史料紹介 : 駿河国安倍郡中平村見城家文書 : 江戸 時代後期における安倍川流域の村・地域社会研究の ために
著者 今村 直樹
雑誌名 人文論集
巻 65
号 1
ページ 39‑70
発行年 2014‑07‑31
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00007996
史 料 紹 介 駿 河 国 安 倍 郡 中 平 村 見 城 家 文 書
I F 江 戸 時 代 後 期 に お け る 安 倍 川 流 域 の 村 ・ 地 域 社 会 研 究 の た め に
今 村 直 樹 は
じ め に 人
文 社 会科 学 部 社会 学 科 歴 史 学 コー ス の日 本 史学 研究 室 では ︑ 一九 八八 年 度 か ら静 岡市
︵現 在 文は 化 財 課 が 所管
︶ に よ る
﹁静 岡 市 古文 書 調査 事 業
﹂︵以 下
﹁︑ 調査 事 業
﹂ と略
︶ の 一環 と し て︑ 同 市 内 に残 され て いる 古 文 書 群 を調 査 し︑ 史料 目録 を作 成 し て所 蔵 者 に進 呈 し︑ 古 文 書 の意 義 と保 存 を喚 起 す る事 業 を 継︑ 続 的 に行 てっ き た
︵学 部 生 に よ る調 査 成 果 の 一部 は︑ 毎 年 秋 の大 学 祭 期 間中 開に 催 す る︑ 古﹁ 文 書 展﹂ 発で 表 し て いる 小︶︒
稿 紹で 介 す る駿 河 国安 倍 郡中 平 村見 城家 書文
︵以 下
﹁︑ 見城 家 文書
﹂ と略
︶ は︑ 二〇 一三 年 度 の調 査 事 業 で取 り 扱 たっ 史 料群 であ り
︑ そ の成 果 の 一部 は︑ す で に日 本 史 学 研 究 室 の学 部 年三 生 主が 体 と な てっ 作 成 した
︑ 二〇 一三 年 度 の古 文 書 展 パ ンフ レ トツ でも 表公 さ れ て いる
︒ 小 稿 では
︑ 見城 家文 書 に おけ る︑ 主 に古 文書 展 バ ンフ レ ット はで 未紹 介 の史 料 を いく つか 項 目 別 に取 り 上げ て︑ 今後 の日 本 近 世史 研究 や 二九
四〇 歴史 教 育
︑ あ る いは 防 災 研究 のた め の
︐ 素
材 と し て提 供 し てみ た い︒ 見 城 家文 書 は︑ 安旧 倍 郡 中 平 村
︵現
・静 岡市 葵 中区 平
︶ 名の 主家 伝に わ たっ 史 料 群 あで り
︑ と り わ け江 戸 時 代 前 期 か ら 明治 前 期 に か け て の中 平 村 や百 姓 た ち 生の 活 実 態 安︑ 倍 川 上 中流 域 の地 域 社 会 状の 況
︑ ま た代 官 所 と村 社 会 の関 係 な ど を 考 え る上 で︑ 大 変豊 かな 情 報 を与 え てく れ る︒ これ ま で の研 究 で は︑
﹁静 岡市 史
﹄近 世 史料 二
︵以 下
﹁︑ 静 岡 市史
﹂ と糀
︶ で 部 分 的 紹に 介 され た こと があ たっ
︒ し か し︑ 後 述 す る よう に︑
﹃静 岡 市 史﹂ 紹で 介 され た史 料 は︑ 見城 家 文書 全 体 の史 料 群 のほ ん の 一部 に過 ぎ な い︒ そ のた め小 稿 では
︑ 主 に筆 者 の専 門 分野 であ る江 戸時 代後 期 の史 料 に重 点 を 置 き︑ 今 回 の調 査 事 業 で新 た に確 認 さ れた 史料 紹の 介 と︑ 若 干 の解 説 を加 え る こと に たし い︒ 一
見 城 家 文 書 の 概 要 前 述 のと おり
︑ 見 城家 文 書 と は︑ 戸江 時 代 の安 倍 郡 中 平 村 名で 主職 歴を 任 し てき た見 城 家 伝に 来 たし 史 料 群 であ る︒ し か し︑ 戦後 の時 期 であ ろう か︑ 研究 者 な ど に貸 出し さ れ た際 な ど に史 料 群 分は 割 され
︑ そ の後 逸散 し てし ま たっ と いう
︒ 分 割 さ れ た見 城家 文書 に関 し ては
