地域研究の対象とアプローチ再考
著者 宮地 隆廣
雑誌名 言語文化
巻 14
号 4
ページ 377‑400
発行年 2012‑03‑10
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012723
地域研究の対象とアプローチ再考
宮 地 隆 廣
地域研究 (area studies, regional studies) は学界において定着した学問領域の 名称であるが、それが何を対象とし、いかに研究されるのかについては、多 様な知見が提出されている。本稿は、先行研究を批判的に検討することを通 じ、地域研究が扱い得る範囲や特徴、研究におけるアプローチの仕方を、論 理的に一貫した形で提示する。
本稿の主張は次の3点にまとめられる。第1に、地域研究が扱う知識の範 囲を限定することは、地域を知るという地域研究本来の目的に反する。第2 に、地域研究は幅広い知識を扱いうるが、その全てが研究上有意義であると は限らない。対象とする地域に関するイメージを覆すか、学界や社会の関心 に関連付けられる知識のみ、研究で扱うに値する。第3に、地域を記述する アプローチは、事実や因果関係の正確な提示を目指すものと、多様な地域像 の提示を目指すものとに分けることができる。そして、両者の研究成果が相 互に参照かつ批判されることで、地域に関する知識の質が向上される。
1. 地域研究が扱う知識
これまでに数多くの研究者が地域研究の定義や特徴を明らかにしようと取 り組んできた。しかし、日本やアメリカにおける主要な先行研究を見ると、
定義や特徴の仕方に一定の傾向があるかたわら、それに対する反論も存在し ていることが分かる。これらを踏まえ、いかなる考え方が妥当であるかを、
本節は考察する。
先行研究の検討にあたっては、地域研究に関する簡易な「定義」との適合 性を考えるという手法が取られる。具体的に言えば、「地域研究とは地域を
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同志社大学言語文化学会 ©宮地隆廣
知ることである」という命題が先行研究を検討する上での参照点となる。こ れは同語反復も同然であるが、地域研究に対する典型的な理解においては、
この極めて単純な「定義」さえ満足させることができない。以下では、先行 研究が地域研究を論じる際に集中して言及する3つの側面、すなわち対象と なる単位、時代とイシュー、そして方法に分けて、検討が進められる。
(1)対象となる単位
地域研究は地域を知ることである以上、研究の単位として地域なるものを 想定する。先行研究の定義には大きく3つの特徴がある。
空間の具体的限定
第1の特徴は、地域を何らかの空間として具体的に限定しようとすること である。アジアやアフリカなど一般に認められる大きな空間を地域とする見 方や [Hall 1947]、国民国家を基準に、その集合体、国民国家そのもの、その 中にある地方とも呼べる単位全てを地域とする見方がこれにあたる [山口博 一 1991, 13; 小林 2002, 43-44; 加藤 2005, 3]。小集落であるコミュニティより も広いもの [濵島ほか2005, 423] といった国家以外の単位に言及する場合も ある。
このような指摘には3つの問題がある。第1に、これらは定義というより は例示であり、何が地域であるか否かを判断する基準にならない。第2に、
国民国家など所与の基準概念からの乖離の程度で地域が定義され、どこまで 乖離が許されるかが不明である。第3に、小集落を基準にする例のように、
基準概念それ自体の定義が不明確である。
こうした問題を克服するには、地域という概念が示しうる限界を直接考察 する必要がある。世界はアフリカやアジアといった地域から構成され、アジ アは様々な国家から構成され、国家は様々な地方から構成されることを想起 すれば、地域概念は重層性を持つと言える [山影 1994, 275; 濱下 1997, 17; 立 本 1999, 70]。では、重層的に地域を構想した場合、地域はどこまで縮小あ るいは拡大が可能か。
縮小の場合から考えてみよう。国家、地方自治体、自然集落、一人の人間
が生きている土地、人間が物理的に収まらないほどの狭い空間、ひいては分 子や原子といった極小の体積を持つ存在など、空間を極限まで小さなものと して構想することは可能である。そして、理論的には、地域をいずれの規模 に設定しても、そこに関する情報が地域にまつわる知識であることは否定で きない。確かに、とある非常に狭い地点Xに元素a,b,c...があるという情報が 得られても、それが知るに値するものではないだろうことは、直観的に明ら かである。しかし、自然環境は地域を構成する一要素であり、かつ環境はそ の地域に関わる人間の活動に影響を与えうる [立本 1999; 地域研究学会連絡 協議会2005]。あくまで可能性だけを考えれば、極小の空間であっても、そ れに関する情報が地域を知る上で無意味であるとアプリオリに判断すること は不可能である。
逆に、拡大の方向で地域の限界を考えても、地域になり得る空間は限りな く広い。地域を拡大した先にある極大値は人類や世界の全体、あるいは、固 有名詞を伴う具体的な事象を排して語られる普遍の世界である。地域という 概念は全体に対する部分を含意する以上 [山影 1994, 275; 立本 1999, 12]、地 域は地球や人類といった全体を表す概念になることはあり得ないが1、逆に 言えば、どのような大きな切り取り方をしても、それが全体でない限りは地 域になり得る。
地球や人類を分析単位にしないことは、環境やグローバル経済など地球規 模の問題に関心を寄せないという意味ではない。これらグローバルイシュー と呼ばれるものは地域を知る上での問題意識として有用である。ただ、地域 研究はあくまで、関心対象となる地域におけるグローバルイシューの具体的 な表れ方を見るのであり、人類全体を1つの単位として考察することはない。
