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真宗研究56号 015後藤智道「江戸期宗学の性格と信仰――香月院深励の学風を通して――」

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江戸期宗学の性格と信仰

− 1 香月院深励の学風を通して||| 大谷大学

矢口 仁i

本論の目的

江戸期、幕藩体制のもとに興隆した宗学は、精綴な学問体系を構築することにより、親鷲に始まる真宗の学を継 承していった。学寮を母体とする宗学は、長きにわたる学的研鑓を通して豊潤な土壌となり、明治に到つては西洋 の諸思想との接触を機縁として、大きな衝撃に包まれるなかで信仰主体を問題とする近代真宗学を生み出すことに なる。浄土真宗における学と信仰の緊張関係は、時代の課題と連動しながら常に問い直され、現代においても時代 相応の教学とは何か、という重要な問題として屡々論じられている。 本論は、近代教学を生み出す土壌として、江戸宗学が果たした役割を念頭におきつつ、束派宗学を代表する講師、 香月院深励︵一七四九

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一 八 一 七 、 以 下 ﹁ 深 励 ﹂ と 略 称 ︶ の学風を通して、その﹁学の性格と信仰﹂の問題を考察 し て い き た い 。 ム ノ、

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江戸期宗学の性格と信仰 ム ノ 、 一、はじめに 江戸宗学は﹁封建教学﹂や﹁訓詰註釈学﹂と位置づけられ、 一蹴される傾向があるとの指摘が散見される。この ことについて、例えば幡谷明氏は、 近年、徳川期の江戸宗学に対して、それを封建宗学あるいは訓詰学として簡単に処理する傾向が見受けられる が、果してそれでよいのであろうか。私自身としては、そのことについて今一つ充分納得のゆかないものを感 ︵ l ︶ ず る 。 という聞いを提起し、さらには﹁決して学問のための学問でなかったことは、その行跡を見れば一目瞭然である﹂ と述べている。では、江戸期の宗学とは、 一体どのような願いに基づいて興隆した学だったのだろうか。 従来、江戸宗学に対するネガティブな位置づけは、 いわゆる﹁近世仏教堕落論﹂に根差した見解であると思われ る。それは、幕府による一方的統制による学問、すなわち、封建制度の枠組みで構築された学問、という観点から 生じるものではなかろうか。それゆえに、﹁江戸時代には、仏教は各宗派とも一方には幕府の保護を受け一方には 太平の余沢を蒙った為に、外面から見れば教学が勃興し、大いに隆盛であった。が内面的には安逸に慣れて清新な 気風は見られなかった﹂という理解が通念化してきたことによる捉え方であると考えられる。 ところが、近年の近世史研究の動向を踏まえる限り、幕府権力による一方的統制ではなく、近世仏教教団や民衆 は﹁自律性﹂をもって展開したとの指摘がなされており、広く認知されている。したがって、真宗の学の伝統を課 題にする場合においても、﹁近世仏教堕落論﹂という視点のみではなく、それらの研究成果を通して、幕藩体制下 に学寮が興隆する意味を問いなおす必要がある。

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従来、深励については、学寮における権威的立場の﹁講師﹂であり、﹁一派学問の統一者﹂として称される一方、 ﹁学問の統一は自然に学説の固定を招﹂いたという位置づけがなされる。深励に対するこの位置づけを通して、江 戸期宗学の性格や評価も決定づけられているといえる。したがって、江戸宗学の性格を再検討する際には、﹁講師﹂ の地位、そして深励の学風の確認が改めて重要になってくる。また深励を通して江戸期宗学を再検討するにあたっ ては、学寮における公の講義とは別に、多くの書翰や日記、あるいは、後年に描き出された深励像についての資料 が残存しているので、それらの内容から深励の学風の本質をみる必要がある。 以上のような問題意識のもと、本論ではまず幕藩体制下において学寮が隆盛した状況を再確認し、そのうえで深 励の学風を通して江戸期宗学の性格と信仰の問題を考察するうえでの視点を明らかにしていきたい。 二、幕藩体制と学寮 幕藩体制が形成され固定された近世前期は、各宗の仏教寺院に対して、さまざまな政策が打ち出された時期であ る。寺院統制策を列挙すれば、諸寺院法度に基づく本末制度、寺檀制度の確立、諸宗末寺帳の作成などがある。幕 府と本山・本寺、本寺と末寺、末寺と檀家、このように全国に増加拡大した全仏教寺院と民衆の関係性を明確化し、 その全体を国家が一律的に掌握しようとしたのである。辻善之助氏は、国家権力によって統制された仏教界を次の よ う に 述 べ て い る 。 江戸時代になって、封建制度の立てられるに伴ひ、宗教界も亦その型に恢り、更に幕府が耶蘇教禁制の手段と して、仏教を利用し、檀家制度を定むるに及んで、仏教は全く形式化した。之と共に本末制度と階級制度とに 依って、仏教はいよいよ形式化した。・:中略・:元来平民的に起った各宗派も、甚だしく階級観念に囚はれ、僧 江戸期宗学の性格と信仰 ム ノ、

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江戸期宗学の性格と信仰 一 一 六 四 侶は益々貴族的になり、民心は仏教を離れ、排仏論は凄まじく起った。仏教は殆ど麻痩状態に陥り、寺院僧侶 は惰性に依って、辛うじて社会との地位を保ったに過ぎなかった。 かくして明治時代に及んだ。二百六十余年問、徳川幕府の保護政策に依って惰眠を食っていた寺院僧侶は、 ︵ 5 ︶ 一朝にしてその侍とすべき者を失った。 封建体制の成立に伴って諸政策が制定され、仏教は形式化し、麻庫状態に陥って僧侶の惰性は極まった、とする。 ︵ 6 ︶ このような見解に基づいて定説化されていったのが、いわゆる﹁近世仏教堕落論﹂である。 ﹁近世仏教堕落論﹂については、近年の近世仏教史研究でも大きく取りあげられるが、その﹁定説﹂の克服を試 みる傾向が顕著である。例えば、高埜利彦氏は寺檀家制度に関して﹁民衆の要求と寺院側の教化活動との両者が、 近世宗教を特色づける寺檀制度の前提となった﹂と指摘し、そのうえで﹁幕府が制度化を権力が強行したからだけ ではなく、右に述べたように民衆と寺院の両者が寺檀制度を形成し展開させようとした﹂という。つまり、一方的 に幕府が権力を行使して、末寺による檀家支配を制度化したのでなく、その両者が相侯って形成されていったと指 摘 し て い る 。 さらに、寺檀制度と民衆の仏教受容に関する言及として注意されるのは、次の柏原祐泉氏の指摘である。 近世の仏教思想が、とくに庶民との深い接触によって形成されてゆくことである。もちろん庶民の仏教受容は、 中世にとみに深められるが、近世では檀家制を基盤として、各宗派で庶民への接近、教化が積極化し、それを 受けて庶民の教学理解、内面的信仰が進められてゆく。この方面の研究はほとんど未開拓であり、過大評価は ︵ 自 ︶ できないにしても、近世仏教を知る重要な要素として見逃せない。 このように、近世の仏教は寺檀制度により、かえって民衆との接近があると論究されている。民衆と密接な関係を もつことにより、教化の積極性や教学理解が進められていくというのである。

