海外レポート
ドイツの若者は今
人文学部助教授 有 馬 良 之
と、表題のような大仰な、また茫漠としたテー マを抱えて、ドイツはバイエルン州ミュンヘン に一年間滞在する機会を得た。
若者研究といっても、社会学・人類学的な技 量を持たないドイツ語教師として、ここは穏当 に、学校の見学をさせてもらうこととした。
しかし、ここでもドイツは一筋縄ではいかな い。正式名称からもわかるとおり(ドイツ連邦 共和国)、ドイツは連邦制をとっており、その 各州の独自性は、とりわけ教育制度において、
発揮されている。
戦後のいくつかの取り決めによって、全国的 におおよそ標準的な形はできたが(満6歳で入 学、小学校は4年生まで。その後、5年間の基 幹学校、6年間の実業学校、9年間のギムナジ ウムに選別進学。各々の学校の修了資格を取っ た後、職業教育に入ったり、大学に進学する)、 様々な独自の制度が存在している。例えば首都 ベルリンとブランデンブルク州では小学校は6 年まで。70年代前半の平等主義的教育改革の波 の中で生み出された総合制学校は(バイエルン を含む)いくつかの州ではほとんど存在しない。
また本来の制度の意味が空洞化するような事態 も発生している。例えば基幹学校に進学しても、
1年就学期間を延ばして実業学校修了資格を取 る生徒が増えている。この資格が、日本の高卒 のような標準、ないし最低限の学歴とみなされ るようになってきたのだ。それにともなって基 幹 学 校(Hauptschule 主 要 な 学 校)は も は や Restschule(残りもの=落ちこぼれの学校)と
一部、陰でささやかれるような存在になってし まった。
このような状況では、一つの町(=州)の学 校を見るだけではあまりにも不十分と思い、二 つの町、ミュンヘンとベルリンでの半年ずつの 滞在・研究を予定していた。ところがベルリン の大学との連絡がスムーズに行かず、事務(我 方、福大)の方々をやきもきさせながら、なん とか招聘状は入手したが、その後の連絡もまた はかばかしく進まない。これでは滞在中も十分 な支援が受けられるか不安になったので、再び、
事務の方々を煩わせて、ミュンヘンのみでの1 年の滞在とした。
最終的には、ミュンヘンの指導教授にベルリ ンの教授を紹介してもらい、彼から学校を紹介 してもらうことができた。わずか1週間では あったが、首都ベルリンに滞在し、学校も見学 することができたのでよかったと思っている。
実際、1年という短い期間に外国で引越しをす る時間的・精神的負担を考えれば、1ヶ所に腰 をすえたままで、各地に足を伸ばすという形の ほうがよかったのだと思う。
ミュンヘンでは教育学部のディットン教授が 彼の元で博士論文を書いている基幹学校の先生 のアネッテ・M氏を紹介してくれた。その後も、
M氏の学校で授業を見せてくれた同僚の先生が、
市内のギムナジウムで教えている自分の妹とそ の恋人を紹介してくれ、またその恋人の学校の 先生が、隣接する実業学校の先生を紹介してく れ、都合四つの学校を見学することができた。
― 6 ―
このような「友達の輪」の中でのこととは言え、
見ず知らずの外国人に訪問を許可してくれた各 学校の校長、ならびに管理職の方々の好意には 改めて心から感謝をしなければならない。
どの学校でも授業は朝の8時前後に始まり、
真冬のまだ暗い道を雪に滑らないように駅や学 校まで歩いたのも今では懐かしい思い出である。
(某世界的ソフトメーカーのフリーメールサー ビスを使っていたおかげで、州の文部省への参 観許可申請への返事が二度も途中で消えてしま い、最初のM氏の学校への訪問が実現したのは 年が明けての2月になってからだった。)
朝礼やホームルームなどはなしに、8時から すぐに授業が始まり、次の授業との間の休み時 間もほとんどなく午後の1時前後までに6時限 を終了させること、生徒たちが日本の−少なく とも−大学生よりは活発に発言をすること、ま た英語、フランス語などの外国語での授業は原 則的にすべてその言葉で行うことなどは、事前 の知識として弁えてはいたので、やはりそうか、
やっぱりすごい、という思いはあっても、驚き というものではなかった。
むしろ驚いたのは、ドイツの学校、ないし教 室に落ち着きがないことであった。生徒たちが 注意散漫ということではない。授業中の教室に 他の先生が入ってきて、何か相談をしたり、い きなり校内放送が行われ生徒(特定の一人、な いしは「来週の企業実習に参加する生徒たち」) を教室の外へと呼び出す、というようなことが、
