タジキスタン:独立・内戦と今後の課題
清 水 学
はじめに
Ⅰ タジキスタン共和国形成の「人工性」
Ⅱ 地域間の矛盾と内戦
Ⅲ ラフモノフ体制の構造
Ⅳ 経済構造の特徴と市場化の現状
Ⅴ 「国民統合」におけるペルシャ・タジク文化とソモニ国王
Ⅵ 引き続くロシアの役割とその意味 終わりに
は じ め に
中央アジアの南東に位置するこの新独立国タジキスタンは北と西はウズベキスタン,
北東はクルグズスタン(キルギス共和国),東は中国,南はアフガニスタンと国境を接 する国である。旧ソ連邦のなかで最も辺境に位置する国であり,ソ連構成共和国のうち 最も貧しい国であった。タジキスタンは1991年12月のソ連邦崩壊に伴い独立を達成し た中央アジア諸共和国のなかで,独立前後から共産党の権威が下から揺るがされ,独立 直後に激しい内戦に突入し多大な犠牲を生んだ点で,他の共和国とは様相を異にしてい る。1992年から1997年の間の内戦による死者は公式発表では約3万人とされるがタジ キスタンの知識人などは実際は数倍であろうと指摘する者が多い。後者の場合,約610 万人(2000年推計)の人口に対比すると,実に30人に1人が殺害されたことになり,
旧ソ連でもっとも大きな犠牲を生んだ内戦であったことがわかる。中央アジア諸共和国 は他の旧ソ連構成共和国と同様,独立国家としての国家機構の整備と市場経済化(資本 主義化)という体制転換の同時遂行という大きな課題に直面したが,タジキスタンの場 合はさらに数年による内戦による破壊とその事後処理という過大な負担を負ったのであ る。
タジキスタンのみが厳しい内戦を経験したことから中央アジアにおける例外的な国で あると見ることもできるが,筆者は中央アジア諸国あるいは旧ソ連地域の抱えていた共 通の矛盾が一層凝集していた国と理解することが妥当であると考える。タジキスタンの 矛盾が深刻であったため内戦という厳しいプロセスを不可避にさせたのである。しかし 他の中央アジア諸国でも類似した問題を抱えていたし,現在もその問題を未解決のまま
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抱えていると見ることもできる。タジキスタンの内戦の経験は単に過去の話にはできな い重みをもっている。本稿は2002年9月22日から9月29日にかけて筆者がタジキス タンを短期間訪問した経験を踏まえて,同国が抱える課題を他の中央アジアの状況をも 視野に入れて分析しようとしたものである。故山根学教授の重要な関心の一つはエジプ トなど発展途上国の「社会主義」であり,その観点から旧ソ連圏への問題にも目を向け られていた。本稿においてソ連社会主義についての筆者なりの模索の過程を提示し得れ ば幸いである。
Ⅰ タジキスタン共和国形成の「人工性」
ロシア帝国の支配下にあった現タジキスタン北部は1918年にボルシェビキによって 占領され,トルキスタン・ソビエト社会主義自治共和国に編入された。ドシャンベなど タジキスタン南部は現ウズベキスタンのサマルカンド,ブハラとともに1868年以来ロ シアの保護国となったブハラ藩王国の支配下にあったが,1920年に赤軍の介入により 共和革命が起きた。その過程でブハラ共和国を含む中央アジア各地でバスマチ運動を呼 ばれた反ボルシェビキ運動が展開された。1924年にソビエト政権による民族的境界区 分政策によってブハラ人民ソビエト共和国は解体され,ウズベキスタンとトルクメニス タンに分割された。両国に連邦構成共和国の資格が与えられたが,同時にウズベキスタ ン内の自治共和国としてタジキスタンがつくられた。サマルカンドとブハラはウズベキ スタン本体に入ったが,タジキスタンには特別パミール州が含まれていた。パミール州 はブハラ藩王国には含まれていなかった地域であるが,後にゴルノバダクシャンと称さ れタジキスタン内の自治共和国となる。なおカザフスタンはロシア連邦内の自治共和国 の地位が与えられた。クルグズスタンは当初,ロシア連邦内の自治州であったが後に自 治共和国に引き上げられた。
1929年にさらに中央アジアの再編成が行われ,タジキスタンは連邦構成共和国の地 位に引き上げられ,ほぼ今日のタジキスタンの領域が確定した。その際フェルガナ盆地 のホジャンドが付け加えられた。なお1936年にはカザフスタンとクルグズスタンが連 邦構成共和国に格上げされた。なおカラカルパキスタンは当初カザフスタン共和国の一 部であったが,1932年にロシア連邦内の自治共和国になった後,1936年にウズベキス タン内の自治共和国に組み入れられた。これで十数年にわたった民族的境界区分の基本 的プロセスが終わり,それが今日の中央アジア諸国の領域となっている。
タジキスタンは他の中央アジア共和国と同様,多民族国家であり,また国内における 異質な地域の併存という点で共通している。名称民族(国家名に付けられている民族 名)はタジク人であり,中央アジアの他の4カ国の名称民族がいずれもチュルク系(広
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義のトルコ系)であるのに対して,イラン系でアフガニスタンのダーリ語系につながる 民族である点に特徴を有する。チュルク系・タジク系相互の間での文化的融合は多くの 面で見られるが,同時に各々が独自のアイデンティティーを保持している。他方,タジ キスタンにはウズベク人が有力なマイノリティーとして存在しており,それ以外にロシ ア人などスラブ系の比率も無視できない。国営放送は今日においてもタジク語・ロシア 語のほか,ウズベク語の放送を行っている。
