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銀行業における『過剰』と競争(1) : ドイツ銀行業 の構造変化-1924-1933年

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(1)

の構造変化‑1924‑1933年

著者 居城 弘

雑誌名 静岡大学経済研究

巻 8

号 4

ページ 1‑27

発行年 2004‑03‑10

出版者 静岡大学人文学部

URL http://doi.org/10.14945/00005831

(2)

銀行業 に 1お ける『過剰』 と競争 (1)

論 説

銀行業 における『過剰』 と競争 (1) 一― ドイツ銀行業の構造変化 ‑1924‑1933年 一―

居 城 弘

①   問題の設定

②   『過剰』 と競争をめぐる問題の背景

1)戦 争とインフレの後遺症・銀行資本の縮小と再建

2)銀 行集中運動の進展と支店制大銀行の形成

3)銀 行業のユニバーサルバ ンク化

4)公 営銀行業の拡張と進出

③   銀行業の『過剰』の実態 (以 上本号掲載 )

④   銀行業における競争 (以 下次号掲載予定 )

⑤   銀行業における『過剰』と競争の帰結

①   問題の設定

ユニバーサルバ ンク制度の発達の母国とされるドイツでは、第 1次大戦前の段階ですでに、通常

の銀行業務 と証券業務を併せ営む「兼営銀行制」の確立を見たが、第 1次大戦後、敗戦や破局的イ

ンフレ、さらには賠償支払い問題の重圧という特殊・構造的要因のもとで、銀行業 も全体として大

きな影響を受けることとなった。戦争とインフレの後遺症として、各金融機関は激 しい銀行資本の

縮小を余儀なくされた。その再建は、銀行の資本的基礎を強化することから開始されなければなら

なかった。産業の寡占化の進展に対 して、弱体化 した銀行の再建強化策としての、ベル リン大銀行

による各地の地方銀行等の合併、支店制大銀行の形成をもたらした銀行集中運動は、そのための一

つの方策であった。さらに戦前段階から進行 し、戦後本格化 した貯蓄銀行をはじめとする公営銀行

が、振替決済機構の本格的展開を契機として、一般銀行業務の分野への進出を拡張 し、その結果、

(3)

民間銀行 グループや信用協同組合のグループ、 さらに個人銀行業 も含めた金融機関相互の激 しい競 争を惹 き起 こし、 とりわけ預金獲得競争、優良顧客獲得競争、信用供与をめ ぐって熾烈な展開を見 せることとなった。イ ンフレーションの終息・ 通貨安定後の産業界の資金需要の急増に対 して、資 本的基礎の弱体化 した各金融機関 は、他人資本・ 預金の獲得競争を通 じて再編強化をはか らぎるを 得なか ったのであるが、 ここにおいて展開された金融機関相互の競争 は、金融機関の業務分野の拡 張すなわちユニバーサルバ ンク化 を推 し進めたも同時に金融機関の収益構造 を変化 させ、経営の不 安定 と流動性の悪化をもた らした。

ドィツの銀行業 は、第 1次 大戦後の相対的安定 において、弱体化 した銀行資本の基盤再構築を めざ して、新 たな条件の下での激 しい競争を展開 したが、 その結果、銀行 自己資本比率の急激な 低下をは じめとする経営内容の悪化 と、貸付の固定化、銀行流動性の低下を惹 き起 こす こととなっ た。

1931年 ドイツ金融恐慌は、 このように不安定化 し、経営内容の悪化 した銀行業を襲 うこととなっ た。 ダナー ト銀行の崩壊 はその象徴的事態であうた。金融恐慌の原因を追究することを目的 とした

『銀行業調査 1933年 』 は、多 くの事実 を解明するとともに銀行業の構造的な問題点を摘出 したが、

そのひとつの論点が「銀行業における『過剰』 と競争」についてであった。銀行の経営悪化・ 不安 定化をもた らしたのは金融機関相互の激 しい競争であって、それは諸銀行の融資や貸出、資金調達 をめ ぐる業務の具体的遂行・ 展開の結果であったが、そのような激 しい競争 と銀行経営の現実展開 をもた らした根本・ 背景に、銀行・ 金融機関の「過剰」があったのではないか、 と問題点を指摘 し たのである①。

本稿 は、 この銀行業における「過剰」 と競争問題 に焦点を絞 り、銀行業 の構造変化 に接近す るこ とが課題である。 『 銀行業調査』 はどのような事態を「過剰」 と認識 したのか、 さらにそのような

「過剰」を もた らした背景・ 要因 は何か、 を検討す る。 その うえで、 こうした金融機関の「過剰」

が金融機関相互の激 しい競争状態をいかに必然的なものとしたのか、その競争展開の具体的局面に

【 注 1】 金融機関 0銀行の過剰の問題 については、今 日の日本の金融再生を巡 る論議 において も、その重要性 に ついて、十分ではないが認識 されているところである。そこでは「過剰」 とは何 に対する過剰なのか、

論者 によってそれぞれその基準が不明確であることが、議論 を停滞 させることとなっている。 バ ブル経 済期 において金融取引が異常な膨張をとげたこと、それは国際的環境や「 国際協調」か らの金融超緩和 政策や、内需主導型経済への転換を促進す る、 「 規制緩和」の進展 によって加速 された ものであ った。

金融取弓 │の 膨張 は、不動産担保融資などにもとづいて、銀行信用の膨張を通 じて進行 し、銀行業務規模 を異常 に膨張 させ、バ ランスシー ・

卜を膨 らませることとなった。バ ブル崩壊 は、実物投資 と金融取引の 相乗的拡張 メカニズムを破綻 させたのであって、そ こにおいて生み出された過剰投資や過剰信用、膨張 した金融取引の「強力的調整」を不可避 としている。問題の焦点 は明確であるが、具体的な「調整」の 進 め方 について議論 は混迷 を極 めている。 ここで は今 日のわが国において、 『 過剰問題』を理論的にど のよ うに整理するべ きかが問われていること、信用恐慌論、 「貨幣資本 と現実資本」分析の視角か らの の現代的問題へのアプローチが求め られているように思われる。本稿 は、歴史的視角か ら、 ドイツ金融 恐慌の勃発の遠因をもとめて展開された論議を取 り上 げて、問題解明の枠組みを明確に し、その解決策 としていかなる方向での議論が行われたかを検討するのであるが、現代的問題 との関連、問題意識 とし て以上のことを述べておきたい。

‑2‑

(4)

銀行業における『過剰』と競争 (D

そ くして考察 し、 この段階の銀行業の構造変化の内実 に迫 りたいと思 う②。

②   『 過剰』 と競争をめ ぐる問題の背景

1)戦 争 とインフレの後遺症・ 銀行資本の縮小 と再建

この段階の銀行業の「過剰」 と競争の実態に接近するには、以下の背景的状況を明確にすること が必要である。それはまず、戦争 とイ ンフレが銀行業 に及ぼ した深刻な影響であって、銀行の資本 を縮小・ 減少 させたことである。戦争経済の持続が実物的富の「強制的消耗」を通 じて再生産規模 の縮小をもた らし、工業生産の絶対的後退を結果することはいうまで もないが、同時に、戦費の調 達が戦時国債発行 と中央銀行による追加信用供給 メカニズムの もとで遂行され、インフレの破局的 進行をもた らした。 ドイツの金融・ 銀行制度 は、イ ンフレとその後遺症の影響 によって全般的な弱 体化を余儀な くされ、銀行資本の縮小が進行 しただけでな く、流動的資金の絶対的縮小によって、

金融市場の狭陰化 と機能の縮小が顕著 となった。銀行などの金融機関の資本の縮小 は、銀行バ ラン スシー ト総額が全体 として縮小することによって もた らされる。具体的には戦時、インフレの進行 によって、戦時金融の対政府等への貸付資産の価値減少が余儀な くされただけでな く、金融機関の 保有する貸出債権、投資、抵当証券など各種金融資産の価値が通貨価値下落によって大 きく減少 し たことが原因であった。 しか もその資産価値減少 も、金融機関の資産内容・ 構成の相違 によって異 なった影響を与えたのである。銀行資本の縮小の実態を見 ると、最 も激 しい影響が現れたのは支店 制地方銀行 と貯蓄銀行 においてであ って、何れ も戦前の 15〜 20%の 水準 にまで低下 したのであっ た。ベル リン大銀行の場合、支店制大銀行の自己資本 は 48%、 同 じく他人資本 は 83%の 水準 に低 下 した。各金融機関 ごとに資本の縮小が異なった程度で進行 したのは、先述 したように、イ ンフレ

