企業年金ガバナンスの進展と最適な 制度運営
丸 山 高 行
■アブストラクト
企業が企業年金をもつことには,どのような意義があるだろうか。たとえ ば従業員の勤労意欲を高めたり,生産性の向上につながることによって,企 業価値を高めるといえるだろうか。企業年金の存在意義を確かめるためには,
企業年金ガバナンスについて考察することが不可欠である。企業年金を漫然 ともつだけでは,企業価値は高まらない。企業年金ガバナンスと真摯に向き 合い,その実効性を高める努力を重ねて初めて,企業価値の向上につながる のではないか。
企業価値を最大化する企業年金ガバナンスを考えることによって,最適な 制度運営の姿が明らかとなる。企業年金運用の帰趨を左右する政策アセット ミックスは,企業年金を含めた企業全体の最適資本構成を考える中で,最適 積立比率という形から具体化される。また,企業年金ガバナンスは,監視シ ステムの整備,制度運営者へのインセンティブ付与といったコストを伴う。
このコストをエージェンシー・コストととらえ,コストと企業価値のトレー ド・オフ関係から,最適なリスク管理体制やインセンティブ設計,さらには 最適な制度体系の答えも見えてくる。
■キーワード
企業年金ガバナンス,受託者責任,エージェンシー問題
*平成23年9月9日の日本保険学会関東部会報告による。
/平成24年9月7日原稿受領。
1.はじめに
わが国の企業年金制度は,将来的に発展できるか,それとも,衰退の道を 歩むかという,重大な岐路に立たされている。
制度的には,2002年4月の確定給付企業年金法(以下
DB
法 )施行に より,加入者,受給権者の権利保護を重視した確定給付型の新しい制度が誕 生し,それまでの税制適格退職年金は2012年3月末をもって終焉を迎えた。また,米国の401
k
にならい,2001年10月に施行された確定拠出年金法(以 下DC
法 )によって,日本にもポータビリティに優れた新時代の制度が 導入された。この2つの制度と,従来からの厚生年金基金制度の3者が相ま って,中小企業から大企業まで,日本の多様な業種・職種をカバーする,厚 みのある企業年金制度が確立するかに思われた。ところが様々な要因により,当初の設計図からはかなりかけ離れた制度体 系が出現しつつある。最大の要因は,運用環境の低迷,特に,国内株式市場 の著しい不振である。加えて,リーマン・ショックや東日本大震災,円高な どの直撃を受けた日本企業の利益水準も低迷を余儀なくされたため,多くの 企業にとって,企業年金制度,特に確定給付型の企業年金制度を維持する負 担感が急速に高まった。さらに,国際会計基準の導入機運が,この負担感を 増幅する方向に働いていることは間違いない。
こうした状況下,2012年2月,AIJ問題が発覚した 。この問題は運用実 績を投資顧問会社自身が意図的に改ざんしたという,かなり特殊な事例であ るにもかかわらず,日本の企業年金制度,さらには公的年金制度が抱える多 くの矛盾や問題点をはからずもあぶり出す結果となった。同時に,AIJ問題 を契機として,企業年金ガバナンスの重要性が再認識された。
企業年金ガバナンスは, 年金ファンドの所有者である加入者や受給権者 に対して,年金給付が約束通り履行されるように,年金ファンドを管理・運
1) 厚生年金基金を中心に全国で94の企業年金が被害に遭い,被害総額は2000億 円近くに達した。
営するメカニズム と定義できる。AIJ事件を受け,同様の問題の再発を防 ぐために企業年金ガバナンスの強化を目的とした諸規制が議論され ,順次 実行に移される状況となっている 。しかし,企業年金ガバナンスは,そも そも不祥事をなくすためだけに行うものだろうか。コーポレート・ガバナン スがそうであるように,企業価値を高めるという視点も重要なのではないか。
本論文は,企業年金ガバナンスの重要性を再確認するとともに,企業経営 の一部として企業年金ガバナンスの設計図を描く際の留意点を明らかにする ことを目的とする。具体的には,企業年金ガバナンスを定義し,企業年金ガ バナンスと受託者責任の関係を整理した上で,企業年金ガバナンスの構造を 説明する基本モデルとして,プリンシパル・エージェント・モデルを導入す る。このモデルを基軸として,近年のコーポレート・ファイナンス理論 の 成果を取り入れながら,企業価値を高める企業年金ガバナンスのデザインを 考えて行く。