しかしタジキスタンが特徴的なのは,中央アジア諸国のなかで最も「人工的」な共和 国という側面が強いことである。一つはブハラ藩王国の領域をすべて継承していない点 にあり,文化的にも政治的にもタジク文化の中心であり多くのタジク人が住むブハラと サマルカンドの2大都市がウズベキスタンに帰属した形で切り離されたことである。こ れはタジク人の民族主義からすれば問題を残しているもので,一部勢力から繰り返しブ ハラとサマルカンドの帰属問題が蒸し返される理由となっている。ウズベキスタンが当 然この要求には神経を尖らせている。この一見異様な国家形成には当然,政治的背景が あるとみてよい。第1に,1917年11月のロシア革命直後に旧ブハラ藩国を中心にイス ラームなどを抵抗のシンボルとする反ボルシェビキ運動(バスマチ運動)が起き,ロシ ア革命政府はその鎮圧に4年もかかり,その後も残党の抵抗が長く続いた歴史を持って い
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る。タジキスタンは潜在的に警戒すべき地域であり,ボルシェビキはその支配を確立 するのに力を入れた。バスマチ運動に対する警戒心はタジク共和国の領域確定に際して 影響を及ぼしたとみられる。第2に,1929年にはタジキスタンをウズベキスタンの自 治共和国から切り離して,連邦構成共和国に格上げを行ったのも,イスラーム世界と隣 接するソ連南部国境を重視しようとする意思の現われでもあった。いずれにしても単純 な民族自決権の実現と見ることはできない。
タジキスタンの「人工性」は第1に,ブハラ,サマルカンドの文化的中心から切り離 された地域で構成されたことである。その結果,いわゆる後進地域で構成される共和国 となったほか,パミール地域という異質な地域も付け加えられた。第2に,1929年に は北部のホジャンド(旧レニナバード)が唯一の商工業の先進地域としてタジキスタン に加えられたが,現在でもホジャンドには約100万人のウズベク人が住む地域となって いる。この地域が後述のようにタジキスタンの党と政府のエリート層の供給地となった ことが,その後のタジキスタンの国内緊張の一因となった。第3に,首都のドシャンベ 自体はソ連邦になってから首都として建設されたもので,歴史性という点では誇るべき ものを持っていなかったことである。この小さな村から出発して約70年間で今日100 万の人口を抱えるに至ったドシャンベは,各地からの移入者の集合体となっている。住 民はブハラやサマルカンドおよびタジキスタン内部の他の地域からの移入者などから構
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1 帯谷知可「バスマチ運動」『岩波イスラーム辞典』p. 758.
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成されている。このような特異な首都の形成とならび,共和国内の地域間バランスはそ の後も大きな問題となった。ちなみにタジキスタンの全人口約610万人(2000年推計)
のうち4分の1がウズベク人と推定されている。山岳地域のパミール高原(ゴルノバダ クシャン自治共和国)がタジキスタンに組み入れられたが,ソ連時代の入植促進政策も あまり成果を生まず,いぜんとして20万人程度の人口過疎地にとどまっている。パミ ールは19世紀末からソ連時代にかけて外国人に対しては閉鎖されてきた地域である。
アフガニスタンとの国境線が最も長いが,南部の国境のうち東側はピャンジ川,西側は アムダリヤに沿っている。アムダリアはピャンジ川とヴァクシュ川が合流したものであ る。もう一つの大河はシルダリアであり,中央アジアの二大大河はタジキスタンから発 している。
タジキスタンを見る場合,地理的条件あるいは差異が決定的な意味を持っている。特 に山岳地域が国土の93% を占めるだけではなく,山脈の間の渓谷の間は相互の交流が 少なく,その結果強い地域的閉鎖性を見せることになった。ホジャンドあるいはピンジ ケントと首都ドシャンベをつなぐ道路は3000 m を越えるアンゾフ・パスを越えざるを 得ず,それが国内の南北の交流の障害となり,強い地域主義の一因となっている。南部 と北部の間の大きな地理的障害と発展した北部と遅れた南部という関係が国民統合とい う点で大きな問題を生んできた。アンゾフ・パスを通じるトンネルは現在建設中である が,財源上の問題から完工が遅れている。今日においても国営テレビのほかに民間の全 国テレビ・チャンネルが生まれないのも高い山脈で電波がさえぎられるという自然的障 害が存在しているためである。
後進地域であったというハンディキャップを背負って出発したタジキスタン南部で は,山岳地域(総称「クヒスタン」),低開発農業地域と貧困地域であるガルム,クルガ ンチュベ,クリャブの渓谷相互間の矛盾と対立,さらにパミール高原の悪条件という自 然の障害があった。タジキスタンでの工業化が始まったのは第2次大戦後であり,もと もと生活水準も低く,失業率,幼児死亡率も高かった。今日においてもタジキスタンで は耕地が狭く,工業化が遅れているなかで,綿花栽培などの農業が重要な機能を果たし ている。都市化の遅れはコルホーズ・リフォーズを独自の社会的機能を果たす組織集団 に変えていた。タジキスタンのコルホーズはソ連時代を通じて一定の自治を享受し,都 市住民の間でも出身コルホーズが社会集団の結節点をなしていた。タジキスタンの都市 はいわば農村の延長であり,ソ連の欧州部と異なって農村が都市社会を垂直に下から規 定していたのであ
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る。
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2 Stephane A. Dudoignon, Communal Solidarity and Social Conflicts in Late 20thCentury Central Asia : The Case of the Tajik Civil War, Islamic Area Studies Working Paper Series No. 7, 1998, Tokyo, p. 15.