以上より、地域は分析対象者の関心に応じて自由に設定されうる。従来の ように、アジアや国民国家などを地域とすることはもちろんのこと、こうし た典型的な地域の単位を無視した形で地域を設定することも妨げられない。
耳慣れない形で空間を切り取り、地域を設定することは、敢えてそのような ことをする意義を問われるかもしれないが、それが理論的に誤りだとは言え ない。
明確な境界
アジアやアフリカ、国民国家、その中にある地方などの定義には、空間を 具体的に限定することの他に、共通する別の特徴がある。すなわち、明確に 境界が引かれた空間として地域が認識されている。
一部の先行研究はこうした地域のイメージに反発し、環境や人間、人間の 所有する情報など、空間を構成する諸要素の関係として地域を捉え、空間の 凝集性を緩く捉えるべきだと指摘している2。中でも、アジア史研究者のテッ サ・モーリス=スズキ (Tessa Morris-Suzuki) の論考はこの点を明快に指摘し ている。彼女が2000年に発表した論文「反地域研究 (Anti-area studies)」は、
研究の単位として地域を設定することに対し、密閉された空間としてそれを 捉えることになりかねないと批判する。とりわけ、ヒト、モノ、そして情報 がグローバルに動き回る現代社会において、関心対象となる地域だけが研究 されても、その地域を十分に理解することにはならない。
そこでモーリス=スズキは、「流れ (flow)」と「渦 (whirlpool)」に着目して、
地域を研究することを提案する。ある地域で見られる現象は、他地域から来 た様々な「流れ」が1か所に集まり、相互に絡み合って生じる「渦」のよう なものである。その「渦」はやがて、他地域に影響を与える新しい「流れ」
を生むだろう [Morris-Suzuki 2000; モーリス=スズキ 2009]。現代社会を安定 的なものではなく、諸要素が自由に動き回る液状化した (liquid) ものと考え ることは近年の社会学の流行だが3、モーリス=スズキの主張もこれに類す る。
この提案を踏まえれば、国民国家や地方といった、地域を構成する諸要素 の関係を無視して、便宜上設定された具体的境界を絶対的なものとすること は望ましくない。関心のある地域について、便宜的に引かれた境界をまたぐ 流れをも視野に入れる必要がある。
こうした地域イメージは、地域が世界全体を指示しないという先の主張と 矛盾するように見える。全ての地域が相互接続されているなら、地域を単位 として独立させることは不可能なはずである。しかし、そこまで誇張して考 える必要はない。モーリス=スズキ (2009) は「反地域研究」の例として、
朝鮮半島の金剛山を関心の地域に設定した上で、そこに到来した人々を軸に
歴史を再構成する試みを提示した。その際、金剛山に到来した「流れ」を知 る上で、無限にその起源を遡及することはない。地域を知る上では、設定さ れたテーマに応じて、具体的に連関のある流れだけを捉えればよく、それは 必然的に、世界の中の限られた部分を扱うことになる。
同質性
第3の特徴は、何らかの固有性を持った、他と相対的に区分可能な空間単 位として地域を見なすことである。地域は、その外側にはない共通の特徴が あるから、1つの地域として設定できるというのがこの発想の根底にある [立本 1999, 12-13; 文部科学省 2002; 日本学術会議 2008]。地域研究の目的の 1つは国民性や地域的気質の特定にあると唱える者も、この類に入る [小浪 1989; 山口博一 1991]。
この特徴付けは大いに問題である。なぜなら、地域に同質性を前提すると、
「地域Xは異質で、多様だ」という情報が存在する場合、それを無視して良 いことになるからである。翻って見れば、地域を同質性に捉えることに対す る批判はかねてから存在する。その代表格はエドワード・サイード (Edward
Said) の『オリエンタリズム』である。西洋と対置される東洋 (Orient) とい
う概念の成立について、英米仏の文書記録を渉猟したサイードは、オリエン トとはヨーロッパが構成した言説であると唱える。ヨーロッパの人々はオリ エントを、西洋の特徴とされる合理性や平和志向、論理性などを欠いた存在 として描く。こうした記述は、オリエントの人々に何ら承認を得ることなく、
オリエントを支配せんとする側の視点からなされたものであると共に、オリ エントの中にある多様性が捨象されている [Said 1978]。こうした問題意識は 地域研究に関する論考にも影響を与え、地域研究では多様性こそ探究される べきだとの意見は数多い [中村 1989; 濱下 1997; Harootunian 1999; Rafael 1999]。
無論、国民性など地域に共通する性格が存在する可能性は皆無ではない。
しかし、その存在の有無は研究の後で分かる以上、地域に同質性を前提する ことは、地域の異質性や多様性を示す情報を排除し、地域に関する知識にバ イアスをかけてしまう恐れがある。
(2)時代とイシュー
地域とは、多様性を内包しうる、緩やかな形で設定可能な、世界の一部を 構成する空間の総称である。こうした非常に広い地域の定義を前提にしても、
なお地域研究を狭く定義する方法がある。開発問題に関心のある研究者は地 域研究を、貧困や民族、環境など現代の諸問題に資する社会科学と定義し、
分析対象も必然的に現代の途上国であるとする [Hall 1947; 山口博一 1991, iv;
加納 2009]。
時代とイシューを限定するこうした定義は、地域研究が誕生した背景に根 差している。地域研究は、植民地経営や戦争などを目的に外国の情報を強く 求める国々にて、政策決定に密接に関連しながら、発展を遂げてきたとされ る [Hall 1947]。地域研究イコール途上国向け現代社会研究という定義もこう した伝統的な地域研究観の延長線上にある。