︑ 現時 点 判で 明 し て いる と ころ で は︑
① 見 城秀 誌 氏 所 蔵 分
②︑ 静 岡 大学 所 蔵 分
︵人文 社 会 科学 部 日本 史 学 研究 室
③︶︑
国 学院 大 学 所蔵 分 の二 つの 史 料群 の存 在 が知 ら れ る︒ 小稿 取で り上 げ る のは
︑ 二〇 一三 年度 調の 査 事 業 取で 扱り たっ
︑
① と② の史 料 群 であ る︒ 今 回 の調 査 事 業 の結 果
①︑ は 二五 三点
②︑ 約は 七 五〇 点 存 在 す る こと 判が 明 し た︒ 後今
︑ 約 六〇
〇
〜 八〇
〇点 と され る③ の史 群料 併と せ て検 討 す れば 見︑ 城 家文 書 の全 容 を ほぼ 復 元 す る こと が でき るだ ろう
︒ 二〇 一三 年 度 の調 査 業事 では
①︑ の史 料 目録 の作 成 重を 点的 に行 い︑ 完 成 させ る こと が きで た
①︒ の全 料史 二五 三点 を
︑
そ の内 容 に基 づ き分 類 した も のが 表︑ 1 であ る︒
① 最で も 多 いの は C分 類
︵負 関担 係
︶ の五 五点 で︑ それ に続 く のが D分 類
︵社 会関 係
︶ の五
〇 点
︑ B分 類
︵土 地 係関
︶ の三 一 点 であ る︒ さ て︑
﹃静 岡 市史
﹄ で紹 介 さ れ て いる 見城 家 文書 は 人一 点 であ る
︵表 2 を参 照︶︒
今 回 の調 査 事業 の結 果︑ これ ら 一八 点 の史 料 は す︑ てべ
① の史 料 群 のも の あで る こと 再が 確 認 きで た︒ つま り
﹃静︑ 岡 市 史
﹄ で調 査 さ れ た見 城 家 文 書 は︑
① の史 料 群 に限 定 さ れ て いた ので あ る︒ 小 稿 では
②︑ の史 表
1
見城家文書(見城秀誌氏所蔵)の構成
ホ「静岡市史」近世史料二 (静岡市役所、1975年)219〜20ページょり作成。
注
1
表題はr静岡市史Jの記載による。四 一
分
類
A(政治・ 行政・ 支配関係)
B(上
}C(負
担関D(社
会関係)
E(産
業関係│G(医 F(i
療・災害関係)
9H(建
築 土木関係)
I(交
通・ 通言関係) 1
」(教育 文 ヒ関係
)
3K(宗
教・ 習俗関係)
M(家関係
)
Y(典
籍関係) 1
Z(雑 )
8計
表
2『
静岡市史』掲載の見城家文書番
号 年 月 西 暦 表 題 (注1)
¨耐
静大作成日録番号
1
辰8 (中平村検地帳)
○ 462 大和2年5月 定 ○
1
3 元禄12年4月 請取申夫食御借米代金之 ○
4 享保6年10月 1721 覚
5 享保17年4月 御救夫食拝借請取證文之事 ○
6 元文4年正月 乍恐書付を以奉願上候御事 ○
7 寛保 2年11月 平野村差出シ
:
○8 寛政2年6 寛政二成年煎茶仕入井売払
,
9 寛政 2年 8月 早損御届ケ書付 ○
寛政6年 3月 1794 差上 申一札之事 ○ 7
寛政9年9月 駒尾ラ ○
天保 14年3月 1843 鉄旭御吟味書上帳 ○
安政4年3月 産物類売揚高取調書上帳 ○ 176
文久3年12月 1863 駿州安倍郡中平村明細差出帳 ○
慶応元年12月 産 物 「■ ○
差上申一札之事 ○
メこ化10笙F3 1813 宗門人別御改村控牒 117
慶応4年2月 1868 宗F5人別相改帳
下
1
○点数
四二 料
群 か もら 多 く の史 料 を 紹介 す るが
︑ これ ら は文 字 通 り の新 出史 料 であ る︒ ま た︑
② の史 料 目録 は未 完 成 であ る が︑
① と史 料 の形 態 面 比で 較 し て みる と
①︑ の うほ が︑ 状 な ど の 一紙 文書 で多 く を 占 め ら れ て いる 印 象 を も つ︒ こ こか 敷ら 行 す る に︑ か つて 城見 家 文 書 に接 し た研 究 者 た ち が︑ よ り高 い
﹁史 私 的 価値
