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近世鷹場制度の終焉過程と維持組織

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(1)

著者 安田 寛子

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 50

ページ 160‑179

発行年 1998‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011269

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江戸周辺及びその外緑地帯は江戸防衛のための重要な地域であったが、錯綜した知行形態にあり、徹底した治安維持を図るには相当な困難があった。そこで近世中期以降、鷹場が江戸周辺に再設定され、さらに再編強化されて広域的治安維持に寄与したと言われている。このため、鷹場は(1)様々な角度から研究がなされてきた。その視点については、主として近世前期の鷹場制度の成立から中後期の再編強化の時期の研究に重点がおかれており、鷹場制度の終焉過程に関する研究はほとんど皆無といっても差し支えないのである。この点からも、近世鷹場制度の終焉期についての研究はきわめて重要であると考え はじめに 法政史学第五十号

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織

る。近世鷹場制度は幕末に至り、江戸周辺地域における政治的・軍事的性格が高まるにしたがい、横浜が開港し、外国人遊歩区域が設定され、国内の疲弊などにより鷹場機能も減退し、さらに軍制改革も急がれるというような状況の中で、やがて存続することが不可能となっていったので(2)ある。しかし鷹場の廃止は突如として行われたわけではない。また廃止によって変化を余儀なくされた者達もいたのである。それでは、近世鷹場制度はどのような過程を経て廃止に至ったのか、その結果、その維持組織はどのような推移を辿ることになったのか。本稿ではこれらの点を明らかにしていきたいと思うのである。

安田寛子

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(1)鷹場差し止め令以前慶応二年(一八六六)十月十五日、「武川橘樹郡。久良岐郡。都筑郡。相州鎌倉郡之内村々之儀。以来御拳場井(3)御鷹餌飼場共。御差止相成候」と、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡の御拳場及び御捉飼場村々に対して鷹場の「差止」が公布された。しかしこの触書が出される以前から、鷹場差し止めの準備は既に進められていた。即ち江戸幕府が対外的危機感の高まりに対して西洋式軍制の採用に踏み切り、大規模な軍制改革を行おうと企図した時からである。軍制改正について記した文久二年(一八六二)六月の(4)「御軍制改革之儀取調申上候書付」によると、「不容易一大事件」であるとして、今回の軍制改正を軍律・戦法のみならず、古来の制度を一新する仕法の大変革が必要であると記してある。また同年十一月の軍制改革の上意でも、その「上意之趣は鎖國之御制度御一愛被遊候上は御軍制も亦(5)御一鍵不被遊候ては難相成」と、強い意気込みを一不している。鷹場を差し止め、またそれを維持した鷹場役職を解体して、新たな軍事制度の下に再編成していくという構想

近世鷹場制度の終焉過腺と維持組織(安田) 鷹場の終焉過程 も、既にこの時からあったのではなかろうか。しかし具体的にその記述が見られるのは、慶応二年(一(6)八六六)に出された「御愛革見込書」においてである。その中の第十六ヶ條目には、譜組与力について、彼らを一旦遊撃隊とし、この中から追々人選し、小筒組役に命ずるとある。第一遊撃隊には高三百俵の者千人、第一|遊撃隊には高一一百俵の者千人、第三遊撃隊には高百五十俵の者千人、第四遊撃隊には高百俵御目見以下の者千人、第五遊撃隊には高五十俵御目見以下⑫百十人との計画があげられているが、その下ヶ札には具体的に旧役職名が割り当てられている。その中で、一一番隊として鷹匠組頭・鳥見組頭、三番隊として鷹匠、四番隊として鳥見の名があげられている。ま(7)た「御達案」によると、鷹匠組頭・鳥見組頭・鷹匠を含む十九の役職の中から「奥詰銃隊御編成相成候に付於講武所手銃手前若年寄見分致し候一と、講武所において若年寄が見分の上、七百人余りを奥詰銃隊として編成することが計画されている。そしてこの選に漏れた者たちについては、どの役職も廃止の上、海軍奉行並支配勤仕並を命じるとあ(8)る。そして「御目見以下銃隊御達案」によると、鳥見を含む十一の役職から「銃隊御編成相成候に付於講武所手銃手前陸軍役々致見分候」と、同じく講武所において見分が行

一一ハー

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われ、御目見以下の役職から銃隊へ編成する案がたてられているのである。このように文久二年(一八六二)六月の軍制改革上申書から出発し、慶応二年(一八六六)に入って具体的な淘汰計画がたてられ、その十二月、鷹場役職の淘汰が実施される。また鷹場役職淘汰の先駆けと思えるのが、文久三年(’八六三)正月の役替えである。近世中期以降、鷹匠頭は戸田・内山両家の世襲となっていた。ところが同年正月十二日、安政三年(一八五六)八月十一日より養父内山善三郎(内山七兵衛)の跡をうけて鷹匠頭を勤めてきた伊三郎(内山七兵衛)が留守居番へ転任。同十六日には、その跡継ぎとして、安政四年(一八五七)四月二十二日より見習いを勤めてきた善三郎も、両御番へ転任を命じられている。以後鷹場制度廃止まで、鷹匠頭は戸田氏のみの専任と(9)なったのである。安政江戸地震の疲弊を理由に、安政期以降、鷹場役人の御捉飼場への派遣は減少し、文久二年二八六二)十一月には、御鷹の鳥の下賜取り止めが公布される。そして将軍御成も、翌三年(一八六三)正月十八日の千住筋御成が最後となった。鷹場制度は廃止に向けて方向づけられていったのである。そして文久三年正月、鷹匠頭 法政史学第五十号

