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中国における国有工業企業の史的展開

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中国における国有工業企業の史的展開

──「第一汽車」の事例と国有企業をとりまく環境を中心に──

! 少杰(トウ ショウケツ)

(技術・企業・国際競争力研究センター特別研究員)

1.はじめに

2.建国から1956年までの工場建設期

3.1958年から1978年までの成長発展期

4.1979年から2001年までの構造転換調整期

5.2002年から現在にいたる「三化」建設期

6.おわりに

1.は じ め に

1949年10月1日に誕生した中華人民共和国は,長い歳月にわたる戦争で疲 弊しきった経済・社会的な基礎の上から,国づくりへの再スタートを切らなけ ればならなかった。内政では何よりも国民経済の再建と振興が急務となった。

しかし当時,戦争で崩壊した経済を自力で建て直す能力と余裕を,中国共産党 と中国政府は確実に持っていなかった。したがって外交面における諸国との関 係樹立及び外部からの支援の獲得が欠かせない条件となっていた。ちょうどこ の時期に,米ソを両頂点とする社会主義国陣営と資本主義国陣営が対立する東 西冷戦構造が全世界規模で形成されつつあったため,新しく誕生した社会主義 中国は「中立はありえない」と認識し,余儀なく当時のソ連を「社会主義の兄 貴」とし尊敬・追随し,「親ソ一辺倒」の外交路線に踏み込んだ。

1949年12月,中国のトップリーダーである毛沢東はソ連を訪問し,中国の 経済再建と軍事・国防建設を援助するように要請した。1950年2月14日,毛

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沢東,周恩来はスターリンとモスクワで『中ソ友好同盟互助条約』に調印し,

中ソのハネムーン時代は始まった。この『中ソ友好同盟互助条約』及びその後 の追加項目を通じて,中国は当時のソ連から,鉄道建設,電力,鉄鋼,石炭,

軍事産業,化学,そしてトラック工場,飛行機工場など,全部で156項目(1)の 建設支援,及び多くの資金,物資の支援を獲得した。これらの支援は中国経済 の再建と回復,及び工業基盤の形成にとって,非常に大きな意義を持った。本 稿で取り上げる「第一汽車(2)」の建設はその156項目の一つであった。ちなみ に現在,「第一汽車」は労働者13.2万人を有し,全資子会社28社,50% 以上 出資の子会社18社と上場企業4社を持ち,資産総額が1340億元に達している 中国の最大手の自動車メーカーである。2007年,「第一汽車」は世界企業500 強の303位に,中国国内では14位にランキングされた。本稿では,「第一汽 車」の事例を中心としながら,4つの時期に分けて中国の国有工業企業の設立 と発展過程,及びその取り巻く環境を考察していきたい。

2.建国から1956年までの工場建設期

1949年建国後,中国政府は国内の国民党余剰勢力を排除しながら,当時の ソ連の「重工業を優先発展させる」という経済発展路線を学び,中国経済の再 建と工業化基盤の形成を計画し始めた。1949年,中国政府は国務院の下に

「中華人民共和国重工業部(3)」を設立した。1950年『中ソ友好同盟互助条約』

を締結した後,ソ連の援助を受け入れながら,同年4月,重工業部は「汽車準 備委員会」を組織し,中国で自動車工場,トラック工場の建設を考察・計画し た。「第一汽車」の建設もその時に検討され始めた。

ところが,1950年6月25日,朝鮮戦争が勃発した。米国の介入と中国の参 戦で朝鮮戦争がエスカレートしたため,ソ連の対中軍事援助にも拍車をかける ことになったが,中国の工業立地の設計への影響も大きかった。それは中国政 府がもとの沿海の建設投資計画を大幅に縮小し,ソ連に比較的に近い東北地域 ないし内陸地域に移転したのである。1951年3月,「第一汽車」の建設場所と

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して東北地方の長春が選ばれた。その原因は主に次の通りである。①当時の同 盟国であったソ連の近くに位置し,戦略的にも内陸に位置するため,比較的安 全である。②中国の東北地方の中心部であり,豊富な鉱山資源がある。③清の 時代の「長春庁」であり,一定の経済基盤と工業基盤を持つ。④北京⇔長春⇔

ソ連の間には鉄道があり,交通が便利であり,他の地域から物質の調達も行い やすい。⑤天候は梅雨がないため,比較的に乾燥しており,機械工業に適切で ある(丸山2001 p.33)。①からは朝鮮戦争の影響を受けたことが窺える。

工場の建設場所が決まって,工場の設計もソ連の支援で最終的に決定された 後,1953年6月9日,毛沢東は「中共中央関于力争三年建設長春汽車廠的指 示(三年間で長春汽車廠建設を完成することに関する中共中央の指示)」を発 表して中国共産党と中国政府の三年間で「第一汽車」の工場建設を完成しよう という意思を全国民に伝え,支持と支援を呼びかけた。同年7月15日,「第一 汽車」工場の建設は正式に始まった。毛沢東の呼びかけに応じて,中国では

「全国支持一汽(全国は第一汽車の建設を支持しよう)」というスローガンが出 され,空前の「支持一汽建設運動」は全国で展開された。

「第一汽車」の工場建設には以下の3つの大きな特徴があった。

第一に,ソ連から多くの支援を得た。工場建設の設計図の作成から実際の着 工まで,中国はソ連政府やソ連自動車トラクター設計院から約200名余の専門 家の援助と指導を受けた。そして1953年から1955年にかけて,中国政府は 518名の実習生をソ連に派遣し,ソ連の自動車工場で研修を受けた。

第二に,全国規模の「支持一汽建設運動」が広がり,「第一汽車」の工場建 設は当時全国民の悲願となった。①労働力について。1952年の工場設計期 に,中央政府は各地から150名余の幹部を長春に配置し,工場建設の準備作業 を担当させた。そして1953年工場建設の着工後,東北教育局は現地の新規中 卒1200人を現場へ派遣し,中国政府も全国の28省・市の企業,部門,学校,

及び農村部から共産党員,幹部,軍人,技術者,一般労働者など数万人を調達 し,工場建設に従事させた。②物質について。「第一汽車」の工場建設には建 築材料や設備,道具など,多くの物質が必要であった。その需要を満たすため

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に,全国多くの工場は機械を24時間態勢で稼働させた。③資金について。「第 一汽車」を建設するために,中国政府は6億1724万元の資金を投入した。工 場の所在地である長春市も,1954年都市建設資金の95%,1955年都市建設資 金の84% を投入した(4)

第三に,「第一汽車」工場の組織設置や,管理制度,生産体制などを含め,

すべてはソ連の自動車工場のモデルにした。当時,ソ連の自動車工場に派遣さ れた研修生たちは自動車の生産・開発に関する技術を勉強するのだけではな く,生産組織や現場管理などの知識も学んでいた。

3年間の集中建設を通じて,1956年7月,「第一汽車製造廠」の工場建設は ようやく完成できた。7月13日,中国の第一台の国産CA 15型「解放(5)」ト ラックが誕生した。もちろん,この時期に中国は「第一汽車」の工場建設だけ を行ったわけではない。実際に1953年から1957年までの間は中国の「第一次 五ヵ年計画」期であり,『中ソ友好同盟互助条約』などで決定されたソ連から の援助項目はほとんどこの時期に実施された。