﹂ を も つと 判断 たし 冊 子類 な ど 優を 先 的 に選 別 し て分 割 たし 結 果︑
① は 比較 的 多 く の 一紙 文書 構で 成 さ れ る 上こ にな たっ ので はな かろ うか
︒ この 点 を確 認 す るた め に は︑
② と
③ の史 料 目 録 の完 成 を待 たね ば な らな いが
︑ 城見 家 文 書 が ど のよ う な経 緯 で︑ 三 つの 史 料 群 に分 割 さ れ た のか に つい ては
︑ 今後 の研 究 で明 ら かに しな け れば な ら な い課 題 の 一つ であ る︒ さ て︑ 史 料 の紹 介 を 行 う前 に︑ 江戸 時 代 の中 平 村 と見 城 家 に つい て簡 単 に説 明 し てお き た い︒ 中平 村 は︑ 安 倍 郡 上流 沿 いの 山間 部 に
地 図
安倍 郡 中平村 の位 置
*『静岡県管内全図 (復刻版
)』
(静岡県図書館協会、1979年)を
もとに作成。
位 置 す る 図︵地 参 照
︶︒十 七 世紀 前 期 に は︑ 駿府 藩領
←幕 府 領← 府駿 領藩 など 領 主 が頻 繁 に交 替 たし が︑ 寛永 十年
︵三 ハ三 一じ か ら幕 末 ま で は 一貫 し て幕 府 領 であ り
︑ 駿 府 代 官 所 の支 配 属に した
︒ 村 高 は江 戸 時 代 を 通 じ て八 石余 であ り 嘉︑ 永 二年
︵一 八 四九
︶ の
﹁宗 門 別人 改 帳 下書
﹂︵② 静 岡 大学 所 蔵
︶ に よ ると
︑ 家 数 は 一四 軒
︑ 人 口は 六九 人
︵男性 三七 人
︑ 女性 三 二 人︶ であ たっ
︒ 主 要 な産 物 は︑ 茶 炭・
・真 椿
︒杉 材
・三 極 な ど で︑ 年 貢 幕は 末 ま 金で 納 であ たっ
︒ そ の中 平 村 の名 主 を︑ ほぼ 江 戸時 代 を 通 じ て務 めた と考 え られ る のが
︑ 見 城 家 であ る︒ 見城 家 の来 歴 に つ いて 不は 明 な 点も多いが︑今回の調査事業で確認された﹁見城視喜雄摩ヾ︵見城家歴代の法名・命日一覧ピ︵①見城秀誌氏所蔵・日録 番 号 二 三四
︒ 以 下
﹁①︑ 見 城 氏 所蔵
・〇
〇
〇
﹂ と す る︶ に よ ると 最︑ も古 い時 期 の人 物 は 明暦 元年
︵一 六 五 五︶ に没 たし
﹁心甫 紹 雲 居 士
﹂ あで る︒ ま た︑ 江 戸時 代 に お け る見 城家 の当 主 は︑ 左﹁庄 衛 門
﹂ あ る いは
﹁庄蔵
﹂ 名を 乗 てっ いる こと が 多 いが
︑
① の史 料群 に おけ る
﹁庄 左衛 門
﹂ の初 見 は︑ 明暦 四年 あで る
︵① 見城 氏所 蔵
・ 一八
︶︒六 併 せ て考 え るに
﹁心︑ 甫 紹 雲居 士
﹂と は︑ 明暦 四年 の庄 左 衛 門 の前 代 の当 主 であ る可 能 性 高が い︒ この こと から 中︑ 平 村 に おけ る見 城家 の成 立 は︑ 遅 く と も十 七 世紀 前 期 ま でた ど る こと が でき よう
︒ 二 史 料 紹 介 本
章 では
︑
① 見城 秀 誌 氏 所 蔵 分 と② 静 岡 大 学 所 蔵 分 の見 城 家 文 書 のな か か ら︑ 含
︶ 村 会社 百と 姓 公︑ じ 幕 末 の村 入用 帳 3︑
← 郡 中惣 代 と取 締 役
︵︑ 四︶ 安 政大 地 震 の被 害
︑ と いう 四 つの 項 目 別 に︑ いく つか の興 味 深 い史 料 を紹 介 す る︒ な お︑ 翻 刻 に際 し て︑ 原 史 料 に み え る漢 字
・異 体 字
・合 字 等 や変 体 仮 名
︑ 字誤 に つい ては
︑ 次 のよ う に改 め た︒ 一︑ 漢 字
・具 体 字 等 は︑ 地名
︒人 名 な をど 除 いて 常 用 漢 字 に改 めた
︒
四三
四四 二︑ 変 体 仮 名 は現 行 の字 体 に改 め た が︑ 次 もの のは そ のま ま用 いた
︒ 江 貧
︶ 者
→
︶ 茂
︵も
︶ 而
?