(2)鷹場差し止め令以後鷹場終焉の一連の過程は表1に示したが、以下、順を追って見ていく。前述したように、鷹場差し止めの最初の触書が出されたのは、慶応二年(’八六六)十月十五日のことであるが、この時差し止めが公布された地域を地図(図1)で見てみると、安政六年二八五九)六月の開港以降、治安上の重要拠点となった横浜を起点として、半径五里四方に位置していることがわかる。最初に鷹場が設定されたのは、これも治安上の重要拠点であった江戸から半径五里四方の地域であり、それが徐々にその周辺に拡大されていった。鷹場の差し止めは中心を横浜に変え、それと全く逆の作業を行っていったといえる。まず横浜を中心とする半径五里四方の鷹場が差し止められたのは、横浜周辺の治安維持対策の一環としてであり、神奈川奉行を中心と が減員されたことは、鷹場制度廃止の前段階と位置づけることができよう。こうして慶応二年(一八六六)十二月、鷹場役職は、同様に改革の最後まで淘汰を免れていた番方、徒組、使番、(、)進物番、馬預、馬方などの役職と辻〈に廃止されたのである。 一一ハ一一

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表1鷹場終焉過程

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田)

註番号は『幕末御触書集成」の史料番号。史料とあるのは村上直・根崎光男『鳳場史料の読み 方・調べ方』所収の史料のこと。他は『藤岡屋日記』・『続徳川実紀止『柳営補任」・「川島家文 書」・『南紀徳川史』・「鈴木英男家文書3」による。詳しくは末尾註を参照。

した一元的支配形態を形成していくため(、)の準備と考壹えることができよう。こうした中で最後まで淘汰を免れていた鷹場役職であったが、ついに慶応二年(’八六六)十二月一一十七日、廃止される。それに伴って、鳥見が管理を担当していた御拳場と、その管理のために鳥見が在宅していた七ヶ所の役宅は、追って達しがあるまで代官が引き受けて取り締(皿)まることとなった。また同日、千駄木御用部屋その他すべて、これまで鷹匠頭戸田吾助預かりとなっていたものが、作事奉行堀下野守利(旧)孟へ預け》りれることになった。こうして一旦作事奉行に預けられた御用部屋であったが、翌慶応三年(一八六七)一一月には改めて二人の大名に預けられることになる。次の史料は、その引き渡しの届である。(M)[史料1の1]卯ノー月十七日松平大学頭御届

’一ハ’一一 6826577787477458腺M朗旧”11-22-1122

●●●●●●●①●●●●●●●11022223344688880001-129-11--1111 33223久久応治治文文慶明明

臓匠頭内山伊三郎(内山七兵衛)、留守居番へ蛎任続徳・柳営 内111善三郎、両御番へ岻任続徳・柳営 橘樹郡・久良岐郡・都筑部・鎌倉郡の御拳場・御鷹餌飼場差し止め2043 鳥見廃止により御拳場・七ヶ所役宅当分代官取り締まり2044 T駄木御用部屋その他全て戸田吾助から作事奉行へ預け藤岡 雑司ヶ谷御用WIl屋地所・家作等作事奉行より松平大学頭へ預け藤岡 干駄木御鷹仕込場上地・家作等作事奉行より松平甲斐守へ預け藤岡 百姓家物置などの屋根葺替以後願出不要鈴木

「関八州」村刀威鉄砲、大EI付への証文簡略化4701 尾帳鷹場三ljlIi展延払い後も諸I、途等当分取扱吟味役へ鈴木

|jU来村々御拳場・御鷹捉飼場「薗分御}|]無之」 2045 公儀臓場烏リル盛免(条件付き)、iili」さ・雛札史料 餌烏請負人錐免・村万蝋札回収し焼き捨てのこと2046 A已脹魚島共lii刀差免(条件付き)、迎上・鑑札鈴木 屋I優脳場、家I'12その他諸IiilJ前々の辿りliijilllのこと鈴木 御三家諸大名11i(X場の高反別取調鈴木 尾;腱鷹場の餌差より猟刀継続願か出される111島 御府内近郊での鉄砲打鳥殺生禁止の徹底4702 御三家鷹場「常分御用無之」2047

「関八ノト|」村方威鉄砲、公事方井在方勘定奉行並へ届出4703 享保度高札撤去・代わりに「当分御用無之」・「鶴、白鳥之外の

烏猟差免候」の高札掲示2049 束京近郊御臘場地上返上南紀 御三家御三卿鷹場・御拳場・御捉飼場にて高外地の場所取調鈴木 村預の鷹場関係鑑札差し出しの事鈴木

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法政史学第五十号

口上覚雑司ヶ谷御鷹部屋上地、私江当分御預之旨、御作事

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都筑郡 僑樹郡;

都筑郡 都筑 都筑郡ペソ時-

六郷

横浜港

相模 久良岐郡

鎌倉郡

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浦賀水道 奉行堀下野守ら家来之者江御達有之、今日、右地所七千八百五拾八坪余、右地所之内、御座所詰詰所向壱棟・御鷹部屋八棟・鳥部屋・物置等四棟、弁組屋敷内御犬役所□棟・御犬部屋四ヶ所引渡相渡申侯、依之御届申達候、以上。二月十七日松平大□□

~、、jjHj[史料1の2]

同日郡山御届一千駄木御鷹部屋上ゲ地・家作共、当分甲斐守江御預被仰付候旨、去ル八日、於御普請方御役所、堀下野守

鯰繊Ⅶ柵鴎叶議》露洲

御届申上候、以上。松平甲斐守内二月十九日吉田良之進これらによるとまず二月十七日、雑司ヶ谷御用部屋の地所七千八百五十八坪図余と、その地所内の御座所詰詰所向壱棟・御鷹部屋八棟・鳥部屋・物置など四