【 注 2】 1931年 ドイツ金融恐慌の勃発後、 この恐慌の原因や ドイツの金融・銀行 システムの問題点の究明を課題 として調査委員会が設置された。それにもとづいて ドィッの金融改革が取 り組 まれることになるが、そ の調査報告が以下 のよ うにまとめ られた。 Untersuchungsausschuss ftir das Bankwesen,Teil l, Untersuchung des Bankwesens,1933,Tei1 2,Statistiken 1934が それである。本稿ではこの調査報 告を中心的検討対象 としてお り、以下では、 『 銀行業調査 1983年 』 と略記す る。

なお これに先立 らて ドイッ経済全般 にわたる大規模な経済構造分析のための調査委員会が設置された が、その第 5分 科会で「貨幣・ 信用・ 財政制度」が取 り上 げられている。その銀行制度に関する報告が 以下のとお りである。Ausschuss zur Untersuchung der Erzeugungs― und Absatzdedingungen der deutschen Wirtschaft,Der Bankkredit,1930.通 例,こ の報告書 は

,「

1930年 バ ンクア ンケー ト」 と 呼ばれているが、本稿 では、 その表現 と同時 に、 「 Der Bankkredit」 とも表記す る。第 1次 大戦以降 の ドイッ銀行業の構造変化を、ユニバーサルバ ンクヘの移行をもたらした諸契機を掘 り下げることによう て解明することを目指す、著者の下連の検討作業 は以下のとお りである。 ここではアメ リカ型金融改革

との比較・ 対比を銀行業の基本的あり方 と関連 させて検討することが目指 されている。拙稿、 「 ユニバー サルバ ンクと金融改革 ―相対的安定・金融恐慌・金融制度改革」、 『経済研究』 (静 岡大学 )7巻 304号 、 2003年 3月 、「 ユニバ =サ ル′ ドンクと ドイツ型金融 システムをめ ぐって」、 『 信用理論研究』 (信 用理論 研究学会編 )、 21号、2003年 7月 、同、 「 銀行資本の再建をめ ぐって」、 『 経済研究』 、 (静 岡大学 )、 同、

「 ドイツ型金融 システムにおけるユニバーサルバ ンク化をめ ぐって」、 『経済学研究』 (北 海道大学経済学

部創立 50周 年記念号 )2003年 12月 。

(5)

の影響が資産内容・ 構成の相違によって異 なっていたか らであった。

こうした銀行資本の縮小・ 弱体化 は銀行の経営基盤を不安定なものにし、信用供与能力を決定的 に制約 したため、その再建・ 強化 はさしせまった課題 となった。資本の強化の方策のひとつである 増資や利益の内部蓄積による自己資本の増強は、証券市場の狭陰さか ら発行証券の消化能力の低下 と、銀行収益の停滞か ら大 きく制約 された。そのため資本的な基盤強化 は、他人資本である預金の 増強に著 しく傾斜 した方途 によることとなった。

しか し預金の拡大を進めるうえで、資本形成条件 と国民の所得構造 に、戦後現れた変化 は決定的 に重要であって、金融機関による預金獲得競争を一段 と激 しいものに した。全体 として国民の貯蓄 形成力が低下 しただけでな く、所得構成 において中間層の縮小、低所得層の比重が増大 したか らで ある。 このため、預金獲得をめぐる競争の重点が、中・ 小所得、小 口預金の領域 に推移 してい くこ ととなった。ベル リン大銀行 はじめとする民間諸銀行は、 このために、営業拠点の一層の外延的な 拡張をせまられたのである。

銀行資本の再建 は、バ ランスシー トの再建を図ることと一体で進め られなければな らなか った。

資産内容の再構築には優良顧客を確保 し、融資先をめ ぐる信用供与の拡大をはかることが不可欠で あり、そのため能動業務 としての優良顧客の獲得競争が、受動業務 としての預金獲得競争 とあわせ て展開されてい くこととなった③。

2)銀 行集中運動の進展 と大銀行 による支店網の拡大

ベル リン大銀行 は戦前すでに、兼営銀行 として ドイッの金融 システムに支配的地位を確立 した。

その段階の銀行集中運動 は、工業地帯を活動基盤 とし地方的な支店網を展開 して活動 した有力地方 銀行を、株式参与 にもとづいて「利益共同体」協定の締結 という「緩やかな形態」で集中 したこと が特徴であった。それに対 して、新たな段階でのベル リン大銀行による銀行集中は、 これ ら地方的 諸銀行を合併の形態で集中 し、それを自らの支店化 し、支店制大銀行の形態での拡張運動を展開 し たが、それは以下の理由によるものだった。①工業の集中・ 寡 占化に対応するためには、弱体化 し た銀行の資本的基盤を強化することが不可避であったが、その目的のため、地方銀行の合併 とその 支店化を進めることで、銀行資本の増強を目指 したこと、 さらに各地 に広がる支店網を通 じて、預 金獲得競争 と新たな優良顧客を求めての競争を、有利 に進めてい くことが強 く求め られたか らであ る。 さらに②、金融機関相互の競争激化、 とりわけ戦後、公営の貯蓄銀行 グループが独 自の振替決 済機構を構築 して、一般銀行業務の分野に進出を拡大 したが、後述するように、ベル リン大銀行を

【 注 3】  Franz Griiger,Die Wirkungen des Kriegs und der Kriegsfolgen auf das deutschen Bankwesen, Π lit einem RIickblick auf die Vorkriegszeit, Wo M. Frhr. von Bissing, Die Schrumpfung des Kapitals und seine Surrogate, in (Untersuchung des Bttkwesens 1933), Der Bankkredit, S,40‑42, 62‑64, 76‑79

‑4‑

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銀行業における『過剰』と競争 (1)

始め民間諸銀行 との競争・ 競合領域が広が っていったことが顕著な特徴であった。広域的に膨大・

棚密な店舗網を展開 した貯蓄銀行 グループに対抗す るには、多数の支店網を擁 した地方銀行を合併 して、支店網を拡張することが不可避 となったか らである。③ さらに安定化後の地方銀行を取 り巻 く経営環境が極度 に悪化 し、資金調達力や顧客 との信用関係の維持、流動性などにおいて厳 しい困 難 に直面 して、その窮状が深刻化 したことも、大銀行 との合併統合の道を選ばせた事情であったの。

ベル リン大銀行による集中政策の転換を明確にした、有力地方銀行の合併 とその支店化、支店制 大銀行制の形成の動 きは、 1914年 に開始 される。 ライ ンウエス トファー レンにおける二つの大規 模な合併がそれである。その後の主要な銀行合併、銀行合同の推移を以下に掲げておこう。

①   ドイツ銀行によるベルク・ マルク銀行の合併

②   デイスコントゲゼルシャフトによるシャーフハウゼン銀行連合の合併

③   ドイツ銀行によるシュレジエシ銀行連合の合併 (1917年 )

④   ドイツ銀行によるハノーバー銀行合併 (1920年 )

⑤   コメルッ・ デイスコントバ ンクと中部 ドイツ銀行の合併 (1920年 )

⑥   ダルムシュタット銀行とナチオナル銀行の合同・ 合併 (1922年 )

⑦   ドイツ銀行によるエッセン信用銀行の合併 (1925年 )

③   巨大銀行合併、 ドイツ銀行とデイスコントゲゼルシャフ トの合同 (1929年 )