︶ 之 6
︶ 三︑ 用 語 上 で︑ 明 らか に誤 字 と 思 われ る字 は訂 正 し た が︑ 疑 わ し いも のに は
︵マ マ︶ 右と 注に 記 たし
︒ ま た︑ 虫損
・欠 損 文字 は
□ と たし
︒
︵一
︶ 村社 会 百と 姓 まず は︑ 江 戸 時 代 の村 社 会 と 百 姓 の関 係 を考 え るう え 興で 味 深 い史 料 を 二点 紹 介 し て たみ い︒ 次 の史 料 は︑ 天 明 六年 一︵ 七 八 六︶ に中 平 村 の伊 右衛 門 と うい 老 年 の百 姓 が︑ 名 主 の庄 蔵 ほ か村 役 人 たち に提 出 たし 文 書 であ る︒
︻史 料 一︼ ヨ 札之 事
︵私 儀 一人 者 に て困 窮 に つき 畑 地村 方 へ差 出候 と
︵見 城 氏 所蔵
︒ 一 五一
︶ 一札 之 事 一私 儀 一人 者 罷二 成 尚︑ 又年 罷寄 渡 世 不 罷成
︑ 至 而 困窮 仕 候 依い 之御 年 貢諸 役 等 上納 可仕 手立 一切 無 御座 候 間
︑ 私控 来 候 畑 地 高 九 升 壱合 五夕 内 五升 四合 七夕 一削□ 引 残 三升 六合 タ八 右 之 通︑ 御 村方 御 役 人 中 差江 出申 候
︑ 可然 御取 は か ら い︑ 御 年 貢諸 役等 御 村 方 二而 御 上納 可被 下候
︑ 然 上者 地右 所 相 渡 申し 所 例︑ 如而 件
中 平 村 天明 六年 十年 月一 廿 五日 α 百姓 伊 右 衛 門③
中 平 村 庄 蔵 殿 兵十 衛 殿 六郎 兵 衛 殿 兵 右 衛 門 殿 家 族 に先 立 た れた ので あ ろう か︑ コ 人 者
﹂ と な たっ 伊右 衛 門 は︑ 老 年 のた め生 計 を立 てら れず 至︑ てっ
﹁困窮
﹂ し て い ると うい 彼︒ は︑ も は や年 貢 や諸 役 な ど を 上納 す る手 段 も な いた め︑ 自 身 所が 持 す る畑 地 のう ち︑ 以前 か 差ら 出し し て い た分
︵﹁前 引□ し を 除 く残 り の土 地 も 村︑ 役 人 た ち に差 出し す の で︑ 今 後 は村 方 か ら年 貢 や諸 役 な ど を 上納 し ては し い︑ と願 てっ いる
︒ こ の史 料 か ら は︑ 家 族 を失 い単 身 と な たっ 高 齢者 が︑ 自 身 財の 産 を村 役 人 た ち に差 出し す こと で︑ 代 わ り 年に 貢
・諸 役 の負 担 を村 社 会 に求 め た こと
︑ ま た 当時 の村 社 会 が そう たし 高齢 者 税の 負 担 肩の 代 わ り を行 いう る存 在 であ たっ こと
︑ な どの事実が浮かび上がってくる︒近年の日本近世史研究では︑江戸時代の村社会による村内の生活困窮者への救瀧や︑村 外に出稼ぎにいった百姓の残された家族︵高齢者・病身者・子ども︶に対しても︑支援を行っていた事実などが明らかに され て いる 本︒ 史 料 から は︑ 江 戸 時 代 後 期 の安 倍 川 流域 もで
︑ そ のよ う な村 社会 本の 来 的 機 能 や包 容 力 存が 在 し て いた 事 実 確を 認 うし る︒ 一方
︑ 身自 の生 計 に基 づ く生 活 が困 難 な た め︑ 村 社会 の全 面 的 な扶 助 を 受 け る こと にな たっ 高 齢 者 側 は︑ ど のよ う な感 情 抱を いて いた ので あ ろう か︒ 次 の史 料 は︑ うそ たし 高 齢 者 の心 情 を垣 間 見 せ もる の であ る︒
︻史 料 二︼
﹁乍恐 以書 付 奉 申 上候
︵吉 之 助 乱 心 に つき 吉︑ 之 助 倅 成 長 後 に百 姓 相 続願 写 と
︵見 城 氏所 蔵
・ 一 一六
︶ 四五