南方熊楠 と神社合祀反対活動 の周辺
一 生川 鉄 忠 ら神職 た ち と外 国学者 た ち 一
1 は じめ に
南 方 熊楠 (1867〜 1941)は 一般 的 に民俗 学 者・生物学者 として知 られ るが、いまか ら 100 年前 に ecology"を 植物棲態学 "と して紹介 し、この文脈 か ら自然保護運動 を行 つた人物 と して も有名 である。 ドイ ツの生物学者エル ンス ト 0ヘ ッケル が生物 間の関係 を明 らかにす る学 問分野 として新設 し、 20世 紀初頭 の欧米で認知 されつつ あつた この 「エ コロジー」なる学術用 語 を、熊楠 が 日本 に初 めて紹介 した明治末 とい う時代 には、我 が国で も組織 的 な 自然破壊 が、
地方 によつては大々的に進 め られていた。それ は政府 の神 社 合 祀政策 に よつて は じめ られ た 神社境 内森林 の伐採 であ り、殊 にかれ の住居 し た和歌 山県や 隣県の二重県下では強制的・画一 的に行 われ数年 間に神社数 が激減 した。熊楠 に とつて神 社境 内や森 は研 究対象 で あ る粘 菌 の 生 息場所 す なわ ち研 究 フ ィール ドで あつた か
ら、神社 の激減 は死活 問題 であつた。
わた しは、明治期 の神社政策 の分析や熊楠 の 合 祀反 対論 の詳 細 お よび反 対運動過程 で の柳 田国男 との交流 等 に関 して は別 の論 文 です で に発表 してきた。 (1)
本稿 では、熊楠 が反対意見 を形成す る過程 で 影 響 を受 けた生川 鉄 忠 の合 祀反 対論 と外 国人 研 究者へ の訴 えの状況 について紹介す る。また、
熊楠 の神 社合 祀反 対論 をテー マ とす る研 究 で はふつ う触れ られ るこ とのない、 『 全 国神職会 会報』誌上 に載 った高階、中島 らの合祀反対意 見 について もま とめてみたい。
芳賀 直哉
(大学教育セ ンター )
南方熊楠 が 「神社合祀反対」を公然 と表 明 し た明治 42(1909)年 9月 以前か ら、神職 であ る生川鉄忠が『 神社協会雑誌』 にて、同職 の高 階幸造、中島固成 、巨鼈散史
(筆名 と思われ る )
らは『 全 国神職会会報』誌上で、反対意見ない し慎重論 を展 開 していた。また、熊楠 は英 国を 中心 とした外 国学者 たちにも、神社合祀 に よる 弊害状況 をその都度報告 していた。
神社合祀令 の発布 された明治 39(1906)年 8 月前後 の 日記 内容 をみて も、熊楠 が合祀政策 に ただちに反応 した様子 はみ あた らない。実際の ところ、地元 田辺町の『 牟婁新報』 に 自然保護
=神 社合併 0合 祀反対 の文章 を矢継 ぎ早 に発表 しは じめるのは、 1909年 の 9月 以降である。
熊楠 じしん、生川 については 自らの論著、書 簡 、 日記 で特 にその名 を挙 げてい るばか りか、
「神社合祀反対意見一 白井光太郎宛書簡」では、
生川 の神社整理弊害意見 を要約 0紹 介 してい る こ とは特筆すべ きこ とである。かれ の 日記 には
『 神社協会雑誌』を借 りて読 んだ こ とを明記 し てあるので、その際に生川 の反対意見 を眼に し た ことが確認 できる。これ に対 し、前述 の高階、
中島 らについて言及 がないのは、 『 全 国神職会 会報』に寄書 していた諸氏の文章は眼に しなか ったか らだ と思われ る。 しか しなが ら、生り
││に限 らず 高 階 ら少数 の神職 も神 社 界 にて合 併整 理論 が興 っていた明治 32年 頃か ら少 なか らず 異論 を持 つていたのである。
2 神 職 層 内部 で の反 対 意 見
二重 県 四 日市諏訪神 社 の神 官
(後に同社 宮
司 )で ある生川鉄忠は、明治 35年 3月 創刊 の
『 神社協会雑誌』に しば しば寄稿 してお り、同
36年 5月 の「府県郷村社 の制度 に就 て」か ら大 正 3年 1月 号の 「崎形児的祭典」まで、掲載稿 は 17報 に及 んでい る。 かれの住居す る二重県 は、こと神社整理 については、ふたつの勅令
(明治 39年 4月 の第 96号 「府県社以下神骰幣 畠料 供進 の件」お よび同年 8月 の第 220号 「ネ申社寺
院仏堂合併跡 地 の譲 与 に関す る件 」 )発 布 の一 年前 には既 に郡市長会議 の席上、県第二部長 よ り「神社合祀跡地処分 について」の通達が発せ られてい るこ とか らもわか るよ うに、最 も早 く か らそ して最 も徹底 して合祀 が遂行 され たい わばモデル県であつた。それ ゆえに、その弊害 も早 くか ら顕在化 したのである。
生川 は、政府 の言 う「神社 は国家の宗祀」が 実態 を ともな ってお らず 断然 改 良す べ しとの 神社界 の多数意見 に同調す る。 しか し、改良す る として も、各神社 には千数百年来継続 してき た慣例 があるか ら、これ を無視 し拙速 にや ると 慮外 の故 障 を生 じる恐れ が あ り、「角 を矯 めて 牛 を殺す」の愚 を犯す よ うな方法 は採 るべ きで はない。神社 を十分 に調査 してか ら行 うべ きだ