この定義には2つの批判ができる。第1に、現代の諸問題の解決に役立つ 知識を地域研究は扱うと唱えた瞬間に、解決に資さない知識は無視してよい ことになる。そうなると、地域に関する知識を、現代の諸問題の解決に役立 つか否かという観点で区別できるかが問われるが、それはおそらく不可能で ある。なぜなら、現代的なイシューに関連する研究内容が何であるかは、時 代や学問領域の垣根を越えて、際限なく広がりうるからである [日本学術会 議 2008, 3]。例えば、紛争の原因として指摘される民族アイデンティティに ついて考える場合、民族意識を知る上で彼らの思想を避けることはできず、
その思想のあり方は表象文化や歴史といった人文学的な領域、さらには民族 を取り巻く生態的領域にも関係していく。
第2に、地域を途上国に限定する必然性もない。先述の通り、地域は研究 者の関心に応じて設定が可能であり、研究する者が知りたい地域を自由に設 定してよい。したがって、途上国を研究することは地域研究の一部ではある が、その全てではない。
(3)方法論
地域の定義、時代とイシューに次ぐ、地域研究の扱う知識を限定する第3
の手段は方法論を定めることにある。これに反対する意見もあり [立本 1999;
恒川 2005]、本稿もまた反対の立場に立つ。
学際的姿勢
地域研究に関する論考では、学際性が必ず重視される。その背景の1つと して、同一地域に関する知識が政治学や経済学、人類学などのディシプリン に細分化され、それらを一手に集めて検討できなかったことに対する批判や 反省がある [Hall 1947; 加藤 2005, 8-9]。専門の異なる複数の研究者を集結さ せるにせよ [山口博一 1991; 立本 1999; Suzanton 2004; 加藤 2005]、1人の研究 者が複数のディシプリンを配慮するにせよ [Hall 1947; 小林 2002; 加藤 2005]、
地域を複眼的に理解する姿勢は地域研究に必要なものとされてきた。
本稿のこれまでの議論を踏まえても、学際性は地域研究に不可欠な姿勢で あると言える。地域にまつわる知識は多様である以上、その知識を得るやり 方を敢えて制限する理由はないからである4。逆に言えば、地域研究が取る べき特定の方法が存在すると唱える先行研究に対しては、その必要性を批判 的に検討せねばならない。
方法論的制限の例
先行研究が提示してきた地域研究の方法論的特徴は大きく3つある。第1 に研究者の母語ではない言語すなわち外国語を使用すること、第2に、第1 点と関連して、外国語を用いたフィールドワークを行うこと [Hall 1947; 山 口博一 1991; 立本 2003; Suzanton 2004; 加納 2009]、第3に分析対象となる地 域に生きる人々に対して共感を持つことである [小浪 1989; Suzanton 2004; 押 川 2007; 加納 2009]。
こうした点が特徴とされてきた理由は、地域研究が重視する学際性の裏返 しとしての、伝統的ディシプリンへの反発がある。経済学を典型例として、
社会科学においては、人類全体に応用可能とされるモデルを前提に、事例分 析を試みることがしばしばある。しかし、こうしたモデルは欧米社会の研究 を土台としていることから、非欧米社会の前提に合わないという認識が登場 し、現場のコンテクストを良く理解することが地域研究には重要だとされる
ようになった [Hall 1947]。また、先の『オリエンタリズム』の批判に見られ るように、ある者が対象となる地域について、そこから距離を置いて記述を 試みると、内容が偏見に満ちたものになる恐れがある。その結果、地域を知 るためには、その地域の言葉を覚え、現場に触れ、そこに生きる人に寄り添 い、共感する姿勢が重視されることになる。
制限に対する批判
こうした制限に対しては次のように批判できる。まず、地域にまつわる情 報が、研究者の母語やフィールドワークを基準に区別される必然的理由は何 もない。この制限を正しいとすると、研究者の母語による情報や、フィール ドワークを採用しえない歴史に関する情報は、地域を知る上で不必要だとい う奇妙な事態に至る。
分析対象への共感については、研究倫理上それが尊い態度であるとは言え ても、共感を通じて得た知識が共感なくして得た知識よりも、地域を知る上 で常に優れているとは言えない。フィールドワーク論において、研究対象と 研究者が心理的に極度に接近していることはオーバーラポール (over-rapport) と呼ばれ、客観的な研究の信憑性を損ねる一因とされてきた [佐藤 1992, 145]。共感の有無には地域を知る上で一長一短がある。
2. 地域研究における有意義な知識
このように、地域研究を地域を知るというシンプルな営為として捉えた場 合、扱う知識は空間、時代、イシュー、方法の面で限定されることはない。
しかし、地域研究の範囲をこのように茫漠としたものとすると、少なくとも 2つの疑問が生じる。
(1)情報の意義づけ
第1の疑問は、地域について何を記録しても、それは地域研究になってし まうのではないかというものである。
A氏の朝食
例えば、日本の某所に住む一般市民A氏の毎日の朝食を誰かが記録したと する。一般的に言えば、Aの食事内容は大変瑣末な情報である。しかし、そ れに対しては、研究を正当化する常套句である「これに関する先行研究は存 在しない」と評価することもできる。では、Aの朝食内容を地域研究の成果 として発表した場合、日本やA氏の住む地域に関する文字通り新奇な研究と して、それを肯定的に評価してよいのだろうか。
「一般的に言えば、Aの食事内容は大変瑣末な情報である」ことが妥当だ と思われるのは、瑣末と判断する根拠が「一般的」に受け入れられるものだ からである。Aは日本の某所に住む一市民に過ぎず、当該地域を代表する人 物でも、同地域に影響力を持つ人物でもない。また、Aの朝食の内容が自然 環境や他者の生活に与える影響は、皆無とは言わないまでも、甚大とは言い 難い。このような意味で、Aの朝食の記録は一般的に言って瑣末であると言 うことができる。
