――目次――
1,
五祖弘忍の法嗣,宇井伯寿,Hakuzyu UI,pp.1-25.
2,
神道における誓約の信念,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.26-37.
3,
我が国における古代氏族の祖神について,肥後和男,Kazuo HIGO,pp.28-55.
4,
神と歴史,歴史における理性と理念,由良哲次,Tetsuji YURA,pp.56-73.
5,
弁証論的神学の絶対者把握に対するカトリック的批判,ハインリッヒ・デュモリン,pp.74-88.
6,
上代寺院の武力の発達,所請僧兵の発達について,平田俊春,Toshiharu HIRATA,pp.89-119.
7,
宗教学説史の基本的動向,佐木秋夫,Akio SAKI,pp.120-132.
8,
宗教心理の問題としての禅と念仏,鈴木大拙氏著『禅と念仏の心理学的基礎』について,岸本英夫,Hideo
KISHIMOTO,pp.133-144.
9,
言語学と宗教史,George van Langenhove, La Linguistique et l’Histoire des Religions,八木亀太
郎,Kametarō YAGI,pp.145-156.
10,
海外雑誌論文,pp.157-158.
11,
新刊紹介,pp.159-163.
宇 野′胆㌧ 革
ニ
∵
道立の肇向僧睡の召棉篇の論七倍胡恰雀の二賢に対して連座せ述べ七
鹿妻義経腰省、榊化哲芥﹂瀾墟江絡、大乗壁観﹂功革華向、在世寧流∑抑仰如市ヤ邸血盟轟葦原腰皿沙▼−審英準則遣蕩之志存軍潮壁書、別邸胸之宗血捨、詳武、展俗禦勤、姦智一郎、帝鯛老潮不軸、層見英之
能劇、静櫨膏温﹂故担富乎、
とい加、更に恰偶感麿を封盟して論じて居るが∵揖高値樽が周航十九蟹冥毎頻首藤牒七七て成りた時には津摩
系新の周軌道信伏存命叫であり、共筏著脊璧且が資料.を柑るに従って純潔追加tて造血入寂した乾封二年︵六六 七︶まで肥は迫信の入寂︵六五こ牛頭法離山入寂︵六空ハ︶があって、繹系統は梢盛大に.太りう1あやたとや いへ.恐らく後世想換する程に大勢力を得て居たのではないから、望且ノⅥ右の首風連睦系統の輝勢力尤蓼脛心て 雲ぢはなくして.ノ璧盲ら達摩の膵につ心て洞見して碍た紹如其鶴亀を述べた⑬Ⅵであ充・滞今の僻地畢威す ら励もすれば∵連摩の膵は、支部に於て羅什党賢以塞菩慮甜と七て硬述七飯に宿望盃宋の般若弓1観の思想を遊 五平弘j畢の.法毎五灘弘忽の 渾嗣
よモJJ五組弘忍の法嗣
二 とした抑系統山一段の進歩に外ならぬとなすが如きに比較すれば、遣宜の見識の造に探きを恩・はぎるを待ない。 連摩は南地に上陸したには相違ないが、直に洛陽嵩山に従って任した。北方に去つた筏にも連歴と緑什偲賢以水 の思想との脚聯糾合のあつたことは見出されぬ。常時の状態としては北方の怜科榊茸等の一圃と膚至高系の一 同とが柑的系統として存し、その間に達摩が南地から北地に行ったのであつて、後に南方三諭系と達摩系との関 係が生するに至ったので 先づ此この達摩系が何磨に中心地を有したかを見ると、道立は達摩が江洛を間導す であ少、叉在世の畢流郎仰すること市の如しといふも、恐らく誇張の言であらう。達磨としては苫山が化導の中 心であつて、弟子は南方にも北方にも居たが、然し常時其繹が盛に流行したといはれ得る程で層な 連摩に嗣いだ第二阻は若吋であるが、寓山に於て六年随従修鎖して碍麗し、此ハ後は終演を敦化して郡部に出で た。向㍍士・化公・蓼公・和絆師・恰郊.・法林︵又は曇林︶・貿月などを得たが、北周破彿の時にはそれぞれ何 磨にか逃れたのであつた。現今出版せられた糾合錬は、之を蒼吋は隠れて常州幌山に居ったとし、歴代洗賢記は 破彿の時とはいはないが、ただ相法後川十年鴫山洛相二州に隠るとなして居る。常州は安微省東南部揚子江沿岸 にあるが、鳩山は棄陽にあつて、嚢陽は湖北省東北部の都である。故に常州鳩山とはいはれない理である。帥令 妹の焉本をよく見ると、槻とあるのではなく、右努は明に多少綴った完の革鰻と考へらるるもので、従って決し て幌ではない用然し咤は恐ら︵呪の普通で、晦山は呪山であらう。呪山は呪公山と同じで、潜山ともいひ、最高 峯を天柱山といひ、司室山︵叉腋思基山︶と隠避なつで安徽省潜山顆の西方にある。轍山は恐らく乾山の焉誤で、 ゑ空言g鑑山であらうα故に藩可は此山に逃れ、後に稼郡部に蹄つたqであろ。故に連摩と嘗可とは大慣北他にあり而も 黄河流域に近い所を行化したのであり、楊ナ江に近い桝は雌二時逃れたのみである。 然るに第三帆伶粂は主として常州思基山に侶た人で、そこで第四組遺信を柑、此ハ後逸に南方贋東に近いといへ る羅浮山に行き、三年隠れて更に睨山に頻って寂した。故に伶尭は既に主として揚子江に近い桝に居たことにな る。第掴租遣信は の所、である。ここから街山即ち南嶽に至らむとし、江州即ち九正に止まつたが、遺体が請うて鷹山大林寺に留 め・菅。居ること十年であつたが、鷹山の罷高峰から斬州黄栴腺被銅山︵又は破顔山︶に琴芸ある4虻虜て、これ位 ぬなりとして移少、改めて壁基山と焉し窄。四組のことを⋮単に埜撃といふのはこれが焉である。埜峯山は九江に 封する揚子江北岸から甚だしくは遠からぬ所で湖北省斬州黄栴願にある。ここに任すること三十年問、弘忍を得 て、此山で寂した。節末組弘忍は道信の寂後は埜峯山の菓の鳴基山︵又は凋母山或は晴茂山︶に居た。五租の法 門か東山法門と糾せらるるのはこれが焉で、之に射すれぼ闇租の居た研は酉山になる。五弧は共役にもここを〓 でなかったから、四組克組は全く西山東山に居たのである。かくして三組以来は安徽省の西南地方湖北索の東南 地方の揚子江に近い所に居たのであつて、初租〓祀の居た洛陽岩山及び鄭都から南方に移って揚子江近くに紺完 の中心地が移動したといへる。
〓
五祀弘忍は宏忍とも革︰かるるが、俗焼は周氏、黄侮朕の人、仁詩元年︵六〇∴︶に生れ、大業三年︵六〇七 五組弘忍の法嗣 gダニぎ五軌弘忍の法嗣
四
七歳で遣信に奉仕したといふ。此時道信は二十八歳である。然し爾弊弘忽が奉事すること三十年で道信が寂すと
いはるる鱒で見れば、両人の合ったのは猶十五年も後である筈である。遺信は十三歳︵五九二︶で伶粂に禽ひ、十 年仙従払、恰粂は更に三年に心て寂したから仁詩三年︵六〇三︶以後の寂であるが、通常は大業二年︵六〇六︶寂したと万ふ。遣信は其後晋州に行き、共廃に何年居たか明でないが、次等鷹山に十年居て蟹篠山庭来たⅥで
ぁるから、壁濱山鳩和栗のは斗くも三十五戒以後である。弘忍が七儀で償うたとすれ
るべきである。遺信が腰山から壁峯山を望見した時弘忍も其虜に居セといふ読もあり、叉黄桶で道信初めて弘忍
を見たと滋す詮李朝る。奉恕す渇こと一二十年といふのは恐らく箪信が攫峯山に入つて三十飴年居て寂七東ヰ小成
研から骨ばるる虻至
