長崎唐人貿易にみる毛氈に関する研究
「唐船輸出入品数量一覧 1637〜1833年 復元 唐船貨物改帳・帰帆荷物買渡帳」
「毛氈製造手續并道具繪圖」を通して
平田 素子
1.はじめに
本研究では、江戸時代、長崎唐人貿易において輸入された染織品のひとつ「毛氈」を研究対象 とする。鎖国体制の下、長崎は中国・オランダに対して公的に開かれていた唯一の国際都市であっ た。全体の貿易額の三分の二が中国貿易で占められ、その状況は幕末の開国まで続いた。中国か らの輸入品は同時に日本文化、社会面などおいて少なからず影響を与えた物的要素といえる。
現代の日本文化において、毛氈の中でも特に緋色の毛氈はハレの場での敷物としての地位を確 立し、その活用がみられるが、江戸時代における舶載染織品「毛氈」の特徴や製作技法の特徴に ついては、ほとんど知られておらず、また十分な研究もなされていない。
本研究では、二つの研究視点より毛氈の実像を詳細に描くことを研究目的としている。研究視 点の#において、毛氈の輸入動態を検証し、研究視点の$では、長崎で試みられた幕府の産業政 策「毛氈技術」の技法を明らかにする。
今回初公表となる毛氈の技法書を翻刻し、製造法と染色法を解明するが、それは当時の絹以外 の動物繊維染色の珍しい例となり、服飾文化などの分野に、ひとつの文献資料を提示したことと なり、意義のあることと捉えている。
研究対象である毛氈は、その用途から基本的には消耗品であり、且つ、脆弱な材質であるが稀 に現存していても敷物であるために重要視されることはなかったように思われる。文献上の毛氈 に関する記述を整理、考察することにより、これまで漠然としか捉えられていなかった毛氈の実 態を明らかにしたい。
2.研究資料
!『唐船輸出入品数量一覧 1637〜1833年 復元 唐船貨物改帳・帰帆荷物買渡帳』一覧表の 中から毛氈輸入の記録を整理した。毛氈の輸入が記載された年度、承応2年(1653)から天保2 年(1831)までを年度別に毛氈舶載船数、唐人船出港地、船番号、到着日、毛氈輸入品名ならび に数量を表に示し、毛氈の質(内容)と毛氈の量から毛氈の輸入動態の変遷をたどった。
"『毛氈製造手續并道具繪圖』(長崎歴史文化博物館蔵)を翻刻、解説し、毛氈製造工程、染
色法、道具について明らかにし、技法書の記載と対応させたうえで、当時の製作技法を考察した。
3.毛氈の輸入動態について 主要資料
!
「唐船輸出入品数量一覧1637〜1833年」を 通して「唐船輸出入品数量一覧」は、永積洋子がオランダ側の資料に基づいた「オランダ商館日記」「バ タヴィア城日誌」(1661〜63年)及び、「東インド到着文書」(Overgekomen Brieven en Papieren uit Indie)の中から、唐船の輸出入商品に関する記事を選び出し、通詞がオランダ人に渡していた 文書の原型、「唐船貨物改帳」「帰帆荷物買渡帳」への復元を試みたものである。
永積は、公式な貿易のほかに行われていた密貿易を把握しない限り、唐人貿易の完全な全体像 を知り得ることは不可能であるとするが、唐人貿易についての資料が乏しい以上、本研究で扱う 資料「唐船輸出入品数量一覧1637〜1833年」は、196年間に及ぶ唐人貿易荷物の動態を概観でき るものとして、価値のあるものとしている。
筆者は毛氈舶載隻数457についての詳細を表にしたが、本稿ではその枚数に制限があり省略し た。
3.1 唐船出港地
唐人貿易において、唐人船の出港地が中国東北部(南京省南京)、南西部(浙江省乍浦・寧波)