2.企業年金ガバナンスの基本構造および受託者責任との関係
⑴ 企業年金ガバナンスとコーポレート・ガバナンス
もともと ガバナンス(governance) には,支配,統治,管理といった 意味がある。この ガバナンス を行なう対象を企業としたものが, コー ポレート・ガバナンス という考え方である。
コーポレート・ガバナンスという概念の起源は,1960年代のアメリカにあ
2) 2012年4月,厚生労働省は 厚生年金基金等の資産運用・財政運営に関する 有識者会議 (以下 有識者会議 )を発足させ,計8回の会合を経て同年7月,
最終報告書をまとめた。有識者会議のほかに,民主党,自民党のそれぞれが独 自の
PT
を立ち上げ,関連問題を議論した。3) 有識者会議の結論を受け,2012年7月から8月にかけて,厚生年金基金規則 および 厚生年金基金の資産運用関係者の役割及び責任に関するガイドライン について (通知,以下 ガイドライン )の一部改正についてのパブリックコ メントが実施された。
4) コーポレート・ファイナンス理論は,企業の最適な資金調達手段や資本構成 を導き出す理論である。解説書は多数あるが,たとえば,Tilore(2005)参照。
るとされる。当時,ベトナム反戦運動や消費者運動が盛り上がりを見せる中 で,非倫理的ないし非人道的な企業の行動を外部から抑制するという考え方 が次第に形成されていった。その後,相次ぐ企業不祥事の発覚を受け,コー ポレート・ガバナンスの主目的は企業不祥事を未然に防ぐことにシフトして いった。現在は,これに,企業価値(ひいては株主価値)を高めるという目 的が加わった考え方として,世界的に定着している 。
企業年金ガバナンスは,コーポレート・ガバナンスの考え方や仕組みを企 業年金に応用したものである。OECDの年金ガイドライン(http://
www.
oecd.org/ dataoecd
/18/52/34799965⑵ 企業年金ガバナンスの基本構造
企業年金ガバナンスと一口に言っても,ガバナンスを行う主体,ガバナン スを行う対象によって,いくつかの要素に分解できる。また,確定給付企業 年金(以下
DB
)の基金型と規約型,さらには厚生年金基金の間で,微妙 にガバナンス形態が異なる。ただし,企業が企業年金をもち,企業年金の実 質的な運営主体を 年金制度運営者 と表現すると,企業年金ガバナンスの 本質的要素は,図1のA〜Dのルートで示すことができる。企業年金に関与する主体(ステークホルダー)について,大きくは外部関 係者と内部関係者に分けられる。Aは,外部関係者が,企業の外側から企業 年金をチェックするというガバナンスである。外部関係者として代表的な主 体は,株主,監督官庁,監査法人などである 。B,Cは,内部関係者,す 5) 財務省財務総合政策研究所編 フィナンシャル・レビュー のコーポレー ト・ガバナンス特集,Shleifer and Vishny(1997),Cheffins(2012)ほか参 照。
6)
DB
法上,厚労省はDB
に対して監査の実施に赴くことができると規定され ており(DB法第101条),実地検査の件数も増えている。なわち,企業内のメンバーが企業年金に対して行うガバナンスである。それ ぞれガバナンスを行う主体が,Bは経営者(もしくは取締役等のボード・メ ンバー),Cは従業員(もしくは労働組合)となる 。最後のDは,年金制 度の内部で行われるガバナンスである。DB法上は,基金が自家運用する場 合を除き,積立金の管理・運用については生保会社,信託銀行といった運用 専門機関に運用委託することが義務付けられている(DB法第65条,第66 条)。各受託機関がしっかり運用を行っているかどうか,定期的に目を光ら せるのがD部分のガバナンスである。
言い方を変えれば,Aはコーポレート・ガバナンスの一環として行われる ガバナンス,Bは企業年金を対象とする母体企業の内部統制,Cは従業員が
7) 正確には,Cの主体に加入者だけでなく受給権者も含まれる。
図1 企業年金のガバナンス構造
(出所)筆者作成。
自らの受給権保護のために行うガバナンス,Dは制度運営者が受託者責任を 果たすために行うガバナンスということになる。
⑶ 企業年金ガバナンスと受託者責任の関係
