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1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転

著者 石戸谷 重郎

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 26

号 1

ページ 81‑101

発行年 1977‑11‑15

その他のタイトル Ст. 88 Судебника 1550 г. и пер еход крестьян в России вт орой половины XVI в.

URL http://hdl.handle.net/10105/2657

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奈良教育大学紀要 第26巻 弟1号(人文・社会)昭和52年 Bull. Nara Univ. Educ, Vol. 26, No. 1 (Cult. & Soc.) 1977

1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転

石 戸 谷 重 郎 (歴史学教室) (昭和52年4月27日受理)

ま え が き

ロシアの農奴制は、 1&‑17憶紀にその法的形成を完成する速を進んだC13 その大きな第一歩は、

1497年法典第57条の「ユーリの日」 (旧露暦11月26日)の規定であって、 15世紀後半から特定の地 域について見られた農民移転の制限は、ここに全国的な規模で条文化されたのであるC23 この後 1世紀半を経て、 1649年法典第11章(「農民についての裁判」の章)は、いわゆる「ウローチヌィエ=

ゴードゥイ」 (「法定年限」の意であるが、この年限を過ぎれば逃亡農民は旧主から完全に自由になった)を廃 止して、逃亡農民に対する領主の追求権を無期限にしたC33 「ユーリの日」は、たしかに農民移 転に制約を加えたが、なお農民移転を公認している。それ故、 「ウローチヌィエ=ゴードゥイ」の 設定の前に(少なくとも同時に) 「ユーリの日の廃止」、つまり農民移転の全面的禁止が日程にのば らざるを得なかった。それとの関連で、長い論争がつづいているのが、 「禁止年」 (「ザポベ‑ドヌ ィェ=ゴードゥイ」)の問題である(4㌔ この問題についてロシア・ソビエト史学は16世紀の80‑90年 代に注目してきているが、コレツキーは、そのテクストを今日にのこしていない皇帝フョードル

=イワノヴィチの1592‑1593年(当時ロシアで煉われていたビザンツ紀年法では7101年)の「法令」なる ものを想定し、これによって「ユーリの日の廃止」が全国的親槙で実施されることになったのみ ならず、 「ウローチヌィエ=ゴードゥイ」がはじめて、かつ「5年」に設定された、という新説を 提唱したC55 これに対する激しい反対意見も公にされ、問題はまだ結着がつけられていないC6)

以上のような展望に立ちながらも、いまわれわれは、 「ユーリの日の廃止」あるいは「禁止年」

について直接に論じようとするものではない。むしろ、それ以前の問題として、 「ユーリの目」

はその廃止まで果たして農民移転に利用されたのか、その利用あるいは法に反しての移転は史料 にどのような痕跡をのこしているか、 「ユーリの日」の規定は空文におわったのではないか、な どに焦点をあてて若干の考察を試みようとするものである。その際、時代的な枠としては、 16位 紀後半に限定せざるを得なかった。というのは、ロシア・ソビエト史学でも寡聞の限り、 1497年 法典第57条が16世紀前半に通用されたことについて、何も報告しておらず、史料による検証は困 難の模様の故にである。われわれが旧稿においてこの第57条について「空文」におわったであろ う、と述べたのも、またこの故にである(7㌔ これに対して、同条に修正と増補を加えた1550年法 典第88条については、 16位紀後半の史料がいろいろな形でその通用あるいは逆に違反のケースを 示しており(「違反」は法が問題にされていたことを意味する)、ロシア・ソビエト史学もこれらの史料 について検討を重ねてきている。この種の史料のなかで特別な意味をもっているのが、ウォロコ ラムスキー修道院の「収支帳」 (UpHXOAo‑pacxoAHbie KHHrH)であるが、そのなかの農民移転に関 する部分がティモフェエフによって公刊されていて(1939年)、われわれが直接にこれを検討する ことができるのも、本稿を草するにいたった動枚の1つである(8㌔なお、 1550年法典舞88条につ いては、これを詳細に考察した邦語文献が見当らないので(その邦訳も含めて)、その検討も本稿課

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82 石 戸 谷 重 都

題の1っとしたい。

1農民移転の合法・非合法と1550年法典第88条

農民の「移転」 (nepexoa) 「転出」 (BHX0月)といっても,事態はけっして単純でなく、多くの 場合移転先の新主人と話合いがつけられており、ときには新主人が農民を強制的に「連れ出す」

(BtIB03HTb)こともあった。 17位紀に農民が逃亡するときでも(農民白身は「移転」と考えていた)、逃 亡先の新主人と事前に受入れについて話合っていた場合が少なくなかったことを想起されたいCD 農民移転が16世紀後半に合法か非合法かについて争われ、政府が非合法の移転を取締ろうとした

事例を具体的にあげながら、考察を進めていきたい。

事例(あ)、 1552年(2㌔

北方ドヴィナのワガに与えられた1552年の「行政法」 (ycraBHaa rpaMOTa)く3)は、修道院嶺に 法を無視して自ら移転し、または修道院当局の手で連れ去られた農民をワガに連れ戻すべきこ

とについて、次のように指示している。

「古い貢租農民を期限によらずにまた税なしに(fecpOHHO H 6e3nOLU^HHHO)修道院〔領〕よ り連れ戻し、以前に誰がどの部落に住んでいたか〔に従って〕、もとの部落にかれらを定住さ

せるべし(nocaサ打TH封x no CTapwiw aepea朋M'h)O」

ここで「期限によらずにまた税なしに」といっているのは、移転についてでなくて、連れ戻し についである。連れ戻しも実際には農民を動かすことであり、このような断り書きを付している のは、およそ農民を動かす場合には「期限」 (CPOK)を守り、 「税」 (noiittiHHa)を支払うことが条 件とされたからであり、いまは非合法移転の故に法の規定にかかわりなく連れ戻す、と指示して いるのである。この連れ戻しのし方のなかに、法規定を意識していることを認むべきであろう。

事例(い)、 1555年C4)。

イワン4健の名をもってノヴゴロドの2人の「書記官」あてに出された1555年9月5日付の ダラーモタは、ルジェワの黒土(国有地)農民と士族とが、農民移転をめぐって争い、双方と もに獲得に努力している実情をも反映しているO グラーモタは、はじめに黒土農民の代表であ る「選ばれた棟梁たち」 [BuSopHbie rc/iOBbi) 5人の訴晦の内容を伝え、ついで書記官に対する 具体的な指示を述べている。訴願状によれば、ルジェワ、ブスコフなどの士族たちがルジェワ の「黒土村落から」農民を「期限によらず、毎日、税なしに」 (He no cpoKy, no bch mm, 6e3noui/iHHHo)連れ出して,士族たちのもとに「農民として」 (BO XpHCTbflHe)住まわせている。

他方、士族たちの農民のなかには、黒土村落に「行って住みたいと望む」 (noXOTflT HT、TH a(hth) 者があり、かれらを「黒土村落に移転させるために」 (OTKa3bIBaTH B‑‑HepHbie‑一皿epeBHH)黒土 村落から移転のまとめ役なる「オトカスチク」 (OTKa3HHK)が、士族のもとに赴いても、士族 らはこのまとめ役を「殴打して、鉄かせをはめ」、農民を「放免しない」 (He BHllymaiOT)。の みならず、農民を捕えて鉄かせをはめ、かつ「法典によらずに(He no CyAe6HHKy)、 5ループ リまたは10ループリの住居料(noiKiMoe)を徴敬する」という。許廠状は、その最後で、 「士族 たちのもとから農民を移転させることができない(OTKa3aTH HeMOHHO)」と結んでいる.グラ ーモタはノヴゴロドの書記官に対して、黒土農民の代表が、 「期限内のオトカーズによっても」

(3a HX OTK830M B CpOK)士族たちが「農民を放免しない」と書記官に訴え出るときは、 「書記 補」 (noabHHHft)を現地に派遣して、次の2つを実行させよ、と命じている。すなわち、 1つ