屈て∵典の道名は腸十江沼瀕一帯に高く、合下五百飴人といはれ、法絨︵五里ハ1六五二︶・玄爽︵五七九﹂六 五八︶.苛伏︵六六〇寂︶の如漕弟子もあつた視であるから、其の後を承けた腐山法門め名も長江流域完御は勿 節の足そ拭く諸所に閲見たと見えて畢従相続した。弟子支頓の稼働人港志並肥てれを基七t虎玄頃の弟前絆凝 の耕伽銅貨龍及び荷鰭榊倉の語錬には勅召について何事㌢も辿ぶるヱと庖ないが、歴代法腰記には感度五年︷六 六〇︶勅があつて京帥に召され、郡過した焉に衣奨を脇?た之倖ふるやうになつた。後把庭叉凝せる上為でず と鋸⊥て却って貸せちれたといはれるに蓋った。遺伝の寂し先年︵六五一︶化成弘溜は五十﹂成東あるが.∵常時既に多数の弟子があつたせ考へらるる。遺信は自ら生米付嘘不少というたと僧へられ、倉下も五百飴人あつたと
いはるるが、弟子として知らるるものはせいぜい四・五人に過ぎない。之.佗反して弘忍の塊亭有名の知らるる滝 ?2£丘のは甚お多い。従って膵宗が諸所に弘池し後≠盛大となる直接の基凶は恐らく弘忍にあるというて差支ないであ ちう。敬忍峠道信寂後二十三年〓成亨五年︵六七四︶二月十六日七十開成で寂したが、此間が殊に糞婆となる理で ある。寂午については、糾合録は上元年となし恐らく元の一字を険し花の㌻nらっ■といほるるが、采高恰備には上 元二年十月二十三日とし、租堂集は高完二十巳年壬申即ち成亨三年とし、景徳倍悦称は上元二年となして居る。 成亨末年八月に上克と改元せられたのであるから、帥脅錐が上光となすのは、たとひ元年であつたにしても、正 確なものでな/\或は既に上元二年の二を脱したのかも知れぬ。上元二年訟も比較的に古いものである。 弘忍の弟子は、楊伽師資記■︵七〇八頃︶に引用せらるる玄噴の棺伽人法志︵七〇六頃︶によれば弘忍の臨終の 二日前の言として 如吾一生数人無数、打者並亡、径倍吾措者、只可十耳。我輿紳秀、諭楷伽維、玄理通快必多利益。費州智誰、 自松川劉幸簿条有文件。芋︵輩の誤︶州拒撒・隠州玄約憶不見之。出‖同山老安探有退行。洛州法如、詔州意能・ 楊州高麗僧智徳此並鞍馬人師、但一方人物。托州養方仇便講詮。文語玄頃日、汝之発行菩自保愛、吾浬革後、 汝輿紳秀常以仰日市野、心炸粟照。 といふを叡げて十一人を数へ、而も非特色を明にし、更に紳秀を侍し、畏後に紳秀の弟子を挙げて居る。歴代綻 茸詑︵七七囲頃︶ には同じく 吾一生数人無数、除恵能飴有十両。紳秀抑、智誰師、智徳師、玄抵師、老安師、法如抑、憑瓶師、玄約抑、劉 、字面邸不離吾左右、汝各︼方師也 五組弘盗 の法嗣 五 ご∴)ご;J
冊品之時草道者千嵩故人、︵共中親事不離忍大師左右脊椎有十人︶並是昇堂入堂智証・弾秀・玄螢・薬方●智 徳・点滅・法如・老安・玄約・劉主簿等並忍是常官領袖、蓋囲名伶、各各自言、焉大龍像︵象ならむ︶、琴言
得底、乃知非底地
とあるから、前と併せて十一人となつて、梯伽人注意と同じである。更に長嘩二年︵八二三︶に戚つ窄宗密の風儀鑑大流砂三之下には
︵忍︶大師魔関数法、箪怨干寓、於中、久在左右、搾堂入室者、即荊州紳秀・洛州法如・襲州通・賛州智誰・ 越州哉方・華州悪戯.斬州ガ・楊州党・罵山老安、並是一方領袖、戎閲同名伶、雉各有殺伐、而随儲不同、未有究了心源者、後有嶺南新州鷹行者、⋮⋮慧能第しハ⋮⋮
とあり、更に前山念彿門轡此ハ発布五組下分出、淡雪且什、英州未和上、閻州紅玉、相如願尼一乗鹿弘之、余不
的知稟承師資照待ともあるから、計十一人となる。これを秩伽人法志に対照して彼此の出入を見ると其間に多少
の差が■透る。安州玄噴・自松山劉主簿、随州玄約・楊州高麗恰智徳の四人は俄にありて此になく、嚢州通・斬州
瀬・楊州党の三人は此に透りて彼にない。更に宗野の緬門師資承襲閲を見ると五組の門下として六粗悪能を中央
にし左右に数名づつを並塵して居るが、此聞は長く買春として侍はつた為に混雑脱字等があるから、大鰐訂正を
施して見るととにすれば、右方には襲州通・渦州法如・北宗紳秀・越州方があると知られ、左方には柴州法●資州 倣.江寧持.老安.楊洲兇があつて、合せて十人と怒る。宕方北完紳秀の右下に紳ヰで六と苦し次に普磁とし北ハ 五軌弘忍 の 法嗣 というたとなし、慮能については之を第六絶として別侍を立てて居る。然し後部には叉 ごノ.うビ下右に細字で七と思るが、これは紳秀が大皿で普寂が七組である上なす北宗辞の、字痕を表は七たもの、次に一字 下げて二行に西京山北発散専任と東京同徳寺と記さるるが、同徳寺の下Ⅵ摩を脱し菅沌のセ、澄轟共に普慮の塊 子なること景徳俸恰錬によつて知らるる。越州方の次に異聞宜什とあるは宜什で、典は果州、閲は関州、共に四 川省に一ぁるが、果閲で一所を指すのかも知れぬ。然し其先亦五組下分出とあるから、宜什が五組の弟子といふの でぼなからう。左方資州供は智読で、其下に資州虞寂とあるは智読の弟子、叉次の行に益州金、其下に益州石と あるが、益州倉は橿寂の弟子であつて浮衆寺無相のこと、益州石は其弟子浮璽寸紳倉のことである。これ等は何 れも各の俗姓で呼むで居るのであつて轡託系の人である。江寧持は江州寧持とあるが、州は行字で、江寧牛頭山 の法持を指し、宋高伶侍にょれぼ瓦組が俸書法者の一人となした人である。老安に続いて陳変章と記されて居る が、陳楚章は老安の俗弟子であつて陳七苛といはれた人、次の行に保唐李了法とある中保唐は浄衣寺無相の弟子 無位の居た保庸寺、李了法は無位の姓が李であるから、無位を李了法と呼ぶのであらう。この無住の弟子に需展 といふのがあり、これが贋代法巽記を著はした人である如くである。かくして園覚謹大流砂デ之下の列名に比す ると、輩州意祓と新州持とは彼にあつて此になく、柴州法と江寧持とは此にあつて彼にない。 以上を凡て数へ上げるならば、慧能。紳秀・玄噴・解説・惑絨・玄駒・慧安・法如・智培・遠方・蕃州通。新 川城・楊州兇・業州法。江寧法持・劉主籍の十六人となるが、此外にも狗存する。采高伶備によれぼ、捏奥紅を 講じて慧能む知った印宗も、大原嶺で芸能によつて悟らし潜られた慧明︵又ほ道明︶も、印宗にも従うた越州妙 苔寺倍達も共に弟子であつたのである。印完と菩明と竺ハ組菜能によつて眞に悟了したのであるが、これ以前に 正純弘忍 の法嗣 一七
は弘忍の昏下にあつ元のである。壷に景徳倍貯鋒は凡てで十三人塞ぐる如、以上め串寝ない人々としせ楊州拳 法諒恕光∵隠州顧随▲†常州牲照一板紅道俊の他人が見ら・る畠や此め\如くに↑て凡て畢げられ七放るもめあ各すれ ば二十三人の多数となるか、ともかく多数の弟子が賛梅顆の常山に由って東山法門を侍へ、⊥共後各地に在を敷い たのであるから、箕際上達摩わ繹宗の弘布は弘忍によるといふべきである。倍詑k従へ正、之k封するものに牛 頭路が金陵年毎山k存したので参るが、こ.れとても扶持が弘忍門下で、そして牛珂第内耐とせらるるのであるか ら∵愕詮を其まま認めたたしても、此晦には既に弘忍の一枝波となつて居ると見ても美文ない撫である。初組二 組及び内税に︰は倍淡彩以外の弟子もあつたとせらるるが、何れも其法系を存したとはいはれて病ないから、後世 の鍔宗の各部は弘忍門下から出づるもののみとなつて由るのである。即ち土地としては黄梅原鵜茂山から天下に 弘まつたに外ならぬ。 三 弘忍の法嗣とレへば、何人軋直に南頓北漸の分立を来した慧能と紳秀とを詳記するであらうと期待する経に此 所人が繹完史上重要な役 目を質じて居るのであるが、以下に於ては之を詳記せむとする目的で叙述するのでは ない。 帥秀は遣秀ともいはれて居るが、河南省陳膚尉氏人、牲は李俗、弟子張詭の碑文把も.ま存玄喫め楊伽人政志 にも耽た紳琴一年︵七〇六︶市有飴歳で鼓したというて店る嘩であるから、共生年を明kする己占・が出来ぬ・。然 し武徳八年︵六二五︶に洛陽天骨寺で受具して伶晩八十とい畦れ癖末に生れて首有僚萄と串きれて居る?乏によ 五敵・艶ノ盈 のり法由 八 gクJβ