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Ⅱ 地域間矛盾と内戦
1.権力構造と地域対立
ソ連時代の支配層(ノメンクラトゥーラ)は唯一の政党であるタジキスタン共産党を 基盤とし,イデオロギー部門を担う知識人・経済テクノクラート(国営企業)・治安関係 者などで構成されていた。タジキスタンの場合,知識人はサマルカンド出身者,経済テ クノクラートは北部のホジャンド(ソ連時代はレニナバード(レーニンの町)と呼ばれ たが1986年に元の名称に戻った),治安関係(KGB)はパミール出身というように地域 性が強いものであった。このようなエリート集団に対して,山岳地域(ガルム,クルガン チュベ,クリャブなど)出身の非エリートの反撥は当然,存在していたが,ゴルバチョ フの「ペレストロイカ」が導入されるまでは,基本的に抑制されていた。しかしその後 の内戦に至る過程と内戦そのものも,単純にエリート層対非エリート,北部対南部,世 俗勢力とイスラーム勢力という固定した図式では描けない流動的な関係となっていた。
これについてはドゥドゥワニヨンの興味深い論考があ
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る。そこではペレストロイカ期 から1992年12月までを以下のように4つの時期に区分して論じている。この時期がそ の後の内戦を理解する上で最も重要であり,ドゥドゥワニヨンの論考を要約して紹介す る。
紛争前史(1990年8月まで)
この時期はアンドロポフとゴルバチョフが進めようとした共和国共産党最高幹部や グループの腐敗追及とモスクワの管理を強化しよとする動きに対応した,3エリート集 団が共産党最高幹部の「綿花マフィア」などに対抗しようとしたものである。しかし知 識人には伝統的なサマルカンドなどの出身者に対してパミールやガルムなどの山岳地域 出身者が参入してきていた。またタジキスタン内部では最も遅れたカラテギン渓谷(ガ ルムが中心の町)からクルガンチュベ渓谷にムハージル(移民)が移っていたが,クル ガンチュベ自体がエリート輩出の道を閉ざされていた後進地域であった。他方党組織中 堅はクリャブ出身者で固められており,パミール系のKGBと対抗していた。
不満から反対へ(1990年8月−10月)
クルガンチュベに住み着いたムハージル達はロシア市場向けに農産物を生産するこ とにより地元民の市場とは競合しないように配慮したが,新たな教育を受けたムハージ ルの子弟達はペレストロイカの波にのって急進的政党の主要メンバーを構成するように なっていった。他方モスクワの統制が弱体化するなかでタジク民族の誇りを汎イラン主 義に求めたり,ウズベキスタンにいる少数派としてのタジク人の地位やブハラとサマル
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3 ibid., pp. 3−23.
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カンドのタジキスタンへの返還の声がメディアに登場するようになった。1989年8月 以降イスラーム復興運動(ラスタヒーズ)はペレストロイカを支持するという名の下で 急進的な知識人のクラブなどを結集し始めた。しかし1990年2月タジキスタン共産党 政府はドシャンベでの知識人などの反体制デモを弾圧した。それに対してラスタヒーズ に代わって2つの急進的組織が登場した。一つはタジキスタン民主党(DPT)で主とし てドシャンベの知識人を中心とするもので,その後共産党から厳しい圧力を受けた。も う一つは1990年10月に公然化したイスラーム復興党(IRP)である。IRPは1970年代 末以降の非公式ウラマーのネットワークを引き継ぐもので,山岳地域やカラテギンやワ フシュ河下流の綿花栽培地域を地盤としていたものである。特にクルガンチュペは1980 年代前半以降,イスラーム主義活動家アブドッッラー・ヌーリの活動拠点であり,1983 年と1989年にデモを組織して弾圧された経験を持っていた。知識人のなかで共産党に 戻っていくのとDPTとIRPに入っていく者との両極分解が生じた。
反エリートの政治的組織化(1990年10月−1991年10月)
ソ連で国有企業の民営化路線が明確になるなかで,民営化に反対して既得権益を保 持しようとする保守派の知識人と,ムハージルなどの子弟の急進派知識人で民営化を支 持するDPTやIRPの勢力の間の対立が激しくなっていった。特に1991年8月から9 月にかけてのモスクワでのクーデター未遂とソ連共産党非合法化の動きは,両者の対立 を激しくさせていった。これは国有資産を今後誰が手中に入れるかを巡る争いであっ た。保守派の経済官僚,保守派知識人,党官僚はタジキスタン共産党の下に再結集し,
スターリン主義を非難してきた「リベラル」な知識人も共産党に戻った。他方タジキス タン共産党は1991年秋には社会民主主義に路線変更を行っている。モスクワは90年夏 まで「民主派」を支持していたが,ソ連の解体に否定的な点でIRPも支持していた。
しかしタジキスタンのIRPはモスクワの路線とは離れ反共産党の姿勢を明白にし,同 時に都市青年を支持基盤とする政党からスーフィズムと妥協する勢力となり,支持基盤 をドシャンベからカラテギンまで拡大していった。モスクワはソ連解体傾向が強まるな かで,ソ連維持に好意的なタジキスタンの保守派(共産党系)への支持を強めていった。
それは中央アジアに関しては市場経済化に慎重な勢力を支持することを意味していた。
紛争の過激化と一層の地域化(1991年10月−1992年12月)
知識人は「リベラル派」と「急進派」に両極分解し,前者は共産党幹部の腐敗に対 する非難を止めて共産党の傘の下に戻って行った。後者は山岳地域あるいはムハージル 出身者であり,前者を「1930年代後半に『真』のタジク人知識人が抹殺・粛正された 後,ドシャンベに来た『外国人』であり,『ウズベク人』である」と非難した。1992年 5月に成立したナビエフ大統領と反対派の妥協に基づく国民和解政府は一時的なものに 過ぎなかった。
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2.ラフモノフ政権成立と国民和解政府の樹立
国民和解政府は内戦激化を抑制できなかった。1992年4月にクリャブでナビエフの 妥協路線に反対する勢力とイスラーム・民主派との衝突が勃発し,5月にはイスラーム 勢力の本拠地であるクルガンチュベに衝突は拡大した。そこではクリャブ民兵(タジク 人民戦線:TPF)が過去23年間牢獄にいた犯罪歴を持つサンガク・サファロフに率い られてイスラーム・民主連合勢力を攻撃した。政府側はイスラーム・民主連合勢力がア フガニスタンのヒクマチアルが指導するイスラーム党の支援を受けていると非難し,イ スラーム・民主連合勢力はロシアが政府側を支援していると非難した。8月にはクルガ ンチュベの衝突の結果数百人が殺害され,内戦はドシャンベに飛び火した。9月7日に ナビエフとミルゾエフは辞任を余儀なくされ,最高会議議長のイスカンダロフが大統領 代行となった。イスカンダロフの下でドシャンベは事実上イスラーム・民主連合勢力の 支配下になった。ナビエフ派は首都の経済封鎖を行った。11月には内戦終結ができな い状況でイスカンダロフは辞任した。
