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エルドアン大統領のトルコ (トレンドリポート)

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(1)

エルドアン大統領のトルコ (トレンドリポート)

著者 間 寧

権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名 アジ研ワールド・トレンド

巻 231

ページ 41‑45

発行年 2014‑12

出版者 日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL http://doi.org/10.20561/00039950

(2)

二〇一四年八月一〇日にレジェ

ップ・タイップ・エルドアン首相

︵二〇〇三年より在任︶がトルコ

で初めての大統領直接選挙により

五二%の得票率で第一二代大統領

に選出された︒トルコ憲法は大統

領を国家三権の調整役と位置づけ

ているが︑エルドアンは憲法改正

による執行型大統領制導入を狙っ

ている︒本稿では︑エルドアン大

統領下のトルコ政治経済を︑二〇

一五年六月までに実施される次期

総選挙を視野に入れて分析する︒

●執行型大統領へ

大統領選挙戦ではエルドアンが

現職の立場を最大限に利用して選

挙戦を展開した︒遊説への移動は

公用車やヘリコプターを使い︑全

国の街頭広告には同氏の宣伝が至

る所に張られた︒公共放送のTR

Tはそもそも与党偏重であるのに

加え︑民間メディアの大半が︑公

共事業入札での便宜を得たい実業 家に所有されているので与党公正発展党︵AKP︶支持が鮮明とな

る︒エルドアンは︑二〇〇一年経

済危機翌年の総選挙で単独政権を

築いた後︑イスラム的価値に基づ

く教育・社会政策および所得再分

配政策︵低所得者には食料・燃料

配給など︶を推進することにより︑

多数派民主主義︵選挙で勝利した

多数派がすべてを決める権利があ

るとする︶を実現してきた︒昨年

一二月以降に政権の汚職が暴露さ

れても

︵後述︶

︑価値観対立と再

分配により形成された多数派の支

持は揺るがなかった︒

トルコの大統領職は現行憲法で

は国家三権の調整役であるため

その政治的権限は限定的であると

ともに政治的中立性も求められて

いる︒しかしエルドアンは執行型

大統領になることを選挙戦中から

公言し︑現行憲法下でもそれを実

行に移そうとしている︒二〇一五

年六月までに行われる次期総選挙 で国民投票無しに改憲可能な国会議席三分の二を確保して憲法改正により

︑︵半︶大統領制に移行す

ることを狙っている︒エルドアン

は首相としての三期目に︑大統領

制導入に加えて基本的人権拡大な

どを含む包括的な憲法改正を試み

て部分的な合意が積み上がった

しかし︑肝心の大統領制導入への

支持が野党のみならず与党の一部

からも得られなかったため︑憲法

改正を断念した経緯がある︒

エルドアンは現在︑三期目に試

みたような包括的な憲法改正を想

定していない︒単に大統領が行政

に積極的に関わっていくと述べて

いるだけである︒そもそも中央主

権化しているトルコの政治体制が

︵連邦制化などにより︶中央政府

の権限を地方に移譲せずに大統領

制化すれば政治体制がさらに強権

化することが懸念されている︒強

権化は︑二〇〇〇年代にIMF主

導の構造改革やEU加盟交渉開始

後の外資流入などにより急成長し

てきた経済にとっても大きな懸念

材料となっている︒

●経済が政治へ従属

AKP政権は過去一二年間で経

済優先から政治偏重に変遷してき た︒AKP政権第一期の二〇〇二

〜二〇〇七年は二〇〇一年経済危

機を収束させるべくIMFスタン

ドバイ支援を受けながらその条件

である構造改革を実行した︒政治

的には国内外には保守民主主義を

標榜し︑イスラム原理主義に対す

る国内外の懸念の払拭に努めた

しかし二〇〇七年に総選挙で大勝

︵得票率四七

︶すると

︑それを

AKP第二期政権は﹁国民の信任﹂

と捉え保守イスラム主義へ傾倒し

ていった︒多くの世論調査は︑こ

のときの最大の勝因は経済安定化

だったことを示していた︒AKP

政権は二〇〇八年にはIMFとの

スタンドバイ取極を更新せず︑経

済改革の機運は遠のいた︒同時に︑

軍部や世俗主義者にクーデター容

疑をかけた裁判︵エルゲネコン裁

判や鉄槌裁判︶を後押しし︑AK

P政権に批判的なこれらの勢力を

弱体化させた︒二〇一〇年憲法改

正では︑司法人事機関である判事

検事最高委員会に司法府以外から

の人選を可能にして︑同委員会や

最高裁判所に親政権勢力を配置し

た︒

二〇一一年総選挙では再び国民

の半数︵五〇%︶の支持を得て第

三期政権を築き︑第二期政権で始

エルドアン大統領のトルコ

間   寧

(3)