このうち大銀行による地方銀行の合併 (① 、③、④、⑦ )は 、地方諸銀行の資本力不足と大銀行 の支店網拡大の意向に沿 うものであって、これに対 して、大銀行間の大型合同 (② 、⑤、⑥ )は 直 接的には大銀行間の激 しい競争戦の中で具体化 したものであって、地域的支配の拡張をめぐる ドイ ツ銀行とデイスコントゲゼルシャフ トの対抗 (② )や 、全国的ネットヮーク形成によるベル リン大 銀行化 (⑤ )、 工業融資業務と証券業務の相互補完の高度化 (⑥ )を 合同の直接的・ 具体的契機と するものであった。 この一連の合併 :合 同を通 じた銀行集中運動の流れを規定 していたのは、大銀 行としての資本力の強化であり、支店網を拡張することによる優良顧客の確保や預金の獲得競争に おいて有利な展開を図ることが目指されたのである③ 6

【 注 4】 M.Pohl,Konzentration im deutschen Ballkwesen(1848‑1980)1982,S.,307

【 注 5】 生川栄治   『 ドイ ツ金融史論』 146‑152頁 、小湊     「 相対 的安定期 にお け る ドイ ツの大銀行 と産業 の資本蓄積」『 社会科学研究』 (東 京大学 )55‑74頁 。 お よび この段 階 の銀行集 中 に関 して は以下 を参照。

Willi Strauss,Die Konzentrationsbewegung im deutschen Bankgewerbe,Berlin u.Leipzig,1928, R. Stucken, Die Konzentrationsbewegung iln deutschen Bankgewerbe und deren GegenkJば te

und die Tendenzen zur Dekonzentration und Spezialisierung,in(UnterSuchung des Bankwesens,

1933),Manfred Pohl,Entstehung und Entwicklung des Universalbankensystelns,Konzentration

und Krise als wichtige Faktoren,F.ao M.1980,M.Pohl,Konzentration im deutschen Bankwesen,

F.a.M。 1982.

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銀行集中の帰結 と過剰・ 競争

大銀行の支店・ 営業所網の拡張は、全国的な広が りにおいて各地の金融機関・ グループとの競争 を激化 させたが、支店制大銀行 自体にとって も、多数の支店の管理・ 営業経費の増大によって経営 の深刻な圧迫要因 となっていった。支店の過剰配置や店舗の重複、過剰人員の問題をはじめ、預金 獲得競争の激化による利率の上昇が調達 コス トを増大 させ、 さらには顧客拡大競争の中での不良貸 出の増加 といったさまざまな問題を抱え込む こととな った。 これは、銀行集中運動 によって もた ら された「過剰」 と競争問題に他な らなか った。

3)銀 行業のユニバーサルバ ンク化

過剰 と競争問題の背景 として指摘 される第 3の 点 は、第 1次 大戦 とその後の金融・ 銀行制度をめ ぐ ・

る深刻な状況の中で、銀行業の業務分野が拡大をとげていった結果、ユニバーサルバ ンク化が急 速に進展 し、広が っていったことである。それぞれの金融機関 グループが展開 してきた伝統的な業 務の領域か ら、新たに業務分野を拡張 したことによって、他の金融機関 グループの業務分野 との競 合関係が強まり、競争関係を激 しくすることとなったか らである。金融機関 グループの分業関係の 変化 は、金融 システムの危機的状況や構造的変化を背景 に しているが、それによって伝統的業務分 野か ら新 たな領域への拡大が もた らされていき、それが分業関係を動揺 させ競争激化を もた らす こ

ととな ったのは、 この段階における、以下のような具体的契機 によるものであった。

1)、 もっとも大 きな要因は、公営の貯蓄銀行 グループが一般銀行業務の分野へ進出 し、業務分 野を拡張 していき ,ユ ニバ =サ ルバ ンク化を進めたことであった。それはどのような理由・ 背景に よるものであったのだろうか。 この点については別稿でやや詳 しく論 じたところであるので、 ここ では要約的に述べてお くこととしたい。零細貯蓄機関 としての公営貯蓄銀行の業務拡大を求める動 きは、 19世 紀末か ら始 まって いたが、豊富な長期 ?貯 蓄預金 を もとに、 申産層、商工 自営業者ヘ の信用供与の拡大や、振替取引による決済サー ビスの地域的拡張を求めるものであった。 190708

年の恐慌の勃発を契機 に、国民経済 と金融組織 に、貯蓄銀行 に形成 され蓄積 された豊富な資金を導 入 し、活用をはかることを求める動 きが強まった。貯蓄銀行による振替決済業務の認可や、交互計 算 0預 金取引分野への進出が段階的に認め られていき、 さらに貯蓄銀行の上部組織・ ジロツエント

ラー レの設立 は、振替取引の清算・ 相殺機関 として、その地域的拡張を推 し進めた。大戦 とその後 のイ ンフレは、 こうした一般銀行業務への進出を決定的にした。戦時公債取引を大規模に引き受 け、

証券業務への進出の基盤を固めた。戦後インフレは貯蓄銀行に伝統的であった長期・ 抵当貸付業務 に壊滅的打撃を与え、業務内容の根本的再編を迫 られた。貯蓄銀行による一般銀行業務への進出は こうして不可避なものとなり、振替取引の拡張を前提に した預金・ 交互計算取引による対人信用、

中小商工業者や中小企業向け信用供与、経済信用の前面化 として進め られた。少額貯蓄を主体 とす

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銀行業における『過剰』と競争 (1)

る貯蓄銀行への預金の流入 はこれに対応 していた。 このように貯蓄銀行 グループの銀行業務への進 出 と証券業務の拡張 は、ユニバーサルバ ンク化その ものであった⑥。

2)こ のような貯蓄銀行 グノ k午 プの拡張は、民間信用銀行 グループや信用協同組合 グル‐プとの 間で、業務の競合 と業務内容の接近をもたらし、金融機関 グループが相互に激 しい競争を展開 しつ つ、それぞれユ■バーサ′ レバ ンク化の傾向を強めることとなった。それを代表するものが先述 した、

ベル リン大銀行を中心 とする民間諸銀行の分野における銀行集中運動であって、支店・ 営業所網の 全国的な拡張がその結果である。先述 したところであるが、ベル リン大銀行による地方銀行や銀行 商会の合併や、大銀行同士の合同によって追求 された店舗網の拡張 は、貯蓄銀行 グループの拡張ヘ の対抗 という性格をもっていたが、それ とともに、業務の地域的拡張と業務内容の外延的拡大を通 じて、ユニバーサルバ ンク化を押 し進めた。 とりわけ預金獲得競争や顧客の確保 と信用供与をめ ぐ る競争 によって、各地の金融機関グループとの間で競争を激化 させ、戦前には取引の対象 とはなら なか った中小の顧客や、小規模な貯蓄層 に対 して も業務を拡大 したか らである。 ここにおいて支店 制ベル リン大銀行 は、戦前来の基幹産業 との取引か ら積極的に中小企業分野への取引を拡張するこ とになり、それに伴 って新たに中小顧客 に対す る金融サービスを提供するなど、その業務の範囲を 拡張 したこと、 これは支店制大銀行が兼営銀行 としてのあ り方か らさらに大 きく中小分野へ と踏み 込む こととな り、兼営銀行 としてのあり方か らさらに、 ,ユ ニバーサルバ ンク化を進めることとなっ たのである。

③   銀行業の『 過剰』の実態をめ ぐって

第 1次 大戦以降の ドイッ銀行業 において、銀行業や金融機関においていわゆる「過剰」 といわれ る事態が存在 したのかどうかは、それほど容易 に判断できることではなし

,ヽ

。その直接のきっかけを 与えたのは 1931年 の ドイツ金融恐慌の勃発 において、多数金融機関の経営破綻が続出 し、倒産や 崩壊 に追 い込 まれ る金融機関が相次いだことであった。そこか ら金融機関の過剰な存在が金融危機