このような状況のなかで最高会議が急遽北部ホジャンドで開催され,大統領職を廃止 するとともに,クリャブのコルホーズ議長であったイママリ・ラフモノフを事実上国家 元首兼最高会議議長に選出した。新閣僚はクリャブ出身かナビエフ支持派で占められ た。ラフモノフはタジキスタンの歴史においてホジャンド出身者以外で最高権力者とな った初めてのケースとなった。同時にクルガンチュベとクリャブがハトロン行政区に統 一され,クリャブの支配を固めようとした。12月には新政府側のTPF,クリャブとヒ サール両地区の民兵による首都奪還作戦が行われた。ドシャンベと南部で激しい戦闘が 行われ,1993年2月までの間に特にクリャブ民兵によってガルムとゴルノ・バダクシ ャン出身者との間で衝突が起き多くの犠牲者が出るという,内戦中最も激しい戦闘局面 となった。2月にはガルムでイスラーム自治共和国樹立の試みがなされたが政府によっ て鎮圧された。当時,6万人のタジク難民がアフガニスタンに逃れた。当時新たな緊張 が政府内のホジャンド出身者とクリャブ出身者の間に生まれたが,元首はクリャブ,首 相はホジャンドという新たな妥協が生まれ,その後の首相はいずれもホジャンド出身者 となっている。
1993年末から94年にかけて国防・内務相を兼ね,かつNSC(国家治安委員会)を 直接手中にしたラフモノフは,イスラーム・民主勢力に対して次第に妥協的な姿勢を示 し始めた。4月には国連とイラン,パキスタン,ロシア,米国の代表の参加のもとに反 政府派との協議が開始された。アフガニスタン国境からのタジク・ゲリラの侵入が続 き,バダクシャンでは新たな内戦が勃発するなかで,6月にはテヘランで交渉が再開さ れた。アフガニスタンとの国境ではロシア・タジキスタン兵に対する攻撃が続き,9月 にはタビルダラ渓谷で激しい反政府側の攻撃が起きるなど,停戦合意にもかかわらず不
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安定な状況が続いた。94年11月に大統領選挙が実施され,ラフモノフと駐露大使のア ブドロジョノフの間で争われたが,ラフモノフは58% の得票率で辛うじて当選した。
前者はクリャブで支持され,後者はホジャンドとバダクシャンで支持された。
1995年2月末に行われたアブドロジョノフ派がボイコットした最高会議選挙では,
181議席のうちラフモノフ派の官僚で無所属で立候補した者が多数を占めた。タジキス タン共産党系は3分の1を占めた。他方3月には反政府派は一方的休戦を発表したが,
4月にはアフガニスタンとの国境でのロシア軍との衝突,さらにはバダクシャンへのロ シア軍の進駐など緊張が高まった。しかし5月中旬,ラフモノフはイスラーム復興党の 指導者サイド・アブドゥロ・ヌーリとカーブルで会談,両者の接触は7月にはテヘラ ン,11月にはアシュガバードで続けられた。翌1996年1月に政府任命のムフティであ るシャリフゾダの暗殺,タビルダラ渓谷での反政府派の攻勢,ウズベク系司令官のイボ ドゥロ・ボイトマトフ,マフムード・フドベルディエフによる西部アルミ工場の町トゥ ルサンザデの占拠事件が続いた。5月にはダビルダラが反政府派に占拠され,ガルムと ダビルダラで攻防戦が政府軍と反政府勢力の間で続いた。10月にはテヘラン会議を経 てモスクワ会議でラフモノフとヌーリは国民和解評議会の設置
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に合意し,内戦打開に向 けて新たな突破口が開かれた。閣僚の30% を反対勢力UTO側に渡すことが条件であ った。同時に政府はイスラーム政党であるIRPを合法政党として承認することを約し た。
Ⅲ ラフモノフ体制の構造
ラフモノフ大統領は1997年6月の国民和解協定,1999年11月の大統領選挙での圧 勝,2000年2月末に始まった新議会選挙での支持勢力の勝利を経て,着実に他の追随 者を許さない地位を築いてきたように見える。タジキスタンではイスラーム政党を含む 複数政党制が認められているが,権威主義を強める中央アジア全体の傾向からタジキス タンも例外でないことがわかる。2001年9月11日事件以降,米軍にも基地を提供する などアフガニスタンのタリバーンやアル・カーイダに対立して旗幟を鮮明にした現状を 見ると,UTOに結集していたイスラーム反対派の影響力が急速に弱体化したことがわ かる。本稿執筆現在UTO出身の閣僚は非常事態相のミルゾ・ジヨエフ(Mirzo ZI- YOEV)ら2人のみとなっており,2000年の下院議会選挙でもIRPの得票率は7.5% で 2議席しか得ていない。他方ラフモ ノ フ 大 統 領 の 率 い る タ ジ キ ス タ ン 人 民 民 主 党
(PDPT)は総議席63のうち7割以上の45議席を獲得し,タジキスタン共産党(CPT)
は13議席を獲得した。CPT は1991年秋にマルクス・レーニン主義を放棄し社会民主
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4 アルミ工場はタジキスタン工業の中心的存在である。
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主義に転じたが,農地の私有化に対しては社会的安定性の見地から慎重であった。また
9. 11事件はイスラーム急進派のイメージダウンにつながった可能性があ
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る。世俗的傾 向を有するタジク人の間でタリバーンに対する反撥・警戒心が広がったといわれるが,
イスラーム運動側でも反撥する動きがみられた。IRP の指導者サイド・アブドゥロ・ヌ ーリがテロ批判の姿勢を明白にしたことは象徴的な展開であった。タジキスタン政府は
9. 11を契機に反テロ・キャンペーンを展開し,国際的にも反タリバーン,反アル・カ
ーイダの戦線に明確に立つことを鮮明にした。ラフモノフ大統領にとっての最大のライ バルはもはやイスラーム勢力ではなく,ドシャンベ市長で上院議長を兼ねているウバイ ドゥレフ(Maxmadsaid UBAIDULLEV)であると言われる。
内戦の過程を経て変化したことは,ソ連時代にエリートの地位をほぼ独占していたホ ジャンド系が弱体化した一方,1994年9月に大統領に選出されたラフモノフのように 南部のクリャブ系が大きく力を拡大したことである。クルガンチュベ出身者は一定の権 力参画に成功したが必ずしも恒久的な地位を占めることはできなかった。内戦の結果,