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寺檀制度に限らず、諸寺院法度についても﹁寺院法度作成に際して、幕府側の意向をもりこんだことは当然であ るが、この場合ある程度寺院側の意向を組み入れていることは、注意すべきである﹂とあるように、幕府の一方的 抑圧ではなく、寺院側の意見が織り込まれていた点には注意が払われなければならない。このことの背景には、本 寺が末寺との主従関係を明確にするという意図があると考えられる。 前述のように、幕府権力の一方的な政策により仏教が形式化したというよりも、民衆と末寺僧侶の関係、本山側 の意向が反映されたもの、という視点に立つ研究が多く報告されている。 そのなかで大桑斉氏は、近世教団の形成に関して、 私見によれば、近世初頭の仏教は、さまざまな志向性・可能性をもちながらも、幕藩制国家形成過程との対応 において、自律的に教団形成の途を選択したのであり、幕藩権力はむしろこれを追認的に制度化し、あるいは へ

ω

︶ 修正を加えて体制に位置づけていったものと思われる。 と述べ、近世仏教教団は﹁自律的に﹂その形成が選択され、幕藩権力はそれを﹁追認的に制度化した﹂と論じ、 ﹁近世国家による仏教統制といわれるものも、近世民衆の自律性に対するものとしてみられねばならないだろ刊﹂ と指摘する。権力による統制とは、教団や近世民衆の﹁自律性﹂に対応するものである、という提言に十分注意を 払うべきではなかろうか。 このような各氏の論考を踏まえれば、﹁近世仏教堕落論﹂が再考を要する視点であることは明らかである。確か に制度的な意味では、幕府が直接的あるいは間接的に、全国の仏教寺院と民衆を統制し得たとはいえよう。仏教教 団は、そのことで経済的安定を招来し、﹁堕落﹂という面が出てくることも否めない。ただ、制度的には、そのよ うな状況を生み出したものであったとしても、そこには教団や民衆の﹁自律性﹂を欠落させてはならない。この ﹁自律性﹂ということが、近世仏教を見直すときの重要な視座になると思われる。 江戸期宗学の性格と信仰 二六五

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江戸期宗学の性格と信仰 一 一 ム ハ ム ハ 以上のような近世史研究の動向を受けるとき、学寮という学問的教育機関の形成について再確認する必要性が出 て く る の で あ る 。 そもそも東西分派以前、例えば ﹃実悟記﹂にみられるように、堂僧を中心として聖教が学ばれていたことが知ら れ る 。 古は御堂衆は六人候つると申、六人供僧とて是は平生精進にて候き。妻子もなく、不断経論聖教にたづきわり、 ︵ ロ ︶ 法文の是非邪正の沙汰斗にて候つる由候。 野村殿の御堂にては、いかなる朝も五六十人、百人ばかり、坊主衆子共、又は其外人の子ども、又は老者入道 ︵ 日 ︶ のやうなる人ならびゐて、かしましき程に﹃和讃﹄・﹁正信偶﹂、経論正教をよむ人おほく候し これらの丈から、御堂衆を中心にさまざまな人が﹁経論聖教﹂の研究をしていたことが窺える。そのような学びは、 具体的な制度に基づく参加強要のものではなく、僧侶や門徒の意志による学究態度とみることができる。あるいは、 西本願寺証如の﹃天文御日記﹄や蓮如の末子である順興寺実従の﹃私心記﹂などにも、たびたび﹁経論聖教の指 南﹂を行った記事が見受けられる。すなわち、御堂衆を中心とする﹁自律的﹂な学びの萌芽は、幕藩体制の諸政策 以前から確認することができる。 諸寺院法度によれば、宗派を統制する一方、共通して﹁学問による相続﹂﹁学問の奨励﹂という項目がみられる。 そのことで、各宗派における学問は、それぞれの独自性を展開するのであった。例えば、天台宗や浄土宗は、各地 に檀林を設立して、末寺子弟の育成に専従する研究教育機関をもつようになる。それは、幕府の奨励による、公許 の子弟研究機関と位置づけられ、それを契機として多くの成果をおさめていくのである。 一方、東西に分派することになった本願寺は、儒学からの排仏思想や、他山との法論の発生が、具体的な研究教 ︵ 日 ︶ 育機関の設置に大きく関わったようである。他宗派の研究機関の設立や法論、あるいは他学からの排撃などに刺戟

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され、八ム許を得た学問機関が益々求められたのである。したがって、東西分派以降の両本願寺は、時代思潮と連動 して、学問的機運が昂揚することになり、学林・学寮が草創され興隆していったと考えられる。 また、先に柏原氏が﹁庶民の教学理解、内面的信仰﹂について﹁未開拓﹂と指摘していた領域については、近年、 学寮草創以降も民衆と僧侶は幕府の統制から外れたさまざまな地域で﹁自律的﹂に関係を結んでいったという事実 が報告されている。そのような宗教的交流も、学寮の興隆に大きく資するものだったと思われる。 以上概説したように、学寮が興隆するのは、決して孤立的なものではなく、時代社会、諸学、諸宗派の動向と連 関しながらの﹁自律的﹂展開と考えられる。さらに踏み込むならば、﹁近世仏教堕落論﹂が再考されている現今の 研究成果によるとき、東西両本願寺の学問機関は、社会的に学聞が普及していく潮流のなか、民衆の信仰熱に突き 動かされた末寺僧侶の学的意欲、それに応答せんとする学僧が積極的に宗教関係を結びながら隆盛していった、と 指摘することも可能であろう。すなわち学寮は、幕府の一方的抑制によって学問だけが認可され、発展したもので はなく、﹁自律的﹂姿勢の具現化という側面も有する。その両者が相侠ったところに、学寮の昌盛があるのではな か ろ う か 。 三、講師の地位 1 1 職制改革