【 注 6】 前掲拙稿、 「 ドイツ型金融 システムにおけるユニバーサルバ ンク化をめ ぐって」 ,『 経済学研究』 (北 海道 大学 )53巻 3号 、2003年 12月 ヽ55‑58頁 、貯蓄銀行など公営銀行 グループの一般銀行業務分野への進 出とそれに伴 う拡張は、 この段階の銀行業の構造変化 に決定的な影響を及ぼす こととなった。 この問題 についてはあ らためて立ち入 った検討が必要である。関連 して参照すべき文献 として以下をあげてお く。

Jurgen Mura, Entwickl■ ngslinien der deutschen Sparkassengeschichte,Stuttgart, 1987, Ludwig

Poullain, Die Sparkassenorganization, F.ao M。  1972, Gunter Wagener, UnterSuchung iber den

Strukturwandel des Aktivgeschaftes der SparkaSSen, Miinster, 1962, Frida Senger, E)ie

Entwicklung des SparkaSsen zu Banken, Strassburg, 1926, Ferdinand Nissen, Die Bankmassige

Betttigュ g der Sparkassen,Stuttgart, 1926,Erich Neumann,Die deu"chen Sparkassen,in

(Untersuchung des Bttkwesens 1933),M.POhl,Die Sparka3se,in(Deutsche Bankengeschichte,

Band 2,1982)

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の背景 として注 目され、その結果、金融機関の競争が金融機関の経営の不安定 とを増大 させ、危機 の原因を形成 したのではなか ったのか という疑念が提起 されることとなった。そこか らさらに、金 融機関が相互 に激 しい競争を展開 した背景・ 原因 として、 「過剰」 と競争問題が クローズア ップさ れることとなった。

そこでまず銀行業の過剰 とは何か、その問題の性格 と検討のためのアプローチをめ ぐる基本的問 題について触れておこう。経済の変動過程や景気変動・ 循環において、周期的に過剰な商品生産や 過剰在庫を生み出 し景気の後退や不況 さらには恐慌を惹 き起 こす ことになるが、その根本原因 とし ては、過剰な投資や資本の過剰が指摘 されることについては、改めて述べるまで もないであろう。

そこにおいて信用制度 は、経済の拡張過程に対 して銀行信用や金融市場の運動を通 じて、 これを促 進する積極的役割を果たすのであるが、その必然的帰結 としての景気の反転 と収縮、不況や恐慌 に 対 しては逆 に、信用諸関係の切断 と崩壊を通 じて過剰な資本 と過剰商品の「価値破壊」を強制 し、

信用恐慌を不可避 とす るが、 このような一般的論理 については、共通理解が得 られるであろう。そ こにおいては、実物的側面 における過剰の発生 とその収縮、価値破壊 と調整過程 に対応 した信用制 度の収縮 と調整が進行する。景気変動・ 恐慌論の論理か らは、過剰な信用 (銀 行信用 )の 収縮 と強 力的調整 は銀行の破産や倒産を不可避 とし、銀行の集中へ と導いてい くのである。

このような周期的要因だけではな く、より構造的な要因によって も信用・ 信用機構の過剰 という 問題 は発生 しうるであろう。産業の構造変化や産業の集中の進行が信用制度の再編 を促すケースな どがそれであるが、そのほかにも、バ ブル経済の進行や、金融機関の激 しい競争による信用拡張が 崩壊 した場合、そこに過剰な信用取引 と債権債務関係が顕在化す る。

バブル経済はさまざまな要因によって惹 き起 こされるが、共通 しているのは、中央銀行の金融緩和 政策の基調が前提 となって、民間銀行の信用拡張を通 じて株式市場やその他資産市場の取引が膨張 し、バブル化することである。 もちろん個別的な要因がこれに付加 されてくることは言 うまでもない。

過剰な信用取引・ 債権債務関係 は、支払い・ 返済の停滞や不能を通 じて、信用関係の切断か ら企 業倒産を惹 き起 こして、その結果 として、銀行の経営悪化や収益の低下が もた らされ、預金支払へ の不安が取 り付 け、信用不安の連鎖を惹 き起 こす ことになれば、信用恐慌を顕在化 さ .せ る。そのよ うな事態にまで進展 しない場合には、銀行にとっては回収の停滞や遅延、回収不能 に発展する不良 債権問題 を抱え込む こととなる。いずれに して も、銀行信用の拡張による過剰信用 は、銀行バ ラン スシー トの総額を膨張 させることとなるが、バ ランスシー トの膨張 自体が過剰を説明するのではな く、信用取引が実現困難・ 不能 に陥る事態が明 らかとなることが、過剰信用の事態を証明すること になる。 したが って、不良債権を抱え回収困難 によって銀行の損失を増大 させ、収益の低下・ 減少 を もたらす事態は、過剰な信用を抱えた銀行 自身の過剰 に他な らないということができる。 これが 銀行業の過剰についての一般的な説明である①。

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(10)

銀行業 における『過剰』 と競争 (1)

【 第 1次 大戦後の ドイツの銀行業 における過剰問題の実態をめ ぐって】

大戦 とその後のイ ンフレを通 じて ドイツ経済が経験 した未曾有の困難は、通貨安定を契機 として、

ようや く新たな経済循環を開始することとなった。 しか し銀行業や金融市場の構造 は大 きく変化 し、

且つ又、極めて厳 しい再建への課題 に向かわなければならなか った。 なかで も金融機関の基礎の弱 体化は、産業の再建・ 回復にとっての大 きな障害であり、早急な資本力再建が求められることとなっ たのは既述のとお りである。各金融機関グループの再建 と拡張への対応が進むなかで、激 しい競争 状態を惹起 し、金融・ 銀行業の構造変化を推 し進めることとなったが、そこにおいて金融機関経営 の不安定や動揺、経営破たんや整理・ 解体の問題や、外国資金への過度の依存 についての懸念や流 動性悪化など、さまざまな問題点が顕在化することとなった。 こうした問題の背景や根底において、

第 1次 大戦後 ドイツの金融 システムにおいて、金融機関の『過剰』問題が未解決のままに進行 して いるのではないか、そのためにこうした金融不安を発生 させたのではという疑念・ 危惧が広がるこ ととなった。 こうした懸念 は 20年 代末 にはかな りの広が りを見せたのであるが、決定的 となった のは 1931年 金融恐慌の勃発であって、 ここでの銀行恐慌の原因追求 と対策の模索を目指 した『 銀 行業調査 1933年 』 は、本格的に銀行の過剰問題を正面にすえた調査 に取 り組んだのである。

まず出発点 として、銀行業の過剰 とはいかなる事態をさす ものであるのか、その実態が明 らかに され る必要があった。過剰の基準 として何 に注 目すべ きであろうか。 『 銀行業調査』 はこの点 につ いて、銀行の過剰 によって国民経済的な無駄 と正当化 されないコス トが成立 しているかどうか、つ まり過剰によって非効率 と費用の増大を招 き、それによって金融機関経営を不安定 にさせているか どうかを判断の基準にすべきだとしたのであった。何をもって過剰 とするかは、極めて難 しく、そ れゆえに常 に議論の分かれ る点であ って、 ここでの議論 に先立つ『 1930年 バ ンクアンケー ト』 に おいては、 ドイッの銀行機構が戦前に比 して全体 として拡張をとげたこと、その際の根拠 としては、

金融機関の数 と店舗数、バ ランスシー ト総額があげ られていた。 しか しこれに対 して、 『 銀行業調 査』では以下の疑間が出された。金融機関数や店舗数 はその活動能力を示す数値 とあわせて考えな ければ説明 とはな らない。 また従業員数 とバ ランスシー ト総額、および取引高や収益状態 に関する 数値を関連 させた場合、より適切な判断が可能 になるであろうが、 しか しそれ らに関 しての十分信 頼で きる資料が得 られないこと、ない しは利用可能な資料が極めて不十分であること、 したが って 確実な数値が得 られるものは結局、各金融機関のバ ランスシー ト総額 と、機関・ 店舗数であるので、

その資料にもとづいて判断形成を行 うことが現状で可能な方法であるとしたのであった。 もちろん、

【 注 7】 したが って問題の基本的視角 としては、景気変動 と信用、恐慌 とくに信用恐慌の論理をふまえるべきで

はないであろうか、 ということであって、 その上でさらにさらには「貨幣資本 と現実資本」論が これに

ついての重要な示唆を与えるものと思われる。

(11)