建国から「第一次五ヵ年計画」期までの間は中国経済にとって非常に重要な 時期であり,中国における本格的な工業化の出発点であった。「整理整頓」で 政治上と軍事上の安定を達成して,ソ連の工業化路線を横に見て,中国政府は 全国で統一的な雇用・賃金統制制度を導入し,重工業優先発展の蓄積方式を確 立した。特徴をみると,まず,工業部門の国有化と農業の集団化を基礎にし,

ヒト,カネ,モノに対する処分権をすべて政府の手に握り,集権的な計画経済 体制を作り上げた(図2−1は自動車工業の例)。そして農産物の価格を低く設 定することを通じ,農業の余剰を重工業部門に移転させ,重工業を優先的に発 展させることになった。中国のこの重工業優先発展の蓄積方式から,当時の中 国政府の「社会主義の原始的蓄積」と呼ばれるソ連型工業化モデルを導入する 意図と重工業を発展させることを通じて中国を強化する決心が観察できる。

1957年「第一次五ヵ年計画」期が終わったとき,中国の工業の生産総額は1952

年より128% 増であり,そのうち,重工業の生産額は1952年の3.1倍となっ

ていた(6)

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しかし前述したように,戦争や冷戦など様々な影響によって,建国直後に確 立された中国の工業立地はほとんど経済基盤の弱い内陸部に建設された。そこ で働く労働者たちの生活と労働を少しでも便利に送らせるために,労働者たち の日常生活と深く繋がった産業,例えば食堂,風呂屋,床屋,幼稚園,商店,

学校,病院,映画館,等々,あらゆるサービスが工場の中に整備されるにいた った。また,「第一汽車」の例を見ると,「第一汽車」はソ連モデル(7)を参考し た中国最初の自動車工場であるため,自動車生産に必要とされる部品のほとん どは「第一汽車」内部で生産するしかなかった。それ故,「第一汽車」の部品 内製率はかなり高い状態にあり,工場の組織も厖大であった。つまり,ソ連モ

2−1 計画経済期の中国自動車工業企業の中央集権管理システム(1970年代)

注:筆者作成。

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デル,建国直後の工業立地の確定と当時中国の経済状況とは「単位(8)社会」形 成の大きな原因であると考えられる。

3.1958年から1978年までの成長発展期

1958年から1978年までの20年間は,「第一汽車」にとっては「成長発展 期」であるが,中国の歴史と経済の全般にとっては波乱に満ちた20年間であ った。

3. 1 「大躍進」運動期(1958年〜1960年)

1958年から1960年までは中国の「大躍進」運動期である。この時期,中国 政府の経済発展方針の主な変化は「片足」から「二本足」への転換であった。

少し詳しく言えば,蓄積方式の転換について,重工業を優先に発展させるだけ ではなく,重工業の優先地位を維持しながら,農業,軽工業も同時に発展さ せ,中央大企業,近代的な大企業の優先的地位を維持しながら,地方中小企 業,技術水準が相対的に低い中小企業も同時に発展させることであった。1958 年5月,毛沢東は「鼓足干勁,力争上遊,多快好省地建設社会主義」(9)という スローガンを提出し,「大躍進」運動の幕が開けられた。8月,鉄鋼生産の年 間倍増計画が発表され,国民的な大規模の製鉄運動についての総動員令が発布 された。この製鉄運動は全国規模で,全国民参加の運動であった。「第一次五 ヵ年計画」の無事完成は全国民に大きな自信を与え,労働者たちの労働意欲が 沸騰した。大躍進運動期に,全国で多くの小規模製鉄所が作られ,都市の労働 力が不足したため,農村から非熟練労働者の大群が都市に流れ込んでいた。

この時期の「第一汽車」も著しい成長を果たした。1958年から1959年頃ま で,「第一汽車」には「乗東風,展紅旗」というスローガンが流行っていた。

実際に,「東風」と「紅旗」は「第一汽車」が生産した最初の乗用車のブラン ド名である。1957年5月から,トラックだけを生産していた「第一汽車」は 中央政府の指示を受け,外国の乗用車を参考にしながら,乗用車生産に対する

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研究と試作が始まった。経験や知識のほとんどない仕事であり,乗用車生産の 研究と試作は困難であったが,全国の「大躍進」運動の影響で,「第一汽車」

の労働者たちは難問を次々と克服し,速いスピードで試作を進めた。1958年5 月,第一台目の国産乗用車「東風」は中国共産党第八回代表大会二次会議(10)へ のお祝いとして誕生し,中国で大いに報道された。「東風」を作った後,「第一 汽車」はその勢いに乗って,高級乗用車「紅旗」を作ることに踏み出した。

「東風」の試作の経験が活用され,同年8月1日,第一台目の高級乗用車「紅 旗」はスタートから約2ヵ月という速いスピードで誕生した。その後の1958 年9月20日,「第一汽車」は引き続きCA 30型ジープの試作を成功させ,1959 年初に量産した。

ところが,この時期,それまでの親密な中ソ関係は急変した。早くも1950 年代の半ば頃から,中ソ間には国際共産主義運動の正当性をめぐるイデオロギ ー論争及び世界戦略と国家主権などをめぐる摩擦が発生し,相互関係は急速に 悪化していった。そのような東側陣営内部における路線論争は,やがて国家対 立へと転換し,1960年7月,ソ連は対中援助を突如打ち切るという極端な行 動を断行した。1ヵ月以内に対中援助に当たっていた1390名の専門家を撤収 し,中ソ政府間の12件の協定と300件余の専門家契約,200件以上の科学技 術プロジェクトを破棄した。最終的に,中ソ対立はイデオロギー論争の公開化 から国境紛争へと発展し,1968年にはとうとう国境地帯での軍事衝突へ突進 するにいたった。

ソ連との関係悪化と巨額の債務返済によって中国の経済・国防建設が極度な 困難に陥ったと同時に,「大躍進」運動で共産主義社会への期待と熱狂の爆発 や,非合理的な考え方(11)の指導での農業生産,農村部における「人民公社(12)大 食堂(13)」の食料品の無駄遣いの発生,及び1960年前後の自然災害の頻発な ど,様々な原因が重なって,1960年前後中国で発生した飢饉の災難は非常に 深刻なものになった(14)。そして,ソ連との関係悪化からも,中国政府には国際 援助への不信感を植え付け,その後の約20年間,中国政府は「自立更生」と いうスローガンを挙げ続け,全国民に自力で生産を発展させることを呼びかけ

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ていた。

「大躍進」運動で,全国の鉄鋼生産量は大幅に増大し,重工業だけではな く,軽工業も発展した。しかし,これらの発展の動力は生産性向上ではなく,

政治的動員によるみかけの生産性向上であった。「第一汽車」の生産もその影 響を受け,過度にスピードや生産量などを追求し,品質が低下していた。そし て自動車産業をみると,「大躍進」運動の影響で地方工業に力が入れられ,地 方でも自動車修理業,部品製造業及び自動車製造業への参入が相次いだ。例え ば南京での1300 cc小型トラックの試作や山東省での「黄河」8トン大型トラ ックの試作などがあった。これらの地方工場の建設は計画性がなく,中央政府 の資金支援がないため建設が中途半端で中止されたケースもよくあり,巨大な 浪費をもたらしていた。したがって「大躍進」運動は実際に折角回復しつつあ った中国経済をもう一度混乱させたと言えよう。

