論 説
近世 ヨーロ ッパの人口動態
(1500〜
180o年)
高 木 正 道
I
人 口動 態 の 旧体 制一般 にある国ない し社会の「人口様式」(Bevёlkerungsweise)は 、歴史的にみると、高出生率・
高死亡率 (多産多死)の第一局面か ら、高出生率・低死亡率 (多産少死)の第二局面 を経 て、低 出生率・低死亡率 (少産少死)の第三局面に移行する。「人 回転換」(demographic transition) と呼 ばれるこの歴史的過程 をヨーロッパ について粗描すれば、次の ようになる。すなわち、人口 転換以前の時代 においては出生率 と死亡率は ともに高い水準 (約30‰)にあったが、18世紀 の後 半以降 まず死亡率が下が りは じめ、その結果 としてかな り急激な人口増加
(「
人 口爆 発」 と呼ぶ 学者 もいる)が生 じた。 しか し19世紀後半 になって産児制限が普及 しは じめる と、出生率が低下 し、少産少死 (出生率・死亡率 ともに15‰前後)の人口様式 に移行 した。大抵の ヨーロ ッパ諸 国 では、この移行が完結するまでにほぼ200年を要 した (図 1を 参照)。
本稿が問題 にす る近世 (Frthe Neuzeit)は 人回転換が起 こる以前 の時代 であ るか ら、その人 口様式は多産多死 によって特徴づけられた。当時の ヨーロッパはまだ人口が全体 としてきわめて 少な く、都市や村落の規模 も非常 に小 さかった。人口はほとんど増加 しなかった し、増加 した と して もほんのわずかであった。だがその原因は、低い出生率にではなく高い死亡率にあった。フェ ルナ ン・ブローデルが言 うように、ヨーロッパ社会は1740年頃にや っと人口動態の旧体制か ら脱 却 しは じめるのであるが、この人口動態の旧体制 を構成 していたのは「生 と死 との対等、非常 に 高い幼児死亡率、飢饉、慢性栄養不良、強烈 な流行病」であった (ブローデル『物質文明・経済・
資本主義』I‑1、 108ページ
)。
長期的 な観点か ら見て、旧体制下の人口動態 を特徴づけていたのは、「一 に近い世代 の再生産
率」 をもつ「脆い均衡」であった。そ こでは、「幸福 な数年間 と苛酷 な数年 間 との継起 に もかか わ らず 、地域的・局地的 。社会的偏差 を貫いて、全体 として一種の内的均衡 とい うべ きものが実 現 されていた」が、世代の再生産率の決定 に与 った諸要因の一つが変化すれば、それによつて こ の率 は どちらか一方の方向へ決定的に傾 きかねなかったので、その均衡はまことに脆い ものであっ た。人口動態の旧体制のもう一つの特徴は、「人口現象の年ごとの推移が本質的に不規則である こと、つまり、出生数、死亡数、そ して婚姻数さえもが、年を逐って、しばしば大 きな偏差 を示 す ということ」であった。この現象は「あまりにも持続的かつ執拗に、どの小教区において も、
どの地方においても、どの時期において も現われるので」、それは旧体制における人口動態構造 そのものの本質的特徴 とみなすことがで きる (グベール F歴史人口学序説』34〜36ページ
)。
当時の平均寿命 (出生児の平均余命)は、今 日と比較 してかな り短かった。グベールは先 に引 用 した箇所で、1661年頃のフランスにおける平均寿命を25歳以下 と述べているが、16世紀末のヘッ セ ン北部のシュヴアルム (Schwalm)で は平均寿命 はお よそ25歳 と30歳のあいだにあ った (Borscheid,Gescん
jcλ
ιθ&s AJι ars,S.26)。「1690年代の平均寿命は、イギ リスでは32年、 ドイツのブレスラウでは27.5年であった」(ギリス『 〈若者〉の社会史』18ページ
)。
エ ングルジング によれば、18世紀末のブレスラウにおける平均寿命は33歳から34歳であった (Engelsing,SοzttJ―
πご
7jrι scλ artSgθ scん ,cん
ιο Dο ιscλ ttπ
法,S.101)。 ドイツとオース トリアにおいては、19世紀 の半ば過 ぎになってもこうした状況は基本的にあまり変わっていなかった (表1)。
近世 に生 きた人々に とうて60歳をこえることがで きれば、まさに御の字 といえた。60歳をこえ て生 きている者は当時の村や町で きわめて 稀 な存在であつた。ちなみに、宗教改革 と宗教戦争 の 時代 にハ プスブルク家か ら出た皇帝たちの多 くも、実 に興味深いことに、60歳ない しはその前後 でみ まかっている。マ クシ ミリアン1世 (1519年没)は60歳、力‐ル5世 (1558年没)は58歳、 彼の弟 フェルデ ィナ ン ト1世 (1564年没)は61歳、マ クシ ミリア ン2世 (1576年没)は49歳、リレー ドルフ2世 (1612年没)は60歳、マテ イアス (1619年没)は62歳、フェルデ ィナ ン ト2世 (1637 年没)は59歳、フェルデ ィナ ン ト3世 (1657年没)は49歳であ った (Borscheidi Cescん
jcん
ιθルs AJι
θrs,S.24)。ところで、フリー ドリヒ・エ ングルスは、産業革命期のイギ リスにおいて平均寿命が階級 ない し階層 によつてかな り異なっている事実 に注 目している。「 リヴアプールで は1840年に、`
上流 階 級 (ジェン トリ、専門職等)の平均寿命 は35歳、商人 と富裕 な手工業者の平均寿命は22歳、労働 者、日雇い労務者、奉公人階級の平均寿命 はなん とわずか15歳であつた」(エングルス 『イギ リ スにおける労働者階級の状態』(上)岩波文庫 、210ページ
)。
しか し、 この ような「死 の まえの―‑148‑―