(福建省安海・厦門)(広東省広州)などの外、東京(ハノイ)、交趾(ベトナム北部)、広南(ベ トナム)暹羅(タイ)、柬埔寨、 瑠!(ジャカルタ)など多様なことが特徴としてあげられる。
これら中国以外の各地は、かつて、朱印船貿易地あるいは日本人町が形成されていた所である。
3.1.1 唐船出港地の変遷
表1は、永積が「唐船輸出入品数量一覧」の 中で、出港地名がほとんど記されている年を選 び、表作成したものである。
永積は『南京、浙江地方から来る口船が次第 に増加し、遂には乍浦船だけが来船することに なる。』と指摘している。
毛氈舶載船についても同様な動きがみられ、
宝暦4年(1754)から乍浦船のみが毛氈を舶載 し、来航するようになる。
浙江省乍浦は、地の利に恵まれていることの ほか、対日輸出品の集散地だけでなく、同時に アジア各地と日本の貿易を仲介し、東南アジア からの輸出品を収集して、長崎へ運んだものと される。
表1 唐船出港地の変遷
「唐船輸出入品数量一覧」より抜粋 年度
出港地 1735 1742 1749 1765 1781 1832 南京 3 4 3
寧波 3 2 1 3
乍浦 2 5 9 14 5
厦門 2 4
台湾 1
定海 1
広東 1 2
柬埔寨 1 1 瑠! 1 1 不明 3 3
合計 12 17 15 12 14 5
表2 毛氈輸入数(反)承応2年(1653)〜天保2年(1831)
「唐船輸出入品数量一覧」をもとに筆者作成 3.2 毛氈の量について
輸入毛氈を概観すると、江戸時代の初期は、その輸入量はわずかであったが、18世紀半ばから その輸入量が大量になることを確認できた。初期とは違った需要対象としての毛氈をうかがうこ とができる。
毛氈の輸入量の一番のピークとなる天明3年(1783)この前後には、将軍の注文品としての毛 氈がみられる。当時の日本において、毛製品の原料となる羊(羊毛)の飼養技術、羊毛の染織技 術が十分でなく、毛製品に対する憧憬があったものと考察し、オランダからの舶載毛織物と同様、
毛氈も珍重され、それが次第に町人階級の手の届くものとなり広がりをみせたものと考える。「唐 船輸出入品数量一覧」では、江戸時代における毛氈の輸入総数は、80万596枚である。それらは 販売を目的として輸入され、日本国内に出回っていたものと考えられる。その毛氈の消費につい ての詳細は今後の課題とし、使用例、文化の受容などについて検証を行う。中でも、日本文化の 中の敷物として確立した緋色の毛氈の史実に焦点をあて、さらに敷物における美についても明ら かにしたいと思う。
3.3 毛氈の質(内容)について
江戸時代中国・オランダ船によって、長崎に持ち渡られた舶載染織品は、長崎奉行所配下の反 物目利によって、見分・評価された。各時代の目利きの捉え方により、その品名の記載の別があ るが、産地・色・模様と柄・サイズ・品質に関わる品名をみることができる。この長崎地役人と しての反物目利の職務は、慶応3年(1867)7月官制改革が訪れるまでの196年間続く。
「毛氈」の氈は敷物の意味で、毛氈は毛の敷物一般を指す。羊毛に水分・熱・圧力・摩擦など を加えて縮絨させ、不織のまま一枚の丈夫な布としたものをいう。
本論では、氈と名の付く品名を「唐船輸出入品数量一覧」から選び出しているが、毛氈の素材 である「羊毛」を材としないもの、また、毛氈製造技法である「縮絨」でなく織技術にて作成し
たとされるものも含まれるが、これは広義に舶来の敷物を「毛氈」としていたことが推察される。
《産地に関する品名》イスラム・中国
《色に関する品名》中国緋毛氈・中国赤毛氈・中国赤毛氈・色毛氈・赤毛氈・黒毛氈・赤黒毛氈