まった経済政策の政治化をさらに

進めた︒第一に︑IMF経済改革

の実施を担ってきた独立機関を総

理府直属化し︑反政府的とみなす

勢力を抑えるために利用した︒貯

蓄預金保険基金が新聞や放送局を︑

所有者の詐欺や債務不履行などを

理由に接収し︑与党寄り実業家に 売却した︒また資本市場局と銀行監督局は︑ゲジ抗議運動︵後述︶が外国資本の陰謀であるとのエルドアンの

主張に沿って︑同運動時の証券・

銀行取引記録を調査した︒加えて

省庁も政治化し︑歳入省が︵ゲジ

抗議時に避難したデモ参加者を傘

下ホテルで受け入れた︶コチ・グ

ループに対して︑その傘下製油会

社TUPRASへの追徴課税やト

ルコ初の戦艦建造事業落札取消し などの経済制裁を課した︒

第二に︑市場原理に反しても建

設利権や景気の拡大を重視する経

済政策が採られてきた︒イスタン

ブル第三空港︑第三ボスポラス橋

プロジェクトなど︑土地収用が大

きな利権を生む一方で資金調達が

疑問視される大型公共事業への参

加企業の債務を財務省が保証し

将来的な財政負担の可能性が生ま

れた︒中央銀行は政権の意向に沿

ってインフレ容認︑低金利維持に

傾いていたが

︵図 1

︶︑政権汚職

捜査を受けて急落したトルコ通貨

を防衛するために金利引き上げを 二〇一四年一月に行った後も︑エルドアンは﹁金利はインフレの原因で結果ではない

﹂ ︑ ﹁ ︵

中 央 銀 行

の︶独立性とは何を言っているの

か︑自分は選挙で信任された﹂な

どと述べ︑金利引き下げを強く求

めた︒中央銀行上級役員五名が六

月に解任され︑ヌマン・クルトゥ

ルムシュAKP副総裁は﹁軍部の

次は中銀の権限見直し﹂︑ニハト・

ゼイベクチ経済相は﹁金利を一月

二九日以前の水準へ﹂などと発言

してエルドアンに追従した︒その

結果中央銀行は﹁利下げ﹂と﹁見

送り﹂の折衷策として六月末に政

策金利である一週間物レポ金利を

〇・七五ポイント︑さらに七月に

は〇・五ポイント︑それぞれ引き

下げた︒このようにして︑インフ

レの目標値を実現値が上回ること

が定着し

︵表 1

︶︑

IMF 改革の

産物だったインフレ目標制は有名

無実化している︒

●民主主義の後退

過去約二年にわたりトルコ政治

の権威主義的傾向の強まりが指摘

されてきた︒選挙での多数派の支

持を根拠にAKP政権の宗教保守

的価値観を国家制度に反映する傾

向はすでに二〇一三年五月の酒類

(%) 図 1 政策金利とインフレ率

(注)金利に変更があった時点でのデータのため、時間軸は等間隔ではない。

(出所)トルコ中央銀行ホームページ(http://www.tbmb.gov.tr)のデータより筆者作成。 

表 1 インフレ目標

目標値

(A)

実現値

(B)

達成度

(B-A) 中央銀行総裁

2002 35 29.7 -5.3 スュレイヤ・セルデンゲチティ

2003 20 18.4 -1.6

2004 12 9.3 -2.7

2005 8 7.7 -0.3

2006 5 9.7 4.7 ドゥルムシュ・ユルマズ

2007 4 8.4 4.4

2008 4 10.1 6.1

2009 7.5 6.5 -1

2010 6.5 6.4 -0.1

2011 5.5 10.4 4.9 エルデム・バシュチュ

2012 5 6.2 1.2

2013 5 7.4 2.4

2014 5 - -

(注)達成度は、値が小さいほど高い。

(出所)図 1 と同じ。

(4)