社会的不平等」(in6galit6 sociale devant la mort)は 、決 して産業革命 と と もに始 まったわけ ではな く、すでにそれ以前の近世 に も存在 していた。この問題 に関 しては、17世紀の ジュ ネー ヴ について詳 しい研究が なされている。それによれば、上層 (大中のブルジ ョワジーや上級公務員
)
の場合、60歳に達 した者が1000人中305人いた。これにたい して中層 (小市民 、手工業者 、熟練 労働者)においては171人、下層 (不熟練労働者や下働 きの労働者)ではたった106人にす ぎなかっ た。この相違はある程度 まで、階層 によって異 なる乳児死亡率 に起因 していた。実際、1000人の 乳児の うち、満1歳の誕生 日を迎 えることがで きた者 は、上層では792人、中層では697人 、下層 では642人だった。だが、それだけではなかった。死の危険は、どの年齢 を とってみて も上層 よ りも下層 において大 きく、50歳の平均余命は後者のほうが前者 よ りも5歳、60歳 のそれ は2.3歳 短か った (Borscheid,Gθ
scん jcλ
ιθ,ル
sスJι
οrs,S.26,246f;図2)。
平均寿命が この ように短かった原因は、乳幼児 と子供の高い死亡率 にあ る (表 2)。 17世紀 後 半の6年間にフイレンッェのある教 区で死んだ1000人の教 区民 を年齢別のグループに分 けてみ る と、710人が乳幼児 と10歳以下の子供であ り、その半数以上 (367人)が1歳未満の乳児 であ った
(7%θ
Fοんιαπα EcOποπjc″jsι
οッ 0/EEtr"θ,Bd.2,S.69)。 カルロ・チポラによれば、正確 で 包括的なデータを集めることがで きる場合、われわれは次の ような結果 を得 る。すなわち、工業 化以前の ヨーロッパでは、生 まれた子供1000人の うち、150から300人が1歳未満で死亡 し、 もう 100から200人が10歳に達す るまえに亡 くなった (Cipolla,3a/o″ ιんθれ仇sι
rttJ RουοJじ
ιjο
れ,S.156)。
グベール も、「恵 まれたオヌーユ において さえ、新生児の四分 の一以上 は1歳未満 で死亡したのであ り、彼 らの半分 よりやや多 くの者は20歳の誕生 日を迎 えることがで きなかったのであ る」(グベール『歴 史人口学序説』26ページ
)、
と述べている。図3は、A.E.イムホーフが、ベル リンの ドロテー ンシュタッ ト教区における1715〜1875年の すべての死亡例39251件をコンピュー タ・ グラフイックで描いた ものであ る。横軸 は年 で、左 か ら右 に向かって1715年か ら1875年まで を表 し、縦軸 は死亡年齢で、手前 に向かって0歳か ら90歳 まで を示 している。そ して、この教 区での死亡例 ひとつひ とつがその死亡年 と死亡年齢にしたがっ て小 さな箱 として描かれている。同 じ年 に同 じ年齢で多 くの人が死ねば、た くさんの箱が積 み重 なって柱 になる。毎年同 じ年齢で多数の人が死ねば、柱が横 に連 なって壁がで きる。生 まれて間 もない年齢層の ところに巨大 な「死の壁」が響 え立 っているが、この壁 をつ くっている死者 の う ち、31.1%(12193件)が1歳未満の乳児であ り、かれ らを含 む50.6%(19857件 )が8歳まで に 命 を落 とした子供たちであった。ちなみ に、その死因の第一位 は天然痘であった。ベル リンで は 種痘が1801年に導入 され、それによって天然痘 による乳幼児の死亡は劇的に減少す るが、今度 は
天然痘 に代 わって「胃腸系」の病気 (便秘 、下痢 、胃痙攣 、下腹部炎症 など)が幼い子供 た ちの 命 を奪い続 けた (Imhof,Djθ υοrJO″πθ屁 ″θ
Jι
θん,S.203f)。フラン ドランによれば、「1000人の うち200人か ら300人の子供 が1歳にな る前 に死亡 し、20歳 まで生 き残 るのは しば しば半分以下であつた」
(フ
ラン ドラン『フランスの家族』78ページ)。
ピ エール・ グベール も、ルイ14世時代 のフランスの人口動態 を次の よ うに描 い てい る。「1969年の 平均寿命 は70歳を少 しこえている。1661年のそれはおそ らく25歳以下であつた。この冷酷 な数字 が示 しているように、当時は、ち ようど墓地が村の中心 にあつた ように、死 は生活の中心 に位 置 していた。新生児100人の うち、25人は満1歳になるまえに死亡 し、 もう25人は20歳に達せず に 亡 くな り、さらに もう25人は20歳と45歳のあいだで死 んだ。60歳代 にまで生 きたのは10人ほ どに す ぎなかつた。80歳まで生 きぬいた人は、少な くとも100歳に見 させ る伝 説 の雰 囲気 に包 まれて お り、自然の感情か ら王者たち (champiOns)に 与 え られる迷信的 な畏敬の念 を もって眺 め られ た。かれの息子や娘、甥や姪は とつ くの昔 に死 んでいた。孫たちのゆ うに半分 は亡 くなったあ と も生 き続 け、 この故老 は村全体 の賢者 となつた。かれの死 は地域 全 体 の大 事 件 で あ っ た」(Goubert,Lο じ,s Xry ご ■″厖り ν
jJJjο
πFrθ ttcλ
θπ,S.21)。 確 か に昔 も長生 きす る者 は き わめて少数ではあるがいて、まさにそれゆえに特別の存在 とみなされたのである。 しか し大数法 則 としては、生 まれた者のほぼ半数が20歳以前 に亡 くな り、60歳をこえる者はせいぜい数パ ーセン トにす ぎなかった。