企業年金ガバナンスと似た概念に,受託者責任がある 。両者の関係を簡 単に整理しておこう。
通常,受託者責任が議論される領域は,図1のEの部分である。年金制度 運営者は従業員から企業年金についてガバナンスを受けると同時に,従業員 に対して受託者責任を負う 。具体的には, 従業員が将来の年金給付を確 実に受け取れるべく,与えられた責務を全うする という役割を担う。
今一つの受託者責任の所在は,図1のFの部分である。年金制度運営者か ら個別年金ファンドの運用を委託された運用受託機関は,それぞれ年金制度 運営者に対して受託者責任を負う。
企業年金ガバナンスと受託者責任はいわば表裏一体の関係にあるが,ここ で議論の対象となるのが,利益相反の問題である。代表的なケースは,図1 の経営者と従業員間の利益相反である。Eの受託者責任を考えた時,制度運 営者は忠実義務に照らして,たとえば運用受託機関の選定やシェアを考えな ければならないが,母体企業との関係で影響を受けることが少なからずあり 得る 。また,株式投資,特に国内株式投資における議決権行使の問題もあ る。制度運営者は,受託者責任を果たすために運用パフォーマンスを上げる 行動をとる必要があるが,株式投資については,当該株式を売却するか,売 却できない場合は議決権を行使することによってパフォーマンス向上を図る
8) 受託者責任の詳細については,森戸(2003)ほか参照。
9) なお,DB法上,規約型では事業主が加入者・受給権者に対して受託者責任 を負うが,基金型では,基金の理事が基金に対して受託者責任を負うという法 形式となっている。
10) 具体的な事例と対応策については,たとえば厚生年金基金連合会 確定給付 企業年金受託者責任ハンドブック などを参照。
努力が期待される。ところが,たとえば議決権行使の対象株式を発行する企 業が,年金制度を外から監視する企業(図1の株主)であるような場合に,
果たして受託者責任だけに立脚した投資行動がとれるかどうかが問題とな る 。
3.企業年金ガバナンスの形態を表現する基本モデル
⑴ エージェンシー理論からのアプローチ
現在進んでいる企業年金ガバナンスは,どちらかといえば,企業年金に対 して監視の目を光らせるガバナンス,つまり,企業がリスク管理の視点から 取り組むガバナンスである。もちろん,各企業にとって,企業年金のコント ロールが重要な経営課題であるという認識が強まった点は評価すべきである が,監視の仕組みを整えるだけでは思うような結果が得られない懸念があ る 。
一方,企業年金に対するガバナンスを強化するために,法制面の対応を急 ぐべきとの意見もある。たとえば,受託者責任規定に違反した場合の罰則を 強化したり,禁止行為の具体化や企業年金の運営プロセスごとの責任と権限 の明確化,訴訟体制の整備といった手当てが考えられる が,法的拘束力 に立脚して問題解決を図ることには,自ずと限界がある。
それでは,こうした問題を解決するために,どのような考え方を用いれば よいだろうか。結論からいって特効薬は存在しないが,コーポレート・ガバ ナンスでは,同様の問題解決を図る場合に, エージェンシー理論 の考え
11) たとえば,連合会が公表している 株主議決権行使基準 および 株主議決 権行使に関する実務ガイドライン 参照。
12) たとえば,企業年金の場合,監視される当事者が特定されると,萎縮してし まって本来とるべきリスク水準に達しなかったり,リスクに見合う適正なリタ ーンを確保できない可能性が生じる。かといって,委員会組織のような合議制 に企業年金の運用を委ねると,特に運用パフォーマンスが平凡なものとなって しまう懸念がある。
13) 前掲有識者会議の最終報告書およびその後の関連パブリックコメント参照。
方やアプローチがしばしば応用される 。
エージェンシー理論とは,主たる行為主体(プリンシパルという)と,そ の主たる行為主体のために活動する代理人(エージェントという)の間の関 係から,様々な経済現象や政治現象を解き明かそうという考え方である。エ ージェンシー理論は プリンシパル・エージェント理論 とも呼ばれるが,
本稿では,以下 エージェンシー理論 と呼ぶこととする 。
⑵ プリンシパル・エージェント・モデルのメカニズム
エージェンシー理論の企業年金ガバナンスへの適用を考えるにあたって,