エルドアン大統領のトルコ

販売規制法︵教育機関と宗教施設

から半径一〇〇メートル以内での

販売禁止︶などにみられるが︑街

頭示威行動のみならず言論による

政権批判をも力づくで押さえ込む

姿勢が顕著になったのは同年後半

以降である︒まず︑イスタンブル

のゲジ公園の再開発反対運動に端

を発したデモが過剰な警察力で弾

圧されたことにより抗議運動が国 内の他の地域にも飛び火した︒政権はこれらを押さえ込んだあとも︑同運動を支持した市民団体関係者を拘束したり︑トルコ弁護士連盟の権限を縮小する法案を成立させたり︑ゲジ抗議運動を自己検閲無しにありのままに報道した新聞記者やテレビキャスター約八〇名近くを解雇または辞職に追い込んだりした︒世界の民主主義を監視しているNGOである

フリーダムハウス

の報告では︑報道の自由について

のトルコのスコアは二〇一二年の

五六から二〇一三年に六二︵アル

メニア︑エクアドル︑リビア︑南

スーダンと同じスコア︶へと一挙

に下がったことにより︑トルコの

自由度区分はそれまでの﹁半自由﹂

から﹁非自由﹂へ転落した︵図2︶︒

次に︑一一月に進学・学習塾の

廃止計画が発表されたことで︑A KP政権とその最大の支持組織だ

ったイスラム運動ギュレン派との

対立が決定的になった︒ギュレン

派は漸進的イスラム主義で穏健派

とみなされてきた︒奨学金︑学生

寮︑進学・学習塾の運営により官

僚候補となる学生を勧誘してきた

同派にとって︑進学・学習塾は資

金・人材獲得のための最大の源で

ある︒AKP政権は軍部の影響力

を削ぐためギュレン派が警察や司

法府などの国家組織へ浸透するの

を二〇〇四年頃から許してきた

そして同派が前述のクーデター容

疑裁判や同派に批判的なマスコミ

人をも標的にした裁判を画策した

とされる︒

同派とAKP政権の対立のきっ

かけはクーデター容疑裁判で二〇

〇人以上の軍人が拘束されたこと

で共通の敵がなくなった後に︑両

者の潜在的対立点が表面化したこ

とである︒ギュレン派は対外的に

は親米︑国内的にはトルコ・イス

ラム主義でクルド民族主義には敵

対的であることで知られている

これに対し︑AKP政権は二〇〇

九年ダボス会議でのエルドアン首

相︵当時︶のイスラエルのペレス

大統領︵同︶との口論︑二〇一〇

年ガザ支援船事件とその後の対イ スラエル外交関係凍結などにみられるように反イスラエル・アメリカ姿勢を強めた︒またAKP政権

はクルド独立を求めて武争闘争を

続けてきたクルディスタン労働党

︵ PKK

︶と和解交渉を進めてき

た︒二〇一二年にはギュレン派の

影響下にある検察が和平交渉担当

者の身柄の拘束を試みるがエルド

アン首相が急遽法改正によりその

試みを阻止するという出来事も起

きている︒

ギュレン派がその後AKP政権

へ反撃したことが︑ゲジ抗議運動

以降のAKP政権の強権化に拍車

をかけた︒そのきっかけは︑二〇

一二年一二月一七日に三閣僚の息

子と国営銀行総裁などが︑イラン

への金輸出に関する汚職容疑で逮

捕されたことである︒同月二五日

には別の汚職容疑でエルドアン首

相の息子ビラルなどへの捜査が計

画されていた︒検察と警察に浸透

していたギュレン派がこの汚職捜

査を主導したと理解されている

同時に︑汚職への関与を示唆する

映像や通話録音がインターネット

上に流出した︒これに対してエル

ドアンは内閣改造で四閣僚を更迭

して責任を取らせる一方︑警察担

当者を数千人の規模で︑また検察

図 2 トルコにおける報道の自由:フリーダムハウスのスコア

(注) 報道の自由 があるほどスコアは小さい。自由:1-30;半自由:31-60;非自由:61-100。

(出所) Freedomhouse のウエブサイト(http://www.freedomhouse.org/report-types/freedom-press.)より筆者作成。

(5)

