蕪
村
の
詩
一 序 蕪村、が画家であり、感覚的で清新な中興期俳諮の代表的 俳人であることは一般によく知られているが、その彼が﹁ 北寿老仙をいたむ﹂﹁春風馬堤曲﹂﹁澱河歌﹂という三篇 の珠玉のような詩を書いていることは意外に知られていな い よ う だ 。 現在これら三篇の詩に対して、一部では蕪村の俳諮とは 別に、むしろそれよりも高いとさえ思われるような評価が なされているようである。 封建時代という窮屈な社会において、人々が町入社会の 経済的向上に伴ない生活外の生活、社会外の社会に、はな やかな享楽生活を求めた中で一般のそういう卑俗の中にだ けひたってはいられない一種のエリート達は、逆に現実に 拘泥することなく詩画その他の諸芸に遊び、通俗を嫌って 悠々自適の生活をするいわゆる市隠的文人趣味へと逃避し たのであるが、その結果それらの人々による教義的社交界 ともいうべき集団のようなものを見ることができる。 [春風馬堤曲﹂時代の蕪村もその内の一人であるが、す中
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でに享楽生活をも風流とみてそれを楽しんでいた事は、高 踏なその理念からみれば矛盾であり、書簡の中に画料の催 促や生活苦を訴えたものが相当見うけられる事からも、家 庭を持った蕪れには、世路の苦しみが現実としてその生活 にあったことがうかがえる。蕪村の俳画の世界は空想上の 理想の世界であった。現実の生活が世俗的になればなるほ ど蕪村は頭の中でより反俗で高踏な世界へ逃避し、そこに 自らを遊ばしめてなぐさめたのであろう。 このような牙眉の多い、華やかだがどこか空虚な生活の 中で、一人娘くのを嫁がせた安心感も伴って急にたまらな く郷愁を感じ作られたのが﹁春風馬堤曲﹂であったよう だ 。 又﹁老鴬児﹂の回想的一詠歎からみるとまだ何事にも一途 で妥協を許さず、純粋により真実なものを求め、現にそうい う生き方をしていた若き頃﹁北寿老仙をいたむ﹂を作った ころの自分自身へのなつかしさがあったのかもしれない。 蕪村の勾中花を扱ったものは多いが、ほとんどが桜、梅 等いはば古くから詩歌に常用された花がほとんどであってたんぽぽを扱ったものは一つもない。それなのにこの庶民 的な花が、彼のコ一.篇の詩の内二篇に共通して出て来てい る。このことは﹁春風馬堤曲﹂の蕪村が﹁北寿老仙をいた む﹂の蕪村をなつかしんでいるか叉は、たんぽぽが幼き頃 の想い出につながるものであったかに解釈出来ないだろう か。﹁春風馬堤胡﹂と﹁澱河歌﹂は遠く二十余年前に作ら れていた﹁北寿老仙をいたむ﹂と彼の内商的序清の強い糸 で結ぼれていたのである。 そこで三篇の詩’特に﹁北寿老仙をいたむ﹂とその周囲 を考察することによってその中に俳諸には見い出し難い蕪 村らしきゃ、なんらかの形で現われているであろう蕪村の 人間性を探求してみたいと思う。 二本論 付蕪村の詩について 蕪村の詩といえば﹁北寿老仙をいたむ﹂﹁春風馬堤曲﹂ ﹁澱河歌﹂の三篇をさすのが普通である。﹁老鴬児﹂の一 句を﹁春風馬堤曲﹂﹁澱河歌﹂と共に三部曲の一つとして 考える説もあるが、やはりこれは自由な詩精神の高揚をみ た﹃夜半楽﹄全体の結語風な一句であるとみて、ここでは 省 く こ と に す る 。 三篇の詩については、その研究が多いだけにそれを総称 して自由詩、野情詩、和詩等々の表現がなされている。