どの学校でも日常的に起こっているのである。
現実の社会や職場の実態はそのようなものなの だから、学校のうちから慣れておくのも悪いこ とではない、という考え方もありうるだろうが、
そのようなあまりに複雑な現実に入る前に、現 実から隔離され守られた(schonen)空間で、
基礎的な知識を体系的に学ぶ場としての学校を
Schonraumと呼んできたのもドイツ人の教育観
だったはずである。
ドイツ人の先生たちから「日本の生徒たちは 規律正しいdiszipliniertでしょう」と何度も聞 かれたが、最近の荒れる学校、学級崩壊などの 報道を聞いている者としては簡単に「はい」と は答えられなかったが、先に述べたような、制 度的とはいえなくとも、日常・実践的なレベル では日本の学校のほうが確かに規律正しいとい えるだろう。
ベルリンでは、ミュンヘン(バイエルン)に は数えるほどしか存在しない総合制学校を見学 した。だが強く印象に残ったのは、制度的な違 いではなくて、学校を囲む環境の違いであった。
この学校はクロイツベルクという、「壁」がま だ存在した時代からトルコ人が集中して住んで いた地区にあるが、生徒の実に70−75%が外国 人ー移住者を親に持つという。訪問の最後の日 に校長先生に感想を述べる時間をもてたが、そ の際、つい私が「日本には今でもドイツを教育 のお手本と見る人がいて・・」と口を滑らせる と、先生は「そんなのは200年前、フンボルト の時代の話だ。」と語気を荒げ、続けて「統一 前から教育に必要な投資がされず、特に下層、
外国人の子どもがないがしろにされた。統一後 のナショナリズム、ネオナチの台頭で多くのト ルコ人たちはドイツ社会に見切りをつけてし まった。20年前にはうちの学校に(イスラムの)
スカーフを巻いてくる女生徒など一人もいな かったのだ。」と語った。それまで、日本のア ニメや漫画が好きだ、と私に話しかけていた女 子生徒のスカーフをただ、この子もトルコ人か、
と思って見ていたが、そのような一見何気ない 日常の身振りにも、大きな政治・社会的な動き が影を落としていることを認識させられた。
総じて、ドイツの学校の日常の細部と、学校 を包む大きな連関とを認識することができた貴 重な一年間だったと思う。これを踏み台に、さ らに広くドイツの若者、ドイツの社会を探求し ていきたいと思う。
― 7 ―
海外レポート
トロント滞在記
工学部助教授 小 浜 輝 彦
2004年8月から一年間、カナダ・トロント大 学に滞在する機会を得た。家族5人を引き連れ ての 大移動 であったが、滞在中に体験、感 じたことを思いつくままに書き留めてみたい。
カナダ最大都市トロント
トロントは、アメリカとの東部国境付近、オ ンタリオ湖北西岸に位置するカナダ最大都市で ある。人口約500万人。カナダ総人口が約3300 万人であることを考えると超過密都市であるが、
かといって東京の密度にはほど遠く拍子抜けす る程質素な雰囲気も漂う。産業は工業、商業、
農業ともに盛んで、毎年行われる映画際、ジャ ズフェスティバルなど芸術文化を育む都市とし てもその存在は大きい。アメリカ大リーグ球団
BlueJaysがトロントにあることをご存知であろ
うか?アメリカ映画の撮影場所としてもよく利 用されており、撮影用のイエローキャブ(ニュー ヨークのタクシー)が街を走る光景を何度も見 かけた。トロントは原住民の言葉で「集会の場 所」を意味するが、カナダ政府の移民政策も手 伝って毎年10万人もの移民がトロントに集まっ てくると聞く。実際にダウンタウンを歩いても ここがカナダであることを忘れさせてしまうほ ど、アジア、中東、インド、アフリカ、南米系 人種が多く、「カナダ=白人」のイメージは見 事に打ち砕かれる。それぞれの民族が独自のコ ミュニティを形成し、食文化、生活習慣を守り つつ共存している。まさにモザイク国家を象徴 する都市であり、世界中の食文化、フェスティ
バルを一度に体験できる楽しい街だ。ちなみに 日本食は、肥満が深刻な社会問題となっている カナダにおいて健康食品として人気が高い。
トロント大学