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延宝六︵一六七八︶年に聞かれた学寮は、宝暦五︵一七五五︶年には高倉通魚棚に移転し、新校舎が建設される など、漸次に諸の施設や制度が整備されていくことになる。それが﹁高倉学寮﹂と通称されるようになり、これま で御堂衆を中心としてきた学寮は、一般末徒の教育機関という性格をもつようになる。というのも、草創された当 初は、御堂衆を中心とする私塾的研究機関であったが、地方末徒の向学心に伴う所化数の増加により、制度の組織 江戸期宗学の性格と信仰 二 六 七

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信 仰 二 六 八 高倉移転前年の宝暦四︵一七五四︶年、慧然らによって﹁建議﹂が提出されている。そこでは、 当山ノ学林ハ寛文中ノ御創建ニシテ数年ヲ経歴ス、因藷宝暦第四甲えノ夏御修復御願申上候処被遊御許容、則 御敷地移転講堂寮舎共同五年乙亥ノ春御成就ニ付、向後学寮清規厳重ニ可被仰出之上意在之、古来ノ法式ニ準 シ白今以後万事規格存寄書記差上可申トノ御事故、乍恐愚案差上御窺如左 という丈が冒頭に一不され、翌年から﹁学寮定﹂﹁直日要務﹂﹁浴室定﹂など、学寮の生活態度に対する細かい諸制度 ︵ 却 ︶ が確立されている。なかでも重要なのは、学寮における﹁学﹂の性格と直結する﹁講者﹂の職制の確立である。 さ き の ﹁ 建 議 ﹂ の 項 目 に は 、 講 者 是ハ只今マテ能化ト称シ候ヘトモ、当山ニ於テ能化或ハ善知識ト申ハ御門主様御一人ニ限リ申事ト承候、 且又講者唯一人ニ限ラス候ヘハ、能化ト申者数多クシテ常途ノ学校ノ格ニ違申候故、向後ハ講者或ハ講師ト称 シ可申哉ノ事 とあるように、この時点では﹁講者或ハ講師﹂と記されており、職制は未確立で、呼称も決定してなかった状態で あるが、宝暦七︵一七五七︶年になれば、以下の﹁春秋二講井擬講職覚﹂が制定されている。 一、於学寮本講ノ外春秋二時講談ノ儀、春ハ二・三両月、秋ハ八・九両月相務リ候事 一、右講談相務候仁体擬講ト称可申候、尤其時々講者ヨリ遂言上、上檀之間へ百連罷出之事 夏安居以外に開講される春秋の講談を勤める職として、学寮所化から﹁擬講﹂が就くことになった。そこには、所 化から将来の講者を育成する意味が込められていると考えられる。 そして、宝暦十三︵一七六三︶年には、学寮所化一同による次の﹁願書﹂が確認できる。 一当御本山末寺之数ハ無類之御事御座候然ル処御学寮江相詰候所化微少之至御座候此段甚歎ケ敷奉存候尤国々

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。縁々ニ七八人程ハ年々相詰候も御座候へ共兎角上京詰夏不仕国勝一一御座候依之於回全口御法義心得違仕候者共 御指南不奉受故 折節出来仕候も是偏御本山御学寮江罷出法義之 ここには、本山末寺の数は無類にあるけれども、全国各地から学寮に参集する所化が少なくなっていることの﹁歎 ケ敷﹂現状が記されている。また、﹁田舎﹂での﹁法義心得違﹂、すなわち異義が発生していたことも窺われ、その 理由として、地方末徒が本山学寮に参集して法義の指南を受けないから、と一不されている。つまり、明確な宗義の 教一不が、学寮所化から切実に要求されていたことが窺える一方、﹁法義心得違﹂が地方で起こるほどに、末徒たち の学問的関心が強かったと推測できる。引続き、 一御学寮御講師之儀ハ諸国

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罷登候輩御一流御法義之一筋御指南被為仰付候而甚御太切之御役儀ニ御座候得者 両御講師之義ハ古来御定之官職ニ不拘別格ニ被為 ︵ お ︶ 日当と仕候 という条がみられ、諸国から上京する所化に﹁御一流御法義之一筋御指南﹂役を荷なってもらうために、講師の官 職を﹁別格﹂にすること、すなわち御堂衆から分離してほしい、という要望が提出されたのである。そして、﹁御 仰付被下候様ニ奉願上候然時ハ御末寺之者共学問之心懸之 末寺之者共学問之心懸之目当﹂とする旨が併記されている。 そのような﹁願書﹂を受けてだろうか、﹃上檀之間日記﹂︵明和三年六月二六日条︶には、 嗣 講 福 乗 寺 御 堂 本 座 之 末 江 被 百 : ・ 中 略 ・ 福 乗 寺 今 日 , S 弐人扶持被下之御合力ハ無之納戸方へ申渡ス というように、﹁嗣講職﹂の待遇が制定され、その直後には﹁講師職制覚﹂︵明和三年七月一日︶が発布されている。 一 、 講 師 江 申 渡 童 日 付 如 左 : : : 中 略 ︵ 幻 ︶ 一、御合力一ヶ年銀子武拾枚、御扶持方三人扶持可被下之候事 このように次々とその職制が明確化されたのである。ここに、擬講・嗣講・講師のいわゆる三講者の職制が定まり、 江戸期宗学の性格と信仰 二 六 九

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江戸期宗学の性格と信仰 七

学問研績に集中する待遇と職制が確立されたのである。以前は、御堂衆として多角的な業務を抱え、その一環とし て学問を荷なっていたが、明和の職制改革により、専門職として学問推進が許される体制が漸く整備されたのであ る さ ら に 、 ﹃ 上 檀 之 問 日 記 ﹄ ︵ 明 和 三 年 七 月 一 日 条 ︶ に は 、 御末寺之輩都而御本山寮江相詰講談聴聞可有之旨今度諸国一同江御触被仰出候 というように、末寺の僧侶はすべて学寮に招集され、講義法談を聴聞すべき旨の触書が出された。このことから、 職制が定まった﹁講師﹂を頂点として、全国末寺の僧侶に学問指導が行われるようになる。すなわち、﹁講師﹂は ︵ お ︶ 学寮における教育研究の最高権威の地位、という認識が高まっていくのである。 後の文政三︵一八二二年には、﹁学寮取締評決書﹂が提出されているが、そのなかで次のような五箇条がみら れ る 。 一者安心伝正意候而内心ニ異執無之候事 二者学問堅守正轍候而会読も人称共美候事 二者性質温淳ニ而行状知法候事 四者自国ハ勿論其外ニ而も見聞之徒致帰伏候事 ︵ 却 ︶ 五者御本山御答之筋有之候身ニ而も無之、又領主或ハ触頭中山等,グ答有之候身ニ而も無之候事 最初に﹁安心伝正意﹂と示され、﹁内心ニ異執﹂がないようにと誠められている。次に﹁二者学問堅守正轍﹂とい うように、私見による限りでは、ここに初めて﹁正轍﹂︵正統軌轍︶ということが明記されている。これらの﹁評 決書﹂の内容から窺えることは、学寮は﹁異執﹂の発生を恐れ、﹁講師﹂を中心とした﹁学轍﹂の堅守強固に向か っ て い く 、 と い う こ と で あ る 。