ノ、

(7)

棟、そして組屋敷内の御犬役所・御犬部屋四ヶ所が作事奉行から松平大学頭に預けられた。松平大学頭とは水戸家支流の磐城国守山藩主、松平頼升のことである。そして翌十八日には、千駄木御鷹部屋の地所、これは広さにして五千(旧)五百七十八坪余りであるが、その地所内に建て壱われた家作と共に、これが作事奉行から大和国郡山藩主松平甲斐守保申に預けられたのである。慶応二年(’八六六)十月の触書では、四郡のみの鷹塲差し止めしか公布されていないが、鷹場役職は廃止され、御鷹御用部屋の処分も済み、実質的には、既に関東におけるすべての鷹場を差し止めることが決していたといえる。しかし翌三年(一八六七)四月二十七日、「関東村々御拳(旧)場、御鷹捉飼場仕へ当分御用無之候」と、関東全域の御拳場・御捉飼場に対して、改めて鷹場差し止めが公布された。徳川家康の関東入国以来、元禄期の一時的廃止を除いて、長い間江戸周辺地域に広く設定されてきた鷹場であったが、ここに「当分御用無之」として差し止められることになったのである。これに伴って、同年六月四日、「村々鳥猟差免改而鑑札(Ⅳ)相渡候」と、新規に鳥猟を行いたい者は、運上金を納めて鑑札を受ければ許可されることになった。ただしこの時、

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田) 無条件に鳥猟が許可されたわけではなく、次のような条件が付されていた。①鶴・白鳥の殺生は、従来通り禁止。②武家方といえども、放鷹・飛道具での殺生は禁止。③鳥猟の鳥類はすべて日本橋水鳥改所へ送り、同改所の議定の通りに取り計らうこと。水鳥は羽印を受けた後に売買すること。④御留川・以前から禁断の場所での鳥猟は禁止。⑤毎年三月、前年の鳥猟の羽数を報告すること。つまり、これまでも儀礼上の特別な鳥であった鶴や白鳥を捕る権利、放鷹権、鉄砲による狩猟権は、なお幕府の手に握られていた。また殺生禁断の場所も残され、捕獲した鳥についても幕府の管理下に置かれていたのである。鳥猟解禁に関しては、尾張家鷹場でも慶応三年二八六(肥)七)八月、先の幕府法令を踏ま》え、さらに尾張家鷹場における具体的な内容を含んだ触書が出されている。それには猟場の指定などの条件をつけた上で、運上と引き替えに鑑札を発行し、魚鳥猟を許可するというものであった。しかしこの条件付き解禁令を完全な解錘工面と解釈して、禁を犯す者もあったようで、同年十月十四日、改めて鶴・白鳥(旧)猟、鉄砲猟の厳禁が命じられたのである。ところで、この鳥猟の条件つき解禁がなされるまでは、鷹場において鳥猟が行えるのは、鑑札を受けて鷹の餌とな

ノ、

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る鳥を捕ることを許された、御鷹餌鳥請負人とか御一展餌差などと呼ばれる者たちだけであった。彼らは享保七年(一七一三)十月に御用餌差が廃止されて以降、鑑札を受けてこの御用を勤めてきたのであるが、廃止が決定し、焼印札も回収され、それに伴い、慶応三年八月五日、村に預けら(別)れた判鑑の回収、焼き捨てが命じ一われた。しかし鷹場での御用が無くなり、また新たに鳥猟差免の鑑札が発行されるということは、これまで鳥猟によって生計をたててきた餌鳥請負人にとっては死活問題である。そこで従来通り、自分たちに鳥猟を許可してほしいと願い出る動きもあった。(Ⅲ)[史料2]乍恐以書附奉願上候、|御一屋餌差右之者共一同奉申上候、私共年来御鷹場餌鳥御用被仰付、是迄無滞相勤来難有仕合奉存候、然ル所今般御鷹被遊御廃候付当御鷹場内魚鳥共猟方望之もの有之候ハ、御運上入札二仕可奉申上候旨御触出し之趣奉承知候、右ハ御法替無是非奉存候へ共、私共年来御役義奉蒙居、今更余人江被仰付候而ハ|同当惑至極二奉存候間、何卒今般御触之趣深相弁、左之通り御冥加金奉上納候問、猟方是迄之通り一同江被仰付被成下置候様奉歎願候 法政史学第五十号

一金百両鳫猟一金五十両雄子猟一金三十両はとすごめ〆金百八十両右之通奉上納御役義是迄之通り被成下置候ハ、、以(厚誼)御公儀を一同難有仕合奉存候、此段只管御歎願奉申上候、以上慶応三卯十月御鷹場内惣連印御吟味御役人衆中様これは尾張家鷹場の餌鳥請負人たちが、従来通りの鳥猟許可を願い出たものである。長年鳥猟で生計をたててきた者たちにとって、鷹場の差し止めは一大事だったのである。なお願いの差し出し先が、鷹場差し止め後にも関わらず従来通りの吟味役となっているのは、これに先だつ四月七日、鷹場三陣家建払後も「当分於御案内方御預村々是迄(〃)通取扱吟味役江相達候」と公布されたことによる。また御鷹場御預御案内として働いていた榎戸源蔵は、鷹場に関する件では、明治三年二八七○)時点でも「御鷹場御預御 ’一ハーハ