と考 える。
官国幣神社 は ともか く、地方 の府 県郷村社 の 維持実態 は、①法令 に よる保護 10%、 ②習慣 40%、 ③地域住民の信仰 50%の 割 であ り、従 来か らの習慣・信仰 が失 われれ ばた ちまちに し て維持 ができな くなる。 したがつて、基本財産 の指定等法令 にて地方神社 を維持 0存 続 させ る のは無茶 な方法であ り、神社維持 を住民の財政 負 担 にて行 え とい うの はそ もそ も無理 な注文 である。必ず しも郷 ごとに郷社 があるとは限 ら ず、郷 によっては数社 の郷社 があるので、一郷 ない し一村 に一社 と画一 的 に整 理す るこ とは できないのだ と、かれ は主張す る。
元来 の神社整理論者 である生川 は、現在 の社
を充分調 査 して真 に国家 の宗 祀 た るべ き資格 を備 え させ なけれ ばな らない と言い、①神社 の 数 を減 す こ と ② 維 持 は 自治 制 に任 す こ と
③移 転廃 合 の手続 き とそ の資格 を更正 す る こ と の三ノ 点の改良方針 を提案す る。
この うち神社総数 の削減 は、奉仕神社 を整理 縮 小 して神 官 の奉 仕 内容 を皇室 お よび 国家 の 祭祀へ と厳格化 し、同時に俸給 の確保 を願 う神 社界大勢 の意見であるか ら、整理改良を求 める 神職 らに して も異論 はない。例 えば、 『 ネ 申社 協 会雑誌』第 17号 掲載 の 「無格社整理 の方法」
と題 され た論 文 で著者 の春 山生 は概 略次 の よ うに述べ る。 (2)
丁神 社 に付 き神 職 一 人 と定 めた法令 が な い か ら五社 十社 百社 を兼務 す る こ とを妨 げ ないが、実際に多数 の神社 の職務 に当た るこ とはで きず 自ず と職 務 はなお ざ りに流れ て しま う。由緒 もな く社殿 も矮小 で財政的に も 維持 困難 な無格社 を存続 させ る必要 はない。
しか しなが ら、強制的合祀が行 われ る実情 を みて、整理論者生川 の 「耳 目を苦 めん とす るも のあるは実 に予想 の外 に して」の歎息が怒 りを 含 む ところ とな る。 いわ く、「凡一利 あれ ば必 ず一害の相伴 うは世 の中の常態 とはい え、神聖 な る神社 の整理 に際 し荀 も弊害 の伴 うあ らば、
是れ角矯 めて牛 を殺 す の愚 を演ず るもの」 (3) と。
かれ の 目に 「矯角殺牛」 と映つた事実は何 で あったか。第一 は、整理 の名 の もとに神林 を伐 採 し、社殿 を禿 山に して しまった こ とであ る。
生川 の考 えで は、「ネ 申社 に於 ける第一 の必要条 件 は、森林 に して、森林 なき神社 は殆 ん ど神社 の資格 なきもの」で あるか ら、「森林 に就 きて は官民 ともに厚 き注意 を用い」なけれ ばな らな い。ところが、実際は どうであったか とい えば、
神明を本位 に置ず して、利益を本位 に置きた るものの如 し。大抵、合祀の手続きを了るや否
一
‑28‑一
や 、跡 地の無償譲与 を取 り急 ぎ、其の手続 きを 了 らむか、直に処分案 を即決 し幾千年 を経 た る 樹木 は忽 ち伐採せ られ、千古の史跡 は、見 る間 に桑 田た らざれ ば原野 となれ るもの、吾曹が実 見 しつつ あ る所 に して、
(中略 )地 力新 聞 を見 よ、日として社木入本
L払の広告 を見 ざるの 日な き・
e・°
(4)
の状態 で あった。 か く して、生川 は次 の よ うに 断罪 す る。
整 理 の本 旨は敬虔 の実 を挙 ぐるにあ るに も 拘 わ らず 、意外 にも其の 目的は某社 を昇格 させ た さに、無償譲与 に 目の眩みて、所謂敵は本能 寺 に在 りとす るものの如 し。 (5)
第 二 の点 は、 由緒 あ る式 内社 ま で も合 祀 し、
で た らめな新社 号 を掲 げ、旧社名 を滅 却 して し ま った こ とに あ る。 この点 に関 して、生り
││は次 の よ うに述 べ る。
一朝合祀説 の起 るや、其の神社 の由緒 を糸
Lさず 、事歴 を問わず、只管経済的頭脳 よ り割 出 し て、頻 に一村一社説 を唱導 し、終いに延喜以来 一 千年 を経 た る由緒 あ る古社 を も一社 に合 わ せ た るもの往 々之れ有 り。 (6)
こ うまで して合 併 した新 社 は とい えば、「合 祀社 の殿 宇 に充つ るは、寄せ集 めの殿 堂 とな り て 、体裁 甚美 しか らず 」 の有様 で あつた。整 理 論者 で あ った生川 は、事 実 、 自身 の奉仕 区域 の 小社 41社 を 1社 に合併合 祀 してい る。しか し、
かれ の考 えで は、神社数 を単 に減 らす だ けで は 敬 神 愛 国 の実 はあが らない。神 社合 併 を成 した と して も、神殿 の造 営 な く、祭典 も拡充 されず 、 神 官 に正規 の給料 も支払 わず で は、何 のた めの 整 理 か わ か らない。 こ うい う手合 い は 「埒 明的 合 祀 」 と され 、「神 社 整 理 に非 ず 、 か えつて神 社 縮 少 い な神 社破 壊 に外 な らない」 と生川 はい う。 神 殿 につ い て も、「飽 くま で清潔 と荘厳 と