+ サて薮へで見ると∴即に際末と・いうて隕−隋¢最後の‡輩帝¢治せエ範と暢静の治世の翠軋新藤らぬぼ放らぬ から、瘍帝り治世中に生れたの▲巾﹁あらう。仁詩元年︵六〇一︶に弘忍が生れて居るから、師よりも年下と見れ ば、赫務め生れノたわ望ハ〇一年以筏挺ならう。碑文には知天ゐ之年に新州に行つて弘忍把師事し冬患旨が、知 天命申年瞭泥†歳を指すから、五♯致せ弘忍の許に行つたのであるし、六年随従したと揖ぼるるから.∵宜十大歳 まで弘忍の下で栃行して居たのである。坪井は五十歳以前に既に儒老及び三瓶其他諸般の塾に精通した立沢な撃 者であつたのであるし、六年も修業した視であるから、弘忍が東山之準悉森秀焉というたと楷へらるるの蝮質際 であつたに相投なからう。然る′に砕宰に蜂此句に直に続いて、命之洗足、引之並坐、於是濁郎而吏、、退蔵於密と あり、命之洗足引之並坐は弘忍が抑秀を優遇したことで、恐らく其貿際を示す旬であらうが、その優遇にも拘ら ず、駐に、・於遵梯酎而去過赦於密とあるは如何にれ突然な句で連絡がない如くに感ぜらるる。如何にも脱文でも あるのではないかとも思はるるが、然し脱文のあらう道址はない。この中には或は慧能の侍法が此六年自にあつ たことを含ましめて居て、そこで於是沸酎去退賊於密というて居るのでになからうか。若しかく附するを待とす れぼ、慧能は籠朔元年︵六六二︶二十西戯で弘忍に従ひ、八箇月飴で伴放し駐に前に膵ったから、慧能が南に鐘 るや間もなく紳秀も亦弘忍の下を沸即して去ったのであらうと考へらるることになる。宋高恰倍は弘忍が寂した 略弟子の紳秀等が其全身む東山之岡に誹ったと記して罵るが、蜜際はさうではあ・るまい。かく考へると、赫秀の 五十六践望ハ山ハ一年であるこ■とになるから、これより計軍して、共生れたのは錫帝の大柴二年︵六〇六︶・であつ たことになるし、弘忍よよりも五年遅いことになる。従って弘忍に随従したのは永徽六年︵∴ハ荘五︺でぁつたの
五紙弘忍の法嗣
丸 e′ご5ク五弧弘忍の法嗣
● 一P である。帥秀は更に儀鳳年中︵六七六−六七八\即ち五租の寂した架々年から三年間の申、に刺州玉泉寺に課し 枝伽峯の虔門寺に任すろに至ったといはろるから、之にょれぼ、六六一年から六七六−七年まで約十六七年間■は 退戒於密に苦㊨、此机自らで更に修行したのである。か程の修練をなしたから刑州に入つてからは遣俗の踪仰す るもの甚だ多く揚子江一帯並に長安の方南から氷り随ふ者多く、遣名遠く悶えたので、途に宋之閃の奏講によつ て久祓元年︵七〇〇︶詔が降って京に省きれた。宋之間の此時の秦祇には紳秀を遣秀といひ齢九十を過ぐとある が、茸際紳秀は此時九十三歳であつたのである。翌七〇一年洛陽に入って則天武后に謁し、長安にも行き、三帝 の抑となつたとせられ、北面することなく、駕によつて入内し、廷室の優遇古今例なしといはるる提であつた。 出烹は大足元年︵七〇一︶とあるから、九月以前であつた理である。大足元年十月には長安元年と改元せられた からである。紳秀は南京に留まること六年、帥龍二年︵七〇六︶二月廿八日東都天宮守で入寂したが、これは受 具したと同二寸で、まさしく八十一年日になる。三月二日には大通繹師と諭せられ、棺・は武后等王併に造られた 程であつた。紳秀自らは曾て齢をいはなかったといふが、まさしく百一歳になるであらう。単に百有飴歳といふ のは明確でなかつた寛に数字を氾さないのみである。霜既・は寂後数日のことで、両もこれが霜舵の姶であるとい ふ。弟子も多数あつたが、義娼・普寂・敬賢・意摘等が條れたもので、而も普寂の下には師に比して寧ろ一骨多 数の弟子があつた焉に、紳秀系統は洛l場長安に盛大となつたのである、晋寂が自らを七組、紳秀を六抽というた と侍へらるるの鴻決して無理ならぬことである。 安洲玄噴■比倫将に載せられて居らぬ。然し楊伽師資記によれば成手元年︵六七〇︶に埜峯山で弘忍に従ひ、菅 J,J∂「)尾弄年止まり、成亨五年二月弘忍の命によつて天然の万石を泥むで塔訂起し累構巌流であつたといはれ、弘忍の
遺言む聞㍍た人であ鳶湖北省安川詩山寺に任し、恩寵二年︵七〇八︶忙は勅によつて京師にmでて中景の鋸依を受けた。茄子の浮党については其塔銘が金牌文三二七巻にあつて羊維の作ったものであるが、其中に揮発が束
祁に槙大師あかを聞いて随従したとある。頓は噴の誤で、玄嗅が東都にあつたことをし諾するものであると考へら
るる。渾兇ほ孝和皇帝即ち中京の庶人之菊地といはれ草氏であるが基戟月日寂すとい放れて明でない。然し東都
大安田寺に任し、楊伽師資記を著はした人である事は明である。玄踪については其他のことは明でない。
茸州智証も恰備には二何程共名が出づるのみであるが、此人は河南省汝南の人、吐血周、租が官に随って畳に
移り、武後町年︵六二一︶十三歳で出家し、初めは玄焚三成に事へ、後弘忍に凋茂山に於て怯ひ、関川省費州に 躍り徳純寺に任した。虚融親三省・縁起一巻・股岩心疏一食の著があり、前成池天二年︵六九七︶八十九威で勅 によつて西京に赴いたが、これ紳秀の入内以前である。暦代法軍記によれば、長講元年︵六九二︶慧能を召し、 離して入内しなかったが焉に、更に常歳通天元年︵六九六︶に則天武后は慧髄に達匪以来の簡衣を奉らしめ内道 場に於て供養して居たのを、智証が躍郷髭攣った時興へて持去らしめ、景紀元年︵七〇七︶便宜追.して芸能に共事を悪げ、北ハ代償として袈裟一領絹五斤疋を賜うたといふ。然し骨説に侍衣を典へたといふのは如何にも作り話
らしく忠■はるる。常時侍衣の所在が群小ポのiE系たる堅挿すとして重要祀せられたことを戻すものである。餌代法票認定智談の系統で作られたから、相談を職別によくせむとし花ものであらう。六六二年に慧能を召したといふ
も、此年には意沌㌣推試した伸秀む慧安も米軍人内して居なぃ。更正則大武后が倖衣乞準らしめたといふも郡賛
五組㌧弘 忍の∵拭∴嗣 ごご(7,J一こ
正純払私の酷刑
ではなからうゎ大丸六年にも紳秀諜安の入内はない。然し懇談は数年園内造陽に机入し軽と見え、′−此悶転顧東武 篇接久組光年︵憩00︶紳秀−玄瞳・盟約・慧安を召藷して庚葦したといはれ、そして智計が郷忙搾って撮した わ匠長彗一年︵七〇二︶であるから、従って智試の辟郷は長安元年︵七〇こ頃であらう。寂した輝北十糾歳で あつたから、六〇九−七〇二年の人で、大柴五年の生れである。智就は四川省劇南に居たから、数酎託と呼ぼる るが、弟子に靡寂があり、靡寂の弟子に無相があり、無荊の弟子に帥倉と亜⋮任とがあつて系統をなして居る。無 相は新錐王の放で金氏であるから金和備と糾せらるるが、馬組道が跡め随従した人である。これ野渾衆寺系で、 次の銀任は保唐専系である。 白樫出劉茸静ば恐らく俗弟子であらうが、此人については何事も明でない。 群州忍赦の宰は恐らく革の筑で、宗署のいふ華州蕊赦と同一人である。畢州は隣酉各肇麒でみつて、長針の東 北貯あゎ謂水の沿岸近くである。この慧赦についても知らるる桝がない。 随州玄約は則天武后の召に應じたこと前述の如くであるが、其他は不呪であるっ随州は湖北省随牒で、玄約は そこの大要寺に位iして居た。 悪安は剤州文江の人、符氏で、開皇二年︵克八二︶に生れ、大柴︵六〇五以後︶中人々の飢餓を救ひ街嶽寺に入 って殉陀を行じ、貞敬︵六二七以後︶申即ち四土ハ歳以後に斬州に弘忍を訪ひ、鱗徳元年︵六斉四︶八十三歳で終 前出石壁に遊びて止ま㊤1帝.の召があつたが艦ぜず、永淳二年︵六八三︶百二歳滑蔓草亭に漂って止まサたが、 勅.によつて寺が頼られ招捉と耽したといふ∩一価租通搬にょれぼ、天御嵩勝元年︵六九五︶百辛貯炭で野中た入つ どご〝.?て紳秀渾師と同じく欽蚤せられたとあるが、此時は紳秀は将来だ入内←て居太い。暦代放資誰は久疏元年となす
