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自称代名詞「まろ」の性格と変遷

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Academic year: 2021

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全文

(1)

さて、以上見てきたよう

K

、紫式部日記・源氏物語を通 じて、どの註釈書も﹁二月﹂という季節的条件を無視して、 ただ一般的友枝垂柳の﹁なよなよ﹂とした性格だけをと h y あげているが、ととは当然旧暦二月頃の枝垂柳の状態であ る﹁みずみずしさ﹂﹁若々しき﹂を忘れる ζ と は で き 念 い 。 す左はち﹁小少将の君﹂や﹁女三の宮﹂の様子は、﹁旧暦

自称代名詞

現 代

K

於ても日本語の人称代名調は他国のそれと比較して 非常

K

多種であるが、中古から江戸時代

K

は更に様々念人 称代名調が用いられている。人称代名詞は対人関係

K

よ っ て規制され、それ

K

伴う敬語表現と共

K

、日本語では重要 念役割を果たしてきた。即ち、鎌倉時代以後の封建制度は 厳格念身分関係、上下の対人関係を作りあげたために、敬 語表現が複雑

K

左 h y 、同時

K

人称代名調の数も増加したの である。しかし、我国

K

於ける身分関係重視の風潮は、何 も封建制度の産物では念︿、天皇を頂点とする中央集権体 制を確立した古代から平安初期の王朝貴族社会で既

K

生 ま れていたのである。つまり、人称代名調は古代からの社会 ’ コ 、 ’ A F 、 ∼ ョ ・ コ 、 L ヨ ロ ﹁ b 、

1

フ 乞 ︿ J

Ll 九重でち 二月の頃の枝垂柳﹂のように、﹁みずみずしくて若々しく、 また念よ左ょとしている﹂と解すべきである。 念 h u 一般論としても、とのよう念管喰的表現の場合は、 そのたとえられた者の性情を正確

K

把握してbか念ければ、 正しい理解も念し得ず、誤解を招︿恐れがあるととを、充 分銘記してbくべきであろう。 ︵ 本 学 教 授 ︶

の性格と変遷

-14-制度の反映とも言え、その生滅の歴史を追うととは非常

K

興味深く思われる。 そとでまず、人称代名調の中でも話者自身の立場を直接 感じさせる自称代名調を、﹃高等国文法新講﹄﹃日本文法 大辞典﹄﹃国語学辞典﹄

K

ょ ・ 9 調査した結果、四五種数え られた。とのうち、﹃古事記﹄﹃万葉集﹄﹃竹取物語﹄ ﹃大和物語﹄﹃宇津保物語﹄﹃かげろう白書室嶺暢置 ﹃枕草子﹄﹃源氏物語﹄﹃狭衣物語﹄﹃提中納言物語﹄ ﹃宇治拾遺物語﹄︵岩波日本古典文学大系をテキストとす る ︶

K

現われるものは、ぁ、あれ、ゎ、われ、 b の 、 b の れ 、 b れ 、 b れら、とち、と念た、わが身、それがし、ま

t

E

司ご庁

E

r

s

t

9h

、 に ’ ろ と フ ︿ 妥 塁 王 ロ ﹁ ま う 一 と D

(2)

ろ、み、自ら、身ども、われわれ、わたくしの十八種であ る。ただしとれらは、それぞれ様々左性格を持って b − 夕 、 すべてが当時自称代名詞として使用されたと見ることは危 険 で あ る 。 しかし、その中で、﹃古事記﹄から﹃提中納言物語﹄ま で時代を通じて全般的

K

相当数現われ、平安時代以後は明 ら か

K

自称代名詞としての用法に限定される﹁まろ﹂は特 異であり、興味をひかれる語である。そとで﹁まろ﹂の変 遷及び性格を検討する次第である。 ﹁まろ﹂の古い例について 前