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そ し て 、 ﹃ 上 檀 間 之 日 記 ﹄ の ︵文政十一年十月二十五日条︶には、 善知識様尊慮ヲ以テ仰付ラレ宗意安心ノ御化導ヲ日本国中ノ御門末ヘ申伝へ候根本ノ職分 とあるように、講師は﹁善知識﹂︵宗主︶ の命により門末の教化を代行する職務と記されている。したがって、宗 円了推進における最高の地位として、講師は強力な権威を纏うことになる。ここにおいて、江戸期宗学の性格は、講 師の地位と不可分になっていくのである。すなわち学寮では、丈政期から﹁講師﹂による学説の﹁轍化﹂が顕著に な る の で あ っ た 。 しかし、ここで注意したいことは、上記した丈政年間の二つの文書と深励との関係である。深励は、寛政六︵一 七九四︶年に講師に就任することになり、文化十四二八一七︶年に没している。つまり、深励が講師着任中には、 このような規定はなされておらず、没後に制度化されたことになるのここでの結論の急追は避け、まずは深励の学 風そのものを確かめてから後述したい。

四、深励の学風ーーー聖教に接する態度||

深励の学風を確認するときに重要になるのは、聖教に対して接する態度である。深励の学風については、例えば 住 田 知 目 見 氏 が 、 後世つゐに深公門下の繁茂するに至れるは、必ず其の理由無くば非ざるなり。 ︵第二学説に圭角なき事。励公の講弁きはめて平易にして、議論を挑むの形誠一なし。是れ宗学として人に歓 迎せられし所以なるべし。 と示している。﹁学説に圭角﹂がなく、講弁が平易であり、議論を挑むような形跡はないと伝えている。また、 江戸期宗学の性格と信仰 七

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江戸期宗学の性格と信仰 七 言半句も等閑にせず、徹底して聖教に基づき、その意味に肉薄する研究方法が主であるとも評される。 それらの一端が窺えるものとして、深励の﹃教行信証講義﹄には、 爾るにこの六要妙の御釈、ところところ祖師聖人の御釈に合はぬやうにみえるところがござりまするに就て、 ︵ お ︶ 近来末学の中に、六要紗を評破することを、手柄のやうに心得るものがござりまする。 と記されており、存覚の﹃六要紗﹄をそのように扱う風潮に対し、﹁これ甚だよろしからぬことなり﹂と誠めるの である。そして、蓮如の﹃御一代記聞書﹂を指南として、 六要紗の御釈といへども。若し祖師と相違のやうにみゆる処は。無理に会通しては大切なる祖意がかくる﹀な ︵ 泊 ︶ h H

ノ 。

と、宗祖親驚の意と相違するようにみえるところは、無理に﹁会通﹂を施す必要はないという。換言すれば、深励 は、親驚の ﹃教行信証﹂に直接学ぼうとしているのであって、﹁六要紗﹄との間にある相違に固執して、それを 云々することの関心は、他の講者と比較してみてもそれほど旺盛ではないだろう。単純な優劣論よりも、むしろ真 ︵ お ︶ 宗の本意を探究することに深励の課題があったのではなかろうか。 従来、深励を含め、江戸宗学の学問方法は﹁訓詰註釈学﹂と呼ばれている。その背景には、江戸時代の元禄期以 降にみられる一般諸学問の発展、すなわち国学や儒学などの隆盛と歩を同調していることが指摘できよう。一例を あげるならば、古学派といわれる伊藤仁斎が、 ル ル ノ ヲ ︸ ヒ ハ ル ニ シ ル ︵ お ︶ 学 問 当 レ 識 一 聖 人 立 レ 教 之 本 旨 如 何 。 於 レ 是 一 差 。 必 入 一 干 異 端 心 可 レ 伯 。 と、学問は、聖人︹孔子・孟子︺が教えを立てた本旨を識ることであり、もし一たび差異が生じれば必ず異端とな り、﹁伯る可し﹂と述べていることがある。また、古文辞学派といわれる荻生但徳、あるいは国学の大成者である 本居宣長は

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門人孟子の功は、反って孔子より大なり。あに妄説の甚だしきならずや。故にこれを先王の教法に本づけずし みな孔子の旨に非ず。学者それこれを思へ。 て、別に学問の方を立つる者は、 さて又段々学問に入たちて、事の大すぢも、大抵は合点のゆけるほどにもなりなば、 いづれにもあれ、古書の 注釈を作らんと、早く心がくべし、物の注釈をするは、すべて大に学問のためになること也 と記している。このような復古的な学問方法が台頭する時代思潮に、仏教者たちも少なからず影響を受けているこ つまり、学寮においても、原典に肉薄しようとする研究方法を積極的に吸収して、﹁訓詰註 ︵ 却 ︶ 釈学﹂という性格を帯びていったと考えられる。訓詰註釈に力点がみられるのは、当時のそうした学問方法の隆盛 と は 言 、 つ ま で も な い 。 が反映されたものだろう。したがって、江戸期宗学の性格は、世間の風潮から孤立的に発展したものではなく、諸 領域の学問方法と密接な関係を結ぶものであったと言い得る。 ところで、深励は﹃阿弥陀経﹂を講義する際、慈雲尊者の校合による ﹃ 党 漢 阿 弥 陀 経 ﹂ ゃ、その弟子である法護 の ﹃党文阿弥陀経義釈﹄を参考にしながら、﹁党学﹂について次のように述べている。 幸に此党本伝りであるからは学ばれるだけは学んだがよい。:・中略・:西方とは仏教を学ぶのはみな天竺学問故 に学問するものは党学せいでもよいと云ふことはない。:・中略・:党学のことは知られる丈は知るがよい。近来 長谷の智瞳師申したことあり、﹁不レ可レ知而言ハ則騎可レ知而不レ言怠﹂と。然れば党本の阿弥陀経も学ばれる 丈 は 学 ぶ が よ い な り 。 このように、先学を通して経典に接しようとする態度を持っており、子弟に対しても﹁学ぶ丈は学ぶがよい﹂と勧 めていたのである。江戸という時代において、既に党丈に気を配っていた事実が認められ、真宗に関すること以外 は必要ない、という閉塞的で先細りになるような学問姿勢ではなかったことがわかる。 明治年間に出版された﹁香月院語録﹄によれば、深励は﹁読経方規﹂について、 江戸期宗学の性格と信仰 七