を尊ぶ神社 に在 りては、寧 ろ規模 は小 さくとも、
清麗 に して威厳 の存す る建物 こそ望ま しけれ」
とのべ る。 なぜ な ら、「神殿 は尊 き神 霊 のおわ します所 、拝殿 は神聖なる儀式 を挙 ぐる式場」
であるか らである。したがつて、俗 つぱい もの、
素人脅 しの もの、山師的な構造 をもつた建物類 は、絶対 に禁 じなけれ ばな らない。 さらに、神 社 内に神苑 を作 って風致 を添 えるのは良いが、
しば しば箱庭的な造作で、自然 に繁茂す る樹枝 を切 りは らつて人造公 園風 の もの にな る よ う な俗化 は望 ま しくない と、かれ は言 明す る。
第二の問題点は、従来、神社 の担 ってきた精 神教育の役 目が、合祀 によつて失 われ忘れ られ た とい うこ とにあ る。 この点 に関 して生メ
││は、 元来 、神社 に参拝す ることは、それ によつて「太 古の ことを迫感す る と同時に、祖先崇拝 の念 も 起 り、不知不識 の間に愛 国の精神 を涵養」す る 精ネ 申的感化力 があつた と考 えてい る。 ところが、
合祀 によ り史跡 も湮滅 され 国史 も抹殺 され 、我 が国独特の制度習慣遺風 、忠孝節義 の道徳 も薄 れて しま うと言 わんばか りに、かれ は歎 くので ある。
以 上 の諸 点 で生川 の批判 は尽 くされ てい る
と考 え られ る。 しか し、余程腹 にす えかねたの
であろ うか、かれ は神社 の手水舎 に備 える手拭
の汚れや、神社 に奉納す る品物 の適不適 、神殿
の構 造 に至 るまで取 り上 げて問題 に してい る
し、近時の神官の無教養ぶ りを、制服着用 の乱
れ、用語、敬語 の不適切 な どな ど、事 こまか く
苦言 を呈 してい る。 しか し、 これ らの ことが ら
は本稿 の本筋か らは遠 いので省 略す る。生川 の
批判 の立脚 点は、こ うい う表現がある とすれ ば
神道原理主義 とで も言 えよ うか。かれ は、神社
が 国家 の宗祀 た るの地位 を保 つ こ とを切 望す
る。 この意味で、国家神道体制 になん ら疑い を
挟 む ものではない。む しろ、国体観念発揚 のた
めに も、神社 の整備 が下は村社 に至 るまで不可
欠 だ と、生川 は考 える。神社整理 はあ くまで「敬
神 の本 旨を発 揚 す る」 こ とが 目的 で な けれ ば な らない に も拘 らず 、かれ の思惑 は大 い に裏 切 ら れ た。根 本 的原 因 は どこにあつたか。
かれ は、「唯人 為 的 の規 約 に合 わ ぬ社 は一概 に合 祀せ ん」 とす る当局 の遣 り方 に問題 が あ る
とみ て 、「弊 害 の 由て来 る所 以 の原 は整 理 に係 わ る処 分方 寛厳 其 の宜 き を得 ざるに因 る」 と断 じる。具 体 的 には、二重 県 の合 併規 準 を紹介 し なが ら、官 吏 らが 「強制 的勧誘 」 をな し、相 当 の基本金 を積 み 、専任神 職 を置 か な けれ ば合 祀 す る と脅す様 子 を明 らか にす る。 か く して 、基 本 金 等 の 手 当 て をす る こ との で き な い 村 民 が
「生木 の割 か る る思 い をな しつ つ余 義 な く合 祀す る」実態 をみ て、県規 定 は 「合 祀 の責道 具 」 に外 な らない と、かれ は強 く非難 した ので あ る。
3 『全国神職会会報』にみる反対論
さて、神社合祀反対 に立つ ほかの神職 らは ど の よ うな見解 をもつていたのだろ うか。
『 全 国神職会会報』に寄稿 した三名 の反対論 者 の うち、もつ とも早い段階で意見表 明 してい たのは高階幸造である。 『 全 国神職会会報』第 6 号
(明治 33年 1月 25日 発行 )に 寄書 した 「神 社合併不可論」がそれである。 これ は同会報第
4号 (32年 11月 )掲 載 の大杉猪太郎 「神社合 併論 」 を論駁す る 目的で書 かれ た もので あ る。
同会 報 が発 刊 され た 当初 か ら、神 社 合 祀 問題
(神職会編集部 は当初「ネ 申社合併」のちには「ネ 申 社整理」と位置づ けていた )に 関 して、賛成論・
反対論 がたたかわ されていた。賛成 の立場 か ら の最初 の例 は大杉で、これ に反論 を加 えたのが 高階 と森 下熊次郎 「神社 を合併すべか らざる意 見」 (33年 1月 号 )で ある。両者 の応酬が 2〜 3 回続 き、これ に反対論 の立場で加 わったのが扇 浦漁郎 「神社 は合併すべ きか将た数多 くあ らし むべ きか」 (34年 9月 )で あ り、その後 は明治
39年 9月 号まで途絶 える。