又 清水孝之氏は実文に対する俳文と同様の立場から詩も定型 非定型を問わず、総称して俳詩というの、が最も妥当だとし て、支考の仮名詩︵宇和詩︶を意識的に除外し、それ以外 の新体の詩を俳譜詩とか、明治新体詩の先惟をなすものと 考えて俳体詩等というのは適当でないといわれている。 俳体詩と称するには、蕪村の詩が近代的で明治新体詩の 初期のものよりむしろ優れているとはいえ、新体詩はあく まで西洋詩の移植影響のもとに生まれたものであって蕪村 の詩と直結した流れを持つものではない。また自由詩と称 するのも﹁旧来の文語、雅語を以ってする無定型の詩は、 別に破調の証明を以って呼んで、自由詩の名で呼ぱないのを ﹁ 去 二 通例とする﹂のであるからあまり適当とは思えないし拝情 詩とする場合﹁春風馬堤曲﹂や﹁澱河歌﹂のみごとな変身 は、持情詩の一語で片づけてよいものかどうか疑問であ る 。 しかしそうかといって俳詩として総称するのが適当かど うかについては、燕村の詩が仮名詩と区別されるものか否 かがポイントになろう。いづれにしても彼の詩が当時どの ような流れの中に生れたかというのが大きな問題となる。 それについて頴原退蔵氏は著書﹃蕪村﹄の中で﹁春風馬 堤曲の源流﹂と題して入念な研究をされている。それを要 約すると、支考一派の仮名詩は形式技巧にとらわれたもの で、いかに俳諮に仮名詩一派がながく伝ったにしても、そ
のようなものが孤高な蕪村の詩情を動かすこともなかった であろう。しかし彼の詩は純粋に彼の創案によるものでは なく、素堂、嵐雪を源とし楼川尚尾谷、文喬等を主流とす る仮名詩とは別の新詩運動の中に見い出すことができると い う の で あ る 。 [ 注 二 ︺ この説に対して清水孝之氏は﹁北寿老仙をいたむの源流 ﹂において、蕪村が仮名詩に批判的であったるうことは推 察に難くないが江戸座の宗匠連の間ではそれが受け入れら れ試作されていた。楼川らの作品も結局は概して仮名詩圏 内 の も の で 、 多 少 近 世 歌 謡 調 の 導 入 、 が み ら れ る に す 、 ぎ な い 、 と 反 論 さ れ て い る 。 つまり積原氏は、仮名詩とは別の新詩運動の存在をいわ れ、清水氏はそれを否定して、ぽっきり区別出来るもので はないといわれている。このちがいは楼川らの詩と歌謡と の関係に於いて讃原氏は﹁この間から河東節の作者が出た りしているのも、あるいはそうした曲詞にまで俳議文章の 進出を意味するものであったかもしれない﹂というように 解釈していられ、清水氏の近世歌謡調の導入という解釈と かなり喰い違っていることにある。 そこで両氏の説を検討してみるに、楼川ら茶話摘の一派 が近世歌謡に親しんだことは、洞房語圏にのる﹁袴着の小 謡﹂つ髪置の小うたひ﹂等からも明らかで、叉端歌の冒頭 に盛んに俳句が利用されている事は江戸座宗匠連中が近世 歌謡の作詞者であったことを想像させるし、後年の名女形 で絶大な人気のあった瀬川茶之丞が路考という俳号を持つ 門 注 一 二 ︺ ていて﹁路考風﹂と呼ばれる風俗を流行させた事からも遊 蕩的環境と羽俳譜的環境が無縁でなかったことがいえよう ﹀ フ 。 以上から考えられることは、楼川の﹁立君の詞﹂に類す るものがかなり歌謡に近い、というよりどちらかといえば 歌謡の部類に高するのではないかということである。つま り頴原氏のあげられた一連の詩は、仮名詩に刺激され自由 な詩形を手段とし、この時代特有ともいうべき市躍的文人 趣味的性俗の上に各々の個性ある新しい仔情を歌謡調にう たったものといえよう。