《模様と柄に関する品名》中国花模様毛氈・花模様毛氈・格子柄毛氈・模様入毛氈・絵入毛氈・
各種花毛氈・赤花毛氈・捺染毛氈・色花毛氈・格子毛氈・紋毛氈花模様大毛氈・格子柄紋毛氈
《長さ(丈)に関する品名》長尺毛氈・広巾毛氈・大毛氈・小毛氈
《重さに関する品名》毛氈第一種・毛氈第二種・毛氈二種・毛氈第三種
宝暦6年(1756)からの毛氈の品名に、毛氈第一種・毛氈第二種などがみられるが、永積によ ると、これらは重さで区別したとする。日本側の細かい注文に沿ったものであったと推察される。
《品質に関する品名》最上毛氈・上毛氈・並毛氈
《その他》各種毛氈・新種毛氈・別種毛氈
明和3年(1766)には、新種毛氈の品名をみることができる。同年、新種のつく舶載染織品に は、毛氈の外に新種色緞子、新種紋白縮緬、新種縮緬などがみられる。この新種について永積は、
日本人の好みが多様化し、中国側がその変化に対応しようとして、新しい意匠を凝らした染織品 を持ち渡ったものとしてている。毛氈の色・柄などの意匠・技術に発展があったものとうかがえ る。「唐船輸出入品数量一覧」によると、毛氈の品名は37に分けられる。多彩な種類の毛氈の品 名は、1760年代から1770年代を頂点とし、記載される品名は少数となるが、輸入量はさらに増大 する。また、一覧表の中には、注文品毛氈の特記がみられ、その事項を下記に取り上げる。宝暦 13年(1766)から将軍(第十代将軍家治・第十一代将軍家斉)、奉行、長崎奉行の注文品毛氈が
特記される。毛氈以外に、人参・各種絹織物・陶器などが注文品として輸入された。
〈注文品の毛氈について〉
《第十代将軍家治の注文品》
明和6年(1769)一隻より広巾毛氈7反、天明3年(1783)一隻より花毛氈60反、天明4年(1784)
一隻より毛氈10反、一隻より10反、一隻より4反
《第十一代将軍 家斉の注文品》
天明6年(1786)〜天明7年(1787)一隻より花模様毛氈40反、一隻より毛氈2反
《奉行の注文品》
宝暦13年(1766)一隻より花模様毛氈90反、安永7年(1778)奉行注文品として、一隻より大 毛氈10反、天明2年(1782)一隻より最上毛氈15反、天明3年(1783)一隻より最上毛氈28反
《長崎奉行の注文品》
天明1年(1781)一隻より最上毛氈4反
これらの注文品の情報はオランダ側にとって、日本への献上または進物品の参考にしたものと 考えられる。
3.4 品名にみる装飾技法について
模様と柄を表した品名に、中国花模様毛氈・花模様毛氈・格子柄毛氈・模様入毛氈・絵入毛 氈・各種花毛氈・赤花毛氈・捺染毛氈・色花毛氈・格子毛氈・紋毛氈・花模様大毛氈・格子柄紋
毛氈があるが、装飾技法として、捺染法・象嵌法が考えられる。
《捺染法》型押し、または型紙を用いて着色する型染めによる技法。
《象嵌法》花の形などに切った薄い毛氈と土台の毛氈を同時に縮絨させ模様をつくる技法。
上記の毛氈の中には、花毛氈(鍋島緞通のように素材に木綿を使用し、毛氈の製造技法とは異 なる織り技法により作られた敷物)を指しているものと考えられるものがあることを付記してお く。
4.毛氈の技術導入
江戸時代後期、長崎において羊毛による毛氈製造の技術導入が行われた。この技術導入は、第 十一代将軍家斉の政策によるもので、当時の貿易国、オランダからの膨大な毛製品の輸入に対す る防遏策であった。幕府はこれまで日本には持ち合わせていなかった動物繊維の羊毛の染色技術