から再恐らく柵秀より左前に入内t百十九歳であったのであらう㊥.麿代法濱記盟昂静香帝密度と滋すが、洛陽に莱てから嵩岳合葬寺に屠たのであらうし、君齢の焉に老安と呼ぼるるの′である′。東南檜侍にょれば、凛に・家
郷の玉泉寺に節った時軸汚が新に録寂し人々慧安に住持たることを詣ケねが應ぜず∵翌贋二年︵六九九了に富山紳に菩薩戎を授けたといひ∵則天武后皆て慧安の甲子を間ひしに記せずと答へて柾庚に盆虐、叉不遇讐靂音甲
のことを言ひて倍欽星を加へられ、中京紳龍二年︵七〇六︶九H紫袈裟及び絹を賜はり、弟子を度する二七人■ 復慧安並に静渾帥が召されて禁中にて供養忍受け、姦龍三年︵七C九︶た摩約﹁副を賜はり、少林寺に踪つて同 年三月寂した。一百三十許歳と′あるが、開皇二年︵五八二︶から澄笹一毎に至るとあ庵から、一百二十<歳である。宝典寺に滞る上いふのは伸秀が東都で鼓して一時寵門山荘卵牒更此度円寺に移非⊥たから∵悪嬰も孟泉寺に
行つたのであらう。次の翌麿二年のこ∫とは此ハ順序を誤って居るが、則天武后の由は慧安の入内した時わてとであ
る∵功亭±七人とあるも宋高竹侍には四・五人、景徳侍再録に∴は直接の弟子は六人塩分て居るのみで必る﹂・。少林 一γ寺で寂しねとあるから、含蓄寺にも少林寺にも居た如くである﹂然し大潰蹄帥読流の砕から見ると悪筆は大安と
も尊捕せられ衆知くである。更に全店文三九六巻に采偲の攻した嵩山倉善導故大徳邁安藤軸砕鉾があって、諸所
に欠字がある賜−中に以予疫繹師之至托の語があゃ采億を道安が敏へたこ上を示すが、宋贋匝開元㊥︵七三− 七川〓︶に秘富省校喜郎となつた人であるから、遣安の寂し空籠.二年︷七C八︶かち節用陥って屠らぬ、。≡遣安は俗袈佗穿彗生於闘皇泊夫大柴龍奴羞加速人狼顧無家而捉垢惟溌不惑珠碓氷満惟惨不奪瀧草⋮・と心慮れ、大
三
正孤弘忍の法嗣
g.gβ,タ一 一四
五紙弘忽の法嗣
師宏忍俸繹要於軒下ともあり、秀⊥竿あ謡之八帥受嘩尊称帥順進也佗推実於玉泉大通也とも、発情嵩山合葬音 焉とも、排衣而起郁進以那益指於剤州玉泉巳而速度毎序克とも、景龍二年二月三日申夜繹帥忽而令門弟子等謂− とも、至八日逸聞戸去人臥脇畏足而−ともあつて、慧安の侍と頗る相似て居る。兵るものの巾着tいのは姓を李 となすと、寂年を景龍二年二月となすと﹂名を遺安となすとである。碑銘には弟子慧遠云々とあるが采小筒伶侍に は先天二年︵七一三︶門人が浮国を建つとなして居ろ。先天二年は十一月に開元元年となるのである。若造は普 寂が興唐寺で寂した後塔㌢建つるについて種火述べらるる際寺幸恵遠とある人と抒一人ではないかと考へる。道 安は慧安と同じとなすも名粥の上では恐らく差支なかるべきこと帥秀が道秀といはれ共他かかることは数多いの で考へられ柑る。二と三との睨雉なども数々起ることである。姓の相違には困るが、古く知られなかった姓が後 に明記せらるる如きこともあるから必ずしも附執すべきではない。此同一視は既に他の人もいうて屠る。.若し此 外考察して同l人となすことを待とせば、宋高恰侍は却って慧衰の倍を明瞭になし過ぜて居る如くである。 洛州法如に関しては、暦代法貨記に揉弘忍が芸能に波及ぶ袈裟を付喧し黄指を去らしめて後二盲、愈下の大衆 に、汝等散じ去れ、吾此間彿法あることなし、彿琴は菰前に洗過せゎ/というた時、大衆成驚いて避に耕南に誰あ りやと閉ひ、沸州法如師封へて、慧能彼に在りと日うたとあるから、常時弘忍の倉下にあつたのである。洛州は 山西省長活版で葦河よりも以北セあるが、ここの出身を烹味するのであらう。大正大蔵経八十先客にある侍法案 記並序には弘忍が法如に停へ法如から大通に及ぶとなし、苦山少林寺鐸法如として弘忍の次而も紳秀の前に列名 する研があるが、この法如が即ち泌州法如であらうと思はれる。然し満州が承けて紳秀に備へたとなす意味なら 2gβ4ば、全く相異な記録である。法如の俸霊長連勝詔山風蹟大観の中に暦中岳沙門描法如渾帥行状といふ砕文が掲
げられて居て、之によつて英一般を知り得る。洗如は上蓋人とせらるるが、上寛が即ち洛州に雷るのである。十
九歳出豪し斬州忍繹帥の倉下に入って其遺を倦へたが、成亨五年弘忍の寂するまで始終奉侍するここ十六年とあ
るから、掠崖四年︵六五九︶に弘忍に合うたのである。筏法如は中岳に遊び少林寺に任し、衆忙廃する三年間人 人共畳を知らなかったが、垂挟二年︵六八六︶に請・はれて少林寺で終決を開い書そtて永昌元年︵六八九︶七 月二十七日五十二歳で寂したから、六三八−六八九の人である。帥秀の上足たる琴帽も普寂も、その碑銘によれば、何れもこの法如に就かむとしたのであつて法如の名寄の高かったことを示して居る。法如蜂常時少埜寸に居
て、而も嵩岳大師といはれて居る。義帖は法如の所に従ったとき英人寂を聞き、それより落髪具滅して紳秀の許
に行ったといはるるから、義闊は永昌元年七月廿七日噴に法如の所に行き、其入寂を聞いたのであるし、紳秀の
倉下には十年居て一、後納秀が天空寸で疾むだ時に親しく左右に侍して居た。普寂も法如を尋ねむとし未だ至らざ
るに其入寂を観き翌日紳秀の許に行き七年留まゎ/、長安年鑑︵七〇丁七〇囲︶に重寸に濁せられて覧際に出家 した。垂帽は開元二十四年︵七三六︶寂し年齢不明なるも、普寂望ハ空−七三九の人で、些天の関係から考へても法如の山ハ八九年寂はよく符合すと考へられる。
楊州高浣恰智徳も越州義方も棄州迫も楊州曳も柴州法も凡て共倍を留めて居ないので何事をも知るを柑ぬ︶常時有数な人々であつたには相違ないが、何等知らるる桝のないⅥは遺憾である。地理をいへば、楊州は江鮮省
で、智徳も党も同地方に居たのであるが、智徳と党とは何かの混鉦で、或は伺二千あるやも知れぬ。越州鱒研江
正利弘忍の法嗣 gg6ふ省、義理澗北省、、柴州湛女声の静か、胡腐で教ゎ。
噺洲腰については企朗茎三溝湘虜尤港過文の撰した大帝新州瀧璧違法硯天膵帥辟銘があフ雪之を知惹
て居る。按現はもと汲繍ヤあったが﹂中京の嘲辞を避けて改めて法規漣なした人で、盈揚め人、変容忍感簡の門
人∵‡克歳富哀し、新藤で八年閉院節し、開元入年七十八歳で寂した。故に六望丁七二〇の人てある。二
十五威で随解したよすれ.ぱ、乾封二年︵六六七、︶で、爾米八年は敬思わ入寂に集るきでで透る。これによつて凝 れば﹂横側人望混も稗質記に凋また贋代法饗記にも全く法騨にらいては記点れ凍鳶も、︷一芸わ周賓聯 砂皿いふ桝も信ずべきものを含む専属るこよが明更あり、入国虐で唐花法規を記婆ない1のぬ右の主賓の疎繭嘗摩 すものであ烏。八年鶴管而あ砕鉾を作られて大鰐榊虻いはれたもの漣節かl方の入押蜜に也らぁと、かひ鱒藩 う0 江串凝滞劇牛頭膵〃彷四組.≠いはるる人、姓は張氏、江渾の人で、貞観九年︵不言蕊㌣庭生れ∵眉腰二十﹁年 ︵六四七︸十三成育嚢海女大師の名を潤い﹁て往いて侍し法要を琴示せられ、後牛頭二親革労た腐って入鹿簡燈Lたと心搾るる。弘忍がせ凄まる時玄輯肛、後望遠者可有十人、金陵港捧即空也︰という夜と神体ら透るが、此り