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(幻)案内」という一肩書きを使っている。家作制限に関しても変化が見られる。慶応三年(一八六七)三月、代官役所から「御普請方掛場村々百姓家物置等屋根葺替之義是迄願之上修覆いたし候処追而御鷹場御飼付御用御達有之候迄者葺替一一限願出候二不及候其余之義者是(別)迄通相心得」と、以後、屋根葺替に関して届け山山る必要がない旨の触書が出された。しかしこれについては、尾張家からは八月八日、「御場内御仕法替被仰出候共諸願達向者前々之通急度可為差出旨厳敷被仰付候処心取違之村方も有(お)之哉家作其外不願出向4℃有之哉二相間不埒」であると、家作その他の諸願についての届け出を厳命している。三月の代官役所の触書では、屋根葺替に関しては届出不要としているのに、尾張家鷹場ではこれを否定しているわけで、尾張家は幕府とは別に独自のより厳しい家作制限を加えていたことになる。ところで、この時点では関東の御拳場と御捉飼場に差し止めが公布されただけであった。しかし尾張家鷹場においても、以上見たように、既に鷹場差し止めに伴っての動きが見られ、尾張家鷹場においても鷹場廃止との認識があったと思われる。ただし、実際に御三家鷹場について差し止(加)めが公布されたのは、慶応一二年十月のことであった。

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田) また御三家鷹場については、慶応一一一年八月に次のような取調がなされている。(”)[史料3]其村々御三家方井諸大名鷹場有之分者壱村不残鷹場欺又者何程之場所鷹場相成居候哉高反別等巨細取調来ル九月四日迄無相違書付可差出候(中略)卯八月晦日出松本忠四郎役所九月二日夜着村々に対して、御三家・諸大名鷹場の有無と、その高反別などの調査報告が命じられている。これは今回の鷹場差し止めに伴って、御三家・諸大名に貸与してある鷹場を返上させるための準備調査かと思われる。しかし実際には倒幕による時間的制約のためか、江戸幕府に対する鷹場返上は行われていない。これについては後述する。次に鷹場差し止めが鉄砲規制に与えた影響について見てみることにする。第一回目の鷹場差し止め令の翌年、慶応一一一年三月二十四日、次のような触書が出されている。(配)[史料4]慶応三卯年一一一月廿四日関八州之内一一領分、知行有之面々、猪、鹿為威、百姓

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共江四季打又ハニ季打鉄砲年々貸渡候儀ハ、其都度々々掛り大目付江証文差出、打止取上候節ハ、猶又取上書付井畜類打留有無書付等差出来候処、以来ハ新規貸渡候節而已、掛り大目付江承合候上証文差出、年々貸渡井取上候節共、相替儀無之候ハマ別段不及届、畜類打留有無之儀ハ、領主、地頭一一而承置、相替儀有之節ハ、是迄之通相届候様可被致候(後略)つまりこれまでは、①貸し渡しの都度、証文②打ち留め、取り上げの節に「取上書付」・「畜類打留有無書付」などを、掛り大目付へ差し出さなければならなかった。ところが証文については、以後は内容に変更がない限り、新規貸し出し時にのみ差し出すだけでよくなったのである。また、「畜類打留有無」については、領主・地頭が聞き置くようにすればよくなり、内容に変更がある時だけ、従来通りの届け出を行えばよいということになる。取り上げの際の書付も同様に、内容に変更がある時だけでよくなった。これにより、鉄砲貸し出しにおける手続きがずいぶん緩和されたのである。なお威鉄砲の届け出については、同年十一月十五日、再度変化している。 法政史学第五十号一六八

(羽)[史料5]慶応三卯年十一月覚関八州おいて領分、知行所へ威鉄砲等貸渡候節は、其場所に応じ、先公事方井在方掛御勘定奉行並之内へ申立候様可被致候、尤、御勘定奉行並木村飛騨守支配国万石以下知行所之分、御料所同様取計候儀に付、村々より直に同人方へ為申出候儀と可被心得候(後略)つまり威鉄砲の貸し出しに際しては、まず公事方並びに在方掛勘定奉行並に対して届け出るようにということになる。ただし、木村飛騨守支配国の中で万石以下の知行所については、御料所同様に村々から直接に木村飛騨守方へ届け出るようにということになった。木村飛騨守勝教は慶応元年(’八六五)十二月以来、上州岩鼻陣屋において、関東郡代として上野国及び武蔵国の(卯)うち六郡を支配し、そこでの公事出入を取り捌き、万石以下知行取の分、取箇筋、百姓家相続などの他は、一般御料所に準じて取扱を行ってきた。ただし関東郡代の役名は慶応三年一一月五日に廃止され、木村は同年一月一一六日以降、「在方掛勘定奉行並」として同役を勤めている。そして慶応三年(一八六七)十月十一一日には、以上の支配に加え

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て、下野国、武蔵国のうち四郡、埼玉郡のうち行田町・町場村・加須町取締組合村々も支配のうちに加えられ、新たに町場村に陣屋を建てて、そこに在陣することが関連村々(別)に公布された。そこでこれを機に、万石以下の知行所の威鉄砲について御料所同様にすることで、万石以下知行取りの者の負担を軽減すると共に、事務の簡素化をはかったということであろう。このように、幕末の鷹場差し止め及び支配の変化が、村方の鉄砲規制の上にも変化をもたらしたのである。また高札に関して、慶応三年十一月、次のような触書が出されている。(兜)[史料6]慶応三卯年十一月廿三日(一)在々一而、若鉄砲打候もの有之候ハマ申出くし、井御留場之内――て鳥を取申もの捕候歎、見出し候ハミ早々可申出旨之高札、井鷹番之儀自今相止申候、然ル上へ村中のもの、弥々常々無油断心をつけ、うたがハしきもの有之(、急度可相改之、若此以後鳥を取候もの有之時、不相改候ハマ、其村之名主ハいふ一一およ(ず、村中之者共迄越度たルベき旨之高札共、享保年