こうした当時の死亡パ ター ンを今 日のそれ と比較 してみる と、図4のようになる。現代の ドイ ツでは、乳幼児の死亡 は きわめて稀 にな り、死が多数の人々を襲 うようになるのは60歳を過 ぎて か らである。これにたい して、17世紀後半か ら18世紀 の ヴュル テ ンベ ル クの ニ ュルテ イ ング ン (Ntrtingen)においては、この世 に生 まれて きた者の約35%が 1歳未満で死 に、約55%が 5歳未 満でな くなった。そ して死 は、統計的にみる と、人々のそれ以後の人生全体 にほぼ平均 して ば ら まかれていた。これに関連 して夫婦の死 について触れてお くと、「結婚初期 の数年 間 には、婚姻 関係の断絶 は、とりわけ新妻の死亡 によつて、すなわち結婚当初の2年間 ………に非常 に頻 繁 に 見 られた彼女 たちの出産時の死亡 によつて、 もた らされた。結婚後10年目か ら24年目にかけては、
婚姻 関係の断絶はむ しろ夫の死亡 によつて もた らされる」(グベール『歴 史人 口学序説』22ペー ジ
)。
以上の ような死亡パ ター ンに対応 して、近世 ヨーロッパ社会の年齢 別 人 口構 造 は、いわゆ るピラミッ ド型 と呼ばれる形 を示 している。それは、(1)人口全体 に占め る15歳未満 の年齢 集 団の比率が高いこと、お よび (2)人口全体 に占める60歳ない し65歳以上の年齢集団の比率 が低 い ことによつて特徴づけ られる (図3、
表3)。一‑150‑―
人回転換以前の ヨーロッパは現代 に比べて確 かに多産な社会であった。だがそれは、決 して当 時の大多数の人々が若 くして結婚 したことを意味す るわけではない。同時代の他の諸社会 ない し 諸文化 と比較 してみると、旧 ヨーロッパ社会の結婚パ ターンを特徴づけていたのは、(1)相対 的に高い独 身者の比率 と(2)相対的 に高い結婚年齢であった。独身者の比率 は少な くとも5%、
多 くの ところではは20%から25%に達 した (Gottlieb,abo λ れ
j″ jπ
ιλθ Z ιθ ″οr″,S。
50)。
これ らの独 身者の中核 を成 したのは、ピーター 。ラス レッ トのい う「 ライフサ イクル奉公人」
(life―
cycle servant)で ある。お よそ12〜30歳の年齢 にあ る これ らの男女 は、結婚 に必要 な資金 を貯めるために、かれ らの青年期 を奉公人 (Gesinde)と して通常は他人の世帯で暮 ら した。
かれ らの うちの大多数が最終的には結婚 したが、この時代 には常 にかな りの数の独身の奉公人が、
農村 では下男 (Knecht)や下女 (Magd)と して、都市では徒弟 (Lehrling)や 職人
(Geselle)、
あるいはさまざまな種類の女中 として、種 々の分野で働いていた。都市には農村 よりもはるか に 多 くの女性の独身者がお り、彼女たちのなかには結婚す ることな く生涯 を終える者 も少なか らず いた。
旧 ヨーロッパ社会 においては、貴族の娘 は別 として、庶民の男女のあいだではむ しろ晩婚が普 通であ り、特 に女性 の高い結婚年齢 は人口動態の旧体制下における「受胎調節のための真の武器」
(Chaunu,Eじr"ajscんθκじ
Jι
rjれ &jιαJι
θrルs Bαrο cλ
,266)であ った。16世紀 末か ら18世紀 末 までのイギ リスの教区を対象 としたサ ンプル調査 によると、20〜24歳の年齢集団に占める既婚 者の割合 は、男で16%、 女で18%にす ぎなかった。25〜29歳の年齢集団についてみると、対応す る数値 はそれぞれ45%と50%であった。また17・
18世紀のオース トリアでは、20〜24歳 の年齢 集 団に占める既婚者の比率は、男の場合 は10%以下の地域が大部分で、女の場合 は少数の例外 を除 いてほ とん どの地域で20%を下回っていた。17・
18世紀のイギ リスにおける平均初婚年齢 につ い ては、男26〜28歳強、女24〜27歳弱 とい う数値が示 されている。同様 に18世紀 の ドイツにお け る 男の平均初婚年齢 は約28歳、女のそれ は25歳ない し26歳であった (表4)。出産 に関 しては、階層 によってかな りの相違が見 られ、上層では農民や手工業者 よりも出産間 隔が短かかった。上層の人々のあいだでは、子供 を育てるのに乳母 を雇 うのが普通で、母親がみ ずか ら母乳 を与 えることを しなかったためて出産間隔が短 くなったのである。だか ら、支配層 の 家族の情景 (例えば、た くさんの子供たちに囲 まれたマ リア・テ レージア)を描 いた絵画か ら、
当時の一般庶民の家族生活 を類推するのは、まった くの誤 りである。農村住民 と都市の中層 ・下 層の人々の場合、子供が毎年 ひとりずつ増 える とい うことはまずあ りえなかった。母乳 を与 えて いる期間、流産や死産、宗教的戒律 による定期的 な性 的禁欲 、 ときには長期 にわたる夫の不在
一―これ らはすべて、出産間隔を広 げる要因 としてはた らいた。
庶民の出産力 についてグベールは、ボーヴ土地方の教 区記録簿の綿密 な調査か ら得 られた結 果 に基づいて次の ように述べている。「人口動態上のア ンシャン・ レジーム に属 す る女性 はみ んな 毎年 出産 した とい うことが、 しば しば通例 として認め られて きたのであるが 、これは並 はず れ た 出産力 に関す るい くつかの断片的な言及 に基づいた単 なる伝説 にす ぎない。近代以前 のわが ボ‐
ヴェ地方 において (近代以前のわが フランスにおいて、と言 える日も近 い だろ う
)、
妻 た ちは2
年 に一度 しか子供 を生 まなかつた し、30カ 月 に一 度 とい うの も多 か ったのであ る」(グベ ール
『歴史人口学序説』18ページ
)。