(中でもコチニール虫を染料とした緋色の染色技術)、製織技術の技術者の要請と、必要な器械 の申し入れを寛政12年(1800)オランダ側へはかる。しかし、長崎出島オランダ商館長ワルデナー ルの回答は、オランダ東インド会社ジャワ経由によるもおよそ3年後でなければ難しいとのこと であった。その後も交渉は行われるが、体裁よく断られる結果となる。
オランダからの申し入れが、不成立となりかけると同じくして、幕府は毛製品の技術導入先を 中国へと移転し、毛氈技術導入計画をはかる。
文化元年(1804)長崎奉行肥田豊後守成瀬因幡守の発議により、毛氈技術導入を計画。同年、
8月19日、長崎町年寄高島作兵衛を支配に、唐通事平野善次右衛門、神代太十郎、潁川仁十朗な どを係として、中国より、趙大本、洪文和の二名の毛氈技術者を子七番船で招聘。この中国人二 名を主任、職人三名の手伝い見習いをたて、長崎水神社(現長崎市八幡町)にて、毛氈製造に着 手。その製造法の順序と、作業器具について、長崎会所産業調掛の帯屋次郎八、徳岡元三郎が記 録。(「毛氈製造手順覚書」全一冊文化元年(着彩図入)29丁 国立国会図書館所蔵)
角山幸洋によると、毛織物の国産化は、まず、幕府自ら綿羊飼育を実施することであったとし、
安永2年(1773)より江戸において綿羊の飼養が試みられる。同様に毛氈技術導入の事業のため に、幕府は緬羊数頭を中国より輸入し、長崎の浦上村で飼育したとしている。
5.翻刻「毛氈製造手續并道具繪圖」(長崎歴史文化博物館所蔵)
「毛氈製造手續并道具繪圖」長崎歴史文化博物館蔵 全一冊(着彩図入)29丁 江戸時代 毛氈製造所、道具、毛氈製造工程、染色工程の順に図録された技法書。
長さ26.9! 巾19.0!笹山輝治氏寄贈(昭和37年長崎県立図書館)
今回、初公表となる技法書を、第二水準旧字体により、筆者が翻刻さらに解説した。
現存する代表的な毛氈の技法を書したものには以下のものがある。
着彩図入りの技法書として、
「毛氈製造手順覚書」全一冊 国立国会図書館蔵、
「毛氈製造道具一式絵図」一軸 国立公文書館(内閣文庫)蔵、
「毛氈製造手順覚書」全一冊 流通経済大学図書館(魚祭洞文庫)蔵、(左記の資料については 未見)
白描図入りの技法書として、
「毛氈製造書」全一冊 国立国会図書館蔵、
「毛氈製造手続覚書」全一冊 東京国立博物館蔵などである。
5.1 着彩図入毛氈技法書「毛氈製造手續并道具繪圖」
国立国会図書館所蔵「毛氈製造手順覚書」を底本とし構成を 比較、角山の資料をもとに、下記の表を筆者が作成。
以下、国立国会図書館所蔵「毛氈製造手順覚書」を国立国会 本、長崎歴史文化博物館所蔵「毛氈製造手續并道具繪圖」を長 崎歴博本とする。
図1 長崎歴史 文 化 博 物 館 所 蔵
「毛氈製造手續并道具繪圖」
表3 着彩図入毛氈技法書 国立国会本と長崎歴博本の構成比較 筆者作成 国立国会本(丁数) 長崎歴博本(丁数) 備考
1丁オ 1丁ウ
1丁オ 1丁ウ
毛氈製造所の図(正本には庇のついたて棒あり)
毛氈製造所の図(庇の長さに違いあり)
2丁オ 2丁ウ
2丁オ 2丁ウ
晒池の図
道具絵図(国立国会本には巾槌の柄の寸法の記載あり)
3丁オ 3丁ウ
4丁ウ 3丁ウ
道具絵図(鋏の配置違い 長崎歴博本は5丁オに該当)
道具絵図 4丁オ
4丁ウ
5丁オ 5丁ウ
道具絵図(国立国会本の4丁ウには、指貫の緒の記載あり)
道具絵図(国立国会本には水走の厚みの表示欠)
5丁オ 5丁ウ
3丁オ 6丁オ
道具絵図(国立国会本5丁オの巻ミ須は、長崎歴博本4丁オで 道具絵図 は巻翠簾の表示。国立国会本には丸竹の表示欠)
6丁オ 6丁ウ
4丁オ 6丁ウ
〃(竹柄杓の配置違いあり 長崎歴博本では5丁ウに記載)
(長崎歴博本には、竈の火釜口の間口の寸法の表示あり)
7丁オ 7丁ウ