ガルム,パミール系などが発言を増したかどうかは判断のための材料をもっていない。
内戦は基本的にはエリートの出身地域間の調整を生み出したが,非エリート出身地域で 何が変わったのかの分析は今後の課題である。またイスラーム勢力がクルガンチュベや ガルムでなぜ影響が強かったのか,その支持者達が現在どうなっているのかも残された 課題である。
今後注目すべき点は,市場経済化の具体的プロセスがどのようなエリート層を生み出 すかである。一般的にタジキスタンは市場経済化においてIMFの指導に従った改革を 行ってきたと見られている。タジキスタンが一方で市場経済化に向けて急進主義をとっ ていながら,他方では土地特に農地の私有化に強い抵抗するという矛盾した側面を見せ てきた。これはコルホーズ(集団)型農業経営が綿花栽培で広範に残存してきたことに 現れている。しかし今後はデハーン(小農)農業が急増するとみられている。もう一つ は新興経営者層の形成である。繊維など軽工業で韓国,ロシア,トルコ,ベトナムとの 合弁も見られる一方,他方情報産業(ソフト分野)で新興企業が生まれるなど新たな動 きがみられる。全体像は明らかではないが,旧共産党幹部及び子弟が私営企業家の有力 な供給源のひとつとなっていることは確かである。これは内戦で旧体制派が勝利したこ とと無関係ではないであろう。同時に民間企業家が今後国民統合の担い手になるかどう かも注目すべき課題となっている。
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5 早急に一般化することはできないが,2002月9月末にドシャンベの2,3人の新興企業家はこのような見 解を述べていた。
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Ⅳ 経済構造の特徴と市場化の現状
ソ連邦で最も貧しい国であったタジキスタンは,ソ連邦崩壊に伴う全ソ的産業連関分 断で大きな打撃をうけたが,さらに内戦による大きな打撃を受けた。1995年5月にロ シア・ルーブル圏から脱してタジク・ルーブルを導入し,同年9月には野心的な5カ年 計画を発表した。しかし1998年のロシア通貨金融危機はロシアとの経済関係が深いタ ジキスタン経済を直撃し,第2の輸出品である綿花価格が暴落するなど新たな困難に直 面した。1991年に比較した1999年の数字によると,GDP(国内総生産)は61.3%,工
業生産は54%,農業生産は64%,固定資本投資は29%,貨物輸送は28%,小売り高は
71.7% など厳しい状況が続いている。世銀によると2000年初頭現在で貧困ライン以下
の住民が63〜80% であり貧困状況が広範に見られる。2000年10月には新通貨ソモニ
が発行された。同年12月には1米ドルは2.2ソモニであったが,2002年9月下旬現在 では1米ドルは3.1ソモニであり,2年未満でソモニは4割強切り下げられている。一 応外貨交換は自由であり,両替商はドシャンベ,ホジャンド各地に数多く見られる。米 ドル,ユーロ,ロシア・ルーブルが対象であるが,ホジャンドではカザフスタン・テン ゲ,クルグズ・ソムも取り引きされている。しかし現金取引が主体であり,クレジット
・カードや旅行者用小切手は未だ流通していない。国内の金融システムも未発達で意欲 的な新興企業家の活動を抑制するひとつの要因となっている。インターネット・プロバ イダーなどの新興有力企業バビロンT社のファイズラエフ(Bekhzod FAIZULLAEV)
専務,経済週間紙『ビジネスマン』編集長フォジロフ(Nurullo FOZILOV)氏は筆者 に,金融システムの未成熟がタジキスタン経済にとって大きなネックであると強調して い
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た。
タジキスタンのGDP構成比(1999年)で見
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ると,工業は19.1%,農業は16.8%,商
業は14.1% となっており,残金のサービス部門が最大となっている。人口比で見ると
2000年で都市部が26.5% を占めるのに対し農村部は73.5% となっており,特に農村部 に貧困が集中している。それは耕地が絶対的に少ないことから,農耕地が山岳地域の勾 配地を高いところまで耕作するなど土地生産性が低い所にも広がっていることからも推 測できる。農産物の構成(1999年)を見ると,穀物・豆類が48万2500トン,野菜が 38万4900トン,原綿が31万5900トン,ジャガイモが23万9600トン,メロン・キュ ウリ類が8万3800トン,果実イチゴが7万7600トン,葡萄が5万3500トンとなって いる。民営化政策は進められているが,商品作物の主体である綿花はコルホーズ・ソフ
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6 2002年9月24日のインタビューによる。
7 この節での数字はState Statistical Agency under the Government of the Republic of Tajikistan, Tajikistan in Figures 2000によっている。
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ォーズの経営形態がほぼそのまま維持されている。しかし1995年には,政府は民主・
イスラーム勢力と対抗するために,ペレストロイカ以降廃止していた農産物に対する国 家発注制と買い入れ価格補償を復活させる方策などをとるなど,農業分野ではソ連時代 の体制を変革することに対しては慎重な時期もあった。それはコルホーズ議長らを味方 につけるためであった。社会的安定を優先したタジキスタン共産党は農地の法的制度を 変更することは少ない農地と広範な移民現象の存在を考慮に入れると,改革が流血に導 きかねないとして手を触れることに慎重であった。綿花以外では家族経営が増加してい るようであるが,筆者がドシャンベから西のヒッサールへ向かう途上ではとうもろこし やひまわりもコルホーズ型農場で生産されているのをみた。畜産では羊が147万頭,ヤ ギが71万頭,雌牛が53万頭となっている。
他方,工業生産は全体として停滞あるいは減少しており本格的な回復は見えていな い。工業の中心を担っているのはソ連時代をそのまま引き継ぐ最大のプロジェクトの南 タジキスタン・コンプレックスと呼ばれるもので,ヌレック水力発電所とトゥルスンザ デ(旧称レガル)・タジキスタン・アルミ工場である。このコンプレックスはかつては 化学工場を含んでいたが今日では肥料など化学製品はあまり生産されていない。ヌレッ ク水力発電所の発電量の実に80% がアルミ精錬に向けられており,発電所はアルミ工 場と一体のものとなっている。このアルミ工場はソ連時代の巨大コンプレックスの典型 であり,タジキスタン経済にとっての貴重な遺産である。内戦時代にも操業を通常のペ ースで行ったことを誇りとしている。しかし,これは地域経済とは遊離して存在してお り,全ソ連の経済空間との連関を想定していたものであり,今日採算性という点で多く の困難を抱えていると伝えられる。