3. 2 調整期(1961年〜1965年)

1961年から1965年までは中国の調整期である。「大躍進」運動や飢饉の災 難などで混乱した中国経済を救うために,中央政府は1961年1月14日に中国 共産党第八回九中全会を開催し,国民経済発展の「調整・強固・充実・提 高(15)」という方針を発布して,主に人員整理,農業,工業と工業立地,この4 つの側面から新たな調整を行った。まず,人員整理について,中央政府は都市 部の人員制限を行った。1961年から1963年まで,2000万人以上の都市労働者 を削減し,農村に帰らせた。工場労働者の雇用制度に対しても改革を行い,

「固定工」(16)と「契約工・臨時工」と区別する「二種の雇用制度」を導入した。

次に,農業に対する調整について,「大躍進」運動の終焉とともに,農村部に あった多くの小規模製鉄所も次々と閉鎖され,「人民公社」の大食堂もなくさ れた。破壊された農業生産を発展させるために,中国政府は1961年から農業 用地請負制(17)を打ち出して試行し,全国の農村部に導入した。第三に,工業に 対する調整について,1961年8月,中央政府は『工業七十条(18)』を発布し,

計画管理の重要性,「労働に応じた分配」原則,及び工業企業の基本任務など

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を改めて強調し,「大躍進」運動期に発生した生産現場や企業管理制度などの 混乱を一掃した。第四に,工業立地について,1964年,中国政府は有名な

「三線(19)建設」を発動した。1960年頃の中ソ関係悪化と1964年8月に発生し たトンキン湾事件(20)は,中国政府に工業立地を「三線」と言われる中西部の山 地へ分散して建設することを決定させた。「三線建設」はその後の国有企業

「大而全,小而全」(21)という問題の直接的な原因となったが,都市部から多くの 労働者を「三線」地域へ派遣して「大躍進」運動で発生した都市労働力過剰問 題の解決にも役立ち,中国の中西部の開発と経済成長にも貢献した。

また,この時期,中央政府の中においても大きな異動があった。「大躍進」

運動を誤って発動した毛沢東は自分のミスを認め,国家主席を劉少奇に譲るこ とにした。しかし,これはその後の「文化大革命」発生の伏線となった。

この時期,「第一汽車」も中国政府の「調整・強固・充実・提高」方針と

「整理整頓」という指示にしたがって,1961年から3, 4年の長時間をかけて

「大躍進」運動で混乱した工場内部の生産秩序と管理秩序を整理し,現場生産 も徐々に正常な状態に復帰した。1965年と1966年に,「第一汽車」の生産は 設立以来の最も著しい成長率を記録し,中国政府に「全国大慶(22)式先進企業」

と評価された(23)

3. 3 「文化大革命」期とその終焉(1966年〜1978年)

周知のとおり,1966年から1976年の10年間は中国の最も有名な「文化大 革命」期である。社会主義の新中国は成立して60年の模索の歴史の中で,多 くの回り道をしたが,一番長く,苦しい回り道はこの「文化大革命」であっ た。

実際に,「文化大革命」は当時中国社会の様々な矛盾や問題(24)が激化して発 展したものである。当時,劉少奇政権の調整政策は社会安定と経済発展に正し い政策であったが,調整政策で損を被った人々は急に遠くなった共産主義(25)へ の失望と左傾急進主義思想(26)の扇動で,全国各地で「造反」運動に突入した。

そして晩年の毛沢東も他人に指導権を譲渡したことにも不満を持っていた。政

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権を奪おうとしていた「四人組」(27)は毛沢東を利用し,空前の「文化大革命」

を発動した。「階級闘争」が深刻化したため,全国ほとんどの工場の労働者は 機械を運転せず,学校の学生たちも勉強せず,若者たちは「紅衛兵」になって

「階級闘争」に参加し,中国社会は再び混乱に陥った。

1968年,過熱した「紅衛兵運動」を冷却させ,社会を安定させるために,

毛沢東は「学校へ復帰せよ,工場へ復帰せよ」と若者たちに呼びかけたが,教 師が打倒されて学校におらず,工業生産もほぼ停止状態にあったので,多くの 若者の配置は難問となった。同年12月22日,『人民日報』は「知識青年到農 村去,接受貧下中農的再教育,很有必要(知識青年は農村へ行って貧困の農民 たちから再教育を受けることが必要だ)」という毛沢東の指示を発表し,著名 な「上山下郷運動(28)」が始まった。「上山下郷運動」は当時の約十分の一の都 市部人口を農村部に移動させ,経済の麻痺した都市部の就業圧力をある程度低 減できたが,1970年代末に発生した「回城」(29)ラッシュはその時の国有企業の 経営管理に大きな影響を与えた。

この時期の「第一汽車」は「文化大革命」の影響を受け,生産はほぼ停止し ていたが,中国政府の「三線建設」政策に応じて,1965年から1970年代初ま で「第二汽車」(30)工場の建設に主に人員,技術提供と基礎工場建設,この三つ の側面で支援を提供した。①人員の支援について,「第一汽車」は1965年から 1970年にかけて約4200名余の管理者,技術者を「第二汽車」に提供し,工場 の設計と建設に貢献した。②技術提供の支援について,1965年,「第一汽車」

の技術者たちは中国政府から「第二汽車」の製品であった大型ジープとEQ 140 型トラックの開発命令を受けた。③基礎工場建設の援助について,1969年9 月28日「第二汽車」の工場建設が正式に始まり,「第一汽車」は「第二汽車」

のエンジンや,車台,車体,車輪などの生産工場,鋳造工場と組立工場,全部 で13の工場の建設を請け負った。もちろん,当時「第二汽車」の工場建設に 支援を提供したのは「第一汽車」だけではない。「第一汽車」工場建設の時と 同様に,中国政府は全国から約10万人の労働者を「第二汽車」の建設現場へ 配置し,多くの資金と物資を調達した。

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「文化大革命」期,「第一汽車」の生産は低迷しており,生産・管理はほとん ど「無政府」状態に陥った。「文化大革命」開始後の1967年と1968年の生産 量をみると,それぞれは1万5068台と1万6698台となっており,「文化大革 命」前の1965年の3万4155台を大幅に下回った。1975年鄧小平の指示を受 け,生産現場の整理整頓は徐々に展開され,1976年の生産量は5万6200台に 達した(丸山2001 p.38)。

1976年,「文化大革命」は最終的に「四人組」の陰謀の失敗で終わり,中国 経済の生産性は大幅に低下していたが,1977年と1978年の整理整頓を通じ て,「第一汽車」は速やかに生産を回復させ,生産能力も設立当初の3万台か ら6万台へグレードアップできた。1978年4月20日,中共中央は『関於加快 工業発展若干問題的決定(工業の発展をはやめる若干問題についての決定)』(31)