K

「 ま ろ 」 は 時代を通じて全般的相当数現われ

K

る と 記 し た が 、 具 体 的

K

は 次 表 の 通 り で あ る 。 作 品 数 古 事 記 1 万 葉 集 2 竹 取 物 語

古 今 集

士 佐 日 記 1 伊 勢 物 語 1 大 和 物 語

| 宇 津 保 物 語 48 か げ ろ ふ 日 記 2 落 窪 物 語 30 枕 草 子 10 源 氏 物 語 38 狭 衣 物 語 21 提 中 納 言 物 語 9 宇 治 拾 遺 物 語

言十 163 すると、﹃大和物語﹄を境として数

K

差 が あ

b

、 さ ら に ﹃ 古 事記﹄﹁万葉集﹄﹃伊勢物語﹄﹁土佐日記﹄の五例は自称 i z − − i ﹀ Leh 司み円 ふ a b 4 H N 向 舟 そ れ が し 、 ま 代名詞と断定するよりも、人名

K

っく接尾語﹁まろ﹂との 関連が強いように思われる。 まず、文献に現われる最古の﹁まろ﹂は、﹁古事記﹄の 歌謡

K

於けるものである。即ち、 か し ふ よ ︿ す か お ほ み き う ま 白 憶 に 生 に 横 目 を 作 り 横 自 に 駿 み し 大 御 酒 甘 ら に 、 湾 も を ・ ・ ち 聞 こ し 以 ち 食 せ ま ろ が 親 というもので、との﹁まろがち﹂の﹁まろ﹂を自称代名詞 と見て﹁私の天皇様﹂と解するととも、もちろん可能であ り、一般的である。しかし、古事記、日本書紀を通じて、 他に﹁まろ﹂の例が左いことから考えると、 ζ の ﹁ ま ろ ﹂ は、自称代名詞と限定するよりも、人麻呂念どといった人 名につく接尾語の﹁まろ﹂を自称代名詞がわりに用いて親 しみをとめた表現という見方の方が自然では念いかと思わ れ る 。 次に、万葉集の巻十の二

O

三三を見ると、﹁天の河安の 河 原

K

定まりて神競者磨待無﹂という歌があり、との﹁磨﹂ を、﹃万葉集大成﹄及び﹁万葉集注釈﹄では﹁麿﹂す念わ ち﹁麻呂﹂と解しているが、とれは異説も多く断定し難い。 と れ

K

対して、巻九の一七八コ一の ﹁ 松 反 h y しひであれやは三栗の中上り来ぬ麿といふ奴﹂ という歌には確実念﹁まろ﹂が見られる。しかし、残念‘な がらとの﹁まろ﹂が自称代名詞である可能性は甚だ少ない。 む し ろ 、 ζ の場合

K

も﹁古事記﹄の例とは内容が異念るが、 人名につ︿﹁まろ﹂との関連が考えられる。つまり、夫の 名が﹁麿﹂もしくは﹁何々麿﹂だったので妻が愛称のよう にそう呼んだのではないかという推察である。

(3)