官や判事も大幅に配置転換して汚

職捜査を力尽くで阻止した︒

さらに検察と警察のギュレン派

を一掃するとの理由で大幅な人事

異動が行われた︒ただし実際には

検察や警察のギュレン派を正確に

特定できていないため︑まずは現

職者を解任し︑AKP政権に近い

人員が充てられた︒二〇一四年一

月には法相が︵構成員ではないに

もかかわらず︶参加した判事検事

最高会議で大幅異動が行われた︒

警察庁密輸組織犯罪対策局では全

員が異動された︒二月には判事検

事最高会議を行政府に従属させる

法改正により現職委員の任期を終

了させるとともに︑監査部長任命

および全委員の部門間異動権限が

法相に与えられた︒またインター

ネット規制法の改訂で︑急を要す

場合︑政府がプロバイダーに対し︑

四時間以内にプライバシー侵害サ

イトへのアクセスを禁止すること

が可能になった︒三月には政府が

Twitter やYouTube へのアクセス

を遮断した︵ただし四月に憲法裁

判所判決を受け︑Twitter とYou 

Tube

へのアクセスが解禁された

九月に上記のアクセス禁止を合法

化する法律が成立したが再び憲法

裁判所が違憲判決を下した︶︒ AKP政権は汚職捜査後の二〇

一四年三月の統一地方選挙で勝利

した︒AKP支持率は四五%で︵選

挙区割りの変更があったものの︶

前回の二〇〇九年統一地方選挙で

の三八%を上回った︒その勝因は︑

一般的に言って汚職が与党支持率

を大きく減少させることはないこ

とに加え︑低所得者への再分配政

策やエルドアンの過激な言説で意

図的に世論の両極化を進めて支持

構造を固定化したこと︑全国都市

の過半数がAKP市政で強力な選

挙組織となることなどに求められ

る︒同選挙でギュレン派による反

AKP選挙運動の効果がほとんど

みられなかったことはAKP政権

をさらに勢いづけた︒政権は警察

組織を中心としてギュレン派粛正

を続ける一方︑前年一一月にギュ

レン派の抗議を受けて一時見合わ

せていた学習・進学塾廃止法案を

四月に成立させた︒

●新内閣は次期総選挙までの

つなぎ政権

九月に成立した新内閣へのエル

ドアンの影は濃い︒憲法では大統

領に選出された者は政党との関係

を絶たれるとの定めがあるにもか

かわらず︑エルドアンは大統領に 選出された後もAKP党大会に参

加し︑後継総裁・首相としてアフ

メット

・ダウトール外相を指名

同氏が単独候補として総裁に選出

されたのである︒ダウトール政権

発足により前政権から四閣僚の交

代があったが︑最も重要なのはエ

ルドアン大統領の側近であるヤル

チュン・アクドアンAKP国会議

員︵エルドアンの筆頭顧問︶とヌ

マン・クルトゥルムシュAKP副

総裁︵元イスラム派小政党党首で

エルドアンに請われて入党した

非国会議員︶が副首相として入閣

したことである︒これによりエル

ドアン大統領がダウトール首相を

監督する構図ができあがった︒

経済政策で評価が高いもののエ

ルドアンと政策上の対立が生じて

いたアリ・ババジャン副首相の去

就も注目されていたが︑ダウトー

ル首相は経済政策の継続性を内外

に示すためにも︑ババジャン副首

相の留任を本人に求めた︒ババジ

ャンはその条件としてメフメット

・シムシェク財務相の留任を認め

させた︒市場の信頼を得られるこ

の二人の閣僚は留任したが︑ババ

ジャンはすでに国会議員三期目に

入っているため︑AKPの党綱領

に従えば次期総選挙には出馬でき ないし︑非エルドアン派であるため非議員としての入閣も期待できない︒前大統領アブドゥッラー・

ギュルに近い閣僚のなかでは︑今

回の大統領選に際して︑大統領に

ギュル︵再選︶を︑首相にババジ

ャンを推したベシル・アタライ副

首相が新内閣から外された他は

自席を維持した︒それは次期総選

挙までの短い間にギュル派との対

決を避けるのが賢明であるとのエ

ルドアンらの判断による

huriyet 紙︑二〇一四年八月二九日︶︒ Cum- ︵

ダウトール首相は二〇一五年六

月までに行われる総選挙で︑最低

でも︑国民投票を条件とした憲法

改正を可能にする国会議席五分の

三を得られなければ首相続投を期

待できない︒そのためエルドアン

大統領の意向を尊重するものの

有権者の与党支持に決定的な影響

力を与える経済の舵取りを最優先

せざるを得ない︒所信表明演説で

は変動相場制の維持と中央銀行の

独立性と物価安定の使命を強調し

た︒ただし︑エルドアン大統領が

首相の所信表明原稿から変動相場

制維持の文言を削除していたとの

報道もあり︑ダウトール首相は忠

誠と実績の均衡に腐心することに

なる︒そもそも学者出身で首相外

(6)