従って仮名詩と全く区別すること も俳詩という名でひとまとめにすることも、共に少々無理 があるように思う。これららの詩が﹁俳譜精神を生かした 詩﹂というような統一的な意識のもとに作られていれば、 この種のものだけで立派に近位文芸中の一分野を占めるこ と 、 が 出 来 て い た か も し れ な い 。 むろん蕪村の詩についても同様のことがいえる訳で、こ の種のものが僅かに三篇しか知られていないということは 一つの蕪村の詩に対する態度の表れとみることができよ
。
﹀ フ 口﹁北寿老仙をいたむ﹂について この詩は結城を根城とする十年にわたる﹁懐疑的遊歴﹂t t 時代、蕪村三十才の時のもので彼の良き理解者であり援助 者であった北寿老仙こと早見晋我の死をいたんで作られた ものである。晋我没後五十年、その子桃彦が父の五十回忌 に際して晋我を襲号した記念に出版した﹃いそのはな﹄に ﹁庫のうちより見出つるままに右にしるし侍る﹂と末思に 記されて発表された。蕪村も没して十年後のことである。 つまり発表意欲の強かった作とは考えられない。 この詩の清新さや近代性についてはすでに定評があるが この詩を生んだ環境ほ当時蕪村にとっては舗宗河没後俗化 した俳諸に対して著しく懐疑的になり、同明げの視瓦、下総 結成の砂舟一唯宕のもとに身を寄せ、ここを恨城に奥羽への 苦しい旅など虐行十年の生活を始めその中で画業と俳業の 基礎をかためていった持代である。このような入団府苦悩 の時代、結成の俳系をともにした人々の暖かい雰司気は蕪 村にとっては何にもかえがたいものであり、それだけに師 宗同につづく晋我の死がいかに彼を悲しませたかがわか る。その悲しみが絡調高い旋律で表現されているところに この詩の美しさがあるといえよう。 し 解 釈 の 問 題 この詩の解択についてはまだ定説をみない部分が浅され ている。第一の問題点は作詩の時点についてである。従来 は第七行の﹁ひた鳴きに鳴を聞ぽ﹂と第十三行の﹁ほろろ ともなかぬ﹂の解釈上の矛盾をなくす為に第十一行までを 北寿老仙が死んだ夕方、第十二行以下を初じ日あたりのこ とというようにとってあるが、この美しい流れを持つ詩に このような切〆いめをつけるのは無理があるように思われ ヲ 心 。 これに対して今井文男氏ばリプレ l ソ の 形 式 に 着 この詩の構成は段法にこだわらずにみてみると単なるくり かえしで々く、くり返しによってそれで押しはさまれる部 分を包みこむ形式、つまり佐藤春夫の﹁秋刀魚の歌﹂のよ うに近代詩の活見した手法と同じピ、とされ﹁第一に同の辺 に住む矯子のぬきタを却け、よ、その瓦の堆子もそれに答え て ほ ん Jろと鳴きかわす風景があり、第二に矯子の鳴き声で 友を思い、その友のすでに亡きことを思いおこし、雄子が 鳴きかわすようにはその友は答えぺペ川ぬという事同があ ﹁ U 七 日 二 り 、 そ の 第 一 と 第 二 を 重 ね 合 せ た 十 り の ﹂ ー と し て い る 。 今井氏のリブレーンのあっかいは大変おもしろいし私も この説に賛成したい。ただ現にひた鳴きに鳴いている矯子 の声を聞きながら友は何も答えてくれないという怠味をほ ろろとも鳴が品と表現するだろうか?私はこの日縫子は鳴 いていなかったととりたい。従来は十七行の﹁矯子のある か﹂のかを誠嘆の終助詞として解釈してあるが、これを疑 問を表す係助詞とみたらどうであろうか。この二つの助詞 は全く接続においても又文末に表れる点についても文法上