しか し、 『 全 国神職会会報』に 39年 7月 号以 降 3回 に亘 つて巻頭論文 「神社 の整理」が掲載 され るや、再び この問題 が誌上 をにぎわす よ う にな る。反対論・慎重論 の新手 として登場 した のは、 39年 9月 号 に寄稿 した大久保剣舎「ネ 申社 の合併 と云 う事 を夢む」お よび清家多門 「神社 の廃合 に就 て当路者 の注意 を望む」であ り、同 年 10月 号の巨鼈散史 「神社 の廃合 に就 て」で ある。 さらに、中島固成 「余 の神道観 」 (40年 6月 号、 ここで整理論へ の異論 をごく短 く表 明
してい る )お よび 「神社合併 に付敬神家諸氏 に 檄す」 (41年 1月 号 )と 続 く。
もちろん、神社合祀・合併 0整 理賛成論 も初 期 の大杉 の ほか会 報編集 部 以外 の個 人 が入 れ 替 わ り立 ち替 わ り登場す るが、本稿 では賛成論 の内容 には立ち入 らず、反対論 の主張 を紹介 し てみ よ う。
高 階 ら最 初期 の反 対 意 見 は概 ね次 の三 点 に ま とめ られ る。
① 神社 は国家 の宗祀であ り、その神社 を整 理統合す るのは敬神 の念 を損 ない、ひい ては国体 に反す る。 ま して、神社 の境 内 にある森林 を伐採す るのは神慮 に反す る。
② 特 に村社 以下の神社数 が、奉仕す る神職 数 に比 して多す ぎ、満足 に奉仕 で きない ばか りか、多 くの小祠 は神社 の体 をな し ていないか ら統廃合すべ きだ とい うのは、
本末転倒 である。氏子 らに拠金 を促 して 社殿 を修理 し、祭典 を厳粛 に行 うことが 神職 の務 めである。
③ いかに小 な る神社 とい え ども、その地域 に縁故 あって建 て られ数 百年 を経 てお り、
地域 の氏子 との間に密接 な関わ りがある。
しか るに、その歴史 を無視 して経済的観 点か ら統廃合す るこ とはわが国民の崇敬 心 を損 な う。
一
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高階 じしんの 「神社合併不可論」を要約すれ ば以下の主張 となる。
歴 然 と して神 社 が残 ってい る ところで も 名 木数 本 を切 り倒 し、往 々 に してそれ らは 鼠賊狗盗 "の 手 に陥 り、 こ うして神社 の威 厳 は損 なわれて しま う。政府 の監視す る神社 の山林です らこのよ うな有様 であ り、民間の 契約 に委ねれ ば、神社 の財産 は悪知恵 に長 け た輩 の争 奪戦 とな り訴訟 の種 にな つて しま
うだろ う。
また、数社 の神殿 を空家 とし、森 々 として 繁れ る神社境 内林 を伐採 して しまえば、地域 住民の美 しき特性 が失われ る。 どの神社 もそ の土地 と密接 な関係 が あ るか らこそ住 民 は その土地 と土地の物産 を愛 し、神社 に鎮座す る神 明へ の愛着 を抱 くのである。 しか し、神 職 の奉仕 と修繕費・祭礼費 の都合か ら数社 を 廃 して、別 の場所 に移せ ば、それ は神 明に違 い人民の信仰心 も破壊 して しま う。 (7)
高階の上記論文が掲載 された『 全国神職会会 報』第 6号 には、森下熊次郎 も 「神社 を合併す べか らざる意見」を寄稿 し、国体保持の観点か
ら概略次 の よ うに述べ る。
神社 の営繕修理費や祭典費、さらには神職 の俸 給等 に余裕 がで るこ とを計算 して神社 合併 を画策す る合祀推進論者 こそ、人為 をも つて神 聖 を犯す もので私利 を謀 るた めに国 家万年 の大計 を誤 り、国体 を変動す る大不敬 罪 を生ぜ しめる原 因 となる。 (8)
次 に、 中島固成 の見解 を『 全国神職会会報』
第 111号
(明治 41年 1月 20日 発行 )に 掲載 さ れ た 「神社合併 に付敬神家諸氏 に檄す」を要約 す ることによってみてお こ う。
今度 の神社合併問題 は重大であ り、慎重 に 扱 うべ きである。神慮 に叶 うよ うに神社数 を 整理す ることには賛成だが、合併 を励行・強
行 す る とい うこ とは反 対 で あ る。 なぜ な ら、
① 強制 的合併 に よ り 「祭神 の錯 雑 」 を来 た ら す 恐れ が あ るか らで あ る。② 合 併 され た神 社 が 自然 消滅 に帰す 恐れ が あ る。③合 併廃社 に よ り、社殿 は壊 され社 本 は伐採 され て しま っ て殺 風 景 とな っ て神 慮 に は 叶 わ な い こ とに な る。
た とい社殿 は小 さ く境 内地 は狭 く、また常 任 神 職 がい な くて も、整 然 と して古雅 なた た ず まい 、神 さび た社 木 や行 き届 い た清掃 に よ って、神 社 の尊厳 は備 わ ってい る。一 町村 一 社 の制 が行 政 上必 要 との説 もあ るが、神 社 は が ん らい 永 遠 的 な もの で歴 史 的 意 義 を も つ て い る。神 さび た鎮 守 の森 の本 立 を守 る とこ ろに、神 社 の威 徳 が あ るのだ。 自由に取 り替 え が で き な い と こ ろ に こそ神 社 の神 社 た る 所 以 が あ る。ひ とつ の村 に数 社 の村 社 が あ る と して も、村 は各社 に幣 畠を供進 す べ きで あ る。 こ うす る こ とで村 の神 々 と村 民 とが相感 和 し、村 自治 はます ます 円満 に行 われ るの だ。