一方、こうした「一般的」な観点を離れれば、Aの朝食記録はAの住む地 域に関する有意義な知識になり得る。もし、数百年後の歴史学者が日本の食 生活に関する情報を求めていて、その情報が希少であった場合、この記録は 当時の日本の庶民生活を知る1つの手掛かりとして、重要な資料となるであ ろう。また、Aの住む地域における食糧事情を知り、栄養状況の改善に役立 てたいという目的を持つ政策立案者にとって、この記録は政策決定の根拠と なるかもしれない。グローバル化に伴う日本およびAの居住域の食文化の変 容を考えるのにも、この記録は役に立つ可能性がある。
意義づけの仕方
このように考えれば、地域研究は設定された地域に関する広範な知識を扱 う一方、研究としての有意義な知識とは、それらの中から知る意味があると 正当化できるものに限られると言える。A氏の食事の例を踏まえると、意義 づけには大きく2つの仕方があると考えられる。
第1に、先行研究や一般通念に見られる。地域イメージを覆す知識は、そ の地域に関する新しい側面を明らかにしている可能性がある点、地域に関す
る知を押し広げるものとして評価できる。例えば、イスラム教地域は、その 教義が家父長的で、かつ他の宗教に非寛容なため、民主主義と両立しないと いうイメージが欧米社会では強いとされる。これに対し、イスラムの教義の 中に寛容や共存を謳う点があるという知識は [Sen 2004]、一般的なイメージ にはない、イスラム教地域の姿を示すものとして価値があると言える。
第2に、地域に関する知識を、今日の学界や社会が価値として認めている テーマに関連づけることで、その知識が意義のあるものとして提示される。
例えば、多額のODAを世界に提供している日本政府は、ある地域の貧困削 減策を考える上で、貧困に関連する要因として政治、経済、文化、地理に至 る広範な知識を総動員する [国際協力機構 webpage]。各々の知識は、貧困削 減という今日有意義とされるテーマに関連づけられることで、知る意義のあ るものとして認められることとなる。
以上のことを念頭に置くと、前節で言及したいくつかの点を正当化するこ とができる。第1に、直観的に考えれば、非常に局所的な地域の情報は有意 義とは考え難いとの指摘がなされた。これは、局所的な情報は広い地域の情 報に比べ、影響を与える事象の範囲が狭く、その意義を認める絶対的人数が 少ないからである。第2に、アジアや国民国家など、典型的な地域を無視し た形で地域を設定することには、その意義を説明する難しさがあることが指 摘された。これは、そのような新しい地域枠組みに関心を持つ人がやはり少 ないのと共に、その地域に関する蓄積された知識も乏しく、批判的検討の対 象となるイメージが確立されていないからである。第3に、地域研究が世界 全体を1つの分析単位として設定することはないが、環境をはじめとするグ ローバルイシューは重要であるとの指摘がなされた。これは、そのような問 題群を重視する価値が広く社会や学界に認められており、それに関連する知 識は有意義なものとして他者に説明しやすいからである。
(2)既存のディシプリンとの関係
第2の疑問は、地域研究があらゆる知識を扱うとするならば、地域研究を 学問分野として設定する意味はないというものである。
抽象的な学問領域としての地域研究
既存のディシプリンとの対比で考えると、こうした問いかけがなされる理 由が分かる。例えば、政治学は権力に関する事象を、経済学は財の交換に関 する事象を、そして文学は言語を用いた芸術表現に関する事象を取り扱う。
つまり、学問領域を設定することとは、扱う知識を限定することである。し たがって、地域研究が学問分野であるならば、あらゆる知識を扱うというこ とは言えないはずである。
この批判は、政治学や経済学などのディシプリンを示す概念と地域研究を 等置するというカテゴリーエラーを犯している。再び、ディシプリンと対比 すると、両者の概念の水準が異なることが分かる。上記に挙げた例によれば、
扱う知識を区切る基準となっているのは権力、財、言語を用いた文学表現と いう、特定の空間に依存しない概念である。これに対し、地域研究は、地域 という一般的概念によって扱う知識の範囲を区切っているのではない。ここ まで議論してきた通り、地域研究は関心の対象となる地域についての4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4あらゆ る知識を扱う。アジアやアフリカ、環太平洋、イスラムなど、地域が何らか の形で設定されて、地域研究は初めて成立する。つまり、地域研究は学問分 野の名称だが、経済学や文学などいわゆるディシプリンに比べると、取り扱 う対象を表現する抽象の度合が高い。政治学や経済学と概念的に等価なのは、
環太平洋地域研究やアフリカ地域研究といった、地域名を冠した地域研究で ある。
事例研究と地域研究
地域研究は、具体的な地域名を冠することで、扱う知識を明確にしている。
このことを認めた上で、さらに地域研究は無意味だという反論を続けること も可能である。政治学や経済学など各々のディシプリンは、その理論的関心 に沿った形で事例研究を行っている。事例研究は例外なく、ある地域に関す るものであるから、当該地域に関する知識を作り出す作業である。それなら ば、地域に関する知識は伝統的な学問体系内で生産可能であり、わざわざ地 域研究という分野を設置する必要はないはずである。
このことを念頭に置くと、前節にて指摘された地域研究の特徴についても、
懐疑の目を向けることができる。再述すれば、地域研究とは、ディシプリン に分断された地域に関する情報を広く見渡す学際性があるという。これは結 局、ディシプリンで生み出された地域に関する知識を寄せ集めているだけで はないのか。ディシプリンにはテーマを限定し、伝統的に精緻化させてきた 方法論があるが、あらゆるテーマや方法論を扱うことを認める地域研究には そういった限定性はないのだから、地域研究として地域に関する知を生産す ることはできないのではないか。
