主義と直訳することにすると,それは当然に 消費者優位のイデオロギーを根底とすべきものであると理解せられる。感情 を一義的な意識とする感情主義の哲学は,このコンスーマリズムにその論理 的な基礎を与えているものである。感情主義のオソトロジーはその必然的な 現われとして消費者主義のイデオロギーの展開をなすことになる。
今日の自由経済社会ほ資本家主義的な傾向を排除しようとする動きを見せ ている。しかしそれは消費者優位の政治体制であるものとは決して言えない のである。せいぜいが生産者と消費者とを対等平等に扱わんとする形式的な 平等主義の体制であるものと見られる。しかしこれからほ政府も為政者も,
急速に,消費者優位の体制に向かって進んで行かざるを得ないだろう。何と なれば,消費者・生産者・政府のような直接的な利害者から離れて存在する,
間接的な無利害者集団が形成する世論が,消費者優位の思考を支持するもの に次第に変化しつつあるからである。無利害者集団は間接的な公衆であり中 立者的な傍観者的な存在である。しかしいつも,その集団は絶対多数者であ って,究極的には社会全体を支配してしまう潜在能力を持っているものであ る。この種の間接的公衆を構成している構成員の中には消費者もあり生産者 もあり為政者もあることであろう。しかしながらその最も重要な部分はいつ も消費者によって占められることにならざるを得ないのである。そこで間接
124 ( 2 6 ) 大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
的公衆の世論は,究極において消費者指向的のものとならざるを得ないこと になる。社会全体の立場から見れば,独占的に消費者だけの福利を求めるこ とは許されない。コンスーマリズムを狭く解釈して,特定の消費者という存 在の福利だけを独占的に主張せんとするものが往々にして見られる。しかし それは真のコンスーマリズムのイデオロギーに立つものであるとほ判断でき ない。消費者にも生産者にも為政者にも福利を来たらすが, しかも,特に消 費者の福利が優先されるという方策のみが,社会全体の立場から見て,望ま れるということになるのである。そのような方策であるならば,当然に,中 立者的な傍観者的な無関心的な間接的公衆によって,支持せられるところと なることであろう。結局,消費者・生産者・政府・間接的公衆の各構成員に よって支持されるところが,社会全体の進むべき方向を示すのであるものと 認められることになる。
消費者はたとえ社会における一義的な存在であっても,独占的な権利を持 つことは許されない。先づ消費者はその物質の供給者である生産者に対して 社会的な責任を持たされているのである。何となれば,消費者は代金の支払 いを通じて,生産者に適正な報酬を与える義務を持つているからである。消 費者と言っても,利用者としての消費者では,代金に関する責任を果たすこ とが出来ない。生産者に対して金銭上の裏付けをなし得るのは購買者として の消費者だけである。ここに購買者消費者あるいは購買者顧客の重大な責任 が存在することになる。購買者消費者は一般に小売店で購買を行なうもので ある。そこで製造業者や卸売業者との間には直接的な関係が起こらない。つ まり購買者の直接的な購入先は小売店だからである。けれども小売店は購入 者に対しては全生産者の代表としての存在であると判断されるのである。ょ って購買者としては,特に小売阪売業者を全生産者の代表者であると考えて,
小売購入の際に,その金銭上の重要な責任を果たす心掛けが必要であるとさ れることになる。
3 大 衆 的 消 費 者 と 大 衆 的 顧 客
a .
前無意識の哲学に立脚する大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
( 2 7 ) 125
ュング( C a r lGustav Jung 1 8 7 5 ‑ 1 9 6 1 )
は無意識の研究で知られているが,意識と無意識の関係を下記のように述べている。 :::無意識内容のなかでも,
下の方から識閾(しきいき)に近づいて来たり,あるいは識閾から下へほん の僅かしか沈んでいないものは,通例,すべて意識に影響をおよぽす。この 場合,無意識の内容は,そのままの形では意識面に出てこないので,これら の影響は間接的なものたらざるをえない。= (ュング原著 現代人のたましい 高橋義孝・江野専次郎訳 昭和
3 2
年1 0
頁) 意識の根底に無意識があり,無意識の存在なしには意識は考えられないのである。自然科学の教えるとこ ろに従がうと,無機物や有機物のような物質から生命が生成され,生命が意 識を生ずるものであると解釈されている。もしそのような理論を肯定するこ とにすると,意識の基礎に無意識があり,更に無意識の基礎に前無意識とで も呼ばるべきものが存在するのでなければならないと言うことになる。図表
W
は,そのような論理に関して説明を行なおうとして作られたものである。自己の段階的側面は,前無意識を根底として無意識を積みあげ,更にその無 意識を土台にして意識を重ねあげている。それと同じような方式が意識だけ の部面においても認められるのである。かくて意識は基礎意識を根底として,
その上に一般意識ならびに上部意識を発展せしめることにしているのである。
図表1V
: ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ , ・ ・ ・ ・ : ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
. :
知 識
感・情 .