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江戸期宗学の性格と信仰 七 四 将 レ 読 レ 経 時 、 必 先 洗 レ 手 激 レ 口 、 恭 載 一 経 本 J 当 レ 発 一 一 此 念 J 是 経 者 、 渡 一 一 三 有 海 一 船 筏 、 証 二 大 菩 提 一 資 糧 、 世々巨 気 払

上 聞 レ 遇 、 今 幸 値 レ 遇 。 而 後 、 以 一 態 重 心 一 可 一 読 一 諦 一 問 題 謝 野 よ 詔 一 一 尚 南 閥 均 駐 珂 又 不 レ 可 下 以 一 一 口 と示していたとされる。経典に接するときの方規を詳説し、 一字一句の上にも﹁仏の諸徳﹂が具足されているとい う先哲の教えを承け、殿山重心をもって読請していたことが伝えられている。深励は、そのような視野と姿勢をもち ながら、講義や法談・法話などを行っていたのである。その根本にあるのは、文言字句に拘泥したものではなく、 経典を敬い、﹁仏の諸徳﹂を嘆じ、仏法に依って真実を求める求道心ではなかろうか。 ﹃歎異抄﹄第十二章を講釈する際、深励は﹁学問﹂について次のように言う。 評論セウト思フテ学問スルハ不可ナリ、学問スルナラハ、如来ノ御本意ヲシリ、弥陀悲願ノ広大ナル旨ヲ知リ、 ︵ m M ︶ 白モ喜ヒ、疑ヲ起ス人ニモ云ヒ聞セハ、信心ヲ起サス為ニ学問セヨトナリ 詩論のための一静論、戯論を目的とする学問ではなく、﹁如来ノ御本章﹂﹁弥陀悲願ノ広大ナル宗旨﹂を知ることが中 心である、と ﹁ 歎 異 抄 ﹄ の本文に沿って述べている。このなかで深励は、﹁自モ喜ヒ、疑ヲ起ス人ニモ云ヒ聞セハ、 信心ヲ起サス為﹂の学問、という解釈を加えている。すなわち、学問するならば、何よりも如来の本願を知り、 ﹁自信教人信﹂のためにせん、という深励の受けとめが了解できる。このような文言からも、深励の学的態度は、 学問のための学問ではなく、本願の信心を明らかにする﹁自信教入信﹂の精神に基づいたものだったことが窺えよ 、 つ ノ 。 深励の百年忌記念として発行された雑誌﹃布教界﹂︵大正五年︶ 名による文章が掲載されている。そのなかで、佐々木月樵は、 の特集号がある。南条文雄をはじめ、先学二十 香月院の講義にははきはきした所はないが、どの講義にもそこにいふにいはれぬ低佃の法味がただよふて居る。

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・・中略・:そこで、私は今日の語にていへば、香月院師は、学者としてよりは、寧ろ我経論釈の体読者として尊 敬するのである。 と表明しているように、深励の講義は、はきはきしたような力みがなく、﹁低佃の法味﹂が奥底に漂っているとい ぅ。さらに、深励のことを﹁学者﹂ではなく、むしろ﹁経論釈の体読者﹂と受けとめている。 このように深励の学風を確認してきたとき、とても広い視点と柔軟な姿勢の持ち主であり、先学が伝えているよ うに﹁圭角﹂がないことが明らかになる。 一言半句も等閑にしないのは、封建制度によって束縛された学問方法に よるものでなく、 いわゆる知的関心に根差したものでもない。﹁自信教入信﹂の精神に基づく﹁経論釈の体読﹂が、 深励の学風の本質を示すと考えられる。

五、子弟訓育と民衆教化

深励における﹁自信教人信﹂の精神の具体性は、まず子弟訓育の姿勢にみることができる。例えば、深励門下の 戚広院霊曜に宛てた私的な書翰には、次のような記事が確認できる。 此後自拙僧貴師学問辺之事ハ都而構不申候間 左様御心得 兼而御断り申置候 尤貴来一不ニ当年又々借債積り 候との御なけき 御難渋之程機之毒ニ存候へ共来夏之貴講ハ貴様一生之浮沈之処ニ候ヘハ 金 銀 ニ ハ 難 替 平 無御座候而ハ 生 少 々 之 八 王 室長 大 ニ

夫も

ニ 機 而 を 者 可 無 付 御 事 座(ニ 候竺候 ノ\ 共 我身之一大事ニ臨而ハ金銀位てハ無之家も捨妻子も捨ル程之気性 霊曜は寛政九︵一七九七︶年、三十八歳で自坊の名古屋養念寺の七代目住職となり、また六男五女が生れ、寺門 の経営、家族の生活、経済的に色々な煩雑と苦難が増していて、学究に従わんとしても従い得ない事情を生じてい 江戸期宗学の性格と信仰 七 五