つ ま り、合併 しな けれ ば な らない理 由はひ と つ もない。 (9)
中島 は この よ うに述 べ 、最 後 に次 の こ とばで 締 め く くつてい る。
産土の神 を大切 にせ られ よ、無格社末社 と雖 も其里 の神 を大切 にせ られ よ、神社保存 の為 に 蓋 され よ、是れ余 が満腔 の熱誠 を以て希望す る 所 であ ります。 (1。
)かれ は、 この論 文 の ほか に も 「神 社合 併 の現 況 に就 きて」
(明治 41年 2月 )、 「神社合併 の強 行 につ き満 天 下有信 の諸 氏 に檄 す 」 (41年 10 月 )、 「神社整理 に就 て」 (43年 6月 )と 反 対 を 訴 え続 けてい る。
ちなみ に、 この 中島は、同会報 には頻繁 に寄
稿 して お り、「余 の神 道観 」「ネ 申道 論 」「ネ 申道 研
究 」等 の本 格 的論 文 をそれ ぞれ数 回 に分掲 して
い るほ どの熱 心 な研 究者 で もあ り、その意 味で は 自他 共 に許 す神 道擁護 者 で もあつた。 この点 で 、生川 と同 じく神 道原 理 主義者 で あ る。 この よ うな保 守派論者 が神 社 合併 に反対 し、む しろ 改 革 派 が 官 僚 と一 緒 に な っ て神 社 合 併 に賛 成
し、 これ を推進 した ので あ る。
上 の事情 は、巨鼈 散 史 につ い て も同様 で あ る。
かれ も早 くか ら合 祀反 対 論 を展 開 し、「祠 宇 の 如 何 に拘 らず 、老若 男 女 、 賢愚 貴賤 の別 な く、
挙 って尊敬 を払 うもの のみ な り。今 更現今 の神 社 を廃 合 して 、空理 を以 て捏 造せ る、理想 的神 社 を建 立す るには及 ばむ 」 と主 張す る。
(11)合 祀 推 進 派 の 主 張 は大 体 にお い て 次 の よ う な もので あ る。 曰 く、全 国 には矮 小 な私祠 を含 めて 19万 を超 え る神 社 が あ り、多 くは管理 も 祭 典 も行 われ て い ない。 これ らを整 理 合 併 し、
祭神 も合 併先神 社 に合 祀す る こ とに よつて、専 任 神 職 に よ る荘 厳 な る祭 典 を執 り行 うこ とが 国家 の宗 祀 た る神 社 の理想 で あ る と。 こ こには 神 職 らの長 年 の要 求 で あ っ た俸 給 の確 保 の意 味 もあつた ので、多 くの神職 は政府 の合併策 に 賛成 した ので あった。
上 に紹介 した生川 、高 階、 中島、 巨鼈 以外 に も、慎 重論 0反 対論 を寄稿 す る神 職 た ち、 また 読 者 の な か の 声 な き者 た ち は存 在 した はず で ある。その表れ として、同『 会報』第 136号
(明治 434再 2月 25日 3巻 イ 〒
)ζD 「雑幸及」本閲には、「無 謀 な る神 社 合 祀一 和 歌 山県 当局 の亡状 植 物 学者 の憤慨」 と題 し、「不口歌 山県 田辺 に居住せ る篤 学 の植 物 学者 南方熊楠 氏 の如 きは頻 りに 其不法 を鳴 らし」云々 と、編集者 の裁量で大阪 毎 日新 聞掲載記事全文 を転載 してい る。
(12)同号 にはまた、「皇典購読究雑誌」か らの転 載 として、佐伯有義 (『 古事類苑』編纂 に携 わ った著名 な神道学者 )の 「敬神思想 と神社合祀」
と題す る文章 を載せ 、次の よ うに言わ しめてい る。以下 に要約す る
(ただ し 「 」 は原文 )。
神 社 の 資 本 金 を積 み 貯 め て 専 任 神 職 を設 け るた め に神 社 合 祀 を行 うのか。専任 がいれ ば好都 合 で は あ るが、神 社 へ の奉務 が行 き届 け ば兼 務 で あ って も一 向差 支 えない。 も し、
専任 神 職 を置 くた め に神 社 合 祀 を行 うとす るな ら、それ は 「本 末 を誤 るの甚 だ しき もの で 、断 じて不都 合 で あ る。」
本 来 、神 社 とは氏人 がそ の祖神 を崇敬 の情 熱 よ り社殿 を建 て崇 め奉 った もので 、今 日の 行 政 区域 とは も とよ り関係 はない。 したが っ て 、維 持 の責任 も氏子 にあ り、他 よ り干渉 し て敬 神 の念 を阻 害 した り喪 失 させ た りす る の は得策 で ない。一 町村 一社 制 に よって数 十 社 を強 制 的 に合 祀 す る の は決 して 賞 讃 す べ き こ とで は ない。五 千 円以 上 の積 立金 が な け れ ば神 社 の存 立 を許 さず 、強制 的 に合 祀 を励 行 す る ところが あ る と聞 くが 、事 実 とすれ ば 敬神 上甚 だ好 ま しくない。
また、合 祀 に よ り神 林 を伐採 して業者 に払 い 下 げ る こ とで 不 当 な暴 利 を貪 る奸 民 が あ る よ うだ が、 これ らの者 は 「実 に悪 むべ き神 賊 」 で あ る。