こうしたディシプリンと地域研究の関係については、前節で挙げた地域研 究を論じる先行研究のほとんどが取り扱っている。いくつかの先行研究の指 摘を参照しつつ、上記の疑問に回答するならば、それは次のようになる。
まず、地域に関する知識は政治、経済、文学などのテーマにそって、参与 観察、アンケート調査、テキスト読解などの方法を通じて収集される。一般 的な言い方をすれば、ディシプリンが擁する何らかのフォーカスや方法に よって、地域に関する知識は確立される。したがって、地域研究がディシプ リンに知識の生産を依存していることに疑いはない。実際、事例研究を行う 者が、自身の専門を表現する上でディシプリンと地域研究を併記したり(例 えば政治学・ラテンアメリカ地域研究)、ディシプリンで区分された学会と 地域で区分された学会の双方に所属したり(例えば日本社会学会と日本中央 アジア学会)することは、普通に見られることである。先行研究においても、
比較的早い世代の研究者はほぼ例外なく、地域研究者は自らのディシプリン を明確にし、その方法論を身につけることを勧めている [Hall 1947; 山口博 一 1991; 加納 2005]。
一方、ディシプリンに依存した情報に対しては、そのディシプリン外の知 識から批判的に検討することが可能である。先に例として挙げたイスラム地 域と民主主義の関係はその典型である。欧米の経験をもとに発達を遂げた自 由民主主義にまつわる政治学の理論からすれば、イスラム教の教義は、個人 の平等や思想の自由を脅かすものに映る。しかし、思想史研究の観点からす れば、イスラム教にそのような性格を見出すこと自体が誤りである。つまり、
ディシプリンに依拠して生産された知識を寄せ集めれば、整合的な地域の姿 が描き出せるわけではなく、そこには矛盾や対立がつきものである [加藤
2005, 9]。
こうした矛盾や対立は、地域に関する幅広い知識を持つことで見出しやす くなる。そして、そのことによって、地域に関する先行研究や一般的通念を 覆すという、先に示した有意義な地域研究に向けた知識の探求を行うことが 可能となる。前節で登場した地域研究論も全てこの点を重視しており、幅広 い知識をもとに、地域に関して解明すべき問題点を具体的に見出すことを提 案している。
地域研究はディシプリンに何らかの形で依拠せざるを得ない。しかし、そ れと同時に、地域研究は同一の地域に関する複数の分野にまたがる知識を扱 い、それによって、単一のディシプリンでは見出し難い、地域に関する新し い問いを発見することができる。その具体的な問いを探究することで、新し い地域像を描くことが期待される。
ディシプリンになり得ない地域研究
上記のような主張は、地域研究に期待をかける者にとっては、後ろ向きな ものに見える。立本 (2003) のように、歴史学や政治学のような伝統的なディ シプリンとは異なる形で、地域研究として独自に地域を知るやり方があるこ とを期待し、地域研究を1つの独立したディシプリンとして確立すべきだと いう意見は確かに存在する。
先行研究を見直すと、このような期待は、地域研究が本格的に論じられ始 めた20世紀中盤以来、長らく持たれてきたことが分かる。そして、その試み が成功する見通しは常に明るくないものとされてきた。例えば、日本の地域 研究論を語る上で必ず参照される研究成果として、1987年に東京外国語大学 が主催したシンポジウム「地域研究と社会諸科学」がある。現在から20余年 も前に遡ったその時点でさえ、地域研究を独立した学問領域として確立させ ることに対しては悲観的な見方が有力であった。タイ研究の第1人者である 石井米雄の発言は、そうした雰囲気を漂わせるものとして、後代の研究にし ばしば引用されるものである。
「地域研究とは何かを問うシンポジウムに・・・出席することは、正
直に言うと憂鬱である。なぜなら、始めから結論が分かってしまう気 がするからだ。つまり議論されることは地域研究の方法論や、地域研 究とディシプリンとの関係であり、地域研究は可能かという問題が提 起される・・・そして確たる結論もなく散会するという情況が見越さ れてしまうのだ。」[中嶋・ジョンソン 1989, 216]
本稿のここまでの議論を踏まえれば、石井のこうした悲観は必然である。
地域研究は具体的な地域を設定した上で、地域を有意義に知るための研究を 進める。そこには、既存のディシプリンが成立する前提である、地域を問わ ずに適用される問題関心も、特定の方法論も事前に設定されることはない。
さらに言えば、地域を広く知る上では、そうしたものを予め設定すること自 体が望ましくない。地域研究は常に個別具体的なものである以上、普遍的な 関心や方法論を有することで成立するディシプリンにはなりえない。
3. 地域研究の2つのアプローチ
地域研究は、具体的な地域を設定した上で、意義づけの可能な知識を模索 する。しかし、地域に関する知識が全て同じ性質を持っているかといえば、
そうではない。このことは、第1節で述べた地域に対する共感の議論を想起 すれば分かる。繰り返せば、地域を知る上では、研究者が研究対象となる地 域を突き放して客観的に見ようとする態度と、地域に共感するという合一化 に向かう態度の2つがある。この区別を踏まえると次のことが言える。客観 的な記述を目指す者にとっては、地域の記述の仕方は正しいものがただ1つ 存在する。一方、合一化を目指す者にとっては、地域の記述の仕方は多様な ものになるはずである。なぜなら、地域に対する共感の仕方は人によって異 なるものだからである。
これは、科学哲学の問題関心である認識論 (epistemology)、すなわち人間 が事実をどう捉えるのかという議論に関連するものである。前者は、自然科 学のように事実は1つしかないものとして捉える。後者は、事実は1つでは なく、色々な語り方ができると考える。本稿は両者をそれぞれ科学的 (scientific) および多声的 (polyphonic/ multivocal) と名付ける。