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江戸期宗学の性格と信仰 たとされる。それゆえに、深励の書翰にみられるような﹁学問辺之事﹂の不十分は、﹁借債積り﹂による﹁難渋﹂ があったのである c 霊曜の苦境に対して、深励は気の毒に思いながらも、﹁貴様一生之浮沈﹂といい、重要なこと は﹁金銀ニハ難替﹂い﹁我身之一大事﹂であると叱責している。別言すれば、生活の糧よりも自らの﹁生死の一大 二 七 六 事﹂を問題にせよ、と叱時激励しているのであろう。さらには、﹁家も捨妻子も捨ル程之気性﹂の奮起を促してい る 深 励 の 姿 が 想 起 で き る 。 公の講義ではない、私的な書翰からも深励の人柄が穆みでている。子弟を思うからこその批判であり、﹁我身之 一大事﹂という救済の問題を提示しているのは、深励自身における課題意識が投影されたものではなかろうか。 また、深励の民衆教化の活動に関しては、浮博勝氏の論文に諸史料が掲載されており、それに基づいた論及が参 考となる。氏は、深励の日記である﹃講師寮日記﹄を一部翻刻し、教化における法話・法談の讃題を纏めてその成 ︵門別︶ 果を報告している。そこから、深励の民衆との関わり方、教化活動の具体性がみられるのである。なかでもその ﹃日記﹄には、深励が約二ヵ月の聞に様々な土地の檀那寺や民衆の家に立寄り、二百六十座前後の法話・法談や講 釈を行っていることがわかる。それは幕府の干渉から外れた、民衆の要望に応答する﹁自律的﹂な宗教関係の結束 と い え る だ ろ う か 。 五百五十回御遠忌の翌年︵一八一二年︶ そして、深励の人物像を描き出す逸話の一つに、﹃香月院信仰座談﹂を挙げることができる。その内容は、宗祖 四月に、福岡県久留米付近の門徒数人が﹁往生の一大事﹂に疑問が起こり、 約百五十里の遠路をかけて深励を訪ねたときのやりとりを伝えたものである。 と あ る は 、 数人の門徒のなか、伊之助という人物が、深励の﹁さて御丈に﹁阿弥陀如来の御袖にひしとすがりまいらする﹂ いかが聴聞ができました﹂という質問に対して、 それはこうであると、分けて申上る介性もござりませぬが、只思ひ煩ひも致しませず、助け救とある憾なる御

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教化にしたがひ、御慈悲の本願をたのみ力にして、御念仏するばかりの奴で、大切なる御文に大きな御判まで 押して、仰せ下さる﹀を、そこ/\聴聞して居りますゆへ、深い思召も知らぬ奴で御座りますから、何卒御一不 し 下 さ れ た し 。 と述べたところ、深励は次のように応じたようである。 如何にも左様ぢや、拙僧も役目ゆへ、人には教化いたすものの、人目に見ゆるやうにもない、浅間しい心底で ある。御前方はいと殊勝に聴聞せられた、実に有難いことである。 このように、﹁講師﹂という権威的立場でありながら、それは役目として人に教化するものの、﹁浅間しい心底であ る﹂、と機の自覚を吐露している。すなわち、深励は権威を振るって押し付けるように教化するのではなく、自身 の﹁浅間しい心底﹂の実態を表明しながら、門徒衆と共に本願の教えを聴聞しようとする地平に立っている。 そのやりとりが展開した中で、 涙をこぼし、小首をかたげ感じ入る様な、力みを入れて信ずる類をふかひと申す事ではなし。皆口に言はせる と聴聞が出来た様なれど、我心で味好き品をこしらへて、これでと思ひ、あれではと思ひ、 まうす聴聞が出来ておらぬ、わが心にたぶらかされてこれでよし、あれでよしと、自力執心のおそろしき機の 一向薩張り他力と 類ひが、沢山居る、ここを篤と聴聞して、帰国したならば先程よりくれぐれもうしたるとほり、間違ひなきゃ ︵ 日 ︶ う近づきの同行にも聴かしてくれよ。 という。何度も﹁聴聞﹂の言葉を口にして、丁寧懇切に心を尽くして教化する深励の様子が想像できる。さらに、 伊之助が国に帰った際、﹁近づきの同行にも聴かせてくれよ﹂とさえ述べている。このようなところに、民衆の信 仰心に応答する深励の﹁自信教入信﹂の精神が見受けられる。﹃香月院信仰座談﹄などの資料は、近代になって出 版されたものであるが、深励の人物像を伝承する書として重要な役割があるだろう。 江戸期宗学の性格と信仰 七 七

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江戸期宗学の性格と信仰 七 人 上記のような深励の子弟訓育や民衆教化の態度から、 ︵第二︶訓育の熱心誠実。他の諸師も同様なれども、親切丁寧語へて倦まざる所、いつの間にか其の徳化を受 くるに至る。学説に於て人の是非する事は免れざる所なりと云へども、訓育の熱心と誠実とは師の右に出づる 者なかりしが如し。されば門下の諸公多くは学説を以て称せられずして、寧ろ徳行の卓絶によりて世に推重せ ら れ た る な り 。 といわれる所以が確認できる。したがって、深励における学問の本質は、訓詰註釈によって知識の蓄積を目的とす るものではない。本願の旨を知る﹁自信教入信﹂の学問である。その精神に基づいて、子弟訓育や民衆教化に尽力 したのであって、自らを﹁権威化﹂し学説の﹁轍化﹂を目指したのではなかった。別言すれば、深励は学寮におけ る最高権威の立場にあっても、末徒民衆と共に、本願の教えを明らかにすることを願いとしていたのであって、学 説の固定化を求めたのではない。江戸幕藩体制のなかで、時代社会や諸派諸学の動向に敏感に反応しながら、どこ までも子弟や民衆に対する広大な心と柔軟な態度をもって、本願の教えを共に開法していったのが深励の学風であ る と い え よ う 。 六、おわりに 以上のように、史実的に不十分な確認と概括的な押えの筒所も多分にあるが、深励の学風を通して江戸期宗学の 性格と信仰の問題を考察してきた。江戸という幕藩体制下に、学寮において学問体系が構築されていくのは、時代 趨勢と深く連関したものであった。すなわち、権力の一方的統制によって興隆したのではなく、諸宗派や諸学から の刺戟、そして末徒民衆の学究心に呼応して﹁自律的﹂に展開されたのが江戸宗学である。特に、深励の学風を通