それが もっとも有益な資料であるということはできないが、問題の一般的な ビル ドを把握すること は可台ヒであるとしたのであった③。

『 銀行業調査』は、 そこでの吟味にもとづいて、金融機関数 と店舗数、バ ランスシー ト総額の数 値を手がか りとしてその他必要な補足説明を加えつつ、 この問題 についての検討を進めている。 し

たが ってわれわれ も、基本的にその検討内容に沿いなが ら考察を進めることとしたい。

『 銀行業調査』 は最初 にまず、 ドイツの金融機関が第 1次 大戦後 どのような状況変化を遂げたの であろうか と問い、金融機関の実態について包括的な考察を試みた。対象 とされた金融機関は通例 の銀行組織、つまり商業銀行、短期金融業務 に従事す る銀行、「預金銀行」であり、純粋の不動産

(土 地 )信 用機関は除かれてお り、月 1個 の検討 とされている。それに従 いなが らわれわれ もまずその 実態把握か ら始めることとしよう。あ らか じめ ドイッの金融機関を以下の 3グ ループに分類する。

すなわち、 1)民 間諸銀行 (収 益経済的 )、 2)公 法上 の銀行 (共 同経済的 )、 3)組 合的銀行 (協 同 組合的 )と しての分類がそれである 0。

そこでまず この分類基準 に従 ってヽ ドイツの金融機関の最近の発展傾向の顕著な特徴をもっとも 端的に現 しているものとして金融機関の店舗数の推移 にに注 目す る。

【 表 ‑1】 はこれ ら金融機関 3グ ループ毎の店舗数 (支 店・ 営業所 )が 、戦前 01913年 に対 して どのように変化 したかを示 した ものである。 それによれば公法上の銀行 は 30%強 の増加を示 して お り、戦後の特徴を明確に反映 している。民間株式銀行の増加状況 は 14.3%で ある。民間銀行 グ ループでは戦中か ら戦後にかけて銀行集中運動が展開 したことによって、大銀行に集中された多 く の地方銀行支店がベル リン大銀行の支店 に組み込 まれたこと、個人銀行・ 商会 もまたこの集中運動 の対象になったものが増加 したが、同時に、戦後の経済不安 と危機の進展の中で清算・ 整理などに よって消滅するものが続出 したのであった。 これによって民間銀行全体 としては、個人銀行・ 商会 の消滅によって店舗数 は減少 したことが示されている。 しか しこれはさらにその内部構成に立ち入 っ て検討 しなければな らない。協同組合銀行 グループは 10%弱 の増加である。 このように全体的に 見て、 ドイツの金融機関店舗網 は、戦後の種々の構造変化を反映 して 10〜 30%も の増加を示 した ことがわかる。そこでさらに各 グループごとに、過剰問題にとって本質的な ものとしてそれぞれの 店舗・ 営業機関数 とその資本力・ バ ランスシー ト総額 について、その内実を検討 してい くこととし

よう。

【 注 8】 ここで取 り上げ られている問題 はまさしく今 日わが国での「 オーバーバ ンキ ング」についての問題 と基 本的に共通 した性格を持 っているといえるであろう。恐慌 とバ ブル崩壊の相違 はあるが、そこで進行 し た事態をわれわれは『過剰』問題を手がか りとして考察 していきたい。問題 となるのは『過剰を判断す る基準』を何 に求 めるべ きかである。 この点 に関 しては Untersuchung des Bankwesens,S.140‑142 で、種々の資料データの利用可能性や信頼性についての検討が行われている。

【 注 9】 このような銀行の分類については、Untersuchung des Bankwesens,S.115‑116

― ‑10‑―

(12)

銀行業における『過剰』 と競争 (1)

単位   百万 VIK/RM

Untersuchung des Bankwesens,Statistiken,S.112.114.116。  118。  120.122よ リイ 乍成

【 民間銀行グループ】

①支店制ベル リン大銀行

【 表 =2】 は、支店制ベル リン大銀行の店舗数とバランスシー ト総額を示 したものである。支店、

預金金庫・ 取扱所、代理店をも含めた店舗・ 営業店数の拡大は、戦後の金融組織の拡張を端的に示 すものであって、顕著な特徴をなすものであるが、支店制ベル リン大銀行は集中過程を通 じて、地 方諸銀行の支店網を自己の支店網に組み込んだだけでなく、中堅の個人銀行・商会を吸収 したほか、

新たな預金金庫の設立によってこのよ .う な急激な店舗網の拡大を進めたのである。 しかしその後の 大銀行同士の大型合併によって、支店制大銀行の行数は 7行 (1914年 )か 3行 (1933年 )に 減 少したが、表から分かるように店舗 b営 業網総数は 3.4倍 に増加している。しかしここで支店数だ

けを見 ると 29年 以降では減少 しているが、 これは後述す るように、銀行集中運動 による店舗網の 重複や競合が、営業経費などの非効率を増大 させたことか ら、重複店舗の整理や統廃合を追 られた 結果である。

バ ランスシー ト総額について指摘すべき点は、1913年 か ら 28年 までの総体 としての顕著な増加 注

< 出

表 ‑1  金融機関の店舗網 と拡張のパ ラ ンスシー ト総額 行数 (上 段 )

店舗数 (支 店・ 営業所を含む・ 下段 )

バ ランスシー ト総額 1913年 1929

民間信用銀行合計 うち   ベル リン大銀行

地方銀行

40 12   26 30 74

298 3,111 6 1,267 211 1,685

00     90

   

10,569

6,307

1,862

15,963

9,568

1,798

公法上 の銀行合計 うち   シュターツバ ンク

フ ンデスバ ンク 。 ジロツェントラーレ 貯 蓄銀行

270

︲08 9 64 29 267 622 660

3,243 10,202 9 85 31 285 2,609 9,717

3,201 11,032 9 106 30 290 2,570 10,510

24,170

1,151

1,755

20,802

6,708

1,584

1,412

2,875

21,600

2,327

5,236

12,149

23,617

2,158

5,570

13,823 信用協同組合

うち   商工業信用協同組合 農業信用協同組合

18,557 1,493 15,830

20,977 1,170 18,445

21,499 1,356 18,826

5,380 1,937 2.520

34 75 69

全 ドイツ金融機関総数 22,066 24,649 25,038 24,684 49,783 18,655 47,831 43,640

(13)

備考 :バ ランスシート総額の単位 ,百 万 MORM

出所 :Untersuchung des Bankwesens.

が注 目されよう。 しか しこれについては以下の点が留意 されねばな らない。第一 は、 28年 までの 総額の増大には外国か らの短期資金の流入 (約 60億 RMと 推計 される )が 含 まれていることであっ て、戦後 ドイツ国内での「資本の集中」における大銀行の地位の後退 ―これは主 として貯蓄銀行や 生命保険の拡張によって惹 き起 こされたのであったが‐ を隠蔽す るものとなった。第二 にこれ らの 数値 には、銀行集中によって受入れ られた諸銀行の資本、および他の金融機関か らの再預金の受 け 入れや他銀行か らの借入金がふ くまれていることを考慮する必要がある。それによってかろうじて バ ランスを回復することができたのであった。全体 としては支店制ベル リンベル リン大銀行のバ ラ ンスシー トに関する状況 は、1913年 と比較 して も、 とくに 1929年 以降、停滞の傾向を示 している ことが確認できる⑩。

支店制大銀行の支店網 は、地方銀行の集中と体系的な支店増設・ 充実策によって とりわけ編み目 の細かいものとなった。 しか しなかには収益性の観点か らではな く、非合理的な動機 (他 行への追 随、威信など )が 誘因 となって支店の新・ 増設が進め られたり、既 に他の大銀行の進出が行われて いる地域に支店設置がなされ、競争の一層の激化を加速するケースも多かった。ベル リン大銀行の 支店数 は、1913年 0150支 店であ ったが、 23年 0900店 以上 に増加する。 29年 には支店の再統合 もあって減少を示 したがなお 750店 を擁 していた。 こうした支店制ベル リン大銀行の拡張にとって