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は、士族の農民を黒土村落に「期限に従って移転させる」 (no cpoKy OTKa3bmaTH)こと、もう 1つは、それらの農民が「余のりカーズC5)によ13て転出料C6)を支払う」 (Bbixoa‑ruiaTHT・h no Haiueiny VKa3y)ことである。

まず眼につくのは、士族の横暴であって、一方では黒土村落から「毎日」つまり年中いつで も、 「秋のユーT)の日」の前後2週間にという規定に違反して農民を連れ出し、他方では自分の もとからら転出しようとする農民に対してあるいは暴力を振い、あるいは規定以上の高い住居料 を要求して、かれらを士族の手もとにとどめ置こうとしている。農民労働力をめぐる激しい争い の一断面が如実に示されている.しかも、農民代表は士族のもとから「農民を移転させることが できない」と訴えていることからすれば、力をもたない黒土農民も、農民移転は合法的な限り当 然である、という前提に立っていたのである。皇帝の名をもってした政府の指示が法典規定を念 頭においていたことは明白であり、その最も重要な2点、 (1)移転は「期限」を守るべきこと、

「ユーリの日」であれば移転は許さるべきこと、 (2)転出料、つまり法にいう「住居料」は規定に 従って支払う義務があること、規定の額を越えて要求すべきでないこと、これら2っが示されて いるのである。

事例(う)、 1571年C73

士族ネレデンスキーが所領替えになった1570年のあと、 1年もたたずに領主不在となったか れの旧領から65人の農民の約半数が他に移ってしまった。ノヴゴロドの書記官は、配下の書記 補グリゴリエフを現地に派遣して、実情を調査させたが、その調査目的として次のように示し ている。

「(それらの農民を)誰が連れ出したか(BbIBe3)、いかなる時期にか、ユーリの日の期限にか (o kok) nopy, o cpo岬AH 0 ypbeBH AHH)、オトカーズをもってか、または期限のあとにオ

トカ‑ズなしに強制的にか(c OTKa30M jih hjih 6e3 0TKa3y nocne cpoKy auihnd)cJ

1571年1月に行なわれた調査の結果、大部分の者は、 「期限に、ユー1)の目に」 (o cpoKe, o KDpbeBe AHH)移転したが、領主不在で「プリカスチク」 (所債管理人)もいないため「オトカ ーズと戸の税および転出料を誰にも支払えなかった」 (OTKa3y H nOUIJIHH ABOpOBblX H BblXOAy ruiaTHTH HeKcmy)ことが判明した。理由はともあれ、 「住居料」を支払わずに移転したのであ

る。ために、これらの農民は移転先から「妻子および財産とともに」 「オトカーズなしにまた 税なしに」連れ戻された。他方、連れ戻されない農民もいた。その1人は行方不明の故、当然 としても、もう1人は旧領主ネレデンスキーのプリカスチクが所領にいた1569年に移転した農 民で, 「ユーリの日に」 「住居料」を支払って転出したからである。

‑移転しね農民の大部分が連れ戻されているのにyRそのまま移転先の新主人のも占にとどまり得 た者もあった。移転の合法・非合法の区別を示す好例である。同じ書記補によって調べられてい

るからである。ところで、この事例では「オトカーズ」という術語がしきりに使われているO後 述するように、この術語は当時普及していた。ただ、ここでは「オトカーズをもって」もしくは

「オトカーズなしに」のほか、 「オトカーズーを支払う」という用語も見られるのである。 「オト カーズ」の動詞形確OTKa3aTb>確OTKa3bIBaTb>は、 「移転する」の意と考えてよいであろうC85 こ れに対して、 「オトカーズ」はしかく簡単ではない。この語は、 1550年典第88条本文には使われ ていないが、同条の基政になった1497年法典第57条では条文の見出しとして「農民のオトカーズ について」があり、われわれは旧稿で「農民の移転について」と訳出したC93 「古代ロシア語資 料」の編者スレズネフスキーも、 1497年法典第57条に関する限り、われわれと同じ見解であ

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るCIO)。しかし、いま上の事例(う)における「オトカーズ」の用語法は、 「移転をもって」 「移転 なしに」では意味が通じないOグレコフの「ロシア農民」の独訳者ホルスト=ギ‑ルツは"Kdn‑

digung"っまり「解約通告」の意にとっているcm 「解約通告をして」 「解約通告をせずに」と なるので、一考に価する解釈である。しかし、農民移転が「オトカ‑ズをもって」行なわれた か、それとも「オトカーズなしに」行なわれたかということは、一口にいえば、法に定める規定 を守ってか、またはこれを無視してかということである。それ故、移転に伴う条件と義務を果た した上で移転したのかどうかを問題にしているのである。条件と義務の最も重要なのは、 「ユー リの日」の期限と「住居料」の支払とである。こう考えてくると、コ‑チンが「オトカーズ」を 定義して「農民移転の権利と手続」としているのが、最も妥当な説明のように思われるC12) っ まり、 「オトカ‑ズをもって」は、 「移転の手続をして」であり、 「オトカーズなしに」は、 「移転 の手続をせずに」である。農民から申出があったとき、条件をみたし義務を果たすならば、領主 はこれは拒否できない。そこに1497年法典第57条および1550年法典第88条の基本的立場の一つが あるのであって、コーチンはこの点をも考慮して「オトカーズ」を「移転の手続」とともに「移 転の権利」でもあった、と解していいるのである。もう1つの問題、 「オトカーズーを支払う」

については、次のように考えてよいであろう。ここには無用の重複があるのではなかろうか。

「オトカーズ」につづけて「戸の税」と「転出料」との2つがあげられている。後に法典第88条 について検討するが、これら2っは別のものではない。 「オトカーズ」つまり「移転の手続」の なかで経済的条件ないし義務としては「住居料」の支払が第‑である。その「支払」の意識が先 行して「オトカーズと戸の税および転出料を誰にも支払えなかった」という、他にあまり例を見 ない表現になった、と思われる。

事例(え)、 1571年C133

ノヴゴロドのウォトスカヤ州で、書記栴ダリゴリエフがコリャギン家の所領ピロワ村から移 転した農民7人について、現地住民の陳述証言をもとに調査したときCIO、かれらはダリゴ1) エフの訊問に対して次のように答えている。

「農民たちは、 ・・・この秋、 79年に(5079年、つまり西暦1570年一引用者)、ユーリの日の期限にオ トカーズをもって(o cpoKe o KDpbeBe jam, c OTKa3OM)、ワシ‑リー=ベロセリスキー侯の もとに転出した(bmlujih)。しかるに、 〔農民たちは〕オトカーズと転出料をダリゴリ‑=コ1) ヤギンのプリカスシチクーに支払った。」

これらの農民は、連れ戻されていない。

事例(お) 、 1574年C153

カザンのジラトンフ修道院に対するイワン4世のダラーモクは、 1550年法典罪88条の内容の 一部を具体的に引用している点で注目に価するものである。

「何びとかのもとから農民が修道院に行こうとするとき、汝らは法典によって(no CyAe6HHKy) 森林地におけるがどとく(KaKbJiecHuxMectax)、それらの農民より、農民の門より(CBOpOT CO KpeCTbHHHHa)税と住居料(nouiJiHHa h noiKHJioe)半ルーブリ2アルトウインを徴取す るように。しかるに、農民が期限によって(no cpoKy)修道院に行くとき、法典に反して (M朔mo 6 yao)KeHbfl)税と住居料を徹葡しないように。」

事例(か) 、 1577年C163

ヤロスラヴリのスパスキー修道院と同郡ど料地村との間で、農民移転の合法・非合法をめぐ る争いが起ったとき、ご料地庁は皇帝の名をもって、そのど料地村のプリカスチクに実情調査

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1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転 85