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してみてきたとき、その性格は、知の蓄積を目的とした、学問のための学問でないことが明確になった。﹁該博精 綴﹂といわれるのも、聖教に向き合う求道心の発露であり、具体的には﹁自信教人信﹂の精神に基づくものである。 深励は、﹁講師﹂という権威的立場でありながら、それを振りかざすことなく、実に柔軟で温和であり、子弟訓 育や民衆への丁寧懇切な教化活動を展開していたのである。その根底には、聖教に向き合う態度同様、﹁自信教入 信﹂の精神に根差しているからに他ならない。さらに、深励は﹁自信﹂から離れた﹁教人信﹂に重点をおいたもの ではなく、根本的な問題としていたのは﹁我身之一大事﹂という救済の問題である。それは、霊曜に叱責していた ことや、﹁浅間しい心底﹂という告白からも明らかである。公の講義だけでは見えてこない信仰の問題が、私的な 室百翰や日記、さらには伝承された深励像から窺知できるのであった。 したがって、江戸期宗学の性格と信仰は、単純に﹁封建宗学﹂や﹁訓詰註釈学﹂として一蹴することはできない だろう。﹁近世仏教堕落論﹂に基づき、異安心調理の側面を強調的に取りあげてきたことが、その位置づけを強め ︵ 臼 ︶ たとも考えられる。ただし、深励は﹁偉大なる凡人﹂と称されるように、時が経過するにつれて手放しに讃仰され ることになり、その学風に甘んじて学説の﹁轍化﹂に繋ることは否めない。 つまり、異義の発生を恐れた護法関心 の高まりが、宗学の固着を生じさせることにもなっていくのだろう。 そのような学寮の時流に清沢満之が輩出され、宗学の自由を訴えていくのである。なお、本論では触れなかった が、深励の門下生である妙音院了祥︵﹃歎異抄聞記﹄︶ や 信 珠 院 順 芸 ︵ ﹃ 称 名 信 楽 二 願 希 決 ﹄ ・ ﹃ 読 言 南 無 者 釈 ﹄ ︶ は 独 自に思索を深め、後に曽我量深・金子大栄によって注目を浴びる。今後、それらの問題について、近世から近代に かけての宗学の質的な転換、すなわち﹁宗学の近代化﹂ということを課題としていきたい。 註 ︵ l 幡 谷 明 ﹁ 真 宗 学 の 課 題 と 方 法 論 に つ い て の 断 想 ﹂ ︵ ﹃ 親 驚 教 学 ﹄ 第 三 四 号 一 九 七 九 年 ︶ 五 六 1 七 頁 。 江 戸 期 宗 学 の 性 格 と 信 仰 七 九

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他には、安井広度﹁﹁続真宗大系﹄完成の御挨拶に代えて﹂︵﹁続真宗大系﹄第一一一巻﹁月報﹂真宗典籍刊行会 一 九 四 一 年 ︶ 等 に み ら れ る 。 ﹁多屋頼俊著作集一和讃史概説﹄︵法裁館一九九二年︶三 O 七 頁 。 庚瀬南雄﹁真宗門子史稿﹄︵法裁館一九八 O 年 ︶ 一 七 三 頁 。 辻善之助﹁日本仏教史﹄第十巻﹁近世篇之四﹂︵岩波書店一九六五年︶四九三 1 四頁中略筆者。 オリオン・クラウタウ氏は、辻善之助の最も早い日本仏教史観は﹁日本歴史に於ける仏教﹂︵一九 O 二年︶にみ ら れ る と 指 摘 し て い る ︵ ﹁ 近 世 仏 教 堕 落 論 の 近 代 的 形 成 ﹂ ﹃ ︷ 一 示 教 研 究 ﹄ 三 五 四 ︵ 二 O O 七年︶六五頁、﹁戦後日本 における近世仏教堕落論の批判と継承﹂﹁年報日本思想史﹄第七号二 OO 八 年 ︶ 0 高埜利彦﹃近世日本の国家権力と宗教﹂︵東京大学出版社一九八九年︶八四 1 五 頁 。 柏原祐泉﹁近世の排仏思想﹂﹁真宗史仏教史の研究 E 近世篇﹄︵平楽寺書店一九九六年︶三三五頁。また﹁近 世の護法思想と庶民教化﹂︵﹃向上﹄三七二頁︶でも同様の見解が確認できる。 圭室文雄﹁江戸幕府の宗教統制﹄︵評論社一九八 O 年 ︶ 一 一 一 頁 。 大桑斉﹁幕藩制仏教諭への視座﹂﹃日本近世の思想と仏教﹄︵法裁館一九八九年︶二六七頁。 ﹃ 同 右 ﹄ ・ 二 七 三 頁 。 ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 一 一 ︵ 大 八 木 興 文 堂 二 O O 五 年 ︶ 九 O 二 貝 。 ﹁ 同 右 ﹄ ・ 九 二 五 頁 。 ﹃天文御日記﹄・﹁私心記﹄はともに﹁真宗史料集成﹄第三巻︵同朋舎一九七九年︶所収。 武田統一﹃真宗教学史﹄︵平楽寺書店一九四四年︶一六頁、参照。 浮博勝﹁近世社会における仏教的﹁教え﹂の受答と伝達﹂︵﹁仏教史学研究﹄第四六巻第一号二 O O 一 二 年 ︶ 、 同 ﹁近世民衆の仏教知と信心||真宗門徒の︿知﹀ 1 1 1 ﹂ ︵ ﹃ 近 世 の 宗 教 と 社 会 3 ﹄ 所 収 古 川 弘 文 館 二 O O 八 年 ︶ 、 松金直美﹁近世真宗における︿教え﹀伝達のメディア﹂︵﹁大谷大学大学院研究紀要﹄第二三号二 O O 六年︶等 が 挙 げ ら れ る 。 学 寮 草 創 年 次 に 関 し て 、 説 さ れ て い る 。 武 田 前 掲 書 ・ 二 一 一 貝 。 江 戸 期 宗 学 の 性 格 と 信 仰 2 ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ ︵5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶︵日︶ ︵ ロ ︶︵日︶ ︵H ︶ ︵ 日 ︶︵日︶ 17 18 i八

深田虎雄﹁高倉学寮草創考﹂︵﹃真宗総合研究所研究紀要﹄七巻所収 一 九 八 九 年 ︶ に 詳

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︵ 凶 ︶ ︵ 却 ︶ ︵ む ︶ ︵ 辺 ︶ ︵ お ︶ ︵ 担 ︶ ︵ お ︶︵お︶ ︵ 幻 ︶︵お︶ ︵ m m ︶ ﹃ 大 谷 大 学 百 年 史 ︵ 資 料 編 ︶ ﹂ ︵ 大 火 口 大 学 ﹃ 同 右 ﹄ ・ 六 1 一 O 頁 、 参 照 。 この視点に関して、草野顕之﹁教権の下でーーー高倉学寮・宗学の確立||﹂︵﹁大谷大学 の ﹄ 所 収 一 九 八 七 年 五 二 1 五 七 戸 、 ︶ を 参 考 に し た 。 ﹃ 大 谷 大 学 百 年 史 ︵ 資 料 編 ︶ ﹄ ・ 五 頁 。 ﹃ 同 右 ﹄ ・ 一 一 頁 。 武田前掲書二八一頁︶より援用。 ﹃ 同 右 ﹄ 0 ﹃ 同 右 ﹄ ︵ 九 O 頁︶より援用中略筆者。 ﹁大谷大学百年史︵資料編︶﹄・二頁中略筆者。 武田前掲書︵一五 O 頁 ︶ よ り 援 用 。 また、こうして確立された三講者制度により、次第に学寮における学階的な音 享和三︵一八 O 二︶年には左戸記の﹁学階報告書﹂が出され、明確な学寮の階級制度が設けられたのがその証左と 言 え よ 、 っ 。 享和元年十一月寺社御奉行脇坂淡路守殿より御尋ニ付御返答書 一、学寮ニをいて夏臓之次第二テ一個之階級相立有之候 所化寺格・官職ニ不拘一同平僧衣体 擬 寮 司 九 年 夏 満 寮 司 十 六 年 夏 満 上 首 寮 司 之 首 座 擬 講 嗣 講 講 師 但講師ニ相成候得者身分飛櫓等ニ而も其身一代内陣官被免候 右享和三年三月十五日酉魁出五日切ヲ以江戸御坊へ御差下シ之事︵﹁大谷大学百年史︵資料編︶﹄・一五頁︶ 二 OO 一 年 ︶ 五 頁 。 三 二 O 年史の語るも 江 戸 期 宗 学 の 性 格 と 信 仰 J¥