翻って先行研究を見ると、その大半は認識論に無頓着であり、認識論に意 識的な数少ない研究は例外なく、多声的アプローチの重要性を強調する [濱 下 1997; 山口裕之 1998; Rafael 1999; 立本 1999]。本稿は、多声的な研究と共に、
それとは対称的な認識論を持つ科学的アプローチも重要であることを指摘す る。以下では、この2つのアプローチが指す研究は具体的にどのようなもの であるかを説明した上で、双方の意義と相互の関連について考察する。
(1)科学的アプローチ
科学的アプローチで地域研究を行うならば、対象となる地域の正しい姿に 近づくよう、より確からしい記述をすることが目指される。自然科学におけ る仮説が正否を争えるように、地域に関する記述もまた、どれがより確から しいか、序列がつけられることになる。
確からしい地域の姿を記述する作業は大きく、事実の把握と因果関係の推 論に分けられる。事実を把握するために、研究者の間で共通の概念が設定さ れ、事実を測定する装置や手段が準備される。事実が把握されれば、事例の 比較や、比較を通じた因果関係の考察、それを踏まえた何らかの提言が可能 となる。ここでのポイントは、根拠と手順を明確にすれば、誰でも同じ結果 に至るという再現性 (replicability) にこだわりを持つ点にある。事実や因果関 係の特定において、研究者個人の偏見が入ってしまえば、それは科学的とは 言えないからである。
第1の段階である事実の特定については、スタンダードとなる手順が既存 のディシプリンにて相当程度確立されている。資料の真偽や記述内容の矛盾 を丹念に調べ事実を突き詰めていく、史料批判の手法はその典型である [遅 塚 2010]。社会学の必修科目である社会調査法も、社会の実体をなるべく歪 めずに把握するために、アンケートなど事実特定の方法を標準化したもので ある [盛山2004, ch.2-8]。解釈という主観的行為の対象となるテキストにおい てさえも、いわゆる内容分析 (contents analysis) のように、バイアスのかかっ た読解をなるべく排除する統計的処理が施されることがある [金 2009]。
事実が確定されれば、因果関係も検討できる。因果関係の特定方法もまた 既存のディシプリンで標準化されている。ある変数Xが原因で変数Yが結果
であることを示すには、X以外の要因が一定である場合に、ある時点でのX の変化に伴い、その時点より後のYが変化していることを確認する必要があ る。こうした変数の共変関係を厳密に抽出する手法を検討するのが、統計学 の1つの使命である。
地域のあり方を数字だけで記述することは不可能である以上、定性的な記 述にこうした考え方は応用不可能のように思われるが、それは正しくない。
社会科学方法論の基本文献であるKing, Keohane, and Verba (1994) にあるよう に、公開された情報と方法に基づいて事実のありようを妥当な形で記述し、
その事実を踏まえて、計量分析的な発想を念頭に置いて、因果関係を厳密に 検討することは重要である。また、原因と結果を指摘するだけでは現象間の つながりが抽象的に表現されるだけであるから、原因が結果に至るプロセス を具体的にトレースすることも重要とされる [George and Bennett 2005]。
(2)多声的アプローチ
多声という概念は今日の文学批評や人類学におけるキーワードであるが、
その発想は言語論的転回 (linguistic turn) やポストモダニズムといった潮流を 支える認識論に依拠している。すなわち、客観的に正しい現実を言葉で表す という西洋哲学の伝統的な前提を転覆させ、言葉が現実を作り出していると 考える。言葉を発する者は中立な立場にはなく、何らかの社会関係の網目の 中にいる以上、その言葉が表す情報は一面的なものでしかない。言い換えれ ば、絶対的な事実は存在せず、世界には多様な「事実」が語り手の数だけ存 在し、また1つの「事実」に対しても多様な解釈ができることになる5。 これを踏まえると、多声的アプローチは、先行研究が当然とみなしてきた
「事実」や解釈は支配的な言説 (master narrative) に過ぎないという形で懐疑 されることになる。当然となった「事実」や常識的な解釈には収まらない、
語られざる「事実」を掘り起こし、先人の想像を超える新しい解釈の可能性 を提示することで、地域の多様な姿が描き出されることとなる。
権力をまとった支配的な言説においては、地域に関する特定の状況が一面 的に描かれたり、歪めて伝えられたり、あるいは存在しないものとして無視 されたりすることがある。支配的言説の持つこうした権力的性格に批判の目
を向けることは、語られざる地域の姿を描くための1つの戦略である。この ような視点から研究しやすいのがサバルタン、ポストコロニアル、ジェン ダー、移民といった概念が冠される研究である。いずれも、対象となる地域 における特定の力関係に目を向けて、地域を捉え直す試みである。
また、こうした人々に関する情報は権力者のそれに比べて記録が乏しいた め、参与観察や口述史によって彼らの姿を捉える試みがなされることがある。
その際、彼らの実態を捉えるという科学的アプローチの発想が持たれること はまれで、彼らと生身の調査者との相互作用を通じて見えてきた1つの「事 実」を提示することが強調される6。
特定の社会的弱者を直接扱わずとも、批判的に言説を見直す行為は可能で ある。ミシェル・フーコー (Michel Foucault) の言説史研究のように [フーコー 1981]、社会全体を対象に、何か特定のテーマにそって言説を収集し、そこ から何らかの傾向を読み取るのは1つの研究方法である。ここで求められる のは、傾向を見出さんとする研究者本人が持つ斬新な問題意識と、それを実 際に見抜く読みの鋭さである。