を命じた。調査の方法は、ここでも現地住民の陳述証言によっている。グラーモタは、調査の 重点を次の問題におくように指示している。

「それらの農民は、以前にダヴィドコウォ村に住んでいたか。住んでいたのであれば、どれ ほど前に転出したのか(BbUUJin)aユーリの日の期限にそしてオトカーズをもってか,それと も期限にでなくオトカーズなしにまた税なしにか(o cpoKe ji拭o KDpbeBe JIHH H C OTKa30M,

iuih He o cpoKe, 6e3 OTKa3y h 6e3nouuiHHHo)。」

ダラーモタは、そのおわりの部分で、調査の結果をモスクワのど料地庁に報告すべきこと、

およびその報告にもとづいて問題の農民たちについて「指示を出す」 (yKa3 yhhhhm)方針であ ることを付言している。

事例(普)、 1580年C175

ス‑ズダリのポクロフ尼僧院長がユリエフ郡ど料地ネコモルノ村のプリカスチクを、尼僧院 領農民不法連れ出しのかどで訴え、これがもとでど料地庁が皇帝の名でユリエフ郡の別のご料 地村シマのプリカスチクに実情調査を命じた。尼僧院長の訴えによれば、

「(ネコモルノ村のプリカスチクは、農民6名を)オトカーズなしに、また税なしに、そして かれらの希望によらずに、連れ出した pHBe3‑6e3 0TKa3y h 6e3nouiJiHHHO, h He no hx

xOTeHbK))c」

というO ダラーモタは、この訴えの通りであるかどうかを調べよ、と命ずるとともに、同じこ とをさらに別のことばで次のようにも述べている。

「いかなる時期にかれらから(尼僧院領から一引用者)移ったか、税と転出料を支払った か」 (o kok) nopy OTKa3a^H hx h nouiJiHHbi h bhxoA IUiaTHJIH)

ここでも調査報告をご料地庁に送ることを要求し、その結果によって6名の農民について

「指示を出す」とつけ加えている。のみならず、このダラーモタは修道院領に限ってではある が、およそ農民を非合法に連れ出してはならない、という一般原則にも言及している。すなわ

ち、

「しかるに、今後、修道院領より農民が、期限によらず、オトカーズなしに、そして税なし に、またかれらの希望によらずに、連れ出されないように(SbiCTe‑ He B03Iす ),」

と示している。

これらの諸事例のうち、 (え) (か) (き)は、いずれも1550年法典第88条本文にはない「オトカ ーズ」を重視している。事例(お)は、この語を用いていないが、 1550年法典を4CyAcShhゆま たは^y^o>KeHbe>なる語で示して、第88条に規定されている額を転出者より後攻できるが、こ れを越えて取ることを禁じている。かつ、 「門より」取る、 「森林地」で「半ルーブリ2アルトウ イン」などは、まさに第88条に使われている術語であり、そこに規定されている額である。いま や、われわれは第88条の条文そのものを検討しなければならない。

16世紀後半の、ただし「禁止年」法令以前の農民移転が、つねに1550年法典第88条を遵守して 行なわれたとは考え難い。むしろ、上にあげた諸事例は非合法の移転が広く行なわれていたこと を推察させる。にもかかわらず、法典第88条が、合法の移転たると、非合法の移転たるとを問わ ず領主にも農民にもよく知られていた、と考えてよいであろう。このことは、 1550年法典の写本 が今日にのこっているだけでも、かなりの数に達することからもいえそうである。この法典は、

いうまでもなく、第88条以外にも多くの重要な条項をもっている。しかし、現存写本40のうち、

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16億紀の写本が13にも及ぶことは(17世紀のもの21、 18位紀のもの6)、C185上の諸事例とあわせ て、第88条が周知されていたことを息わせる。邦訳が全くないので、まずその試訳をかかげた い。テクスクトには項目の区分はないが、論述の必要上、あえて区分して示す。

1550年法典第88条。

1. 「しかるに、農民は郷より郷へ、村より村へ、 1年の1っの期間に、秋のユーリの目の前1 週間と、秋のユーリの日の後1週間に移転する。」 (A KpeCTHaHOM OTKa3bIBaTHCb H3 BOJIOCTH b BOJiocTb h H3 cejia b cejia OAHH CDOK B TOAy : 3a HeAenio Ao fOpbeBa flHH ao oceHHero h HeAejiH no K)pbeBe AHH OCeHHeM.)C

2. 「しかるに、戸住居料を、畑地では1ルーブリ2アルトウインを支払う。しかるに、家屋の ある森林まで10露里の森林では戸に対し半ループリ2アルトゥインを支払う。」 (A4BOpM

IIOJKHJIble IIJiaTflT B刀(vie pyojib h ma ajiTbina, a b Jiecex, me且eC只Tb BD'bCT 3.0 XODOMHOrO

Jiecy, 3a ABOp nOJITHHa H ABa amuna.)

3. 「しかるに、ある農民が、何びとかのもとに1年住んで他出するとき、かれは4分の1戸を 支払う。しかるに、 2年住むとき、かれは半戸を支払う。しかるに、 3年住むとき、かれは

4分の3戸を支払う。しかるに、 4年住むとき、かれは全戸を1ルーブリ2アルトゥインを 支払う。」 (A KOTopoft KpecrHaHHH 3a KeM JKWBer roa na rlO触er npoib, u on njiawr qeTBeprt

ABopa ; a asa rana noKHBer, h oh ruiaTHT no^iflBopa; a tdh roAbl IlO〉KbIBeT, H OH IUiaTHT TpH HetBeptH ABopa ; a Herupe roAbl nO)KHBeT, H OH n^aTHT BeCL flBOD.)

4・ 「しかるに、住居料を門から取る。」 (A noaouioe nuaru c bopot.)

5. 「しかるに、運搬賦役分として戸より2アルトゥインずつ取る。」 (A3aIIOB03HMaTIi3ABopa

no ABa aJiTbma; ,

6. 「しかるに、その他にはかれに対し税を取らないO」 (a onpoib Toro rlOUMHH Ha HeM He

I間ara.)

以上の第1‑第6項で第88条のおよそ半ばの字数に達し、つづいて、 7.移転する農民が土地 に穀物を、あるいは収獲した穀物をもっているときの処置(旧主に「賦役をしない」且&na He aejiamという条項を含む)、 8.司集の移転は住居料を取られず、かつ「期限にかかわりなく」

(6e3CpOHHO)移り得る、 9・農民が「完全ロープに身売りするとき」 (npoAacT[cfl] b xojion [b】

IKWIHVK))も司集と同じ扱いをするなどの規定がつづいている。第7‑第9項は、当面の問題と直 接に関連するところが少ないので、第1‑第6項に焦点をしぼりしたい。

まず、 1497年法典第57条との比較でいえば、第4‑第6項(および第7‑9項、つまり第4項 以下の全部)は、 1550年法典第88条で新たに追加された灸項である。第1項の移転期限を秋の

「ユーリの日」の前後2週間に限定する、という規定は、 1497年法典をそのまま受け継いでいて (「郷より郷へ」などの表郷こ若干の相違がある)、条文解釈の上にとくに問題はない。第2項の住居料 徴取および畑地と森林とでの区別、これも1497年法典の継承である。しかし、住居料の基準にな る畑地での場合が「1ルーブリ」から「1ルーブル2アルトゥイン」に増額されており、また畑 地と森林とでの比率が1497年法典では「1ルーブリ」と「半ルーブリ」、つまり森林の場合には 半額にされていたのが、 1550年法典では「1ループリ2アルトゥイン」対「半ルーブリ2アルト ウイン」とされて、両者の比率が変えられている。これについてロマノフは、原本に誤記があっ て、それがその後の写本に入り込んできた可能性も考えられる、としているC20> しかし、 40の 現存写本がすべて「半ルーブリ2アルトトウイン」と記していること、実用のためにつくられた

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1550年法典第88条と16枚紀後半ロシアの農民移転 87