そ して既述のような比較的高い結婚年齢に条件づけられて、た と え生殖能力を最後まで発揮できたとしても、一人の主婦が生んだ子供の数は、平均値で も最頻値 で も、多 くて8人というのが実状であった。しか し実際には、妻の受胎可能期間が終わる以前に、夫婦の一方の死によつて多数の結婚生活が終上 したため、出生の実数はさらに小 さくなり、一家 族あた り平均出生人数5という値が現実の状態に合致するという (グベール『歴史人口学序説』
19‑20ページ
)。
ところで、人口の流 出入が まった くない とすれば、ある地域の人口数の変動は出生 と死亡によつ て決定 される。当時、出生率は大体 において35‰と45‰とのあいだにあつた。25‰と35‰のあい だの比率であることも珍 しくはなかつた。出生率 は一般 に農村 のほ うが都市 よりも高かった。 と いうのは、人口全体に占める若い夫婦の比率が都市 よりも農村において大 きかったからである
(1吻
ο Fοttι
″2α
EcOれοttjc″ぉιοり,Bd.2,S.66)。もう一方の死亡率であるが、これは出生率に比べてその変動幅が非常に大 きかつた。それゆえ われわれは、チポラにならって、死亡率を「通常の死亡率」(nOrmal mOrtality)と 「壊滅的な 死亡率」(catastrOphic mortality)を 便宜上区別 して考 えるのが よい (Cipolla,3a/0″ ιんθ れ仇strttJ Rθυο
J
ιjο
屁,S.5)。「通常の死亡率」は特別なことがなに も起 こらない平常時の死亡 率を意味 し、「壊滅的な死亡率」は激 しい人口減少をもたらす大惨事が発生 した ときの破局的な 死亡率を意味する。通常の死亡率は農村 と都市では若干の相違が見 られ、農村では25‰と35‰ と のあいだに、都市では30‰と40‰のあいだにあつた。したがつて、大惨事が起こらない時期には、農村人口はわずかではあるが増加 した。だがこのわずかな増加分は、ほとんどすべて都市への移 住や植民によつて吸収 されて しまい、それ以上の人口増加につながることは稀であつた。
―‑152‑―
Ⅱ 戦争 、飢饉 、疫病
大惨事が起 きたときには死亡率は異常な高さに達 し、通常の5倍、10倍、ときには15倍に もの ぼつた。そ して、異常な「大量死亡が襲わないままに10年が過 ぎることはめったになかった」
(グベール『歴史人口学序説』38ページ
)。
戦争、飢饉、疫病が、そのような「壊滅的な死亡率」を生 じさせる三大災禍であった。だから、当時の人々が くりかえし唱えた祈 りは、「主 よ、われ らを戦争 と飢饉 と疫病から守 り給え」(a bello,fame,et peste libёra ttOs Domine)で あった (Kamen,Eじr"θtt SOcjθり,S.33)。 特に戦争は諸悪の根源であった。なぜなら、戦争はいわば 不可避的に他の二つの悪を伴ったからである。すなわち、戦乱による破壊 と荒廃はしばしば飢饉 の元凶になった し、不衛生な軍隊は動 きまわるごとに疫病をまき散 らしたからである。そして飢 饉は、間接的に疫病の流行を助長することによって、死者の数をさらに増や した。というのは、
飢饉のときには、貧 しい人々は、栄養失調のために病気に感染 しやすいと同時に抵抗力も弱くなっ てお り、しかもそのような折 りに、飢餓 と空腹に堪えかねて、普段は摂取 したこともないような ものを食べた り飲んだ りして病気になり、命を落とすことがよくあったからである。現実の死者 の数という点からいえば、直接の戦闘による犠牲者よりも、戦争の間接的結果としての飢饉の発 生 と疫病の蔓延による犠牲者のほうが、一般的にはずっと多かった。
大量の人口減少のあと、人口は概 して驚 くべ き速さで回復 された。これまで研究された多 くの 地域や市町村の人口統計が示す ところによれば、戦闘や包囲攻撃や疫病のあと、最初の収穫がな されて飢饉が和 らぐと、まず著 しい結婚の増加が起こり、一定のタイム・ラグをともならて出生 の増加が続 き、こうして大量死によってつ くりだされたギャツプは埋め合わされた。全体 として 改善された生活環境 と特に人口増加 と食糧供給 との一時的な緊張緩和が、そうした速やかな人口 回復をひき起 こしたのである。またこのような人口の回復は、当該地域の住民の出生率の上昇だ けによって実現 されたのではなかった。まだあまり研究が進んでいない問題ではあるが、人口移 動の効果を考慮する必要がある。戦争による生命の危険がさし迫ったような場合、人々は一旦は どこか余所に逃げるが、生存者たちは再び戻って くる。と同時に、大抵は人口が相対的に過剰に なった地域から移民がやって来て定住するようになる。特に17世紀には、大 きな人口減少の生 じ た地域への移住はときどき重要な意味をもった。例えばバーデンのSingen村では、1650年か ら 1675年のあいだに行われた結婚の半分において、新郎 と新婦の両者またはいずれかが同村以外の 出身者であった。そのなかでも最 も多かったのはスイスからの移住者であった (G″ aり,Bd。 2
S. 239)。
戦争
「19世紀 は、西 ヨーロ ッパ文明に前代未聞の現象 、す なわ ち平和 の100年 (1815〜 1914年)を
生みだ した。クリミヤ戦争 一一 これは多かれ少なかれ植民地での事件 にす ぎない一一 を別にす れ ば、イギ リス、フランス、プロイセ ン、オース トリア、イタリア、ロシア相互間では、わず か18 カ月 しか戦争が起 こらなかつた。これに先立つ二世紀 について対応する数字 をみると、一世紀平 均60ない し70年の大戦争があることがわかる」(ポラニー『大転換』6ページ
)。
1500年か ら1815 年 まで に起 こった主要 な戦争 (内乱・革命な どを含む)を挙 げれば、次の ようになる。1521〜1544年
イタリア戦争
1524〜1525年
ドイツ農民戦争 1546〜1547年
シュマルカルデ ン戦争
1562〜1598年
ユ グノー戦争
(フ