-15-次

K

見られる﹁まろ﹂は、十世紀初頭の書である﹃伊勢 物 語 ﹄

k

b

いてである。’’ ﹁筒井つの井筒

K

かけしまろがたけ過ぎにけらし念妹見 ざるま

K

﹂ ︵ 二 十 三 段 ︶ との﹁まろ﹂は自称代名調説が一般的である六、、、弔泉家 流伊勢物語抄﹄の注

K

よれば、﹁凡、人皆丸を惣名とす。 一 義

K

は阿子丸を指すといふ宏、

9

0

是は、凡、人の娘、皆 阿子丸左どといふ名有﹂として、自称代名調説は否定され、 ととでも人名

K

つく接尾語の﹁まろ﹂との関連が指摘され て い る 。 最後

K

﹃伊勢物語﹄とほぼ同時代の﹃土佐日記﹄を見る ル ﹂ ﹁ ま ろ と の ﹁ あ る ひ と の ζ のわらは念る、ひそか

K

い ふ 、 うたのかへしせん﹂といふ﹂︵岩波三三頁︶ とある。とれも自称代名調と解するのが通説であるが、﹃古 事記﹄﹃万葉集﹄﹃伊勢物語﹄と同様

K

、 と の 童 の 名 が ﹁ 何 何麿﹂だったので自称代名詞がわ

bk

﹁まろ﹂と言ったと いう推測は充分可能である。特

K

との場合は、発言者が幼 い子供であることから、自分の名前の愛称をミ自分自身が 用いたかわいらしい表現という可能性はより強いと思われ る 。 以上のよう左検討の結果、﹃古事記﹄﹃万葉集﹄﹃伊勢 物語﹄﹃土佐日記﹄の五例の﹁まろ﹂は、自称代名詞と断 定する

K

は疑問が残 h y 、人名

K

っく接尾語の﹁まろ﹂が愛 称として本人

K

も第三者

K

も用いられたと見るのが望まし いと思われる。ただし、それがその後現われる自称代名詞 ﹁まる﹂の前型であったととは確かであろう。 清少納言の﹁まろ﹂観− 前項で述べたよう

K

、古い時期の﹁まろ﹂は自称代名調 と認め難いのであるが、平安中期以降は最も一般的左自称 代名調として﹁まろ﹂が使用されたととが推察される。 しかし、いったい、当時の﹁まろ﹂はどのよう友人々

K

よって用いられ、どのよう念性格をもった自称代名調だっ たのだろうか。それを知る重要左手がか h y 与 え る の が 、 ﹃枕草子﹄の﹁文ととば念めき人とそ﹂の段

k

b

ける清少 納言の﹁まろ﹂観である。即ち、 ﹁殿上人、君たち、御前よ

b

ほかにては官をのみいふ。 また、御前

K

て は 、 b のがどちものをいふとも、きと しめず

K

は念どてか﹁まろが﹂左どはいはん。さいは ん

K

かしとく、いはざらむにわろかるべきととかは﹂ というのである。つまり、清少納言は、﹁まろ﹂は公の場 で 口

K

するのは慎むべき語であ h y 、親近感を現わすという よ夕、親狩感を抱かせるかもしれ念い恐れのある語と思っ ていたらしいのである。 しかし、実際

K

はどうだつたのだろうか。彼女の周囲の 公卿あるいは女房たちは、﹁まろ﹂をどのよう念場合

K

、 どのよう左人々に対して使用していたのだろうか。また、 ﹁まろ﹂を用いて話した人々のその時の心情はどのよう念 ものだったのだろうか。 次頃以下では、先

K

あげた作品

kb

いて、話し手と聞き a u 唱 E A

(4)

7 7 i

4

ォ ,

Z

4

σ

a

芳 J 土れ迂自 4 代 名 一 読 手の関係、及び話し手の心情を中心

K

、清少納言的観点を も含めて、実際に用例を検討するものである。 男性の発言に於ける﹁まろ﹂ まず、先に述べた自称代名詞と断定し難い五例を除いた 一五八例の﹁まろ﹂を、川成人男子の発言

K

於ける場合、 凶 戎 人 女 子 の 発 一 言

K

於ける場合、同子供の発一言

K

於ける場 合

K

区分してみると、

ω

七 九 例 、

ω

四 六 例 、 同 一 一 一 一 一 例 と 念 る 。 そとで、との項では成人男子の発言

K

﹁まろ﹂が現われ る場合の例を検討するのであるが、﹁上代語辞典﹄

K

よれ ば、﹁ー

l

略|!多くは男

K

用いられた﹂とあり、また、 宮田和一郎氏のどとく﹁まろは対話であって、主に男子の 用語である﹂︵﹁国語の代名詞について﹂︶とする説もあ る。そして、それを裏づけるかのように、先の統計でも成 人男子の発言が圧倒的