16世紀の写本13もまたこの額に一致していること(ル‑スカヤ=プラ‑ヴダの写本のなかには、筆写人が 自らの判断で変えている場合もあるC215)、さきの事例(5)が「法典によって」の森林地での住居料をま さに「半ループリ2アルトゥイン」としていること、これらを考えあわせると, 1550年法典諸写 本がこの点について誤った原本を写しているとは思われないのである。森林地開墾のために、そ こからの農民移転をより強く抑制しようとした領主層や国家の意潟が、上のような森林地より移 転するときの住居料の比率増加となって表われている、と見ることもできよう。第3項は、居住 年限が4年のとき住居料1戸分つまり1ループリ2アルトゥインとし、 1年、 2年、 3年のとき はそれぞれ1戸分の4分1、半分、 4分の3と定めているが、これは1497年法典におけると全く 同じである。第4項の「門から取る」は、 1つの門のなかに2以上の農民家族が住んでいるとき 全部が移転しても1戸分の住居料徴取にとどめる、の意であり、例えば2家族のうち1家族のみ が転出するときは半戸分、と解釈される。第5項「運搬賦役分」 (3a rlOB03) 2アルトゥインは、

1550年法典で新たに追加されたものであるが、さきの事例(あ)〜(普)にこれが見られないのみな らず、およそ16位紀後半の農民移転について「運搬賦役分」を徽敬した、という事例に、寡聞の 限り、われわれは出あっていない。しかし、事例(お)において「税と住居料」というとき、 「税」

とはこの「運搬賦役分」を指すと考えられるし、事例(い)(う)における「税なしに」の「税」と は、 「運搬賦役分と住居料」と解釈できるのである。法典第88条を強く意識しながらも、当時の 公私の文書は必ずしも統一された用語法をもっていないOわれわれも次に具体的に検討するが、

ロマノフは、ウォロコラムスキー修道院「収支帳」において、 「住居料」の名のもとに「運搬賦 役分」も含まれて「1ルーブリ4アルトゥイン」が転出者から徴収されるているこ、および2年 の場合には、 2分の1戸の住居料+運搬賦役分(計半ルーブリ3アルトゥイン)でなくて、運搬賦 役分も2分の1にされて計半ルーブ1) 2アルトゥインと算出されていることに注目しているC223 これらとのかかわりあいで検討さるべきは第6項である0第88灸のなかで「税」 (noujJiHHa)なる 術語を用いているのはこの1か所だけである。 「その他には税を取らない」の「その他には」と は何を指さすのであろうか。ソ連学士院歴史研究所刊行のテクストは、われわれが独立した第6 項と見たものを、第5項のつづきとしている(上掲テクストで《;a》となっている部分)0 「その他」

の「その」が単数形く;Toro^を用いていることは、直前の「運搬暁役分」を指さしているとも考 えられる。問題の1っは、 「住居料」は「税」ではないのか、であろう。グレコフは、第88条の われわれのいうこの第6項を引用するに際して、 「その他には」にかっこで「すなわち、法典に 示されている住居料(の他には)」と説明している(23㌔ すなわち、グレコフによれば「運搬賦役 分の他には」でなく、むしろ住居料(実際には運搬威役分をも含めて)以外に農民ひき留めなどのた めに高額の転出料を要求していた現実に対処する規定であったのである。住居料は第88条ではた しかに端的に「税」といわれていない。しかし、 1550年法典現存諸写本は、法典前文の前に各条 の見出しに当るものを列挙している(これが独立しているために多くの刊行本では見出し列挙は省略されて いる)。これによれば、第88条は次のように記されている。

「農民移転について、転出料について、および住居の税について」 (0 FepecrbaHCKOM OTKa3e h

BHXOAe h o no〉KbUIHX nOIIIJIHHaX.)c24:>

すなわち、本文における「住居料」 (no>KHJibi; noKHJioe)が、ここでは「税」と呼ばれている のであって、法典が住居料を「税」の一種と見なしていたことが知られるのであるQかくして、

第88条第6項における「その他には税を取らない」の税とは、具体的には「住居料」と「運搬賦 役分」と、両者を含めていた、と考えるのが妥当であろう。ただし、さきに指摘したように、既

(9)

88 石 戸 谷 垂 都

掲の諸事例のなかには「税と住居料」 (事例・お上「税と転出料」 (事例・き)のような用例もあ り、他方ではたんに「税なしに」 (事例・あ、い、か、き)あるいは「転出料」博例・い,え) とのみ示している場合もあるのである。用語の不統一にもかかわらず、農民移転の合法・非合法 が1550年法典第88条の規定によって判断されたことは、これを疑い得ないであろう。

われわれは、 「ユーリの目」の規定を検討しながら、細い数字まであげざるを得なかった。法 典編纂者たちは、第88条に関する限り、一方では「住居料」を高くしまた「運搬賦役分」を追加 して移転を抑制しようとした反面、規定を越える額の「税」の徴収を防止しようとしている。法 典規定の完全な遵守は、 「移転日」 (しばしば新主人側にとっては「連れ出し日」)の期限のほかに、 「税」

として耽る額をも守るべきであった。既掲の事例は、現実に移転または連れ出された日をほとん ど語らず、とくに後攻された額については全く示てしいない。これらの点について貴重な史料と されているウォロコラムスキー修道院の「収支帳」の検討に移りたい0

2 ウオロコラムスキー修道院「収支帳」と住居料

修道院はロシアでも貴重な文書史料の宝庫であったが、 1479年にかのヨシフ=サーニンによっ てウォロコテムスク市郊外に創設されたヨシフォ=ウォロコラムスキー修道院(Hoc叫0‑Bo^oko‑

JiaMCKH員MOHaCTblDb,本稿ではすべて「ウォロコラムスキー修道院」と呼称する)も、多くの史料(遺言状、

土地に関する売異状・寄進状、インムニテート許与状、等々)を保存してきたCD 本稿「まえがき」でそ の名をあげた同修道院の「収支帳」もその1つで、 16位紀70年代から90年代にわたって記された その「収支帳」を利用した研究成果としては、シチェペトフの論文(1946年)がいまも高く評価 されているC2)グレコフは, 1581年から農民移転に「禁止年」が導入された、とする説を唱えて ソビエト史学に大きな影響を与えたが(これに反論しているのがコレツキーある)、その主要な論拠の 1つば、まさにウォロコラムスキー修道院「収支帳」において1581年から農民移転に関連しての 収入と支出の記載が姿を消していることにおかれたのであるC35 ティモフェエフによれば、かれ が農民移転に関する記載を中心に刊行した5つの収支帳は、次のような通称、年代および枚数を もっている(4)0

〔1〕 KHHra Ns 2, 1573年5月1日‑1574年4月29日、 298葉O

〔2〕 KHHra 7083‑7084 rr., 1575年7月26日‑1576年7月24日、 156某O

〔3〕 KHHra Ms 3, 1579年4月7日‑1580年3月29日, 174葉。

〔4〕 KHHra N‑ 4, 1581年5月1日‑1582年5月18日、 197菓O

〔5〕 Kmira J過6, 1587年12月1日‑1588年11月30日、 217葉。

この修道院の収支帳には、これらのはかに1589年、 1592年、 1593‑1594年のものがのこされて いる。ティモフェエフ刊行の収支帳は、原本のすべてではなく、その抜翠である。しかし、グレ コフもスクルインニコフも、 16世紀後半の農民移転については、もらばらティモフェエフ刊行の 抜琴によっている(5㌔われわれとしては、原本に当ってこの抜琴が農民移転に関するすべての記 載を洩れなく含ませているかどうかを、検討することができない。ソビエト学界におけるティモ フェエフ刊行に対する評価に従っておこう。

さて、収支帳に農民移転が反映するのは、修道院領から転出する農民が支払った住居料は修道 院の収入として記載され、逆に他嶺から修道院に転入してくる農民に対しては、かれらが旧主に 支払うための住居料(全部または補助的な一部)その他を貸与し、これが支出として記されるからで

(10)