ランスの内乱)
1568〜 1648年
オラ ンダ独立戦争 (八十年戦争
)
1618〜 1648年
三十年戦争 1642〜 1649年
清教徒革命 1648〜 1653年
フロン ドの乱
1652〜 1654年
第一次英蘭戦争
1655〜 1660年
スウェーデ ン・ポーラン ド戦争 1664〜 1667年
第二次英蘭戦争
1667〜 1668年
フラン ドル (遺産帰属)戦争
1672〜 1674年
第三次英蘭戦争 1672〜 1678年
オランダ戦争
1675〜 1679年
スウェーデ ン・ ブランデ ンブルク戦争 1688〜 1697年
アウクスブル ク(プフアルツ)戦争 1690〜 1697年
ウイリアム王戦争
1700〜1721年
北方戦争
1701〜 1714年
スペ イン継承戦争 1733〜 1738年
ポーラン ド継承戦争
1740〜 1748年
オース トリア継承戦争 1740〜 1742年
第一次 シュ レージエ ン戦争 1744〜 1745年
第二次 シュ レージエ ン戦争
―
‑154‑―1756〜1763年
七年 (第三次 シュ レージエ ン)戦争 1776〜1783年
アメリカ独立戦争
1778〜1779年
バ イエル ン継承戦争 1789〜1795年
フランス革命 1799〜1815年
ナポ レオ ン戦争
特 に17世紀 は戦争 に明け暮れた100年であった。「17世紀の100年間、 ヨー ロ ッパ に戦 火 の消 え た年はたったの4年だけであった といわれる」(高澤紀恵『主権国家体制の成立』41ページ
)。
あ るいはまた、「1618年か ら1815年のあいだで、 ドイツ国民の神聖 ローマ帝 国の版 図全域 で平和 が 保たれた期間は70年もなかった」(Gθ
″拗り,Bd。 2.,S.233)と もいわれる。なかで も最大 の規 模で最 も激 しく戦 われたのが三十年戦争である。 とりわけ戦場 となった ドイツは、この戦争によつ て壊滅的な被害 をこうむった。三十年戦争 による人口減少は、一般 に都市では33%、 防備 施 設 の 貧弱 な農村では40%と 見積 もられている。 もちろん人口減少の程度は地域 によって大 きく異 なっ ている。戦争の被害 をまった くあるいは少 ししか受けなかった北西 ドイツの諸地域は、その人口 水準 を維持 したのにたい し、マルク・プランデ ンブルク、ザ クセ ン、バ イエル ンの人口は半減 し た。メクレンブルク、ポ ンメル ン、ヘ ッセ ン、プファルツ、ヴュルテンベルク (表5)にお ける 人口喪失の割合は、三分の二あるいはそれ以上 にのぼった。ベ ーメン (ボヘ ミア)の人 口 も、1618年の170万人か ら1654年の93万人に減少 した。南 ドイツ最大の都市 として1600年には4万5000 人の人口を擁 したアウクスブルクではあるが、1635年のセ ンサスに よれば同市 の人 口 は1万 6000 人にす ぎなかった。南 ドイツの他の都市 と地域 における人口減少 をみると、ニュルンベルク50%、
ミュ ンヘ ン60%、 カウフボイレン (Kaufbeuren)75%と推計 されている。 ドイッに隣接す るフラ ンシュ・ コンテ も、1635〜1644年の戦争 による荒廃のために、その人口の半分から四分の三を失っ た。他方、ハ ンブルク、ブ レーメン、 リューベ クな どの北 ドイツのハ ンザ諸都市は、基本 的 にそ の人口水準 を維持す るか、あるいは増加 させた。例 えばハ ンブルクの人口は、1620年の約4万 5000 ない し5万 4000人か ら1660年の7万 5000人へ と増大 した。 ドイッ全体 としての人口は、二十年戦争 のために1600〜1700万人か ら1000〜1100万人に減少 した。
飢饉
「数世紀間 とい うもの、飢饉 はまことに執拗 に再来 して、人類の生物学的制度に組み込 まれて いたほ どで、その 日常生活の構造の一環 をな していた。物価高 と品薄 とは、 じつにヨーロッパ に おいて さえ一― ここは有利 な地歩 を得た地域であったのに一一 連続的に襲いかかって くる、見慣
れた敵手であった。栄養の よす ぎる金持 ちが何人かいた ところで、通則 にはなん ら変 わるところ が なかった。事態が変わるわけ もなかった。穀物の収穫率は貧弱であった。二年続けて凶作だと、
破局がひ き起 こされたのである」(ブローデル『物質文明 。経済・資本主義』ILl、 81ペー ジ
)。
近世の ヨーロッパ を くりかえ し襲 った凶作 は、凶作 → 飢饉 → 疫病 とい う因果関係 を通 じて 人口危機 をひ き起 こした。この時代の収穫量 は年 によつて大幅 に変動 し、凶作が二年 ない し三年 連続 して起 こった ときには、穀物の供給 は危機的な水準 にまで低下 し、種用の穀物 にす ら事 欠 く ことになつた。当然の ことなが らまず穀物価格が高騰 し、それに他の食料品の価格上昇が続いた。
そ うなると、とりわけ貧 しい人々は必要最低 限の食料す ら買 うことがで きず、飢餓 に瀕す る こ と になった。また一般 に当時の交通 と輸送は、ある地域での余剰 を他の窮乏地域へ時間的に間 に合 うように輸送で きるほ ど機動性 に富 んでいなかった し、実際 にその ようなことを行 うには大変 な コス トがかかつたので、被害 を緩和する現実的な手段 た りえなかった。特 に関税障壁 によつてあ る地方が別の地方 と分断 されていた状況下では、二つの隣接す る地域の一方が餓死に直面 してい るのに、他方は十分 な食糧 を供給 されている、といつたようなことが起 こ りえた。
農作物の作柄 は、当時は今 日以上 に気候 と天候 によつて左右 された一― 翻弄 されたといつても、
過言でないだろう。近世はいわゆ る「小氷河期 」(Kleine Eiszeit)と 時期 的 に重 なつて お り、