7丁オ 7丁ウ
道具絵図(柄杓の配置が左右逆)
道具絵図 8丁オ
8丁ウ
8丁オ 8丁ウ
道具絵図 道具絵図 9、10、11、12、13、14丁オ
9、10、11、12、13、14丁ウ
9、10、11、12、13、14丁オ 9、10、11、12、13、14丁ウ
毛氈製造工程の文書 図の解説
長崎歴博本は、道具の記載順番に違いがみられる箇所もあるが、構成においては、正本とされ る国立国会本と最も酷似しており、着彩図であるという点から、長崎歴博本は、写本としての価 値があるものと推察する。国立国会本の染色の項では、五色の染色名(中国名)を日本の色名と 併書きし、さらに染色した枚数とともに朱書している。長崎歴博本にはみられない記述であるが、
この長崎歴博本が先に下書きとして着彩で描かれ、さらに、正本の完成度を高めるために、道具 の図は使用順に編集し、重点事項となる毛氈の製造枚数と染め色を加筆し、国会図書館本が清書 されたのではないかと推察する。閲覧した白描図入の技法書の中においても、正本に近い構成の ものはなく、長崎歴史文化博物館所蔵「毛氈製造手續并道具繪圖」は、正本と同じく着彩であり、
構成においても酷似している点があり、さらに詳細な検証を行いたいと思う。
長崎歴博本の構成は、毛氈製造所1丁オ・1丁ウ、作業場の晒池2丁オ、使用道具2丁ウから 8丁ウ、毛氈製造法9丁オから22丁オ、染色法22丁ウから29丁ウからなる。毛氈製造工程と染色 工程については各工程の記述の後、着彩による図を入れた構成順となる。
本論では長崎歴博本の全図録と全文の解読を試みた。
下記に長崎歴博本の道具図と毛氈製造工程・染色工程の抜粋を示す。
15丁オ 15丁ウ
15丁オ 15丁ウ
図(国立国会本は其貳、長崎歴博本は其二)
図 16丁オ
16丁ウ
16丁オ 16丁ウ
毛氈製造工程の文書 図
17丁オ 17丁ウ
17丁オ 17丁ウ
図
図(長崎歴博本には其三欠)
18丁オ 18丁ウ
18丁オ 18丁ウ
毛氈製造工程の文書 図
19丁オ 19丁ウ
19丁オ 19丁ウ
図 図 20、21丁オ
20、21丁ウ
20、21丁オ 20、21丁ウ
毛氈製造工程の文書 図
22丁オ 22丁ウ
22丁オ 22丁ウ
図(毛氈製造工程)(国立国会本は其貳、長崎歴博本は其二)
染色工程の文書 23丁オ
23丁ウ
23丁オ 23丁ウ
図
染色工程の文書 24丁オ
24丁ウ
24丁オ 24丁ウ
図
染色工程の文書(国立国会本は色名と枚数の朱書あり)
25、26丁オ 25、26丁ウ
25、26丁オ 25、26丁ウ
図
染色工程の文書 27丁オ
27丁ウ
27丁オ 27丁ウ
図(竈の染液の違い、木架・柄杓・手附桶の配置違い)
染色工程の文書 28丁オ
28丁ウ
28丁オ 28丁ウ
図(桶の染液の違い・桶と人物の配置違いあり)
染色工程の文書 29丁オ
29丁ウ
29丁オ 29丁ウ
図
図(毛氈の枚数 国立国会本は二枚、長崎歴博本は三枚)
後書 欠
図2 道具(4丁ウ・5丁オ) 図3 毛氈製造(20丁ウ・21丁オ) 図4 染色(27丁ウ・28丁オ)
〈毛氈製造所1丁オ・1丁ウ、作業場の晒池2丁オ〉
毛氈製造所は、水神社(現在の長崎市中島川上流、倉田水樋の水源である銭屋川付近)境内の 敷地内に仮製作所として建てられたものである。この水神社は、染色に必要な水も豊富であり、
毛氈製造所を建てるにあたり十分な敷地を有していたことにより、その地に選ばれたとされる。
〈使用道具2丁ウから8丁ウ〉
毛氈製造、染色工程で使用する道具について、名称・数量・道具の幅・径・奥行き・角度など がわかるよう詳細に記録されている。筆者は各道具について、どの工程で使用するか検証したが、