言は媚伽榊笥記Ⅷぁる▲芽ハ法恵の個蔑も.の七豊憧の冨となる理志茂若方賛蕾A蛋流儀 一、★J
持砿よつて鹿潮解淋朋瞭近藤腰瀞斗滋合しぉことⅥ、なる。恐ら息嵐麿常層屈禽濯湊憩濱思念達意 −J−J ったであらうせ男へ▲診るるが、′登雷垣暦厳秘したの、である憲毒菜遍歴哲償暦官㊨濾憑瀧定 ・■−万一 忍わ入厚恩竜禁せ羞甘藩るかょ、批願を油も七倍しrて層寵Ⅵではトぁる憑い。港属性儀k弟茸潜凝肥藩膵? ■■ 1 ● 正風髄忍の法︰嗣 ごご(7∂て贋作寺把出でたが、そ。で虜安二年︵七〇二︶ム
望蒜興部の人、姓は印氏で、貞親元年︵六二砦に生れ、借家して経典.躍過払健翼檻匿精じかづ東砂せ磐丁 元年︵六七〇︶周十国威兼都に在つて盛に道化を挙げ、上元中︵六七国史州七五︶勅しで大変敬寺濾先払し腹掛 としたが新し.新春に東山忍大師を訪うて繹法を受けとた﹂いはるるが、成亨晃年には弘忍は入寂じ肇屠温から、之を直に上元元年せ見る意味で上元中とたすのであらう。然らば印宗が弘忍に合うたのは僅の期聞に過ぎない。徐
に芸能せ南海で合ふ粘から見ると、印宗は弘忍の寂後直に具慶を去ったのであ■る。其後儀鳳元年︵六七六︶五十 克哉で芸能に逢うて悟り、恐らく翌年郷に蹄り、勅によりて召されて入内し、心安集を著はLて梁より膚に至る までの天下の諸達者の語−ぎHを親録したといはれて居る。其他にも著述があつて流行したが、印宗は殊に戒壇を置 いて人を慶することが前後に甚だ多かづ東。先天二年︵七三︶八千七歳で寂し輪式の法に循して轟ることを喝 したといふ。商議は砕を導芹︵六五週Iセ一六︶に受け、左渓玄朗に致へたといはれて居るが﹂明にこれ繹奥経控ついて敦へたのである。
慧明は姓は陳氏、郡陽の火、頗宜帝︵空ハ尭小五八〇在位︶の孫であるが、少ぐして永昌寺にて国家し、切り に蟹峯之法を如き、高宗︵六五〇以後︶の世忙忍耐輔の法度に依つて修行したが誼悟がなかつた。弘忍が芸能に付喝したのを聞いて追うて大鹿嶺に行った。此際慧龍の衣鉢を碓はむとして数行人と共であつたが、それ等は凡
て中途で郎′つて慧明礪牒行き票誠にヰって悟つた壱もい払、又は数百人・孟ハに行き諾明鶴薗尭に芸能憂見セ、非不
瓜菩不忠惑正官位心鯉時自己本釆の両月云何と職見するの故にょつて悟り、衆を敬ぜしめたともいはる、るが、何れも
● 五軌弘忍の法嗣 人、 ゑ次77五組弘忍の法嗣
叫八
事箕ではなく、椎慧明が慧能によつて大事に徹し心地を究明し待たことだけは革質であらう。此事は後世に於て
もいはるる所である。此大悟を宋高恰倦は成芋川各︵六七三︶となすが↓これは嘉能の侍法を弘忍の入寂の前年 と考へたが雷であつで、誤である。貿際は、龍卿元年︵六六二︺のことである。此師直睦慧能と分れたのである が、優に道明と改名した。豪州蒙山の慧明といはるるから.江西省宜容に塔たと見える。田家以前諸街を著したから梢豪後にもまた将軍と呼ばるるし、四晶官将軍ともいはれて居た。宜春の太守秦琢が註耽を秦したとあるが
明でない。生年寂年等全く知られて居ない。
倍達正閏元八年︵七二〇︶八十二歳で寂したから貞観十三年︵六三九−に生れたのであるが、姓は王氏、倉稽の人、鴨山妙音寺で出家し、後黄梅忍繹帥に従ひ、印宗蹄帥に遇うて心鑑を磨き、遣岸に律を受けた。印宗に遇
うたといはるる掛から見れば、弘忍に従うたのは長くはなく極めて短期間であつたのであらう。越州妙苔寺桝建
といはるるがら、椚家した寺に任したと見える。
景徳侍惚録にある隠州繹怯と常州法照とは明瞭でないが、枚江遺俊は宋高恰倍に荊州碧瀾寺造俊とある人であ
らう。遺俊は江陵の人、枚江弊澗結合に任したとあ驚枝江は湖北省で江陵よりも少しく楊ナ江上流である。
山無生の法門を修したが、これ遺伝弘忍二組の所化の法であつた。勒潔苦行して寺を出でざること四十飴年とあ
るから、若し道俊が道信弘忍に合うて従うたとすれば、それ以前であつた理である。遺俊の道名速く開ネ.別天 耽后聖示二朝が高倍を食重した時であつたから、途忙荊州ま泉寺怯祭︵六三四−七一二︶並に荊州白馬寺玄喫と共忙中完に召されて入内し供奉せられ、留まること二年、景就中に郷に蹄ることを箔ひ、御輿山詩を賜ひ、慌土
ク.ご√ぶの艦和の詣を得た程であつたが、怪景侍及び玄異俸lこよれば.景龍三牛︵七〇九︶二月人里只師を去った抄であ る。一故に入京したのは恐らく景龍元年︵七〇七︶であらう。則天津后は七〇五年に親したから.召されたのば中宗
によづてである。そして遺佐山此入内より川十飴年以前政道信の寂後十年を経て居る時に常り、叉琴能の軍法は
四十六年以前に常るから、遣俊が貿際従うたとすれば、弘忍に従うたのであるし、而も慧能の侍法以後のことで
あらう。道俊が弘忍の遣名を聞いて校正から栄枯に従ったといふこトは決してあり得べからざることではなく、
むしろ従ったのであらうと考へらるる程である。伶侍に明記せられて属ないのであるが、事箕仏忍に従はなかっ
たとしても、英日得した所は全く東山法門であつたのである。然し東山無生の法門を修したといはるる以上は必
ずや其指導があつたに相違ないから、遣俊一望見際弘忍に倉うて法要を親受したのであると考へられる。唯恐らく
従うた欄間が極めて短く、従って其後自ら同十飴年の修兼をなし打のであらう。
伎後に芸能については種々なる侍読も存する程であるが敢も古い侍は弟子法海の六絶大師法賓哩紅盤序であら
う。傘店文九百十五巻に存し、明蔵本六組大附法繋担紅の附鋒に六粗大師縁起外記として、叉他の
の初部にも載せられて居るが、既に多少の補筆輿字が見らるる。元の娃綿三年に高浣で開校せられ空ハ絶大師法
器議には界序とし開懇第這存し文字等も大隈余暦文と一致して屠る。然しこれは芸能が曹渓に入ったまでの
ことであるから、其以後については此暑序の外に焼畑本六組垣紐輿望寸本六組檀経等によつて考へて見るべきで
ある。慧恍は姓は店賃院来者の詔州曲江顆の人、父指宿が崩南に流され新川ハ詔州の東北︺の百姓となつて居た時
貞鶴十二年︵六三八︶二月八日に生れ、幼少にして父を失払、母に攣はれ、母が南海即ち撃沈に移ったのでそこ 五孤弘忍の 法嗣 ゴ.、ご√ク\ 二〇 正純弘忍 の法∵嗣 に至り、象貧なるがため常に市に柴髪質って母を萎ひ生活して居た。一日客の金剛般若経を諭す払聞いて悟つた がこれが慧能の自然大悟である。慧能は其客に何磨から釆て此経を持して居るかを問ひ、客が観州滑梅傑東端慕 ︵又は母ノ︶より米たの.であつて其山に・は五耐弘忍大仰が居て門下一千人も集ま▼つて居るし大師は常に澄俗には此 控を持せば自ら見性成翻すと敦へて居ると答へたので、途に位を離して葦梅に至って瓦祀を符した。慧馳の悟っ たのは二十周蔵であるから龍朔元年完六こである。輩梅に到苧した紆は大悟して後三十甘程後であるが、九蘭 と.嶺南人に防性有無紆問答が透って遮に其昏下に入り碓崩に於て椎を踏むこと八箇月放であつた。淡海の各停 に畦たゞ五組器之付衣法令嗣阻止幡寵朔元年牢固歳也とのみ述べられて居るが、古い六阻墟軽にも凡て後世有名 な紳秀慧眼の互の偶のこと、之によつて瓦組が途に三更芸能に衣法を侍へ、窃に慧能を南方に逃れしめたこと一 之を慧能の口述したこととして放せられて居る。然し此記事中には著しぐ抑奔を思すを牌があつて、史茸とは巧 へるを得ざるものがあるか慧由が頓悟なることは共自然大悟から見ても知らる、るし、紳琴は大串着で而も六強む 随修をなしたから漸悟的ではあつたであらうが、五柑弘忍の東山法門が後世hふ如き頓悟のみならば.帥昇に弘 忍が東山之韓門森尭森元と許す笛がない。即ち東山法門は噴油何れかと分って見らるべをものでなくして、却っ て頓漸何れともなれ指るものを食紅で悟遣見性を主となしたも秒であつたのであらう仇珪聴の路を考へて見れば 決して頓のみ又は掛のみとはいへたいから、埜峯山東山の法甘も亦此の如きものであつたのであら㌢之を温能 は頓恰によつて得たのであ?鞍ひ柚秀と難所謂時々軌跡拭のみではなかったで叡らう。隠人の偽の抱掛は後世創 案せられたこととなすにしても.慧能の侍法の時紺秀は弘忍の合下に在った隼は相接たからう。温故が嵐に去る ggフ■0