1550年か ら1850年には寒い冬 と雨の多い夏が多かった。16世紀の前半 は全般的に気候‐
に恵 まれて いた。 ときには暑 い夏があ り、冬はかな り寒 く異常 に乾燥 していたけれ ども、農作物の収穫 には 好 ましい天候が続 いた。だが16世紀半 ば以降t厳寒の冬 と多雨の冷夏が多 くな り、豊作 を もた ら す前提条件が失われた。17世紀初頭 は一時的に比較 的暖 か く乾燥 した夏 に恵 まれ たが 、早 くも 1620年頃には遅い春の到来 と雨が ちの寒い夏 と秋 を特徴 とす る時期が始 まった。1635年頃か ら17 世紀末 までは乾燥 した年が続いた。1685年以降は、今 日まで経験 したうちで も最悪の気候 ―一 冬 も夏 も寒 く、それに加 えて夏 と秋 は雨の多い気候 一一 の時期 となった。それゆえ、ヨーロ ッパ全 域 を襲 つた最 もひ―どい飢饉の一つが まさにこの時期 (1695年)に起 こっているのは、決 して不 思 議ではない。18世紀初頭 は収穫 を増加 させ る比較 的温暖 な天候 に恵 まれたが、1730年頃か ら大 陸 型気候 (寒く乾燥 した冬が終 わる と、涼 しい春 と暖かい多雨の夏がやつて きて、そのあ とには冬 の ような秋が続 く)の時期が始 ま り、それは19世紀初めまで続いた。18世紀 は17世紀 に比べ て良 い天候 に恵 まれてはいたが、それで もやは り異常気象が原因 となって農作物が全滅あるいは減収
し、食糧の供給不足が発生 した (Garれαり,Bd.2,S:8)。
食糧不足 と死亡率 とのつなが りは、1590年代、1661年、1690年代の危機 か ら判断 して、確 か な 証拠 によつて裏づけ られるように思われ る。1594〜 7年はヨーロ ッパ の大 部分 の地域 で大雨 と不
一‑156… …
作の年で、そのために穀物価格 は急騰 した。スペ イン、イタリア、そ して特 に ドイツでは、 この 災害は、ペス トの流行 にようて もた らされた大量死 と時 を同 じくしていた。1659〜62年の危機は、
多 くの国で絶対王政への道 を容易 にす る条件 を生みだ した。フランスの北部 と東部における1661 年の凶作 は、若 きルイ16世が 自分 を情 け深い支配者 として彼の臣民 に印象づ ける機会 をつ くりだ
した。1692〜4年に西 ヨーロッパ は不作 に見舞われた。1693年 11月 には一― ア リカ ンテ市 の報告 によれば一一「14カ月 も雨が降 らなかったために、収穫 はない も同然であった。」 フランスにとっ て1693年は17世紀最悪の年であった。パ リ北東 にあるム ラ ン (Meulan)では 、穀物 の価格 は三 倍 にな り、埋葬 は平年のそれのほぼ二倍半になった。三十年戦争中の1637年にフランシュ・ コ ン テを襲 った飢饉 について、ある同時代人はこう記録 している。「後世の人たちは信 じないだろ う が、人々は庭や畑の草木 を食べて生 きていた。死んだ動物の腐肉を探 し求め さえ した。………そ してついには人肉を食べ るまでにいたった。」 フランスでは1693〜 4年に一― 疫病の発生 と相侯 っ て一一 死者の数は200万人 を超 えた。三年後の1696年には、悲惨 な凶作 が フィ ンラ ン ドを襲 い、
1696〜 7年に同国の人口のおそ らく四分の一 を奪い去 った (Kamen,Eじ
ropθ
απSOctο
り,S.37‑38)。宗教改革か らフランス革命の時代 までに、幾度 とな く飢饉 に襲われた時期があったけれ ども、
最後の大 きな飢饉 による災害の,つは、1770年か ら72年にかけての ことであった。11770年 と1771 年 に大雨のためにベーメンの穀物収穫が大 きな被害 を受けた とき、住民の14%にあたる25万人が 死亡 したといわれる。ザ クセ ンも、ち ょうど同 じ年 に不作 に見舞われた。1767〜 1770年 の年平均 出生数 と年平均死亡数 を、1771〜1773年のそれ らと比較 してみると、1771年と1772年 に は 出生 数 が約6万多 く、1772年と1773年には出生数が3万 6000少なかった ため、結 果 と して人 口が6%純減
したことがわかる (Blum,ηtt ILご 0/ιんθO″ Or&rれ RしれJE rOpe,Si 147)。 そ して この ときの飢饉 をきっかけの一つ として、それ以後 ヨーロッパにジャガイモの栽培が普及 していった といわれている。
だが、凶作が実際 にどの ような被害 をもた らすかは、地域の産業構造のあ り方によって少 なか らぬ違いがみ られた。表6は、17世紀末 フランスのボーヴェ地方の三つの教区における埋葬数 と 結婚数 と妊娠数の変動 を、そ して表7は、この時期 の小麦価格 の動 きを示 した ものである。小麦 価格が高騰 した ときには死亡率が激増 し、結婚数 と妊娠数の双方が激減するとい う一般的傾向が はつきりと認め られる。 しか しなが ら、注 目すべ きことに、これ ら三つの教区における被害の程 度 は同 じではない。ォヌーユは他の二つ よりも軽傷ですんだ。この ような違いが生まれた理由は、
これ らの教 区の経済構造が異なっていたことに求め られる。オヌーユの属する地域は、牧
̀畜
が農 業全体の なかで重要 な位置 を占める混合農業地帯であ り、このことが凶作 による穀物収量減少の被害 を緩和す るのに役立 った。これにたい して、ブル トゥーユが位置す るピカルデ イの高原 は基 本的に穀物単作地帯であ り、凶作の影響 を和 らげるクッシ ョンの役割 を果たす ものが な きに等 し かった。 しか し、この凶作 によつて最 も甚大 な被害 を受けたのは、農村工業で生計 を立ててい る 労働者たちであった。大規模 な地方的毛織物工業が立地 していたム ゥイにおける驚 くべ き死亡率 が、その ことを如実 に物語 つている。穀物価格が高い ときには生産の重心が工業部門か ら農業部 門へ移動 し、そのため毛織物工業で働 く労働者たちは、貨幣 を最 も必要 とす るまさにその と きに 失業 させ られたのである。