まずはコーポレート・ガバナンスの分析に用いられるモデルの基本的メカニ ズムをみてみよう。
典型的なアメリカ型の(アングロサクソン型ともいう)コーポレート・ガ バナンスにおいては,プリンシパルは株主であり,エージェントは経営者で ある(図2②)。現代の株式会社は,株式を発行して投資家(株主)から資 金を調達し,企業経営は専門能力をもつ経営者に委ねる形で, 所有と経営 の分離 が実現されている。プリンシパルである株主は,自己の利益を最大 化するために経営上の様々な意思決定権をエージェントである経営者に委譲 するが,たとえば,経営者が,従業員や取引先といったインサイダー・ステ ークホルダー(内部利害関係者)に対する配慮を優先し,資金提供者である 株主にとって重要な 企業価値の最大化 に十分な努力を払わないケースが 考えられる。
また,通常,経営者は株主よりも会社の実態に関してはるかに多くの情報 を有しているので,この 情報の非対称性 を利用して,株主などから預か った資金を,必ずしも高い収益の見込めない非効率的なプロジェクトに投資 14) エージェンシー理論は,経済学において様々な分野に応用される。代表的な
分野が,ミクロ経済学,企業金融,コーポレート・ガバナンスなどである。
15) エ ー ジ ェ ン シ ー 理 論 の 基 本 的 な 文 献 と し て,Ross(1973),Jensen and
Meckling(1976),Fama
(1980),Grossman and Hart(1983),オリバー・
ハート(2010)などを参照。
したり,明らかな私的目的に流用するといった問題も発生する。コーポレー ト・ガバナンスとは,こうした 利害の不一致や情報の非対称性に起因する エージェンシー問題を解決して,株主(あるいは広く資金提供者)の利益の 最大化を実現するための,法的・経済的メカニズムの構築 ということがで きるだろう。
⑶ エージェンシー・モデルのバリエーション
企業年金にも,コーポレート・ガバナンスと同じようなプリンシパルとエ ージェントの関係が重層的に存在する。その基本構造は図1で見た通りであ るが,それではこの枠組みを,エージェンシー理論を使ってどのようにモデ ル化できるだろうか。
エージェンシー理論の基本モデルはプリンシパルとエージェントがそれぞ れ一人ずつのタイプであるが(図2①),このモデルの応用型として,一人 のプリンシパルと複数のエージェントがいる 複数エージェント・モデル
(図3①) ,あるいは,複数のプリンシパルと一人のエージェントがいる コモン・エージェンシー・モデル(図3②) がある 。コーポレート・ガ
(出所)筆者作成。
図2 エージェンシー理論の基本モデル
16) 伊藤・小佐野(2003)参照。
バナンスや企業年金ガバナンスの分析に当てはめられるモデルとしては,後 者のタイプが考えられる。コモン・エージェンシー・モデルでは,複数のプ リンシパルが一人のエージェントの行動をコントロールしようとする。その コントロールの手段・手法が明示的に示されれば,それが企業年金ガバナン スの最適な設計プランにつながっていくが,複数のプリンシパル間の行動の 調整を考慮に入れると,問題解決は単純にはいかない 。
4.エージェンシー問題解決のポイント
⑴ エージェンシー理論が導く三つの解決策
企業年金ガバナンスの最適な設計プランを考えるにあたっては,エージェ ンシー理論によるエージェンシー問題の解決方法が参考になる。一般にプリ ンシパルとエージェントの間には, 情報の非対称性 と 利害の不一致 が少なからず存在するが,それをふまえた上で,プリンシパルは自己の目的 にできる限り適合する形で,エージェントの行動をコントロールしようとす る。このようなケースでは,
17) この問題を数学的にモデル化した場合の最適解は,たとえばゲーム理論のナ ッシュ均衡や完全ベイジアン均衡,あるいは,バーゲニング理論のナッシュ・
バーゲニング均衡といった形で表現することが考えられる。ゲーム理論につい ては,たとえば
Watson
(2007),岡田(2011),バーゲニング理論についてはMuthoo(1999)などを参照。
(出所)筆者作成。
図3 エージェンシー・モデルのバリエーション
①エージェントの活動の監視
②エージェントに対するインセンティブの付与
③①,②に伴うエージェンシー・コストの削減