を発表し,企業内党委員会と職工代表大会の職責を明確し,党委員会指導下で の企業長責任分担制(32)という企業内ガバナンスシステムの確立を強調した。こ の『決定』の発表は,「文化大革命」で混乱した中国工業企業を安定させ,中 国経済の更なる発展の準備となった。

4.1979年から2001年までの構造転換調整期

1979年から2001年までの間は,「第一汽車」の「構造転換調整期」であ る。周知のように,1978年12月22日,中国共産党は十一期三中全会で,党 の活動の重心を社会主義的現代化の建設に移すことを決定した(33)。それから,

中国は中国共産党の指導下で,経済の発展,国力の増強と人民生活水準の向上 を目指し,「対内改革」と「対外開放」を行い,改革開放期に入った。

中国の経済体制改革は企業に対する経営自主権を付与することから始まっ た。1978年12月22日の中国共産党の十一期三中全会はそれまでの国有企業 の経営と管理を検討し,「現在我が国の経済管理体制における最も大きな問題 点は過度の権限集中である。国家政府の統一計画と指導を維持しながら,地方 と企業に適切に自主権を付与すべきである」(34)と認識した。1979年5月,首都

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鋼鉄公司,天津自転車廠などの大型国有企業が実験地として選ばれ,企業への 経営自主権付与が実験的に行われた。1979年7月には,国務院によって『国 営工業企業の経営管理自主権の拡大に関する若干の規定』や,『国有企業の利 益留保の実施に関する規定』,『国営工業企業で固定資産税の徴収に関する規 定』など,5つの改革規定が制定され,1980年末頃までに,企業への経営自主 権付与は全国的に拡大試行されるにいたった。1988年4月13日,第7回全国 人民代表大会第1次会議は『中華人民共和国全民所有制工業企業法』を発表 し,企業の権利と義務,工場長(総経理)の権利と義務,及び政府と企業の関 係などについて明確に定めた。そして1992年7月23日,国務院は『全民所有 制工業企業転換経営機制条例(全人民所有制工業企業経営メカニズム転換条 例)』を発表し,企業の経営自主権,損益自己負担などと経営悪化した国有企 業の転業,休業,合併,解散,破産などについて明確に規定し,国有企業が市 場の主体として市場競争へ参加することと「優勝劣敗」を明記した。この2つ の重要な法令の発表は法律上で工業企業の経営管理自主権を規定し,改革を加 速させ,中国経済の成長と発展を大きく促進した。さらに,1990年代末,中 国政府は国有企業の経営について「三年脱困」目標を提出した。それに応じ て,2000年前後までに,ほとんどの国有企業は徹底した改革を行い,多くの 失業者を出したが,従来の「単位社会」を打ち破り,企業の経営状況を一転し た。

自動車工業の発展について,1980年代末から1990年代初頃,中国政府は

「三大三小二微(35)」という乗用車生産に関する産業発展戦略を打ち出した。こ の戦略の発布には,①それまでの中国自動車産業における規模の区々な企業が 乱立する状態を改善すること,②外国の自動車メーカーの攻撃から中国の自動 車産業と自動車メーカーを守ること,この2つの狙いがあった。

4. 1 1980年代初のフルモデル・チェンジ

1980年代初め,経営管理自主権が拡大された「第一汽車」は市場競争に対 応するために,生産史上で初めてのフルモデル・チェンジを実施した。1981

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年5月,「第一汽車」の第6回党員大会で「生産性向上・収益増加を目指し て,資金自己調達でモデル・チェンジを実施しよう」と決定され,1982年8 月に国家経済委員会は「第一汽車」のモデル・チェンジを政府の「第六次五ヵ 年計画」の重点プロジェクトとして認可した。1980年から1983年7月にかけ て,「第一汽車」の技術部門は「長春汽車研究所」と統合し,新しいCA 141 型「解放」トラックの設計,試作と試験を行い,成功を収めた。1983年7月 から3年間で新しい工程と設備の設計,老朽設備の改良を含んだ工場の全面的 な改造と生産準備を完成し,1986年9月29日に旧CA 15型「解放」の生産を 全面的に中止させ,翌年1月1日,新CA 141型「解放」の量産が開始され た。

「第一汽車」はモデル・チェンジと工場改造を行う同時に,製品開発や部品 生産体制など生産管理に対する一連の改革をも実行させた。早くも1978年か ら,「第一汽車」はトヨタ生産方式に対しての認識とそのシステムの自主導入 を行い始め,多くの注目を集めていた(36)

4. 2 1997年改革

本稿の第Ⅱ章の最後で,筆者は「第一汽車」の部品内製率が高く,工場組織 も厖大であったと紹介した。実際にこの状態は1990年代まで続いた。1992年 における「第一汽車」の組織構成は図4−1のようである。

図4−1から分かるように,当時の「第一汽車」は37の直属専門工場を持っ ていただけではなく,「技工学校」や,「汽車工業学校」,「職工大学」,及び

「衛生処(職工病院)」,「福利処」なども抱き込んでいた。さらに,先述したよ うに,1970年代末,大多数の「上山下卿運動」で農村部に移動した「知識青 年」たちが都市部へ「回城」してきたため,国家の労働力統一分配ではカバー し切れず,多くの失業者(当時は「待業青年」と呼ばれた)が都市部に溢れ た。これらの失業者に就業機会を設けるために,1970年代末から「第一汽 車」は企業内に新たな工場(当時は「知青廠」と呼ばれた)や売店などを設置 した。新工場などの設置は中国社会の就業圧力を軽減したが,「第一汽車」の

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組織は益々厖大になり,多くの余剰人員を抱える状態になった。当時の「第一 汽車」は中国の「単位」の典型的な例だと言えよう。

部品生産工場は「第一汽車」の直属工場であるため,「第一汽車」の車種用 部品だけを製造することになり,現有の技術と設備の遊休化を許してしまって いた。この状況を改善するために,1990年代初から,「第一汽車」の直属工場 の独立改革が行なわれた。例えば1992年に,「第一汽車」の直属工場であった

「散熱器廠(ラジェーター)」は「一汽散熱器総公司」へ,1995年に「化油器 廠(キャブレター)」は「一汽化油器有限公司」へ,1996年に「車輪廠」は

「一汽車輪有限公司」へ,「房産処」・「集管処」・「廠管処」・「福利処」・「子教 処」・「衛生処(職工病院)」は「一汽実業総公司」へと分離・独立した。これ らの企業は子会社の形で独立したが,「第一汽車」グループの傘下に置かれ,

業務上では「第一汽車」に依存していた。

1997年4月29日,国務院は『深化大型企業集団試点工作意見』を発布し,

「精干主体,剥離補助」というスローガンを提唱し,国有企業の更なる改革を 呼びかけた。同年9月12日から18日までに開催された中国共産党第十五次全 国代表大会では,「1998年から2000年までの三年間をかけて,多数の国有企

4−1 中国第一汽車集団公司行政組織構成図(1992年)

出所:『中国第一汽車集団公司年鑑』1993年版 p.128

―30 ―

(15)