疫病
「不作 も一回な らまだよい。二回 となると、物価が狂騰 し、飢饉が御輿 を据 える。 しか も決 し て飢饉 だけではす まない。遅速の差 はあるが、それは疫病の露払いを務め る」(ブロー デル 『物 質文明・経済・資本主義』I‑1、 89ページ
)。
ヨーロッパの全域 を襲 った大規模 な疫病 としては、本稿が扱 う時代以前の出来事ではあるが、
14世紀 におけるペス ト(死体 に見 られる紫斑や膿胞 の黒 さゆえに「黒死病」 とも呼ばれ る)の大 流行がある。1347年、すでにコンス タンチ ノープルをは じめ、キプロス、サ ルデ イエア、 コル シ カ、マ ジ ョリカ等の地中海の主要都市、さらにマルセイユ、ヴェネチア等の港町に上陸 していた 黒死病 は、1348年に入 る と、 1月 にアヴイニ ヨンに伝播 したのを皮切 りに、4月 にはフイレンツェ、
8月にはイングラン ドまで上 陸 し、翌1349年の11月 にはス ウエーデ ンや ポ ー ラ ン ドに広 が り、
1351年にはロシアにまで達 した。ジ ヨヴアンニ 。ボ ッカッチ ヨ(1313〜 75年)は、『デ カメロ ン』
(柏熊生訳)のなかで、フイレンツェヘのペス トの到来 とその病状 について記 したあ と、 同市 と その周辺農村の惨状 を次の ように伝 えている。
そ うして棺 をかついだのは、身分のある市民ではな く、こうした仕事を金をもらってやつ ていた死体運び (ベッキーノ)と呼 ばれていた細民の出である一種の死体運搬埋葬人で ご ざい ま した。で、かれ らは、死者が生前 に手配 しておいた教会な どほうつておいて、大抵 の場合 は一番手近の教会 に、………棺 を運 んでい きました。聖職者たちは先 に述べ た死体 運 びの助 けをか りて、………儀式で骨 を折 るようなことは しないで、ふ さが つていない墓 穴な らなんで も構 わず見つか り次第、死体 をそのなかに埋 め ました。………
………あ らゆる教会 に、毎 日、ほ とん ど毎時間、すでにお話 しした ような彩 しい数 の死 体が続 々 と運ばれた ものですか ら、これ を埋葬す るには、墓地が十分ではあ りませ んで し
た。………どこもか しこも全部いつぱいで したので、教会の墓地に大 きな溝 をつ くり、そ
―‑158‑一
のなかへ新 たに運ばれる死人が何百 とな くお さめ られ ま した。死人はそのなかに、まるで 船 に貨物 を積み込むように、一段一段 と溝の頂 きに達す るまで積み重ね られ、土 をかぶせ るの もやっとで ござい ました。
………そ こ [田舎]では、散在 している部落や畑地でね、哀れな貧 しい働 き手やかれ ら の家族の者が、医者の面倒 も煩 わ さず、あるいはまた召使いの世話 も受けないで、道端や、
耕作地や、家のなかで、昼夜をわかたず、人間というよりも、まるで畜生のように死んで い きました。そんなわけでかれらは、市民 と同様、その習慣のうえで、放埒に流れ、自分 たちのことや仕事は何一つかまいませんで した。それどころか、皆はまるで死が自分たち のところに訪れる日を待ってで もいるように、家畜や土地や、さては自分たちの過去の労 働などの未来の収穫 をあげるために手をかす どころか、現在手許にあるものを使い果たそ
うとあらゆる知恵をしぼって努力 してお りました。
………3月 と同年7月のあいだに、………きっとフィレンツェの城壁内では10万人以上 の人間が生命を奪われただろうと考えられるほど、天の残虐 と、それから一部には人間の 残虐がひどいものであったという以外に、もっとなんとお話 しすることができるで しょう
か 。
当時の ヨーロッパの総人口8000万人の うち、その約三分の一 にあたる2500万人が 、 この1348〜
51年のペス ト流行の犠牲 となった。だが、ペス トによる悲劇はこれで終わったわけではなかった。
この ときの大流行 をきっかけ として、ペス トはいわば風土病化 して ヨーロッパの地に根を下ろし、
それ以後18世紀 にいたるまで何度 もくりかえ し発生 した。 とりわけ17世紀 には ヨーロッパの各地 で頻発 し、死亡率 を通常の何倍 に も高めた。「アムステルダムでは、1622年か ら1628年にか けて、
ペス トが毎年続いた (決算 ―一 死者3万 5000人
)。
パ リでは、1612年、1619年、1631年、1638年、1
662年、1668年 (最後の流行)にペス トが流行 した。………ロン ドンでは、1593年か ら1664年 ‑65年にかけて、ペス トが5回 くり返 して襲いかか り、合計す る と15万6463人 の犠牲者 が 出た とい う」(ブローデル『物質文明 。経済・資本主義』I‑1、 102ページ
)。
三十年戦争 中の出来事 であ るが、ネル トリング ン(Nёrdlingen)市 は1634年のペス トでその9000の人口の三分の一 を失った。18世紀 に入 る とペス トは勢いを弱め、1720年にマルセーユで狙微 をきわめた (同市の人口の半分 が犠牲者 となった といわれる)のを最後 にヨーロッパ本土か らは姿 を消 し、1743年のメ ッシナで のペス ト流行が西 ヨーロッパで最後の ものとなった。 しか し東 ヨーロッパではそれは依然 として 猛威 をふ るい続け、モスクヮでは1770年のペス ト流行で多数の死者が出た。
当時ペス トか ら身を守 るためにとられたご く普通の方策は隔離であった。1563年にイングラ ン