K

多 い 。 そとで、その問題も含めて男性の発言

K

於ける﹁まろ﹂ の待遇意識を検討するものである。 そのために、対人関係を次表のように分類してみた。 次 頃 以 下 で は 、 先

K

あ げ た 作 品

k

b

い て 、 話 し 手 と 聞き 宇 ミカ 落 枕 源 狭 提 津 げ 中 作 品 窪 氏 衣 保 ふ 草 百 計 対 人 関 係 物 日 物 物 物 物 語 記 語 子 語 至口五口 語 ア 対 等 の 男 性K 1 0 3 1 14 イ 下 の 男 性K

ウ 下の女かた性に 4 5 3 3 2 1 7 左 し エ 上 の 万

t

オ菜弘主政母、伯父‘伯母 2 1 2

~~14

カ 兄 、 姉 3 キ 娘 、 息 子 、 甥 、 姪 1 3 1 ク 妹 、 弟 1 ク妻(恋人) 2 1 1 1 5 5 33 コ 不 明 、 そ の 他 1 1 計 24 1 1 6 5 22 9 2 79 勾 , a 唱 E A

(5)

ととでまず注目されるのは、上の方

K

対する発言

K

於け る﹁まろ﹂の例が念いととである o 女性よりも正確に身分 の差がつけられる男性の社会に於ては、言葉使いも重要念 社会的、進退的問題だったと思われるが、その男性の発言

k

b

いて、とのように上の方への﹁まろ﹂が左いととは、 先の清少納言の説を裏づけるものとして注目すべきことで あ る 。 対等の男性

K

対しての会話の例は十四と比較的多いよう に思われるが、とれは、その大部分が﹃宇津保物語﹄に於 てであり、﹃源氏物語﹄

K

於ては一例しかないことが気

K

かかる。そ ζ で考えられるととは、男性同士の会話

k

b

い て﹁まろ﹂が使用される場合の、時代

K

よる使用法の変化 で あ る 。 さらに、このととは、上の方への発言に於ける場合ゃ、 下 の 男 性 に 対 す る 発 一 言

k

h

v

ける場合

K

例 が な か っ た こ と と も 考え合わせる必要があると思われる。 か た す左わち、当時、男性同士の会話

K

於ては上の方へは勿 論、たとえ対等の身分の親しい間柄の者へ、あるいは下の 者に対してであっても﹁まろ﹂を使用するととは避けるの が常識とされていたのでは左いかと推察されるのである。 しかし、最初からそ初ょう

K

避けられたのでは左く、気 を使う必要のある上の方や下の者に対する発言

K

於 け る ﹁ ま ろ﹂は相当早い時期

K

消えていったが、親しい対等の関係 の者同士ではその後も使用されていたと思われる。しかし、 それも﹁宇津保物語﹄が書かれた十世紀中頃には避けられ 始め、﹃源氏物語﹄が書かれた一

O

O

O

年頃

K

はほとんど

3

﹀旨

3

5

使用され左︿念ったと推測するのである。 要するに、男性が自称に﹁まろ﹂を用いたのは女性との 会話

K

於てのみでは念かったかと考えられるのである。 ではそれは一なぜかというと、ただ、﹁まろ﹂が、気の h F け念い場合の会話

K

用いられるという性格をもった自称だ ったためではないかと考えられる。それは、前に述べたよ う

K

﹁まろ﹂が人名

K

つく接尾語から発生したとすれば、 むしろ当然であるかもしれ念い。つまり、自分の名を告げ ること

K

よる親近感や甘えの感情を含んだ自称だからであ る。しかし、身分に差がある者同士が会話する時

K

は、た とえ上の者は気が h F け左い心情であっても下の者は無論そ うはいか念いために自然と使われ念︿念ったと思われる。 それが後には、男性同士の場合は身分に差がなく親しい友 人と私的左ととを話している時であっても、やはり社会的、 地位的 Y 政治的なものが考慮される余地があったため

K

、 なのずから﹁まろ﹂の使用は避けられて行ったのであろう。 またそのよう友男性にとって女性は、政治的、社会的念立 場から切り離された存在であるが故

K

、そういった意味で は心から気の b け左い話のできる相手であり、﹁まろ﹂の 使用も許されたのでは念いかと考えられる。 そう考えると、妻

K

対する発言の例が最も多いととは、 むしろ当然であり、また、当時の上流貴族社会の男性の厳 さも察せられるのである。 0 0 2 Z A 四 女性の発言に於廿る﹁まろ﹂ との項では、成人女子の発言