1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転 89

ある。前者が「収入帳」 (KHHra npnxo且Hue)、後者は「支出帳」 iKHHm pacxazwbie)に記入される のである。まず、収入帳における住居料徴取について考察しようO (事例d)‑e功のなかのゴシックは すべて引用者による。)

事例(1)、 1579年12月9日C63

「ミ‑チャ=ウグリモ7、 1ルーブリ4アルトゥインおよびオブロークC75 ァルトゥインを柄 入(aaji)c 〔ミ‑チャは〕ベルスカヤ郷において、イストムカニポロイより徴取せり(B33Jl)。」

事例(2)1579年12月28日(8㌔

「トルイズノヴォ〔村〕のプリカスチクなるイワン=ボルシチョク、 1ルーブリ4アルトゥイン およびオブローク2アルトゥインを持参(npHBe3)c ‑範出者(Bhlxaeu)ミ‑ニヤより徴取せりO」

事例(3)、 1573年12月16日C93

「ボスニク(トゥロウォ村のプリカスチクー引用者)のもとで、転出者ス‑リャより住居料(nOHOUIH) 1ルーブ1)4アルトゥイン徴取さる(B3只TO)。また、かれよりオブローク4アルトゥイン1ジ ェ‑ニガ徴取さる。」

事例(4)、 1574年1月30日CI03。

「レストヴィツイノ〔村〕のプリカスチクなるネクラスのもとにおいて転出料(BUXOflHbie AeHbrn) 1ループ1)4アルトゥイン後攻さる。イワン=フルソフ、ザスコヴォ部落(レストヴィ

ツイノ村に付属する部落‑引用者)より・・・完全な戸より転出せり(Bbime/i ‑hc ueraro ABOpa)c」

事例(5)、 1573年12月16日CID

「ボスニクのもとにおい転出者ミ‑ルコより・・・住居料半ループリ2アルトゥイン徴取さるO

〔ミパルコは〕 2年居住せり(KHJl)。」

事例(6)、 1579年12月200< 。

「ブジャロヴォ〔村〕のプリカスチクなるセメン、 1ルーブリ4アルトゥインを納入。 〔セメ ンは〕ソトニコヴォ〔部落〕のデメフならびにシェヴェルニヤより転出料を徴収せり。 〔かれ らは〕 1つの門に居住せり(5KHJIH 3a OaHeMH BOpOTbl)c」

事例(7)、 1579年12月9日C133。

「ミ‑チャ=ウダリモフ、半ルーブリ2アルトゥインを納入。 〔ミ‑チャは〕ポヤルより住居 料を徴取せり。 〔ポヤルは〕‑半分の門に居住せり(min 3a rlOJiyBOpOTbl)c」

事例(8)、 1573年12月13日CIO。

ト・また、転出料半ルーブリ2アルトゥインおよびオブローク2.5アルトゥイン徴取さる。 〔そ の〕農民は、ガヴリナ〔部落〕より一半戸より(hc no^yaBopa)転出せり、しかるに、他の半 分には農民残留せり(Ha Apyro員nOJIOBHHe KpeCTbflHHH OCTa^Cfl)c 」

事例(9)、 1579年4月12日(15㌔

「しこうして、同じ部落よりネステタコ転出せり。かれより滞在料(nepeSbMH) 11アルトゥイ ン2ジェ‑ニガ徴取さる。 〔かれは〕 2年間半分の門に居住せりO」

事例色o)、 1576年7月7日C16D

「ラキティノ〔小村、 c&ibuo〕の農民サモイラ、レウォンの息子に対し、セメノフスカヤ部落 (ラキティノ小村付属の部落一引用者)より〔の転出につき〕半ルーブリ徴取さる。 〔この金は〕ユ ーリの日に住居料として(o fOpbeBe且hh Ha no〉KHJIb)かれに与えられたるものなり。」

事例(ll)、 1573年6月7日C173。

「オンドレイ=モホフのもとにおいて転出料2ルーブリ徴取さる。イワノスコエ〔村〕の農民

(11)

90 石 戸 谷 重 都

に転出料として貸与しありたるものなり(hto A3BaJIH HBaHOBCKHM KpeCTbflHOM Ha BblXOfl

B3a員mm)。」

事例02)、 1575年9月28日C183

「修道僧(ctapeu)グレイ=ウ‑ソ7、 1ループリを持参。かれは、転出者フヨードタ=キセル よりカバラーによって徽取せり(B3H.7Ino Ka6ajie)c 〔キセルは〕クリャノフスカヤ郷よりフョ ードル=タルホフのもとに転出せり(Bti皿eJi)。」

事例1 1580年2月12日C19)

「プリカスシチクなるミハイロ=ヴィシェゴロドフ、20アルトゥインを持参。ヴェニヤミノヴ ォ〔村〕の農民ネチャイより徴取せりO 〔この金は〕 〔ネチャイが〕オスタフィー=プーシュキ ンのもとより出たとき(KaK men)、かれに転出料として(Ha xcw)c2K>与えられたるものなり。」

まず、事例(1)に注目されたい。この簡単な記載からは、それが農民転出にかかわっていること を知るのは容易でない.しかし、これにつづく他の多くの事例との比較で、 「1ルーブリ4アル

トゥイン」が住居料=転出料として修道院唐から転出する農民イストムカ=ポロイより「徴取」さ れたものであることが確認されるであろう。 「納入」というが、直接に納入したのは修道院領の プリカスシチクの1人であるミ‑チャ=ウダリモフであり、これを受領したのは収入帳の記載者 であり修道院の「出納係」 (Ka3HaHefl)に任ぜられている者で、事例(1)を含む帳簿ではベネディク

ト=ザジルキンであるo 出納係によって記載のし方や用語にちがいがあるが、同一の出納係でも 日を異にするとき、その体裁や用語を異にすることけっして稀ではない。事例(1)は、その最も簡 略化された事例の1つで、住居料(または転出料)なる語も転出者なる語も全く使われていない のである。

事例(2)でも「1ルーブ1) 4アルトゥイン」という金額の性格は何ら説明されていない。しかし、

「転出者‑・より後攻」とあるので住居料であることは、疑うべくもない。 「徴取」したのは、出 納係自身でなく、出納係にそれを「持参」したプリカスチクである。事例(8)(4)(6)は、いずれも出 納係ニヰフォル=モリンによって記載された収入帳からの引用であるが、 「其々のもとにおいて住 居料(または転出料)一徹取さる」という表現をとっている。 「其々」がプリカスチクであるこ

とは、事例(4)からして明らかであるが、かれらが修道院本部の出納係に金を「持参」または「納 入」したことについては、とくに記していない。 「転出者から住居料を徴取する」というのが、

1550年法典第88条の最も重要な項目の1っであることを想起するならば、事例(3)と(4)は、この趣 旨に沿った記載の好例である、といえよう。さきにわれわれは、法典第88条を独自に区分して掲 げたが、その第3項は、居住年限が4年以下の場合について4年を基準としての住居料を規定し ている.この規定をそのままに適用している事例は多いが、同じ額「1ルーブリ4アルトゥイ ン」の住居料徴取でありながら、事例(4)は、とくに「完全な戸」 (nejib泊ABOD)と明記している.