業を赤字状態から脱出させ,中国の国有経済を復活させる」という国有企業改 革の目標,すなわち著名な「三年脱困」目標が立てられた。政府の政策に応じ るために,「第一汽車」は一連の根本的な改革を行なった。これらの改革は1997 年から始まったため,本稿では「1997年改革」と呼ぶことにする。

「1997年ダイエット改革」の主たる内容は以下の通りである。

①1997年末,4つの鋳造廠と鍛造廠を「第一汽車」の母体から切り離し,鋳 造と鍛造と分別して2つの独立した全資(37)子会社を設立した。

②1998年9月,9つの部品工場(規格部品,ラジェーター,内装部品,車 輪,コラムレバー,キャブレター,ショックアブソーバー,ばね,ポンプ)と 8つの中外合資企業を「第一汽車」の母体から切り離し,「富奥汽車零部件有 限公司(38)」として独立させた。

③補助生産工場と技術補助部門を「第一汽車」の母体から切り離し,全資子 会社として独立させた。

④優勢的部分(優良部門)を洗練して,1996年8月26日に「一汽四環(39)」 を,1997年6月10日に「一汽轎車(40)」を新たに設立し,上場させた。

⑤2002年,会社内で「社会事業管理部」を新たに設置し,「一汽実業総公 司」を子会社として独立させた(41)。技工学校や,汽車工業学校,職工大学など も「第一汽車」から分離させ,社会に移管した(42)

「1997年改革」を終えた「第一汽車」は管理部門18個,生産組立工場8 個,分公司5個,全資子会社30個,資本参加子会社(50% 以上出資)10個,

関連企業270個を持つようになり,「1997年改革」前に比べて53% の部門と30

%の人員を削減した。現在,「第一汽車」の組織は図4−2のようである。

4. 3 1999年改革

「1997年改革」を行っている同時に,「第一汽車」はコストを削減するため に,原材料・部品提供メーカーを再整理・選別するという外注管理改革も行っ た。この改革は1999年から始まったので,本稿では「1999年改革」と呼ぶこ とにする。

―31 ―

(16)

本稿の第Ⅱ章で述べたように,ソ連モデルの完全導入によって「第一汽車」

の部品内製率は非常に高かった。ところが,1990年代初から始まった直属工 場の独立改革や,「1997年改革」などによって,「第一汽車」の厖大な組織体 は徐々にスリムになり,部品の内製率も落ちてきた。「1999年改革」前,「第 一汽車」の外部から調達する原材料と部品は約15000種であり,部品の提供メ ーカーは約3000社に達し,部品調達の年間所要資金は約100億元となってい た。同一部品を何社,何十社からも調達しており,部品の品質レベルもまちま ちであり,原材料・部品の調達管理は混乱していた。

1999年,中国政府の「三年脱困」目標に合わせ,「第一汽車」は原材料・部 品の外注管理改革に踏み出した。改革の主たる内容について,まず①原材料・

部品の調達状況に対して整理を行い,原材料・部品別で調達先の部品メーカー 図4−2 中国第一汽車集団公司組織構成図(2009年)

出所:中国第一汽車集団公司のホームページ「関于集団」。

―32 ―

(17)

を羅列し・集計した。そして,②外注部品を分析し,企業内部の遊休資源で生 産できる部品に対して外注を取りやめることにした。③2000年,「第一汽車」

は「供応処」,「協作処」,「設備処」及び「備件処」を統一して「采購部」を設 置し,企業全体の原材料・部品の外注管理を担当させた。④新しくできた「采 購部」は3000社余の原材料・部品の提供メーカーに対して,品質や,価格,

生産能力などを総合的に評価し,公開入札を行い,評価と入札の結果に基づい て厳しい選別を行った。そして,⑤同一部品の調達はできるだけまとめて集中 的に行い,外注原材料と部品の品質管理問題も解決できた。

「1999年改革」後,「第一汽車」の外注部品は15000種余から6000種まで減 らされ,部品提供メーカーも275社まで絞られ,年間およそ3〜4億元の資金 も節約された。外注原材料,部品の品質も改善された(43)。そして,在庫ゼロを 実現するために,「第一汽車」はトヨタのJust−In−Time生産方式を学び,多く の原材料・部品の提供メーカーに対して「第一汽車周辺で工場・倉庫を建てよ う」とも要請した。現在,1000種余の部品は在庫ゼロに達成しているとい う(44)

5.2002年から現在にいたる『三化』建設期

1978年「改革・開放」政策が実行されてから,中国政府は「政企分離(45)」 や,「抓大放小(大を抓み,小を放つ)(46)」,「株式化改革(47)」,「現代企業制 度(48)」,「三年脱困」など,一連の改革策を打ち出して実行してきた。2000年 代に入ると,大多数の国有工業企業は苦境から脱出でき,中国経済の高度成長 に大きく貢献した。ところが,2001年12月11日,中国はWTOへ正式に加 盟した。これは中国企業にとってまさに大きなリスクを伴うチャンスであっ た。如何に自身を強化して激しい国際競争で生き残るのかは,まさに中国企業 の経営者たちの最緊急課題となってきた。

―33 ―

(18)

5. 1 「三化」目標

2002年,「第一汽車」は「規模百万化,管理数字化,経営国際化」という

「三化」の経営目標を設定し,「三化建設期」に入った。

①「規模百万化」とは,自動車の販売量は100万台に達成することである。

当時,年間販売量が約50万台であった「第一汽車」は国内の巨大な自動車潜 在市場に基づき,年間販売量を100万台に達成するという目標を立てた。実際 にも,「第一汽車」の努力を通じて,2004年の年間販売量は100万台に達成 し,2007年の年間販売量は143.6万台に達した。

②「管理数字化」とは,ITを活用して市場⇔企業経営⇔生産現場,この3 つのセクターを連結させ,周密かつ速やかな情報伝達を通じて意思決定を行 い,市場の変化に対応することである。現在,「第一汽車」は社内ネットワー クを作成し情報の伝達と共有をし,CAD(49)システムや,CAM(50)システムなど を利用して製品設計と生産を行っている。

③「経営国際化」について。先述したように,2001年,中国はWTOに加 盟した。中国の自動車企業は史上最強の危機感を感じていた。中国の自動車メ ーカーは厳しい国際競争で生き残れるかどうかは,一時的に学者たちの最関心 問題として取り上げられ,大いに議論されていた。実際に,すでにおよそ8年 を経過した現在,中国の自動車メーカーはフォルクスワーゲンや,GM,フォ ード,トヨタ自動車などの大手自動車企業と合弁・合資を行い,積極的に国際 化戦略を展開している。

本稿では「第一汽車」の外国自動車メーカー,特にフォルクスワーゲン(51)と トヨタ自動車との交流関係を簡単に見てみたい。

5. 2 「経営国際化」

まず,フォルクスワーゲンとの交流について。

1990年,「第一汽車」とフォルクスワーゲンとの合資会社「一汽−大衆汽車 有限公司」(投資総額234億元,フォルクスワーゲン20%,大衆汽車(中国)

投資有限公司)10%,アウディ10%,中国第一汽車集団公司60%)が長春市

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(19)