K

﹁まろ﹂が顕われる場合 を δ 詰 覇 市 、 妻 も 多 A U D M 伊対等の女性との場合、次に、親、

(6)

始 め 、 ﹃ 、 源 氏 物 語 ﹄ が 書 か れ た 一

0

0

0

年頃にはほとんど を 、 先 と同様

K

分 類 し検討すてのでもるある。分類の結果 は 次 表 の 通hJ で あ る 。 宇 か 落 枕 源 狭 提 作 品 津 げ 中 ろ 納 保 草 = 仁コ 計 物 物 物 物 対 人 関 係 三日ロ五 記 至口五口 子 三口五ロ 語 三ロ五ロ ア 対 等 の 女 性K 1 3 1 5 1 0 イ 下 の 男 性K

ウ 下 の 女 性K 1 2 2 5 ? 孟 古>tこ し エ 上 の 方 に 2 2 オ親祖父怠伯父、伯母 3 4 1 8 カ 兄 、 姉 1 1 社4 キ娘、息子、甥、姪 1 2 1 1 5 りク 妹 、 弟

ケ 夫 4 3 7 コ不明、その他 1 1 1 5 8 計 5 1 1 3 5 8 9 5 46 との項では、成人女子の発一言

K

﹁まろ﹂が顕われる場合 その結果、最も多いのが対等の女性との場合、次

K

、 親 、 祖父母

K

対しての場合、次

K

夫に対しての場合と念ってい る 。 すると、女性の場合も男性の場合と同様

K

心を許せる相 手

K

対してのみ使用していると見て一応問題は念いようで あるが、ただ、先の清少納言の意見と比較する必要がある と思われる。 そとで検討してみると、との十例中七例が少納言の意見

K

反して主人の御前にないて左されている。しかし、その うちの二例を除けば、それは作者の意図

K

よるものであり、 やはり原則として﹁まろ﹂は主人の御前で使用することは 避けられていたと考えられる。 また、もう一つ気

K

かかるのは、夫

K

対しての発言の場 合である。とれは七例と多いよう

K

思われるが、実は、﹃器 窪 物 語 ﹄

K

於ての、あとぎ←帯万一例、落窪←右近少将 3 例、﹃源氏物語﹄

K

於ける、雲井雁←夕霧 3 例と、結局三 組の夫婦の間でしか使用されてい念いのである。 ζ のととについては、森野宗明氏が、﹁王朝貴族社会の 女性と言語﹂の中で言及されているので、それ

K

従う。即 ち、落窪←右近少将の場合は、深い愛情と信頼

K

裏打ちき れた心の交流が感じられる﹁まろ﹂であると指摘されてい る。ただし、あ ζ ぎ←帯万については、﹁ ζ のあたりの階 層

K

念ると、親狩感とか気安さが表面に出やすいというと となのであろう﹂と批判的に述べられている。また、雲井 雁←夕霧

K

ついては、雲一井雁の人柄と言動を分析し、﹁感 情の起伏に伴って直線的に露呈する。幼児性の強い彼女の 19

(7)

K

対する距離零といってもよいほどの態度、それを象徴 的にとらえてみせたのが、 ζ の﹁まろ﹂まのである﹂と結 ぼれている。 確かに﹁まろ﹂は一般的には妻から夫へ使用されるべき 自称ではなかったと思われ、女性にとって血縁関係の左い 男性は充分念配慮が要求される相手であり、夫であっても それは例外では左かったと考えられる。 をた、女性の発言の場合、男性の場合と違って身分が上 の人への例が二例あるが、これは﹃落窪物語﹄

K

於る、あ こぎ←落窪であるととから、あとぎは落窪の姉代わり、母 代わり的な存在であるので例外と見念してよいと思われる。 すると結局、女性が最も安心して﹁まろ﹂を使用できた のは近い血縁関係の家族との会話に於て、または主人のい ない場での女房同士の会話