上記農工業の特徴はモノカルチュア的で特定の生産物に集中しており,これが輸出商 品の構成にも反映されている。輸出品(1999年)のなかで,実にアルミニウムが44.9
%,電力が25.4%,綿花が12% で,この3大商品だけで82.3% を占めている。軽工業 を含むその他製品は17.7% に過ぎない。仕向地先の過半はCIS諸国である。輸入品は
電力が27%,アルミナ原料が12.2%,石油天然ガスガ13.5%,小麦が5% となってい
る。電力の輸出入が多いのは配電ネットワークが国内で統合されておらず,また発電量 が季節毎に大きく変動するためであると思われる。タジキスタンの産業貿易構造を見る と,ソ連の経済空間を前提にしたものであり,新たな輸出産業の育成,特に軽工業の育 成が重要な発展の鍵になる。食品繊維などの軽工業は主としてホジャンドがある北部に 集中している。筆者はホジャンドで韓国と地元資本の合弁のカーブル繊維会社を見学し たが,それは数少ない成功例の一つであった。他方,工業分野でみると民営化は徐々に 進んでおり,1995年が生産高で非国家部門が3.3% であったのが1999年には24.3% に まで高まっている。しかし電力,アルミなどの基幹工業の民営化の計画はない。
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Ⅴ 「国民統合」におけるペルシャ・タジク文化とソモニ国王
タジキスタンは他の中央アジア諸国と同様の多民族国家である。エスニック集団の構 成比を見ると1989年センサスでは,タジク人が62.3%,ウズベク人が23.5%,ロシア
人が7.6%,タタール人が1.4%,その他クルグズ人,トルクメン人などから構成されて
いた。その後ロシア人は内戦の過程でロシアなどに移り急減したが,その分ウズベク人 の比重が高まった。他方,ロシア人のみならずタジク人の国外流出が続いたが,タジキ スタンの人口増は続いており,2000年には610万人を超えたと見られている。内戦の 過程でタジキスタン政府が苦慮したのは国民統合のシンボルであった。それはタジク人 を中心にせざるを得ないが,一部ウズベク人の不満がしばしば表面化した。1997年の 国民和解政府樹立以降,特にここ2−3年の間でサーマーン(873−999)朝の初代ソモニ 国王をタジキスタン統合のシンボルにする動きが強まっている。しかし同時にアラビア 文字復活などの要求は抑えられ,世俗主義者の統制力が強まりつつある。
1.ノウルーズ復活要求とタジク民族主義
内戦の勃発は別の観点からすればタジキスタンのアイデンティティーの危機を反映す るものであった。伝統的な祝祭日の復興運動も民族的アイデンティティーの回復という 政治的意味を持つが,タジキスタンの場合,ノウルーズ(ペルシャ語で「新しい日」の 意)の祭り復興要求はソ連に対する政治的不満を表現する意味を持った。ノウルーズは イランと基本的に同じでイスラーム以前に遡るもので,イラン系の農事太陽暦の元旦に あたる。1950年代初めのノウルーズの祭りの復活要求は,タジキスタンのその後の文 化的政治的独立を求める潮流につながった。1992年のノウルーズでの政治的緊張が,
その後の全面的内戦のきっかけになったのは偶然ではない。当日,レーニン像をフィル ダウスィー(934−1025)の像に代えようとする要求が出され
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たからである。フィルダ ウスィーはサーマーン朝からガズナ朝期のペルシャ詩人でペルシャ民族英雄叙事詩『シ ャー・ナーメ』の作者として知られる。なお現在中央アジア5カ国どこに於いてもノウ ルーズは公休日となっており,中央アジアにおけるペルシャ文化の伝統の大きさを反映 している。
2.言語政策
タジキスタンでは独立前の1989年にタジク語が国家語にされ,ロシア語学校でも小
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8 Ali Attar, Nawruz in Tajikistan : Ritual or Politics, in Touraji Atabaki & John O’Kane(edit.)Post−Soviet Central Asia, Tauris Academics Studies, London, 1998, pp. 231−247.
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学校1年生からタジク語が教えられるようになった。またタジク・イラン文化の古典が 一層教育にとりいれられるようになっている。他方,1994年憲法ではロシア語は諸民 族の間の連結語という位置づけになっている。ロシア語とタジク語は併用され,ロシア 語はまだまだ重要な役割を担っている。他方,今日ドシャンベの町を歩くとスローガン などがタジク語のみで書かれているケースが多くなっており,ロシア語の表示が少なく なっているようである。ただしタジク語はロシア語と同様のキリル文字で表示されてい る。独立前後はタジキスタン内部でタジク語を表記するに際して,キリル文字を廃止し てアラビア(ペルシャ)文字に復活すべきであるという強い主張があった。タジク語は 他の中央アジアの名称民族の言語同様,ソ連時代に表記文字の大きな変更を2度経験し ている。第1に1929年のアラビア文字からのラテン文字への転化であり,第2に1941 年のラテン文字からのキリル文字への転化である。アラビア文字復帰の試みは1929年 の段階に戻ろうとするものである。他の中央アジア諸国を見るとカザフスタンとクルグ ズスタンが国家語を表示するのにキリル文字を使用し,ウズベキスタンとトルクメニス タンの国家語はラテン文字を使用するようになっているが,タジキスタンはイランと同 様のアラビア文字表示まで戻ろうとしたわけであり,そこには強い文化的民族主義が反 映されていた。
使用文字に関してはその後もさまざまな議論があったが,結局当面はキリル文字表示 のままで落ち着いている。その理由としては第1に,アラビア文字復帰要求は民族主義 とならんでイスラーム運動と関連した政治性の強いものであり,イスラーム運動の相対 的後退はその要求を弱めることになったことである。第2に,多くの人がアラビア文字 を読めない現状で,急激にアラビア文字を導入することは非識字率を著しく高める結果 になり,時期尚早であるという理由からである。その結果,アラビア文字導入問題は将 来再検討すべき問題として残されたかたちになっている。同時に若い世代は一応アラビ ア(ペルシャ)文字自体はなんとか読めるようであった。これは新しい教育の成果とな っている。