全く区別し難い。又この岡は二人にとって日頃親みの深い 岡であり縫子も又想い出ある烏ではなかったろうか。そこ で私はこの一行を次のように解釈したい。﹁この岡にはよ く二人でやって来ていた。よく耳にしていた雑子あの雑子 は今日はいるのだろうか。ひた鳴に鳴いている声はちょう ど友が親子を呼び合っているようでした﹂と。こう解釈す れば八・十二・十三行も﹁私にも河をへだてて住んでいる 友、あなたがいました。しかし今日はどういう訳か雑子が ちっとも鳴かないように、もうあなたは私に何も答えては くれないのですね﹂とつづいて解釈上の矛盾は無くなるの で あ る 。 次に第二の問題点は、へげのけぶりのへげについてであ る。これには諸説がある。 ﹁ 主 互 ﹂ 一、変化の煙。つまり火葬の煙二、賓の古語。葬祭用のへ ﹁ 主 ム 二 ダ ﹂ 板 製 品 を 焼 き 捨 て る と こ ろ 。 コ 一 、 付 け 木 0 ・ 現 代 の マ ッ チ ﹁ 主 七 ︺ のようなもで偶然その夕方眺めた野火であろう。 以上コ一つが代表的なものであるが、問題となるのはこの 詩によまれた場所が実地に即したものであるということ だ。西から東へ流れている小川をへだてて対岸は竹薮のあ る庄陵地帯で、今でも木かげに土日の士族屋敷が数軒のこっ ているそうである。又冬から早春にかけてこの辺は西風が 円 注 八 ︺ 激しいという。これから考えると煙を見たのは岡の上であ ろうし、火葬場や葬祭用品を焼き捨てるところが土族屋敷 の近くにあったとも思えない。又野火、だとへげのけぶりと はいわないだろう。以上から時間、が夕暮どきであることを 考えて、へ、♂をかまどの古語とみてタ飼の煙ととるのが妥 当ではないかと考える。その煙がいつになく蕪村に無常を 感じさせたのである。 乙陶淵明の影響について この詩には亜日の陶淵明の﹁帰園田居﹂其四の影響がある といわれている o たしかに冒頭の﹁何ぞはるかなる﹂は漢 詩的表現である。この頃の町人社会における漢詩の流行は 史上空前の現象ともいうべきもので、蕪村とて早くから漢 詩に親しんでいただろう。そして中でも向淵明には深く影 響されていたらしい。陶淵明の詩をよんでいると俗世間を 嫌ったり真実の生活を求めての隠遁等いかにも当時の青年 蕪村と近いものが感じられる。 ﹁帰園田居﹂五首と時を同じくして作られたのが陶淵明 の代表作といわれる﹁帰去来辞﹂で、その序によれば、貧し きが故に県知事になったが世俗にむかない自分のこと、考 えてみればこのようなことは生活の為にわが身をくるしめ るだけのものであった。そこでこの矛盾多い生活に自分は 白身の本心にむかつて恥じ、妹が死んだのをきっかけにお のずから辞職した。というような意味のことが書いてある。 成立事情といい﹁少きより俗に適わん韻無﹂﹁性として本
と丘とを愛せしに﹂という陶淵明の思想、性格といい、十 年近い江戸生活に﹁俗に適ふの韻なき﹂ことを自覚し、師 宗阿が役したのを臓に江戸を去り結城にむかつた蕪村の事 情と一種々の面で全く北通ずるものがある。従って﹁帰匪回 居﹂が当時蕪村の愛好する詩であったろうことは想像に難 くない。しかし﹁帰国田居﹂其四の内容は久しぶり山釈に散 歩じ、新鮮で楽しい感動の中にふと安見した人生の幻化を 表したものであって、悲しみの懐いをいだいて官に上った 北寿老仙の誌とはかなり発想が違う o 内面酌