対象を新しい形で読み直す試みは、表象文化の研究が伝統的に行ってきた ことであり、多声的アプローチと親和的である。文学作品をポストモダンの 観点から読み直す、従来の解釈を相対化して大胆な読み方を示すなど7、新 しい解釈を模索する研究は、表象文化から読み取られる地域文化の多様なあ り方を押し広げるものである。
最後に、多声的アプローチからすれば、分析手順が標準化されている科学 的アプローチは、多様な「事実」の一面しか見ていないものとして懐疑の対 象となる。多声的アプローチを提唱する地域研究者は、自らをディシプリン の枠内に収めることには強く否定的である [山口裕之 1998, 1036-1037; Rafael 1999, 1215]。
(3)相互交流の可能性
科学的アプローチと多声的アプローチは異なる認識論を持つため、両者の 研究はかみ合わない可能性がある。後者からすれば前者は、多様な姿を持つ 可能性のある地域を1つの事実や因果関係に単純化して捉えようとしている
点、平板な地域の姿しか描けないアプローチに見える。また、主張の根拠と なる確からしい事実なるものは、学会の権威たる歴史学者や政府の情報など、
伝統的な権力関係が反映されたものでしかない。そこに客観性を期待するの はあまりに素朴であるし、それを根拠に因果的推論を積み上げても、砂上の 楼閣でしかないとの批判ができよう。
一方、科学的アプローチからしても、多声的アプローチは満足なものでは ない。世界が複雑で多様であることは当然であり、その複雑さの中から確か らしいことを追究するのが科学的アプローチである。多声的アプローチが地 域の多様性を指摘したところで、結局それは「地域は多様だ」という当たり 前な主張の繰り返しでしかなく、それ以上の議論の発展が望めないおそれが ある。
さらに、この批判を発展させれば、次のような問題も指摘できる。多声的 アプローチでは、地域の特徴を知る上で重要となる比較という行為が否定さ れる。例えば「地域Xは安全だ」という言明は、安全を測る何らかの指標(犯 罪発生率や紛争数など)をもとに、他の地域と比較することで可能となる。
その際、指標を共通の尺度として認めることが前提となる。一方、様々な事 実や解釈のあり方を認める多声的アプローチは、基準それ自体を懐疑するた め、物事を1つの尺度に乗せて優劣や正否を論じることを望まないであろう。
多声的アプローチにとって、数ある「事実」は通約不可能 (incommensurable) である。
2つのアプローチに優劣がつけられるならば、優位なアプローチだけを採 用すればよい。しかし、上記の批判を踏まえれば、いずれのアプローチも完 璧ではない。言い換えれば、どちらにも、他方のアプローチにはない強みが ある。
それでは、地域の記述の仕方には2つのアプローチがあって、研究者はど ちらに立つかを明確にした上で自分の研究を進めればよく、選択しなかった アプローチの研究は対話不可能なものとして無視してもよいのだろうか。答 えは否である。両者は認識論的前提は異なるが、各々の視点から相互に批判 し、学び合うことは可能である。科学的アプローチの研究に対しては、その 依拠する事実が非常にバイアスのかかったものではないか、そこから導かれ
る因果関係や含意に対しては多様な解釈が可能ではないかという多声的な批 判を行うことができる。その指摘を受け、科学的アプローチの研究は、自ら の主張の確からしさを反省する、あるいは批判に対して何らかの答えを用意 することは可能である。
逆に、多声的アプローチに対しても、提示された「事実」はあまりに無根 拠ではないか、提示された解釈には飛躍した因果的主張が隠されているので はないかといった、科学的アプローチからの批判をなすことができる。この 批判に対し、自身の主張に説得力をつける方法を再検討する、あるいは批判 の背後にある権力性を指摘して反論することが可能である。
批判を無視することは、地域に対する理解を深めることを阻害する。繰り 返しになるが、地域研究は常に学際的であり、地域に関する知識が積み上が ることで、相反する知識が生じることは当然である。その齟齬を見出し、そ れについて考察を深めることは、地域にまつわる知識に磨きをかけるために 重要なことである。どのアプローチを取るにせよ、アプローチを超えた批判 を臆せず行い、その批判に応えることは、地域研究にとって大変有意義であ る。
4. 結語
本稿の議論は次のようにまとめられる。地域研究という分野を特徴付ける 目的で、先行研究がこれまで課してきた様々な制約は、正当性を持たない。
地域は人類や地球、普遍といった全称的存在を主たる分析対象としない限り で、あらゆる形に設定することができ、いかなる時代やテーマも地域にまつ わる情報としてアプリオリに差別はされず、情報を得るための方法も多様で あってよい。
ただし、地域研究が多様な情報を扱うからといって、どのような情報を提 示しても研究として意義があるかと言えば、そうではない。先行研究や通念 を覆す、あるいは社会や学会で関心のあるテーマに関連しているといった意 義づけができる知識こそ研究上価値がある。
地域を記述する上では、科学的と多声的というの2つのアプローチが考え られる。前者は、真実は1つであるという認識論のもと、明確な手順に従い、
事実の把握と因果的推論を行う。これに対して後者は、世界を構成する事実 やそれに対する解釈は多様であるという認識論のもと、既存の事実や解釈を 伝統や権力の反映と見なして、それに対するオルタナティブを提示する。研 究の目的は各々異なるが、研究成果を相互に参照し、批判することで、地域 に関する理解をより良いものにすることができる。
※本稿は、2名の匿名査読者の方からの評価を踏まえ、大幅に改稿した結果 である。この場にて感謝を申し上げる。本稿の不備は全て筆者の責に帰する。
注
1 無論、地球を宇宙の一部とすれば、人類全体を考えることは地域研究たりうるが、
本稿ではこの点については扱わない。