本稿では省略する。下記に各工程を示す。翻刻した技法書のそれぞれの工程の図は、道具の扱い 方と用途がわかるように、手の位置・向きなどが、静止された状態で記録されたことがうかがえ る。
〈毛氈製造工程9丁オから22丁オ〉
!開毛9丁オから10丁ウ
刈り取ったままの羊毛の房をほぐれやすくするために、長い繊維は鋏で切り、さらに土をまぶ す。
"梳毛11丁オから11丁ウ
繊維を同じ方向に揃え、ほぐすために、弓打ちをする。弦を引き、振動を起こし羊毛を絡ませ て梳く。綿花のような柔らかさまで極めるため、弓打ちを繰り返す。
#計量12丁オから12丁ウ
製作に必要な羊毛の量を計る。毛氈一枚の仕上がり寸法(巾180'長さ210')で、約1,5( 羊一頭分にあたる羊毛が必要となる。
$展毛13丁オから13丁ウ・14丁ウから15丁オ
羊毛繊維を簾の上に雪のように積もらせる。たくさんの層の繊維を薄く重なるように広げると、
繊維同士が絡みやすくなり、縮絨時間の短縮となる。同じ厚さになるように均一に広げる。
%縮絨(羊毛に水・熱・摩擦や刺激などを与え、繊維同士を絡めること)14丁オ・15丁ウ
簾の上の羊毛に水分を与え湿らせ、簾を丸める。簾をひもで堅くしばり、前後に転がしながら、
刺激を与え縮絨させていく。生地の表面をつまみ、繊維が持ち上がらない状態になったら、縮絨 は完了となる。
&整理16丁オから22丁オ
生地の中にある塵などの異物を毛抜きで取り除く。生地全体のムラをなくすため、手のひらで
確認する。厚さのムラは、包丁や剃刀で削り、羊毛を足しながら調整する。縮絨の足りない箇所 は、熱湯を使用し、液温の温度差により繊維に刺激を与えながら縮絨する。仕上げの毛焼きによ り、表面に艶を与える。
〈染色工程22丁ウから29丁オ〉
!先媒染22丁ウから24丁オ
染料の発色を良くするために、石灰を溶かした溶液の中に浸し、一日おく。
"染色材料からの色素抽出ならびに染色24丁ウから27丁オ
植物染料槐・蘇芳・藍から色素を抽出する。各植物染料から抽出した染液により染色する。
#色止め27丁ウから28丁オ
染色した毛氈の色止めをするため、生麩糊を入れた水に浸す。色止めの生麩糊をよく洗い出す。
$乾燥28丁ウから29丁オ
毛氈の四隅の形を整え、縦横の寸法(おおよそ巾180%長さ210%)を整え、乾燥する。
翻刻した技法書では、三種類の植物染料蘇芳(赤色)・槐(黄色)・藍(青色、花色)を使用し ている。媒染剤には、明礬・石灰の使用がみられる。染料の染め付けを良くするために明礬を用 いた染色法により大紅(中国色名)赤色、松花(中国色名)黄色、寶藍(中国色名)花色の染色 がなされていた。また、石灰により蘇芳(赤色)の染め色を変化させ!瑰(中国色名)紫色に染 色。さらに、ふたつの染液で染める交染法(槐(黄色)と藍(青色)による)により、緑色(中 国色名)萌黄の染色が行われていた。媒染剤使用の外に、下染めとしての染色後の染液の利用も みられ、無駄なく順序よく五色染色が行われていた。
染め色を濃くするには、染色時間と発色の回数を増やすことで効果が期待でき、染色・発色・
乾燥を何度も繰り返すことにより、濃色の染めることができる。蘇芳は、その染色にこの作業を 10日間繰り返し、染め上げていることがわかった。憧憬であった毛製品の鮮やかな赤を表現する ことに、懸命な努力がはらわれたことを感じる。筆者は、翻刻した技法書から、毛氈10枚を製作 し、5色に染色して仕上げるまでの所要日数をだいたい20日と推定している。本論においては、