合 祀 奨 励 の結 果 この よ うな 現 状 に 立 ち至 った の は、天神 地祇 にたい して誠 にお それ 多 い こ とで あ る。
(13)この 二例 か らわ か る よ うに、「一 町村 一社 」 が和歌 山県や 二重 県 な どの地域 で画 一 的・強制 的 に実施 され 、弊 害例 が 中央 に報 告 され る よ う にな った 明治 43年 頃 には、 同編集 部 内 に も合 祀反 対 意 見 が あ つた ので あ る。
4 外 国学者 へ の訴 え
合祀反対活動に関連 して柳 田と頻繁 に手紙のや り 取 りを していた明治 44年 に、熊楠は和歌山県知判 ││
村竹治宛に次のよ うな内容の書簡
(11月19日 付 )
を送った。
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野中王子、近露王子の神林は今 日本宮街道
(中辺 路 )に ただ二つのみ残る史蹟の名林であり、本邦希 有の老大杉のほか、こぶ しその他の古木が多く、千 百年来斧斤が入 らなかったこれ らの神林は諸草木相 互の関係が密接で、近年いわれるところの 「エコロ ギー」研究の好適地である。
ところが無知私欲の輩が伐採の既得権を目実に して貴重な神林を一部であれ伐採することは、内外 の学者にとつても、また史蹟存保のためにも大変 '階 しまれることである。そこで自分は白井博士に頼ん で井上神社局長にも事晴を話 し事の是非を聞いても らったところ、同局長は 琳申林を切つてそれを売却 した金で神社基本金 とすることは絶対にあつてはな らぬ "と い う返事であった。 ところが、本県の神職 取締である糸 己 俊氏は 書申社 とネ 申林は全 く男り のもので 神社を存続 させる基本金をつ くるために神林を伐る ことは問題ない "と 言つているそ うである。 このよ うに、政府の方針が下部まで徹底 されず、村の役人 や神職が自分たちに都合のいいように解釈 して奸計 をめぐらすことが絶えない。
田辺の闘鶏神社社司が行なった実例などは、以前 差 し上げた『南方二書』にも紹介 したので見てほし い。神社合 T巳 が濫行 されるようになって、自分が発 見 し図録 してきた諸生物が 日に日に絶滅 していき、
せつかく何年も精密な検究を続けてきたのに、この ように研究対象が全滅 してしまっては 「九例の功を 一賞に欠 く」ことになって、長年の苦労も水泡に帰 す恐れがある。
学問は一人の私事ではない。 自分一人の損失はす なわち学者全ての損失である。我国の損は他国の得 にな り、こちらの隙はあちらが乗ずる機 となるから、
これ らのこと
9申社合祀によるネ 申林の滅却のこと )
は外国に向けては一切語つていない。
しかし今、国際的な観点からみて、本県の神社合 祀や古蹟名勝および神林の破壊は、大きな悪事であ ることを欧州の著名 な学者達に綾々述べて、かれ ら からわが国政府あての勧告書を出してもらお うと考 えている。丁度、ロン ドン大学前総長フレデ リック・
ヴィク トル・ジキンスから手紙をもらつたので、か れに斡旋 してもらお うと考え、早速にも要請文を書 いて送るつもりである。
自分が二年前に神社合祀反対を唱え始めたとき、
どうして知事にそのことを訴えないのかと責めた人 がいた。また同じ謗 りをうけないように、安江稲城 氏に頼み、本書状 と新聞切抜き二枚をお送 り申し上 げる次第である。ジキンス氏に送る陳状書は、後 日 発送するさいには写 し一通を知事にも進呈するつも りである。 (1。
(「」は熊楠の原文、 ( )は 筆者 の補足 )
上記の要約文後半の部分からわかるように、熊楠 はジキンスに頼んで抗議署名 を集めてもらい、それ を日本国政府に送 りつけて圧力をかけることを計画 していたのである。政府への抗議申し入れは実現 し なかつたが、計画を知 らされた東京帝大教授 白井光 太郎が 「国辱 ものだ」 と噴既し、そんな不遜な者 と は以後絶交 とあいなつた。熊楠は『二書』干
J行の頃 より自井 とも文通をはじめてお り、近野村二王子社 神林保存問題では頻繁に手紙のや りとりをしている ことが 日記の受発信記録か らわかる。とくに明治 44 年 11月 は、 柳 田との間の頻度 と同じくらいの害
Jにな つている。先のり│1様口 事宛の手紙を書いた 19日 には、
白井に宛てても熊楠は手紙を出しているので、恐 ら くこの便で抗議計画を知 らせたと思われる。そ して 白井よりの「絶交宣告文」は 25日 に熊楠の許に届い た。 この 日以降 しばらくは受発信記録に自井の名前 はない。 白井の名が再び載るのは 12月 17日 の受借 欄である。また、熊楠の 10月 28日 午前 2時 と日付 時刻のある柳 田宛書簡には、 「白井博士はまことに 一徹な人 と存ぜ られ仇 ガヽ 生に対 し、文通を謝絶せ られた り」とあるから (15)ヽ 右の推定は確かである。
実は、神社合テ 鵬こよる弊害について外国の学者ヘ
報告 しようとしたのは、このときがはじめてではな
い。すでにこれの一年半も前に、欧米の複数の学者
に自ら英文の合祀反対文書を送 りつけている。文章
そのものは今 日残つていないが、この事実は明治
43年 3月 12日 付『牟辮 剛 力津晨じている。「合祀反 対論英訳二南方先生 と海外乃学者