【 注 10】  Der Bankkredit,S.7‑9,Untersuchung des Bankwesens,S.118‑119

表 ‑2  支店制ベル リン大銀行の店舗数とバランスシ… 卜総額

支 店 制 ベ ル リ 大 ン 銀 行 機 関

・ 店 舗 数

1914年 末 1929年 1933年 支 店 制 ベ ル リ ン 大 銀 行 バ ラ ン ス シ ー ト 総 額

1913生 F 19284F 1980生 F

本 店 6大 ベル リン大銀行 6,766.5

支 店 6大 ベル リン大銀行

十 ドイ ツ国民 銀 行 7,192.5 11,901.0

預 金 金 庫 代 理 店

6大 ベル リン大銀行 シャーフハウゼン、

Jヒ

ドイツ ライン信用、南独割引

8,735.7 12,804.4 11,812.2

総 計 6大 ベル リン大銀行

十バルマー銀行連合 9,054。 1 13,214.9 12,236.4 4大 ベル リン大銀行

(3大 ベル リン大銀 行  1933年 7月 )

12,236.4 7,199.5

‑12‑

(14)

銀行業 における『 過剰』 と競争 (1)

表 ‑3 1914年 〜 28年 にベル リン大銀行に集中 。合併 された金融機関数

ベル リン大銀行 Ⅷ嚇 支店なき

地方銀行 地方銀行

個人銀行 商会

信用協同 組合

集中された 銀行総計 1.  ドイ ツ銀 行

2.デ イ ス コ ン トゲ ゼ ル シ ャフ ト 1

3.シ ャーフハ ウゼ ン銀行連合 1

4.ラ イ ン信用銀行

(ド イツ銀行・ ディスコントグループ  1〜 4) (20)

10 (91)

5。 グルムシュタッ ト ・ ナチオナル (ダ ナー ト )銀 行

6.ド レスナー銀行 1

7.コ メルッ・ プ リファー ト銀行

8。 中部 ドイツ信用銀行

(コ メルッ・ プ リファー ト銀行 グループ  7〜 8) (12)

10 1

1 (10) 総    計

出所 :Der Bmkkredito S.10よ り

決定的な要因はいうまで もな く集中運動であった。 D

【 表 ‑3】 は 1914‑28年 にベル リン大銀行 によって直接 0間 接 に集中された銀行・ 金融機関数 を示 したものである。 それによれば、 ベル リン大銀行 は 1913‑28年 に総数 210の 金融機関を集中 し、その内訳 は 66地 方株式銀行 (支 店網を持つ 38金 融機関、支店網のない 28機 )、 129個 人銀 行業・ 商会、 15信 用協同組合であった 6別 稿で も取 り上 げたように、第 1次 大戦前までの銀行集中 は、ベル リン大銀行 と地方銀行 との「利益共同体協定」の締結 という「緩やかな結合形態」で進め られた。 この「 銀行連合 Bankenbtinde」 の設立 は、大銀行 による過半数株式所有 により地方諸銀 行 は対外的には自立性を保持 してはいたが、 しか しその業務の遂行は大銀行の指揮のもとに結合さ れたのであった。 これに対 して、戦時・ 戦後の銀行集中は、 こうした「緩やかな結合」か ら「完全 合同 Vollfusion」 の形態へと転換 した。その理由は、地方諸銀行の経営状況の悪化 と資金調達力の 低下か ら、産業の集中・ 合理化運動に対応 し、 より強固な基盤構築を迫 られたことが大 きかった。

こうした集中形態 とな らんで戦後、大銀行同士の大型合併が特別な意義を持 っていた。すでに戦 前段階か ら見 られたところであるが、戦後の大型合併の背景・ 要因はつ ぎのことにあった。支店制 大銀行の集中過程を通 じて、それぞれ支店網の構成や営業領域・ 顧客層構成の類似性が強 く、その 性格的な接近が進んだ こと、他方では営業・ 管理費用の増嵩、競争 による高水準の負債利子、損失 (不 良貸付 )の 発生などによる収益性、流動性の悪化 をもた らしたか らである。重複店舗の整理統 廃合や、費用節約 による収益性の回復が切迫 した課題 となったか らであった。 の 。

【 注 11】 Der Bankkredit,S.9,36

【 注 12】 大型合併については、Der BankkFedit,S。 11,  他 に生川栄治、前掲書

(15)

このように、支店制大銀行の集中過程の進展 と支店網の拡張は、戦後急速に進展 したのであった が、それが銀行業務の順調な拡張を伴 うものでなか ったことは、バ ランスシー ト総額の推移が示す とお りである。 さらに大銀行相互の大型合併が不可避 となったことに示 されているように、競争の 激化 と営業費用の増加によって、収益性や流動性の悪化をもた らす こととなったのである。 このよ うに支店制ベル リン大銀行 は全体的趨勢 として、支店・ 店舗網の拡張に対 してバ ランスシー ト総額 の動向は停滞 し、 しか もその資金構成の中には著 しい規模にのぼる外国短期資金や、他銀行か らの 借入金部分が大 きな割合を占めていたことが実態であった。 こうした状況を「過剰」の観点か らい かに評価すべ きかは、後にさらに検討する必要がある。

②支店制株式地方銀行

戦後 ドイツ銀行業の構造変化の大 きな要因のひとつが、地方銀行業一株式地方銀行 と地方個人銀 行・ 商会 ―の後退であ って、その多 くは銀行集中運動 によって大銀行の もとに合併・ 吸収 されるこ

ととなった。それ ら地方株式銀行の中で も多数の支店網を持つ銀行 (た とえばベルク・ マルク銀行、

エ ッセ ン信用銀行、中部 ドイツ信用銀行、 ラインウウェス トファーレンデイスコントゲゼルシャフ ト、 シュレジエン銀行連合など )は ドイツの主要工業地域を活動基盤 とし、各地の工業諸企業 との 間で緊密な結合関係を形成 して きた有力銀行であった。 こうした産業 との関係で重要なつなが りを 持 ってきた有力銀行を取 り巻 く経営環境の悪化 は、イ ンフレや領土問題、その他の特殊な戦後的要 因 と絡 まりあっていたが、①地方銀行の資金力の弱体化や流動性の悪化、②工業の集中運動の進展

(ト ラス ト化 )に 対す る地方銀行 の産業 にたいす る地位の変化を もた らしたのであった。 そのため これ ら地方銀行 は、ベル リン大銀行 との合併によって、より強固な結合をはかることが不可避のこ ととな ったか らである。地方諸銀行が戦中・ 戦後の集中過程を通 じてその機関・ 店舗数をどのよう に減少 させたかを示 したものが 【表 ‑4】 である。

このグループについては、大銀行 による集中対象になった銀行、新たに設立 された銀行があって、

戦前 との連続性 において比較す ることが極めて困難である。 たとえば『 1930年 バ ンクアンケー ト』

によれば、1913年 に支店網を持つ地方株式銀行 は 100行 であったが、1928年 には 64行 に減少 した。

(そ の詳細 は ;100行 (1913年 )ァ ヽ 69行 (13728年 減少数 )+33行 (増 加数 ※ )=64行 で ある。

したが って ここでは、 この間の増減分を含めたものを同 じ銀行 グル‐プとして考察することとしよ う。

地方支店制銀行の店舗営業機関数について、行数 と支店・ 営業所数 はパ ラレルに進行 していない。

新設立が行われたか らである。支店制地方銀行総体では、 まず行数の減少 については、1913年 の 110行 か ら 25年 にはおよそ 70行 29年 は 60行 へ と減少 している。当然 ここには大銀行への吸収 合併 による減少が含 まれている。 その結果、支店営業所数 も 710店 舗 (1913年 )か ら 626店 舗

‑14‑

(16)

表 ‑4  地方銀行の店舗・ 機関数

1913生 F 19254F 1929年 1931生 F

地方銀行数 支店制地方銀行①

その支店数②※ (573)

支店な し地方銀行③

地方銀行店舗機関数総計   ① 十② +③ 1,018

銀行業 における『過剰』 と競争 (1)

(注 )※ 両替所、代理店等 は除 く

出万 斤:Untersuchung des Bankwesens,1933  Ⅱ Teil,Statistiken,Berlin,1934,S.9‑10.