これは、法典第88条第3項の「全戸」 flecb ABOO)とまさに一致するのであって、たんに第88条 によって住居料が徴敬されたことを思わせるのみならず、 「全戸」とも「完全な戸」ともいって いていない多くの場合、例えば上の事例(i)(2)が「1ルーブl) 4アルトゥイン」を後攻していると き、これらが4年または4年以上居住した農民からであることを確認させるものである。 4年以 外の居住年数の例で最も少ないのは「3年」で、これは1例のみ。ここでは住居料が「25アルト

ゥイン」で、 1戸分つまり1ルーブリ4アルトゥインの4分の3にならず、問題がある。他方、 「1 年居住せり」というケースが3例あるが、そのうち2つば居住料11アルトゥイン2ジェ‑ニガ、

もう1つばそれが12アルトゥインである。われわれの計算では、 1年間つまり4分の1戸分は9

(12)

1550年法典第88条と16惟紀後半ロシアの農民移転 91

アルトゥイン2ジェ‑ニガになる筈であるがC2D、これら3っはいずれもわれわれの計算に合致 しないのみならず、同一出納係による記載でありながら、相互に額の異なったものがそのまま容 認されている。これについては後に考えたい。これに対して事例(5)は、 4年についで数多く確認 される2年の場合のなかで、居住限数を明記している少ない事例の1つである。法典第88条第3 項によれば、 2年のときは全戸(4年)の半額になるが、事例(5)は「1ルーブリ4アルトゥイン」

のまさに半額の「半ループリ2アルトゥイン」の住居料が徴取されていて、一方では他のたんに

「半ループリ2アルトゥイン」と記されている場合が「2年」ということに言及なくても2年・半 戸分であることを推察させるとともに、他方ではその根拠としての4年の「1ループリ4アルト ゥイン」を再確認させる。

転出する農民から徴取される住居料は、年限によってのみならず、 「門」のなかに何家族いた かによっても減額される。その原則を示しているのが、法典第88条第4項の「住居料を門から取 る」というきわめて簡潔な規定である。農民1家族が「1つの門に」居住していた場合は、この ことについて特記しないのが普通であるが,2家族以上のときはこれを明記している。事例(6)は、

2人の農民が転出しているが、徽取された住居料は1人分の「1ルーブリ4アルトゥイン」であ り、その理由として2人が、つまり2家族が「1つの門に居住せり」をあげている。事例(7)fま、

他の場合と同様に4年またはそれ以上の年限を居住したので、年限に言及がないが、法典第88粂 第3項にいう「半戸」分の住居料徴取にとどまっている。しかし、 「半分の門に居住せり」をあ げている。この意味が具体的に示されている稀な場合が、事例(8)であって、 「半分の門」が、 「半 戸」であることがここに確認されるとともに、 「他の半分には農民残留せり」と特記されている。

事例(9)は、 「半分の門」に「2年間」居住していた場合で、第88条の第3項と第4項とによって、

「1年間」つまり「4分の1戸」分の住居料となる。徴取された「11アルトゥイン2ジェ‑ニガ」

は、その額に問題がのこるにしても、 「1つの門」に「1年間」居住した場合の多くと一致して いて、法典規定に準拠したことが充分にうかがわれる。

ところで、事例(1)‑(8)における住居料に注目しよう。事例(9)' とは異なって、これらでは

「1ルーブリ4アルトゥイン」が基準とされ、 「2年」 「半分の門」または「半戸」のときは、ま さにその半額になっている。ここでもう一度法典第88条を読み直してみると、その第2項と第3 項によれば、畑地で4年居住という基準の住居料は、 1ルーブリ2アルトゥインであって、 1ル

ーブリ4アルトゥインではない。第5項の「運搬賦役分2アルトゥイン」を加えて、はじめて1 ルーブリ4アルトゥインになるのであるO既述のように、ロマノフはウォロコラムスキー修道院

「収支帳」から1 ・ 2の具体例をあげて「運搬賦役分2アルトゥイン」も居住年限によって変化 していることに注目した。われわれとしては、 2つの点を補足したい。 1っは、ロマノフ所説は 正しいが、このような算出のし方は、第88条第5項の条文のなかにすでに明示されているという

こと、もう1つば、この修道院の「収支帳」とくに「収入帳」にはこのような算出のし方が数的 にも圧倒的に見く兄いだされること、これら2点であるo まず,第1点O第5項は「運搬賦役分」

について「戸より」徴取する、と定めている。ロマノフは、この点を見落して、現実にウォロコ ラムキー修道院で転出する農民から後攻した住居料の額から、上のような解釈をしたC22> しか し、 「戸より」というとき、それが「2年」であれば半戸分、 「半分の門」でも半戸分であること は、これまでの事例からも、また第88条第2 ・ 3項の「戸」なる語の使い方からも、疑を容れ ないのである。従って、運搬賦役分を住居料に合算して、両者をあわせて「住居料」または「転 出料」と呼んでいるウォロコラムスキー修道院の場合には、 「1ルーブリ4アルトゥイン」また

(13)

92 石 戸 谷 重 都

は「半タープリ2アルトゥイン」は、法典第88条の規定をそのままに通用した当然の算出であ り、徴取なのである。次に第2点。いま、 「収入帳」に限って考察すれば、転出の事例114のう ちく24)、 1ループリ4アルトゥインの住居料徴取が52、その倍額(農民2人を併記) 2ルーブリ8ア トゥインが2例、半額(理由は既述)の場合が17、つまり114例のうち71例までが(62#)、まさに 法に定められた通りの住居料を徴取しているのである。これに対して、どのような根拠で算出・

徴取されたかを理解できないケースもある。転出者から徴取された住居料の最高は4ループリ (1例)、 2ループリ(1例)があり、比較的多いのは、 1ループリ(7例)、半ルーブリ(11例) で、また農民5人で3ルーブリ、 「半分の門に居住せり」としながら4分の1ルーブリ、 「1つの 門に居住せり」と記しながら、なおかつこれと同額の4分の1ループリのこともあり、 「1年」と 明記しながら、 8アルトゥイン、 11アルトゥイン2ジェ‑ニガ、 12アルトゥインとさまざまな住 居料が徴取されていることもある。 「収入帳」に見るこれら43の例(計114のうち)については、

その根拠は記載されておらず、いまのところあえて推測することは差し控えざるを得ない。ただ し,ある程度までであるが、説明がつく場合もある。それが、既掲の事例鯛‑03)であるo

事例(ll)では、まさに「転出料」 (つまり住居料)と明記して2ルーブリを徽取しているO農民の 名は記されていないが、かつて他領よりウォロコラムスキー修道院領に「転入」してきたときに、

その他領からの転出料としてその農民に「貸与」したものを、いまその農民がさらに修道院領か ら転出するに際して、いわば「返却」させているのである。問題の1つば、住居料の支払は負債 の返却とは別のもの故、負債のない農民の転出との比較・関係の上で、理解できない点がのこ るO事例Oo)もまた、かつて修道院領に「ユーリの日」に(ウォロコラムスキー修道院「収支帳」でこの 語を明記しているのは、この1例のみである)転入してきたときに農民サモイラに貸与した「転出料」

を「返却」させている。事例08の旧主からの転出料は、規定の額以上の2ルーブリ、これに対し て事例鯛では規定の額以下の半ループリである。これらの額だけについていえば、前者では旧主 に支払う規定額のはかに転入農民が自己経営を確立するための資金をも貸与し、それが計2ルー プリになった、という考え方もできるし、後者については農民自身が若干の貯えをもっていて、

かれが旧主に支払う住居料=転出料の補助として半ループリを受け入れ側の修道院が貸与した、

という推測も可能であろう。念のため再言しておくが、事例weはともにかつて修道院に転入し たときについて記しているのであって、それぞれの記載時点での転入ではない(後述、 「支出帳」の 事例参照)。事例0功では、 1ループリを「カバラーによって」つまり「負債証文によって」徴取し ているO ここでも詳しい事情は推察の域を出ないが、この負債が‑般の負債でなく、かつて他債 からの転出(‑修道院債‑の転入)に際してこの農民キセルに貸与されたものであろうことは、か れが「転出者」と呼ばれながら他に住居料を取られていない点で事例鯛(10と共通していること、

「支出帳」からしても他領からの転出に住居料を貸与している場合が多いことなどから、まず誤 りないであろうO事例(1鋸ま、転出先の新主人の名が記されているきわめて稀なケースの1つであ る。このことは、転入農民の旧主の名についても同様であって、この場合も記載時点での転入で はないが、旧主「プ‑シュキンのもとより出た」と記している。この(1馴こおける住居料20アルト ゥインは、最も少額の部に属するo要するに、事例的〜(1鋸ま、転出者の住居料支払額が規定額を あるいは越え、あるいは下廻っていて、それがかつて修道院に受け入れたときに貸与した住居料 と関係あることを示している。しかし、かつての貸与‑負債の清算はけっして住居料ではなく

