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陸奥国尾太鉱山と泉震又
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成
定 つ 主
尾 太 慈 山 は
︑ 臨 奥 富 津 軽 領 最 大 の 鉱
山で︑かつて銀・鎮・鉛の非鉄金麗を大量応義出した(地国参照﹀︒
寛政八年ハ一七九六﹀秋︑当拡山の付近を旅行した菅江真澄は﹁雪
も ろ た 金
の母呂太奇﹂に﹁オツブの名はもと蝦夷いへるなるべしLと地名の
由来を述べ︑出羽悶との境にそびえる出の﹁銅掠るところ﹂と︑鈎
鉱 山 で あ る と 記 し て い る 第 一
⁝ 一 巻
︑ 未 来 社
︑ 一 九
七八年﹀︒十八世紀前半より
尾太鉱山は︑銅の産出が盛ん
になっていたから︑このよう
に真澄は記述したのであっ
た︒時期はさかのぼるが︑﹁元
禄十五年(一七
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二﹀の諸国銅山
覚﹂
(﹃
泉屋
叢考
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第 二
輯所収︑一九五九年﹀に﹁尾
太津軽越中守様御領分﹂と
書き上げられ︑同鉱山は仙台藩領の四カ銅山︑盛岡藩領一四カ銅山
とともに︑陸奥国の代表的な銅山の一つとして︑住友友芳から江戸
幕府勘定奉行の荻原重秀へ報告された︒
さて︑右の尾太鉱山については︑従来︑本格的な研究がなされて
おらず︑昨年︑拙稿﹁尾太以前││近世前期津軽領鉱山の復元と鉱
山開発││﹂(﹃青森県史研究﹄七号︑二
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二年﹀が出て︑ようやく近世津軽領の鉱山研究の端緒が聞かれたに過ぎない︒そのなか
で泉屋文三郎に関して触れるところがあり︑その点について今井典
子民から貴重なご教一示をいただいた︒本稿では︑今まで住友の鉱業
史研究のなかでも触れられることのなかった︑津軽領における泉屋
又三郎(以下︑文三郎と略記﹀の活動について紹介し︑十七世紀後
半︑大坂の住友家による奥羽地方の銅山開発の一端を明らかにして
おき
たい
︒
津軽領の鉱山開発に文三郎が出てくるのは︑﹁弘前藩庁日記御
国日記﹂(弘前市立図書館蔵︑以下﹁国日記﹂と略記﹀天和元年
尾太鉱山の位置
(一六八一﹀六月二十九日条である︒弘前藩では︑同年六月︑文三
( 和 脱 ) お お わ さ わ
郎に﹁大沢之内中泊﹂(弘前市大和沢﹀に銅山見立てを依頼した︒
また﹁国日記﹂元禄十三年十月一一十四日条によれば︑天和二年まで
秋田の角助が尾太鉱山の山先として銅の採掘をしたが︑大きな損失
を生じて経営を停止した︒その後︑文三郎と津軽出身の山師二階弥
三左衛門が尾太鉱山に取り掛かったが︑それも成就しなかった︑と
ある
ついで﹁国日記﹂天和三年五月八日条に見える﹁尾太鉱山の山勢 ︒
かろうじ回復に関する口上書﹂は︑かつて弘前藩金銀銅惣山奉行の唐牛与右
衛門の下で鉱山役人を務め︑引き続き鉱山の役務に就いていた黒石
九左衛門と笹森治左衛門が︑﹁尾太御山諸色委細帳面﹂を江戸藩邸
に提出して︑尾太銀銅山の現状と各問題点を報告し︑それについて
藩主や家老の裁定を仰いだものである︒文三郎と尾太鉱山について
は︑第三条目に記述が見え︑主旨は︑次のとおりである︒
﹁御手前山﹂(御手山のこと﹀の時分に吹き残した銅鉱石が︑五
0 0
見える収穫がなく︑断念した経緯があった︒これは尾太山と刊か慌 分二の役(二パーセント上納﹀で製錬させたが︑ほとんど目に
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荷ほど残存していた︒それを昨年(天和二年﹀︑文三郎に一0
で三・四年間固い置いた鉱石で︑雨雪にさらしたため︑﹁生拍﹂に
なってしまったようだ︒雪消えとともに山中に捨て置いた鉱石の再
製錬を︑蔵米一
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俵︑銀一貫目︑人足一O
人でもづて実施してしまいたい︒銅鉱石五
O O
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荷からは銅五O
箇ほどを得られる予定だが︑さらに損がかさむようであれば中止する︒ただし望みの者がい
なければ︑そのままということになろう︑というものであった︒右
の提案に対して︑器管舗は全面的に了承を与えた︒
十七世紀後学︑投友家は︑奥羽地方の鏑由開発に乗り出し︑鹿角
器の立石・鴇・十和自︑出現爵では幸生・一ニ枚・壌訳・板木沢・加
久知・七十枚の各鏑鉛山に関与した︒なかでも︑又一一一部は延宝六年
︿一六七八﹀から同九年にわたって十和田鉛山に︑特に深くかかわ
ったという︒また会津黒沢村錦山ハ一福島県耶麻郡閥会津町)の数に
は︑年代不明なるも﹁先泉屋又=一郎稼捨いとの記述が見え完住支
史料叢書宝の山い忠文明総出張︑一九九一年﹀︑又三郎は秋田領事
高部領だけでなく会津若松鎮まで潜出していたようだ︒
右に昆たように弘前審で誌︑又一一一郎へ領内鉱山の見立てと尾太鉱
山の再建︑さらには吹残しの鍛鉱おの製錬を依頼した︒又三認は︑
前記の十和田鉛山の経営を軌道に乗せた後︑津軽償に入り込んだの
であろう︒津軽り・山部二階とともに又一ニ蕗が︑思太鉱山の経営を征
されたという﹁霞日記﹂の記録からは︑強友家が又三郎を介して本
搭的に津軽領内銅山開発に参画しようとしていたので誌ないかと考
えられる︒ところが︑又三部は貞事五年︿U元禄元︑一六八八﹀七
足ζ死去したので︿前掲﹃泉寵議場い第一一輯﹀︑住友家の企酉は
頓挫
した
よう
だ︒
従来︑住友家は西留の別子銅山関坑以龍︑奥羽地方では秋田・海
部︑会津若松領や出活躍甫部の銅鉛山の開発を手がけてきたと言わ
れてきた︒しかし津軽鎮でも又三郎を通じて領内鏡出の見立て︑四月
太鏡鉛山の再開発と錦製錬を通じて探く関わっていたりである︒住
友家は北奥羽の銅鉛山でほぼ全域にわたって関与したといえよ
う
︒ ハ 弘 前 大 学 大 学 院 地 域 社 合 研 究 科 教 授
﹀
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