K

於てのみであったと思われ、 やはり﹁まろ﹂は私的左くつろいだ場合

K

用いる自称代名 調であることが裏づけられる。 五 子供の発言に於ける﹁まろ﹂ 最後に子供の発言

K

於ける場合であるが、先とほぼ同様

K

分類した結果は次表の通りである。 二 、 ノ 喜 怒 ih 正 当 、 毘 町 、 ヰ 主 介 、LUFF

dJ

司、・

だ’唱引dprJ’3に』いy 宇 台、 作 品 津 げろ 窪 氏 衣 納中 保 草 = Eコ 計 物 物 物 物 物 対 人 関 係 ア身分が上の親しい大人 1 1 2 血 イ身分が下の親しい大人 1 1 』8 縁 関 ウ見知らぬ大人 4 1 5 係 エ身分が上の子供

念 し オ身分が下の子供 1 1>2 カ同身分の子供 1 1 血 キ親祖父母、伯父、伯母 8 1 3 2 14 縁 ク 兄 、 姉 1 2 3 :1.7 関 ク妹、弟

係 あ コ不明、その他 4 1 5 り 計 1 9

1

7 3 2 32 20ー と え 司 孝 一 議 ザ

o

d

h

d

h

U 町 田 町 妾 ほ A U ぜ ”

L J

笠宮 M V P

帯 主

(8)

との場合も、親、祖父母に対してが圧倒的に多く、家族 に対しては自由に﹁まろ﹂を使用していた様子である。し かし、大人の場合と異ま

b

、身分が上の方ゃ、見知らぬ人 ゃ、他の子供同士でも使用しているのは、やはり年少であ るため

K

社会一般の常識からははずれた行為も許されたの だろうと思われる。 しかし、﹃源氏物語﹄や﹁狭衣物語﹄

K

於てはとのよう ま例が左いことから考えると、十世紀後半以後の上流貴族 社会では、子供であっても家族以外の人、特に身分が上の 方との会話

K

於て﹁まろ﹂を使用する ζ とは、やはり避け るように撲られていたのでは左いかと思われる。 以上のように検討してきた結果、不充分ではあるが一応 結論をまとめてみる。 ﹁まろ﹂という語は、﹁古事記﹄﹃万葉集﹄の頃から見 られるのであるが、古い時期

k

b

けるそれは、自称代名詞 として確立された形では念く、人名

K

つく接尾語を愛称と して本人も第三者も自称代名調がわり

K

使用したものであ っ た と 考 え ら れ る 。 そしてそれは、十世紀中頃からは完全念自称代名詞とし て確立するのであるが、愛称から発展した自称であったた め

K

、﹁親近感を伴う﹂﹁甘えた響を伴う﹂という性格を 有したので使用範囲が限定されたと思われる。 即ち、十世紀後期からは、男性同士、あるいは女性が男 性

K

対して使用するのは避けるべきであり J、さら

K

は、た とえ同身分の女性同士であっても間接的

K

せよ主君が聞き 手た h y 得る場合は使用すべきでないという制約である。そ してそれは、子供

K

も要求され、上流貴族社会の規範の厳 格さをも示していると思われる。 ただ一言で言う念らば、きわめて私的念会話の場合

K

、 心を許しあえる人に対して用いる自称代名詞が﹁まろ﹂で あったと考えられる。 参考文献 ﹁高等国文法新講・品調篇﹄ ﹃講座・国語史 3 ・ 語 嚢 史 ﹂ ﹁ 日 本 文 法 大 辞 典 ﹄ ﹃ 日 本 の 女 性 史 ﹄ ﹁ 古 事 記 全 講 ﹄ ﹃ 寓 葉 集 注 釈 ﹄ ﹃ 源 氏 物 語 大 成 ﹄ -21 他 ︵との論文は、第二回例会の研究発表をまとめていただい た も の で す 。 ︶

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