に設立され,1991年から正式に生産を開始した。その後,会社規模は速やか に拡大され,現在「一汽−大衆汽車有限公司」は長春と成都との2つの自動車 生産基地を持ち,乗用車生産一廠,二廠,三廠と発動機伝動器廠を有してい る。また,「第一汽車」とフォルクスワーゲンとは合資して他の4社も設立し ており,具体的な出資状況は図5−1のようである。

次に,トヨタ自動車との交流について。

「第一汽車」とトヨタ自動車の接触は,本稿の4. 1でも紹介したように,実 際に1978年から始まっていた。同年,生産管理の水準を高めるために,日本 自動車業界の協力を得て,「第一汽車」の廠長(日本企業の社長に相当)をは じめとする生産,計画,品質,工程,財務,メンテナンス,工具など上級管理 職からなる企業管理学習団約20人は来日し,半年間のトヨタ,日野,三菱,

いずゞ,日産などの自動車メーカーで現地視察と研修を行った。その後,中国 政府はトヨタ自動車に中国進出の要請を出した(52)が,様々な事情によって,両 社が正式に合資して会社を作ったのは12年後の1996年になった。1996年5 月,「第一汽車」とトヨタ自動車が共同出資の「天津一汽豊田発動機有限公 司」は天津市西青区に設立された(総資本金が2.48億ドル,「第一汽車」50

%,トヨタ自動車50%)。同社は1998年7月から正式に生産を開始し,主に Aシリーズ,K 3シリーズ,SZシリーズとZZシリーズのエンジン及び一部

5−1 「第一汽車」とフォルクスワーゲンとの合弁関係

出所:筆者作成,( )内は年。

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(20)

の自動車部品を生産している。2007年4月から発足した第二工場(天津経済 技術開発区)においてはZRシリーズエンジンの生産も開始した。現在,同社 の2つの工場は年間約34万台のエンジンを生産している。それから,「第一汽 車」とトヨタ自動車の交流関係は一気に発展し,1998年11月に「四川一汽豊 田汽車有限公司」,2000年6月に「天津一汽豊田汽車有限公司」,2001年7月 に「豊田汽車(中国)投資有限公司」,2003年9月に「一汽豊田汽車銷售有限 公司」,2004年3月に「一汽豊田(長春)発動機有限公司」と「豊田一汽(天 津)模具有限公司」,2005年7月に「四川一汽豊田汽車有限公司・長春豊越公 司」,多くの企業を設立した(図5−2)。

5. 3 中国の自動車産業新秩序

近年,中国の自動車産業には民営企業の成長(53)や企業間のM&A(54)の実施な どによって,1980年代末から1990年代初頃に形成された「三大三小二微」の 自動車産業秩序は打破された。「第一汽車」は中国の最初の自動車工場であっ たが,現在においてはもう最大手とは評価されない。「東風汽車有限公司」は 日産自動車,ホンダ自動車,そして韓国の現代グループなどと技術提携を行っ ており,上海汽車集団有限公司はフォルクスワーゲンのほか,アメリカのGM

5−2 「第一汽車」とトヨタ自動車との合弁関係

出所:筆者作成。( )内は年。

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や,スウェーデンのボルボなどと,長安汽車集団有限公司はアメリカのフォー ドと協力関係を建てている。さらに,独資という方式でも,多くの外国自動車 メーカーが中国の巨大な自動車市場を狙いながら中国進出を積極的に取り組ん でいる。中国の自動車産業には新たな秩序が形成しつつある。

このような状況の中に,本稿で取り上げた「第一汽車」の将来はどうなるの か。そして形成しつつある中国自動車産業の新秩序はどうなるのか。中国政府 はこれからどのようなマクロコントロール政策を出してくるのか。我々はこれ らの問題関心を持ちながら現実の変化を慎重に観察しなければならない。

6.お わ り に

本稿では1949年中国の建国から現在まで,「第一汽車」の例を取り上げ,そ の発展過程を「建国から1956年までの工場建設期」,「1958年から1978年ま での成長発展期」,「1979年から2001年までの構造転換調整期」及び「2002年 から現在にいたる『三化』建設期」,この4つの時期を分けて,中国社会の現 実を交えながら「第一汽車」と中国国有工業企業の展開を見てきた。「第一汽 車」は中国の一企業にすぎないが,中国初の自動車工場でもあり,国家の発展 戦略に重要な位置を占める大型国有企業でもあるため,その設立と成長・発展 の歴史は中国の国有工業企業の代表例であると考える。

今年10月1日に,中国は建国60周年を迎えた。前半の30年間は計画経済 期であり,後半の30年間は改革開放期である。冷戦という時代背景の下で,

中国政府は計画経済期において当時のソ連の援助を受け,「第一汽車」のよう な大型国有工業企業を設立して行政機関として政府の厳しい中央集権的な計画 管理の中に置き,生産と運営を管理してきた。ところがその後,中ソ関係悪化 やベトナム戦争の爆発などの影響を受け,中国政府は国際支援に対して不信感 を持ち,長い時期にわたって鎖国政策を実施し,安全を考慮して工業立地も内 陸部と山地に重点を移した。

1978年,行き詰った中国は余儀なく「改革・開放」政策を打ち出した。計

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画経済から市場経済への移行で国有企業は民営企業や外資企業と競争しなけれ ばならなくなったが,改革初期から1990年代末までの間,中国政府の「父愛 主義(55)」と傾いた産業政策に恵まれ,多数の大型国有工業企業は競争で絶対的 な優位に立っていた。しかし,1990年代初に冷戦が終結して,2000年代前後 から,グローバリゼーションの進展やIT産業の発展などの影響で世界の経済 環境は大きく変った。中国の国有工業企業は,競争が厳しくなりつつある国内 市場にのみならず,弱肉強食の国際市場と国際競争にも直面しなければならな くなった。厳しい状況を認識した中国政府は「社会主義市場経済」の大旗を揚 げ,失業問題や労使関係悪化問題などの様々な社会問題の深刻化を耐えながら

「三年脱困」の目標を立て,根本的な国有企業改革を行ってきた。改革の進展 によって「単位制度」が崩壊され,国有企業の負担は軽減されたが,「現代企 業制度」の導入で国有企業は経営業績に対して自ら責任を持ち,少しずつ本来 の経済主体になりつつある。ところが改革は一挙に成功するものではなく,

「社会主義市場経済」の建設も簡単にできるものではない。今まで,中国の改 革は遠回りしながら模索してきたが,これからも模索し続けなければならな い。

つまり,中国の国有工業企業の展開過程は非常に複雑であり,国際環境,国 内環境,経済発展状況,そしてイデオロギー,風土習慣,及び改革の難しさと 長期性,等々,様々な側面から総合的に考察しなければならない。同様に,こ れは我々が中国社会改革と中国経済を認識する際に欠けてはいけない視点でも ある。

【付記】

本稿の作成にあたって,同志社大学経済学部の横井和彦先生から懇切なご指導を頂 いた。ここに記して感謝の意を表したい。残された誤りは全て筆者の責任によるもの である。

⑴ 156項目の中に,実際に実施されたのは150項目であった。1950年代末の中ソ関 係悪化まで,「第二汽車製造廠」と「第二トラクター製造廠」の建設場所は未定

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であり,「山西潞安一号立井」と「山西大同白土!立井」は地盤の原因で建設不 可能であった。そして重複統計された2項目もあった。