3.国民統合のシンボルとしてのソモニ国王とサーマーン朝
タジキスタンでは今日,国民統合のシンボルとしてサーマーン朝の初代のソモニ国王 を強く打ち出すようになっており,ドシャンベ,クルガンチュベ,ホジャンドでも街の 中心地にソモニ国王の立像あるいは馬に乗った銅像が見られる。またタジキスタンの国 旗は赤,白,黄緑の3色であり,真中に7つの星と王冠が描かれているが,これはソモ ニ国王の王冠を示している。いづれにしても,ソモニ国王とラフモノフ大統領の肖像が 相並ぶ形で掲示されている光景が至るところで見られるようになっている。ラフモノフ 大統領は自らの権威を引き上げるのにソモニ国王のイメージを使っているといえよう。
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2000年に導入した独自通貨ソモニは初代の国王の名前にちなんだものである。サーマ ーン朝は9世紀後半にブハラを首都としてマー・ワラー・アンナハル(「アムダリア河を越 えた先」の意)とホーラサーン地域を支配した最初のイラン系(従ってタジク系でもある)ム スリムの王朝のひとつであり,イラン・イスラーム文化の興隆の役割を担い,イスラー ム世界ではありながらアラブとは異なる文化的独自性を主張した王朝として知られてい る。サーマーン朝はブハラを中心に公用語をペルシャ語として新たなペルシャ文化・文 学を生み出したのである。そのなかで著名なのは哲学者・科学者・医者であったイブン
・シーナ(980−1037 : 20ソモニ紙幣の肖像),詩人のルーダキー,ハディース(予言者 ムハンマドに関わる伝承)学者のブハーリーなどであるが,タジキスタンでは皆タジク 人であったとみなされている。ちなみにイランもアフガニスタンも上記の人物のほかフ ィルダーシーやオマル・ハイヤームも自分たちの文化として愛している。その意味でイ ラン,アフガニスタン,タジキスタンは文化的過去を共有していることになる。しかし タジク人はイランのシーア派と異なり,スンニ派が中心である。一部パミール・タジク 人はシーア派のなかのイスマーイリーリー派に属する。イスマーイリーリー派の現在の イマームはアーガー・ハーン4世(シャー・カリーム・フサイニー)であり,アーガー
・ハーン財団(NGO)を通じてタジキスタンの社会経済開発を支援しており,無視し 得ない影響力を維持してい
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る。なおサーマーン朝はトルコ軍人への依存を深めた結果,
ガズナ朝(962−1186)に乗っ取られ滅亡した。
タジキスタンはブハラ藩王国との関連性を主張していない。これはブハラ藩国よりサ ーマーン朝のほうが著名な文化人を出しているためか,あるいはジャディディズム(19 世紀以降のイスラーム改革運動)の伝統からタジキスタンを切断したいためであるかど ちらかであろう。ちなみにウズベキスタンがロシア革命後に独立したコーカンド政府の 後継国の立場をとらず,チムール帝国の後継国家としていることが想起される。なお,
ロシア革命後の反ボルシェビキ反乱の一つであったバスマチ運
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動はまだ肯定的評価には なっていないようである。バスマチ運動の重要拠点の一つはタジキスタンであった。な お5ソモニ紙幣はソ連時代の科学アカデミー総裁で作家でもあったサドリッディーン・
アイニ(1878−1954)の肖像を載せており,ソ連時代の文化人もしかるべき評価を与え ていることがわかる。タジク語・タジク文化復興に寄与したアイニは高い評価を受けて おりドシャンベの国立博物館ではアイニに関する展示だけで一部屋が使われていた。
イランと自らのタジク文化を区別してその独自性を強調する研究も見られるようにな った。東洋学及び古文書研究所インド研究部のウバイドゥロエフ(Zubaidullo UBAIDUL-
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9 子島 進「アーガー・ハーン」『岩波イスラーム辞典』pp. 6−7.
10 ソ連時代にはバスマチ運動は反革命運動として教えられてきた。クルガンチュベの博物館で見た絵画に コミサールを処刑するバスマチ活動家を否定的に描くものが展示されていた。
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LOEV)氏は,インド亜大陸のヒンディー語・ウルドゥー語に入ったペルシャ語系語彙 はイランから直接入ったものではなく,中央アジア経由,つまりタジク語から入ったも のであると強調した。
3.タジク民族の居住範囲
タジク民族はタジキスタン国内に居住しているだけではない。過大評価も含むが,タ ジキスタンに約400万人,ウズベキスタンに600万人から800万人,アフガニスタンに 500万人のほか,ロシアに約200万人という。ウズベキスタン(特にブハラやサマルカ ンド)に居住するタジク人の数を誇大に述べている感もあるが,タジキスタンにタジク 人の最大多数が居住しているわけではないことは事実である。しかし各国のうちタジク 人が多数派なのはタジキスタンのみである。2001年12月以降のアフガニスタンの暫定 政権は北部同盟が指導的な地位を占めており,当然タジク人が枢要なポストを掌握して いる。北部同盟とタジキスタン政府との間のパイプは深かったし,それに対してイスラ ーム反対派がタリバーン,さらにウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)と関係を持 つなど,タジキスタン内戦はアフガニスタン内戦と連動・交錯する局面があった。なお タジキスタンの経済困難を背景にする在ロシア・タジク人出稼ぎ労働者の存在が無視で きない。
4.イスラーム
1994年のタジキスタン憲法は世俗国家を明記しており,宗教と政治の分離を打ち出 しており,イスラームに特別の地位を与えていない。イスラーム急進派の影響力は急速 に弱体化したように思われる。しかしアイデンティティーの問題としてイスラームは決 して小さな問題ではなく,今後とも重要であり続けると思われる。特に経済危機が解消 されないと,新たな不満の結節点として前面にでる可能性は常に存在する。この課題は 近い将来,検討課題としたい。
Ⅵ 引き続くロシアの役割とその意味
ソ連邦はタジキスタン内部の地域対立を生み出しながら,他方ではその激発を抑える という役割を果たしてきた。独立に伴いソ連邦の重しがとれたことが内戦勃発の契機と なったが,同時に内戦終結に向けての一連の動きにおいてロシアが果たした重要な役割 を無視することができない。ロシアはソ連邦解体後も,アフガニスタンなどと直接長い 国境線を接しているタジキスタンは事実上ロシアの防衛線であるという認識を持ってい た。タジキスタンは当初からCIS安全保障条約のメンバー国であったが,ロシア軍が