表 ‑5  支店制地方銀行の縮少 (行 数・ 業務規模 )

1913生 F 1928年 1931生 F

支店制地方株式銀行 100布 子 70↑ 子 47行

バ ランスシー ト総額 6,273.2 2,272.8 1,051.0

備考 :抵 当銀行部門を兼営する 3行 を除 く。

単位 :百万 MORM

出所 :Untersuchultt des Bankwesen,S.120

(1929年 )に 減少 した。 しか し大銀行 への吸収合併 を免れ独立性 を保持 した支店制銀行 3行 は、逆 に この間 において も店舗数 を急増 させていることが注 目され る。具体的 には以下 の大 きな地方株式 銀行、具体 的 には ADCA(AllgemeineDeutscheCreditAnstalt),バ ル マニ銀行連合、 バ イエル ン 抵 当・ 両替銀行でで あ るが、 この 3行 あわせ て、 1913年 にはほぼ 100店 以上 、 23年 390店 以上、

29年 290店 以上 の支店営業所網 を有 してお り、 1913年 以後、 190店 を増加 させているのである。

【 表 ‑5】 は、支店制地方銀行がそのバ ランスシー ト総額をいかに縮小 させ ることとなったかを 示 した ものである。 もちろん、その内部でさまざまな変化を含んでいるのであるが、 こうした地方 の支店制銀行の縮小 は、戦後 ドイツの銀行業構造変化 にとってヽ きわめて重要な特徴をなす もので あった。 このような縮小を説明するものは、基本的にはすべての銀行を襲 った全般的な資本減少の 結果であるとともに、それにとどまらず、銀行集中過程においてそれまでに工業 との広範囲の取引 と支店網を擁 して活動 した有力地方銀行が大銀行 に吸収合併 され、その業務実態が、 したが ってバ ランスシー トの規模 ,内 容および支店網がそのままベル リン大銀行のもとに吸収 されたことであっ た (1め

【 注 13】 支店制地方銀行 について、Der Bmkkredit,S.11‑13,Untersuchung des Bankwesens,S。 120‑122

(17)

③支店なき地方株式銀行

支店網なき地方株式銀行 は、地域的な個人銀行・ 商会 と性格的には接近 している。 このグループ に属す る銀行の中では ドイツ証券・ 両替銀行 (Deutsche Effekten― und Wechsel― Bankは じめに 2, 3の 重要な役割を果た してきたものが含まれているが、全体的には大銀行 にとっての集中対象 としての重要性の点では支店網を持つ地方銀行 とはかなり異 なるものであった。 1913‑28年 の 15 年間の うちで 1913年 に 193行 存在 していた支店を持 たない地方銀行 のうち大銀行 に収容 されたの は 24機 関であったが、新たな新設が 39機 関あって、結局 28年 段階では 208行 が活動 していたこ とになる。その後 29年 に 50数 行が消滅 し、バ ランスシー ト総額 も減少を示 している。 ここでは支 店を持たない地銀を巡 る競争条件や、存立を巡 る条件が極めて厳 しいものがあったことを示 してお

り、資金量を大 きく減少 させた。

④個人銀行・ 商会 Privatbankier

個人銀行業・ 商会 についてはその業態の性格か らして、実態の数量的把握 は業務内容が公開され ていないこともあって極めて困難であるが、銀行業の構造変化の中で決定的な変化を経験すること となった。 したが って ここで個人銀行業・ 商会を巡 る状況について述べてお くこととしよう。

個人銀行業の業態 は個別的に大 きく異なってお り、取引所業務や証券業務を中心 とするもの、地 方株式銀行 と類似の業務を行 っているもの、外国為替業務を中心 とす るもの、大企業や外国 との伝 統的な業務 (公 債取引等 )に 従事す る巨大個人銀行等 とあるが、それぞれ特定分野 において きわめ て高い専門性 と豊富な経験、古 くか らの顧客 との取引関係を形成 し、 ドイツの金融構造において独 特な役割を果た してきた。

第 1次 大戦時中、戦時金融に傾斜 した大銀行が取引所業務か ら後退 したため、個人銀行・ 商会の 取引所業務 における地位 は上昇 したが、証券業務 はそもそも伝統的に個人銀行・ 商会の業務の中心 を占めるものであった。安定化後、信用業務に重点をおいた個人銀行・ 商会 は、経営上厳 しい状況 に立たされ、 その独立性を維持す ることが困難 になった。証券業務を中心 とす るものは、 26,27 年の取引所景気の中で良好な結果を収 めることがで きたが、 27年 半 ばに始 まる取引所業務の縮小 を契機 として後退が決定的 となり、営業基盤の空洞化が進み、結局 28年 末 には破産、整理が相次 ぎ、個人銀行・ 商会のいわゆる「信認恐慌 Vertrauenskrise」 を惹 き起 こす こととなった。

個人銀行・ 商会の中で も地方 において活動 した一定のグループは地方の商工業企業への信用供給 において重要な役割を果た した。 また他の部分 は主 として証券業務を中心に、不動産の仲介や外国 との取引の通知などの分野で活動 した。 このような中小の個人銀行・ 商会 は、業務内容、顧客層の 構成 において信用協同組合 と類似 してお り、地域的に競争関係にあることが多か った。

こうしたグループとは本質的に異なる比較的少数の巨大な個人銀行・ 商会について、特別な考慮が

‑16‑

(18)

銀行業における『過剰』と競争 (1)

払われるべきである。すでに戦前 までに国際的にその存在は周知のところであって、古 くか ら、対外 的に強固な取引関係を築いてきた国際的な銀行間結合に基づいて、その地位を確立 したのであったが、

インフレ期の困難をも乗 り越えて、その地位を確保 し続 けている。 とりわけ、安定化後の外国信用の 取 り寄せや短期銀行信用の媒介、外債発行業務、外国における株式の売却などを通 じて、大回の商工 業の顧客 との取引を展開 したか らである。とくに重要 な ものは、アーノル ド商会 (Hauser Gebr.

Arnnold,Dresden=Berlin),サ イモン・ ヒルシュラント (Simon Hirschland,Essen),レ ヴィ (A.

Levy,Kbln),メ ンデルスゾーン (Mendelssohn&Co.Berlin),ウ オーバーグ (Mo Mo Warburg

&Co.)が とくに際立 っていた。 これらは銀行業務の中でも、あるものは産業的交互計算業務 と融資 業務 に、 またあるものは国際信用・ 発行業務に重点をおいた。共通 した特徴 は比較的少数の大 回の 顧客 との取引に重点をおいた顧客構成をとっていたことであって、 この点は支店制大銀行 との顕著な 相違をなしていた。 このように、個人銀行の中ではその性格・ 内容においてかなり大 きな相違があっ て、他の金融業態 との競争関係 も異なっていた゛の。

【 公営銀行・ 公法上の銀行 グループ】

ドイツの銀行制度の構造における第二のグループとして、公営・ 公法上の銀行を取 り上 げる。公 営銀行、 あるいはまた公法上の銀行が、 ドイツの金融構造において果た して きた役割はきわめて大 きいものがあった。 しか しその種類や機能・ 役割 はきわめて広範かつ多様であり、 しか も時代や時 期によって新 たな性格・ 形態の機関が登場 して きてお り、それ らを包括す る一義的な規定を与える ことが極めて困難である。 しか しその役割を理解することな しには ドイツの金融 システムの全体構 造を把握することはできない。そのため、 ここではその機能・ 役割に注 目し、広 く公的な目的のた めの金融業務を行 う金融機関をさす、 ものとして理解する。 こうした公営・ 公法上の金融機関が、