⑵ 汽車は,自動車のことを指す。「第一汽車」は設立当初の社名「第一汽車製造 廠」の略称である。現在の社名は「第一汽車集団公司」である。

⑶ 「中華人民共和国重工業部」は1949年,国務院の下に設置され,全国の重工業管 理に対して責任を負っていた。1951年から1952年まで,同部の下にはまた「第 一機械工業部」,「第二機械工業部」,「第三機械工業部」と「兵工総局」が設置さ れ,それぞれが自動車,大型機械,武器工業などの管理を担当した。1956年に,

「冶金工業部」,「化学工業部」,「建築材料工業部」と「電機製造工業部」などの 部門が新たに設置され,「重工業部」は廃止された。

⑷ 中国第一汽車集団公司のホームページ「発展歴程」の「全国人民的支援」から抜 粋。

⑸ 「解放」は中国初の国産トラックのブランド名である。毛沢東がこの名を付けた と言われている。

⑺ 自社内には,主要な組立や基幹部品,資材製造のほか,小物部品製造,補助加工

・修理・サービス職場も持っていた。

⑻ 中国が建国してから2000年代の初めまで,中国の人々は彼ら自身が働いている 社会組織や機構(企業,工場,商店,学校,病院,社会団体,行政の機関等々)

のことを「単位」と総称していた。詳しくは拙稿「中国における国有企業改革と 雇用管理の実態−大手国有企業W社での現地調査を通じて−」の第2章を参照 されたい。

⑼ 「やる気を出して,上位を争い,できるだけ多く,速く,良く,無駄なく社会主 義を建設しよう」という意味。

⑽ 1958年5月20日に北京で開催された中国共産党の会議である。

⑾ 例えば「人有多大胆,地有多大産(人は度胸さえあれば,畑はいくらでも産出で きる)」のような考え方である。

⑿ 郷(村)を単位にして結成された組織。「政社合一」といって,経済(生産)面 だけでなく,政治・軍事・教育・保健など行政が一体となっていた。財産は公社 管理委員会・生産大隊・生産隊(生産小隊)の三つの所有に分けられ,農作業が 生産隊ごとに共同で行われたことに大きな特徴があった。

⒀ 農村部住民の食事は「人民公社」の大食堂で無料提供される。

⒁ 今回の飢饉で餓死した人の数について,今日においても大きな食い違いが存在し ており,その範囲は3000万人から5000万人前後までである。

⒂ 高まること。

⒃ 「本工」のことを指す。

⒄ 農業用地が農家に請け負われ,収穫物の一部分を政府に上納し,残った食糧は農

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(24)

家に所有される制度である。この制度の実施は農民たちの労働意欲を大いに引き 出し,農業の成長も著しかったが,その後左傾主義者に「封建主義の復活だ」と 厳しく批判され,1965年頃に全国で廃止されるにいたった。

⒅ 当時の中央書記処の総書記である鄧小平は1961年8月に『国営工業企業管理工 作条例(案)』を作成し,最終的に70の項目を定めたため,この『国営工業企業 管理工作条例』は『工業七十条』とも呼ばれている。全文には全部で10章があ り,それぞれは「計画管理」,「技術管理」,「労働管理」,「賃金,報奨金,生活福 利」,「経済計算と財務管理」,「協業」,「責任制度」,「党委員会指導下での工場長 責任制」,「工会と従業員代表大会」と「党の活動」であった。

⒆ 東南沿海部,新疆及び東北地方は「一線」,安徽省や江西省などの中東部地域は

「二線」,四川省,河北省,山西省,河南省,湖北省,湖南省,広西省,雲南省,

青海省,貴州省,陝西省,甘肅省と寧夏など13の中西部地域は「三線」と呼ば れていた。これらの地域はほとんど貧困の山地であり,交通も生活も不便であっ たが,国家安全が最優先だという考えで,中国政府は1964年から1980年まで国 防,科学技術,重工業などに関する約1000の大型建設項目の立地を「三線」地 域に決定・建設した。「三線建設」も「単位社会」の形成のもう一つの重要な原 因だと考えられる。

⒇ 1964年8月,トンキン湾で北ベトナム軍がアメリカ軍艦艇を攻撃した。これは

「トンキン湾事件」と呼ばれ,ベトナム戦争拡大の発端となった。

「三線」地域の経済基盤はほとんどなかったため,大きい企業も小さい企業も,

ほぼすべての経済・社会機能部門を持っていた。

「大慶」とは中国の最も大きな油田を指す。当時,「大慶油田」は業績が良く,中 国政府に全国の工場の模範だと評価されていた。

「第一汽車集団公司」のホームページ「発展歴程」の「成長発展時期」から抜粋。

矛盾や問題が多くあった。例えば人員整理の調整だけをみると,「二種の雇用制 度」の導入によって「固定工」と「契約工,臨時工」との間に格差が生じ,「契 約工,臨時工」になった人々から不満が噴出した。そして帰農させられた労働者 から多くの不満があった。

「大躍進」運動期,中国の人々は大きく「躍進」したら理想的な共産主義社会に 入れるという強い信念を持っていた。したがってその当時の運動は「大躍進」運 動と呼ばれた。

「修正主義(劉少奇の調整政策──筆者注)は資本主義の復活であり,共産主義 の実現への障害物であり,打倒すべき」,「新中国は社会主義の国であるから,

『物質利益の原則』という『資本主義的なもの』に反対すべき」,「経済の発展,

労働人民の労働積極性を高めるには主に『階級闘争』によるべきで,労働人民の 高度な革命的な『思想覚悟』に依存すべきだ……」(徐!陶他1989)というよう な考え方である。

―40 ―

(25)

文化大革命の四人組は,中国の文化大革命後半において主導的な役割を担った江 青,張春橋,姚文元,王洪文ら4人の政治局員である。共産党と毛沢東を利用し てプロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し,反対派を徹 底的に弾圧したが,毛沢東の死後失脚,特別法廷で死刑や無期懲役などの判決を 受けた。

「上山下郷運動」は「知青下郷運動」とも呼ばれる。「知青」は「知識青年」の略 称である。

「上山下郷運動」で農村部へ移動した知識青年たちの多くは1970年代末に様々な 手段を利用して再び都市部へ復帰した。もちろん,一部の知識青年は農村部に定 着して,農民になった。

湖北省十堰市に位置する「第二汽車製造廠」のことを指す。現在の「東風汽車有 限公司」である。

この『決定』は全部で30項目があるため,『工業30条』とも呼ばれている。

このガバナンスシステムの特徴は主に次の通りである。①企業長は企業内党委員 会の指導を受けながら企業の全般をコントロールし,企業活動を党委員会に報告 する。②副企業長は企業長に従いながら企業の管理部門をコントロールする。③ 技師長が新設された。その地位は副企業長に比べてやや低いが,主に生産現場を 全般的にコントロールし,大きな発言力を持つ。④復活された工会(職工代表大 会)は企業内党委員会の指導を受けながら企業長の管理活動を監督する。そし て,生産現場において,主に労働競合運動を中心して活動を展開する。要する に,副企業長と技師長との役割分担は「党委員会指導下の企業長責任分担制」の 最も大きな特徴であろう。