エルドアン大統領のトルコ

交顧問から二〇〇七年に初めて国

会議員に選出されたダウトールの

党内基盤も盤石とはいえない︒

ババジャン副首相は九月の金融

関係者への記者会見で対外借り入

れによる成長は持続不可能であり︑

直接投資呼び込みが必要であるこ

と︑投資家は金利だけでは判断せ

ず政治経済制度の信頼度をより重 視することを強調した︒首相も新聞記者との会見で一一月までに経済構造改革案を提示すると述べた︒経済における製造業の比率は一九九八年の二三・六%から二〇一四

年前半の一六・五%へ低下してい

る︒首相は実体経済が成長せず貨

幣経済が膨張することは経済危機

を招くと警告を発した

紙︑二〇一四年 Hürriyet︵

九月一五日︶︒た

だし改革は選挙

前と後に分けて

実施されること

から抜本的な改

革は総選挙後に

持ち越される公

算が強い︒

他方︑AKP

政権三期目に顕

著になった経済

政策の政治化は

続いている︒ダ

ウトール首相は

検察官と判事や

大学教官の賃金

引き上げを約束

したがこれは他

の公務員の賃金

引き上げ要求に

火を付けかねな い︒エルドアン大統領はギュレン派の所有するアジア銀行を営業停止させるために﹁銀行規制監督局

は決断を下すべき﹂と公言して圧

力をかけた︒アジア銀行はイスタ

ンブル株式市場でも取引一時禁止

措置を受けた︒また対外経済関係

団体の連合会である対外経済関係

評議会︵DEIK︶の人事と予算

が経済省の省令で定められるとし

た法律が九月に成立した

︒︵会頭

をトルコ商工会議所連盟会頭が務

める︶DEIKはトルコの対外経

済関係団体で中心的役割を果たし

てきたが︑AKP政権下では一時︑

ギュレン派系の企業が参加するT

USKOMがDEIKを凌駕する

ようになった︒ギュレン派とAK

P政権との悪化関係が表面化した

二〇一三年以降︑対外経済関係の

民間部門内の調整役は再びDEI

Kに委ねられていたが︑AKP政

権はDEIKを自党勢力の任官先

としようとしている︵Hürriyet紙︑

二〇一四年九月二九日︶

︒これに

抗議する形で︑トルコ商工会議所

連盟会頭はDEIKの理事会の全

会一致の﹁賛同﹂のもとに辞任した︒

汚職捜査時に急落した実質実効

相場は︑二〇一四年三月の統一地

方選挙での与党勝利を受けて一度 は揺れ戻したが八月にエルドアンが予想どおり大統領選挙で勝利してもそれ以上回復しなかった︵図3

︶︒しかもアメリカの金利引き

上げ観測が拡がるとともにトルコ

の対﹁イスラム国﹂攻撃連合への

参加が見込まれるなか︑トルコリ

ラへの切り下げ圧力がかかってい

る︵Hürriyet紙︑二〇一四年九月 三〇日︶

︒同時に

︑﹁イスラム国﹂

のシリア内クルド人への攻撃をト

ルコ政府が﹁傍観﹂しているとす

るクルド民族主義勢力の抗議運動

も勃発している︒変動相場制度が

維持されている限り二〇〇一年の

ような通貨危機の発生は考えにく

いが︑経済の成長力回復と脆弱性

克服のための具体的政策はまだ提

示されていない︒その試金石とし

て︑一一月までに発表される経済

構造改革案が注目される︒

︵はざま  やすし/アジア経済研究所  中東研究グループ︶

図 3 トルコリラ実質効為替相場(1999 年 1 月〜 2014 年 9 月)

(注)2005年平均値を100 とする。 

(出所)図 1 と同じ。

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