T」の見出 しで、
次のよ うに解説記事 を載せている。署名記事ではな い ものの、内容か らみておそ らく社主・主筆の毛利 清雅の手になるものであろ う。以下に記事を要約す
る。 (16)
南方熊楠氏の 財中袷 祀反対意見」本紙に掲載 せ られて以来、県下各新聞社 もこの問題 に注意 し
は じめたばか りか、東京の有名 学者や役人にも知 られ るよ うになった。 さらに、貴衆両議院への請 願書提出を勧 める者 もいる。 しか し、南方氏は議 会 に請願 した とて無駄骨になることを慮 り、新聞 紙上で忌憚 な く反対論 を唱えることに した。その 一方で、英文の反対意見を以下の欧米学者に送つ た。
・デ ィーロン卿
(有名 なる古物学者 に して医界の 大家な り、 リスター卿の一族 )
0デ ボンシャー公
0オ ステン・サ ッケン男
(南方氏此人の父 と合著、
雪隠虫論二冊あ り。ハイデルベル ヒにて発行 )
・ス ウイングル博士
(南方氏 を米国農務顧間に推 薦せ し人 )
・アベ リー卿
(蟻蜂の専門学者、人類学の大家、
貴族院議員英国銀行界の大立者 )
0ロ バー ト・ケンネディー 0ダ グラス男
(四十年 間大英博物館東洋図書部長た り、南方氏故楢原 陳政氏 と久 しく此人の顧問 として大英博物館 日 本書籍 目録等 を出版せ り )
・ フレデ リック・ ビク トル・ディキンス男
(前ロ ン ドン大学総長也、南方氏 と共に万葉集、竹取 物語、方丈記、伊藤圭介伝等 を英訳せ し人 )
・イース トレンジ氏
(南ケンジン トン美術館東洋 部長、大英類典第十版 日本美術の条の筆者 に し て南方氏 と共に同館 日本絵画 目録 を編成す )
・エフ・エー 0バ サー博士
(古動物学専門家、南 方氏大英博物館学術特別研究の参考人た りし 人 )
。ノーマン 0ロ ツキヤー男
(二十年来南方氏が特 別寄書家である 「ネイチャー」誌の社主 )
熊楠は、神社合祀の弊害を外国の学者に書き送 る ことを、 隔導議辟剛 記事以前か らもやつていた。
その ときは 日本国政府への抗議 を期待す る意図はな かったろ うが、以下のよ うに、イギ リス人ギュー リ エルマ・ リスター
(父のアーサー・ リスター ととも に粘菌学の権威 )宛 書簡 には、1907年か ら「糸 田の 猿神社境内の新種粘菌」の件 について継続的に幸及 告 している。G.リ スターは、南方か ら報告 され る神社 合祀の実 晴や弊害を 「日本産粘菌について」
(『英 国菌学会報』所収、1915年 )の なかで紹介 している ので、それを引用す る。以下の文章は南方の言であ る。
不幸なことに、わが国の政府は今年、勅令を発 し、
小 さな神社はすべて移転 して、近隣の有力な神社に 合併するよう強制 しました。わが猿神様 もこの齢
を逃れるすべなく、この春、もとの場所を離れ、隣 村のずっと大きな神社である狐神社
(稲荷神社 )の
わきの新 しい社に移 り住みました。 <1907年 >
糸田の猿神社のことは、本当のところ一瞬気を失 うほどの絶望を味わされました。 00・ 0森が一本 の本も残 さずすつか り消え失せてしまっていたので す。樹齢数百年になるクスノキの大木の保存 さえ全 く問題にされませんで した。風景は完全に破壊 され て しまいました。近年は毎 日のように行われている こうした破壊行為は、 日本人の美的感覚のみならず 愛国心をも、遠からず荒廃 させることにな りそ うで す。 <1909年 >
昨年九月か ら私は政府当局に対 しけんめいの抗 議を行つています。政府は、古い歴史をもつわれわ れの神社を次から次へ と取 り壊 し、その破壊行為は 必然的に無数の動植物を絶滅 させるとい うきわめて 嘆かわしい結果をもたらしました。そ うした動植物 は、ひたす ら神聖な森の庇護のもとにこれまで存在 を続けてきたのです。強欲な奴 らは樹木を切 り倒 し ては金に換えていま九 この期 に友人の代議士が、
一
‑34‑―
私に代わって衆議院で大演説を行い、三一人の賛同 を獲得 しました。その演説では、科学的にみて遺感 な損失の例 として糸田の神社のはなしが持ち出され ま した。同じ日、内務省は、地方行政当局あてに次 のような通達を出すことを約 しました。その内容は、
今後、歴史の古い、科学的に興味深しゾ申社の取 り壊 しにあたっては、事前にできるかぎり慎重な審議を 尽 くすようにとい うものです。 <1910年 >
神社の保存のために戦ってきましたが、現在では わが国の知識人がおおむね私に賛同してくれている のに満足 しています 8政 府の措置に対 して過激な反 対行動をとったため、昨年九月には十八 日間拘留 さ れましたが、みなが私のために騒いでくれたおかげ で、無罪放免になりました。科学の大義のために留 置にも耐えた記念 として、監獄の古柱の上に生えて いるのを見付けた
SternOnitisの一片を採取 してき ました。 <1911年 >(17)
リスターはこの紹介文のなかで、熊楠が神社や希 少生物等のかけがえのない国家遺産を必死で破壊か
ら守 ろ うとして、標本 を求めて山間部を歩き回つて いることが生き生きと目の前に見えるようだ と回顧 している。また、 「途中であちこち話 しが とんで、