の三点にバランスよく配慮した設計プランが,望ましいガバナンスの形態
(デザイン)となる 。
ただし,企業年金ガバナンスは,複数のプリンシパルについて,各々が自 己の利得の最大化を目指して行動する 完全利己的な人間 を必ずしも仮定 できない 。一方のプリンシパル(の一員)である加入者は,他方のプリン シパルである経営者の従業員であるから,互いに依存しあう 互恵的な関 係 にあるといえる。また,企業年金からのリターンが直接的には経営者
(年金スポンサー)側に帰属しないという特性もある 。
加えて,エージェントの活動状況に応じて主体的なプリンシパルが交代す る 状態依存型ガバナンス の性質を帯びている 。さらに,エージェント の行動にはリスク,特にコントロールの難しい資産運用リスクが伴う。
企業年金ガバナンスはこうした特殊要因をもつが,以下に示すような問題 解決の方向性は,本質的には変わらない。
⑵ エージェントの活動の監視
プリンシパルはエージェントの活動内容を把握し,その成果を評価するた めに,エージェントの行動を監視する必要がある。これは,エージェントの 不適切な行動を牽制するとともに,エージェントの活動に関する情報を入手
18) 青木・奥野(1996),菊澤(2006)ほか参照。
19) エージェントについて,完全利己主義の仮定を緩めた場合の分析として,た とえば伊藤(2004),菊澤(2007)参照。
20) わが国においては,企業年金が積立超過となった場合,超過部分は基本的に 年金制度の加入者および受給権者に帰属する。ただし,この超過部分を使って 掛金を引き下げる形で,年金スポンサー側の負担を減らすことは可能である。
21) コーポレート・ガバナンスの場合,状態依存型ガバナンスとは,企業の財務 状態が健全な場合は経営者側にあるコントロール権が,悪化した場合は債権者 であるメインバンクに移行する形態をいう。詳細は,青木(1997)などを参照。
し,エージェントとの間の情報の非対称性を埋めようとするプリンシパルの 対応策でもある。現在,企業年金ガバナンスの設計が考えられる際は,もっ ぱらこの 監視 の視点から議論されるといってよいだろう。
効率的な監視の仕組みとして設計された代表例が,先に見たアメリカ型の コーポレート・ガバナンスである。アメリカ型では,図2②のように,所有 と経営,つまり監督者と執行役を分離していることが最大の特徴である。さ らに,監視役を果たす取締役会のメンバーの過半を社外取締役としたり,取 締役会の下に社外取締役を中心とした監査委員会や報酬委員会などを置くこ とによって,何重ものチェック・システムを作り上げている 。
⑶ エージェントに対するインセンティブの付与
エージェントを真に 代理人 として機能させるためには,プリンシパル とエージェントの利益を可能な限り一致させる必要がある。そのためには,
エージェントに対する インセンティブ ,すなわち 動機付け をいかに 設計するかが重要なポイントとなる 。エージェンシー理論が導く最適解は,
インセンティブ設計のデザインによって大きく左右される。
インセンティブ設計のわかりやすい例が,コーポレート・ガバナンスにお けるストック・オプション制度である。プリンシパルである株主にとって,
株式を保有する企業の業績が高まることが望ましいので,エージェントであ る経営者のやる気を引き出すために,業績連動型の報酬制度を導入すること が考えられる。プリンシパルの目的が株式価値の最大化にあるとすれば,エ ージェントの報酬を自社の株価に連動させるストック・オプション制度は,
22) アメリカ型と日本型のコーポレート・ガバナンス・システムの比較研究とし て,前掲 フィナンシャル・レビュー ,中村(2003)などを参照。
23) インセンティブ(incentive)には, 動機 のほか, 刺激 , 誘因 , 報 奨金 といった訳語が使われるが,わかりやすくいうと, エージェントにや る気を起こさせるもの , エージェントに飴と鞭を与えて,プリンシパルが望 む行動へと駆り立てるもの ということになる。前掲伊藤・小佐野(2003)参 照。
極めて合理的なインセンティブ付与の方法ということができる。
⑷ エージェンシー・コストの削減