や於是沸断面去過赦於軒となつたL毒へると棒めて日然であると思はれる。紳秀が六牛の随従を眈に経って弘忍 昏下に店ないことが明であるならば、細人が侶を訳して掲示したこと名言はるるに按至らないであら、う。志朗の .● 倍法の時弘忍〃座下に居たことの知らるるものは玄障と法如と慧明とであり、共以後弘忍に鱒ったもの砿洪扱が あり、これ等が生許文になり得るから、紳秀の居なかったことを屠ったとまではなす七とむ得ないであらうa紳 秀は慧鹿の樽法後沸新して去り、十六・七牢修行をなしたが、慧能も亦嗣に躍って隠避すること十六牢であつた といふ。此間はつまり悟後の修行となつて㍍るものであらうと思はる▼沌.悟後の修が聾際倉いのである勺悟後の修 行といへば如何にも其悟が徹底完全なるも〃でなかったかの如く見らるるかち知れぬが、決してさうではない。 本澄の妙修である。甫に障ったといふのは菰南、即ち江西鶴東南省の境ともいふべき大麻嶺の南地方に患ったこ とであるが、後世いふ所セは此際多数のものが侍衣を奪取らむが馬に迫駆けて大原嶺まで行き、慧明猫り衆に先 んじて慧能を見出し、遼に悟らしめられ、正に踵を返して衆を放ぜしめたといはれて居る。然し慧明は慧能から 汝は衣の焉に来たか法の焉に発たかと間はれて明に法の為に釆たと答へ叉衣を要せすと断言したと述べちれて居 るから、衣む奪取する焉の衆の発頭人であつたとは者へられぬ。黄梅から大庚琉までの遠隔さを柴へたならば古 い六組壇経が数百人が中途で絶て却廻し、慧明弼り大庚親まで釆たといふ方がむしろ自然であぁ。然らば叉此遠 隔地迄一人で氷た慧明が衣を奪ふが焉であつたなどとは考へられ得ることでない。釦ち凡てが作わ事であると考 へらるるが、法渥の各停にも此の如きこと揉少しも述べられて居らぬ。怒明比既に弘忍の下で約十年も修行して 居た人であるから、此遠路を行ったのは酢に法の焉であつたに相違ない。依頼本六組壇紅には名を恵昭としてあ ヽ 五租弘忍 の 法嗣 ニ‘ご:V∫
二二
五弧弘忽の法嗣
るが、順は恐略く明の草書照を誤ったものであらう。慧能ほ弘忍の許を去って雨月中間大原嶺に至るといはるる が、両月中間は其意味明確でないにしても、往路から考へて見て、一二箇月であつたのであらう。慧能の弘忍の 下にあつたのは八箇月飴で、一関して言下に大悟し、直に侍放した程であるから∵其自然大悟が如何に深いもので あつたかは想像に放りありといふべきである。儀鳳元年︵六七六︶即ち五組の寂した禦々年.正月八日印宗に過 ったといはるるが、興聖寺本六組壇経は之を隣州︵即ち債東︶法性寺で印完が浬喫経を講じた時となして居る。 此際風吹いて旛の動いたのを見て風動く、香旛動くの寧に封tに意能が心動くとなしたことから印宗が慧能の東 山法門を嗣げる組なるを知って速に慧能によつて悟ることを得たといふのである。正月十五日に印宗が芸能の焉 に薙賀し、二月八日諸名徳を集めて具足戒を授けたが、西京の智光律師が授戒帥、蘇州の慧静律師が掲麿師、荊 州の沌應律師が教授師、中天竺の菅多羅律師が龍城律、西周の豊多三砥が詑戎で、戎吐は宋朝求那鋲陀薙の創建 であるし、肉身の苛酷ハ此庭で授戒すべきを預言したといひ、梁天監元年にも西竺の智墾が又これ針預言したこ とがあつたともいひ、或は眞諦三瓶が竣言し 慧能の出家授戒は三十九歳で、基翌年容空埜寸に韓り純白千故人が送り直に闇渓に至満といはるゝから、前に前 に掠った時蟹林寺にも居たのであらう。受戒時の教授師であつ盈刑州通應律師・は聾者数百人と共把慧能の許に行 ったが、貫林寺の堂字が琳糧であるので、里人の陳由仙に土地を補給せしめて商業十三朗を成した。葦英院と糾 せらかるものがこれであろが、貨埜寸も智率三瓶が西天の賓林山の如しといひ村民に⋮梵剰を立てて碧林と祝す べしというたので部00州の敢侯敬中が奏伸し賓林の額を賜うて成つたもので梁の天監三年︵五〇瀾︶であつたもの ゑガ′βである。慧能が曹挨に至った時前川刺史睾球が官僚と共に山に入り請うたので、慧能は城中の犬璽寸に刑でて摩
討般若波薙蜜法を詮いたが、座下には檜尼遺俗︻千︵又は萬︶人もあり官僚三十故人信士三十飴人むあつたとレふ。此記法を始めとして弟子の法潅が集施して所謂六絶境経となるのである。爾灘暫渓に任して詔州贋州を行化
すること約四十年であるが、中宗則天武后詔を下して召されたが病と糾して離した。此詔勅は仝唐文十七巻にも
また高麗本明蔵本の六組増経にも存するが、老安紳秀二師が推讃して南方に能繹師あり密に忍大師の衣法を受け
彿心印を侍へて居ると奏したに基くこと勅文に明言せられて居る。この詔の降つたのは、席代法蜜記が長詩元年
︵六九二︶芸能を召したとなすから、六九二年となるのであらうが、此六九二年には老安も紳秀も猶未だ入内し て居ない。老安竺ハ九九年.紳秀は七〇〇年に入内したのであるから、右の詔勅は七〇〇年以後でなけれぼなら ぬ。明武本六絶境控は帥龍元年︵七〇五︶上元の日とし高麗本六組壇控は何丁一年上元ん日となすが、二年十一月に些則天武后は和するから、むしろ元年の方であつたと見るべきかと児ふ。使の辞簡は慧能の語法を聞いて之を奏
問L、九月袈裟鉢絹等を賜はり、寺を国璽寸と焉したといはれ、宋高倍侍は叉翌紳龍三年に詔州別史に勅して芸 能の住専の俳殿方丈を修繕せしめ、法泉の叡を賜うたとなして居る。霊能は延和元年即ち先天元年︵七一二︶新州固恩寺に塔を造らしめ、先天二年即ち開元元年七月八日門人を集めて八月入寂すべしといひて訣別し、八月三
日途に入寂したが、七十六戎であつた。十一月に詔巌二州の門人が迎へて哲渓に葬ったご冗和十年︵八一五︶大鐸繹師と茶せられたが、これ寂後車二年である。
全唐突四半八巻に代宗の詔として、
五純弘忍 の法嗣 ごJr.了先師弘忍・の韓嗣
二四
朕夢感能蹄師討倍衣袈裟郷踪曹操、今遣鏡囲大将軍劉崇景頂戴再送、股謂之因箕、卿於本尊如法安置、革命恰
衆親承宗旨潜航加守推、・勿令遼墜
といふがあるや代宗は七大三ヰ七七九年の在僻で、・此詔は永琴甚年︿七六瓦︶のものとせらるるが、適しむば永泰元年でなかったにしても、慧能の寂後五十一年以後のものたることはいふまでもなく、永泰元年上すれば五十三
年であるっ此時停衣を暫渓に返迭したのであるから、これより以前に倍衣は宮中に迎へ、られて居たに相遮ない。