意 志
意
99.
識
;・・・無意識
: •前無意識
(潜在覚)
意識聖的知識理
3
意聖識的感美情3
意識聖的意志善3 '
‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑
......・•
‑•, ‑
‑‑‑・• • ‑雫▼ ........• ‑
一響一一雫........讐●●、意識的知識
2
意識的美感情2
意識的善意志2 .
理. 意
.. . .(統.識. . . .的. . . .. 知.. 制.. .識 . . ).
1 • •
・ ・意・•
(・識消・• •
的・・・快・ ・感・• •
・費・情・・ )‑‑1 ・ . . . .
意(識生的意志産)
1
.真 利
I I I
無知意識識的 無感意識情的 無意意識志的 前知無意識識的 前感無意識情的 前意無意識志的' 潜知在覚識的 1り替感在覚情的 潜意在覚志的!
I
…上部意識…
・・一般意識…,
・・基礎意識…:
126 ( 2 8 ) 大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
前無意識や無意識の分野がそれぞれ知・情・意に分割することが可能である 如く,意識の分野においても知・情・意の三分野が同じように分割せられる。
そしてこの場合には,基礎意識・一般意識・上部意識の各段階に亘って,知
・情・意が分割されることになるのである。これを価値の方面から分析する ことにすると,真・善・美に応づる各種の価値がそれぞれ区分せられる。経 済学的の消費•生産・統制に該当する価値に関しては,図表に示されている
ように,快(消費) •利(生産) •および真(統制)であるものと判定され るのである。 (この方面に関する詳細については,土屋・大橋共編 現代流 通論44頁から48頁を参照のこと。)
自己そのものを,段階的側面から,前無意識・無意識・意識の各段階に分 解し,前無意識を基礎に置いて他の上層意識を積み上げて行くことが望まし いとされている。前無意識や無意識の積み重ねを無視して,直ちに,意識の 分野を展開させようとしても,そこには無理があるものと言わざるを得ない のである。それを感情の分野を例にとって検討することにすると,前無意識 的感情の上に無意識的感情を積み上げ,更にその上に意識的感情を築いて行 くのが望ましいと言うことになる。前無意識的感情ほ,一方感情全体の根底 になっていると共に,他方前無意識全体の根源にもなっている。それはいわ ば自己の内的活動の根源に当たるものであって総融合我の依って立つ原点で ある。なお意識的感情だけについて検討するならば,意識的感情
1
を基礎と し,その上に意識的感情 2 ・意識的感情 3を次第に積み上げて行くのが好ま しいと言うことになる。最も基本的な根源的な前無意識的感情を土台にして,その上に順次上層のものを築き上げるということほ,つまり潜在覚的感情が 要請するところのことである。この要請を無視しては,理想的な段階別の感 情の築き上げは,不可能なことになる。これは経済的な消費の場合について 論及することにしても論理の展開は同様である。意識的消費の基礎に無意識 的消費の分野があり,また無意識的消費の基礎に前無意識的消費の世界があ るのである。どのように文化的な消費であっても,その根底に粗模的な原始 的な消費も十分に満たされたものであるということが必要とされるのである。
換言すれば心理的な消費の前に,生理的な消費を必要とし,更にまたその根
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 2 9 ) 127
底に物理的な消費を必要としているのである。消費者に関しても同じことが 言えるであろう。理想的な消費者とは,単に心理的部面だけが満たされた消 費者ではない。生理的部面においても満たされた消費者であり,物理的部面 においても充実せられた消費者であるということである。
b .