プリンシパルがエージェントに対するガバナンスの実効性を高めようとす ると,様々なコストが発生する。エージェンシー理論では,こうしたコスト を総称して, エージェンシー・コスト と呼ぶ。エージェンシー・コスト には,たとえば,次のような分類方法がある 。
①プリンシパルのモニタリング・コスト
プリンシパルはエージェントの行動を把握し,評価するために,エージェ ントの行動を監視する。この監視のためのコストが,モニタリング・コスト である。
②エージェントのシグナリング・コスト(保証コスト)
エージェントは,プリンシパルからの信頼を得るために,プリンシパルと の情報の非対称性を埋め,自らの行動がプリンシパルの利害に合致するもの であることを知らせる必要性がある。この通知の努力が,シグナリング・コ ストと呼ばれる。
③残余損失
上記①,②以外のプリンシパルの利益の減少分が,残余損失となる。
5.最適な制度運営の要点
⑴ 制度運営の Plan−Do−Seeプロセス
企業価値の向上につながるような企業年金ガバナンスとは,どのようなも のだろうか。
制度運営の大枠を
Plan
−Do−Seeプロセスの形で表現してみると,まず,計画(Plan)の段階では,年金制度の設計・改定,年金ガバナンスの設計,
リスク管理体制の確立を行う。次に実行(Do)の過程では,資産運用の実 行,掛金の収納・給付の支払いが中心となる。計画,実行を受け,最後に検
24) 前掲
Jensen and Meckling(1976)。
証(See)として,財政決算・財政検証,決算報告を行う。制度運営は,こ の
Plan
−Do−Seeプロセスの繰り返しによって,受託者(制度運営者=エ ージェント)が委託者(加入者・受給権者と母体企業=プリンシパル)の負 託に応える,つまり受託者責任を果たしていく過程ととらえることができる。こうしたプロセスをふまえ,企業年金ガバナンス設計のキーポイントを5 点ほどあげておきたい。
⑵ 基金型か規約型か(Plan)
企業年金ガバナンスを考えた時,基本的なポイントは 所有と経営を分離 するか という視点だろう。企業年金ガバナンスにおける命題は,経営者と 加入者・受給権者,それぞれの立場から企業年金の制度運営者に対し,監視 の目が行き届くようにしなければならないということである。アメリカ型の コーポレート・ガバナンスに近い形が,DBにおける基金型のシステムであ る。基金型では,プリンシパルとエージェントは別個の経済主体として分離 されているし,法的にも,両者は別々の法人として規定されている。
これに対し規約型は,所有と経営,監督と執行の分離が不十分なシステム ととらえることもできる。コーポレート・ガバナンスの世界では,企業の創 業期や中小のオーナー企業において株主が自ら経営者を務め,所有と経営が 一致しているケースに相当する。加入者・受給権者の立場に立った時,基金 型と規約型のどちらが企業年金に対する効率的な監視システムとなるか,有 事の際に法的責任を追及できる仕組みが備わっているか という点も含め,
議論する必要があろう 。
⑶ 運用の基本方針および政策アセットミックスの策定(Plan)
年金運用に限らず,資産運用プロセスは,大きく①運用目標の決定,②資
25) たとえば,基金型の理事に対する訴訟ルートについての整備問題が該当する。
26) 残念ながら近年は,主としてコスト面から,基金型から規約型への移行(基 金の廃止)が目立っている。
産配分の決定,③運用スタイルの決定,④銘柄選択の四段階に整理できる。
このうち特に重要なのが,①の運用目標の決定と②の政策アセットミックス を決定するプロセスである。この二つのプロセスの段階で,運用パフォーマ ンス変動の約90%が決まってしまうといわれている 。
運用目標,政策アセットミックスを中心に,年金資産運用に関する基本的 事項をまとめたものが 運用の基本方針 である。運用の基本方針は,いわ ば年金制度運営の委託者(当然に,制度の加入者・受給権者を含む)が受託 者である制度運営者に期待する行動全般を取り決めるものである。プリンシ パル・エージェント・モデルでは,エージェントの行動を規整する 契約条 件 に相当する ため,その内容については,本来最大限の注意を払って 取り決めるべきものといえよう。とりわけ,運用の基本方針に記載すべき項 目のうち,政策的資産構成割合,すなわち, 政策アセットミックス が重 要である。政策アセットミックスは,運用目標を達成するための具体的な資 産配分目標を表現する。一般的には,年金