偉衣を官中に迎へたのは新京上元元年︵七六〇︶であるといはるるが、慧能寂後四十八年である。上元元牢は高伶備に綴らぽ荷揮榊脅か九十三歳で寂した年であり、余暦文吟之を九十二裁となすが、宗密の園魔大流砂に掘ら
ば沖合は乾元元年︵七五八︶七十東成で寂し.たといふから、上元元年はその三年目でめスq。智渓には芸能の弟子今野が居て詔によヤて召眉れたが節し、此ハ際傍注の衣鉢が宮中に入つたといはれて居る。何れにしても常時は慧
能の門下弟子が居たのであるから、朱鉢か迎へられたとすれば.、それは怖泣の印なるものであつたことは認められて居たのである。淡海の略序には五組が衣法を付したとあるし、六粗壁致の凡てにも衣を倦へたことをいうて
居る。故に苦際芸能が侍法した時に、少くとも、衣を侍へたことは苺驚であつたと見るべきで、決して糾合又は
役人の捏蛍訟ではない。沖合が倍衣の凍るを以て慧能が眞の節穴組であるとなしたのは資際倍衣が在ったからの
事で沖合の捏造などといふべきでない。
慧能の弟子は多数あつたのであるが、﹂暇堤本六・粗壁紅にょれば、後部に淡海・志繍一法達’智櫓・志通・志
絨・志道・法珍・法如・沖合の十人を畢げ∵興翌寺本は誌通を智過とし、押合小師又は紳禽小冊が四人目にせら
.ご.・ご:■.1れて順序を異にして居る。此順序が後世の基となるが、一これ筆の人々は芸能の臨終睡に侍して居た人々で、従つ て退喝を受けたのであるが、決して此十人のみが大弟子なぞせいはるべきではない。皮肉・なこせに揉紳禽鹿除い ては筏枇知らるる抱のは殆ど此中になノ\却って此外に碑銘の穫つて居る人々もある。六粗壁経に記されて屑な いことかち他の弟子を疑はむ上するのは沸教革新の回疾たる根本的鎧膠の現はれである。荷繹宗の宗蜜の如草は 荷澤宗と紅酉一派即ち罵軌道一系統とは水火の如く争うて居ることをいひながらも、江西一派な荷繹㌫と同じく 慧能系統となして居る如きこれ南嶽懐譲が慧能の弟子なることを認めて居るのである。江西の嵩祀に封して湖南 の石頭あり、二大帥を見すむば無知といはれて準者の往来繁く、此二価にょつて群が隆盛となるといはるる時石 頭が青原行思の法嗣、青原行思が慧能の弟子なることが認められて居るのである。石頸希遷は曾ては慧能に従う たこともあつたのであるし、其碑文によれば、青原行忠が慧能に嗣いだことは明確である。南嶽青原が芸能の弟 子中の最倖着で、紳秀門下の畢帽背寂であつたのである。 以上の如く弘忍門下虻諸所に化を布いて、北は黄河以北、南は両親甫、西旺成郡、東は揮州に至り、而も老年者 が多く五十年間も行化して居たものもあるから、津樫系統の繹ほ一に直接弘忍門下から天下に拭まり、隆盛とな るに空つたのである。従来は弘忍の名整は全く帥秀慧能及び共門下の名葬に奪はれた観があるが、これ等を打出 したのは全く弘忍の紺鎚である。弘忍の紺鎚の響の大なるを聞くべきである。︵十二・三・二五︶ ● 正純弘弘の法嗣 gご7責
誓約の信念は紳道教理の孤、北畠親房の主著、紳望正統記に著しい。 そもそも紳皇正統記がものされた真意は 唯我閲のみ、天地ひらけし初より今の世の今日に至るまで、日嗣を受給ふ事よこしまならす、一挺雛の中に をきても、をのつから傍より倦へ給ひしすら、狗正にかへる道ありてぞ、たもちまLましける。是しかしな がら神明の御誓あらたにして、飴団にことなるへきいはれなり。抑押通の事はたやすく穎さすと云事あれと 根元を知らされはみたりかはしきはしめとも成ぬへし。共ついてを救はんため柳か勒し侍少っ神代より証E理 にて受倦へるいはれを宣ん事を志して、常にきこゆる軍はのせす、然れ吟紳皇正統記とや名つけ侍へき。 ︵群書瓶後本第七真︶ と。即ち、紳皇正統記著作の素志は親房自ちものしてをる如く、我国のみ、天地ひらけし初めより侍へられてよ こしまなら取口嗣の正統.飴団にことなり紳代より受侍へられて決してたがはぬ正理を勒さんとにある。この正 理、それを此によんで﹁紳消〓とさへ云って居るのであるが、ぎて、何故あつて正理上なすか。それは、神明の 御嘗に適ふが故に正理とされてをるのである.ま雪ぃかなれぼ日嗣のず就.受僧へられてたが叔ぬか、それ
細道に於ける普約の信念
神道に於けろ誓約の信念
智
石 碑
ゼβ7♂神明の御普ひ、それは、正筑記の信念に於て、歴史の初めであり、終りである。否、むしろ﹂原皮利まる以前 ヽヽヽ からの歴史家創めるちからであ、リ、 夫天地いまた分れさりし時、渾沌として踊れること郷子のどとく、くゝもりて牙をふくめりき。是陰陽の元 一叩未分の云也り⋮︰・北ハ巾ょり高出たり。⋮︰智慧蒜と申†⋮・−・こゝに天測J阿常女鹿・伊非諾・伊野 \ 紳明の細誓あらたなろが故にとしるされてをるのであ鳶要するに、この著の素琴は神明の御普の正哩にかな.ひ 紳明の御督あらたにして像へられた甘嗣正統の歴史をものせんとにある。正統の脛史、それは著者の信念に.あ て.神明の御誓の資現史町外ならなかったのである。ことほど感房には糾明の御誓なるものは何を措いてもの重 要性む持ってをつたのである。利明の御誓は、葦に、歴史の奥の意味、歴史を導く力と信じられてをつたのであ る。膝史をものしで、歴史を導く升、歴史藍只く正理を明かにせんと心したのが、即ちこの着である。 歴史の指導力、歴史のjE理を説くことが親房の常時、南北朝のせの乱れに際して特に必婁づけられたことは勿 論である。 ⋮⋮恕が中なる夢の≠。今にはじめぬ習とはなりぬれど.かすぐ甘の前たる心ちして、老の浜もかきあへ ぬば、筆の跡さへとゞこぼりぬ。:⋮・帥豊正統のよこしまなるまじき埋りを申のべて、素意のすゑをもあら はきま隠しくて、しゐてしるしつけ侍る督。︵芸二訂︶ とのことばさへ見える。 . 弾道に於ける誓約の信念 .ご、ごニ7
押遣に於ける誓約の信念
二八
廿の二奪に勅して甘て、豊葦原の千圃許秋の福松ん地あり。汝杜てしらすべしとて即大の壕矛を授け給ふ心
⋮層
、、、
また、歴史の終り、香、むしろ、歴史を追越して歴史の上を照し導く無窮の光、口月盈長の如き無窮のちから
こそ、即ち、糾明の御誓ひであると信ぜられ、のべられてを心。
むかし皇粗大照大帥、天孫舎にみことのりせし賢帝之降常輿夷撃鮎㌻窮とあり、天地もむかしにかはらず。
日月も光五あらためず。いはんや三柚の帥器、世に現在し給へり。窮有べからざるは、我国を倍る賛辞也。
あふぎて琴とみ奉るべきは・品賢け給ふ皇になんおはします。︵諾二京︶ 箕に、過去無限と未来無窮とをつなぐものは、御誓約によつて定められたる正統の賓詐の簸えである。か1る祭えこそ典朝にためしなき神国、日本の琴孔である。とは正統記が客観、冒頭からカ詮してや璧ぬところである。
大日本は紳図なり。天孤はしめて基をひらき・口紳なかく統を侍へ給ふ。我図のみ此事あ㌢異朝には乱ハた
く差し。此ゆへに紳讐いふ寄。︵諾︶賛辞の柴え、和国の費え、これ一に天組、皇租の御はからひによることを明かならしめんとしてそもそもこの著あ
りしよしさへ記されてをる。
紳代より硝鉢正統のたがはせたまはぬ一はしをまうさんためなり。我国は紳囲なれば天照大紳の御はからひ
にまかせられたるにや⋮⋮。︵㌍︶このありがたき御はからひの宣言とそ、即ち紳明の御繋︰であり、桝謂御紳勅である。
.ごご∴ヾ天照太紳高畠産鯨奪湖計て象孫む降し給ふ∵⋮兜わらかじめ皇孫に勅して亨、漂の千若秋の瑞拙の
・