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田) 中村々江相渡置候処、先般御拳場、御鷹捉飼場とも、当分御用無之旨被仰出、鶴、白鳥之外鳥猟差免候一一付、享保度之高札被除候跡江、掛け置候様可被致候(後略)これによると鉄砲禁止・鳥猟禁止・鷹番廃止後の監視などを公布した、享保期の高札が撤去され、代わりに先に公布された、「御拳場、御鷹捉飼場とも、当分御用無之」と、「鶴、白鳥之外鳥猟差免候」という内容の高札が掲げられることになったのである。文久三年(一八六一一一)の鷹匠頭、内山氏の転任によって、既にその準備段階に入っていたといえる鷹場の終焉であるが、慶応二年(一八六六)十月に、まず関東の四郡について「当分御用無之」と鷹場差し止めが公布されることで、実質的な終焉過程に入ったといえる。その後、鷹場役人の淘汰、御鷹部屋などの敷地の処分、家作・鉄砲に関する規制緩和、鳥猟の条件つき解禁に伴う新たな鑑札制度、旧鑑札の処分などが行われた。鷹場差し止めについては、慶応三年二八六七)四月に関東村々全域の御拳場・御捉飼場、十月には御三家鷹場についても差し止めであることが確認された。また慶応三年八月には、御三家・諸大名鷹場の有無と高反別の取調が行われ、鷹場返上の準備がなさ

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れたものと思われる。そして享保期の高札撤去と、新たな高札掲示が行われた。徳川幕府における鷹場の終焉過程は、以上をもって終了したのである。ただしここには、鷹場廃止に伴うはずの鷹場返上という項目が欠落している。しかし前述のごとく、八月の調査はその準備と思われ、鷹場返上は鷹場廃止に伴う一連の計画上にのぼっていたと考えられる。それにもかかわらず、鷹場返上が実行されなかったのは江戸幕府が倒幕という不測の事態に陥ったため、時間不足で成し得なかったと考えるのが妥当なところであろう。そこで鷹場返上は、江戸幕府に代わって明治政府が実行に移している。次の史料は、『南紀徳川史』の鷹場差し止め及び返上に関する記述である。(羽)[史料7]|明治二已年十一月東京近在御鷹場楴示杭取佛地返上左之通被仰出和歌山藩兼て繪圖面相添申立有之候東京近在鷹場之儀梼示杭等早々取排地所返上之儀可相届候事已十一月民部省右租税掛り桑山圭助より相渡 法政史学第五十号

按に是より先き慶應三卯年十月廿八日幕府より左之通御同家稲葉美濃守より左之書付被渡尾水御両家へも同様に被仰出たり然れ共當分御放鷹等御差止迄にて御場還納はなかりしならん閣長稲葉美濃守より渡紀伊殿御城附へ関東村々御拳場御鷹捉飼場共當分御用無之旨先達而被仰出候に付ては関内に有之候紀伊殿御鷹場之儀同様不相成候而は不都合に付當分御差止可被成候尤御場所鳥猟取締之儀は支配御代官にて相心得候筈に候此段可申越候これによると、旧幕府への鷹場返上はなく、明治二年二八六九)十一月に至ってついに新政府により鷹場返上の命が下ったということである。明治政府は、この他にも旧幕府の鷹場に関する後始末を行っている。明治三年(’八七○)二月、明治政府は村々に次のような取調を命じた。(狐)[史料8]旧幕中三家三卿之鷹場一一而高外空地之場所二付無共取調書面越以来ル十一日迄無相違可申立候此状刻付順達 ’七○

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留り村占可相通者也二月五日品川県組々御用取扱所全紙之通り御布告二付写を以御達し申上候就而者三家三卿鷹場高外空地之場所有之候御村々御取調書面(虫損)被成来ル十日迄二無相違御遣し可被候且無之御村方ハ下ヶ札ヲ以御廻し可被成候且又御拳御抱飼場之御村方一一而(虫損)右様之箇所有之候ハハ同様十日迄一一御申越可被成候(中略)午二月六日下小金井村御用取扱所旧幕府時代に御拳場・御捉飼場であった場所、御三家・御三卿の鷹場であった場所で、高外空地の場所の有無を取り調べている。また同年九月には、「其村々御預有之候御(閲)(一戸)鷹場御鑑札」について、御鷹場御預御案内の榎道源蔵より、餌差・鶴御用・その他諸鳥飼い主、水車主、油絞主、その他村々において鷹場に関する鑑札を所持する者すべてに対して、鑑札の回収が命じられている。旧幕府時代に残された鷹場終焉の最後の過程、鷹場返上と未回収の鑑札回収は、明治政府によって実施されたのである。

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田) 江戸幕府の鷹場制度は、以上のような過程を経て終わりの時を迎えたのである。しかしながら幕府はあくまでも、|時的な廃止しか望んでいなかったのではないだろうか。元禄期に鷹場は一時廃止されているが、享保期には再編・強化されて復活している。幕末期の政府にも、いずれは享保期のように鷹場制度を復活させたいという意図があったのではないかと思われるのである。まず鷹場の廃止に際しては、「当分御用無之」とか「当分御差止」というような文言が見え、永続的・完全な廃止を考慮していたようには受け取れないこと。また家作制限も残され、鶴や白鳥の禁猟、鉄砲による鳥猟の禁止、放鷹の禁止、禁猟区の存続、そして鳥猟の一部が解禁されたとはいえ、新たな鑑札制度が打ち立てられていること。つまり鳥の保護政策は存続し、狩猟権・放鷹権もあくまで幕府の手中に残されているのである。こうして見てくると、幕府はやむなく鷹場を「差止」にはしたものの、いずれは再開・再編することを念頭に置いていたのではないかと考えられるのである。