ALM
などによって導出されるこ とが望ましいとされるが ,判断の決め手となるのは年金制度の積立水準を どの程度に保つかという視点である 。この目標積立水準に向けて,運用の 基本方針と政策アセットミックスが練り上げられていく。27) こ の 問 題 に 対 す る 代 表 的 な 実 証 研 究 と し て,Brinson et al.(1986),
(1991)ほか参照。
28) プリンシパルとエージェントのような関係を契約関係としてとらえ,現実経 済の様々なメカニズムを解明しようとする理論を 契約理論 という。契約理 論 に つ い て は,た と え ば 伊 藤(2003),柳 川(2000),Bolton and
Dewatripont(2005)などを参照。
29) 政策アセットミックスおよび年金
ALM
についての全般的な解説書として,デービッド・ブレイク(2012)参照。
30) いわゆる効率的フロンティアから最適ポートフォリオを導くロジックでは,
フロンティア上のどの点を選ぶかがポイントとなる。望ましい積立水準が決ま れば必要利回り(期待収益率)が求められ,フロンティア上の点を絞り込むこ とが可能になる。
⑷ 制度運営者へのインセンティブの付与(Do)
運用の計画段階の次は,実際に運用業務を執行する段階となる。年金制度 の運営者は,通常,年金ファンドの運用を運用受託機関(信託,生保,投資 顧問)に任せる。ただし,受託者責任の面からは,年金制度運営者には自己 執行義務が課されているとも解釈できるため,運用執行という重要業務を他 者に委ねるに際しての留意事項が,法令上幅広く規定されている。同時に,
制度運営者には,厚生年金保険法や
DB
法上,高い識見と倫理観が求められ る 。AIJ事件の本質は,制度運営者にこうした要素が足りなかったためで はないかとの指摘も多い 。しかし,現実には,企業年金ガバナンスの設計段階で,こうした専門的資 質を高める枠組みが設けられているケースはほとんどない。いわば,プリン シパルがエージェントに望ましい行動をさせるための インセンティブの付 与 という視点が欠けているのである 。
企業年金ガバナンスにおけるインセンティブをエージェントに対する 報 酬 と考えた場合,その設計のポイントは運用の基本方針と政策アセットミ ックスの設定の仕方となる。運用の基本方針と政策アセットミックスはエー ジェントの行動をコントロールする,いわばリスク管理の要となるが,同時 に,エージェントの成果を評価する際のベンチマークともなりうるものであ る 。直接的な報酬以外にも,企業年金の運営を通じて様々な専門能力を身
31) 実際,DB法施行規則第84条では,努力義務ながら,事業主等は政策アセッ トミックスの決定に際し, 専門的知識及び経験を有する者を置くこと と定 められている。
32) たとえば浅野(2012)は,AIJ事件の当事者となった年金基金の理事の素養 やガバナンスの実態について,いくつかの問題点を指摘している。
33)
AIJ
問題を受け,有識者会議およびその後のパブリックコメントでは,資産 運用の責任を担うメンバーに対して連合会等の研修が義務付けられる方向だが,残念ながら,強制感は否めない。
34) これはちょうど,運用受託機関のパフォーマンスを基本ポートフォリオや資 産別インデックス対比で計測し,成績がよければシェアアップを行うというイ ンセンティブの付与の仕方(いわゆる,マネージャー・ストラクチャーとパフ
に付けたいというエージェントの要望に応えることも,一つのインセンティ ブ設計の形である。金融や経済の専門知識を修得する機会を提供することは,
本人の励みとなると同時に,こうした分野の専門家が育成できれば,企業に とって大きな財産となることは間違いない。
⑸ 運用の振返りと定期的なディスクロージャー(See)
年金運用プロセスの最終段階では,運用パフォーマンスのチェックが中心 課題となる。運用パフォーマンス向上のために様々な運用手法,運用技術が 試みられているが,定期的にパフォーマンスを振り返り,当初立てた計画と の対比でパフォーマンスの良し悪しとその要因を分析するプロセスの重要性 は共通である。プリンシパルとエージェントという関係に立脚してこうした 振返りとディスクロージャーの意義を考えると,エージェントにとって,プ リンシパルの信頼を得る重要な情報発信手段ということができる 。それは,