ドでペス トが流行 していたあいだ、宮廷 はウインザニに移 され、同時代の年代記編者が報 じてい る ところによれば、「ロン ドンか らそ こにやって来た者がいた ら、かれ らすべ て を吊 し首 にす る ために市の開かれる広場 に絞首台が立て られた」(Kamen,EEtrOpaの
Sο cjθ
り,S.34)。 ペ ス トは 貿易路 にそつて広が り、行軍す る軍隊にようて運ばれたが、隔離 はかなり効果があつた。陸路 を 通 じて伝播す る疫病 を防 ぐのは困難であったけれ ども、海路 による通商の禁止 はいつ も成功 をお さめた。例 えば、この方法 によつてオランダは1563年のイングラン ドでのペス トか ら、スペ イ ン は1720年のマルセーユでのペス トか ら救 われた。ペス トは確かに恐 ろ しい病気ではあったが、 しか しそれは多 くの病気のなかの一つにす ぎず、
ほかに も一一長期 間をとってみればペス トよりも頻発 し、それゆえより大勢の人々の命 を奪 った 一一ペス トに劣 らず恐 ろ しい伝染性の病気がた くさんあった。すなわち、ジフテ リア、コレラ、
チ フス、天然痘、狸紅熱、インフルエ ンザ等 々である。一般的にいつて、疫病が発生す る と、罹 患 した者の三分のすか ら半分が数 力月のあいだにその犠牲 となって命 を落 と した。「1775年のあ る医学書は、種痘がようや く話題にな りかけていたころのことだが、天然痘を 《すべての病気の うちでもっとも一般的なもの》だとしている。100人中、罹患者は95人。罹患者7人につ き1人 が死亡、とある」(ブローデル『物質文明・経済・資本主義JI‑1、 89ページ
)。
ジェンナー (1749〜 1823年)によつて牛痘の効果が明らかにされたのは1798年以後のことであるか ら、1775年 当 時「話題になりかけていた」種痘は、牛痘種 を使った種痘法ではなく、それ以前に行われていた 人痘接種法である (18世紀の種痘論争については、ヴォルテール『哲学書簡』第11信「種痘 につ いて」を参照
)。
疫病の社会的影響 についての研究はまだ不十分にしかなされていないが、社会諸階層が平等 に 疫病の犠牲になったのではないことは疑いようがない。疫病は不潔な状態のところにはびこり、
なによりもまず都市の下層階級 を襲った。ロンドンでは一一 死亡者統計表 (Mortality Bill)が 示す ところによれば一―疫病は最 も貧 しい郊外か ら発生 した。そ してこのような現実は、死のま
えでの社会的不平等 という現象をひき起 こす重要な原因の一つであつた。自分たちの目に映るあ りのままの事実をみて、上層階級の人々は、疫病を広 く伝染 させるのは貧民たちだと感 じていた。
他方で貧民たちは、物質的な快適 さに恵まれた連中は疫病の襲来か らも免れるという事実を不快 に思っていた。貧困と栄養不良は、疫病の犠牲者の二大特徴であった。こうした貧困と疫病の結 びつ きに鑑みて、公共団体は都市の衛生状態の改善に力を入れたけれども、都市当局によつて講
じられたなんらかの措置が実際に功 を奏 したかどうかは疑わ しい。
―‑160‑―
Ⅲ
人 口変動 の歴 史 的趨 勢
まず、1500〜1900年の期間におけるヨーロッパ主要諸国 とヨーロ ッパ全体の人口変動 を世紀単 位で示す と、表8のよ、うになる。 ヨーロッパ全体 としてみると、人口はこの間一貫 して増え続け、
特 に ヨーロッパで本格的な工業化が始 まった19世紀 における人口増加が際立 っているが、19世紀 の問題は本稿の考察範囲の外 にある。16世紀 と18世紀 は どの国に とって も一― したがって、 ヨー ロ ッパ全体 として も一一 人口増加の世紀であった。これにたい し17世紀 には、人口は一一 イギ リ ス とロシアを例外 として (増加率 は ともに29%)一一 停滞 もしくは減少 した。 ドイッの人 口減少 はすでに見た三十年戦争 による ものでぁ り、スペ インのそれの原因は1596〜1602年 と1647〜52年 におけるペス トの流行であった。イタリアで も、17世紀の20年代 と30年代 における疫病の流行 に よつて人口が減少 した (ただ し、これには相当の地域差があ り、南部はほどんど被害を受けなかっ たのにたい して、北部 は深刻 な人口危機 に見舞われ、1650年の北 イタリアの住民数は百年前 よ り 10%も少 なかった
)。
以下では、これ まで述べたことを補足 しなが ら、近世 ヨーロッパ における人口変動の歴史的趨 勢 を世紀 ごとに見てい く。
16世紀
ヨーロ ッパの人口は15世紀後半か ら増加 を開始 し、増加 は16世紀 を通 じて続いた。1450年を基 準 として計算すると、西 ヨーロッパの人目指数 は1450年 =100、 1500年 =155、 1600年=195と な る。この数値 は、16世紀 に入 ると人口増加の速度が15世紀後半 よ りも落ちたことを示 してい る。
14世紀の半ばか ら後半 と15世紀初 めに頻発 したペス ト流行 による人口減少が埋 め合わされたあと、
人口増加のテ ンポが減速 したのである。
16世紀 にはヨーロ ッパ全域で人口増加が起 こったけれ ども、その増加率は地域 によってか な り 違 ってい た。表9が示 してい る よ うに、北 欧 と北西 欧 にお いて は著 しい人 口増加 が見 られた (1500年か ら1600年にかけて指数は北欧では100から
163、
北西欧では100から154に上昇)。
ホ ラ ン ト州の人口増加 は特 に著 しかった (1500年を100とす ると1650年は328、
北 ネーデル ラ ン ト全体 では
197)。
これにたい して、西欧 と南欧 と中欧における人口増加率は相対的に低かった(こ
れ らの地域では1500年か ら1600年に人目指数は100からそれぞれ