毛氈製造法、染色法について、各工程を頁ごとに解説、また、材料や染料の量についても明らか にした。毛氈製造技術ならびに羊毛繊維染色法を文献上整理することができた。本稿ではその詳 細は省略した。
6.おわりに
技法書に基づいて製作された毛氈が、中国からの輸入毛氈を模倣したものなのか、技法書の中 の毛氈が必要とされたのか、技術習得のための試作であったのか解明するため、現存する毛氈を 科学分析し検証することを考えている。さらに、翻刻した技法書による毛氈と輸入された毛氈と の接点を見出すことを今後の課題としたい。そのために本研究の資料を基盤として進めていきた い。
江戸時代に長崎にもたらされた舶載毛製品の中で、オランダの緋色の羅紗は、毛製品の技術導 入の契機となり、一方、中国の毛氈はその技術導入が試みられ、その事業は原材料(羊毛)の安
定した供給が整わずうまくいかなかったとされる。しかし、その後、巣鴨薬園にて羊が飼養され、
毛織物の試織の成功へとつながり、明治時代における毛織物産業の本格的な製造開始への基盤を つくったものと考えられる。
日本文化の中に受容され、現代において特にハレの場での敷物として活用されることとなった 緋毛氈は、弾力性・保温性といった機能面だけでなく、毛氈を敷いた場が特別な場所としての面 を作り、大切なものを見せる、大切なもの守るなどの意味付けをなしているものと考える。さら に、緋毛氈の赤色から光を感じ、また上にモノや人を置くことでその頂点と毛氈の間に三角形の アウトラインができ、見る者に安定感を与え、美として感じるのではないかと考えているが、そ の点も今後の課題としたい。
尚、本論を執筆するにあたり、御指導を賜った長崎大学教授福島邦夫先生に深く御礼を申し上 げます。
注および参考資料
1)石田千尋「日蘭貿易の史的研究」吉川弘文館 2004(平成16)。(pp88‐89、p.109、p.134、p.148)
2)板橋区立郷土資料館「長崎唐人貿易と煎茶道」1996年。
3)太田勝也「近世長崎・対外関係資料」思文閣出版 2007年。
4)大内輝雄「羊蹄記」平凡社 1991年。
5)姜在彦訳注「海遊録」東洋文庫 平凡社 1999年。
6)鬼頭宏「文明としての江戸システム」講談社 2002年。
7)島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳訳注「和漢三才図会」東洋文庫平凡社 1991年。
8)角山幸洋「日本染織発達史」田畑書店 1974年。
9)角山幸洋「中国・和蘭羊毛技術導入関係資料」関西大学出版 昭和62年。(pp3‐34、pp239‐267)
10)中岡哲郎・鈴木淳・堤一郎・宮地正人「産業技術史 山川出版 2001年。
11)中川忠英「清俗紀聞1」東洋文庫平凡社 1966年。
12)中川忠英「清俗紀聞2」東洋文庫平凡社 1966年。
13)中田易直・中村質校訂「崎陽群談」近藤出版社 昭和49年。
14)永積洋子「唐船輸出入品数量一覧 1637〜1833」創文社 昭和62年。(pp6‐7、p.24、pp26‐27)
15)浜下武志・川勝平太「アジア交易圏と日本工業化」藤原書店 2001年。
16)薮内清訳注「天工開物」東洋文庫 平凡社 1969年。
17)吉岡幸雄・福田伝仕「自然の色を染める」紫紅社2001年。
18)大阪府立中之島図書館所蔵絵巻「崎陽諏訪明神祭祀図」長崎文献社 平成18年。
19)関西大学出版部「長崎唐館図集成 近世日中交渉史料集六」平成15年。
20)長崎県立長崎図書館「長崎奉行分類雑載」平成17年。
21)日蘭学会編「長崎オランダ商館日記 一」雄松堂出版 1994年。