新たな軍事組織が建設され、鷹場役職も淘汰されたが、その人員がどのような形で新軍事組織に編入されていった 二鷹場の終焉と鷹場役人

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か、すべてを正確に知ることは困難である。指揮官級の者については『柳営補任』や『続徳川実紀』から知ることができる。しかし、これが一般の兵卒となると非常に困難である。これについては宮崎ふみ子氏が、文久二年二八六二)六月の上申書及び慶応二年(’八六六)八月の諸局淘(沁)汰の記録に基叡ついて考察した論考がある。しかし番方など旧軍事組織の淘汰に焦点があてられているため、鷹場役職については検討されていない。また「御愛革見込書」・「御達案」「御目見以下銃隊御達案」に、鷹場役人の新軍事組織への編入計画がたてられていたことは前述したが、実際にはどうであったかを知ることはできない。そこで僅かではあるが、鷹場差し止め以後の史料から、鷹場役人のその後の経過をみることにしたい。慶応二年十月二十九日、『続徳川実紀』に次の様な記述がある。(Ⅳ)[史料9](前略)御鷹匠組頭御材木石奉行濱御殿奉行小石川御薬園奉行駒場御薬園奉行 法政史学第五十号

御畳奉行小十人組頭御鷹匠御鳥見組頭(中略)右ハ此度諸向銃隊御編制相成候二付てハ。右之内より役々御撰挙之為。於講武所。若年寄。陸軍奉行吟味致し候筈二候問。願之者名前取調。早々可被申聞候事。(中略)御鳥見御徒組頭(中略)右ハ此度諸向銃隊御編制相成候二付而ハ。右之内より役々御選挙之為。近々於講武所。陸軍奉行並其外吟味致し候筈ニ付。名所取調可被申聞候事。これによると、鷹匠組頭・鷹匠・鳥見組頭・鳥見を含む様々な役職に対して、銃隊を編成するための選挙を行うから希望者の名前を書き出すようにと命じている。ここで対象とされている役職は、前述した「御達案」及び「御目見以下銃隊御達案」より多くなっている。この選挙の結果なのであろうか、慶応二年十一一月一一十八日に銃隊として二百

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七十七人が任じられている。その中に、御目見持格鳥見七(犯)人が〈己まれている。またその前日の二十七日、次のことが鷹匠頭戸田五肋に達せられている。(羽)[史料皿]戸田五助江御鷹匠同心四十壱人御犬牽四人御部屋番四人撤兵申付、一一一十俵二人扶持より内之者、勤番並之通、御足高・御足扶持被下之。御鷹匠同心見習拾六人御犬牽見習壱人撤兵勤方申付、何も勤候内、並之通御手当金被下、御鷹匠同心見習・御鷹匠犬牽見習ハ差免候。十二月廿七日

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田) 即ち鷹匠同心四十一人・犬牽四人・部屋番四人が撤兵に、鷹匠同心見習十六人・犬牽見習一人が撤兵勤方に編入されることになったのである。撤兵は慶応二年九月二十日、もと御持小筒組から改称されたものである。この時同時に、御持小筒組之頭は撤兵頭(Ⅲ)となり、翌年十月二十四日には撤兵奉行並を新設し、これに西丸留守居格陸軍所修行人教授方頭取松平石見守乗原が任ぜ、われている。その下役としては撤兵頭・同並・撤兵指図役頭取などがあり、上役となる撤兵奉行の設置は慶応四年(明治元年・一八六八)正月二十八日のことで、騎兵頭次席開成所頭取倉橋但馬守育之助が任ぜられているが、同(伽)年四月には廃止されている。任務は大砲隊、火薬輸送車、糧秣車などの守護にあたるといったものであった。以上の史料から、鷹場役職淘汰にあたって、関係役人の大半が撤兵及び銃隊に編入されたことがわかる。ただ数的にも部隊全体に影響力を持つものとは思われず、また旧役職で培われた能力を生かすといった役割を求められたとも考えられない。他の淘汰された役職についてもいえることであるが、とにかく新たな軍隊を建設し、その人数確保のために淘汰した役職から家禄に合わせて編入作業を行ったものと思われる。その作業の中で老齢・病弱な者は切り捨

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てられ、壮年の身体堅固な者が新たな職場を確保できたのである。その上、新軍事組織は身分・格式にとらわれない能力重視の階級制度を持つものであったから、その中に身を置くことは、身体堅固で勤勉で能力のある者にとっては、大きな可能性をいだくことができたのである。しかし逆の場合、これまでは家格などといった本人の能力とは全く関係のないところで職を確保してきた者にとっては、厳しいものとなったということができよう。

幕府の中間支配機構として位置づけられる組合村につい(妃)ては、多くの先行研究があり、改めて述べるまでもないが、ここでは上部維持組織たる鷹場役職に対して、下部維持組織といえる鷹場組合について概観したい。鷹場組合は、本来上からの設立契機を持つものであったが、幕府側の鷹場維持組織が解体されたのとは全く逆の運命をたどっている。幕末期に重要な役割を果たした見張番屋体制や農兵は、改革組合村を単位に設置されているが、この改革組合村の枠組みには、鷹場組合など様々な契機で結びついた組合村の枠組みが生かされている。たとえば、相模国下鶴間組御鷹御用組合の村々は、改革組合村の戸 三鷹場の終焉と鷹場組合 法政史学第五十号