1827年創立、学生総数5万人を越えるカナダ 最古かつ最大の大学。様々な人種の学生が混在 し、留学生も多い。私の所属した電気情報工学 科の電力グループには大学院生が20名ほどいた が、その中でカナダ人は二人だけという状況に 驚いた。講義は60分で同じ科目が週2〜3回あ る。不思議だったのが、時間割に休み時間がな かったことで、当然、学生は部屋の移動で遅刻 する。このため教員も最初の5〜10分ほど学生 が集まるのを待って講義を始めていた。昼食を ゆっくり取る習慣がないためか、日本のような 昼休みも無く、講義が割り振られている。学生 の中には授業中おもむろにサラダやハンバー ガーを取り出し、食べながら聴講する者もいて 唖然としたが、後で知人のカナダ人に話すとそ れは失礼な行為だと言われてホッとしたことを 覚えている。トロントは11月から3月までの5 ヶ月間、長い冬を迎える。この間、曇り空が増 え、日照時間が短くなる。加えて気温も氷点下 の日々が続くため屋外での活動は減り、室内活 動が増える。ちょうどこの期間に講義が集中す るので学生にとって勉強に専念できる時期とな る。
― 8 ―
トロントニアン
トロント住人をトロントニアンと呼ぶが、彼 らの行動や価値観を総括することは難しい。な ぜなら移民が多く、宗教観、生活習慣、価値観 がことごとく異なるからである。様々な人種が 街を歩いているため、日本から来た私が突然紛 れ込んでも何ら違和感なく溶け込める。同性愛 者のコミュニティも活発で近く同性婚も合法化 される予定だ。人々の外観も様々でどんな服装、
髪型で街を闊歩しても気に留める人は少ない。
違って当然の発想から始まる交流は人目を気に する日本とは随分趣が異なり、慣れると私には とても居心地が良かった。日本人永住者は少な いが、企業や大学からの出張、派遣の人は比較 的多い。特に3月、7月になると短期語学留学 に訪れる日本の若者が急増し、コーヒーショッ プに入っても日本語が聞こえてくることが多い。
移民をサポートする施設は充実しており、市が 運営するESLクラスは通年開講している。3 ヶ月900円程度の料金を払えば継続して受講す ることができる。就労ビザを持った私もESL に参加できたのだが彼らとの交流は楽しかった。
あるメキシコ人から日本人はなぜハラキリ(切 腹、自殺)をするのか?と訪ねられ少々説明に 戸惑ったが、楽天的に生きる彼らには理解でき ないようだった。ただ、相手の価値観を許容す るおおらかな雰囲気がこの街にはある。
意外に快適な冬
トロントは、北海道網走と同緯度に位置し、
冬は長く厳しい。−20℃を下回る日もあったが 防寒対策をしっかり施している限り問題はない。
むしろ、室内暖房が行き届いているので福岡の 冬より快適であった。20年前は−30℃になるこ ともあり、水筒や鼻水がすぐ凍ったそうだが最 近は暖かくなっていると聞く。屋外の至る所に 市営スケートリンク場があり、靴さえ準備すれ ばいつでも無料で滑ることができる。私も子供
を連れてよく滑りに行ったが、スキーも含め ウィンタースポーツの楽しさをここで覚えた。
現地小学校
私の子供達はダウンタウンにある現地校に 通った。そこが映画Matrixで活躍した俳優キ アヌリーブスの母校であることを後で知り、
ミーハーな私はちょっとうれしくなった。職員 室は無く、小さなオフィスに教員用メールボッ クスがあるだけで、授業方針は全て担任に任さ れている。従って同学年であっても授業内容が 随分異なる。双子の娘は4年生の別々のクラス に入ったのだが、校外学習に公園、動物園、科 学博物館と熱心なクラスもあれば、ただひたす らスケート行きを十回以上繰り返す(先生がス ケート好きだった)クラスもあり、差が大きい。
カナダは英語とフランス語を公用語としている ため、英語圏のトロントでは4年生からフラン ス語の授業が始まる。英語に不慣れな娘にとっ てフランス語はハンディが無い分楽しめたよう だ。ある日、2年生の息子の担任と話した際に、
私が電気の専門家であることを知って発電の授 業をしないかと誘われ引き受けた。当日、生徒 は私のつたない英語を一生懸命聞きながら大い に興味を持ってくれたのだが、およそ1時間の 授業中、次から次へと質問が飛び出し、彼らの 発想の柔軟性と自己表現の巧さに驚いた。日本 では「分からないこと」を恥じ、隠す風潮があ るが、ここでは「分からないままでいること、
それを隠しておくこと」が恥ずかしいのだ。
おわりに
カナダは大らかである。人は総じて親切で人 なつっこい。エレベーターや街角で知らない者 同士気軽に話しかけるし、私たちが旅先で困っ ている時にはよく助けてもらった。滞在中の全 ての出会いに感謝すると共に機会があればまた 是非訪れたいと願っている。
― 9 ―