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なお、﹁学階報告書﹂の背景には、西派の﹁三業惑乱﹂があると考えられる。﹃龍谷大学三百年史﹄︵龍谷大学出 版部一九三九年二八二貝︶によれば、享和二年前後は﹁暴動期﹂とされ、﹁幕府の干渉を受けざるを得ざる 成行となり、時の寺社奉行脇坂淡路守より七月と十一月の両度に亘り、本山に対し厳重なる警告が発せられたこ ととなった﹂と記されている。つまり、西派の混乱を、つけた寺社奉行は、東派にも﹁御尋﹂を出して異義混乱を 生じさせないよう釘を刺したと思われる。 ﹃ 大 谷 大 学 百 年 史 ︵ 史 料 編 ︶ ﹄ ・ 一 七 頁 。 武田前掲書︵八八頁︶より援用。 住田知日見﹁大谷派先輩学系略﹂﹁真宗大系﹄三七巻︵真宗典籍刊行会一九一一五年︶二六五 1 七 頁 。 ﹃仏教大系﹂四六︵仏教大系刊行会一九一八年︶一一一頁。 ﹁ 同 右 ﹄ ・ 一 六 頁 。 ここでは、深励の研究方法の一端を一不すため、﹃教行信証﹄と﹁六要紗﹄に限った姿勢を挙げることにとどめた。 今後は、他のあらゆる聖教に対する態度も含めて、その検討が必要であると息われる。 ﹁語孟字義﹂﹃日本思想大系三一三伊藤仁斎伊藤東涯﹄︵岩波書店一九七一年︶一四七頁。 ﹁弁名﹂﹃日本思想大系三六萩生祖僚﹄︵岩波書店一九七ゴ一年︶一六六 1 七 頁 。 ﹁ う ひ 山 ぶ み ﹂ ﹁ 日 本 思 想 大 系 四 O 本居宣長﹄︵岩波書店一九七八年︶五一五頁。 上場顕雄﹁江戸後期における﹁教行信証﹄について﹂︵﹁近世真宗教団と都市寺院﹄所収法裁館一九九九年︶ 六 六 1 七 頁 、 参 照 。 ﹁ 浄 土 三 部 経 講 義 3 阿弥陀経講義﹄︵法裁館一九八一年︶五四 1 五頁中略筆者。 深励と﹁党学﹂については、畝部俊英氏﹁香月院と党文阿弥陀経﹂で詳説されている。氏がそのなかで、 現在では、仏教学と真宗学という学問区分が出来上がっていて、真宗学では党本やチベット訳本などは用いる 必要がないかのような言い方もややもすれば耳にするところであるが、香月院は決してそのような考えを持っ ていられなかったことがはっきりとここに述べられている o ︵﹁論集真宗学とその背景﹄・二四六頁文光堂 書店一九八六年︶ と言及していることに注意したい。 和田龍造・今津紹柱共著﹁読経方規﹂﹃香月院語録﹄ 江 戸 期 宗 学 の 性 格 と 信 仰 ︵ 却 ︶︵汎︶ ︵ 辺 ︶︵お︶ ︵ 担 ︶︵お︶ 39 38 37 36 ︵ 却 ︶︵但︶ 42 ︵ 法 裁 館 J¥ 一 九 O 八 年 ︶ 二 1 三頁。この書の凡例には、﹁本

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︵円相︶ ︵ 叫 ︶ ︵ 必 ︶︵必︶ ︵ U ︶ 語録は香月院師の著書及写録より他力安心に関する要文を抜末せるものなり﹂と記されている。 石川了因校閲﹃歎異紗講義﹄︵西村護法館一九 O 七 年 ︶ 二 O J 一 頁 。 佐今木月樵﹁宗学普及の恩人﹂﹁布教界﹂第一巻第十一日万︵一九一六年︶同五頁中略筆者。 ﹁ 文 化 元 ︵ 一 八 O 四︶年八月廿日﹂の書翰。小串侍﹁東本願寺講者書翰集﹄︵法裁館一九七七年︶四四頁。 諏 訪 義 譲 ﹁ 養 念 寺 の 威 広 院 霊 曜 講 師 に つ い て ﹂ ﹁ 同 朋 学 報 ﹄ 第 十 一 号 ︵ 一 九 六 四 年 ︶ 一 一 一 一 一 頁 、 参 照 。 淳博勝﹁近世民衆の仏教知と信心||真宗門徒の︿知﹀||﹂︵﹁近世の宗教と社会 3 ﹄ 所 収 古 川 弘 文 館 二 O O 八年︶九九 1 一 O 七 頁 。 鹿野久恒編﹃香月院信仰座談﹄は、その﹁付記﹂︵五 O 頁︶によれば、明治四五年に大谷本廟で祖師の六百五十 回忌御遠忌が勤修された際、その初日に﹁講師法話叢書第一一編﹂︵法戒館発行︶として出されたものを元にして い る よ う で あ る 。 鹿 野 久 恒 編 ﹁ 香 月 院 信 仰 座 談 ﹄ ・ 八 頁 。 ﹁ 同 右 ﹄ ・ 九 頁 。 ﹁ 同 右 ﹄ ・ 一 一 一 一 頁 。 住田前掲書・二六五 1 七 頁 。 ﹃香月院語録﹄・八頁。あるいは﹁平凡の偉人﹂という表現もされている︵沼法旦一﹁異解者より見たる香月院﹂ ﹁ 布 教 界 ﹄ 第 一 巻 第 十 一 号 ・ 一 O O 頁 ︶ 0 48 53 52 51 50 49 江 戸 期 宗 学 の 性 格 と 信 仰 J¥

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