塚・深谷・磯部の各組に、ほぼ三つに分割されて組織され(⑱)ている(表2)。甲州道中日野宿への助郷組合村々は、改(似)革組合村とほぼ一致するという。また、幕末期の政治的・軍事的緊張の高まりの中で、鷹場触次役を通じた軍事的な(婚)賦課もなされている。鷹場組合を初めとする組合村は、幕末期さらに強化され、その存在意義を高めていったのである。さらに近代初頭の「大区小区制」は、幕府時代の中間支配機構を基礎に形成されることが多かった。前述の下鶴間組も、三つの改革組合村に分割された後、「大区小区制」下ではさらにその枠組みの中で、第十七大区・第十九大区(㈹)・第二十大区の一一一区に組織されている(表2)。組合村は、近代初頭の支配にも重要な役割を果たしたのである。一方、鷹場触次役など組合村の惣代を勤めた豪農層は、見張番屋体制下、また廃止後も治安維持の中心的役割を担(仰)い、農兵を指揮し、文化・教養面にも力を発揮した。そして近代初頭の「大区小区制」下で、戸長・区長へと転換していった者は、徐々にその惣代的性格を払拭しながら、やがて下級官僚として位置づけられていった。このように近世鷹場制度は一応の終焉を迎えたものの、上部維持組織である鷹場役職の解体とは裏腹に、下部維持 一七四

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表2観間組御鷹御用組合寄場大区小区現在寄場大区ハ現在

大和市藤沢市

藤沢市海老名市 ■■■■匡湘1(

国王lR1gIMF雇遡e箪醜項HliWミ戦僖襄襲(倒田)l-p胴 郡村寄場大区小区現在群村寄場大区小区現在

間間 谷沢泉田和後川和田柳見鶴鶴 瀬宮和飯下長蓼上福草深下上

郡郡 倉座 鎌高

保谷谷 橋内 谷岡園尾池分久大大川田郷沢河 深吉小寺望国杉上下早用本門中

吉向

戸塚

深谷 17192019

横浜市大和市藤沢市綾瀬市大和市相模原市綾瀬市海老名市綾瀬市藤沢市海老名市

口郷田泉泉谷 河里家野原之新今今ヶ 上今社中河上中上下柏 高座郡上矢部矢部新田淵野辺鵜野森大島上九沢下九沢当麻田名上溝下溝新戸磯部新田宿四シ谷入谷座間 磯部 2020 相模原市座間市

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以上、近世鷹場制度の終焉期に視点をおき、その終焉過程と維持組織のその後の推移を考察してみた。本稿の論旨を整理してみると次のようになる。まず文久二年(’八六二)の「御軍制御改革之儀取調申上候書付」及び軍制改革の上意によって、徹底的な制度の改革が表明され、翌三年には、鷹匠頭の内山氏が転任し、以後鷹匠頭は戸田氏のみの専任とされた。そして慶応二年(一八六六)十二月、最初の鷹場差し止め令が出され、以後、鷹場解体が一気に進行していった。鷹塲差し止めはまず横浜周辺半径約五里四方に広がる四郡、次に関東全域の御拳場及び御捉飼場、そして御三家鷹場にそれぞれ公布された。また御用部屋その他の上知、村方鉄砲規制、家作制限の緩和、鷹場内鳥猟の新鑑札制度発足、御鷹餌鳥請負人鑑札の回収廃棄、御三家及び諸大名鷹場の有無と高反別取調、鷹場に関する享保期高札の撤去と新高札掲示、と段階的に進められていった。しかし一連の鷹場終焉過程のうち、幕府への鷹場返上は、時間的制約のためか行われな 組織である鷹場組合は、その形を変えながらも近代へと継承されていったのである。

おわりに 法政史学第五十号

かつた。その準備作業と思われる、御三家及び諸大名鷹場の有無と高反別取調は実施されたが、鷹場返上は明治になってから、新政府に対してなされたのである。また、村方に残された鷹場に関する諸鑑札の回収命令も、明治政府によって出されたのである。なお鷹場制度差し止めは、その維持組織にも新たな道を用意することになった。まず役職を追われることになった役人たちについて、御目見持格鳥見七人が銃隊に編入されたこと、鷹匠同心四十一人・犬牽四人・部屋番四人が撤兵に、鷹匠同心見習十六人・犬牽見習一人が撤兵勤方に編入されたことがわかる。その他については確かなことは明らかでないが、同時期に解体された他の組織同様、壮年で身体堅固な者が新たに建設された軍事組織へ包摂されていったと思われる。しかし、近世鷹場制度を支えたもう一つの維持組織である鷹場組合は、他の様々な契機を持つ組合村と同様、その枠組みが改革組合村の枠組みにも生かされており、幕末期ますます必要性を増していった。組合村は幕末期に重要な役割を担い、さらに近代初頭の「大区小区制」へ継承されるなど、上部維持組織である鷹場役職の解体とは裏腹に、近世から近代への移行の中で重要な意味を持ったのである。 ’七六

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だが一方で、鷹場の廃止は「当分御用無之」とか「当分御差止」というような文言で公布されており、また鳥の保護政策・幕府による狩猟権・放鷹権の掌握も相変わらず存続している。このことから、幕府は倒幕によって実現不可能とはなったものの、いずれ鷹場を再開・再編することを念頭に置いていたのではないかと考えられるのである。幕府は動乱の幕末期において、新軍事組織を創設し、鷹場制度を始めとする旧組織を解体した。対外的、対内的危機への対処であったが、この中で江戸の治安維持については、幕府はどのように考え、対処していったのか、さらに今後の研究課題としていきたい。