プリンシパルの過度の監視を不要とするものであり,結果的に,エージェン シー・コスト(保証コスト)の削減につながっていく。
振返りにあたって,プリンシパルとしては,最適な制度体系の構築を常に 意識することも大切である。たとえば,現状の
DB
がよいのか,給付減額を 含めDB
の改良がよいのか,一部移行を含めDC
へのシフトがベターか。従 業員の勤労意欲や生産性,ひいては企業価値の向上につながる制度設計が検 討されることが望ましい。⑹ ガバナンス・コストの削減とアウトソーシング(See)
効率的なガバナンス体制の設計のためには,コスト面からガバナンスを考 える視点も欠かせない。企業年金ガバナンスにおいては,エージェンシー・
コストは主として経営者側が負担することになるが,単にコストを切り詰め
ォーマンス評価基準の設計)と類似する。
35) 契約理論では, シグナリング という概念に相当する。前掲伊藤・小佐野
(2003),前掲伊藤(2003),菊澤(2006)のほか堀(1991)参照。
ればよいというものでもない。不要なコストを削ることは当然として,たと えば年金
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やフィデューシャリー・マネジメント といった一部業務 を外部専門家にアウトソーシングするコストを含め,ガバナンスの実効性を 高めるコストは正当に評価する視点が重要である。一方で,必要以上にコス トをかけ,ガバナンスを強化する一方では,エージェントの活動を阻害する 弊害が生じ,企業年金の価値,ひいては企業価値の減少につながりかねない。こうした考え方に立てば,企業価値を最も高めるようなガバナンスのあり方 が,少しずつ見えてくるはずである。
6.おわりに
プリンシパル・エージェント・モデルをフレームワークとして,企業年金 ガバナンスを分析し,実効性のある制度運営のポイントを提示してみたが,
次のステップは,各ポイントにおける最適解の導出を試みることである。も し,最適解が求まれば,その解を目標に,ガバナンスの設計プランを考えれ ばよい。
たとえば,政策アセットミックスの決定については,通常の年金
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か ら一歩進めて,企業経営全体を見渡した上での最適資産配分を決めるという アプローチが考えられる。これは,コーポレート・ファイナンスにおける最 適資本構成を決定するフレームワークに企業年金の要素を加えることで,解 決できる可能性がある 。インセンティブ設計については,たとえば,給与面,人事面の工夫によっ て,制度運営者の自発的レベルアップを図る対応が考えられる。また,エー
36) フィデューシャリー・マネジメントとは,受託者責任関連業務を幅広くアウ トソーシングするビジネスモデルをいう。たとえば,アントン・ヴァン・ヌー ネン(2009)参照。
37) 最適資本構成を決定する問題に対しては,様々なアプローチが提唱されてい る。代表的なアプローチとして,倒産コスト・モデル,エージェンシー・コス ト・モデル,ペッキング・オーダー・モデルがある。前掲堀(1991)のほか大 村(2010)などを参照。
ジェントに対するインセンティブの付与は,プリンシパルのガバナンス・コ スト(エージェンシー・コスト)を低下させる効果もある 。こうしたイン センティブの付与がガバナンスの実効性に与える影響,ひいては企業価値と の関係を分析することは,企業年金ガバナンスの研究に求められる重要なテ ーマであろう。さらに,企業年金を経営者による従業員へのインセンティブ 付与の一つととらえることもできる。この視点から,企業が企業年金をもつ 意義が明らかとなれば,DB,DCをはじめ,最適な制度設計の解も見つか るかもしれない。
以上,残された課題を列挙するにとどまっているが,こうした諸課題に関 する研究が企業年金のゆるぎない発展につながれば幸いである。
(筆者は住友生命保険相互会社)
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