広範な分野で多様な形態で成立 し、独 自の役割を果たすようになったことが 1920,30年 代 の顕著 な特徴をなすのである。一般的に、後発資本主義国においては経済的社会的課題 と関連 して、特定 の目的のために、特定領域において活動する公的性格の金融機関が設立 され、それが金融構造 にお いて比較的大 きなシェアを占め、重要な役割を果たす ということが特徴であって、その意味で公的 性格の金融機関の分析 は重要 となる。 とりわけ 1920年 代の ドイツにおいて、極 めて多種多様 な公 的金融機関が設立 されその活動を展開 していったことの背景 は、全般的にはこの段階の ドイツの社 会的・ 経済的危機の先鋭化のもとで、金融的手段を通 じた問題解決や緊張緩和策が不可避 とされる

こととなったことか ら理解 されるであろうが、 この点 については、 さらに詳細 に立ち入 って考察す ることが必要であろう。 この点 については別稿で取 り上げる予定である。そこで ここでは全体的な 観点か ら、 ドイツにおいて成立 した公営銀行の概観を行 っておきたい。公営銀行の主要なタイプと

【 注 14】 unterSuchung des Bankwesens S.122‑123,Der Bankkredit,S.14‑17

(19)

して は以下 の ものが あ った。

① シュターツバ ンク (王 立・ 州・ 邦立銀行 )・ ランデスバ ンク (地 方公営銀行 )。 ドイツにおいて、

株式組織の民間金融機関が形成 されるはるか以前か ら、公的・ 公営銀行 として シュタ =ッ バ ンクが 活動を開始 した。 18世 紀後半、領邦政府の重商主義な経済政策 にもとづいて、 その財政的必要か ら設立 されたものであるが、その後、各地の州・ 地方政府・ 地方団体の公金管理をはじめ、公債発 行などによる財政資金調達や貸付業務、資金運用をお こなった。

なかで もプロイセンシュターッバ ンクは最大の存在であって、豊富な資金を擁 し金融市場におけ る有力な構成 メンバ‐であった。安定化後、 シュターツバ ンクの流動性の増大が進み、公共・ 公的 機関に対す る信用供与を拡大 したほかに、 ロンバー ド業務や手形割引業務 (銀 行裏書商品手形 )な ど 広範囲の貨幣市場業務を展開 した。 D。

他方、 ランデスバ ンクの源 は 19世 紀中葉 にさかのぼる。西部農村地域の各地の県 PrOvinzの 出 資により設立 された。当初、不動産抵当信用業務 に重点がおかれたが、その後、 自治体の公金管理 や資金調達、振替業務、 自治体 はじめ公共機関や協同組合への貸付や、一般銀行 (ユ ニバーサルバ ンク )業 務 にも進出するようになった。第 1次 大戦後 はとりわけ自治体、公共的機関に対する短期 信用業務の分野を拡張 したほか、中産者への信用 (Mittelstandこ kredit)供 与 も引 き受 けた。 また 不動産信用 と自治体信用 あるいは住民への住宅金融 も展開 した。 ランデスバ ンクはまた貯蓄銀行 間の現金調整や振替決済取引について も、協力 した。 したが って公営の貯蓄銀行 はこれ らの組織 と ジロツエ ントラー レなどと協力 しなが ら振替取引を拡張 し、 さらには短期銀行・ 信用業務の拡張を も進めたことになる。 このように公営銀行が果た した役割はかなり広範囲にわたってお り、 しか も 公的機関の金融取引や支払・ 振替取引だけでな く、 自治体の地域開発政策や中小業者への政策金融 にもかかわってお り、 この段階の地域 自治体を取 り巻 く状況の中で、その果たした役割 はきわめて 重要なものであった

̀16D。

②貯蓄銀行 とジロツエ ントラー レ

貯蓄銀行などのグループについては、すでに銀行業のユニバーサル化に関連 して説明 したところ であり、別稿で も詳 しく論 じたところであるので、重複を避 けて以下の点を指摘 しておこう。貯蓄 銀行の能動業務 とくに短期信用業務の拡張を支える基盤 は受動業務 における預金であるが、その性 格の変化が、貯蓄銀行の業務展開に大 きな作用・ 影響をもた らした。つ。

【 注 15】 Der Bmkkredit,p■ 8

【 注 16】 ランデスバ ンクについては ドイツの金融機関の中で も理解が もっとも難 しいものとされる。。 これはそ の展開 した業務分野の広範 さと金融市場 に占めるその位置の独 自性によるものである。島本融、楠見一 正、 ドイッ金融組織、395‑416頁

― ‑18‑―

(20)

銀行業における『過剰』と競争 (0

貯蓄銀行の預金の性格変化を もた らしたのは以下の事情か らである。まず、世紀転換期以来の、

預金最高額制限の廃止によって、大口預金の流入が進みそのウェイ トの増大が進行 したことである。

また、公金の季節的変動を調整する役割を果た したことである。 さらに、貯蓄銀行による振替取引 への本格進出に伴 うて、振替・ 交互計算預金の流入拡大が進んだことや、 とくにインフレ期か ら安 定化 にかけて、長期・ 貯蓄預金の減少が急速に進行 したことである :こ うした預金・ 受動業務の側 に現れた変化が、貯蓄銀行の能動業務、貸出政策を根本的に変化 させたのであった。無現金支払取 引が拡大 し、貯蓄銀行 グループによるサービスの拡張 は、短期貸出業務 と対人信用分野への進出を 加速 した。振替取引顧客は同 じ金融機関で信用供与を受 けることを望んだことか ら、交互計算取引 と支払取引の結合 によって、貯蓄銀行 グル‐プの短期信用業務の急速な拡大が進む こととなった。

とりわけ安定化後の貯蓄銀行の短期信用業務の分野への拡張 は注 目すべき動 きであったが、民間銀 行分野 との激 しい競争が これによって惹起 されることとなった。 このような貯蓄銀行組織の拡張を 基盤 として、 さらにその上部機構が新設 され、 このグループの拡張を促進 させたのであった。それ

は以下の ものである。

a)自 治体銀行

市および郡 によって設立 され、貯蓄銀行の機能を補完す る役割を果たす ものとして設立 された。

自治体 の領域 の商工業者 に対す る信用供与、 いわゆる中産信用 Mittelstandskreditの 供与 に重点 がおかれた。、ランデスバ ンク、 また貯蓄銀行銀行 において も同様であったが、通貨安定後の中小企 業や商工業 自営業者 などにとりわけ深刻な金融難 (信 用危機 )が 襲 った ために、、 自治体等 による 中小金融の機関の設立が強 く求 め られた こと、公営銀行の設立 と銀行業務への進出の大 きな要因の ひとつが これであった (営 業資金 は大部分が預金の受入れに依存 )。 1916年 以降の設立が多いが、

通貨安定後の貯蓄銀行の拡大 とともにその重要性が減少す ることとならた。 (1923年 110行 1930 年 38行 に激減 )

b)ジ ロツエントラー レ

貯蓄銀行の振替取引の地域的拡張に伴いその決済清算の上部機関として設立されたものがこれである。

設立に当たっては貯蓄銀行 とともに各地の振替連合 (Giroverband,町 村が自治体債券発行のために 連合 して設立 した組織 )が 協働 した。 ところで貯蓄銀行の上部機関 としてのジロツエントラーレは、あ らゆる正則的銀行業務を営み、 自治体貸付、 自治体債券の発行などにおいて協働 した。貯蓄銀行の営 業政策・ 内容、経済的必要性などの多様性、それを統一する上でジロツエントラーレの機構は大きな役 割を果たした。その任務・ 役割は具体的には、 1)参 加・ 構成貯蓄銀行の振替取引のための中央機関

【 温

7】

ドィッにおける公営銀行の生成 について、およびその後の展開過程や信用制度のなかでの比重の増大 と

一般銀行業務への進出の過程についてはすでに詳 しく取 り上 げているので、 ここでは繰 り返 さない。拙

稿を参照 されたい。拙稿「 ドイツ型金融 システムにおけるユニバーサルバ ンク化をめ ぐって )、 『 経済学

研究』 (北 海道大学 )53巻 3号 (2003年 12月 、55‑58ペ ー ジ。

参照

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