この党の活動の重心の移転は,それまでの政治中心の運動方針を経済中心に切り 替えたものであり,中国共産党にとっても,中国にとっても,非常に重大な方針 転換であった。

『中国共産党第十一回中央委員会第三次総会公報』を参照。

「三大」は「第一汽車」,「東風汽車」と「上海汽車」であり,「三小」は「天 津」,「北京」と「広州」である。そして「二微」は「長安汽車」と「貴航汽車」

である。これらの企業と地方に対して政府は資金上と政策上から支援を提供す る。

「第一汽車」の製品開発や部品生産体制など生産管理に対する一連の改革とトヨ タ生産方式の導入について,文献の制限と調査の難航で詳しいことは未だに明ら かになっていない。

資本金は全部中国第一汽車集団公司が出資する。

「富奥汽車零部件有限公司」は1998年9月27日に,長春市経済技術開発区で設 立された。設立当初の職工人数は16491人,占有面積70.5万平米,機械設備7633 台,固定資産15.3億元であった。「第一汽車」のほか,北京ジープ,上海サンタ

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(26)

ナへも部品を提供し,2008年1月22日,社名は「富奥汽車零部件股有限公司」

に変えた。

1994年,「第一汽車」の「労働服務公司」は再整理・編成され,「一汽四環企業総 公司」となった。株式コードは600742で,銘柄名は「G四環」である。

株式コードは000800である。

「一汽実業総公司」は1996年に設立されたが,2002年「社会事業管理部」の設置 までに「第一汽車」の社会福祉事業の管理部門としての役割を果していた。

この改革の具体的な実施について,調査の難航で詳しく紹介できないが,多くの 失業者を出すことを伴う改革であったため,非常に困難であったと考えられる。

拙稿「中国における国有企業改革と雇用管理の実態−大手国有企業W社での現 地調査を通じて−」では同時期の大型国有企業W社の改革に関して詳しく紹介 しているので,参照されたい。

数字データは中国第一汽車集団公司のホームページ「発展歴程」の「采購供応方 式的重大改革」から引用。

脚注 に同じ。

1984年10月20日の中国共産党第十二期中央委員会第三次総会で,「企業を相対 的な独立の経済利益実体,即ち自主経営ができ,損益責任も自分で負う法人にす ること」という国有企業改革の新しい目標,すなわち「政企分離」の改革案が設 定された。

1995年9月,中国共産党の第十四期五中全会は,「現代企業制度」の導入におい ては大中型国有企業を重視し,小型国有企業は自由に発展させる,すなわち「大 を抓み,小を放つ」(抓大放小)方針を制定した。

中国最初の株式会社は1984年9月に成立した北京天橋百貨株式会社であった。

その後,株式化改革は急速に発展していたが,1989年「天安門事件」の発生から 1991年までの間に,株式制度が資本主義経済の産物であり,企業の株式化が資本 主義化であるというような批判を受け,中国企業の株式化改革の発展は一時的に 低迷期に入っていた。しかし1992年初の鄧小平の「南巡講話」以降,市場経済 の導入が定着し,国有企業の株式化改革の動きは再び進んだ。

1993年11月,中国共産党第十四期三中全会で,『社会主義市場経済体制を確立す るうえでの若干の問題についての中国共産党中央委員会の決定』が採択され,

「現代企業制度」の確立が国有企業改革の方向であることを初めて公式に表明し た。「現代企業制度」とは,市場経済のルールに従い,「産権明晰,権責明確,政 企分離,科学管理」の企業作りの要求であり,その目的は国有企業を,「経営管 理自主権も持ち,損益も自己負担する本当の市場競争の主体」へ転換することに ある。

コンピュータ支援設計(Computer Aided Design)とも呼ばれ,コンピュータを用 いて設計を行う。

―42 ―

(27)

コンピュータ支援製造(Computer Aided Manufacturing)の略語。製品の製造を行 うために,CADで作成された形状データを入力データとして,加工用のNCプ ログラム作成などの生産準備全般をコンピュータ上で行う為のシステムであり,

出力されたデータは,CNC化された工作機械に送られて実際の加工が行われ る。

フォルクスワーゲンは早くも1984年に上海汽車集団公司と合資して(フォルク スワーゲン40%,大衆汽車(中国)投資有限公司10%,上海汽車集団公司50

%),「上海大衆汽車有限公司」を設立した。

トヨタ自動車は1984年6月7日,中国から同国最大級の自動車工場である「第 一汽車(当時の社名は長春第一汽車製造廠)」でのクラウン級の高級乗用車国産 化と同工場の抜本的改造のための広範な技術協力要請を受けた(『日本経済新 聞』1984年6月8日)。

例えば奇瑞汽車股份有限公司の大きな成長。

例えば2007年12月26日,上海汽車集団有限公司と躍進汽車集団有限公司が合 併し,中国における最も大きな自動車企業が誕生した。

計画経済期からのやり方の影響を受け,中国の国有企業は中国政府の付属物にな っており,中国政府は企業の経営に責任を持ち,赤字になった場合に政府から資 金を投入するようになっていた。これは政府の国有企業に対する「父愛主義」だ と中国で呼ばれている("#玉2005)。実際においても,中国の国有企業が倒産 しないという現実は1990年代の後半までに続いており,このことが1990年代末 の銀行や,国有企業及び中国政府の財政など中国経済全般の危機を招致したと思 われる。

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1.

http : //www.vgc.com.cn/cds/?menu_uid=398(2009/10/15筆者検索)

2.

http : //www.vgc.com.cn/cds/?menu_uid=393(2009/10/15筆者検索)

3.

http : //www.toyota.com.cn/corporate/inchina/independent.html(2009/10/15筆者検索)

4. 5. 6. 7. 8.

9.

http : //www.faw.com.cn/gyjt_index.jsp?page 1=/jtjj/index.jsp&ption=1(2009/10/15 筆者検索)

10.

http : //www.faw.com.cn/gyjt_index.jsp?page 1=/jtjj/index.jsp&ption=1(2009/10/15 筆者検索)

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2009年10月15日受付,11月18日掲載決定

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The Historic Development of the National Industrial Company in China

──Mainly on an example of the FAW Group and the Environment to surround──

Shaojie Dou

It is well-known that under the guidance of Deng Xiaoping’s reform and open- ing up policy, Chinese people has achieved enormous success in economic develop- ment and enterprise reform of state-owned companies after the Cultural Revolution.

China has rapidly developed its manufacturing and is now known as the World Factory . Made in China is seen almost all corners of the world.

However, how did the Chinese national industrial companies establish ? And how did they develop? In the article, the writer introduced the establishment and the development process of the Chinese national industrial companies while assuming an example of the FAW Group, which is the first car factory in China.

From the historic development of the Chinese national industrial companies, we can know that it is very important for us to bring the viewpoint of international envi- ronment, domestic environment, the economic development situation, ideology, cli- mate custom, and difficulty of the reform, etc. when we consider the China society reform or China’s economy.

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参照

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