原始的消費者が優先される段階別自己の側面においては,消費者が,その原始的段階のものであるか,
文化的段階のものであるか,によって三つの階層の消費者に区別せられる。
最も粗模的なものが原始的消費者であり,中間的のものが中間的消費者であ り,ぞして最も複雑なものが文化的消費者である。自己は自己の中に三つの 消費者群を包含している訳である。換言すれば自己という消費者は,同時に 原始的消費者であり中間的消費者であり文化的消費者であるものと,見るこ とができるのである。もしも,水を欽み空気を吸い米を食する者としての自 己を原始的消費者と呼ぶならば,劇場に行き海外旅行をし流行を追う者とし ての自己ほ文化的消費者と呼ばれることになるであろう。そしてその両者の 中間にある者としての自己は中間的消費者と呼ばれるであろう。三つの消費 者としての自己の中で最も基礎的なものは当然に原始的消費者である。何と なれば水や空気なしには生存することが不可能だからである。しかしながら 自分は単に原始的自己であるに止ることを望まない。何となればレジャーも 追える文化的消費者であることを望むものだからである。ここに注意しなけ ればならないことは,原始的消費者の立場が満たされ,中間的消費者の立場 も満たされて,そしてその上に置かれる文化的消費者の立場が好ましいので あると言うことである。換言すれば原始的消費者や中間的消費者の基礎に立 ったところの文化的消費者が好ましいのである。原始的消費や中間的消費を 無視して,文化的消費のみに自分の生活を専念せしめることは,却って破綻
(
i
またん)の源泉になってしまうことであろう。自分の中に三つの消費者が 内在しているごとく,自分たちとしても,この三つの消費者層を兼ねている ものと判断される。自分の家族も,自分の友人たちも,ともに原始的消費者 としての側面も中間的消費者としての側面も文化的消費者としての側面もあ128 ( 3 0 ) 大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
わせ持つところのものである。そしていつも原始的消費者としての自分たち が優位に置かれることが要請せられるのである。たとえば一家においては水 や空気や米が一義的に重視されなければならないが如くである。このことほ 全地域社会に対しても同様に言うことが出来るのである。何となれば地域社 会において最も大事なことはその構成員の水や空気や米の費消の問題だから である。今日公害の恐ろしさが大きな社会問題になっているが,それに関し ては,原始的消費者の哲学に立脚した大衆的な人類的な課題となされるため に十分な根拠があるものと言える。
自然は我われに水や空気や日光を与えてくれる。また我われは消費者とし ても調理したり裁縫したりすることができる。しかし今日の自由主義経済の 下では大部分のものが企業によって供給されることになっている。企業や生 産者の消費者あるいは購買消費者に対しての窓口は小売商業者である。消費 者あるいは購買者としては, どのような小売商業者が消費者にとって最も大 切な業者であると判断さるべきであろうか。それは原始的消費者としての,
自己または自分たちに,物資を提供してくれる小売商店であると断定されざ るを得ない。小売商店の中には贅沢(ぜいたく)品や高級品を専門にしてい る店がある。また米の配給や塩の販売に従事している店もある。資本家主義 社会においては,売上高や利澗額の増加のために贅沢品店や高級品店を開ら くことが,小売商業者の目標であるとされることが少なくなかった。しかし ながら原始的消費者の立場を基礎においた消費者一般としての立場からは,
米や塩の販売店の方が遥かに重要な任務を持っているものであると考えられ ることになる。勿論,消費者全般の立場から見ても,贅沢品店や高級品店が 全く無用であると言うのではない。何となればそれらの文化的商店も,生活 必需品商店の足りない所を補うものとして,その存在理由が認められるもの だからである。しかしそれはどこまでも,生活必需品の供給を優先せしめる 人類的な目標によって調整さるべきものでなければならない。
c .