地方の風習についての楽 しい脱線になった り、僻地 の多 くの人び との心のなかでいまだに生き続 けてい る俗信が紹介 された り」 と、熊楠の手紙の特徴をよ く伝 えている。そ して、 「南方氏がいだ く畏敬 と称 賛の念は、 しば しば研究対象の微小物体のもつ美に よつて惹き起 こされたもの」だ として、熊楠が標本 について記す文章を 詩的情熱に満 ちそれ 自体が魅 力に富む もの "と 評価 している。 (18)
5 素31bり に
以上みてきたように、熊楠の神社合祀反対活動の 周辺には、この政策へのネ 申職 らによる先行的な社辟 J 活動があった。また、熊楠 じしんが国内の協力者 と
ともに、外国研究者に現状を訴えて支持を得ようと
した動きがあつたことを明 ら力ヽこした。 もちろん、
生川たち神職等の合祀反対論が先行 した とい う事実 があるか らといつて、熊楠の反対論のユニー クさが 損なわれ るものではない。先行 した神職 らの立脚点 は、神社合祀政策が従来神社の果た してきた本来の 役割
(敬神の念や地域共同体観念の形成等 )を 損な う危険 性があるとの嫌悪感であった。熊楠は後発で はあつたが、その反対論の射程は、宗教的心 陛や共 同体観念の阻害に対す る社畔
Jに止ま らなかった。か れは、人間社会 と自然 とのエ コロジカルな動態的関 係 の思想 に基づき、 自然環境の破壊や史跡 0文化財 の消失を前面に据 えたこと、また実際の反対活動に も積極的に取 り組んだことにおいて、一方で国内外 の学者・文化人を取 り込み、他方で地域の市井人の 参加 をも得 ることができた とわた しは考える。
注
(1)芳 賀直哉 :「 南方熊楠 と神社合祀
(上)」
(静岡 大学教養部研究報告
(人文 0社 会篇 )第 24巻
第 2号
1〜24p1988.3)、 同 :「 南方熊楠 と柳 田国男一神社合祀問題 をめぐって一」
(静岡大 学教養部研究報告
(人文 0社会篇 )第 27巻 第
1号
1〜12p1991。 7)、 同 :「 熊楠 の 自然―南 方熊楠 の 自然観、宗教観 について一」 日本宗 教学会誌 『宗教研究』第 69巻 第 1輯 157〜 169p
1995.6)、同 :「 『南方二書』 と熊楠」
(南方熊 楠資料研究会編『熊楠研究』第 4号 144〜 154p 2002.3)他 参照
(2)春 山生 :「 無格社整理の一方法」 (『 神社協会雑 誌』第 2冊 第 17号 34p明 治 36年 7月 国 書刊行会 昭和 59年 )
(3)生 川鉄忠 :「 神社整理に伴 う弊害」 (『 神社協会 雑誌』第 7冊 第 2号 35p明 治 41年 2月 )
(4)生 川 :「 鳴呼史跡の湮滅 を如何にせん」 (『 神社
協会雑誌』第 8冊 第 12号 41p明 治 42年 12
月)
(5)生 川 :同 上
(6)生 川 :「 神 社整 理 の餘 弊 国史 を抹殺 す るの嫌 な き平」 (『 神社協会雑誌』第 7冊 第 11号 49p
明治 41年 11月 )
(7)高 階幸造 :「 神社合併不可論」 (『 全 国神職会会 報』第 6号 22p明 治 33年 1月 ゆまに書房 平成 3年 )
(8)森 下熊次郎 :「 ネ 申社 を合併すべ か らざる意見」
(『 全 国神職会会報』第 6号 23p明 治 33年 1月 ) なお、森 下が危惧 した 「神社合併強 行 が国体 を変動す る大不敬罪 を生ぜ しめる原 因 とな る」 については、直接 的に熊楠 が この 文章 を 目に したのではないが、明治末 の 「大 逆事件 」 に関連 して熊楠 は これ を神社合祀遂 行 の弊害のひ とつ と指摘 した。
(9)中 島 固成
:「ネ 申社 合 併 に付 敬 神 家 諸 氏 に檄 す 」 (『 全 国神職会会報』第 111号 32p明 治 41年 1月 )
(10)中
島 :同 上
(同33p)
(11)巨 鼈 散 史 :「 ネ 申社 の廃 合 に就 て」 (『 全 国神 職会会報』第 93号 20p明 治 39年 10月 )
(12)「 無謀 な る神社合祀―和歌 山県 当局の亡状 植物学者 の憤慨」 (『 全国神職会会報』第 136 号 76〜 79p明 治 43年 2月 )
(13)佐 伯有義 :「 敬神思想 と神社合祀」 (『 全国神 職会会報』第 136号 82〜 83p明 治 43年 2
月)
(14)『 南方熊楠全集』第 7巻 (平 凡社 1971年 525‑528p)
(15)『 柳 田国男・南方熊楠往復書簡』
(南方熊楠 選集別巻 219p平 凡社 1985)
(16)「
合祀反対論英訳二南方先生 と海外乃学者丁」
『牟婁新報』明治 43年 3月 12日 付記事 確該 J
版 『牟聯 囲第 11巻 349p不 二出版 2002。
5)(17)ギ ュー リエルマ・ リスター :「 日本産粘菌に ついて」
(『英国菌学会幸剛 所収、1915年 )<
『南方熊楠 日記』月報 4(人 坂書房 1989。 1)
に掲載の高橋健次氏の訳に拠る。
1〜4p>
(18)ギ ュー リエルマ・ リスター :同上
(2011.1。
20周逸不 高 )
一