国造子音王之笹夢露就両署賀空陸・藍ハニ天攣警窮考⊥憫枇頁︶
この御伸助・この糾明の御誓あらた托して、国道鎧象られ、雷纂警御誓約の軌雷管と信ぜられ
てをる。桝へば、抑功皇后のくだ町に虹、
かくて新警臍串警打し宗へ給ふ。紳代より年序久しくつあれりしに、かく紳戚をあら良し給ひける。
︵調山妄︶と軋れ、なほ、元冠のことを記せるくだりにも
慧の軍露く胎をそろへて我閉塞かす。筑紫近て大に合警り。紳明威霊らはしかたちを現してふせ
がれけり。大風俄に至りて、数十寓鰻山賊弛みな涼倒破滅しぬ。末嘗はい⋮品明の威禁可凪議な
㌣瞥約のかぼらぎえことこれにて已はかるべしJ︵朋訂︶とある。
上l窮讐誌の警ととも吟ゆるぎ祭るべき竿これ品位し奉るべき雫の道であると力むこめての
べられてをる。
我国蒜代よりの誓にて、君笑照大紳の御未開霊もち、鱒笑兄屋の御ながれ君島け警べき帯と辻
れり。︵黒鼠︶とあるは、そのかみ、
研遺に於ける誓約の信念 ご.ご:\・■ノ三〇
紳道に於ける誓約の信念
天照太紳高畠産駐車相計て皇孫を降し拾ふ。八百誠紳、効率つけて御北ハにつかうまつる。諸軸の上首三十二
紳あゃ。典中豊部の紳と云は、天見昂命卯眠天太宗蝿醐
天鍋蓋諾看護命媚師表命謂
なり。此中にも中臣忌部の二紳はむぁとの紳助をうけて皇㌢たすけまほり給ふ。︵佃計︶との事によるとなされてをる。
以氷、天兄屋のすゑ、中臣の末裔∵漆原の一家が君を輔佐し奉って遣にかなへるよしを数々記してをる。
此鎌足の大臣は天兄屋命二十一世の孫なり。むかし天孫あまくだり拾ひし時.諸紳の上首にて此命殊に天照太紳の勅をうけて輔佐の紳にまします。中臣といふ事も二紳の御中にて帥の御心をやはらげ申給ひけるゆへ
とぞ。⋮⋮鎌足に至りて大勤をたて世に寵せられしによりて租業をおこし先烈をさかやかされける無レ止事
雷。且蒜代よりの欧風なれはしかるへき理りとこそ露え侍れ。︵開㌢頁︶これらに反して市統記が新に興れる汝氏、また、平氏を詰れることも如上の信念から理解される。
源氏はあらたにいでたる人臣なわ。徳もなく功もなく高官にのぽりて人におどらは二帥御とがめありぬべき
苦かし。︵諾責︶ 清盛一豪非分のわざ天意にそむきけるにこそ。︵㌍貫︶との批難あり、﹁清盛天下の権を盗み太政大臣にあがり﹂とさへ極言されてをる。
要するに、賛辞舶⋮窮、帥閲無鮭の柴えを保証し給ふた紳明り御誓によつて歴史創まり歴史導かる。史上、三韓
の征服−元冠知の克服等ふ帥明の御誓あらたなるむ示すこと勿論であるが、全史を通じての臓卯たがはぬ日脚、 だ.ござr)紳皇の正統こそこれを示し絡て飴抄あるものである。つけても.君につかへまつるぺき臣下の身上して、 っねに冥の知見をかへりみ、帥の本誓をさとりて、正に居せんことを心ざし.邪なからん事を思ふべし。 ︵同上 三十六貰︶ といふのである。 以上が、歴史に即して.歴史を導く御神勅の翻意を明かならしめんとした親虜の努力である。 賢所、帥図の無鋸の柴えを保記し、誓約されたその誓約にはLるしがそなへられた。御誓ひのしるし、それは
三種の潮器なのである。
叉三種の和賀をさづけまします。・:︰女太紳御平に茸鋭をもちたまひ、皇孫にさつけて祀て、吾見祀こ此聖 撃常レ猶レ硯レ我.可三輿同レ床共レ殿以撃薔鋭↓とのたまふ。八坂塩曲玉、天の叢芸の倒を加へて三拉とす。叉此かゞみのごとく分明なるをもちて天下に君臨したまへ。八坂塩のひろかれるがごとく曲妙をもつて天下
をしろしめせ、紳倒をひきさけて不レ順ものを招いらげ給へと励ましましけるとぞ。此国の紳蛋として皇統
一種たゞしくまします革まことに是らの勅に見えたり。三位の紳器世に倍ふ事、日月星の天に有におなじ。
鏡は。の篭。慧月の精な少。禦星の慧。ふかきなら芸るべきにや。︵憫計︶とあ少、なほ
三種につきたる紳勅は、まさしく開を手持ますべき遣なるべし。鎚は一物をたくはへす、私の心なくして、
細道に於ける誓約の信念 ● 禦∫三二
耐道に放ける誓約の′信念
濁像を潤すに、是非尊悪のすがたあら惚れずと云事なし。其すがたに怯ひて感應するを徳之す。是正直の本
源也㍉器は柔和蕾順を穂とす。慈悲の本滋払り。鋤は剛利決断を徳とす。智題の本淑也。此三徳む余受すし
ては.零下のおさまらんこと.串千ことにかたかるぺし。紳勅あきらかにして、詞紛かにむねひろし。刺へ紳 錯にあらはし拾へり。最か琶け警ことにや。︵崇筑︶と説かれ、兜づ、日月星の如′壷約の永遠性む示すしるしと仰せられ、また、分明、隠妙、銃利等の治世、君臨
を示すしるし、乃至.iE.順、剛等の三は聖不すしるしとの解も試みられてをる。中にあってむ 天照太紳も唯正直をのみぞ御心とし給へる?紳鏡を憧へましん卜し事のおこりはさきにもしるし侍軒ぬ。 ︵同上 三十内貰︶とあり、また、
紳完膚雷とりて、瓦に属せんこと窓ざし読なからん事憂思ふペし。︵諾歪︶等とある如く、特に、正に居せんことを主とせること左のごときことばあるによつても知られる。即ち、
人はすなはち天下の紳物なり。心細をやふる事なかれ。紳はたる1に析稽を以さきとし、其はくはふるに託E 直を以本とすとあり。⋮︰白月は四海をめぐり六合をてらすとい︵ども、正直の頂をてらすべきなり。大かた二析宗廟の御心をしらんと恩ほ唖正直をさきとすべきなり。大方天地のあいだありとある人、陰暢の気を
ぅけたゎ。不正にしてはたつべからず。ことさらに此幽に紳周なれ鱒浦道にたがひては青も日月をいセゞ
く畏きい琵なり。︵詔菱︶
ご、J∫J天紳の御子両櫨あらんや︵諾二頁︶ 地図の紳綜言上てぃ鳥銃一層正⊥くましす事、まことに是らの勅にみえ:⋮・三位の神器世に侍ふ軍:⋮ふか きなら芸るべきにや。︵相計︶ 君について鴇べ我油大日の窪にましませば.明徳をもつて照臨し給ふこと.陰陽忙をきて、はかりがたく、冥.絨
につきて観みある﹂ことゆゑ二崇貫︺この御か芸のごとくに分明なるをもちて、寄島臨したまへ﹂とい
のちる㌧と親房述べ、
民の賦恩つぐて身づからのほしきまゝにする事揉乱世乳房のもとゐなり。我国は図︵絹本︶柾の警事 披なげれども“政乱れぬれぽ暦数久しから芸々、︵㌍毒︶ 土着融麗のる高じ痕か芸要言恵妄⊥かば、末代いかでかつゝ妄せ拾はぎるぺき。︵諾妄︶と眉へ記眉れ、なほ、堕ハ十代、醍醐天皇の御代、右湖菅公、左相時平の記事のくだり′に、
禰御幼年のゆへ肥や左側の蓋に庵まよはせ給ひけん。輩も資もー失はあるべきこそ。其趣き経書にみゑ凍ゆ。
されば曾子は我旦二撃我野といふ。季文子些二思ともいふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよく
かくJ凄くまで正濫潜⊥、正直を雲とすとすべ澄であつて、不正濫してはたつべ・かちぎ宣しを灘小てやま意小のである沌
ことにJ正統の正を信念心事らねばならぬ事を力をこめて設叶でをる凍土御完′こた議化扮紳撃誉£告 し︵憫計︶﹁常姪の王﹂にお庄オ︵ 鯛道に於ける誓約のノ信念 一辛同 七上 貢 \ J β2及タっぃしみ喜べをなり。︵㌍芸︶ 君、正に居し給ふて撃徳をますます藍すし給はん。とをいのる念ひ切片あらはるゝところあるを見る。︵糊 御紳勅把よつて君さだまゎ、臣また、きだまる。君臣上下の分.きだかでたければならぬ。 我図は神明のちかひいちじるしくて上下?分さだまり、しかも善悪の報あきらかに因果のことはりむなしか らず。︵関配、︶