(法典第88条はこれについて全く言及なし)、むしろすべての農民に住居料支払を義務づけているので ある。この点で、問題をのこきざるを得ない。

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1550年法典第88条と16世紀後半ロシアの農民移転 93

以上、 「収入帳」によって農民転出と住居料を主に見てきたのであるが、修道院領への転入を

「支出張」によって検討しよう。

事例鵬、 1573年12月1日C2ォ。

かね

「修道僧ヤキムに1ルーブリ4アルトゥイン渡さる CaaHo)c しかるに、 〔ヤキムは〕その金を コンドラトヴォ村でセメン(この村のプリカスチクー引用者)に渡したり taa;i)c」

事例(15)、 1573年11月17日(25㌔

「トゥロウォ村プリカスチクなるボスニクコワシリエフに、農民に転出料として与えるために (且3TH KpeCTb只HHHy Ha BblXOA).半ループリ渡したり。」

事例(16)、 1573年11月19日C26)

「オンドレイ=モホフ(プリカスチクー引用者)に、農民に転出料として〔与えるため〕、 1ルー ブ1)渡したり。かれが〔農民〕をポリス=ス‑キンのもとより移転させるためなり(hto euy

oTKa3bIBaTb) 0 」

事例(17)、 1574年1月16日C27)。

「修道僧キ1) ‑ルに、かれがミ‑イルの息子ステパンカにその金を返えすために(oTJI3TH)、半 ルーブリ渡さる。かれ〔ステパンカ〕は、旧住着として修道院に転入し(BIHOJI 3a MOHaCTblDb ctapo蕗jKHJieu)、これによって古い住居料(CTapaa no>KHJib)はかれに返されたり。かれは、ロ ソリニコヴォ部落に到着せり(npHiuo^)。」

事例(18)、 1574年1月30日C28)。

「レストヴィツィンスカヤ郷アメリフィノ部落の農民オンドリュカニトタレンコフに1ルーブ リ4アルトゥイン与えらる。かれに古い住居料返されたり。かれは〔以前に〕ウスペンスカヤ 郷に居住せり。 ‑・」

事例(19)、 1573年11月16日C293

「オンドレイ=モホフ(プリカスシテクー引用者)に25アルトゥイン、旧住着のために転出料とし て永久に与えらる仏aHO ‑Ha craporo >KHJibua ‑ Ha bhxoA BnpOK)c しかるに、 〔この金は〕

かれより、以前に社有されたるものなりo」

事例eO)、 1579年12月24日C30㌔

「ベルコフスカヤ郷オハトゥロワ部落の農民カチュシカに古い転出料(ctapoBa bhxoav) 24ア ルトゥイン返さる(OTAaHO)c」

事例(21)、 1573年11月10日C315

「イリイツイノ〔村〕のプリカスチクなるオフォン=トロフィムカに、トロフィムカ(これは農 民一引用者)‑・、ステパンか‑、およびイワンか・・に与えるため、農民の転出料として(KpeCTb兄HOM Ha BblXOAu) 1ルーブリ半渡さる。しかるに、かれらはコブイリヤ=ブジャ部落に契約したり (nopaAHJIHCb)c Lこうして、その金はかれらに永久に与えらる、何となれば、かれらは古い転

出者なればなり(noTOMy hto ohh crapbie BbixoaUbi)c」

事例eg)、 1580年1月22日C32)。

「トゥロウォ村の農民ワシ‑リー新転入者に25アルトゥイン貸与さる(AaHo・・・HOBaBxoAuy B3aHMbl)。かれに対するカバラー坂らる(Ka6a,7ia B3HTa)c」

事例(23)、 1579年11月23日C33J

「農民アフォナス、マトゲェイの息子に転出料として1ルーブリ与えらるO しかるに、かれの 代りにその金をプリカスシチクなるステパン=カテリニン受領せり。

(15)

94 石 戸 谷 重 都

〔欄外に〕 6月28日、ステパン=カテリニン、その1ルーブリを出納係ダリヤに支払えり。」

事例0釧ま、これだけの記載では、さきの事例(1)と同様にあまりに簡略すぎて、農民移転にかか わる支出かどうかを速断できないであろう。しかし、われわれはすでに「1ルーブリ4アルトゥ イン」という額が特別な意味をもっていることを確認した。またこの(1釧こは農民の名が全く記さ れていないが、それは事例09(16)09)にも見られるように、支出帳ではけっして例外的なことではな い。普通は、他の事例に見られるどとく、出納係からプリカスシチクに渡され、プリカスシチク が転入してきた農民に「与える」のであるが、ここでは出納係とプリカスシチクとの間に修道僧 が介在しており、かつプリカスシチクがその金を何に使うのかも明記されていないが、 1ループ リ4アルトゥインが、他領から農民を呼ぶための住居料として支出されたことは、ほぼ間違いな いといえよう。ウォロコラムスキー修道院の支出帳では、院債への転入54を数えるが(旧住者の復 帰を含む、後述)、そのなかで1550年法典第88条の規定の基準「1ルーブ1) 4アルトゥイン」 (その 半額・倍額を含む)の住居料を農民愛け入れに支出している事例は、このn4)のほかには事例08)があ るのみである。しかも、事例仕馴ま、かつて修道院領にいた旧住者が、院領から転出したとき支払 った住居料を、再び帰ってきたことによって返却しているのである。さきに見た収入帳において、

転出者から徴敬した住居料の6割が規定額を基準としているのと、大きな相異あることが予想さ れるのである。

修道院領に転入してくる農民のために住居料(旧主に支払う)を支出している場合の最も典型的 な記載は事例06)であって、ここでは支出の目的が「農民に転出料として与えるため」と明示され ている。事例06)も、この点では同じであるが、旧主の名をあげている稀なケースであるのみなら ず、 ^OTKa3bIBaTb> という法典第88条の用語を用いているのは、 「収入帳」 「支出帳」のすべてを 通じて、この1か所という珍しい事例でもある。

転入農民受け入れのための住居料支出とその額について考える前に、少なくとも2つの問題を 検討していかなければならない。 1つは、上にふれた旧住者への住居料返却であり、もう1つば 転入農民に与えられた住居料が農民には負債となるのかどうかである。まず事例07)に注目すると ここでも支出された金は直接農民に手渡されず、修道僧(現実にはプリカスチクを兼ねた)を通じて 渡されているO農民ステパンカは、たしかに修道院領に「転入した」 (BluOJl)cしかし、 「旧住着と して」である。いいかえれば、かれはもと修道院領に農民として居住していたのである。かつて ステパンカは修道院領から他に移転し、そのときかれは修道院に規定によって住居料を支払っ た。それがここでは「古い住居料」と呼ばれていて、いまや復帰に際してステパンカに返されて いるのである。ステパンカは恐らく旧主に住居料を支払って修道院に復帰したのであろう。修道 院側にすれば、 「古い住居料」の返却ではあっても、支出たるに相違はない.ただ、事例(19(16)と 異なるところは、 (1906)では旧主からの転出を円滑ならしめるために住居料(旧主に支払う)を与え たのに対し、この的では旧住着の復帰にはかつて徴取した住居料を返却する、という形をとって いることである Mではかつて取られた額が「半ループリ」とされているが、この種の事例はさ きに収入帳についてけっして稀でないことを確認した。旧住者の復帰は、必ずしももといた郷ま たは村・部落に帰ることを意味するのではなく、修道院領であればよいわけで、事例0馴ま、もと いた郷と復帰後定着している郷とが別のものであることを示しているo事例miま、 「古い住居料」