東洋思想から見た消費者問題近世の文明は西欧文化の現われであると言われる。しかし西欧文化がより
大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋) ( 3 1 ) 129
深さを持ったものになるためには,他の文明をも包含するものとならなくて わならないであろう。他の文明とは主として東洋文化に関するものであるが,
ここでは極東文化のそれを取りあげることにしたいと思う。日本も極東の一 員である以上,極東文化の好い点を深かめることにして,世界文化のより深 い基礎付けのために貢献する必要があるであろう。植物地理学が教えるとこ ろに従がうと,世界で文明の進んでいる地方は照葉樹林帯
( l a u r i l i g n o s a )
で あるとされている。中国や日本はその中の照葉高木林帯に属するばかりかモンスーン地帯でもあり,地理的に特色があるいわゆる東亜を形成しているも のと言える。私は極東や東亜の思想の最も代表的な傾向を老・荘の哲学に見 出すことにしたい。それは我が国と同じ風土に育ったもので,これからも世 界における特異的な特色を持つ思想として掘り下げられて行くことであろう。
老・荘思想を最も好く代表していると見られる考え方の一つは「括淡」(てん たん)の語であるとされている。一般に活とは「心安らかなこと」と解釈さ れ,淡とは俊(たん)または惚(たん)に通じて,どの字においても「心静 かにして安らかなこと」が意味されることになっている。けれども老子(道 徳経第
3 1
章)にわざわざ括淡と記して,淡の字を使用しているのにはそれ相 当の理由があるものであると見なければならないであろう。淡とは「あわく,うすいこと」であって特に「味うすき」ことが意味される。それは,老子の
「淡として其の味無し」あるいは「淡としてそれ無味」(道徳経第
3 5
章)の文 句によって,典型的な表現がなされているものである。それはまた「無味を 味わう」(第6 3
章)の語によっても示されている。老子の思想の根底をなすも のが究極において淡味であり無味であったのである。それほ「淡い美味」を 理想とし「味を超越した味」を探求せんとするものである。我が国において はそのような思想傾向が「幽玄」とか「わぴ・さび」とか「さぴ・しおり」とかの趣好となって展開されていることは周知のところである。
淡味とは一方人間意識の感情面に基礎を置くものであると共に,他方前無 意識面に根底を持つものである。それは感情面における「安らかさ」や「和 やかさ」を表現するとともに,前無意識面における「深み」や「粗模さ」を 現わすものである。この論文が提唱しようとしている粗模的平和とか,その
130 ( 3 2 ) 大衆的顧客の観点に立つ奉仕(土屋)
美意識の発展である原始的消費者とかの考え方は,全面的に老子の哲学と合 致するものと認められる。ちなみに荘子においては老子の淡の思想が受け継 がれて,「淡に遊ぶ」(応帝王篇)とか「淡の至りなり」(刻意篇)とか,「淡(あ わ)きこと水の如し」(山木篇)とかの文句が綴られるようになっている。老 子の思想は多くの人によって外界の大自然に対する考え方を示すものである と考えられやすい。しかしながら老子の自然観の根底には人間の内面性から 出発した考え方もあったと言うことを忘れてわならないであろう。老子の内 面的研究方法はその憲(とく)の原理に具体的な現われを見出すことができ るのである。惑とは「直」の字と「心」の字を結ぴ合わせた文字であって,
「直き心」を意味する。つまりそれは心の本性あるいは人間の究極的本性の 意義である。老子は,「不善なる者,吾また之を善とす。惑善なればなり」(道 徳経
49
章)と説いている。普通の書籍では惑が徳の字に代用されているが,それでは本来の意味を理解することが出来ない。老子はこの惑を「善」と考 えたばかりでなく,信(まこと)とも考えた。そして「慈」とも考えたよう である。荘子には「道は情あり信あり」(大宗師篇)と述べられているが,そ れは老子の「惑信なればなり」
( 4 9
章)と相通ずる意味を示しているものであ ると思われる。情は一般には「まこと」と訓ぜられている。しかし「まこ と」の他に「こころもち」の意味も含まれているものと推測される。あるい は「まことの心もち」の意義に理解してもよいであろう。老・荘においては,人の心の惑は同時に自然の惑にも通じるところを持つものになるのである。
外面的な自然の意の基礎が内面的な心の惑に求めらるべきは改めて言うまで もないことである。
老・荘ばかりでなく,東洋においては陰・陽・中とか,天・地・人とかの 考え方が,古くから行なわれていた。この種の思想は古代のものであって現 代においては何の意味も持ち得ないと我われは考え勝ちである。しかし,こ れ等の概念も内面的に掘り下げて考え直おせば,新らしくその深い意義が見 出せることになるのである。たとえば,剛・柔とか陰・陽・中とかは,老子 の柔や陰を重んずる思想を裏付けるのに役立つものであって,柔や陰の重視 は同時に情の重視の考え方を示し,意や知を重く見ぬ考え方の現われになる