2 筆者が確認した限りで、最も早くにこのことを指摘したのは山影 (1994) である。
他の研究としては濱下 (1997)、Rafael (1999)、加納 (2009) がある。
3 代表的な研究としてはBaumann (2000) がある。
4 ただし、学際性は地域研究固有の特徴ではない。あるディシプリンが他のディ
シプリンの方法を採用することはもはや当然のことである。
5 これに関する典型的議論はリオタール (1986) を見よ。
6 オーラルヒストリーに関する論考として保苅 (2004, ch.1)。地域研究に関連させ
た考察として山本 (2007)。
7 例えば小森 (2003) はその典型例と思われる。
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Range and Approaches of Area Studies Revisited
Takahiro MIYACHI
Keywords: area studies, area, scientific approach, polyphonic/multivocal approach, epistemology
What do area studies cover and what type of study is meaningul for them?
Major articles published in Japan and the United States have not reached common ground on these points, which implies that there is still room for further consideration. This work develops a theoretical argument to find a reasonable answer to them.
First, the range of area studies should not be defined by specific space, time, topic or methodology. Considering that the concept “area” means nothing more than a part of the whole world, an area can be set at any size except the globe or the entire human society. Furthermore, the goal of area studies is simply to know the area in which a researcher is interested, and each area has a variety of information including ecological, social, and cultural one. Area studies are naturally interdisciplinary and, therefore, should deal with knowledge obtained from any perspective and by any method.
Second, all of the information about an area is not always academically and socially meaningful. Information become worthy of attention when it is a counterexample of common image of the concerned area among the public or academic circles, or when it is related to generally-accepted important topics such as so-called “global issues.”
Finally, in terms of epistemology, approaches used for area studies can be
classified into two types: scientific and polyphonic/multivocal. The former, under the premise that it is possible to tell which description is closer to the truth than others, handles information to identify the facts and/or to make causal inferences using sophisticated methods which have been developed in traditional disciplines. In contrast, the latter denies that neither hard facts about area nor a correct interpretation exist. This approach treats them as a discourse made by a biased person or group, and searches for an alternative way of describing the area. The findings from the two approaches can be referred to and criticized mutually, which serves to improve the quality of the knowledge for area studies.