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独立後のタジキスタンに駐留し続けている。
ロシア軍は内戦に関しては公式には中立という姿勢をとったが,1992年12月に共産 党勢
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力が首都ドシャンベを制覇した後は,公然と共産党系を支持して反政府派を鎮圧す る側にまわった。1993年1月にはロシア,カザフスタン,クルグズスタン,ウズベキ スタンはタジキスタン・アフガニスタンの国境防衛にコミットすることを明らかにし た。アフガニスタン内戦の余波とイスラーム過激派の影響をタジキスタン国境で阻止す ることが目的であった。8月にはロシアとトルクメニスタンを除く中央アジア4カ国は タジキスタンの南部国境を防衛するためのCIS 平和維持軍の創設に合意したが,その 実態はロシア軍であり他国軍は象徴的な存在でしかなかった。同年末2万5000人のCIS 軍がアフガニスタンとの国境に展開されていた。ラフモノフ政権は内政面でもアフガニ スタンとの国境警備あるいは封鎖においても,ロシア軍への依存度を強めることになっ た。内戦終結のプロセスでラフマノフとロシアとの間に意見が対立することもあった が,ロシアは1997年6月の国民和解合意を推進するうえで国連の下での調停工作に極 めて積極的な役割を果たした。1999年4月にロシア・タジキスタン両国はタジキスタ ンにロシア軍基地を設置する協定に調印した。同時に同盟・協力協定も調印した。
しかし,2001年の9月11日事件を契機に,米軍は10月8日にアフガニスタン攻撃 に踏み切り,中央アジア諸国は米軍の行動に協力し,特にタジキスタン,ウズベキスタ ン,クルグズスタンは米軍に基地を提供し米軍の駐屯を許した。これにはロシアの対米 戦略の大きな変動を背景にするが,旧ソ連領にまで米軍が駐留するようになったことは 冷戦後の国際関係の新たな段階を示すものであった。中央アジアの米軍は単にアフガニ スタンを視野に入れているだけではなく,カスピ海のエネルギー資源や中国に対する牽 制を考慮に入れているといってよい。タジキスタンについて見ると,米軍は南部のクリ ャブ空軍基地に駐屯しており,フランス軍が少数ドシャンベに駐屯している。しかしロ シア軍の軍事的・政治的役割は相変わらず決定的である。ロシア軍はアフガニスタンか らタジキスタン経由で麻薬及びイスラーム政治運動が入ってくることに対する警戒心を 緩めていない。他方,タジキスタンにとってロシア軍は対アフガニスタンのみならず,
関係が不安定で特にここ数年緊張を強めている隣国ウズベキスタンの圧力に抗する意味 でも重要である。米軍はクリャブに駐屯しているが,その空港の軍事的価値が優先され ているためと見られる。
タジキスタンにとって隣国中国との関係は独自の重要性を持っている。1996年4月 タジキスタンはロシア,カザフスタン,クルグズスタンと共に,中国と包括的な国境協
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11 トルクメニスタンはアフガニスタン問題では他の中央アジア諸国と一線を画してきた。ラバニ政権を承 認して外交関係を維持しつつ,タリバーンとも友好関係を維持してきた。友好関係を維持することでタ リバーンの思想的影響を阻止するという戦略をとったといえる。
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定に調印した。1997年には軍事分野での信頼醸成協定が結ばれるなどソ連時代の紛争 事項の解決の方向が進んだ。1999年8月には補足的な国境条約を締結されたが国境確 定で未解決な問題が残った。今日タジキスタン側の譲歩で基本的に国境問題は定着した とされる。なお,内陸国家であるタジキスタンが海への出口につながる貿易路を求める うえで,現在最も安定的な海へのルートは中国経由と見られている。それはウズベキス タンとの国境が両国間の政治的関係から不安定であると見られているためである。海に 出るルートとして,中国の新疆省を経由してそこからパキスタンに入るカラコルム・ハ イウェイを経てカラチに抜けるルートが最重視されている。現在中国国境までの全天候 性の道路が完成しており,中国側が40キロ程の道路を完成させるのを待っている。ち なみにドシャンベから中国国境まで車で約30時間であるとい
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う。もちろん,アフガニ スタン経由の通行が安全かつ効率的なものになれば,そのルートも利用できるが,まだ 政治的安定性に対する大きな不安が残っている。またタジキスタンは1996年に始まっ た上海サミットの初期からの構成国であり,2001年に発展改組された上海機構のメン バー国となっている。
終 わ り に
タジキスタンの内戦はソ連時代の支配体制いわば分割支配の矛盾によるものといえよ うが,底流には民族的境界区分そのものに含まれた問題があった。ブハラ藩王国の解体 とタジキスタンの形成において前者の主要都市であるブハラとサマルカンドがウズベキ スタンに帰属し,タジキスタンには基本的に遅れた農業地域あるいは山岳地域が残され たからである。その遅れたタジキスタン国内はさらに居住地域あるいは渓谷間で対立が 強化される政策が意識的無意識的にとられた。タジキスタンの場合は極端であるが,中 央アジア,コーカサスあるいはロシア内の自治共和国の形成にも同様な例も見られる。
ソ連体制が民族問題になぜ慎重な対応をしなかったかは,おそらくスターリンという個 性にだけ帰属させられない問題を持っていると見ざるを得ない。この民族問題に対する 無神経さは第1次大戦後にオスマン帝国領のアラブ地域を英仏両国が分断した際の無神 経さと比肩される,あるいはそれ以上の荒っぽさであったと言わざるを得ない。ソ連が 崩壊した要因に民族政策の矛盾があったことは否定できず,ソ連における民族政策がソ 連体制の根幹に関わる矛盾点として今後一層解明を必要とされる問題の一つであろう。
(本稿は平成14年度科学研究費補助金[基盤研究(A)(1)「中央アジア・コーカサス諸国における経済発展と 安定化問題」]による在外調査の成果の一部である)
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12 2002年9月29日,大統領府対外関係部上級官Tojiddin Jurazoda氏とのインタビューによる。
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