(1)根崎光男「寛政期における厩場制度の展開過程」(『法政史論』五)、大石学「享保期における鷹場制度の再編・強化とその意義」(『史海』二一一一・二四合併号)・『享保改革の地域政策』・「近世後期~幕末維新期における江戸周辺の地域編成l厩場・「領」制度を中心にl」(『近世の地域編成と国家」一九~六五頁)、岩田浩太郎「関東郡代と『領」l江戸周辺の地域編成の特質l」(『関東近世史研究』’六)、大友一雄「厩をめぐる贈答儀礼の構造(「国史学』一四八)、斉藤司「近世前期、関東における鷹場編

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田) 成」(『関東近世史研究』三二)・「近世前期における五畿内近国の鷹場編成」(『近世の地域編成と国家』八九~二六頁)など。他に村上直・根崎光男『鷹場史料の読み方・調べ方』等がある。(2)筆者は拙稿「近世鷹場制度の終焉l幕末軍制改革および諸改革の中でl」(『法政大学大学院紀要」三九)の中で、近世鷹場制度廃止の理由について考察している。(3)『続徳川実紀』第五扁、『幕末御触書集成』第三巻二○四三、『藤岡屋日記』第十四巻(4)『陸軍歴史』巻二十、軍制改正、上(『海舟全集』’二九頁)(5)右に同じ。一三六頁(6)右に同じ。一四九~’五二頁(7)右に同じ。一五三~一五四頁(8)右に同じ。一五四~一五五頁(9)『続徳川実紀』第四扁、『柳営補任』四(巻之十六)(皿)『陸軍歴史」巻二十一、軍制改正、中(『海舟全集』一八五~一八六頁)(、)註(2)拙稿。(血)『幕末御触書集成』第一一一巻一一○四四、「慶応三年御用留」(『小金井市誌編纂資料第十九編』鈴木英男家文書三)(旧).(M).(旧)『藤岡屋日記』第十四巻(旧)『幕末御触書集成』第三巻二○四五、『続徳川実紀』第五(Ⅳ)「鳥猟証文之事」(村上直・根崎光男『鷹場史料の読み

一七七

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方・調べ方』七八~八○頁)(旧)「慶応三年御用留」(『小金井市誌編纂資料第十九編』鈴木英男家文書三)(旧)「幕末御触書集成』第五巻四七○二、『続徳川実紀』第五(別)『幕末御触書集成』第三巻二○四六、『続徳川実紀」第五(Ⅲ)「川島清家支配一」(『国分寺市史料集』ご(肥)註(旧)に同じ。(羽)「明治三年御用留」(『小金井市誌編纂資料第十九編』鈴木英男家文書三)(別)。(閲)註(旧)に同じ。(船)『幕末御触書集成』第三巻二○四七、「続徳川実紀』第五(即)註(旧)に同じ。(別)『幕末御触書集成』第五巻四七○|、『藤岡屋日記』第十四巻(別)『幕末御触書集成』第五巻四七○三、『続徳川実紀』第五(釦)『幕末御触書集成』第二巻一八○○幕末期の関東郡代制については、村上直「近世後期、関東幕領の支配体制」(『論集関東近世史の研究』一一一二六~三五一頁)、高橋実ヨ新規関東郡代」制の成立と展開」(『論集関東近世史の研究』三五一一~一一一六五頁)に詳しい。 法政史学第五十号

(趾)『幕末御触書集成』第二巻一八○九(皿)『幕末御触書集成』第三巻一一○四九、「慶応三年御用留」(「小金井市誌編纂資料第十九編』鈴木英男家文書三)(胡)『南紀徳川史』第十七冊二○二九頁、’九九○復刻版)(別)。(閲)註(羽)に同じ。(稲)宮崎ふみ子「幕府の三兵士官学校設立をめぐる一考察」(『幕末・維新の日本』’二九~’六二頁)(師)。(胡)『続徳川実紀』第五扁(胡)『藤岡屋日記』第十四巻(仙)註(師)。(胡)に同じ。(虹)『柳営補任』五(巻之餘乾)(妃)久留島浩「長州戦争と備中の幕領1-幕領における中間支配機構の一考察l」(『史学雑誌」九○‐九)等.註(1)の中にも関係論文あり。(蛆)拙稿「近世中期以降の鷹場組合についてI相模国下観間組合の事例からl」(『法政史論」二二)(“)渡邊尚志「幕末維新期における村と地域」(『歴史学研究』六一一一八増刊号)(妬)大石学「江戸周辺の軍事施設干駄ヶ谷焔硝蔵l近代首都圏形成の一前提l」・「近世後期~幕末維新期における江戸周辺の地域編成11鷹場・「領」制度を中心にI」(註(1)参照)(妬)甲斐・越後・備中の直轄領を検討(久留島浩「直轄県に 一七八

(21)

本稿作成にあたり、法政大学大学院名誉教授村上直先生、同教授安岡昭男先生に御指導、御教示を頂きました。記して深く謝意を表する次第です。 における組合村l惣代庄屋制について」『歴史学研究』別冊特集)。兵庫県赤穂郡を検討(奥村弘弓大区小区制』期の地方行財政制度の展開I兵庫県赤穂郡を中心としてl」『日本史研究」二五八)・(卿)豪農富沢忠右衛門は、国学、俳譜、剣術は天然理心流に学び、村内にも多大の影響を与えた(渡邊尚志「幕末維新期における村と地域」『歴史学研究』六三八増刊号)。小野路村寄場組合では小野郷学を設立し、村の教化に機能したが、後の学校創設の土台となった(渡辺奨「村の明治維新」「日本村落史講座5』政治史Ⅱ近世・近現代)。 ◆、、2,〃新」(付記)

近世鷹場制度の終焉過程と維持組織(安田)一七九

参照

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