なる語こそ使っていないが、復帰した「旧住者」から「以前に徴取された」とあるのでしかって 修道院から転出の際に徴取されたものであることは、疑うべくもない0 「古い住居料」は、事例 (Mゆでは、たんに「返す」 「返された」といっているが、事例(19X21)では疑をのこさないように、

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1550年法典第88灸と16世紀後半ロシアの農民移転 95

「永久に与えらる」と記している。 54の転入のうち、 「古い住居料」を返却しているのは、計7で あるが、これらすべてが「永久に与えられた」と見てよいであろう。 「旧住者」は、 15位紀には全 く自由に移転できた。かれを呼び戻すためには、しばしば何年かの免租の特典が用いられたC34) いま、 16世紀の後半には全く自由に移転できたとはいえない。転出の際、住居料を支払わされた からである。しかもなお、かれらが旧主のもとに復帰するときは、かつて支払った住居料が返却 され、とくに「永久に与えらる」と明記されたのである。 15世紀の免租特典に対し、 16世紀後半 には住居料返却をもって旧主はかれらを呼び戻そうとしたのである1550年法典第88条による制 約をたしかに農民を受けていた。しかし、旧住着に対するこのような寛容な態度は、グレコフも 指摘するようにC355、当時なお農民移転の自由が享受されていたことを思わせるのであるo

次に、新たな転入者に交付された転出料‑住居料の問題。事例鰯は、その25アルトゥインが住 居料としてであるかどうか、判定に苦しむ。ここに使われている「貸与」なる語が明白に「転出 料として」の金についていわれている例が他に3例あるるとともに、他方でに「転出料として」

でなく(少なくともこの語を用いていない),百姓小屋(H36a)あるいは物置(KJierb)のために与 えたという事例がそれぞれ2、計4あるからである。ただ、ここでは、 「貸与」はときに「カバ ラー」 (負債証文)を取るほどに、少なくとも「永久に与える」とは区別されていたことに注目 しておきたい。 「貸与」した住居料が、とくにカバラーのことがいわれていないのに、全額がそ の後に返済され、欄外に注記されている事例もある(1580年2月15日 C36) ところが、事例餌で はとくに「貸与」といわれていないのに、 「転出料として」与えられた1ルーブリは、全額が後 に返済されているo e馴こ欄外注がなかったならば、それは事例(15)(16)と全く同じである。これらで はいずれも転入してきた農民に住居料(旧主に支払うための)が「与え」られているのである。そ してこの種の記載が最も多いのである。思うに、かれらに交付された住居料はすべて、負債の形 をとったものであろう。たとえ、修道院が他嶺よりの農民誘致に努力したにしても、旧主からの 転出に必要な住居料を無償で負担してやるほど、修道院当局は慈非深くはなかったであろう。も し、旧主に支払う住居料がつねに修道院の負担になったとすれば、転入する農民は自分に貯えが あってもこれを隠し、全額を修道院に支払わせたであろう。そして、その際にはかれらの旧主の 要求した住居料の額は、そのまま修道院の支出となって支出帳に記載された筈であるO

そこで、支出帳における「住居料」‑「転出料」の額に注目すると、 6ループリ、 5ループリ、

2ループリがそれぞれ1つずつあるが、全体として低額で、圧倒的大部分が1ループリ以下であ る.のみならず、法の規定によって算出される「1ルーブリ4アルトゥイン」はわずか2例、し かもその1つは全く新たな支出とはいえない(既述)。また、収入帳の場合とちがって、この額の 倍額あるいは半額というケースは全く見られないのである。このことは、ウォロコラムスキー修 道院当局が1550年法典第88条を完全に無視したことを、けっして意味するものではない。修道院 ができるだけ少ない支出で他儀からの農民誘致、つまりそれぞれの農民の旧主からの転出を実現 させようとしたとともに、農民の側にあっても、修道院から住居料(旧主に支払う)を借りるとき はそれが自分の負債になるため、貯えあるときはこれを住居料に当て、不足分を修道院から「転 出料として」借りたのが実情であろう。さればこそ、支出帳における「住居料」の額は、けっし て農民の旧主に支払われた額の全額を示すものではなく、つねにこれを下廻っていたのである。

収入帳の場合は事情を異にする。そこには法典第88条による住居料が農民自身による支払にせ よ、移転先の新主人による支払にせよ、もしくは両者の分担にせよ、そのままの額で記載される のが普通であった。個々のケースについては推察を許さないことも少なくないが(既述)、修道院

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96 石 戸 谷 重 都

側が法の許す限りにおいて最高の住居料を徴取しようとしたことが収入帳に反映している、と見 てよいであろう。他方、支出帳についていえば、修道院側はできるだけ住居料支払の負担を少な

くし、負担する場合でも、農民が修道院に債務を負う、という形をとったのである。

3 長氏移転の期限

既述のように、 16位紀後半の農民移転の合法i非合法についての争いは、それが期限内に、つ まり秋の「ユー1)の日」 (旧露贋11月26日)の前後2週間に行なわれたかどうかを問題の1つに しており、 1550年法典第88条もその第1項において期限内の移転を明示しているのである。ロシ ア農奴制形成史の上で、 「ユーリの日」あるいは「ユーリの日の廃止」が重要視されるのは、 「ユ ー1)の日」が一方では自由な移転に対する制約であったとともに、他方ではなおかつこの期問だ けは住居料支払の義務を伴ったとはいえ、公然と移転できたからである。現実の農民移転が1年 のうちのどの時期に多かったか、 「ユーリの日」は守られていたかを、ウォロコラムスキー修道 院の収支帳を中心に考えてみよう。

収支帳がこの問題についても史料たり得るのは、転出する農民から徴取した住居料が出納係に 納入された日、あるいは転入してくる農民に貸与すべき住居料(旧主からの転出料)が出納係か

ら支出された日が、いちいち克明に記載されているからである。これらの口付についてソビエト 史学でもすでに若干の言及がある。収支帳抜率の刊行者ティモフェエフは、 「11月30日」から金 が大量に支出されることは途絶えており、これは法典の規定に一致する、として「ユーリの日」

が守られたと見、この日以後の支出は「偶然的性格」のものになった、と述べているC13 このよ うな見解にも問題があるが、かれは、支出帳を中心に考えて、収入帳における日付にまで配慮を 及ぼしていないo 「ユーリの日」は守られたか、これについて逆の結論を出しているのがスクル

インニコフであって、その主たる根拠は1580年のシメオン=ペグブラトヴィチ侯所領の土地台帳 であるC2)しかし、スクルインニコフは、ウォロコラムスキ」修道院収支帳(実は支出帳のみ)に も注目していて、修道院当局が比較的早くから法典の規定を侵害しはじめた、と述べるととも に、その最初の事例として支出帳から1580年2月15日の記載をあげているC3)。全く理解できない のは支出帳だけに限っても、 「ユーリの日」を侵害して農民を誘致し受け入れていると思われる 事例が、 1580年より前にいくらでも指摘できるのに、スクルインニコフが何故このような発言を

しているかである。

ところで、上のような不充分さとは別に、ティモフェエフもスクルインニコフも史料操作上の 重要な1点を見逃しているように思われる。少なくともこれに言及していない。すなわち、収支 帳に記載されている個々の日付は、いかに克明かつ正確であT,ても、住居料が納入されもしくは 支出された日付であって、農民が修道院債から転出した日またはそこに転入してきた日そのもの ではないのである。収支帳にこのことに関して記されている郷、村、あるいは部落は、トヴェリ 郡やルーザ郡などかなり離れたところにもあり、近いウォロコラムスキー郡の場合にしても、と くに後攻した住居料を納入するだけのために、各地の所領管理人が直ちに修道院当局にわざわざ 出向いたかどうかは、疑問である。この点、支出帳の方が支出日と移転日との間隔がもっと接近 していたと思われる。つまり、他領からの農民誘致を実現させるため、出納係から住居料を受け 取ったプリカスチクは、できるだけ早く農民にそれを渡そうとしたであろう。百姓小屋などのた

めの費用についても同様であったろう。

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